【1】


 To:吉野

  君は死んだとき、最後に何を思った?

  何を感じた?

  僕は、それが知りたい


 僕は、ずっと、死んだ友達にメールを送り続けていた。

 その、返ってくるはずのないメールに返信があったのは、高二の四月のことだった。


    *


 学校に行くのが、億劫でしょうがない。そんな日が、たまにある。

 とくに深い理由や原因があるわけでもない。ただ、なんとなく、学校に行きたくない。

 その気持ちを因数分解すれば、顔を洗うのが面倒くさいし、歯を磨くのさえできればやめたい。服に着替えるのなんてもってのほかだし、朝食を口に入れるなんて、難易度が高すぎて無理だ。

 とにかくベッドから起き上がりたくない。眠くないけど、ただ、ずっと、そこにうずくまっていたい。

 そういう日が、僕には、年に何回かある。

 もしかしたらそれは、誰にでもあることかもしれない。

 それでも家を出て学校に行くのは、一度心が折れてしまったら、もう、なし崩しにずっと休んでしまいそうな気がして、怖いからだ。

 欠伸を噛みながら、電車に乗る。いつも大体、座席は空いてない。だるくてしょうがない。別に深刻なことでもなく、ただ普通に軽く、少しだけ死にたくなる。つり革には目に見えない細菌が大量に潜んでいます、どこかで聞いたような話を頭から振り払って、ぶら下がる。

 京都の春は寒い。各駅停車の電車の、駅に着いたときだけ開くドアから、吹き込んでくる風が予想外に冷たくて、カーディガンのボタンを一つとめた。

 スマホを出していじる。

 画面を、朝のニュースが流れていく。

 政治家の汚職や、海外の紛争、芸能人の不倫、サッカーの試合結果。そんなどれもが、自分からはやけに遠い、無関係な出来事に見えた。

 一旦画面を閉じて、また、開く。

 メールアプリを起動させる。

 今どき、メールなんて誰も使わない。

 連絡は大体LINEだし、本当に親しい間柄でもないと、電話はともかくアドレスなんていちいち交換しない。

 それでも唯一登録したままの、彼女のアドレスを、開く。

 意味もなく、また、メールした。


 To:吉野

  小説の書き方、忘れた

  ずっと小説、読んでもないよ

  何もしたくない

  何もしないでいい場所って、どこにある?


 返事は、ない。

 目を閉じて、意識を飛ばす。

 過去の記憶を思い出そうとする。目の前の現実が辛くて、惨めで、耐えられないとき、僕はいつもそれをやる。

 吉野の顔は、もう、うまく思い出せない。浮かぶのは、一緒にいたシーンや情景だけだ。見終わったDVDのチャプターをでたらめに押して、余韻に浸るみたいに。初めて会った日のことや、彼女が小説家になったときのこと、キスした瞬間、そういうシーンだけ、頭の中に流れる。

 あのとき、こうしてればよかった。結局、そんな後悔ばかりだ。過去のシーンに、手を伸ばして、介入したくなる。

 どうすればよかったんだろう。

 そんなことばかり考えてる。

 自分が、過去に生きていることを自覚する。

 どこかで、人生が終わったような、そんな気持ちがあった。

 君が、死んだときから、ずっと。


 朝、学校に着くと、ちょっとした異変があった。

 教室に座席が一つ増えている。

 僕の横が、他と違って新しい。

「転校生だって」

 疑問に応えるように、クラスの佐藤可恵が、指さしながら言った。

「今ごろ?」

 もう一学期の始業式から二日が経っている。

「初日から来る予定が、少し遅れたって」

「男?」

「女子。私たち、さっき職員室で見たけど。けっこう、かわいいよ。船岡は大分テンション上がってる」

 僕と佐藤、船岡の三人は、一年のときも同じクラスだった。それで、比較的よく話す。男二人女一人でグループを作ってると、恋愛感情がないのかとか、冷やかされることも多い。僕はないと信じていた。何故なら、そんなのあったら面倒くさいからだ。

「あ、来たよ」

 転校生の彼女が教室の後ろから入って来た途端、急に雑談がやんで、静かになった。

 そいつには、奇妙な雰囲気があった。

 彼女だけ、教室で、浮き上がっているように見えた。その馴染まない感じは、今日初めて教室に来た、そのせいだけではない気がする。

 制服を頭からつま先まで正しく着て、ブラウスには皺一つない。黒くて長い髪も、艶やかでよく手入れされていた。そしてその隙や抜けのない着こなしが、彼女には似合っていた。

