物心ついた時から、桃花は髪を飾るリボンが好きだ。

 中学校の地味な制服に程良くなじんでいた藍色や黒のリボンも、子どもっぽいのでつけなくなったピンクのリボンも、冬のお出かけに大活躍する赤いベルベットのリボンも、一本一本きれいに巻いて大切に箱にしまってある。十歳の誕生日プレゼントに両親からもらった、くるみの木でできたアクセサリーボックスだ。

 指輪やネックレスはまだ早いけれど、桃花の大好きなリボンを大事に取っておけるように、と。


 ありがとう。お父さんもお母さんも大好き。

 そう言ってはしゃぐ十歳の桃花に、両親は懐かしさを隠せない様子だった。

 父親の良介は「赤ちゃんの時から、桃花はリボンが好きだったな」とにこにこ恵比寿顔になり、母親の葉子は「覚えてないやろけど、リボン付きの帽子をえらいこと好きになってしもて、かぶったのを両手で触ってキャアキャア笑ってたんやで」とアルバムを持ってきてくれた。

 写真を見ると、確かにぷくぷくのほっぺをした赤ん坊の自分が、水色のリボンがついた白い帽子をかぶり、つばの部分を両手で握って幸せそうに笑っている。

 ただ、なぜそんなにリボンを好きになったのか、思い出せない。

 生まれ故郷の滋賀県大津市を離れ、京都市内に引っ越す今日この日になっても。



 新しい家は、京都市左京区の東のはずれ。芽吹いたばかりの春の緑がまぶしい、小さな丘のふもとの借家だ。

 家の西側にある、その丘の正式名称は分からない。両親が大家から聞いた話では、丘にある寺院の名前を取って「真如堂」だとか「くろ谷さん」などと呼ばれているらしい。

 この春から通うのは、市内の中心部に近い共学の公立高校だ。自転車で通える距離なのが嬉しい。

 ――滋賀県から来た子は、京都の人たちにいけずされる……って、ほんとかな?

 親友からの忠告を思い出して少し心細くなったが、ひとまず忘れておくことにする。

 新居に荷物が運び込まれて引っ越し会社のトラックが引き揚げた後、桃花はまず最初にアクセサリーボックスの無事を確認することにした。

 段ボール箱を開封し、通称プチプチ、気泡入りの梱包材を丁寧に剥ぎ取る。

 六年近く愛用して艶の現れてきた木肌には傷一つなく、蓋もなめらかに開閉できる。もちろん中身のリボンも無事だ。

「よしよし。長旅おつかれさま」

 桃花はアクセサリーボックスを膝に載せ、いたわるように撫でた。座布団で丸まっている三毛猫のミオが、「みゅーう」と甘えた寝言を漏らす。

 桃花は、(ミオが可愛くてたまらない)という顔をした両親と目を合わせて笑った。

「あれー? ミオ、わたしが『よしよし』って言ったから、自分が撫でられてる夢見たの?」

 小さな家族がことさら可愛く思えて、桃花はミオの額の毛をそっとなぞった。

「桃花、高校でも美術部に入るんやんな? 油絵でミオちゃん描いてや」

 葉子が、大きな鍋から梱包材を引きはがしながら言った。家族全員見かけによらずよく食べるので糸野家の鍋類はどれも大きい。

「ミオは毛並みがなめらかだから、パステル画でもいいと思うなあ」

「せやな。油絵の道具は高いし」

「そういえばお母さん、高校の制服、皺にならないようにしてくれた?」

 高校の制服は今時珍しいセーラー服だが、襟が大きめで可愛いので気に入っている。

「大丈夫、大丈夫。引っ越しの業者さんが、私らのスーツと一緒に専用の衣装ケースで運んでくれはったで。奥の部屋のクローゼットにかけてあるよ」

 葉子は包丁に巻きつけていたキッチンペーパーを外し、ためつすがめつしている。

「葉子さん、新手の剣の舞か?」

 良介が、空になった段ボール箱をたたみながら言った。四十代になってお腹が出てきたと最近ぼやいているが、その割に動きはテキパキしている。

「そんなわけないやろ。そろそろ研ぎに出さなあかんと思って」

「こっちにも、いい研ぎ職人さんがいるんじゃないか? 滋賀県にもいたんだから」

「せやな」

「京都でもおいしい料理お願いします」

 良介が拝むように両手を合わせ、葉子は「あっ」と声を上げる。

「おいしい料理って言えば、東隣のセイメイさんに引っ越し蕎麦持っていくの忘れてたわ。荷解きする前に挨拶するつもりやったのに」

「セイメイ?」

 桃花は「生命」という字を思い起こしたが、さすがに違うだろう。

「どういう字?」

「晴れるに明るいと書いて、晴明さんや」

「え、それってまさか……」

 桃花は、小学生の頃母親に付き合って見にいった映画を思い出した。

 主人公は、人気俳優が演じる安倍晴明だった。

 平安時代の高名な陰陽師。式神と呼ばれる不可思議な者たちを使役し、星の運行から吉凶を占ったという。その人気は、死後千年以上経った現在も衰えずにいる。

 桃花は、まだ眠っているミオの丸まった胴体をさすった。

「大変だー、ミオ。お隣さん安倍晴明だって。ミオ、式神にされちゃうかもよ?」

「そっちの晴明さんなわけないやろっ」

 桃花の期待通り、葉子は笑顔で突っ込みを入れてくれた。

「でも、下の名前は漢字まで一緒やで。さっき郵便受けをちらっと見たら、堀川晴明って書いてあってん」

「だったら『お隣のセイメイさん』じゃなくて『お隣の堀川さん』でしょ」

 桃花の指摘に、葉子は舌を出した。

「そやけどうち、安倍晴明のファンやからな。晴明さんって呼ぶ方がテンション上がるわあ」

「ただのお隣さんを下の名前で呼んだら変だよ」

「ええやんか、陰でこっそり呼ぶだけや」

 葉子は映画の原作となった小説を全巻揃え、安倍晴明を祀る京都の晴明神社のお守りも何種類か持っている。生まれ故郷の大阪に、晴明ゆかりの神社があるから信心しているらしい。

「晴明さんと言えば、桃花が赤ん坊の頃に三人で晴明神社に行ったよな」

 良介が、眠るミオをスマートフォンで撮りながら思い出話を始めた。

「あの頃はまだ安倍晴明ブームの前で、境内が閑散としててさ。桃花の泣く声がわんわん響き渡ってたよ」

「せや、そんなことあったわ」

 と、葉子が同調する。

「すごい泣き方やったで。社務所で厄除けのお守りいただいた後、本殿の前の晴明様の像の前へ連れていったんやけど」

「あ、その像知ってる。中二の時、友だちと京都へ遊びに来たもん。平安装束で、ちょびひげ生やしてるおじさんだよね」

 眉をひそめ、憂いを含んだ表情に覚えがある。

「あんた、あれ見た途端火ぃついたみたいに泣きだして、腕ばたばたさせて。うち、落っことすかと思ったわ」

 葉子が、赤ん坊を抱えているような手つきをしてみせた。

「えー、さすがに覚えてないけど、そんなにギャン泣きしたんだ?」

 良介が「うん、すごかったぞ」とうなずいた。

「あの時は通りすがりの男の人が、桃花をあやしてくれたんだよ。そしたらぴたっと泣きやんだ」

 意外な展開に、桃花は荷解き作業する手を止めてしまった。

「それって、どんな子守り名人? いきなりやってきて、よその赤ちゃんを落ち着かせるなんて」

「せやねん。不思議やったわあ」

 葉子は箱から剥がしたガムテープを丸めてゴミ箱へ放ったが、ふちに当たって落ちてしまった。そこへ、いつの間にか目を覚ましていたミオが「にゃにゃっ」と飛びかかる。

「ミオ、触ったらあかん。毛にくっつく」

「ほらミオ、それちょうだい?」

 桃花はガムテープの玉を拾い上げて、ゴミ箱に入れた。おもちゃを取られて不満そうに見上げてくるミオを、よしよしと撫でてやる。生まれてまだ一年なので、この猫はまだまだ遊びたがりだ。

