人々から恐れられ、あがめられていた妖怪も、時は平成、絶滅の危機に瀕していた。


 夜も昼のように明るく、山は削られ、海は埋め立てられ、どこもかしこも人間が跋扈する。気軽に出歩けなくなった妖怪たちは、花嫁、花婿を探すことができず、無為に時を重ねるばかり。

 このままでは一人きりで死に絶えてしまうと考えた妖怪たちが、こぞって訪れたのは黒羽寺の双宿院。

 縁組みしてもらいたい様々な妖怪たちが、一縷の望みと駆け込んで来る。

 双宿院に有るは、妖怪専用の結婚相談所。黒羽縁組天泣堂。

 通称《天泣堂》。

 そこには主代理のタヌキ顔の青年に、黒髪の美しい女性。そしてまだ幼い、妖怪・白澤の子供。


 どうぞお入りください、天泣堂へ!



序章 夢と現実の狭間


 ――あれは夢だったのか。

 そんな問いが頭の中でぐるぐる回って、余計に眠れなくなる。

 ごろりと布団の中で寝返りを打って瞼を開けると、仄明るい暗闇が広がっていた。自分の呼吸音。衣擦れの音。静かな世界の中に、雨の音が伴奏のようにさらさらと止めどなく響いている。

 全部忘れて眠りたいのに、まるで思考が襲い掛かるように湧き上がり、ちっとも眠りに落ちる気配がしない。眠りたくても眠れないもどかしさで息苦しい。再度ごろりと寝返りを打ち、深く息を吐くと、脳裏にぽっと記憶の断片が蘇る。

 あれは確か、幼稚園に通っていた頃のことだ。

 僕はそれが悪いことだと、全く思ってもみなかった。

 あの場所に行ってはいけないと、父さんが口煩く言っていたのは理解していたけれど、駄目だと言われるたびに、行きたくて堪らなくなった。

 ちょうどその頃、兄たちが小学生になり、僕は一人で遊ぶことが多くなった。母は境内にいるのなら大丈夫と思っていたらしく、僕は境内の探検をしてくると言っては塀を越え、少し離れたその場所にこっそりと通っていた。

「――また来たのかい? 恵留」

 彼らは皆優しくて、僕の良き遊び相手だった。

 一緒にどんぐりを集めたり、人気のない小道で歩いて来る人を驚かしたり……。

 楽しかった。

 でも彼らは皆、〝僕〟とは違った容姿をしていた。

 目が一つしかなかったり、羽が生えていたり、とても小さかったり、逆に大きかったり。そして彼らの輪郭線は、いつもではないけれど時折ブレて曖昧になった。

 僕は、そういう存在もこの世界には確かにいるのだと疑いもしなかった。

 夕暮れ時、家に帰る時間になると彼らは必ずこう言った。

「恵留いいかい? あたしらのことは誰にも言っては駄目だ。秘密にするんだよ?」

 僕はその約束を律儀に守って、両親にも兄たちにも誰にも言わなかった。

 でもある日、いつものようにその場所を訪れると、そこには父さんがいた。僕がここに来ていることを知った時の父さんは、鬼のように恐ろしかった。散々叱られて泣きじゃくる僕に、父さんはきっぱりと告げた。

「あの者たちともう会ってはいけない。いいか恵留。お前はあの者たちをいい者だと思っているだろう。それは違う。いい者ばかりではない。お前を父さんや母さんたちとは二度と会えないような遠い所へ連れて行こうとする者もいる。だからもう二度とここには来てはいけない。あの者たちのことは忘れろ。いいか、忘れるんだ、恵留」

 子供に諭すのではなく、まるで悪事をたしなめるかのように、父さんはあまりに真剣な顔で、何度も何度も繰り返し僕に言った。

 それから僕は、あの場所に行くことはなくなった。遠ざけられるように、習い事や塾に通うようになり、いつの間にかあの場所のことも、彼らのことも忘れてしまった。

 ぐっと瞼を押し上げると、カーテンの隙間から滲む明るさが強さを増している。それに背を向けるようにまた寝返りを打つと、掛布団が体に絡みつく。

 ――僕は一体、《誰》と遊んでいたのだろうか。

 闇の中に潜んでいる、曖昧模糊で不明瞭な者たち。いわゆる、魑魅魍魎。

 闇を恐れるのは人間の本能だ。なのに、僕は暗闇が全く怖くない。

 どちらかというと、暗い部屋に閉じ込められるよりも、明るい部屋に閉じ込められるほうが怖い。

 白は全てを暴いてしまうから。

 真っ白い部屋の中にいたら、ここにいるのは一人きりだということを嫌になるほど思い知らされる。でも暗い部屋の中なら、もしかしたら《彼ら》がどこかにいて、僕に寄り添っていてくれるかもしれない。

 だから僕は、黒よりも、白のほうが怖い。

 今この瞬間も、朝を迎えて、部屋中が白んでいくのが恐ろしい。

 瞼をぎゅうっと強く閉じると、それこそ真っ暗になってようやく安心した。

 雨の音が途切れることなく延々と一定のリズムで響いている。

 ――忘れろ。いいか、忘れるんだ、恵留。

 そうだ。忘れないと。父さんの声が追い打ちをかけるように、僕の思考を崩していく。さらに誰かの声が闇の中から囁いて来る。


「恵留いいかい? あたしらのことは誰にも言っては駄目だ。秘密にするんだよ? もし守れなかったら、あたしらは恵留を――、『食べる』から」


 大きく息を吐くと全身から力が抜ける。あれだけ眠れなかったのに、すとんと眠りの底へ落ちて行くことができた。

 


第一縁 縁結び事始め 慌てふためき手探り縁組み



 ついさっきまで降っていた雨は止んでいた。石畳は濡れて鈍色に輝き、さらに濃く深く発色している。滑らないように慎重にその上に足をのせるが、底がすり減ったスニーカーと濡れた石畳の相性は最悪で、さっきからあまり進めていない。その証拠に、遠くに見える二階建ての朱塗りの三門は未だに全貌を現さず、延々と同じ場所を歩いているみたいでうんざりする。

