序章


 馬駆ける音が星明かりの草原に響く。

 黒の外套に身を包んだ少女は必死で馬にしがみついていた。

 腕は痺れて感覚が無くなり、脚は力の入れ過ぎで小刻みに震える。

 しかし、背後から迫る何頭もの馬の足音が、少女に休むことを許さない。

 少女が後方を一瞥すると、闇の中に青白い火の玉が幾つも浮かんで追手と少女の間を照らしていた。それが殺傷能力もない灯火の魔法であることを少女は知っていたが、これほどに恐怖と焦燥を搔き立てるということはこのとき初めて知った。

 せめてともに逃げる仲間でもいれば恐れも薄れただろうが、護衛の者はすでに劣勢を察し、彼女を見捨てて逃亡していた。

金で雇われたのだから仕方がない――少女は護衛の行動をそう割り切っていた。もとより誰かに恃む考えなど持ち合わせていないし、今は逃げることに集中すべきだ。

ただ、王宮に渦巻く陰謀を察知して自分を逃がす手配をした貴族と商人がこの状況を知ったとき何と思うか――それは少しだけ気になった。

しかし、そんな余計な思考もほんの一瞬のこと。

少女の斜め前方の立木に雷が落ち、夜闇を劈く光と音が少女を現実に引き戻す。

後方から迫る足音が徐々に近づいてきている。たった今の魔法は外れたが、次はどうなるか分からない。捕まるのも時間の問題に思えた。

瞬間、それまで少女を乗せて猛烈な勢いで走っていた馬が、嘶きとともに高く前脚を上げ、その場に立ち止まってしまう。

「どうしたの!?」

 馬の首にしがみついて辛うじて落馬を免れた少女は、行く手に草原の大地よりも遥かに暗い闇が横たわっていることに気づいた。

 少女はふっと息を吐いて目を閉じる。そして、人差し指をゆっくりと回しながら、硬質な響きを持った言葉を唱えた。

「光よ我が道を照らせ」

 呪文とともに青白い灯火が少女の前に現れ、その眼前を照らし出す。追手は背後に迫っており、もはや少女に闇に隠れるという考えはなかった。

 少女は目の前に現れたものを見て、軽く唇を嚙んだ。

 大きく深い断崖――底は見えず、それは馬の跳躍でも越えられないほどに広かった。微かに響く唸るような音は、谷底の濁流だろうか。

 見れば、南方を示す天極の星があるべき方向からずれている。どうやら追手に逃げる先を誘導されていたらしい。少女は自分の迂闊さを呪って目を閉じたが、やがて覚悟を決めたようにさっと馬を降りた。

「ここまでね。おまえは行きなさい」

 少女は馬に向かってそう言い、尻を軽く叩く。馬は少女の意図を察したのか、別れを告げるように短く鳴いて亀裂に沿って走り去っていった。

「ようやく観念したか」

 低い声が響く。少女が視線を向けた先には、黒い長衣を着た数人の男たちがいた。いずれも馬から降りて少女を囲むようにして歩んでくる。それは少女が初めてはっきりと見た追手たちの姿だった。

少女は、彼らの後方に佇む男を見て息を呑む。恐らく、声をかけたのはその男だ。

「わたしは夜の散策を楽しんでいただけなのに、何に観念しろと? それよりも王国の主席導師が何の用でしょうか」

「ずいぶんと必死の散策だな」

主席導師と呼ばれた端整な容姿の魔術師は、その頬をわずかに持ち上げた。薄紫の目があまりに冷たく、それが笑みであることに少女はしばらく気づけなかった。

「ステラリシア・メガリ・マグス・トウ・エーヴリカ宮廷導師。叛乱を企図した疑いで身柄を拘束させてもらう」

 主席導師が「捕えろ」と命じると、その周囲の魔術師たちが、少女を取り囲むようにゆっくりと迫ってくる。

「叛乱の疑い? 貴方がでっちあげたんでしょう」少女は魔術師たちを警戒しつつ、主席導師を睨みつける。「貴方、何を企んでいるの」

「企み?」主席導師は薄く笑う。「妄言を。だが、仮に我が何かを企んでいたとしても、今のおまえには関係のないこと。おまえは王命によって捕縛される。それだけだ」

「王? 貴方の傀儡の間違いでしょう」

 言いながら、少女は強く手を握り締めた。

 この調子では、捕まれば申し開きをする間もなく処刑されるか、拷問の末に獄死することになるだろう。あるいは、この場で殺される可能性すらある。

 だが、少女もそんなことは初めから分かっていた。そもそも、話が通じる状況ではないと判断したからこそ、少女の支援者は夜半の逃亡を勧めたのだ――そのことで、これまで少女が血を吐く思いで築き上げた地位を捨てることになると分かっていながら。王宮の政治に長けた彼らが、その辺りの判断を間違えるはずもない。

