0-0




 ゲームカウント5-6。

 40-40。

 大事なポイントだ。

 ここを一本先行することには大きな意味がある。すでに極限にまで高まった集中力をさらに高める。これ以上上がらないことはわかっているが、上げようとしておかないと維持できない。額からとめどなく流れ落ちてくる滝を手首でせき止め、そのまま頭の方へ拭き上げる。なんでリストバンドをつけていないんだろうと思う。いつもなら必ずつけているはずなのに。

 ネットの向こうは霞んで見えない。蜃気楼のようにぼんやりと、歪んでいる。目に汗が入ったかと思って擦ろうとするが、腕が上がらない。ダメだ。相手は誰だ? 背の高い人影がぼんやり映っている。トスが上がるのが見える。慌ててラケットを構える。

 しゅぱっ、と音がしてボールが跳ねた。

 体の自由が効かない。重たい。のろい。なんでこんなに動かないんだ。まるで関節という関節が錆びついているみたいだ。無理矢理振り切るようにしてボールに飛びつく。ラケットを振り出し、打ち返す――ラケット?

 肝心のラケットの感触がなくて自分の腕を見下ろしたオレは身震いした。

 ――右腕から先が、ない。



 目が覚めた。

 汗をぐっしょりかいた体は火照って熱いくらいなのに、汗でひんやりと冷たくもある。身を起こすと額から汗の雫がぽたぽたと零れ落ちて、布団の上に染みを作った。見慣れない布団の柄だった。辺りを見回すと見慣れないカーテンがそこにあった。

「ああ……そうか」

 自分が入院していることを他人事のように思い出す。

 汗を拭うために右腕を上げようとしたが、動かなかった。右腕が動かない。動かないが、腕はそこにあった。ギプスでグルグル巻きになっていた。瞬間、夢の記憶が薄れ現実が戻ってくる。

 人体において、肘と手の間には二本の骨がある。その内の一本が尺骨だ。もう一方は橈骨といい、一般に前腕骨折というとこのどちらかの骨――あるいは両方が折れていることを指す。駆の場合、尺骨が綺麗に折れていた。

 骨と骨を繋ぐ手術を受けた。プレートを埋め込み、ボルトで固定した。ボルトが抜けるのは春頃になるそうだ。およそ三ヶ月。それから固まってしまった筋肉のリハビリ。夏頃には日常生活には支障がなくなるだろうとのことだった。

 日常生活に、全力のテニスの試合は当然含まれていない。

 夏。早くて梅雨頃。六月。

 七月の都立戦まで、ギリギリもいいところだ。復帰して猛練習して、それでも全盛期に戻すのは無理だろう。時間が足りない。何よりこの半年間、自分は一切前に進めないのだ。奇跡的に七月までに勘を取り戻せたところで、それは半年前の自分を取り戻すだけであって、その間も練習し続けてきた人間たちとの差を埋められることにはならない。

 右腕が動かないことが却って頭を冷静にさせたのか、あんな夢を見るわりには落ち着いている自分を意外に思う。いや、まだ夢だと思っているのかもしれない。あまりに現実感がない。これから先、半年近く、テニスができない……? 考えられなかった。想像もできなかった。

 左手を伸ばして携帯電話を見る。時刻は午後の三時だった。耳を澄ますと同じ病室の人間の息遣いが聞こえる。廊下を歩く人の足音が聞こえる。声が聞こえる。病院って、静かなんだなと思う。少し、試合中に似ている。テニスの試合は、ラリー中は観客さえも声を出すことを許されない。四六時中ガンガンとメガホンを打ち鳴らして応援するサッカーや、野球や、バレーボールを見慣れている人からすると不思議な光景かもしれない。どちらかといえばゴルフに近い。選手の邪魔をしない。患者に配慮して静かな病院と同種の気遣いがそこにはある。

 こんなときまでテニスを思い出すのか。

 どっぷりとテニスに浸かった生活を送っていたのだということが、テニスから無理矢理引き剥がされるとよくわかる。

 窓の外に目が向く。

 まだ一月だ。冬の空だ。薄水色に澄んでいる。夏とはまた違う、透明な空。冬の方が空は青いのだと昔誰かが言っていた。本当にそうだろうか。駆には夏の、コートの中から見上げた青空の方がずっと青く、ずっとまぶしい。