 雪だけで作られた人形みたいに、どこか、人を寄せ付けない冷たい雰囲気があった。そしてその分だけ彼女は、なんだか少し、生きづらそうにも見えた。

 その朝、誰もが、彼女をじっと見ていた。

 席まで歩く彼女の顔は、無表情で、何も読み取れない。まるで感情を隠すためにつけた、能面を見せられているみたいだった。

 白くて長い指が、僕のすぐ横の机に黒い鞄をかけた。近くで見ると、彼女の髪が普通より、かなり長いことがよくわかる。

「初めまして。僕は染井浩平」

 声をかけた瞬間、彼女が、ハッとしたように僕を振り返った。

 目には、驚きや困惑、不安、それらが入り混じったような、複雑な色が浮かんでいる。

 なんでそんな顔?

 そう言いかけたとき、佐藤が急に割り込んできた。

「染井、なんか、英語の教科書みたいだよ? Nice to meet you.」

「黙れ」

 エセ帰国子女みたいな発音で茶々入れてきた佐藤を、声のトーンで制する。

 その転校生の彼女は、にこりともせずに、ただ真顔で僕を見た。

「私、真白澄佳です。よろしくお願いします」

 なんだか、バカみたいに丁寧な言い方だった。

 そのとき僕は、不思議な感覚を覚えた。彼女の声をどこかでいつか、聞いたことがある気がした。

 でもいくら考えても、それがいつだったのか、思い出せない。

 きっと、勘違いだろう。そう、すぐに思い直す。

「染井くん」

 真白は僕の名前を口にしてから、たっぷり三十秒くらい押し黙った。

 変な沈黙。

 それから、切り出すように言った。

「吉野紫苑って知ってる?」

 一瞬、時間と、同時に心臓が、止まったような気がした。

「知らない」

「小説家、なんだけど」

 何か、知ってるんだろうか、彼女は。動悸が早くなる。

「聞いたことない。僕、小説読まないから」

「そっか。そうなんだ」

 真白は何か意気消沈したような顔で、僕を見ていた。

 僕はそれに気づかないフリをして、教科書に目を落とした。


 その日、一時間目は世界史だった。

 頭の薄い四十代の男性教師が、ただでさえ退屈な教科書の内容に、より眠いアレンジを加えた授業を展開している。僕たちは密かに彼の授業のことを、ラリホーマと呼んでいた。

 授業中、船岡からLINEが飛んできた。

 ≫染井、さっき何話してたの

 ≫ Nice to meet you. My name is Somei.

 ≫それだけ? で、どう?

 ≫何が「どう」だよ

 ≫真白さん、超かわいいよね。彼氏、いんのかな

 もしかしたら、佐藤のさっきの話以上に、船岡は本当に真白に気があるのかもしれなかった。

 ≫自分で聞け

 あまり関わりたくはなかった。

 恋愛話は面倒だからだ。

 どうでもいい授業を聞き流しながら、さっきの真白のことを思い返す。

 あれは、なんだったんだろう。

 好きな作家がたまたま吉野で、小説の話をしたかった?

 でも、そんな偶然、信じにくい。

 僕と吉野の関係を、彼女は何か知っているのかもしれない。

 だからといって二人で、吉野の話で盛り上がろう、という気にはなれなかった。彼女がどんな人間かもわからない。小説家としての、吉野のイメージを、崩したくなかった。それに、自分以外の誰かと、吉野の話題を共有したいと思えなかった。

 とにかく、僕は誰とも吉野の話なんかしたくなかったのだ。

 だから、あんまり、真白に関わりたくない。そう思った。

 授業の中でローマ帝国が滅亡していくのを尻目に、机の下で携帯をいじる。

 そして、いつもやっている、あの不毛な暇つぶしを、また、始めた。

 wprjmtt4663@sofom.ne.jp

 それは、吉野が、適当に決めたメールアドレスだった。

 普通、アドレスを決めるとき、自分の好きなアーティストの名前とかを入れる。それを彼女は、適当に、ぐちゃぐちゃに、意味のない文字列を入力して取得した。だから、こんな風に、変なアドレスになった。