 昨日は居酒屋のバイトの後、寝付けなくて布団の中で雨の音を聞きながら夜遅くまでうだうだしていた。しかも今日は一限から授業があるために早起きしたせいか、全然眠った気がしなくて体が重い。

 何かをずっと考えていたような気がする。でも浅い夢を見た時のように、起きた時には忘れていた。何なのか思い出せないもやもやした感情ばかりがただ、胸の奥に溜まって、いつまでもつっかえているようですっきりしない。

 欝々とするのは、梅雨のせいだけではないとわかっている。この鬱屈した感情をいっそのこと全て雨のせいだと割り切れたら、楽になれるのかもしれない。

 今日から七月。あとどれくらい我慢すれば、夏がやってくるのだろうか。

「恵留さん、おはようございます」

「あ、おはようございます。三橋さん」

 突然声を掛けられて慌てて振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。彼に向かって、慣れた動作で両手を胸の前で合わせ、軽く会釈する。

 合掌して、低頭。――〝問訊〟という礼拝の仕方だ。

 僕とそう歳も変わらない剃髪の男性は、にこりと笑って薄く透ける黒の衣を翻しながら颯爽と歩いて行く。やっぱり草履だと濡れた石畳でも滑りにくいのだろうか。結構なスピードで遠ざかって行くが、一度も滑ることはない。

 ――修行の賜物。そんな言葉が頭に浮かぶ。いやいや、濡れた石畳の上を滑らずに歩く修行なんてあるはずがない。

 そんなことを考えながら、三橋さんとは逆の方向に歩き出すと、同じような姿の人たちに何人か会って、そのたびに問訊することになる。そして彼らの後から歩いて来る黒ではなく柴色の衣を着た、タヌキ顔の中年の男性。

 自分の父親なのに、顔を合わせたくない。かと言って無視するのも微妙で、他人行儀に軽く問訊すると、足を速めたのか衣が軽く翻る。

 それを見て、気まずさを覚えながらも足を止めた。

「――恵留。大学か?」

「うん。行って来る」

「昨日も深夜に帰って来ただろう」

「バイトだよ。居酒屋だから、終わるの遅いんだよ。何ならバイト先に聞いてよ」

「別に悪事を働いているなどと疑っているわけではない。ただ、あまり帰るのが遅くなると、しっかり眠れないだろう。クマができているぞ。身体だけは大事にしろ」

「わかってる。無茶はしないよ」

 心配してくれているのは、僕だって嫌になるほどわかっている。でも心のどこかに刺さった棘が疼くのは、つい三日ほど前に父さんと派手な喧嘩をしたから。

 逃げるように前に出そうとした僕の足を引き留めたのは、重い一言。

「――恵留。お前だけは、自由に生きろ」

 聞き飽きたその言葉に、盛大なため息を吐きたくなる。

「もう行く」

 父さんを振り切って、石畳の上を歩き出す。一刻も早くその場を離れたかったから半ば小走りになりつつも、何とか滑らないで三門に辿り着けた。

 三門の近くに建てられている拝観受付所のおじいさんが僕に気づいて、こちらに向かって合掌して低頭した。その間も観光客なのか、続々と人がやってきて、三門の前でピースして写真を撮っては、受付所の前で楽しそうに話している。

 ――烏珠山、黒羽寺。

 臨済宗のこの寺は、五百年続く古刹で、大小さまざまな五つの塔頭寺院を抱え、修行僧である雲水の修行道場でもある。

 江戸時代初期に建てられた本堂や法堂、開山堂、庭の五重塔、大方丈や小方丈、今僕がくぐろうとしている三門など、数々の建築物が国の重要文化財として指定され、門前町として栄えたこの町の、一番の観光地になっている。だだっ広い境内は、東京ドーム三個分ほどあると言われていて、その中には寺院の建築物の他に、音楽ホールや美術館などの文化的な施設を抱え、境内外では幼稚園も運営している。

 そんな黒羽寺の住職は、タヌキ顔の僕の父親。

 ここは僕、烏丸恵留の実家だ。


「ええっ! 恵留くんって、あの巨大なお寺の息子なのっ?」

 声が大きい。でもそんなことを口に出すことはできず、苦笑いする。

 父さんから逃げるように大学に向かい、午前中の授業を終えて、学食で一番安いうどんをすすっていると、僕の前に大学に入学してからできた友人の隼人が腰を下ろした。それをきっかけに、つい最近隼人の彼女になった沙優ちゃんがやってきて、さらに沙優ちゃんの友達の何人かも集まって来る。

 隼人と沙優ちゃんは学部が別で大学での接点はほとんどなかった。住んでいる学生用のアパートが同じらしく、そこで愛を育んだらしい。隼人から沙優ちゃんに告白して、まだ付き合って二週間ちょっとだから、二人は目のやり場に困るほど仲がいい。

 まだ面識が薄い僕に、どこに住んでいるの? と沙優ちゃんが尋ね、駅の傍だよ、とだけ答えたのに、隼人が駅の傍の巨大な寺が僕の実家だと暴露した。

「はは……一応そうなんだ」

 薄っぺらい笑いを浮かべながら同意すると、女の子たちの目が丸くなった。

「うっそーっ! あのすごく大きなお寺でしょ? 大学に入学してこっちに引っ越してきてから、一回行ったよー。この町一番の観光地みたいになってるよね。もしかして将来恵留くんはお坊さんになるの?」