 鳥が一羽飛んでいった。ぼんやりとその軌跡を追っていると背後から「進藤くん」と小さな声がした。

 宙見だった。


「お見舞い、何がいいかわかんなくて」

 無難な焼き菓子を差し出しながら、宙見は掠れた声でひそひそとしゃべった。気にしているんだろうな、と他人事のように思う自分がいるのをぼんやり感じる。

「サンキュ」

 左手で受け取ると、宙見の目が反対の手をチラリと見た。一瞬、その視線から逃げたい衝動に駆られるが右腕は動かない。

「どのくらいで、治るって……?」

 宙見の声はそれこそ蚊が鳴くようで、そばにいる駆でさえ聞き取るのがやっとである。

「全治三ヶ月。リハビリにだいたい三ヶ月」

「じゃあ都立戦にはギリギリ……?」

「間に合うかもな」

 自分でも驚くほど乾いた声は、宙見にはより乾いて聞こえたかもしれない。駆は窓の外に顔を向けて、彼女の顔を視界から遠ざける。

「……ごめん。私のせいで」

「宙見のせい?」

 振り向かないまま、駆は訊き返した。

「なんでそういう話になってんの?」

「だって、私がいなかったら進藤くん、怪我しなかったでしょう?」

「それでへこんでんの?」

「だって私のせいだもの。私のせいで人が傷ついたら、私だって傷つくよ」

 宙見のそれは、とても優しい理屈だ。悪気がないのもわかっている。でも、駆は彼女にそうなってほしくて自らの腕でポールを受け止めにいったわけではない。

「ふーん」

 だから、少し意地悪い口調になった。

「宙見が傷つかないように庇ったはずなのに、結局オレが宙見を傷つけたってことか」

 宙見が弾かれたように顔を上げる気配がした。

「そうは言ってない!」

「そう言われてるように聞こえるけど」

「言ってない!」

 こういうとき、宙見は意地になりやすい。いい加減それくらいの性格は、お互い把握している。

「じゃあ、宙見はなんで傷ついてんの? 誰に傷つけられたの?」

「それっ、は……」

 宙見が言葉に詰まる。

 本当は宙見だって、わかっているのだろう。

 駆がつけたのでなければ。

 彼女が負っている心の傷は。

 彼女自身が、自分でつけた傷だ。

 自分で自分を責めて、つけた傷だ。

 だけどそれは、とても無意味な傷だ。

 誰も幸せにならない。宙見が痛い。それを見ている駆はやるせない。

「宙見の気持ちはわからなくはないけどさ。傷ついてほしくなかった側の立場からすると、そういうこと言われるとへこむんだよ。そうやって目の前で萎れられても、どうしていいかわかんねえもん。怪我しないで済んだんだから、笑っててくれりゃいいのにさ」

「でも」

 宙見は食い下がる。食い下がらないでくれ、と願う駆の気持ちを振り切るように。

「私が怪我するはずだったんだよ。私が怪我すべき、」

「やめろよ!」

 共同病室だということも忘れて大声が出た。

「腕折れて、プレートとボルト埋め込んで骨繋いで、治るまで半年もかかるような大怪我、すべきだったなんて軽々しく言うなよ!」

 怒鳴りながら振り向いた駆の目に映った宙見は口を押さえて、目を真っ赤にしていた。

「ごめん」

 ぱっと踵を返して病室を出ていく。後ろからでも泣いているとわかる背中が、風に揺れるカーテンの向こうに消えた。

 追いかけるべきな気がした。でも足は動かなかった。怪我をしているのは腕のはずなのに。

「女の子に怒鳴るもんじゃないねえ」

 同じ病室の、向かい側のベッドの老人が静かに言った。微笑んではいたが、呆れているのだと思った。



 年末には退院して、年明けは家で過ごした。

 去年と同じように初詣に行こうと森から誘いがあったが、駆は怪我を理由にそれを断った。神様に祈ったって骨が一日で繋がるわけでもない。それに、去年の都立戦優勝祈願は結局聞き届けられなかった。同じことを祈った高校生がいったい何人いたのだろう。祈ってなさそうな山神仁擁する山吹台が二連覇を達成したというのは皮肉にもほどがある――などと逆恨みもいいところの思考はぐるぐるとまわり続ける。去年から八つ当たりばかりだ。一年に当たり、宙見に当たり、今度は神様。