 生きることに無頓着な、彼女の性格が滲んでる。

 そのアドレスに、僕はメールを送った。

 届かないメールを。


 To:吉野

  真白って転校生が君の話をしてきた

  僕は、知らないフリしといた

  多分誰に何回聞かれても、僕は、君のこと知らないって言うと思う

  こっちは毎日毎日、退屈で死にそうだよ

  なんかさ

  本当は僕も

  君みたいに


 自動返信のメッセージが、すぐ返ってくる。


 From:Mail Delivery Subsystem

  アドレスが見つからなかったため、メールはwprjmtt4663@sofom.ne.jpに配信されませんでした。入力ミスや不要なスペースがないことを確認してから、もう一度送信してみてください。


 それは、いつものことだった。

 不毛で暗い趣味だと思う。とても誰かに話す気にはなれない。

 死んだ奴のアドレスに、メールしてるなんて。

 一体僕は何をしてるんだって、自分でもいつも思う。


《2》


 最初吉野に会ったとき、僕たちは中学一年生だった。

 春、一学期の四月、僕は文芸部に入ろうとしていた。

 小説が、好きだった。

 読書以外にこれといって趣味がない。僕は、そういう人間だった。誰に見せるでもなく、小説を書いていた。ネットに公開もしてなかったし、知り合いに見せたこともない。ただ、密かに、自分のパソコンに、書いた小説を保存していた。

 いつか小説家になりたかった。

 なれるかどうかわからないけど、多分無理だけど、でも、なりたかった。

 最初、文芸部のことを調べたのは、そういう自分の趣味がきっかけだった。だけど別に、文芸部に入ることに特別なこだわりや思い入れがあったわけじゃない。

 探してたのは、部員の少ない部活だ。本音を言えば、別に放送部でもワンゲル部でもロボットダンス部でも何でもよかった。

 文芸部には、部員が一人もいなかった。

 それが、ちょうどよかった。一人になれる時間が欲しかった。昼休みや放課後、誰とも顔を合わせずにいられる、そんな環境が欲しかった。そして静かに本を読んだり、たまに小説を書いたりして、過ごしたかった。だから、文芸部に部員がいないのは好都合だった。

 入部届を書いて、顧問の先生に持っていった。「誰も部員はいないけどそれでもいいのか」確認するようなことを言われて「それがいいんです」とも言えず僕はただ曖昧に頷いた。

 部室棟の一番端に、文芸部の部室はあった。

 廃部になった部の、部室だけまだ残ってるパターン。

 ドアの前に立つ。

 中から物音がしていた。

 誰かいる。

 少し変に思いながら、室内に入った。

 最初に見えたのは、彼女の指だった。

 白く、長い指が、キーボードの上を走っていた。

 物音は、そのキーを叩く音だった。

 長い髪の女の子が、ノートパソコンを前にして、何かを書いていた。

「何書いてるの?」

 僕は思わず聞いた。

「小説」

 彼女は、まだ、僕を見なかった。

 部屋の奥の窓から差し込む光が、彼女を後ろから照らしていた。埃が、粒子みたいにきらめいて、空中に光の模様を作っている。

 目を細めながら、彼女をよく見る。

 綺麗だった。

 必要以上に容姿に気を使っているようには見えない。でも、顔立ちは、整っている。彼女の容姿には、僕みたいなありふれたそれと違って、ただそこに存在しているだけで人目を惹く、そんな美しさがあった。