 答えたくなくて誤魔化すように、伸びかけたうどんをすする。

 僕が寺の息子だと知ると、一様に借問されるから、答え慣れていた。でも何となくこの間の父さんとの喧嘩を思い出して、喉の奥が締まる。

 口の中にうどんが入っているのをいいことに、しばらく笑顔のままうどんを咀嚼するが、その間も沙優ちゃんの目が爛々と輝いたまま僕から離れることはない。

 観念してうどんを飲み込み、沙優ちゃんに向き直る。

「――多分坊さんにはならないよ。兄さんが二人いて、二人とも跡を継ぐために今京都の寺で修行中だし、僕は三男だから自由にしていいって幼い頃から言われてるんだ」

「そうなんだあ。でもよかったね、お坊さんになったら基本的に頭剃らないといけないでしょ? 恵留くん、坊主にしても顔が可愛い系だから、似合いそうもないしー」

 沙優ちゃんの言葉に、周りからどっと笑いが起きる。

 宗派によっては剃髪しなくてもいい所もあるが、臨済宗は綺麗に剃るのが戒律だ。今日の朝大学に来る前に会った修行僧である雲水さんたちも、皆剃髪している。四と九のつく日に剃ると決まっているみたいで、その日に雲水さんたちに会うと全員頭はツルツルピカピカ、照り輝いている。

 出家しないことで剃髪せずに済んでよかった、だなんて、ちょっと抜けている沙優ちゃんらしい。

「恵留がいつもおっとりしていて、常に笑顔だってのも、理解できるだろ? 菩薩のような男っていうのは恵留のようなヤツを言うんだよ。それにこいつは根っからのお坊ちゃまだしなあ」

 茶化す隼人に、沙優ちゃんたちは大きく頷いて同意する。

「うん。人当たりいいし、話しやすいのも、育ちの良さなんだろうねえ」

「お坊ちゃまって……。そんなんじゃないよ。単純に人手が足りなくて、幼い頃からよく檀家さんや観光客を相手にしてきただけだから」

 努力の賜物だよ、と訴えるが、隼人と沙優ちゃんはあんな大きな寺のお坊ちゃまだからと頑なに譲らない。

「でも、恵留くんが優しいのは本当だよ? どうして彼女作らないの?」

 と、言われても……。

 ちらりと目線を沙優ちゃんから横に向けると、今までずっと黙っていたおかっぱ頭の女の子が、バツが悪そうに俯く。

 つい三日ほど前に、この子に告白されたんだけど、沙優ちゃんは知らないのかな。もし知っていたら、こんな無邪気なこと言って来ないか。

 大学に入学して、ようやく慣れてきた七月初旬。何となく恋人がほしいなと思うようになるのもわかる。現に学内ではそんなムードが漂っている。

「……大学に入学してからバイトも始めて、家のこともいろいろあって気が回らなくて。彼女とか考えている暇がなかったよ」

 忙しさが原因だと強調すると、そこにいた全員が「大変だねえ」と同情の眼差しを向ける。実際おかっぱ頭の女の子の告白を断った時も、同じような言い訳を並べた。

「落ち着いたら、彼女ほしいな」

 そう言って笑顔を見せると、沙優ちゃんは「恵留くんならすぐにできるよ!」と言ってくれた。

 高校一年の時に、彼女がいたこともある。でも数回デートをした後、すぐに別れてしまった。あの時のことは今でも苦い思い出として時折蘇って落ち込んでしまう。

 お互い初めて恋人ができたから、どう接していいかわからなかったこともあり、一緒にいても会話も弾まず、行く場所もなく、電話しても沈黙が続き、気まずい雰囲気にどうしても耐えられなかった。駅で突然告白されて舞い上がって、勢いで付き合ってしまったのが悪かったんだろう。その子も、どうやら思っていたものと違うと察したのか、別れを告げても、「わかった」の一言で、それ以来一切会っていない。

 そんな苦い思い出もあって、女の子は苦手だ。中高は男子校だったせいか、女の子と関わる生活とは程遠いものだったし、彼女となるとどう扱っていいのか、今でも正直よくわからない。

 でも彼女ができない一番の原因は、自分が自由のように見えて自由じゃないこと、だと思う。

 一番上の兄の壱留兄さんは、絶対に坊さんにはならないと常々言っていた。「音楽で食べていくぜ!」なんて言って、実際にロックバンドを結成して、そこそこ人気があったらしい。

 二番目の兄の聡留兄さんは、感情をあまり表に出さない落ち着いた人だ。普通に大学に通っていたし、就職活動もして、内定もいくつも貰っていた。

 結局壱留兄さんは長男だからと無理やり仏門に入ることになり、それを見ていた聡留兄さんも、企業への就職を取りやめて、壱留兄さんと一緒に仏門に入った。

 今二人は家を出て、京都の寺で修行している。僕はその姿を間近で見ていて、常々思っていた。僕一人、自由でいいのか、と。

 しかも、兄たちを羨ましいと思うのも事実だ。昔からずっと僧侶たちの仕事を傍で見てきて、彼らに対してほんのりとした憧れを確かに僕は持っている。

 でも父と母は三男の僕だけは好きなことをしろとずっと言っていたし、それは未だに変わらない。寺の仕事からも遠ざけられているような気もしている。

 自由。その言葉の上で僕はふらふらと彷徨っている。

 そんなことで物心ついた頃から、家族に対する疎外感を感じていた。つい三日前も、父さんと将来のことについて、派手な喧嘩をした。「将来は仏門に入りたい」と言った僕に、お前がそう思うのは、自分が本当にやりたいことが見つからないのと、兄さんたちへの贖罪の念からじゃないのかと言った父さんの言葉を、否定はできなかった。言い淀んだ僕に、父さんは再三、恵留だけは自由に生きろと言った。

 この喧嘩は三日前が初めてじゃない。高校受験の時も、大学受験の時も、節目節目で父さんとぶつかり合う。むしろ季節毎に一回はこのネタで喧嘩していると言っても過言じゃない。

 出家するのは駄目。じゃあ僕にできることは他に何かあるのか。

 僕以外の皆は、寺にどっぷりと関わっているのに、僕一人弾かれているみたいで、家にいるのが正直ずっと辛かった。

 だから受験の時は図書館に籠もり、大学に入学した後は、家にいる時間を少なくするためにサークルに入って時間を潰そうかと考えた。結局サークルよりもアルバイトをしたほうが時間を有効に潰せてお金も稼げると気づき、近所の居酒屋で働き始めた。