 結局自分はそういう人間なのだろうかと思う。短気で、器が小さくて、人のせいにしてばかりの卑怯者……余裕がないとすぐに我を失って、感情的で、子供みたいに喚き散らす。

 ちょっとは大人になっているのだと思っていた。成長しているのだと。背丈だけじゃない。心持ちも――でも実際にはオレは一年の頃のガキで馬鹿な自分と何も変わっちゃいない。自分のことばかり考えて感情を振り回し、相手の体から血が流れてから初めて誰かを傷つけていることに気がつく。

 どうして言ってしまってから後悔するのだろう。後悔するくらいなら、はじめから口にしなければいいのに。

 宙見に怪我がなかったことは、本当にほっとしたのだ。下手をすれば頭を直撃していたかもしれない。怪我では済まなかったかもしれない。それが自分の腕一つで済んだなら――でも、もう少しスマートにいくはずだったのだ。怪我をするつもりはなかった。上手くいなす予定だった。骨が折れるほどのダメージを、食らうつもりはなかった。

 もちろん自己責任だということはわかっている。だからこそ、宙見に加害者みたいな顔をされたことが嫌だったし、自分がそんな顔をさせたことに苛立ったのかもしれない。苛立ちをそのまま宙見にぶつけてしまった自分にも。全部自業自得で、身から出た錆。鏡を見ると、醜く錆びた自分の顔が情けない表情で映っている。


 引きこもっていると世界は収縮する。

 別に冬休みの間中部屋にいたわけじゃない。だけど確かに、駆の世界は縮んでいた。どれだけテニスが大きいものになっていたのか、失くしかけている今だからわかる。このまま失くしてしまうのは嫌だと、心が確かに叫んでいる。

 それでも駆は、長いことラケットに触れていなかった。「おまえは両腕折れても口でラケット咥えて振ってそうだよな」なんて、いつだったか冗談交じりに森に言われたことがあったか。左腕で振ることもできたが、駆はラケットバッグを開けてすらいなかった。

 心のどこかで思っている。

 オレの高校テニスは終わったのだと。

 万全を期して都立戦に出られないのなら、怪我が治ったって意味がないと。

 幼稚な理屈だとわかっている。部長が口にしていい言葉じゃない。だけど今、自分がラケットを握ろうとしない理由は紛れもなくそこにある。

 シングルスがやりたい、というだけでソフトテニスから硬式に転向し、藤ヶ丘高校硬式庭球部に入部して早二年。いつのまにか硬式テニスをやる理由はシングルスだけではなくなっていた。どこでもいいわけじゃない。この場所、この時間、このメンツが揃っている今の藤高テニス部で硬式テニスをやることに大きな意味がある。このチームの全力を引き出し、それをぶつけ、山吹台を打倒して優勝する――今回の怪我はその「全力」から、自らが弾き出された感覚だった。

 三年の夏に迎える最高の有終の美を、何度も思い描いてきた。入部当初には頭をよぎりもしなかったそのビジョンは、今や駆の心象風景として強く胸に刻まれている。

 だが、もう青写真はひび割れてしまった。

 オレはその場所に立てない。それは永遠に心象であり、現実にはならない。


「あれ、進藤じゃん」

 一月第二週のことである。

 正月をあまりに引きこもって過ごしたせいか親にとうとう家を追い出され――けれど行く当てなど当然なく、適当に駅の方にぶらぶら足を伸ばすことにしたらサメ先輩にバッタリ出くわした。