 ――晴明神社で、赤ん坊だったわたしをあやしてくれた人。覚えてないけど、頑張ったら思い出せるような……。

「その男の人、どんな人だったの?」

 なぜか妙に気にかかるので、念のため聞いてみる。葉子は口元に指先を当てて、「うーん」と困惑気味に言った。

「昔のことなのに、なんか印象に残ってるんよねえ。年齢はあの頃のうちらと同じくらい……二十五、六歳で、ぴしっとしたスーツとネクタイやった。髪の色が明るめで、ちょっと吊り目のイケメンやったわ。十五年前にはそんな言葉なかったけど」

 良介が「そうそう、今で言うイケメン」とうなずく。

「おれもなぜかよく覚えてる。あの人がスッと近づいてきて桃花の額に手をかざしたら、すぐ泣きやんだ。びっくりしたよ」

「せやせや。催眠術でもかけられたんかと思て『今、うちの子に何しはったんですか?』って詰め寄ってしもた」

「お母さん、心配してくれたんだ。その人なんて答えたの?」

「それがな、笑えるねん」

 葉子は眉を軽く吊り上げた。

「こんなキリッとした真顔でな、こう言うねん。『驚かせてすまん。赤ん坊が石像を怖がって泣いていたから手で屋根を作ってやった』って」

 良介が「あー、そうそう」と合いの手を入れる。

「おれ、おばあちゃんの知恵袋的なもんかなあと思った。たとえば、しゃっくりが止まらなかったらびっくりさせろ、みたいな」

「うん、手で屋根を作るって、育児法っていうよりまじないみたいで不思議やったわ。でも実際、効いたんよ」

「ふーん……」

「面白い人だったよな。おれたちがお礼を言ったら、ちょっと困った顔で『たいしたことはない。それよりこのあたりで昼から呑める店を知らないか』って」

「あの時確か、ガイドブックに載ってた有名な蕎麦屋さんを教えたんやったねえ。昼からお酒が呑めるって書いてあったから」

 良介が、パン、と自分の膝を打つ。

「蕎麦って言えば、引っ越し蕎麦。お隣に持っていくんだろ」

「あっ、すっかり話が逸れてもうたわ。ちょっと待ってや、ジャジャーン。比叡山御用達の蕎麦やで」

 葉子が段ボール箱から紙包みを取り出した。今まで住んでいた滋賀県大津市では有名な店の蕎麦だ。

「お隣さんは一人暮らしみたいやから、この量で充分やろ」

「確か、大学の先生だったか?」

 良介が言った。

「そうやで。まだ若い先生で、今は研究のために長期休暇取ってはるって大家さんが」

「なら、おれもご挨拶行くわ。うまくしたら、桃花の進路相談に乗ってくれるかもしれん」

「ちょっと待ってお父さん、わたしまだ高校入学前だよ? 大学も学部も決めてないよ? 京都にある大学も把握しきれてないし」

「だから親しくなっておくんじゃないか。さ、行こう行こう。ミオが出ないように窓を閉めて、っと」

 居間の大きな掃き出し窓を閉める良介の背中を見て、桃花も葉子もため息をついた。

「お父さん、ちゃっかりしすぎ」

「ほんまやわ」

「ミオ。おとなしく留守番しててね」

 桃花の言いつけにミオはしっぽを左右に振って不満を表したが、子猫のぬいぐるみを座布団に置いてやると、「みい」と一声鳴いてぬいぐるみを抱えた。この三毛猫は、今も赤ん坊らしさを残しているのだった。