 従って、少女が馬から降りたのは、無実を訴えるためではありえなかった。少女の目的――それは自分を陥れた相手を目に焼き付け、その意図を探ること。

そして、戦うためだった。

少女の清廉たる声音が、夜の闇に響く――その美しい音とは裏腹に、それは外敵を打ち払う力強さを秘めている。

 少女の詠唱を聞いた数人の魔術師たちが一斉に臨戦態勢に入り、少女の魔法に対抗するための呪文を唱え始める。

 少女の声が大気を震わせ、橙赤色に灼熱した魔素が彼女の周囲に満ちていく。

 やがてそれらは少女の眼前へと集束し、その美しい顔を照らし出した。

 対する百戦錬磨の魔術師たちは、想像よりもずっと速く正確な少女の詠唱を目の当たりにし、焦燥に表情を歪めた。

「炎は汝を灼く!」

 少女が詠唱を終えて手を振ると、人の頭ほどの火球が魔術師の一人に向かって走る。

 静寂の夜闇を、暴力的な音と熱を伴った光が侵す。

 短い悲鳴とともに、その魔術師は近くの二人を巻き込んで後方に吹き飛んだ。

 少女はその光景を見て息を呑み、自分の放った魔法の想定外の威力に身を震わせた。

だが、それでも――

「炎は――」

他人を魔法で害するという行為に慄きながら、少女は活路を見出すために続けて詠唱に入った。しかし、その一瞬の躊躇いが敵に時間を与えてしまう。

「押し重なる大気は総てを圧する」

 先に完成したのは敵の詠唱だった。

 直後、少女は上から身体を押されるような凄まじい圧力を感じ、その場に崩れ落ちる。全身を地面に押し付けられ、肺から空気が絞り出されていくような苦しさに思わず喘ぎながら地面を搔きむしった。

 気づけば少女を囲むようにして数人の魔術師が立っていた。

 少女は自分の迂闊さを呪う。少女の一瞬の迷いは、彼らに強力な拘束の魔術である大気加圧の魔法を行使するのに十分な時間を与えてしまったのだ。

魔術師たちの一人が、苦しそうに声を漏らす少女を見下した。

「さすが最年少の天才宮廷導師。詠唱は速くて正確だ。だが、実戦経験が足りなかったな」魔術師は後ろを振り返る。「どうします、主席導師殿」

 問われた主席導師は、しかし目を細めてかぶりを振る。

「油断するな。その娘はどうやら諦めていない」

「は? いや、しかし、こいつには魔法で拘束をかけて――」

 言いかけて、魔術師は先ほどからか細い声を漏らしていた少女が、ただもがき苦しんでいたのではないことにようやく気づく。

「雷撃は――取り巻く――」

加圧の魔法で拘束された少女は、しかしゆうに数十秒の詠唱を続けていた。

か細く、しかし決して途切れることのない、美しく滑らかな声。

少女を中心とした円の内側で、無数の青白い火花がぱちぱちと散る。

引き絞った弓のように張り詰めた空気――それが宮廷導師でも一部の者しか行使できない最大級の魔法であることに気づき、魔術師たちは息を呑んだ。

「馬鹿な! この状況で……!」

 魔素を操作するためには精神を集中したうえで、発声を安定させる必要がある。加圧の魔法で拘束された状態でそれを実行するなど、誰が想像できたか。

「くそ……っ!」

 魔術師の一人が、慌てて少女の頭を押さえようとする。

しかし、それは遅きに失していた。

「――薙ぎ払う」

 青白い稲妻が轟音とともに少女を中心に迸る。

 周囲の魔術師たちはその場を離れようとしたが、音の速度を遥かに凌ぐ雷撃から逃れられようはずもない。

 一瞬の後、少女の周りには地面に倒れて痙攣する魔術師たちの姿があった。

 少女は解放された身体を起こし、ふらふらと立ち上がる。魔力を使い過ぎたせいか、あるいは呼吸を妨げられていたせいか、立ちくらみがひどかった。

「拘束されていながら、これほど長い詠唱を成功させるとはな。称賛に値する集中力だ。威力も申し分ない。戦も経験していない小娘と侮っていたか」

 少女は胸のあたりを押さえながら呼吸の苦しさに耐える。そして、少し離れたところで悠然と構える男――主席導師を睨みつけた。

「これでも……効果的に、魔法を…使う術は……誰より……心得ているつもりよ」

 少女は主席導師に片手をかざし、次なる魔法を放とうと口を開く。

 それを見た主席導師は薄く笑うと、同じようにして片手を少女に向けた。

「ここまでするつもりはなかったのだがな」

 魔法で対抗するつもりか――だが、自分の方が早い。少女はそう判断した。

たった今、少女が使おうとしている魔法はさほど長い詠唱を必要としない。いかに一騎当千と謳われる主席導師とはいえ、速度を重視した少女の魔法に先んじることができるはずがない。

少女の詠唱によって灼熱した魔素が、周囲を明るく照らしていく。

果たして主席導師が詠唱を始めるより先に、少女の詠唱が完成する――そう思われた瞬間のことだった。

「――音は消える」

何――?