「おまえ、なんで初打ちいねえんだよー」

 開口一番痛いところを突かれて答えに窮する。森に初詣に誘われた日はテニス部の年始行事・初打ちの日でもあった。初詣を断った駆は必然、初打ちにも顔を出していない。どんなふうになったのか、聞いてもいない。

「サメ先輩来てたんすか」

「おまえらが呼んだんだろーがよ」

 一瞬首をひねりかけるが、たぶん森だ。年末に、OB・OG向けに初打ちの開催告知メールを送っているはずだった。

「受験前なのにテニスしてていいんですか?」

 サメ先輩は露骨に嫌そうな顔をする。眉間にしわを寄せ、目を細め、口をへの字にする。

「よくないからこうして予備校来てんだろ」

「いや、初打ちの話です」

「あれは息抜き」

「はあ……今日はなんの勉強ですか」

「センター数学かな」

「やばいんですか?」

「言っとくけど進藤よりはマシだから」

「オレ受験生じゃないです」

 やっと少し笑いが出る。数学は駆も苦手なので、来年は苦労することになるだろう。

「全治三ヶ月だって?」

 ギプスをチラリと見てサメ先輩が言った。初打ちに行ったなら部員から聞いているのだろうが、実際のところ誰から聞いたのだろう。病院には宙見の後も、森や涼、後輩たちが来たので、駆の怪我事情については部員全員が把握している。なんとなく、宙見は話さなそうだなと思う。森かな。森だろうな。

「リハビリ含めたら半年くらいですよ」

「おまえは治るのに三ヶ月もかからんだろー。体力馬鹿なんだし」

「体力で骨くっつくんですかね」

「牛乳飲め牛乳」

 すっかり現役時代の日焼けの跡が抜け落ちたサメ先輩は、去年卒業式で会ったソラ先輩の白さによく似ている。文字通り漂白されて、あの頃のギンギラギンとした威厳というか角が取れてしまったその面持はかつての本人とはまるで別人のようだった。

「その腕で練習はできないだろーけど、たまには顔出してんのか? 部活」

「はあ……」

 駆は答えを濁した。

 言えない。この人の前で。気持ちが、気力が、すでに離れつつある気がする、なんて。もう頑張れないかも、なんて。そのくせしがみついている自分がいるからなおさら――たまにふっと気がつくとスクワットをしている自分。テニスの動画を見ている自分。無意識は、意識よりも正直だ。後生大事に抱え込んでいる。手を放そうとしている自分の右手を、自分の左手が止めている今、返すべき言葉を駆は見つけられない。

 サメ先輩は森たちから何を聞いたのだろう。森たちは、自分について、サメ先輩になんと言ったのだろう。

「怪我したときにしかできないことがある、なんて綺麗ごとは言いたくねえけど、強制的にテニスから引き剥がされることなんてそうそうないだろ。『そういうときだけ持ってる視点がある』とか、ソラさんなら言うんだろうけど」

 サメ先輩は駆が答えを濁したことに直接突っ込みはしなかったが――確かにあの人なら言いそうだ、と思って駆が苦笑していると、ずいっと怖い顔を突き出してきた。

「俺はあの人みたいに甘いことは言わねえぞ」

 ぶす、と人差し指で眉間を突かれた。

 必然、目を合わせてしまった。

 ……前言撤回。別人なんかじゃない。この人は紛れもなく、去年藤ヶ丘高校硬式庭球部を率いた鮫田部長だ。

「練習出ろ。這ってでも出ろ。見てるだけでも違うんだ。ずっと見てろ。コートに戻ったとき、どうやって倒すかだけ考えてろ。勝ちたい、悔しいって気持ちは冷めやすいんだ。引退試合に負けてボロボロ泣いたチームが、翌年の夏にはヘラヘラ笑って試合前に炭酸飲んでやがる。そんなチームに限って負けりゃボロボロ泣く。毎年同じことの繰り返しだ。そういうチームは万年一回戦止まり」