 県外の大学に進学すればよかったとたまに思うけれど、実家から通えるこの大学にしたのは、未練たらたらだから。

 家の中に自分の居場所が欲しいだなんて、そんな根本的なことを諦めきれずにいる。

 多分、自分の心がしっかりと定まらない限り、僕は悶々と悩み続けるだろう。

 彼女や恋人を作ることは最早二の次だ。とにかく僕は今、将来に絶望していて、自分の身の振り方を真剣に悩んでいる。

 器用に割り切って、将来のことはその時考えればいいとわかっているんだけど、事あるごとにいちいち考えてしまう。真面目なのか、優柔不断なのか。どちらかと言えば、確実に後者だ。

「――あ、見て。軽井沢さん」

 僕の頬を叩くように、そんな囁き声が耳に飛び込む。顔を上げると、沙優ちゃんがにやにや笑いながら控えめに指をさしていた。

 その指の先にいる人物は、背中の半ばまであるストレートの黒髪を大きく靡かせるほどのスピードで、学食内をスタスタ歩き、空いている席に一人腰掛けた。

 そして何の無駄もなく、僕と同じ一番安いうどんをすすり出す。

「今日も目が覚めるほど美人だけど、相変わらず一人だよね。寂しくないのかな」

「でもさあ、軽井沢さんに話しかけても、向こうが完全無視でしょ? こっちから歩み寄っても、そんな態度取られたらムカつくよね」

 沙優ちゃんとその友達たちはにわかに軽井沢さんの話で盛り上がり始める。気づけば僕らの周りにいた人たちも、彼女にちらちらと目を向け、羨望とも悪口とも取れる話題を次々に口にしている。

 彼女は、軽井沢小町。

 沙優ちゃんの言う通り、彼女が現れたらその場にいる全員の目が自然と釘付けになるほどの美少女だ。

 すきとおるほどの白い肌に、小さな顔。ぱっちりとした大きなネコ目の瞳は漆黒に染まり、深い闇を抱えているように見える。

 同じ大学の一年生だけど、僕は工学部で、彼女は民俗学部。

 学部の棟が隣同士だからよく見かけるが、まるで接点もなく、話したことも一度もない。でもその圧倒的な容姿と、周りの全てを拒絶する態度で、入学してから学部も学年も問わず、皆彼女のことは知っていた。

 無論僕も名前くらいは知っている。

 彼女みたいに周囲の雑音を気にせず生きられたらいいのにな。

 淡い憧れを感じているのは、僕だけではないだろう。皆、彼女に対して反発の言葉を並べつつも、その目は彼女を追っている。

「ごめん、次授業だからそろそろ行かないと」

 軽井沢さんの座っている席の傍に時計が見えて、慌てて立ち上がる。

 未だに彼女の噂話が飛び交う学食の中を、駆け足で後にした。


「へえ。趣味は映画鑑賞ですか?」

 授業が終わったその足で向かったのは、バイト先の居酒屋《隠れ里》。

「そうなの。って言っても、大抵一人で観に行くんだよね」

「一人ですか? 僕まだ一人で映画館に行ったことがなくて、いつも兄や友達と一緒に行っていました」

「兄弟仲がいいんだねえ。羨ましいなあ。私なんて一人っ子だし、友達が皆結婚しちゃって、泣く泣く一人で行くしかないんだよぉ」

 カウンターに座ったマイコさんは、一気に生ビールを呷った。マイコさんはこの近くの会社に勤めるOLさんで、はっきりとした年齢は教えてくれなかったけれど、三十代初めだと聞いた。独身の一人暮らしらしく、会社からの帰宅途中にあるこの店に週一くらいのペースで通ってくれている、常連さんの一人だ。

 今日マイコさんが来たのは八時過ぎだったから、いつもよりペースが早いかな。

「いい? 恵留くん。大人になるとね、友達を作るのも、恋人を作るのも、とっても難しくなるんだよ。ずーっと同じ職場で働いていたら、まず人と出会うことが極端に少なくなるの。大学生なんて一番人と出会う時だから、一日一日大事にするべきよ」

「なるほど。肝に銘じておきます」

 頷きながら僕は作業の手を止めず、冷蔵庫からワンタンの皮を取り出し、その上に大葉を載せ、さらに明太子とクリームチーズを混ぜたものを上に載せて、さっと揚げる。まだ熱い内に綺麗に盛り付けて、マイコさんの前に置いた。

「おいしそう。恵留くんがバイトに入ってから、ここの御飯がさらに好きになっちゃった。もしかして普段から料理しているの?」

「男は夕飯を食べても、どうしても深夜にお腹が減るんですよ。兄二人は自分が食べたい物ばかり主張するんです。でも兄たちは自分では作らない。それで末っ子の僕が渋々夜食を作っていたという……、まあ所謂パシリですよね。そういうことでよく料理していたのもあります。それに隠れ里でバイトをさせてもらってまだ三か月くらいですが、その間に大将に大分しごかれました。まだ簡単なものしか任せてもらえませんが、これからも頑張りますよ」

「そんなにしごいたつもりはないけどねえ」

 狭い厨房で焼き鳥を焼いていた、この店のオーナーである大将がひょいと顔を出す。

「大将、本当? 恵留くんが嫌な顔をせずいろいろやってくれるから、気楽に頼んじゃうんでしょ」

「まあ、正直に言うとそれは認めるしかないかな」

 マイコさんと大将は、手を叩きながら声を上げて笑った。

 カウンターが七席。二人掛けのテーブルが二つに、四人掛けのテーブルが一つ。他には六人用の座敷が二つ。小ぢんまりとした居酒屋《隠れ里》は、大将以外に僕を入れたバイト三人で経営している。元々は奥さんとバイト一人で切り盛りしていたらしいが、僕がここに入店する少し前に奥さんに病気が見つかって今は療養している。