 そして彼女にはどこか、力強さがあった。オーラ、と言っていいのかもしれない。

 顔に、見覚えはなかった。同級生かどうかもわからなかった。

「あなた、誰?」

 彼女がこっちを見たとき、僕はその強い存在感の理由がわかった気がした。

 眼が、強い。神経質で刺すような視線ではなく、たくましくて生命力溢れるような強さが、彼女の目にはあった。

「染井浩平。一Bの。君こそ誰………………ですか」

 言ってる途中で、もし上の学年だったら困るなと思って、僕は半端に敬語をつけた。

「私? 一年C組の吉野」

 同い年だった。それに、隣のクラスだ。

「ここ、文芸部で合ってる?」

 一応、確かめるように僕は聞いた。

「だね」

「部員、誰もいないって聞いたけど」

「らしいね」

「あの、ここで何してるの?」

「ここが学校の中で一番、集中して小説書けそうな場所だったから」

 ちょっと驚いた。僕と同じようなことを考えていたらしい。

「要するに吉野さんは、忍び込んで勝手に部室使ってた、ってこと?」

「悪く言えばそうなるけどさ」

 子供っぽい、ちょっと拗ねたような声だった。

「よく言うと、どうなるの」

「部員が誰もいないのをいいことに、部室を無断で不正利用してた?」

「より悪化してるね」

 僕が冷静に言うと、彼女はちょっとだけ後ろめたそうな顔をした。

「ごめん。他に小説書けそうな場所、校内になくてさ」

「……僕もそれで来たんだけど」

 そう言うと、彼女は意外そうな顔をした。

「染井くんも、書くんだ」

 その途端、吉野の僕を見る目が、少し変わったような気がした。勘違いでなければ、数瞬前のそれより、彼女の眼差しは少し親しげなものに変わっていた。

「でも……だと、部員二人になるよな」

「んー、困ったね」

 吉野はふっと思いついたように「あ。ちょっと待って」鞄からUSBメモリを取り出した。PCに挿入。何かのデータを入れたらしい。それを僕に差し出してきた。

「これに、私の小説、入れてみたの」

 話が見えなくて、僕は微妙に困惑した。

「自己紹介みたいな」

 そう言って吉野は、僕にUSBを手渡しながら、普通に笑った。


 帰って家で、吉野の小説を自分のパソコンで開いた。

 全然期待してなかった。

 むしろ正直、読むの面倒くさいな、と思っていた。その場の流れで、小説を受け取ってしまったことを、僕は最初、後悔していたくらいだ。

「読んでみて。これできっと、私たち今後うまくやっていけるかどうか、わかると思う」

 それは短い小説だった。

 タイトルがついている。

『love less letter』

 クリックして、画面上のページをめくる。


 それは、並行世界をめぐる小説だった。

 並行世界から、主人公宛に、交通事故で死んだはずの恋人から手紙が届く。

 並行世界。

 その言葉は、よくSF作品なんかを説明するときに登場する。

 目の前の現実とよく似た、もう一つの別の世界が存在しているという考え方だ。

 僕たちの世界は常に可能性に富んでいる。一つ一つの選択で、世界は少しずつ変化していく。もしあのとき別の選択をしていたら、世界は別の姿になっていたかもしれない。

 そんな、別の世界が、もう一つの現実が、ここではないどこかに存在している。それが並行世界という考え方だ。

 あのとき、もし、彼が信号機の前で立ち止まっていたら。交通事故で恋人が死んでいなかったら。

 恋人が生きてる、もう一つの世界。

 そこから届いた不思議な手紙を読むうち、主人公は、恋人が自分を愛してなかったこと、自分が恋人を愛していなかったことに気がつく。

 自分は、他人を愛することのできない人間だと、主人公は悟る。

 そして、それでも、たまらなく彼女に会いたいと思う。


 衝撃だった。

 何かに、殴られたような気分だった。

 独特の文体。比喩や文字の連なり、句読点の打ち方。表現、言葉のチョイス。どれもが、既存の小説と違う。

 小説なんて、そのほとんどが何かの影響を受けている。僕は普段本を読むとき、まずそれを探す。誰からどんな影響を受けて書かれた作品なのか、推理しながら読む。でも吉野が誰から影響を受けてるのか、わからなかった。