 隣の敷地との間には、低い生け垣がある。

 生け垣で囲まれた庭付きの一戸建てが、二軒くっついている形だ。

「めんどくさいから生け垣をくぐっていこう」

「一人でやらはったら?」

「お父さん、犬や猫じゃないんだから」

 良介の冗談に母子で突っ込みを入れつつ、一家は隣家の屋根付き門の前に立った。

 門扉は目の粗い格子戸になっていて、植木の点在する庭や古風な二階建ての木造家屋が見える。

 桃花たちの家は平成の初めに建てられたらしいが、この家はもっと古いようだ。窓枠がサッシではなく木でできている。

「こりゃ、建てたの昭和二十年代か三十年代じゃないか?」

「でも庭が立派やねえ、楓とか南天とか植わってて。うちもやってみる?」

「大家さんに相談しないとなあ。あっ、京都の植木屋さんって高いのか?」

「一見さんお断りやろ。知らんけど」

「二人とも、インターホン押すよ?」

 ボタンに手を伸ばしかけた桃花は、あっ、と声を上げた。

 磨りガラスの嵌まった玄関の引き戸が開くのが、格子戸越しに見える。

 出てきたのは、シルエットの細長い、背の高い男性だ。こちらへ歩いてくる。琥珀色の髪をいくらか後ろに流しスーツを着た姿は、二十代後半の青年と思われた。

「ちょうど出かける時に来ちゃったのかな?」

 ひそひそ声で言いながら両親を振り返ると、二人はそろって口を開けていた。

「どうしたの、すごい顔して」

「そっくりやわ」

 葉子が言う。無言で良介がうなずく。

「誰に?」

「さっき話してた、晴明神社で会ったイケメンに」

「でも十五年前の話でしょ?」

 そう言っている間にも、長い足をよどみなく動かして青年が近づいてくる。

 門の格子戸が開いた時、桃花は「狐だ」と思った。青年の色白で端整な細面と切れ長の目は、稲荷の社を守る白狐に似ている。

「うちに何か?」

 立ち尽くしている親子を、琥珀色の目が不審そうに見返す。

「突然すみません。隣に越してきました、糸野と申します」

 良介が言い、葉子と桃花は「初めまして」と声を揃えておじぎした。

「ああ。よろしく」

 低い、陰鬱な声で青年は答え、典雅な身のこなしでおじぎをした。かっこいいけど憂鬱そうな表情、と桃花が思っていると、葉子が笑顔で蕎麦の包みを手渡した。

「これ、滋賀県の大津市で人気の蕎麦です。よかったらどうぞ」

 よかったらと言いながらも、葉子は相手の胸元にずいっと蕎麦を差しだしている。

「ありがとう」

 さほど嫌そうではなく、かといって嬉しそうでもない表情で青年は礼を言い、蕎麦を受け取った。

「どういたしましてー。大学で歴史か何かの研究をしてはって、今はそのための休暇中って、大家さんに聞きましたけど……大変ですよね、研究のお仕事は」

 ああ、と青年はあいまいな調子でうなずく。良介が身を乗り出した。

「うちの娘、この春から市内の高校に通うんですよ。進路に迷うことがあったら助言してやってくれませんか」

「お父さんっ。初対面の人に何言いだすの」

 桃花に肩をぐいぐい押されて、良介は「おおう」と軽くよろめいた。

「二人とも、漫才しなや。すみません、やかましゅうて」

 いや、と青年は愛想のない調子で返事をした。

「せや、やかましいって言えば、うちにはミオっていう猫がいてるんです。もし鳴き声が大きかったらすみません」

 青年の細面に、かすかに微笑が浮かぶ。

「気遣いありがとう。猫は嫌いではないから、気にならない」

「あの、堀川さん」

 良介がまた身を乗り出した。

「いきなりですけど、年上のご親戚で、あなたそっくりの男性がおられませんか? 十五年前、晴明神社でよく似た方にお会いしたんですけど……」

「いや、そういう親戚はいない。なぜ?」

「よう似てはるんですよ」

 葉子が桃花の両肩を後ろからつかむ。

「赤ちゃんだったこの子を晴明神社に連れてったら、晴明様の像を見た途端怖がって泣きだしてしもて」

「お、お母さん、ちょっと待ってよ。関係ない人にそんなに喋ったら迷惑でしょ」

 恥ずかしさで顔が熱くなるのを自覚しながら、桃花は言った。しかし青年は、「いや、聞きたい」と言いだした。

 勢いを得たように、葉子が続きを話しはじめる。

「あなたによう似た人がすーっと近づいてきて、この子の額に手をかざしはったら泣きやんでくれたんです。びっくりしたけど、ほっとしました」

「妻の言う通りです。本当に、助かりました」

 まるで恩人本人に話しているかのように、良介が目の前の青年に言う。あるいは、両親ともに初対面の青年に魅入られているかのようだ。

 ――うちのお父さんとお母さん、初めて会う人にここまで馴れ馴れしかったかな?

 桃花は疑問に思ってしまう。

 青年は「なるほど」と短くコメントして、手に持った蕎麦の包み紙に目を落とした。印刷された店名や、創業二百年の老舗だという由来を読んでいるようだ。

「せや、失礼ですけど堀川さん、蕎麦をゆでる時の鍋とかザルとか、持ってはります?」

 葉子が言うと、青年は軽く小首をかしげた。なめらかな額に、琥珀色の前髪が一筋かかる。

「鍋はあるが、ザルはない」

「やっぱりそうやった!」

 葉子はクイズに正解したかのように、ポンと両手を打った。

「男の一人暮らしってそんな風になりやすいんですよね。実家の弟と、うちの旦那も昔そうやったんですー」

 葉子に肩を叩かれ、良介は「いやあ」と照れくさそうに頭をかく。

 ――やだ、お父さんとお母さん、「バカップルモード」に入ってる……。初対面の人の前で……。

 桃花は恥ずかしさでまた顔を熱くした。

「ほな晴明さん、ザルとか缶入り蕎麦つゆとか持ってきますし、待っててくださいね」

 陽子の申し出に、青年がさすがに意外そうな顔をする。

 ――お母さん、「関西のおせっかいなおばちゃんモード」だ……。晴明さんって呼んじゃってるし。

「いや、そんなに色々もらっては悪い」

「いえいえ、ご遠慮なく! ザルは京都で老舗のええの買おうと思ってましたし! 良介さん、台所用品の箱開けるの手伝って。ケーキの型やらかき氷器やら、めっちゃカオスやねん」

 あけっぴろげに言うと、葉子は風のような勢いで良介を連れて家へ戻っていってしまった。

 玄関先に取り残された二人の間に、沈黙が降りる。桃花は、そっと晴明の横顔を盗み見た。琥珀色の髪と瞳が陽光を浴びて艶めいている。額から鼻梁にかけての硬質なラインが、唇のあたりで急速に柔らかくなる。

 ――この人を描くなら、使う画材は透明水彩がいいな。透明感があって、発色が良くて、ぼかすと瞳や唇が色っぽく描けるの。

 心の中の独り言を聞きつけたかのように、琥珀色の瞳が桃花を見下ろした。

 思わず肩をすくませ、なぜか心臓のあたりを両手で守りながら桃花は口を開く。

「あ、あの。すみません。うちのお母さん、じゃなかった、母はたまに押しが強いですけど、人の世話するのが好きなだけなんです」

「そのようだな。昔も、昼から呑める店を教えてくれた」

 低く心地の良い声に桃花はぼうっとしかけたが、内容に気がついて「えっ」と声を上げた。あの思い出話で、葉子はガイドブックに載っていた蕎麦屋を教えたと言っていなかったか。

「今、何て?」

「何でもない」

 さらりと流すと、晴明は後ろの玄関口へ目を向けた。

「さっきも言ったが、もらってばかりでは悪い。家族の分まで茶菓子でも持っていくといい」

「え、いいんですか?」

「ああ」

 背を向けて晴明が玄関へ歩いていく。敷石を踏む歩幅が大きい。植えられた青い楓が、晴明がそばを通った時だけしなやかにうねった気がした。

「来ないのか?」

 晴明が振り返る。桃花は「いえっ」と言いながら後を追う。後ろ姿に見入っていたなどと、とても言えない。

 ――でも、会ったばかりで家に上がりこむなんて悪いかも。玄関先で待っていよう。

 しかしその遠慮は、晴明が引き戸を開けた途端に霧消してしまった。

 土間を上がってすぐの板の間に、大きな天体望遠鏡が設置されている。他にも陶磁器を収めた戸棚、観葉植物、山積みの本などが所狭しと置かれている。その中でも、天体望遠鏡は抜群の存在感を誇っていた。

「すごい! バズーカみたい!」

 桃花は感嘆しながら板の間に上がった。興奮していても、靴を揃えるのは忘れない。

「これって、土星の輪っか見られます? プレアデス星団の星も一個一個見られます?」

 立て続けの質問を、晴明は少し嬉しそうな微笑で受け止めた。

「ああ。見られる」

「すごーい!」

「しかし、バズーカというのは、何だ?」

 切れ長の吊り上がった目を持つ晴明がきょとんとした幼い表情で尋ねてきて、桃花は二重の意味で動揺した。

「えっ……。バズーカって、ご存じないですか?」

 まさかと思いつつ桃花が聞くと、晴明は無言で首肯した。

 ――映画や漫画で見たことないのかな?

 嘘でしょう、と思ったが、いざ説明しようとするとうまくできない。困惑していると、晴明が口を開いた。

「携帯用の対戦車ロケット砲。円筒形の砲身に弾丸を詰めて、肩に乗せて発射する」

 辞書を読み上げるような口調だ。桃花はまた顔が熱くなるのを感じた。

「知ってるじゃないですかっ」

「うむ。冗談だ」

 真面目な顔つきで言うと、晴明は襖を開けて奥の部屋へ入っていった。

 ――わたし、今、いけずされた……?