 僕は週に五日から六日くらいのハイペースでバイトに入っているけれど、奥さんが今週末に復帰予定だから、今と同じくらいのペースではバイトに入れなくなるだろう。

 掛け持ちでどこかバイトを探さないとな。

 何か欲しいものがあるわけではない。単純に家には居たくないだけだ。

 そんなことを考えていると、立て付けの悪い引き戸がガタガタと鳴り、ワイシャツ姿の男性がネクタイを緩めながら片手をあげて入って来た。

「いらっしゃいませ! 金森さん、仕事帰りですか?」

「ああ、そうなんだ。じゃあまずは生中で」

「はい、かしこまりました!」

 手際よくジョッキにビールを注ぎ、スーツの上着を壁際に掛けている金森さんをちらりと見て、マイコさんから一席空けたカウンターに置く。すると金森さんは、特に気にすることもなく、僕がビールを置いた場所に腰かけた。

 金森さんはマイコさんと同じく、週に一回くらいのペースで来てくれている常連さんだ。そういえば、以前……。

「今日は暑くて湿気がすごいよ。そろそろ梅雨が明けてほしいね。さて何がいいかな……。うーん、まずは冷奴と焼き鳥の盛り合わせにしようかな」

 金森さんから注文を聞き、しばらく他愛のない話をした後に、金森さんに話を振る。

「金森さん。この間来てくれた時、映画を観に行くって言ってましたよね?」

「ああ、恵留くん覚えていてくれたんだ。そう、今話題のラブロマンスの映画ね。観に行ったけど、周りはカップルばっかりで心が折れそうになったよ。映画自体はものすごく感動したけど、恋愛系の映画は一人で観に行くもんじゃないね」

「ははっ、そうなんですね。マイコさんもよく映画を観に行くって言ってましたけど、観ました?」

「えっ、えっと……、観たよ。すっごくよくて号泣しちゃった」

「やっぱり泣いちゃいました? オレも男なのに号泣して……」

「あれは絶対泣きますよ! ハンカチ五枚くらい必要でした!」

 マイコさんと金森さんは、今日が初対面だ。

 でも僕が振った話題をきっかけに、あっという間に映画の話で盛り上がり始めた。

「恵留くんは上手だね」

 大将が焼き鳥を焼きながら、僕にそっと耳打ちする。

「お客さんとお客さんを結び付けるのが本当に上手。この間もお付き合いすることになりましたーって報告受けてたじゃない? センスあるよ。それにお客さんの顔を覚えるの早いし、話もよく覚えてるよね。感心する」

「いや……。やっぱり楽しく飲んでもらいたいですし……」

 褒められたことに謙遜しながらも、くすぐったさを覚える。人の顔や話を覚えるのが得意なのは、家業の影響だろう。

 ふと気づけば、苦い顔をしていた。

 自分の根底、そして表に出る何もかもが、家業に染まっているのか。

「ああ、もうこんな時間。そろそろ帰ります。終電がなくなっちゃう」

「オレも帰ります。駅に行くんで、よかったら送っていきますよ」

「えっ、ほ、本当ですか? じゃあ、ご一緒に……」

 いつもよりも高い声を弾ませてマイコさんは頷き、ほんのりと頬を赤らめて、金森さんと一緒に帰って行った。あんな嬉しそうな顔で隠れ里を後にするマイコさんは、今まで一度も見たことがない。

「恵留くんも、もうお客さんもいないし、上がっていいよー」

 大将の言葉に時計を見ると、日付が変わって十二時過ぎを指していた。

「すみません、お先失礼します。お疲れ様でした」

 後片付けだけさっとやって、隠れ里を出る。空を見上げると薄い雲の向こうに、月がぼんやりと霞んで輝いていた。




「あ、恵留さん」

 大学から帰って来ると、急に呼び止められた。

 僕ら家族が住んでいる家――庫裡は、塀で囲まれた寺の境内の一番奥にある。ちょうど境内の真ん中あたりに有料エリアである本堂、法堂、方丈、開山堂、五重塔が立ち並んでいるため、本来ならそこを通ることなく、塀の外に出てぐるりと遠回りしろと言われている。でも僕も兄たちも駅への行き来には明らかに近道だからという理由で、昔から観光客に混ざりながら有料エリアを顔パスで通り抜けている。

 今日もそうしようと、入口の拝観受付所をすり抜けた時、突然呼び止められた。「ちょっと」と、拝観受付所のおばさんが手招きしたのに従って、観光客の間をすり抜けながら近寄ると、神妙な顔をしていた。

「太田さん? どうしました?」

 受付所のおばさん――太田さんを呼ぶと、ガラス越しに大きなため息を吐かれた。

「その様子じゃまだ知らないみたいね」

「何をですか?」

「ご住職が、ぎっくり腰で動けなくなっちゃったんだって」

 思わず目を見開くと、太田さんは「早く行ってあげて! お兄さんたちが修行でいないから恵留さんしか頼れる人いないんでしょうし!」と叫んで僕を追いやる。

 住職、とはもちろん、僕の父だ。

 そういえば母さんから何度か着信があったのを思い出す。電車に乗っていた時だったから、降りてから掛けようと考えていたのに、すっかり忘れていた。

 慌てて観光客のいない抜け道を駆けて行く。

 動けなくなっているというのは心配だが、病気で倒れたとかじゃなくてよかった。ぎっくり腰だったら、しばらく休めば、すぐによくなるだろう。内心ホッとしながら庫裡に帰ると、母さんが玄関に出て来た。

「母さん、ごめん。電話くれたのに、掛け直すの忘れてた」

「恵留。お父さんがぎっくり腰なの」

「うん、太田さんから聞いたよ。それで加減は?」

「しばらく休養しないとダメだって」

 ああ、困ったわあ、と母さんが呟く。本気で困っているのかなと疑いたくなるほど、口調はのんびりとしていた。

「法事とかは他のお坊さんたちに任せればいいけど、お母さんの習い事、全部休まないといけないじゃない?」

「え? 父さんの心配じゃなくて、自分の習い事の心配なの?」

「だってぎっくり腰よ? 本人は大変だけど、生死にかかわるような大病じゃないでしょ。そんなにお世話することもないけど、傍にいてあげないとねえ……」

 確かに、と口をつぐむ。

 母さんは毎日のように趣味の活動をしている。寺のことは住職である父さん以外にも、父さんのお弟子さんの僧侶が何人も働いているし、修行僧の雲水さんたちもいる。観光客相手の仕事は、事務員さんたちが十人ほどいるからまず困ることはない。