 その小説には、誰にも似てない何かがあった。

 そして、奇妙で切実なリアリティがあった。

 夜、眠れなかった。

 中一で、同い年で、こんなにすごい小説を書く奴がいる。そのことに、僕は興奮していた。


 翌日、授業終わり、すぐ文芸部の部室に行った。早く吉野に会いたかった。ドアを開けて中に入る。彼女がいた。

 僕が入ってきたことに、気づいてないのか、それとも無視しているのか、吉野は一切こっちを見なかった。

 ただ、ずっと指が動いていた。

 彼女の指は止まらなかった。

 あんなに流れるように小説を書けるのか、と思った。

 何を書いてるのかはわからない。

 でもその小説が、淡々としたものではないことが、僕にはわかった。

 剛胆なピアニストが情熱的な曲を演奏するように、その指は動いていた。そこに、一切の悩みはなかった。

 まるであらかじめ定められた何かに向かって、導かれるようにその指は動いていた。

 他人が小説を書いてるのを見るのは、そのときが初めてだった。でも、どうしてか、他の誰も、彼女のように小説は書けないだろう、そう思った。

 部室に入って、十五分くらい。あるとき、ふっと彼女が顔を上げた。

「染井くん?」

 今初めて僕に気づいたかのような声だった。

「どうだった?」

 その、どう、が、小説の感想を求めているのだということに、遅れて気がつく。

「よかったよ、すごく」

 それ以外、言葉がすぐに浮かんでこなかった。慌てて、言葉を付け加える。

「並行世界、あったら、いいよな」

「あるよ。きっと」

 吉野は冗談なのか本気なのか、真顔でそんなことを言った。

「じゃあさ、今度は、染井くんの小説見せてよ」

 言われて、ギクリとした。

 どう考えても、僕と吉野ではレベルが違う。それなのに、自分の小説を見せることができるほど、僕の面の皮は厚くなかった。

「また、今度な」

 吉野は腑に落ちないような顔をしていたけど、そう言って僕はごまかした。

 その日のうちに、吉野も文芸部の入部届を出した。そうして僕たちは、同じ時間を共有するようになっていった。


【3】


 真白と次に話したのは、彼女が転校してきてから一週間くらい経った日のことだ。


 失敗した、と思った。

 選択の美術の時間だった。課題は、人物画。お互いに向き合って、絵を描く。

「好きな人同士で二人一組になって、お互いの顔を描きましょう」

 学校生活の中でも、僕はこれが一番苦手かもしれない。

 好きな人がいないからだ。

 佐藤も船岡も音楽を選択していて、よく考えたら普段口をきく人間すら誰もいなかった。

 誰か探す気にもなれず、次々ペアができてくのを、黙って見ていた。すると当然、そのうち、誰ともペアを組めなかった人間として自分が残ることになる。

 そういうとき、なんだか、自分の人間性を否定されてるような気持ちになった。お前はそんな風に適当にペアを組むことさえできない、無能力な人間なんだぞ、と暗に何者かから言われてるような気分になる。でも、どうしても億劫で、僕は誰にも話しかけられなかった。そして、失敗した。

 転校してきたばかりの真白が残るのは、当たり前の話だった。

 最終的に、僕と彼女が残った。

「じゃあ、席を移動して。ペアの人と向き合って、絵を描き始めて」

 顔を上げると、真白が、じっと無言で僕の方を見ていた。

 授業は、あっという間に雑談の音で埋めつくされた。

 それも当然で、気の合う人間とペアを組んで絵を描くのだから、自然と会話が弾む。

 そんな中、僕たちに、会話はない。

 これから美術の時間はしばらく、こんな気まずい時間が続くことになる。

 さっさと描き終えてしまえばいいんだ、と思った。別に美術の成績なんてどうでもいい。

 ざっ、ざっ、と音がするくらい勢いよく鉛筆を走らせる。早くこの苦痛な時間から逃れたい一心だった。

 教室を巡回していた美術の先生が、急に僕の絵を覗き込んできた。若い女の先生で、陰と陽でいえば、陽のイメージの強い女性だった。彼女は何か言いたげに僕の絵をじっと見ていたが、やがて視線を外し、遠ざかっていきながら、クラス全体に対して、次のようなことを言った。

「普段、クラスメイトでも、お互いじっくり顔を見ることって中々ないと思います。でも、人の表情には、どこかその人の人間性みたいなものが現れているはずです。それを読み取って、表現するようにしてください」