 その場に立ち尽くす桃花の脳裏に、琵琶湖が波立つ懐かしい光景が広がりはじめた。

 あれは二月の上旬、京都への旅立ちを親友に告げた日のことであった。



 琵琶湖の上空から比叡山へ、夕焼け色に染まった雲が渡っていく。

 二月の冷たい夕風は、空だけでなく地上にも容赦なく吹きつけてくる。

 桃花は制服のスカートを押さえた。冬の寒さには強い方だが、ひだの多いスカートは風をはらむと膨らんでしまうから面倒だ。

「桃花ちゃん、高校どこ行くか決めた?」

 隣で同じようにスカートを押さえて歩きながら、親友の里奈が言った。同じ中学三年生だが、童顔だと言われる桃花と違って顔立ちが大人びている。

「ええとね」

 桃花は背後を振り返った。涸れた田んぼと琵琶湖と住宅地が見えるばかりで、人影はない。前方を確認してみる。こちらも、誰もいない。

 ――今なら、うっかり泣いてしまっても大丈夫。

 言うなら今だ、と桃花は思った。

「あのね、里奈ちゃん。わたし」

「何? 泣きそうな顔しちゃって」

「……お父さんの、仕事の都合でね。高校から京都へ引っ越すの」

 そう打ち明けたとたん、里奈は「だめだよっ」と肩をつかんできた。

「わわっ」

 桃花はよろけながら立ち止まる。

 ――ごめんね里奈ちゃん。小学校から一緒だったから、さびしいよね。わたしもさびしいよ。

 そう思うと、涙がこみ上げてくる。

「京都なんてだめ。心配だよ!」

「里奈ちゃん、京都と大津なら、電車ですぐだよ。土日に会えるよ?」

 桃花は半分自分を励ますつもりでそう言った。しかし、里奈は「心配してるのはそこじゃない」と首を振った。

「あのね桃花ちゃん」

「うん、何?」

「あんたは素直すぎる。外見も中身も」

 里奈の人さし指が、びしりと桃花に向けられる。

「まん丸くてでっかい目、ちょっと垂れた眉、そしてぷにぷにのほっぺ」

 里奈は、そう言いながら頬をつまんできた。

「わああ」

「おお、あいかわらずのすべすべもち肌。太ってるわけじゃないのに何なのこの柔らかさ」

「やめてよー」

「とにかく」

 里奈の指が離れ、二人は再び歩きだす。

「あんたはもう見るからに、だましやすそうなベビーフェイスなのよ」

「ベビーって。そりゃ、里奈ちゃんみたいに大人っぽくないけど」

「桃花ちゃんが京都人に悪さをされないか、私はとても心配」

「心配って、そっち?」

「何だと思ったのよ」

 仮定とはいえ悪い予想を口に出したくなくて、桃花は一瞬戸惑った。

「会えなくなって、友だちじゃなくなったらどうしよう、って心配じゃないの?」

「何それ。その時はその時」

 きっぱりと里奈は言った。基本的にあり得ない、と言いたげな口調で。

「京都人ってさ、いけずなんだよ。よく言ってるじゃない。テレビとかネットとかで」

「まあ、聞いたことぐらいはあるけどー……」

 桃花も里奈も、京都に知り合いはいない。二人の住む滋賀県大津市と京都市街の間には、山が壁のように連なっている。直線距離ならほんの数キロだが、ある意味別世界だ。

「桃花ちゃん。滋賀県生まれだからって京都人にいけずされないように、気をつけて」

「あ、ありがと。でもさ里奈ちゃん。京都の人ってそんな、悪い人たちじゃないと思うよ? 夏休みに遊びに行った時だって、親切だったでしょ? お土産屋さんとか、バスの運転手さんとか」

 桃花は比叡山を見上げながら言った。山頂から西側は、もう京都市だ。

「さあ、どうかなあ。お金を落としていってくれる観光客にだけ、親切なのかもよ?」

「り、里奈ちゃん……。辛辣……」

 小説で読んだ「辛辣」という言葉を、桃花は初めて使った。相手が読書好きの里奈なら、安心して難しい言葉を使える。

「辛辣じゃないよ、雑誌に載ってたもん。お呼ばれに行って長居すると、『ぶぶ漬けでもどうどすか?』って言われて、真に受けて『はい』ってごちそうになったら、『図々しい』って笑われるの」

「ああ……」

 里奈が言っているのは、都市伝説のようなものだ。

 ぶぶ漬けは、京都の言葉でお茶漬けのことだ。「お茶漬けでも食べていきませんか」と口では言っても、裏の意味は「そろそろ帰ってください」。言われた方は長居したのを察して帰るのが正解らしい。

 赤信号で立ち止まると、里奈は二の腕をつついてきた。

「桃花ちゃん、『ぶぶ漬けどうどすか?』って聞かれたら、ちゃんと帰るんだよ?」

「うん」

「いけずされたら、私に言いなさいよ? やっつけてやるから」

「そんなに、里奈ちゃんに迷惑かけられないよ」

「いいって。京都人が桃花ちゃんをいじめたら、京都に流れてる琵琶湖の水を止めてやるから」

 里奈は、顔をくしゃくしゃにして笑った。その目尻に涙が浮かんでいるのに気づいて、桃花はハンカチで拭いてやる。

 近くの家の石塀から、早咲きの白梅が枝を伸ばしている。吹きつける夕風の中で、けなげに花を咲かせている。

 梅が散り、桜が咲く頃にはもう自分は山の向こうにいるのだと思うと、桃花は少しだけ心細くなってくるのだった。



 襖が再び開く音で、桃花は追憶から覚めた。

 和菓子屋の名前が入った紙袋を手に、晴明が板の間を歩いて戻ってくる。

「粒あんは好きか」

「甘い物はみんな好きです」

「そうか」

 渡された紙袋には、薄紙で包まれた一口大のまんじゅうがいくつも入っていた。

「ありがとうございます」

「白あんとうぐいすあんもあるが、こしあんはない」

 残念そうな響きを感じ取って、桃花は可笑しくなる。こしあんが好きなのか、それともおすすめなのか。

 ――さっきは冗談を言われただけなのに、いけずかと思っちゃった。ごめんなさい晴明さん。

 気がつけば自分も心の中で「晴明さん」と呼んでしまっているのは、この青年にどこか面白みを感じているからかもしれない。

「天文の研究もなさってるんですか?」

 大きな望遠鏡を見ながら桃花が言うと、晴明は「いや」と否定した。

「大きな望遠鏡があるから、てっきり……」

「専門はこっちだ」

 晴明が棚の引き出しを開いた。

 目の前に広げられたのは、何十羽もの烏が描かれた紙だった。

「何ですかこれ?」

「熊野神社の牛王宝印」

「ごおうほういん?」

「昔からある護符だ。他にこういう、土を焼いた人形もある」

 次に出てきたのは、白い馬に乗った狐の人形だった。狐は袖のたっぷりした衣をまとい、すまし顔をしている。

「可愛い。これは?」

「伏見人形だ。江戸時代の子どもの玩具で、子どもの成長を願う心が込められている」

 晴明は、伏見人形を手に載せてくれた。子ども向けなのもうなずける軽さだ。

「こういうのを研究されてるんですねー」

 桃花の言葉になぜか晴明は答えず、

「晴明神社で私に会ったそうだが」

 と聞いてきた。

「あっ、それは、よく似た人ですよ絶対。わたしが赤ちゃんの頃って、十五年前ですもん。その人はもう、四十過ぎくらいのはずですよ」

「あの時、水色のリボンがついた白い帽子をかぶっていなかったか?」

「え、帽子? ……あっ」

 桃花は、以前両親に見せてもらった古い家族写真を思い出した。水色のリボンがついた、白い帽子だ。両親の話では、赤ん坊だった自分はそれをとても気に入っていたという。

「泣きやんだ後、私がリボンを褒めたのを覚えているか? 『よく似合う』と」

 知らないはずの情景が、脳裏に浮かぶ。

 目の前にかざされた大きな手、琥珀色の瞳、唇にたたえられた微笑。

「よく、分かりません……。今、ぼやっと、思い出したような、空想しただけのような……」

「そうか」

 晴明の声は少しだけ残念そうで、こんなおかしな状況なのに桃花は申し訳ない気持ちになる。

「……でも、どうしてわたしがかぶってた帽子を知ってるんですか? あなたは、いったい」

「陰陽師、安倍晴明。あの親子にまた会うとは思わなかったな」

「……そんなに真面目な顔で、陰陽師だなんて映画みたいなこと言われても……」

 父親である良介は冗談を言う時必ず笑顔になるが、この青年は真顔でとんでもない冗談を言う癖があるらしい。どう言葉を継いだものかと戸惑っていると、ミオを呼ぶ両親の声が聞こえてきた。

「ミオーッ。帰ってこーい」

「ミオーッ」

 ――何、何があったの? 帰ってこいってことは、逃げちゃったの?