 昔は母さんも精力的にお寺の仕事に関わっていたそうだけど、やっぱり大変だったのか、〝息抜き〟と称して趣味の活動に出掛けるようになった。

 その気持ちもよくわかる。

 無理難題をふっかけて来る檀家さんや観光客の相手は、骨が折れる。それでも母さんはここぞという時には笑顔できっちりと寺の仕事をしているからさすがだ。

「お父さんがいないと進まない行事はしばらくないから、それだけは幸いだったわ」

「確かに八月の終わりの夏祭りまでないか」

「そうなの。二か月弱はあるし、年だけどいい加減それまでには治っているでしょうってお医者様が。大抵は一週間くらいで治るみたいだけど、二週間は絶対に安静にさせるつもり。できることならこの際一か月くらいは休んでもらいたいのよ。あの人いつも働きすぎだしね」

「そうだね」

 父さんは常に何かしら寺の仕事をしていて、丸一日休みというのはあまり聞いたことがない。うちの寺以外にも、あちこちの寺で法話会を開いたりしているし、少し前は仏教系の大学でたまに教鞭も取っていた。母さんの言う通り働きすぎだ。

「とりあえずお父さんに顔見せてあげて。あの人も恵留の顔を見たら安心するでしょ」

「うん、わかった」

 安心するのかどうかは置いておいて、靴を脱いで家に上がる。家は二階建ての日本家屋で、僕が生まれる少し前に建て替えたらしい。客間とリビングの間の廊下を通り、突き当たりにある父さんの部屋へ足を向ける。

 太田さんは僕しか頼れる人がいないと言ったけれど、実際は僕にできることは全然ない。僕は僧侶ではないから、法事関係は何一つ手伝えることはないし、観光関係のことは事務員さんたちがいる。

 やっぱり僕だけ弾かれているみたいだ。考えたくないのに、そんな言葉ばかりが頭をもたげる。鬱屈した感情を抱えながら、父さんの部屋の前に立ち、声を掛ける。

「父さん。恵留だけど、入るよ」

 障子を開け放つと同時に、真っ白い紙が何枚も舞い上がる。紙の掠れた音が部屋の中から響き渡った。

 部屋の中では布団の上に横になった父さんが、紙の束を必死に押さえつけている。その奮闘もむなしく、中庭から吹き込む風がさらにバサバサと白い紙を何枚も巻き上げる。そのうちの数枚が僕の足に引っ掛かってはためいていた。

 何だ、これ。履歴書? 事務員さんでも新しく雇うのかな。でもこんなに沢山? 寺の仕事って案外人気があるのだろうか。

「ぎっくり腰って聞いたけど、仕事したら駄目だよ。安静にしてなよ」

「あ、ああ……。ちょっとな。それ、そのままでいいから」

「そのままでいいって、動けないんじゃないの?」

 足に引っ掛かった書類をかき集めて部屋の中に入り、中庭に面した障子を閉めると、ようやく静寂が戻って来た。

「腰、大丈夫なの?」

「痛むが、徐々に良くなってきた。心配しなくても平気だ」

 絶対に嘘だと一目で見てわかるほど、父さんの額には脂汗が浮いていた。

「こんな状況になっても仕事? そんなに忙しいなら、僕が手伝うよ」

「いや……。寺の仕事を恵留には任せられない。恵留には自由に生きてほしいんだ」

 またその言葉だ。カチンときて、口を引き結ぶ。父さんが動けない非常事態なのに、結局僕一人、蚊帳の外。

「動ける人間がやればいいことだろ? それと『僕の自由』とは完全に別の問題だよ」

「だがな、この仕事は特殊な仕事で……」

「寺の仕事は全部特殊な仕事だよ。僧侶の資格がないと難しい仕事なら、誰か別の人たちに振り分けるようにして、それ以外の仕事を手伝うよ。やらせてよ」

「まっ、待て待て……。恵留に任せるわけには……」

 渋り続ける父さんに、今までの不満が合わさって苛立ちが増幅し、ついに決壊する。

「僕にやらせてよ! こっちが心配してること、何でわかんないんだよ!」

「――やらせてみたらいいではないですか」

 叫んだ瞬間、落ち着き払った声が、僕の後ろから響いた。

 反射的に勢いよく振り返った僕の前に立っていたのは、二人の男だった。驚いて喉が締まり、悲鳴を上げることもできないまま、ただただ父さんの方へ後ずさる。

 気配が一切しなかった。障子が開く音も、風の動きも感じなかった。まるで湧いて出たように、僕の後ろにいた。

 初めから部屋の中にいた? いや、僕がここに入った時点では誰もいなかった。まるで突然現れたような……。その時、二人の輪郭線が急にブレて曖昧になる。何度瞬きをしてみても、まるで陽炎のように、時折ゆらりと揺れる。

 ――なんだ、これ?

 急に背筋がぞっとする。後ろに付いた手が震え、肘も小刻みに揺れるけれど、息を詰めたまま二人を見つめることしかできない。

 一人は長い髪の長身の男。そしてもう一人は、ぼさぼさ頭の猫背の男。

 二人とも現代にそぐわない和服姿で、猫背の男のほうは、どうやら袈裟を付けているようだけど、ボロボロだった。

 もしかして、幽霊……?