 まるで、あなたの絵には人間味がない、と言われてるような気がした。

 悪かったよな、と心の中で静かに毒づく。

「私たち、何か話さなくていいのかな?」

 ふと、無言の時間に先に耐えられなくなった真白が僕に言った。

「みんな喋ってるから。なんか、私たち、人間に失格してるみたい」

 たしかに、こんな風にほとんど無言で向かい合って絵を描いているのは、僕たちくらいのものだった。

「会話の糸口、欲しい」

「わかったよ」

 僕はかろうじて残っていた社会性を発揮して、そう譲歩した。さすがにこれから数ヶ月、ずっと無言で向かい合っているのは僕も辛いような気がしたのだ。

「真白、前はどこの高校いたの」

「堀見高校」

 吉野が通っていた高校の名前だった。

 見ると、描いた輪郭の線が少し、明らかにずれていた。別にいいや、と思い直して続行する。

「あそこ、賢いよな。うちと、偏差値10以上違う。転校するにしても、なんでうちに?」

「私、人生投げてるから」

「人生が投げられるなら、僕も投げたいよ。河原でキャッチボールでもしたい」

「つまんないよ、染井くん。それより」

 そこで言葉を区切って一瞬、真白は無言になった。それから口を開いた。

「どこまで描けたか、絵、見せて」

 言われたので、キャンバスをひっくり返して、真白に見えるようにした。

「なんか、うまいんだけど」

 真白は、複雑そうな表情をした。

「生きてる感じがしない。死体みたい」

 言い得て妙だった。

「なんかさ、私も、苦手なんだよ」

 真白と自分の間に、共通項みたいなものを見つけたような気がした。

「人の気持ちがわからないんだよね」

 表情からそれを読み取って、絵にするなんて高等技術、とても自分にできるとは思えない。

「でも、染井くんは私より、器用にやってる気がする」

 意外そうに真白は言った。

「これでも、努力してんだよ」

 僕はため息をついた。


 真白は、一人で昼食を食べているらしかった。

 うちの高校では、昼飯は大きく学食派と弁当派に分かれるが、彼女はそのどちらでもない。いつも、学食の購買でパンを買って食べる。

 どうして僕が知ってるかというと、船岡が彼女の様子をずっと観察してて、それを何故か日々僕に、LINEで報告してきていたからだった。

 ≫今日は真白さん、ラムレーズンだよ

 真白が昼食を食べる姿を、少し離れた草むらにかがんで隠れながら、双眼鏡で眺めるのが最近の船岡の日課のようだった。

「やめとけよ、悪趣味だな」

 その草むらに、その日、僕も潜んでいた。携帯の電池が切れそうで、バッテリーを借りてて返しに来たら、こんなことになってしまったのだ。

「染井、真白さんと美術でペアって、俺マジうらやましいんだけど」

「変われるなら変わってくれ」

「俺、音楽だしな。変装したら染井になれる?」

「整形したらなれんじゃない」

 クラスメイトが突然自分の顔そっくりに整形してきたら面白いよな、とくだらない妄想を一瞬、した。

「ちょっとさ、染井、俺のかわりに真白さんに話しかけてくんない?」

「なんでだよ」

「横の席だろ。それに真白さん、なんかチラチラお前のこと見てる気がするし」

 そんなの、僕は気がつかなかった。

「ちょ、押すなよ」

 船岡が半ば力ずくに僕を押し出した。植栽の陰から突然現れた僕に、真白は少し驚いたような顔を向けた。

「……そのパン、昼飯?」

 見りゃわかるだろ、と思いながら僕は言った。真白の顔には警戒の色が浮かんでいた。こうなればもう半ばやけくそで、僕は彼女と同じベンチに座った。それでも、たっぷり一人分以上の距離をとって。