それは少女の知らない呪文だった。低く呟くような詠唱は、しかしあまりに速く、聞きとることができたのはほんの一部だけ。

少女は素早く周囲に視線を走らせたが、異変はない。

違和感を覚えつつも、魔法を完成させることを優先した少女は、呪文の最後の句を言い切る。しかし――

「      」

 少女は戸惑いに立ち竦む。

 夜の闇は途切れることなくそこにあり、風の音は何者にも妨げられることなく鳴っていた。どちらも、魔法で引き裂かれるはずだったもの。

 それどころか、少女の詠唱によって操作された魔素はその熱も輝きも失って、すっかり周囲の大気に溶け込んでしまっている。

 少女は悠然と構える主席導師を見ることしかできない。

 詠唱を間違えた? そんなはずがない。考えなくても口が動くほど練習した魔法だ。

魔力が尽きた? いや、疲れてはいるが限界はまだだ。

それでは、いったい――

「      」

 何をした――そう問おうとして、少女はようやく自分の身に起きたことを理解した。

 信じられないという表情で、喉元に手をやる。


 声が――出ない。


言葉を発しようと幾度も試みるが、結果は変わらない。

 呪文を詠唱することで世界の魔素を制御する――それが魔法だ。声を出せなければ、発動することすらできない。

王国最強の魔術師を相手に、それは絶望的という言葉ですら足りないほどの不利。

「お前なら自身の置かれた状況が分かるだろう」

少女の瞳から戦意が失われていく。

「こちらへ来い、ステラリシア宮廷導師」

主席導師の冷たい声が夜の闇に響き、少女の心が絶望に塗り潰されていく。

項垂れたまま進み出ようとして、しかし少女は自分の心の中に、決して絶望の闇に染まることのない尊い光が宿っていることに気づく。

そうだ、と少女は顔を上げる。

ここで諦めるわけにはいかない。

あの人たちがくれた灯火を、こんなところで絶やすわけにはいかない。

少女は懐から護身用のナイフを取り出し、主席導師に向けて構えた。

その瞳には、失われようとしていた光が再び宿っていた。

「ナイフ一本で敵うと思うのか。利口になれ、若き魔術師よ」

 少女は主席導師に向かって走り、ナイフを突き出した。

 しかし次の瞬間、主席導師の傍らから、何者かが影のように現れる。

 その何者かが腕を振り、金属の鈍い光が閃いたかと思うと、少女の手からナイフが消えていた。

 少女は驚愕に目を見開き、痺れた手を押さえながら後ずさる。

「捕えろ」

 主席導師の命令に、その影は小さく頷き、闇の中を滑るように少女に迫る。

 並の魔術師であれば、混乱しているうちになす術なく捕まっていただろう。

 だが、少女は違った。

 たった一つ残された希望を――絶望と隣り合わせのそれを――迷うことなく選んだ。

 少女は地面を蹴り、後ろへ跳んだのだ。

 敵の手が空を切る。

 少女は己を追い詰めた敵を睨み、ごうごうと音の鳴る暗い谷底へと墜ちていった。


第一章 声を失くした魔女


巨木の幹がこじ開けた石天井の隙間から、一筋の眩い光が差し込む。

そこは小屋ほどの大きさの石造りの空間。

 しかし、かつて人のために造られたその場所は、草木に、風雨に、そして熱と冷気に侵され、今や自然のうちに取り込まれていた。

 白い石材は、鏡のように磨かれ、精巧に組まれていたという。しかし、数千年の時を経て石材は継ぎ目から崩れ落ち、壁や天井にぽっかりと空いた穴は外界との入り口に成り果てていた。

床の深い窪みには水が溜まり、苔が生え、水草が浮かんでいる。壁と天井には木の根が張っており、時折、それを伝ってリスや小鳥などの小動物が内と外とを自由に行き来してすらいた。外を覗けば、似たように木々に侵され、朽ちた建造物が数多く立ち並んでいる。もはや、この一帯は人のものではない。

だが、そんな遺構の一室で、黒髪の少年が石段に座って集中した様子でうんうんと唸っていた。その手には黒無地の装丁の分厚い本があり、開かれた頁は美しい光沢を帯びている。少年は神経質そうにそれをめくっていた。

やがて、少年は諦めたように仰向けに倒れ込み、本を眺めた。

「だめだ。見たこともない文字式が多すぎる」

 少年の持つ本には、この地方一帯で使われている共通文字とは異なる文字がびっしりと記されていた。専門家が見れば、それが古代の永久紙で綴られた本であり、書かれた文字が、数千年前に大陸全土を支配し、そして謎の滅亡を遂げた魔法文明エウレカのものであると分かっただろう。

 永久紙で綴られた本はしばしばエウレカの遺跡で見つかるが、読み解ける者が限られるうえ、多くの場合は民話や物語が記されている程度であるため、発掘品としての価値は宝石や貴金属などの方が遥かに高い。

しかし、少年はそんな古代の本を読むことができる。そして、エウレカの書物の中に稀に見つかる数学や論理学の本を読むことが好きだった。

少年が先ほどから読んでいるのも、最近、遺跡で発掘した本だった。だが、その本はこれまで得てきた知識をもってしても、読み解くことができないほど難解だった。

エウレカの文字と数字で構成された文字式――これまで少年が培ってきた知識で理解できる部分もあるにはある。だが、紙面に散りばめられた未知の記号や文字が全体の理解を阻んでいた。

「とりあえず大切そうな部分から書き写してみるか……」

 少年は起き上がって羽根ペンを取り出し、傍らに置いた粗末な藁半紙に文字式を書き写していく。そして、数十枚の紙片が積み上がったところで少年は床にペンを置き、今度は口元に手を当てて長考に入った。

「ファル、何をしている」

 低い声と足音が響いて、ファルと呼ばれた少年は顔を上げる。

 一人の男が、遺跡地下へと続く、部屋の奥の階段から姿を現す。

 ファルの赤色の瞳に、長身で筋肉質の男の姿が映る。男の目はファルと同じように赤いが、頭髪はファルと違って銀色だった。

「団長」

男はファルの所属する隊商の団長でクシーという名だった。森の猛獣を屠ることのできる屈強さと、隊商を導く聡明さを兼ね備えている。

「帳簿は終わったのか? さぼってるんじゃないだろうな」

「もちろん終わってるさ」

ファルは床の上に置かれた分厚い紙の束に視線を移す。それは、隊商の帳簿だった。

「記帳が終わったら今日は好きにしてていい。発掘も免除。そうだろ?」

 クシーは何も答えずに床に置かれた帳簿を手に取り、膨大な品目と金額が記載された頁を捲った。それは遺跡の発掘を生業とする彼らの商品――古代遺物の一覧だ。

「相変わらず早いな。それでまたエウレカの本か? 珍しく悩んでいるようだったが」

「まあ、ね」

ファルは口元に手をあてて文字式をじっと見つめる。

「この文字式が何を意味してるのか分からないんだ。ただの数学じゃないような気がする。何かを動かすための手順書みたいにも見えるんだけど……」

 ファルはそう説明して、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「ところで、クシーはわざわざオレがさぼってないか見に来たの?」