「なるほど、君が真留くんの三番目の息子ですか?」

 ずいっと僕に向かって顔を寄せて微笑んだのは、猫背の男。長い前髪の隙間から覗く漆黒の瞳に、思わず身を引くと、意に介していないのかさらに顔を近づけて来る。

 真留は僕の父の名前だ。でもそれは本名で、僧侶としての名前はまた別にあり、普段寺にいる時は《宗雪》という僧名を使っている。だから寺の関係者や檀家さんは宗雪さんとか宗雪住職と呼ぶのが普通で、猫背の男が父の本名を呼んだことに違和感を覚える。しかも猫背の男はどう見ても二十代半ばくらいだ。五十一歳の父さんのことを〝くん〟付けで呼ぶなんて、おかしい。

「は、はい。烏丸恵留です」

「なるほど。――大きくなりましたね」

 そう言って、猫背の男は右手を差し出す。大きくなりましたね、って僕を知っているのだろうか。握手なのかなと戸惑いつつも僕もその手を握ってみると、温かかった。

 幽霊なんて、思い過ごしだろうか。

 いや、そんなことない。やっぱりおかしい。さっきから二人が纏う空気がどこか歪んで、輪郭線が曖昧になるような瞬間が時折ある。

 何度か目を凝らしてみても、やはり陽炎のように揺らぐ。

「はじめまして。わたしは烏丸五郎と申します。生まれは今から三百二十年前……、君のちょうど十代前の先祖に当たります」

 その瞬間、頭の中が一気に飽和状態になる。

 何を言っているんだろう、この人。三百二十年前? 十代前の僕のご先祖様?

 これは本気でヤバい。逃げ出そうとした僕の肩を、五郎さんが朗らかに微笑みながらも、がっしり掴んで引き留める。

「ついに恵留に知られてしまった……」

 ほとほと困り果てたように父さんががっくりと肩を落とす。ついに、って――?

「どういうこと? 父さん」

 父さんは、長い長いため息を吐いた後、押し黙ってしまった。こうなると、何を聞いても教えてくれないことは経験上知っている。

 そうだ。父さんは昔から僕には何も教えてくれない。僕だけ何かと真実から遠ざけられる。どうして僕だけ……。

 問い詰めたいのに、どう言ったらわかってもらえるのか見当も付かなくて言葉にならない。悔しくて、頭の中が沸騰するようにわあっと熱くなり、周りが見えなくなる。俯いた僕を庇うように、声が掛かる。

「――真留くん、恵留くんに話してあげてはどうですか?」

 その言葉に顔を上げると、五郎さんの輪郭がまた一瞬ブレる。これは一体何なのか。

 人間、なのか、それとも……。微笑みを湛えている五郎さんがまた大きく揺らぐ。

 あれ? 僕はこの揺らぎをどこかで見たことがある。あれは……。

「双宿院……?」

 無意識の内に僕から落ちた言葉に、父さんが勢いよく顔を上げた。そして「痛っ!」と叫んだ後、固まって動かなくなった。

「と、父さん!? 動くなよ! 大丈夫?」

 父さんを覗き込むと、脂汗がさらに浮いていて、枕元に置いてあったタオルに手を伸ばそうとすると、目だけ動かして父さんは僕を射抜く。

「……覚えていたのか、恵留」

「え?」

「双宿院のことを覚えているのなら、話は早いですね」

 どうして双宿院と呟いてしまったのか、正直自分でもよくわからない。

《双宿院》は黒羽寺の塔頭寺院の一つ。

 塔頭寺院というのは、寺の山内にある個別の寺院のことだ。江戸時代末期までは寺にゆかりのある高僧の墓の近くに弟子たちが小さな庵を建てて守っていたが、明治以降にそれらが〝末寺〟として独立して塔頭寺院と呼ばれるようになった。黒羽寺には、大小様々な塔頭寺院が境内の内外に五つあり、双宿院はその一つ。

 双宿院は僕たち烏丸家が住んでいる庫裡や、有料エリアの法堂などがある境内の中ではなく、塀の外の山の麓にある。庫裡から歩いて十分ほど掛かるし、ここで生まれ育った僕も、昔から一人では行ってはいけない場所だと教えられ、藪を抜けた先の薄暗い場所だということもあり、数えるほどしか訪れたことがなかった。

 数えるほどしか?

 そうだっただろうか。僕はそこで五郎さんのような輪郭が曖昧になる誰かを見たような――。

 考えようとすると頭の中に靄が掛かり、何も思い出せない。急にこめかみあたりが鋭く痛み、顔を顰める。これ以上思い出すな、と誰かに言われているみたいだ。

 俯いた僕の肩に、ぽんと手が置かれる。顔を上げると、五郎さんが微笑んでいた。

「君は、双宿院で何を見ましたか?」

 笑っている、はず。五郎さんの唇の口角は上がっている。でも、なぜか瞳の奥は深々と冷え、笑っているとは到底思えない。

「僕は何も……」

「いいえ、君は見たはずですよ。いいですか? 君がまだ幼い頃……」

「五郎さん、もうやめてくれ! いいか、恵留。全部忘れるんだ」

 いつかと同じように、父さんは『忘れろ』と言った。あれ、いつかって、いつだ?

 その瞬間、不可思議な光景が断片的に脳裏に差し込まれる。

 目が一つしかない誰か。羽が生えていたり、とても小さかったり、逆に大きかったり。そんな人ではない者たち。

 僕を、『食べる』と言った、あの体の芯から凍てつくような声。

「――……妖怪?」

 意図して言ったわけではなかった。本当に無意識の内にその言葉が勝手に落ちた。五郎さんは正解だというように頷いて、僕の肩から手を離す。拠り所を失ったように体から力が抜けて倒れ込みそうになる。

「――真留くん。恵留くんは己のことですから、知る権利があります」

「ですが恵留は……」

「もう恵留くんは幼い子供ではありません。判断できる歳ですよ。わたしが説明しましょう。恵留くん、幼い頃君は〝彼ら〟と会っているんですよ。はっきりとは覚えてないでしょうね。ですが、思い当たる節はあるでしょう」

「た、確かに、たまに変な夢を見るとは思っていましたが、夢か現実かわからなくて、夢だと信じていました。本当に僕が妖怪に会っているんですか?」

「ええ。君が彼らに会ったのは偶然ですが、理由があります。黒羽寺は代々妖怪たちにとって、とても重要な場所だからです」

 うちの寺が? 全然そんな素振りを感じたことはなかった。訝し気に眉根を寄せると、五郎さんが傍に落ちていた紙を一枚手に取って僕に差し出す。

「書かれている項目を読んでみてください」

 疑問に思いつつ、渡された紙に目を落とす。

「えっと……。名前、住んでいる場所、――種族? 寿命に、家族構成。職業、日々の過ごし方? 趣味。同居か別居か。人間社会との関わりの有無? ……『結婚相手に求めるもの』?」