 ≫例の、聞いて

 携帯に、速攻で船岡からメッセージが届く。

「染井くんって、いつも授業中も携帯見てるよね」

 真白がちょっと呆れたように言った。

 そういえば逆に、真白が授業中に携帯をいじってるところを、見たことがなかった。今時、そういう生徒の方が珍しい。

「真白みたいに真面目じゃないんだよ」

 ≫今聞くよ

 船岡に返信して、携帯を閉じる。

「今度の遠足なんだけど」

 近くの山にハイキング。今どき根性が据わってるというか無謀というか、雨天決行らしかった。

「次のホームルーム、班決めやるんだけど。佐藤と船岡と僕の班に、真白も入らないか、って」

 前から、船岡が言っていたことだった。真白さんを班に入れたいんだよね。

「いいよ」

 あっさり言われて、僕はなんだか拍子抜けしたような気持ちになった。

「でも、そんなに嫌そうな顔で同じ班に誘ってくる人、私、初めて」

「嫌じゃないよ」

 それから考えて、もう一言、付け足した。

「真白がうちの班に入ってくれて、とても嬉しいよ」

「心がこもってなさすぎて笑える」

 と、自分もニコリともせずに真白は言った。


 吉野にメールしようとして、ポケットを探る。

 あれ、っと思った。

 携帯がなかった。

 もちろん、そんなのよくあることだ。人生で一度も携帯電話を見失ったことがない人間なんて、この世に存在しないだろうと思う。でも僕は、少し慌てていた。

 理科準備室、廊下、生活指導部の落とし物コーナー、探しても、全然見つからない。

「諦めて新しいの買っちゃえば?」

 焦る僕の姿を尻目に、佐藤が呆れたように言った。

「……それは別にいいんだけど」

「けど?」

「いや。アドレス帳とか、バックアップとってないしさ」

 本当は、それはどうでもよかった。

 ただ、吉野とのメールのログが消えるのが嫌だっただけだ。

 そんなこと、佐藤には言わないけど。

 僕は、誰にも吉野の話をしたことがない。

 吉野は、高校が別だったし、普段僕が顔を合わせる人間は誰も彼女の存在なんて知らない。

 放課後、校舎のピロティを俯いて歩きながら携帯を探してたら、誰かとぶつかりかけた。

「ごめん」慌てて謝りながら顔を上げると、相手は、真白だった。

「何?」

 微妙な、薄い緊張感があった。

「携帯なくしてさ」

 言い訳するように言うと、真白は少し考えるような顔してから、「手伝う?」と聞いてきた。

「いや、別に」

 元々誰かに手伝ってほしいと思ってなかったし、それになんとなく、真白に借りを作りたくなかった。

「そう」

 真白は背を向けて歩いていった。

 しばらくピロティを探して、でも見つからなかった。諦めようとしたとき「染井くん!」真白の声がした。振り向くと150メートルくらい遠くで、真白が手を振っている。そんな大声出せるんだ、ちょっと意外に思った。その真白の手が、何かを握っていた。

「これ! 携帯! 染井くんのじゃない?」

 真白に近づいて、確かめた。

「ありがとう」

 ひったくるように、真白から携帯を受け取る。

「……今、一瞬、中、見てなかった?」

 僕が真白に近づくまでの数瞬、彼女が携帯を見たような気がしたのだ。

「全然」

 そう言う真白の顔は無表情で、何も読み取れなかった。


 To:吉野

  くだらないことばかり勉強して、かわりに君のこと忘れてくんだ

  いつかきっと心も痛まなくなる

  さっき携帯なくして、焦ったよ

  この携帯、ずっと、君にメールするくらいにしか、使ってないんだけどさ


 僕が最初にメールを送信したのは、吉野の告別式が終わったあとの、夜だったと思う。

 ふと試してみたくなった。

 まだ、彼女にメールが届くのか。

 ▽お前、なんで死んだんだよ

 それは、子供じみた振る舞いだった。

 そのメールは初め、届いた。

 携帯会社のサーバーに、彼女のアドレスは、まだ残っていたのだ。

 吉野のアドレスは、末尾に携帯会社のドメインが入っている。携帯の契約と紐づいた、キャリアメールと呼ばれるものだった。いずれ吉野の携帯電話の契約は、多分彼女の両親に解約されてしまうだろう。それと同時に、彼女のメールアドレスも消滅する。でも、それまでしばらく、アドレスはこの世に留まり続けることになる。

 ▽まだメールは生きてる?

 僕はメールを送り続けた。吉野のアドレスが、削除されるところを、確かめたかった。いつかメールが届かなくなる日が来る。それがいつなのか、なんとなく知りたかった。

 ▽こっちは、まだ、生きてるよ

 そして、吉野のメールアドレスが死ぬ日が来た。このメールは届きませんでした、素っ気ないメッセージが返ってきた。その日、吉野の携帯電話は解約されたのだと思う。

 ▽ダルい。なんでこんなに毎日ダルいんだろう?

 それでも僕は、次の日もメールを送っていた。メールが届かないで、戻ってくる。それからも、僕はメールの送信をやめなかった。メールを続けた。

 吉野のアドレスは、あの童話に出てくる穴だった。何を言っても誰も聞いてない、深く穿たれた暗い穴。そこに自分の気持ちを吐き出した。それで僕は心のバランスを保っていたのだ。

 死んだ彼女に送る、届かないメール。

 それは僕の、ちっぽけな現実逃避の手段だった。