「家の戸締まり、したっけ……? お父さんが居間の窓を閉めるところを、見ただけだった……お父さんに任せっきりで」

 気がつくと、独り言が口をついて出ていた。晴明が一方の眉を神経質そうに上げる。

「ミオとは、家の猫か」

「はい……心配だから、帰ります! 失礼します!」

 帽子の件はまだ質していないが、ミオのことを考えればそれどころではない。水色のリボンがついたベビー向けの帽子など、ありふれている。適当に言った冗談がたまたま当たっていただけに違いない。

 桃花は玄関を出て庭をまっすぐ駆け抜け、門の格子戸を開けるのももどかしく道路へ出てすぐ右に折れ、自宅の門を通って前庭に入った。両親の声は建物の向こう、つまり裏庭から聞こえてくる。

「ミオがどうしたの!」

 家の脇を駆け抜け、裏庭へ出た。帰ってこいということは、まさか。

「お父さん、お母さん」

「桃花……」

 父親が申し訳なさそうな顔で振り向いた。母親は大きな声でミオを呼び続けている。

「すまん、桃花。台所の窓から出たみたいだ」

 裏庭からは、台所の窓が見える。高い位置にあるそれは、十センチほど開いていた。

「お父さん、あそこ開けっ放しにしてたの?」

「すまん。ミオはもう大きいから狭い場所は通れないと思って、五センチくらい開けて空気の入れ換えを……」

「お父さん……ミオは賢いから、前足で押して開けちゃったんじゃない?」

「うっ、そうか」

 母親がきつい表情で振り返る。

「今はとにかく、呼びながら探しや! 桃花は敷地の外! 良介さんはキャットフード開けて、お皿何枚かに分けて持ってきて」

「わ、分かった。おびき寄せるんだな」

 父親が台所へ駆け込んでいく。

 桃花も、弾かれるように前庭へ出た。

 ――まだそんなに遠くへ行ってないはず。まわりをよく見なきゃ。

「逃げたのか、猫が」

「えっ」

 不意に声をかけられて、桃花は後ろを振り返った。低い生け垣の向こうに、晴明が立っている。

「どんな猫だ」

「三毛猫でしっぽは長くて、目は茶色です! 見ませんでしたかっ?」

「見ていないが、一緒に探そう」

「えっ」

 ありがたい申し出に、桃花は思わず晴明の目を直視した。髪と同じ、琥珀色の目が陰鬱そうにこちらを見返している。

「陰陽師だと言ったろう」

 淡々としている晴明の後ろで、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開く。出てきたのは、十歳ほどの少年だ。まるでどこかの私立小学校の制服のような、白いシャツとベージュのスラックスを身に着けている。