 驚いて顔を上げると、五郎さんは「気づきましたか?」と悠々と尋ねて来る。

「これって、お見合いパーティーとかで書くものじゃ……。でも種族とか、寿命とかって、何で書く必要が……」

 急に一つの答えが頭に浮かぶ。紙を持つ自分の指先から熱が引き、体の芯まで凍えてぶるりと身震いする。

「もしかして、妖怪の履歴書……?」

 恐る恐る行き着いた答えを口にすると、五郎さんは満面の笑みで大きく頷いた。

「その通りです! 履歴書ではなく、《身上書》と呼んでいますけどね。黒羽寺は代々妖怪の縁組みを仲介してきたんですよ」

「妖怪の縁組みを仲介するって、つまり結婚相談所ということですか?」

「ええ。人間風に言えば、そういうことです。妖怪たちの間では、『黒羽縁組天泣堂』と呼ばれています。短く『天泣堂』と呼ぶほうが多いですかね。君は幼い頃、縁組みの相談に来ていた妖怪たちと、こっそり遊んでいたんですよ」

 寺の仕事は多岐にわたる。葬儀や法事だけでなく、それこそ昨今の婚活ブームで、黒羽寺も婚活パーティーのようなことを年に一回開催している。

 寺は、死に関する場所だけではないと、父さんが口癖のように言っていたのを思い出す。もちろんそれが寺の機能の大部分を占めてはいるのだけれど、人間と人間の縁結び――〝縁組み〟も大事な仕事だと。

 でもそれはあくまで人間対人間。妖怪の縁組みだなんて聞いたこともない。

「ちょっと待ってください。そもそも妖怪にも、結婚の概念があるんですか?」

「ええ、ありますよ。わたしは元々、妖怪の生態調査を業としていました。わたしも初めは、妖怪は勝手に増えていくと思っていましたが、実際はそうではありませんでした。大半の妖怪はそれぞれ伴侶を探し、結婚して子供を産み、子供がある程度育つまで育児をする。そして夫婦は最期まで添い遂げる――。我々人間と同じような生活を送っているんですよ」

「そんなの聞いたことも……」

「ないでしょう。妖怪の繁殖については、人間には一切秘密にされています。わたしは、長年の研究のおかげで妖怪たちの信頼を得て、知ることができました」

「どうして人間には一切秘密にされていたんですか?」

 尋ねると、五郎さんは俯いて小さくため息を吐く。

「人間にとって妖怪は、得体の知れない『恐ろしいモノ』なんです。つまり古来、人間にとって妖怪は駆逐対象でした。繁殖方法を知られて妖怪の子を狙われたら、ひとたまりもない。だから人間にはずっと秘密だったんです」

 僕の知っている〝妖怪〟という存在は、人間に友好的ではなく脅かす者。そして人間は妖怪を退治しに立ち上がる――。そういうイメージが確かにある。

「しかも妖怪たちにはそれぞれ寿命があります。人間より何倍も長く生きる者、二日しか命が続かない者、人間と同じく徐々に老いて死ぬ者、若さを保ったまま死ぬ者。種族によって様々です。一般的に人間の間で不老不死だとされている妖怪も、本当は寿命が長すぎて、人からしたら不老不死のように見えるだけなのです。彼らも必ずいつかは死にます」

 寿命はそれぞれだが、限られた時間の中で、自分の伴侶を探して子孫を繋げる――。妖怪も人間と同じプロセスの中で生きているんだ。

「わたしは妖怪たちも人間と同じような生涯を送ると知った後、妖怪の人口動態についても調査を始めました。増えているのか減っていくのか、そしてそれがどのような影響を人間に与えるのか知りたかったんです。しばらくして、妖怪は人間の台頭により年々活動範囲が狭まっていくのが如実にわかりました。時に人間に駆逐されたり、近年だと夜でも明るくなったことで往来の自由な行き来が難しくなり、孤立したまま伴侶に出会えずに死んでいくことが多くなっていったんです。わたしは彼らを調査しながら共に生きていく中で、数を減らし絶滅に追いやられた妖怪たちを目の当たりにしてきました。すると不思議なことに人間の世界も乱れることに気づいたんです」

「それは妖怪が減ると人間も困るってことですか?」

 いまいちぴんと来ず、首を傾げる。

「その通りです。妖怪たちは自力で結婚相手を探せなくなると、元々棲んでいた土地を出て、伴侶を探しに新しい土地に移住します。そして自らが棲みやすいように、元々そこに住んでいた人間を追い出してしまうんです」

「え、追い出してしまうんですか?」

「はい。人間から見れば追い出された感覚はないのですが、事故の多発や天災、もしくは治安が悪くなって、自然と人が消えて行きます。妖怪の仕業だと気づく人はいません。もちろん妖怪たちもなるべくなら棲家を変えないほうがいいと考えています。そこでわたしは、無理に棲家を変えて人間世界を乱すよりは、妖怪たちの縁組みを積極的に斡旋するのはどうかと思い、実家である黒羽寺に相談したんです」

 なるほど。それが天泣堂の設立の経緯なんだ。

 呆然と五郎さんの話を聞いていると、急によく通る声が部屋の中に響く。

「――我らも危機を感じているからこそ、相談に来ている。天泣堂の存在はありがたい。皆、棲家を変えるなんて、考えたくもないことだからな」

 振り返ると、ずっと黙っていた長身の男性が、壁に背を預けて腕を組みながらこちらを見ていた。

「我らも、って――」

 ああ、と気付いたようにその男性は壁から背を離す。途端に男性の姿が異形の者へと変化する。茶色の大きな翼が、ばさりと音を立てて背に生えた。長い髪は鬣のように茶色の羽根の束へと姿を変え、艶やかに輝いている。上がった口角はそのまま黒い嘴へと姿を変えた。