「いや」クシーは苦笑する。「お前が昼飯当番の仕事を忘れてないか見に来たんだ」

 ファルは思わず顔をしかめた。

本を読み始めたのは朝方だったが、気づけば昼前だった。じきに発掘をしている十数人の猛者たちが腹を空かせて引き上げてくるだろう。もしそのときに食事ができていなかったらと思うとぞっとする。

殴り飛ばされるだけならいい。

それ以上に嫌なのは、侮蔑の言葉を投げかけられることだ。

これだから混ざり血は――と。

「水汲んでくる」

 ファルはぐっと奥歯を嚙み締めると、腰の鞄に紙を突っ込み、立ち上がった。

 遺跡を出ると外界の明るさに目が眩む。

 そこは深い森の中――深く息を吸うと、腐葉土の濃密な匂いが鼻腔に満ちる。

様々な種類の草木が生い茂っているが、そこにあるのは草木ばかりではない。森に包まれるようにして、崩れかけの建造物が点在しており、苔むした壁には大樹の根が蛇のように絡みついている。

足元に目を遣れば、夥しい数の石材が無造作に重なり、大地の一部と化していた。そこは虫や小動物にとって都合のいい住処となっている。だが、大地の下には地上よりさらに多くの遺構があり、それらは比較的よい状態で保存されている。

ルベーグ大陸西方に位置するフェイジア王国の南東部――隣国ブラガ・ハン国との国境に間近いこの地域に遺跡が眠っているのが発見されたのは、ここ数年のことだ。

クシーの率いる隊商は各地に点在するエウレカの遺跡の発掘を生業としている。遺跡はしばしば人を寄せ付けないような自然の中にあるが、クシーたちがそんな場所を探索できるのは、彼らが高い身体能力を持つ種族テーベだからだ。

テーベは銀色の髪と、赤色の瞳を特徴とする。高い身体能力を持つが、少数種族であるために人間から蔑まれていた。特に貴族階級に多い魔術師からの迫害はひどく、貧しい生活と汚れ仕事を余儀なくされている。それに我慢ならず、命の保証もない生活を覚悟で人間の町から離れていく者もいた。その一例がクシーの率いる隊商だった。

だが、ファルはテーベではない。そして、人間でもなかった。

瞳は紅玉のように赤く、しかし髪は黒い。

それはテーベの父と、人間の母親から受け継いだもの。

混ざり血の子は両種族から忌み嫌われ、それは子の親にすら及ぶ。

実際、ファルの両親は人間に迫害された挙句、病に倒れて命を落とした。

父の旧友であるクシーに拾われなかったら、ファルも同じように死んでいただろう。

ファルは、水を汲むために右手に木桶を持ち、崖にも似た急峻な坂の、剝き出しになった岩々を音もなく飛び移って降りていく。

沢に辿り着き、水を汲もうと屈んだときのことだった。

ファルは見慣れた光景に微かな違和感を覚え、少し離れた川辺に目を凝らす。

「あれは――」

 息を呑む。

 次の瞬間、ファルは駆け出していた。

 心臓がどくどくと鳴る――その動悸が急激な運動によるものか、あるいは現実離れした光景を見たことによるものかはファル自身にも判然としない。

 その川辺に辿り着いたとき、ファルは息を止め、じっと立ち尽くすことしかできなかった。

 その赤い目に映るのは、一人の少女。

 瞼を閉じた少女が半身を透明な水に晒し、静かに川辺に横たわっている――現実味のない、まるで絵画のような光景だとファルは心のどこかで思った。

 ファルは吸い寄せられるようにして、少女の傍へ歩み寄る。

「……死んでる、のか?」

 蒼白な顔には生気が感じられない。

 ファルはそっと少女を抱き起こしたが、その身体は川の水と同じくらい冷たかった。

「人間か……」

 そのとき、ファルはようやくその栗色の髪を――彼女がテーベではなく人間だという事実を――認識した。

心の裡に、暗い炎が灯る。

ファルは少女の血の気のない顔をじっと見つめた。

 相手は人間――助ける義理もなければ義務もない。

死んでいることにして、このまま放っておけばいい。

ファルが少女を抱きかかえる腕の力を抜こうとしたとき――

少女の顔が苦しげに歪んだ。

ほんの一瞬のことだったが、それはファルに少女の生命を意識させるには十分過ぎる出来事だった。

「オレは――」

それは人間である母に愛され、そして別の人間たちに迫害されたファルの葛藤。

ファルは唇を嚙み締め、小さく首を振る。

 そして少女を抱き上げ、ゆっくりと立ち上がった。


     †


 ぱちぱちと薪のはぜる音が鳴る。

 焚火から出た煙は、半ば崩れた天井から星空へと昇っていく。

 エウレカの遺跡の一室で、ファルは毛布に包まって眠る少女をじっと見つめていた。

 十五、六歳ほどの、目鼻立ちの整った綺麗な少女だった。肩口で切り揃えられた栗色の髪は、焚火の灯りに美しく照らされ、白い肌には少しずつ赤みが戻ってきていた。

 彼女が川辺に倒れているのを助けてから半日が経とうとしている。

 ずぶ濡れの少女を抱えたファルが現れて事情を説明するあいだ、隊商の人々は啞然としていた。

 ファルの話を聞き終えた後、人間を助けることに難色を示した者も多かったが、最後には、団長であるクシーの「人間とはいえ弱っている少女を見捨てるわけにはいかない」という意見が通ったのだった。