 ――他にも人がいたの? 全然物音がしなかったけど。

「親戚の子ですか?」

 桃花が聞くと、晴明は答えずに少年を振り向いた。

「猫を呼べ。名前はミオ」

 簡潔な指示に少年はうなずくと、すぐに「ミオー!」と声を上げて呼んだ。

 裏庭の方から、両親の「えっ」という声がする。予期せぬ助太刀に驚いたのだろう。

「写真があると助かるが」

 晴明に言われ、桃花は居間へと駆けこんだ。荷解き途中の段ボール箱から四角い写真立てをつかみ出して戻ってくると、「早いな」と感心する晴明に見せた。

「これ、ミオです」

「ああ」

 晴明の手には、なぜか筆と和紙があった。

「猫の生まれた日は分かるか?」

「一年前の四月十日です。ミオをもらったお家から聞きました」

 答えた後で、これって聞く必要あるのかな、と気づく。晴明は筆で和紙に何か書きつけている。

「そうか、この家は里親か。生まれた場所は?」

「滋賀県大津市の、唐崎です」

「よく食べていたものは?」

「鶏のささみです」

 答えながら桃花はだんだん不安になってきた。急いでミオを探したいのに、なぜそんなことを聞いてくるのだろう。

「今更だが、君の名前は」

「桃花です」

「よし」

 晴明が和紙をたたんだ時、良介が前庭へ出てきた。

「あ、お父さん。あの子がわけを聞いて、呼んでくれてるの」

 桃花が男の子を指さす。

 澄んだ声で「ミオー」と呼び続ける男の子を見て、良介は晴明に「すみません」と頭を下げた。

「引っ越して早々、お騒がせして……」

「大変!」

 良介の言葉を、葉子の悲鳴がさえぎった。青い顔をして、早足で歩いてくる。

「どうしたの、お母さん!」

「足ふらついてるぞ、葉子さん」

 良介が心配げに走り寄り、葉子はすがるようにその手を取った。

「今さっき、ミオを呼んでたら、ご近所の方に話しかけられたんだけど……」

 葉子は手を頬に当て、首を振る。信じたくない、とでも言うように。

「何て言われたんだ?」

 良介がうながした。

「最近、猫が虐待される事件が、左京区や隣の北区で続いてるって……この間も、刃物で傷つけられた野良猫が何匹も保護されたって……」

 足元で砂利が鳴る。

 自分の体が震えていることに桃花は気づいた。

「交番に届けよう。ミオの写真を印刷して、貼り紙も」

 良介が力強い声で葉子に話しかけ、二人は玄関に入っていく。

 置いていかれたような気分になって、桃花は鼻の奥がツンとした。泣きだす直前によく似た感覚だ。

 自分の脚を見る。震えは止まらない。今しも自分の身に刃物が迫っているような強い不安にとらわれて、声も出せない。

「不埒者がいるようだな」

 そのつぶやきに引き上げられるようにして、桃花は顔を上げた。

 生け垣の向こうで、晴明は怒気をはらんだ目つきをして立っている。その隣では、男の子が無表情にこちらを見守っていた。

「私にできることがあれば、何でも言ってほしい。このあたりの見回りもしておく」

「えっ、あ、ありがとうございます」

 親身な言葉をかけられて、桃花はおろおろしながら礼を言った。晴明の怒った顔は恐ろしいが、これは顔も知らぬ犯人に向けた感情なのだろうか。

「それから、これを。気休めにしかならないが……よければ持って帰って玄関に貼るといい」

 晴明が差しだした和紙を、桃花はいぶかりながら受け取った。

 裏返すと、何か文字が書いてある。

  立ち別れ いなばの山の 峯におふる まつとしきかば 今帰りこむ

「和歌、ですか?」

 百人一首かるたで見かけた覚えがある。「松」の木と「待つ」をかけた歌だ。こんな時だからか、「帰」という字がひどく頼もしく見える。

「昔から用いられている、猫を呼び戻すためのまじないだ。本当に、気休めですまないが」

 晴明は、励ましてくれているらしい。表情には翳りがあるが、声があたたかい。

 書きつけられた和歌を見つめる。

 現実的に有効な手段は何一つ取っていないのに、なぜか震えが止まっていた。

 まるで、よく効く薬を飲んだかのようだ。

「晴明さん」

 足元の地面を確かめるような思いで、桃花は目の前の青年を呼んだ。

 返事の代わりに、晴明は琥珀色の目で見返してくる。

「まさかとは思いますけど、本当に、陰陽師なんですか……?」

 晴明は黙っている。

「もしかして本当に、昔わたしを泣きやませてくれた人と同じ人なんですか……?」

 陰陽師だから、十五年前から歳を取っていないのか。いや、あまりにも非現実的だ。

「……なんて、そんなわけ、ないですよね。ミオがいなくなって、心配で混乱してるのかも。お父さんとお母さんが昔あなたと似た人に出会ったから、あなたのことを何か不思議な存在だと思いこみたいのかもしれないです」

 晴明は何か言おうとしたようだが、おだやかに目を細めただけだった。

 かすかに笑みを浮かべる晴明の顔に、桃花はつかの間見入った。晴明神社で見た安倍晴明像とは似ても似つかないが、憂いを含んだ眉だけはそっくりな気がする。

 短い沈黙を、桃花は肯定と受け取った。十五年間姿の変わらない人間も、現代の陰陽師も、いるわけがない。

「……ありがとうございます。このお札、きっと効きます」

 桃花はおじぎをして身を翻したが、すぐ足を止めた。

「忘れてた、ザルと缶入りのめんつゆ! お札を玄関に貼ったら、持ってきますね」

「あまり急ぐと転ぶぞ」

 真顔で晴明が言うので、桃花は脱力してしまう。まだ、何者なのか警戒はしてしまうのだけれど。

「そうだ、あなたも、ミオを呼んでくれてありがとう」

 桃花に礼を言われて、男の子は「はい」と返事をした。

 足早に家の玄関へと向かう。早く、捜索のために動かねばならない。



 遅くまであちこちの店に貼り紙を依頼しながらミオを探し回ったその夜、桃花は夢を見た。

 ミオが、刃物を持った男に追いかけられている。助けてやりたいのに、桃花は体を動かせない。

 ――誰か、助けて!

 桃花が叫ぶと、黒光りする球が落ちてきて男を直撃した。

 ――にゃーん。

 しっぽを立てて寄ってくるミオを、桃花は抱き上げた。

 ――何が落ちてきたの……?

 ミオはこわごわと、倒れている男に近づいた。黒光りする球をよくよく見れば、石でできた大きな桃の実だった。

 ――これ、晴明神社にあった桃!

 晴明神社の拝殿前には、烏帽子をかぶった安倍晴明の他にもう一つの石像がある。厄払いの桃の実だ。

 ――晴明神社の晴明様が、助けてくれたのかな。

 ミオを撫でていると、スーツを着た青年が近づいてきた。

 ――あっ、お隣に住んでる方の晴明さん。

 そう呼ばれて、背の高い隣人は苦笑を浮かべた。

 ――ミオが、帰ってきましたよ! 晴明神社の晴明様が助けてくれたんです。

 ――蕎麦をもらった礼だ。

 ――えっ?

 桃花は首をかしげる。もしやこの人が、ミオを助けてくれたのだろうか。晴明神社の桃の石像を上から落として。

 直感のままに、桃花は口走っていた。

 ――やっぱりあなたは、本当に。

 晴明は、楽しそうに口角を上げる。

 ――猫は無事だと、夢で教えに来た。

 ――あっ、これ、夢なんですか?

 桃花が問うているうちに、視界は暗くなってきた。夢から覚める直前の、独特の浮遊感に体全体が包まれる。

 ニャーオ、ニャーオ、と必死で鳴く猫の声が聞こえる。

 夢ではない。家の外から響いてくる。

「ミオ!」

 がばりと起き上がった桃花は、ベッドから降りようとして転げ落ちた。うっかり絨毯に置いたままだった、ミオを捜索するための貼り紙の残りに尻餅をついてしまう。

「あいてて」

 すぐに立ち直り、カーテンをつかんではね上げた。窓を開け、前庭を見下ろす。

「ミオ……。何してるの……。もうっ」

 怒った口調とは裏腹に、桃花の目に涙があふれてくる。

 庭の隅に駐めた自転車のサドルに座って、ミオが口を大きく開けてニャーオ、ニャーオと鳴いている。

 桃花はパジャマのまま部屋を飛び出し、階段を駆け下りて玄関を開けた。

 サドルから下りたミオが、しっぽを立ててニャオンと鳴く。

「つかまえたー!」

 ミオを抱きしめる。扉を開けたままの玄関からパサリとかすかな音がして、桃花は振り向いた。

「あ、おまじないのお札」

 玄関に貼るように言われていたあの紙が、土間に落ちてしまっている。セロテープを使って貼った時に、ホコリがついていたのだろうか。

「それより、どこ行ってたの? ミオ」

 抱いたミオの目を覗き込んだ時、桃花は今さっき見た夢を思い出した。

《やっぱりあなたは、本当に》

 夢の中で自分は、直感のままにそう尋ねようとした。あの隣人は、それをさえぎるようにして何と言ったか。

《猫は無事だと、夢で教えに来た》

 ――本当にあの人は晴明様で、お札は気休めじゃなく本当に効いて、そしてわたしの夢に入ってきた、とか……? まさか。

「ニャッ」

 桃花の胸を前足で押しのけるようにして、ミオは地上に飛び降りた。

「あっ、こら」

 また行方不明になってはおおごとだ。

 捕まえようとすると、ミオは生け垣の下をするするとくぐって隣の敷地に入ってしまった。

「ミオ、うちはこっちだってば」

「ニャオ」

 隣家の玄関先に行儀良く座ったミオは、桃花の方を向いて鳴いた。こっちへ来い、とでも言うように。

「もう……」

 まだあたりは薄暗い。隣人を起こさないようになんとかしてミオを連れ戻さなければ、と思った時、玄関が開いた。

「あっ、おはようございます」

「……おはよう」

 早くもスーツを着ている隣人は、陰鬱そうな声で応えた。続いて、男の子が出てきてミオを抱き上げる。

「ありがと、捕まえてくれて」

 桃花が言うと、男の子は「はい」とだけ返事をした。歳の割に無口な気がする。

「晴明さん、ありがとうございます。うちのミオ、帰ってきました」

「ああ」

「すみません、なんでかそちらの敷地に入っちゃって」

「結界の内側だから心配しなくていい」

「は?」

 言っている意味が分からない。

「君の家とこの家は、同じ植物でできた生け垣で囲まれている。そこから猫が出ないように結界を張った」

 桃花は、緑の生け垣を見回した。確かに、同じヒイラギの木を使っているようだ。

「実際に見せた方が早いか」

 晴明は男の子の手からミオを抱き上げると、地面に置いた。

 ミオはトコトコと歩きだし、今度は生け垣から東側の細道へ出ようとする。

 待って、と大声で叫ぼうとした桃花は、慌てて口を押さえた。

 生け垣に頭をつっこんだミオは、すぐに身を翻して戻ってきたからだ。

「生け垣を利用した、あの猫専用の結界。あの猫にだけ有効な壁を作ったわけだから、この二軒の敷地から出ることはない」

 桃花は、まばたきをして晴明を見た。晴明の表情は落ち着いていて、嘘をついているとは思えなかった。

 戻ってきたミオを、晴明が抱き上げる。

「自分で猫を飼うとなると十数年は面倒を見てやらねばならないが、こうして隣の家の猫が出入りするのは嬉しいからな。勝手ながら、そちらの家も含めて結界を張らせてもらった」

 桃花がじっと見つめていると、晴明は薄く笑った。

「……というのは冗談だ。猫が嫌う薬品をこの二軒の周囲に撒いた。大学でそういう研究をしている知り合いがいてな」

「あっ、そういう薬があるんですか? なーんだ、真顔で冗談言うから、信じそうになっちゃいました!」

 桃花は腕を差しだして、ミオを受け取った。

 あの夢はきっと、晴明神社の思い出や、もらったお札が効いてほしいという願望がごっちゃになった結果なのだろう。それはそれで、残念な気もする。

「朝早くからおさわがせしてすみません。またミオを連れてきますね」

 晴明は「ああ」と応え、男の子は小さく手を振ってくれた。

 ミオを抱えて家に入り、玄関を閉める。お札を拾い上げた時、ようやく自分の着ているものに気づいた。

「あっ、パジャマのままだ……」

 ミオを見つけた驚きと安堵で、着替えるのをすっかり忘れていた。ボタンはきちんと留まっているが、これは恥ずかしい。

 腕の中でミオが、餌を求めるように盛んに鳴く。

 起き出した両親が、「おおっ、ミオ!」「良かった!」と口々に言いながら、廊下を走ってきた。



 ミオがいつものキャットフードを元気に食べるのを確認すると、家族三人はようやく安心して朝食を摂った。

 ベーコンエッグとトーストと切ったトマトだけの、いつもに比べて簡単な朝食だ。それでも、桃花は夢中で食べた。トマトのみずみずしさとトーストの香ばしさが引っ越しの疲れを拭い去り、ベーコンエッグのあたたかさが力を与えてくれる。

「貼り紙を剥がしてこなきゃね。あちこちのお店に頼んでしもたから」

 葉子が言ったので、桃花は「わたしが行く!」と声を上げた。

「ついでに、京都の街も見てくる。高校も入学式前にちょっと見ておきたい」

「あ、そう? ほなお願い。お店の人にようお礼言うといて」

「お礼と言えば」

 コーヒーを飲み干して、良介が言った。

「お隣の晴明先生、一緒に探してくれたんだろう? 親戚の男の子と」

「うん。おまじないのお札も書いてくれたし」

「そっちは、気休めに書いてくれたんだろう」

 良介は苦笑しつつ、葉子を見る。

「蕎麦を持っていったばかりだけど、何かお礼を渡そうか。気を使わせないように、日本酒のちょっといいのを小さい瓶で」

 葉子は軽く睨み返す。

「さっそく京都のお酒を色々飲んでみよう、なんて思ってるやろ」

「ははは、分かるか、やっぱり」

「分かる分かる。ほな、生活用品を揃えがてら、晴明先生へのお酒も買いに行こ!」

 葉子が楽しそうに宣言する。実のところ、葉子自身も酒はいける口なのだった。



 吹く風に青葉の香りと、桜の花弁が混じる。ペダルを漕ぐ足が軽い。

 桃花は家のそばを通っている白川通を南へ走り、ガソリンスタンドの角で右折した。標識に「丸太町通」とあって、何かいわれのありそうな名前だ、と思う。

 窓の大きな喫茶店で、ベストを着た店員がサイフォンでコーヒーを淹れている。

 神社の鳥居脇には桜が咲いて、ずらりと並ぶ提灯には可愛らしい白うさぎが描かれている。岡崎神社、というらしい。

 アンティークショップの店先には、ちょうど戸棚や椅子が並べられているところだ。

 新しいものと古いものが共存している丸太町通の空気は、たちまち桃花をとりこにした。

 引っ越す前、親友の里奈に「京都人にいけずされないように」と心配されたけれど、この街はきっと、「いけず」ではない。

 強く望めば、そして礼儀を忘れなければ受け容れてくれるような懐の深さを桃花は感じた。

 実際、貼り紙を貼らせてくれた喫茶店や雑貨屋は、どこも飼い猫の早い帰還を喜んでくれた。

「ご協力ありがとうございました。これ、両親から預かったんですけど」

 桃花がぽち袋に入れた薄謝を出すと、ことごとくやんわりと断られた。

「それより、うちの店ひいきにしてくれはった方がいいですわ」

 店主たちに言われて、桃花は安心した。それなら恩も返せるし、この街の人々に歓迎されている感じがした。

 さらに西へと自転車を走らせ、右折して北へ向かう。

 高校の門前では、桜が満開だった。校舎の窓が明るく輝くのがまぶしい。

 ――里奈ちゃん、がんばろうね。

 滋賀県の志望校に無事合格した親友に、心の中で呼びかける。元気だ、と手紙を書こうかと思う。

 結局うやむやになってしまった隣人の正体だけは、気がかりで仕方ないのだけれど。



 昼の十二時過ぎに家へ帰ってくると、桃花が予想していたよりも大きな日本酒の瓶が台所のテーブルに置いてあった。

「お母さん、お礼は小さな瓶じゃなかったの」

「そのことなんやけど……」

 母親は米をとぎながら、言葉を濁した。

「何かあったの?」

「ちょっと待ってや」

 米をざるに上げて手を拭くと、母親はタブレット端末を棚から持ってきた。

「この地元ニュース見て。今朝配信されたんやけど」

「ん?」

 桃花は眉を寄せた。「猫虐待事件犯人か 動物愛護法違反で会社員を逮捕」と物騒な見出しだ。

「昨日の夜遅くに捕まったんやて。ミオが帰ってくるちょっと前に」

 記事は短い。

 深夜にうろついていた男のバッグから複数の猫の鳴き声がしたため警官がひそかに後を追ったところ、ビニール袋に詰めた子猫数匹を物陰に遺棄したため現行犯逮捕した。また、自宅には十匹以上の猫がケージに入れられており、どの猫も健康状態が悪く怪我を負っているため男に詳しい事情を聞いているという。