 ファルは深くため息を吐く。

 両親を人間のせいで失い、自身も迫害を受けたことがある。それなのに何故、彼女を助けてしまったのかと、今に至るまで何度も自問した。

 身も心も半端な自分に嫌悪感すら覚えていた。

そのとき、衣擦れの音がしてファルは少女を見た。

少女の瞼が震え、ゆっくりと開かれていく。

「……気がついた?」

 ファルはそう訊いたが、その声音は意図せず硬くなっていた。

 少女はゆっくりと身体を起こし、ファルの方に顔を向ける。

 まだ意識がはっきりとしていないのだろう、濃褐色の瞳はどこか焦点が合っていない。だが、やがて少女の瞳にファルの姿が結像する。

 彼女の唇がゆっくりと動き出し、ファルはじっと彼女の言葉を待った。しかし――

「       」

 それが音になることはなかった。

 まるで少女の声が消えてしまったかのような錯覚に陥って、ファルは呆気に取られる。

 だが衝撃を受けたのはファルだけではない。少女自身も、目を見開いて自分の喉元に手をやった。

 そのままファルを見て、何かを訴えるように悲痛な表情で首を横に振った。

 そんな様子を目の当たりにし、ファルは一つの仮説に辿り着く。

「……声が出ない?」

 少し間が開いた後、少女は弱々しく頷いた。

ファルは自分の胸元から紙と手製のペンを取り出すと、少女に手渡した。

彼女は書き慣れた様子でさらさらと紙に文字を記すと、ファルに差し出した。

〔ここはどこですか?〕

 少女の書いた大陸共通文字は美しく滑らかだった。

「フェイジア王国の南東にある森林地帯の遺跡。君は近くの沢で倒れてたんだ」

 その言葉を聞いて、少女は再び文字を書き始める。

〔あなたが助けてくれたんですか?〕

「ああ、そうだよ」

 ひどくぶっきらぼうな答え方だと分かっていた。だが、ファルは久しぶりに相対する人間に対して、どんな気持ちで向かい合えばよいのか分からずにいた。

 そんなファルの内心が伝わっているのだろう、少女は次の質問を書きあぐねているようだった。

 ファルは小さくため息を吐く。

「オレはファル。君は?」

〔ステラ〕

「身体は大丈夫? 痛むところはない?」

〔大丈夫です〕

「それならよかった。君は――」

 どうして倒れていたのか、いったい何者なのか――そんなことを訊こうとして、しかし、ファルはステラの唇が小刻みに震えていること、そして彼女がその震えを隠すように強く唇を嚙み締めていることに気づいて口をつぐんだ。

 目を覚ましたら見知らぬ場所に、見知らぬ男と二人きり――そんな訳の分からない状況で、不安にならないはずがない。そのことにようやく思い至ったのだ。

 と、そのときステラが何かに気づいたのか、はっと目を見開いた。

 彼女の視線は自身の胸元に釘付けになっている。

 ステラはそのとき初めて、自分が裸の上に毛布一枚を纏っているだけだと気づいたのだ。露わになっていた白い肩と胸元を隠すように毛布をたくし上げながら、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。

「あ、ああ、それは――」

ファルは視線を逸らして慌てる――なんでオレが慌てなくちゃいけないんだ。

「違うんだ。服が濡れてたから脱がせただけで、ああ、えっと、大丈夫だ。やったのは仲間の女の人だから」

 ステラは少し安心した表情を浮かべてから、ファルの様子が滑稽だったのだろう、僅かに顔を綻ばせた。ファルは彼女の見せた微笑に見とれつつ、あらぬ誤解を招かなかったことに胸をなでおろした。

 ステラが、再び紙に文字を書く。

〔仲間? 他にも人がいるんですか?〕

「ああ。遺跡の発掘をするテーベの隊商だ」

 ファルは答えながらステラの様子をじっと観察した。

 人間はテーベを自分たちより下等な種族だと考え、蔑んでいる。だから、テーベという言葉を出せば彼女の顔に拒絶反応が現れるだろうと、ファルは思っていた。

 しかし、ステラの表情は硬くなったものの、そこに嫌悪の色は現れない。それはファルにとって少しばかり意外で、だからこそ、居心地の悪さを感じてこう訊いた。

「テーベなんて嫌いだろ」

 ステラは一瞬呆然として、心外そうに首を横に振った。

 嘘に決まってる――ファルはそう思い、言葉を重ねる。

「オレの目、よく見てみなよ。炎の色で分かりにくいかもしれないけど」

 ステラはじっとファルの瞳を覗き込み、あっという表情を浮かべた。

 ファルは自虐的に笑う。

「オレは混ざり血なんだ」

 テーベと人間は交わることができる。しかし、その結果生まれる子どもを待つ運命は、純粋なテーベよりも悲惨だ。彼らは混ざり血と呼ばれ、両種族から忌み嫌われる。

 ファルもまた、旅先で人間に蔑まれるだけでなく、本来仲間であるはずの隊商の者たちにすら疎まれてきた。中には心無い言葉を向ける者もいる。

「混ざり血が珍しい? 気持ち悪い?」

 じっと見つめてくるステラの濃褐色の瞳を前にして、ファルは自分の口調が強くなるのを抑えられなかった。

「どっちだっていいけどさ。君は人間なんだから、オレを蔑めばいい、嫌えばいい。だけどオレだって、人間なんか嫌いだ」

 吐き捨てるように言って、ファルは顔を背けようとする――が、

「な……に、を」

 ファルは言葉を失い、呼吸するのを忘れた。

 ステラが、慈しむようにファルの髪に触れ、頬を撫でる。

 穏やかで真摯な濃褐色の瞳が、ファルの赤い瞳を覗き込んでいた。

 心の底を見透かされそうな、澄んだ瞳。

 息遣いを感じるほどに彼女は近く、栗色の髪からは仄かに花の香りが漂ってきた。

 やがてステラは声もなく、しかしファルに聞かせるように、はっきりと唇を動かした。


 ――きれい。


 ファルはしばし啞然としてから、思わず後ずさった。

「わ、訳わかんないこと言うなよ! 君は人間で、オレは混ざり血なんだ」

 そんなファルの言葉に、ステラは傷ついたように目を見開いた。

 どうしてそんな顔をする――ファルの戸惑いは頂点に達する。

「善人ぶるなよ!」

 ファルの声が一際大きくなり、部屋の中に反響する。

「分かってるんだよ! 人間なんて――」

 ファルは言葉を途切らせた。

ひどい言葉を投げかけられたはずのステラは、それでもファルから視線を逸らそうとはせず、真摯にファルを見つめていた。

 そんなステラの様子にファルは我に返った。

「あ、ご、ごめん。オレは――」

ファルは謝罪しようとステラの傍に近寄り、彼女の毛布の裾に手が触れる――と同時に、からん、と部屋の入り口の方で乾いた音が鳴った。

 顔を向けると、そこには隊商の紅一点であるウルハが、ステラのために運んできたと思しきスープの入った木皿を取り落し、啞然として立ち尽くしていた。

「な……何してるの……ファル?」

「何って……」

ウルハは混ざり血のファルに対しても比較的公平に接する数少ない団員で、ステラを治療したのも彼女だ。だが、今はまるで何か汚らわしいものを見るかのような目つき。違和感を覚えたファルは、自分の置かれた状況を再確認する。

 すると、ステラの身体を包んでいたはずの毛布はファルが触れた拍子にずり落ちており――

「ファル……」ウルハが悲しげに言う。「見損なったよ……」

「誤解だ!」

 ファルの叫びが部屋に反響した。



 森の中、エウレカの遺構の外に隊商の荷馬車が置かれている。

ファルはその荷台の上で、地下深くの遺跡から発掘された遺物の仕分けをしていた。

「今回は魔具が結構多いな……」

大陸ではいくつもエウレカの都市遺跡が見つかるが、最近になって発見されたこの地の遺跡はそれとは少し異なっていた。生活空間が極端に少ないのだ。さらに、地下には蟻の巣のように尋常ではない規模の遺構が広がっている。通常の都市ではないことは明らかだった。

そして、そんな遺跡からは、通常よりも多くの魔具が発見されていた。

 魔具とは、魔力を込めることで炎を発生させたり、冷却したり、風を起こしたりといった機能を果たす魔術器具だ。出力限度はあるが、詠唱なしで魔法の効果が得られるため、富裕層に重宝されている。

 ファルは自分の隣に座る栗色の髪の少女に品名を伝えて、魔具を手渡す。それを受けた少女は、記帳してから魔具を所定の箱に収めた。

「たまに危ないのも混じってるから、扱いは気を付けて」

 ファルが横目で少女――ステラを見ると、彼女はにこりと笑って頷いた。彼女は裾の長い麻のチュニックと羊毛のズボンを穿いており、町娘といった出で立ちだった。左手中指に青い宝石の嵌められた金色の指輪をしているのが、唯一、装飾品らしい装飾品だった。

 ファルは思わず彼女の笑顔から視線を逸らし、次の遺物を手に取った。

 ファルがステラを助けてから数日、彼女の体力は回復し、隊商の軽作業を手伝うようになっていたが、それはステラ自身が申し出たことだった。

 ファルとしては複雑な気分だった。

 憎むべき人間と寝食をともにし、さらには一緒に仕事までしている。

 だが、ステラはファルの記憶にある人間とは違っていた。

 テーベである団員たちに対しても、混ざり血のファルに対してすらも、丁寧に接する。上辺だけでなく、敬意すら払っているように感じられた。

ファルは、そんなステラに対してどう接するべきなのか決めかねていた。結果、必要最低限の会話しかしないようにしている。

 我ながらなんと子どもじみた対応だろう、とファルが深くため息を吐いた、そのとき――

 かちり

 手の中にあった立方体の魔具の一面の中央が窪み、小さな音が鳴った。

 そして、その魔具が赤い光を発し、熱を持ち始める。

「しまった!」

 通常、魔力を持たないテーベが魔具を使用することはできない。だが、しばしば遺跡内には事前に魔力が込められ、下手に触れると起動して周囲に被害を与えるような代物も存在する。