「ひどいね」

 桃花は憤慨した。わき上がる不快感を抑えられない。

「ほんま、捕まって良かった」

 母親も憤懣やるかたない様子で言う。

「でな、捕まった場所が記事に書いてあるやろ。それ、この近所やねん」

「え、えっ」

 不快感に加えて、背筋が寒くなってきた。

「ちょっとタイミングがずれてたら、この犯人と、ミオが鉢合わせしてた……?」

「そういうことや」

 母親は重々しくうなずいた。

「もしかしたら、お隣さんが書いたおまじないのお札が効いて、ミオが助かったのかもしれへん……と思ったら、つい大瓶を買っててん。迷信深いやろか」

「ううん」

 母親の気持ちを否定する気にはなれなかった。あのお札を受け取った時、なぜか安心して震えが止まったのを覚えている。

 ――もしかしたら、本当にあのお札が効いたのかもしれない。おまわりさんが猫の鳴き声に気づいたのも、犯人がおまわりさんに気づかなかったのも、ちょっと不思議だもの。

「桃花、お昼食べたら、お隣さんにそのお酒持っていってくれへん?」

「うん。大学の先生もまだ春休みだよね?」

「研究のために休暇を取ってるから、大学には当分行かなくてええらしいで。大家さんが言うには」

「いいなあ」

「何言うてるの。ああいうお仕事の人らは、論文を書いて成果を出さな食いっぱぐれるんやで。遊んで暮らしてるのとは違います」

「はーい」

 足元にミオがすり寄ってきた。

 桃花は座りこんで「危なかったんだからね、ミオ」と三毛の毛並みを撫でてやった。



 酒瓶を抱えてインターホンを押すと、晴明が出てきた。

 朝と違ってスーツのジャケットは脱ぎ、シャツを腕まくりしている。

「こんにちは。ミオを探すのを手伝ってくれたから、持っていきなさいって父が」

 重い酒瓶を受け取ると、晴明は柔らかな表情で目を細めた。

「あっ、大きな瓶にしようって決めたのは母です」

「素晴らしいご両親だ」

 晴明が真顔で言ったので、桃花はふきだした。

「晴明さんも、うちの両親と一緒でお酒が好きなんですね」

 微笑だけを返すと、晴明は背を向けた。

「茶菓子がまだある。持っていくといい」

 上がれ、と言っているらしい。

「お邪魔します」

 緊張しつつ靴を脱ぎ、板の間に上がる。相変わらず、天体望遠鏡が存在感を発揮している。

 襖を開けて晴明が入っていったのは、畳敷きの部屋だった。座卓に和紙が広げられ、絵の具を溶いた皿や筆が置かれている。

「日本画、描かれるんですね」

「ああ。暇なので模写してみた」

 晴明は、戸棚を開けて紙の箱や金属の缶を取り出している。

 仕上がり間近らしい日本画を、桃花は見た。

 赤い顔にひげを生やし、冠をかぶった男性が大きな椅子に座っている。その足元に、黒い平安装束の男性がひざまずいている。

 彼らのそばで火炎を背負って座っているのは、おそらく不動明王だ。

 手前には丸い大きな鏡が立てられ、その周囲には鬼と、縛られた人間の男女がいる。

「この赤い顔の人、地獄の閻魔大王ですか?」

「ああ」

 戸棚から出した箱や缶を、晴明は座卓の隅に積んだ。

「上手いです。暇だから描いた、とは思えないくらい」

「模写だからな。元の『真如堂縁起』に比べればまだまだだ」

「真如堂って、どこかで聞いたような」

「すぐ近くの、丘の上にある寺だ。正式名は真正極楽寺」

「ああ、その丘なら、うちの西隣です!」

「洋菓子と和菓子、両方でいいか」

 晴明は紙箱と金属の缶をそれぞれ開けると、個包装されたクッキーや干菓子を紙袋に入れて手渡してきた。

「ありがとうございます。どうしてこんなにお菓子があるんですか?」

 晴明は、少しためらうような間をおいて口を開いた。

「白川通を上がって、今出川通を西へ入っていった所に知り合いの職場がある」

「上がる? 入る?」

 聞き慣れない言葉に、桃花は戸惑った。

「北へ行くことを上がる、南へ行くことを下がる、東か西に行くことを入ると言うんだ。道が格子状になった京の街では」

「あっ、なるほど」

 京都に遊びに来ていた時には気づかなかった情報だ。

「知り合いの職場は、からくさ図書館という私設の図書館でな。二人だけでやっているから茶菓子が余ると言って、たびたび持ってくる」

「へー。お裾分けをくれるんだ。いい人たちですねえ」

「……助手の方はそうだが、館長は違うぞ」

「悪い人なんですか?」

「菓子にかこつけて、私が真面目にやっているか監視に来ている」

 真顔で言う晴明を見て、桃花は可笑しくなった。

「あははは……こんなに怖い絵を描いてるのに、晴明さんって面白い」

「ふむ」

 晴明の顔に、笑いがひらめいてすぐに消えた。

「怖い絵と言うが、めでたい場面だぞこれは」

「え、地獄なのに? どういう場面なんですか」

「平安時代の陰陽師、安倍晴明が不動明王の助けを借りて閻魔大王に出会い、生き返る場面だ」

 桃花は日本画に目を落とした。赤い顔の閻魔大王にひざまずいている、黒い平安装束の男性をもう一度注視する。

「このひざまずいている人が、安倍晴明さん?」

「そうだな。あまり本人に似ていないが」

「また、真顔で冗談言って」

 再び笑った時、今朝の夢を思い出した。直感で口から飛び出しかけた、あの言葉を。

「……やっぱりあなたは、本当に、本物の安倍晴明様ですか?」

 晴明の目が、軽く見開かれる。

 子どもが珍しいおもちゃを目にしたような、驚きと明るさをともなったその顔を、いいな、と桃花は思った。

「なぜそう考えた」

「夢を見たんです。晴明神社の桃が落ちてきて、悪い人からミオを助けてくれる夢」

「受け容れてくれたか。私が夢の中で語った言葉を」

 その言葉に、ああやっぱりあの夢は、と思う。

「知り合いにもらった、猫が嫌う薬を撒いた……そっちが冗談で、結界を張ったのが、本当だったんですね?」

 晴明は、答えずにただ微笑した。

「『真如堂縁起』には描かれていないことだが」

 晴明は、座卓の上の日本画を指さした。

「安倍晴明は、人間として生き返ったのではない。閻魔大王の部下、つまり冥官として生き返った。若者の姿でな」

 シャツの胸ポケットから、晴明は一枚の紙片を取り出した。

 長さはほんの五センチほど。人の姿に切った和紙だ。

「自分で言うのもなんだが、私は長い間あの世の官庁街である冥府にいて、現世のことを知らない。教えてくれる人間はいないかと、探していたところだ」

 人の形をした和紙が宙に舞う。

 畳に落ちる前に和紙は消え、代わりにあの男の子が座っていた。

「しき、がみ……?」

 桃花のつぶやきに、男の子はうなずいた。

「よく知っているな」

 晴明が感心した風に言う。

「安倍晴明は式神を使役するって、お母さんの持ってた本で読んで……」

 思えばこの男の子は、晴明に指示されてミオを呼んでいた。

「その通りだ。現世を行き来する時はたいていこの式神を連れている」

 晴明が微笑んだ。

「猫をいじめる人が捕まったのは、もしかしてあなたが何か」

「ああ。不埒者の勘を狂わせる術式があるからな」

 何でもないことのように晴明が言い、桃花はめまいを覚えた。

「でも、名前は? 堀川晴明って」

「現世での仮の名だ。元の名や生前での行動に縁のある名をつける」

「ほぼ、そのまんまじゃないですか」

「他の冥官も似たようなものだぞ」

 晴明は、棚に置いてあった日本酒の瓶を男の子に渡した。

「台所に頼む」

 大きな瓶を抱え、男の子はぱたぱたと奥へ歩いていく。

「そろそろ家へ戻らないと、家族が心配するだろう」

 桃花はつい、言われるままに立ち上がった。あんたは素直すぎる、という親友の言葉が脳裏をよぎる。

「学校の勉強で分からないところがあれば、聞きに来るといい。代わりに現世のことを教えてくれると助かる」

 晴明の表情は静かだが、琥珀色の瞳は楽しそうな光を浮かべている。

 恐れよりも好奇心に後押しされて、桃花は「はい」と答えていた。


第一話・了