 手の中の立方体の温度は上がり続けていく。経験上、激しく爆発する類のものだ。恐らくはかつての武器、あるいは発破装置。

 きん、と甲高い音が鳴り始める。

 どうすればいい――ファルは焦った。

 遠くに投げるか。だが、荷台の周囲には作業をしている団員達もいる。下手をすれば彼らを巻き込みかねない。

早く荷台から降りなくては。このままではステラまで――

 しかし、立ち上がろうとしたファルの手の中から、魔具が奪い取られる。

「ステラ!?」

 ステラは魔具の発する熱に顔をしかめたが、構わずに魔具を抱え込み、ファルに背を向けて身体を丸めた。

「な、何してるんだよ!」

 ファルは彼女の肩を摑んで魔具を取り返そうとして、異変に気づく。

「これは……」

 ステラの身体が淡い黄金色の光に包まれていた。

 その光は彼女の手のあたりで最も強く輝き、魔具を包み込んでいる。

気づけば甲高い音が止み、魔具の熱と光がゆっくりと引いていった。

「ステラ……君は、まさか――」

 間違えようがなかった。

魔具に込められた魔力の制御ができる者など限られている。

「どうした!」

 隊商の誰かが大声を上げ、荷台に乗り込んでくる。

 振り返るとそこには団員のガルムがいた。

ファルと同年代のガルムは気性が荒く、隊商の中でも特に人間嫌いで、最後までステラを隊商に置くことに反対していた。混ざり血のファルに対する差別意識も強い。

「何してるんだ!」

 ガルムはファルを押し退け、淡い光に包まれたステラを見て目を見張った。

 そして、すぐさまファルと同じ結論に達する。

「お前」ガルムは憎々しげに顔を歪める。「魔術師だったのか」



 陽が落ちて、森が闇に包まれる頃。

エウレカの遺跡の一室で、十数名の団員たちが焚火を中心に半円状に座り、ステラをじっと睨み付けていた。時折、壁の崩れ落ちた穴から風が吹き込み、炎を揺らす。

「なるほど」

 石段に腰を下ろした団長クシーが、ステラを見つめて呟く。

「つまり、君は王都の魔術師で、郊外で盗賊に襲われて川に落ちた。そういうことか」

 クシーの確認に、ステラは小さく頷く。

「どうして魔術師であることを隠していた――というのは愚問か。こうなるのが分かっていたんだな」

 ステラはさらに小さく頷く。

 テーベと魔術師の関係は最悪だった。魔術師たちは生まれつき魔法を使う才能を持たないテーベを蔑み、一方のテーベたちは魔術を邪悪なもの――禁忌だと考える。両者は古来よりずっと対立を続けていた。

 もしステラが正直に魔術師であることを打ち明けていたら、彼女は弱ったまま森に打ち捨てられていたかもしれない。

「声はどうした。魔術師は詠唱で魔法を使うと聞く。君が魔術師だと言うのなら、声を失ったのは最近のことだろう?」

 ステラが右手の人差し指を宙で動かすと、黄金色の光が軌跡をなす。

『分  かり ま  せ ん 、起 きた ときに は もう』

 それは彼女が魔力筆記と呼ぶものだった。指先から魔力を出して、それによって文字を書いているのだ。

 最初は隊商の全員が驚いたが、今ではだいぶ慣れてきていた。もどかしくはあるが、焚火しか明かりのない状況で言葉を伝えるには、紙とペンよりも都合がいい。

 ふむ、とクシーが思案する。

「見たところ、傷はなさそうだが。そんなことがあるものか、ウルハ」

 クシーがそう言って声をかけたのは、ファルやステラより少し年上の少女ウルハだった。一本に括って背中に落とされた銀色の髪が、彼女の活発さを物語っている。

「うーん、分かんないなあ。怪我はないみたいだけど……。喉の奥の声を出す部分だけが傷ついてるのかもしれないけど、だとしたら、あたしじゃ手に負えないよ」

 ウルハは簡単な医学の知識を持っており、隊商で病人や怪我人が出たときに手当てをする役目を担っている。

「どうするんだよ、団長。まさか、このまま置いとくつもりじゃないよな」

 割り込むようにして厳しい言葉を発したのは、ガルムだった。ステラを睨みつけていた鋭い目つきが、すっとファルに向く。

「面倒事持ち込みやがって。これだから混ざり血は」

 ガルムは吐き捨てるように言うと、再びクシーを見る。

「《邪なる音の使い手、灰の民に咎を課し、その魂を奪い去りぬ》だろ?」

 ガルムが詠んだのは、テーベならば誰でも知っている古い詩の一節だった。邪なる音の使い手、すなわち魔術師は、灰の民を虐げる者だから関わってはならない――幼い頃から皆の心に刻み込まれた警句だった。

 クシーは「ふむ」と唸って隊商の者たちを見た。

「皆も同じか? 早く隊商から出て行ってもらうべきだと」

 クシーが尋ねると、年嵩のテーベたちもガルムに同意するように小さく頷いた。

「ウルハも?」

「あたしは……」ウルハは困惑したように眉を顰める。「……うん。やっぱり、魔術師と一緒にいるのは嫌かな」

 その言葉にファルはひどく落胆した。そして同時に、そのことで自分がステラを追い出したくないと考えていることに初めて気づいた。

 人間の、それも魔術師のステラを――どうして。ファルは自分の内心に戸惑った。

「それに、普通の場所ならともかく、こんな国境に近いところで面倒事を抱え込むのは、よくないんじゃないかな。万一のことがないとも限らないから」

 ウルハの言葉に隊商の面々は同意するように頷いた。

 皆の念頭にあるのはフェイジア王国と対立するブラガ・ハン国だ。彼国は、最近になって国境付近に軍を集め始めている。まだ戦争にはなっていないが、万一、戦端が開かれれば、隊商としては迅速に引き上げなくてはならない。その際にステラが何らかの足枷になるのではないか、というのがウルハの意見だった。

 一方、当のステラは少なからず動揺したようで、声が出ないことを忘れて口を動かしてから悲痛そうな表情を浮かべた。

「待ってくれ」ファルが声を上げる。「せめて安全な場所まで連れてってからでも」

 隊商の人々は、驚きをもってファルに注目する。ファルが誰よりも人間を憎んでいる――隊商にはそういう認識があった。

「何言ってんだ、お前」ガルムが顔をしかめる。「いつから人間の味方になったんだよ。親を殺されたの忘れたのか? だいたい、俺はこいつのことが信用できねえんだよ。魔術師ってこと隠してやがって、何されるか分かったもんじゃねえ」

「ステラは何もしないさ!」

 ファルは思わず立ち上がり、ガルムを睨んだ。

「あ?」ガルムも立ち上がり、剣呑な声を出す。「どうしてそんなことが言える」

「それは……助けてくれたからだよ」

「助けてくれた?」ウルハが問う。「どういうこと?」

「……オレの失敗で、魔具が発動しそうになったんだ。ステラはそれを止めるために、魔力を使った。魔術師であることを隠そうと思ったら、あのときオレを見殺しにすればよかったんだ。だけど、ステラはオレを助けることを選んだ。それに、ステラは魔具を止めるときに抱え込んでたんだ」

 ガルムが「ほらな」と鼻を鳴らす。

「そりゃ、お前から見えないようにするためだ。魔力を隠したかったんだよ」

「違う」ファルは首を振る。「もし魔具が爆発しても、オレや周りに被害が出ないように、そうしたんだ」

 ステラが呆然とファルを見つめる。一方、隊商の者たちは騒然とした。

 魔術師が身を挺してテーベと混ざり血を守ろうとした――その場にいた誰しもが、その事実をどう受け止めてよいのか分からなかったのだ。

「まじかよ……」

「いや、でもやっぱり魔術師だろ……」

 団員たちの意見も割れているようだった。そこかしこで小声の会話がなされている。

 どん、と低い音が鳴り、団員たちの声が止む。

 ガルムが遺跡の壁を殴ったのだ。

「混ざり血の分際で、魔術師庇ってんじゃねえ! そんなに助けたいなら、一緒に隊商を出ていけ。俺たちを巻き込むな!」

 ガルムの言葉にファルはぎりと歯を嚙み締めた。

「ちょっと、ガルム、言い過ぎよ」ウルハがガルムを窘める。「でも、ファル、どうしたの?あんたがそんなに人間の……魔術師の肩を持つなんて。さっき助けてくれたのだって、ただの気まぐれかもしれないんだよ?」

「それは……」

 ファルは戸惑う。

どうしてこんなにステラに肩入れするのか、自分でもよく分からなかった。

 ただ間違いないのは、テーベですら忌み嫌う混ざり血の容姿を「きれい」だと言ったのが――ファルが何よりも憎んでいたはずの人間で魔術師の――彼女だということ。

 その言葉が自分に取り入るための嘘なのかもしれないと考えなかったわけではない。だが、この数日間で彼女はただの一度もファルを見下したり、無下に扱ったりしなかった。そして、自分の身の安全より、ファルの生命を優先しようとさえした。

 人間のことが好きになったわけでも、ステラを完全に信用するわけでもない。ステラが自分を助けてくれた理由も分からない。

 しかし、とファルは思う。

もし、ステラを魔術師という理由だけで死地へ追いやるのだとしたら――

「ここでステラを追い出したら、やってることは人間と変わらない。オレは……親父や母さんを追い詰めた連中と、同じになりたくない」

 ファルがそう言うと、ウルハははっと息を呑んで俯いた。

 他の団員たちも言葉を失って俯くなか、沈黙を破ったのは団長のクシーだった。

「ステラを引き続き、隊商に置く」

「だ、団長!?」

 ガルムが驚きの声を上げる。他の者たちも顔を上げてクシーを見る。

「何もファルの言葉だけでそうする訳じゃない。今回の発掘品は魔具が多い。そんな状況で魔術師の存在は有益だと、そう思わないか」

 その言葉にガルムは意表を突かれたように黙り、ややあって頷いた。

「魔具の状態や価値の見極めは魔術師にしかできねえからな……」

 ガルムは深くため息を吐いて、やれやれと首を振った。

「団長が言うなら仕方ねえ。だけどな」ガルムはステラを睨み付ける。「変な気起こしたら、ただじゃすまないぜ。覚えとけよ」

 ガルムはステラの返事を待たず、話は終わったとばかりに部屋から出ていく。

 ややあって、クシーが立ち上がってステラの肩をぽんと叩いた。

「決まりだ。改めて頼むぞ」

呆然としていたステラは弾かれたように頭を下げた。

「皆もいいな」

 クシーが隊商にとっての有益さを説いたこと、そして急先鋒のガルムが納得したことも相まって、隊商の団員たちに反対する者はいなかった。

 そうしてステラは、隊商に魔術師として籍を置くこととなったのだった。