 いつになく感情的なのは、去年の引退時に言い損ねたことを、今しゃべっているのかもしれない。

「けどおまえらは違うだろ。優勝目指してんなら優勝したいって気持ちをまず持てよ。どこの学校よりも強く持てよ。精神論じゃねえ。テニスやってんならわかってるだろ。限界に達したときにそれでもあと一歩ボールを追えるかどうかはそういうとこで決まってくんだ。右が折れたら左で振れ。左が折れたら口で振れ。素振りなんていくらでもできんだろ」

 ――強くなりたいってのは、そういうことを言うんだ。

 言うだけ言うとぶすっとした顔でポケットに手を突っ込む。

 この人は気づいたのかもしれない。すでに駆の中で、火が消えかかっていることに。だとしたらそれは激励ではなく、きっと忠告だ――一度消えたら戻れないぞ、と。

「まあ、難しいけどな」

 サメ先輩がぽつりと言った。

「怪我から復帰してきて前よりも強くなるやつって、どうなってんだろうな」

 まったくだ。琢磨とか。天本とか。どうなってんだ。

 オレも知りたいです、とぼそりとこぼした声は、たぶんサメ先輩には届かなかった。



 毎朝マフラー越しに白い息が空に立ち昇っていくのを見ると冬だなと思う。

 三学期の練習にも顔は出さずにいた。教室での振る舞いも自然ぎこちなくなっていた。涼はともかく、宙見の方はついつい避けてしまう。向こうが避けていたのかもしれないが同じことだ。森はたまに教室にやってきては、部のことを話してくれる。とりあえずは問題なくやっているようだ。河原や藤村もたまに顔を出した。こっちは宙見に会いに来ていただけなのだろうが、そのついでに河原は相変わらずあけすけな言い方で、藤村は控えめにそれぞれ励ましてくれた。琢磨だけが、一度も顔を出さない。

 あいつは何を考えているのだろう。

 思えば琢磨も一年のときに怪我をしている。今の駆ほど重症ではなかったものの、手首を痛めて夏休みの間中練習を禁じられた時期があった。ボールを打たなければ腕を振れたので、走ったり、手首に負担のかからないトレーニングなんかをしこたまやらされて腐っていた。腐ってはいたけれど、練習には必ず来ていた。

 最近静かだ、と涼が言っていた。琢磨はいつだって静かだが、冬休みから三学期にかけていつになく黙々と淡々とボールを打っているらしい。切れ味鋭い刃物を思わせるその雰囲気は、怒っているわけじゃないとわかっていても近寄りがたく、誰もろくに声をかけられないのだと聞いた。

 一度だけ三階の廊下からコートを見下ろしたとき、あいつがサーブを打っているのを見たことがある。

 少しフォームが変わったか。

 いつ見ても無駄がなく、キレのあるサーブをたった一球見ただけで、今まで無理矢理に心だか頭だかに閉じ込めていたあの場所への執着と情熱――それが栓をひねった炭酸水のように噴き出してきそうになり、駆は慌ててその廊下から離れた。


 もう一ヶ月近くボールを打っていない。

 相変わらずラケットは鞄から出していない。

 たまに病院へ行く。骨は順調に再生しつつあるらしい。予定通り繋がると聞いてほっと胸を撫で下ろした。テニスがいつできるかは訊かなかった。

 いつのまにか二月だった。センター試験はついこないだ終わったらしいが、サメ先輩たちの結果は聞いていない。この時期はもう学校に来る三年生はほとんどおらず、毎日当たり前のように上級生の活気があふれていたフロアが、まるで神隠しにでもあったかのように静まり返っている。誰もいない教室で、机と椅子だけが持ち主の最後の帰りを静かに待っている光景は寂しいというより空虚だった。

 静かだ、と涼が言っていた琢磨の静寂は、こんな感じなのかもしれないとふと思う。ただ音がしないのとは違う。もともとあったはずの音が、抜け落ちている。それまで奏でられていた楽譜に、突然穴が空いたみたいに。

 今のテニス部も、同じなのだろうか。

 自分が抜けた分、音が消えているのだろうか。

 だからあいつも、静かになってしまったのだろうか。

 ダブルス。あいつと組み始めてもう二年近い。

 二つで一つ。阿吽の呼吸。黄金コンビ――そんなふうに言われたことはない。気の合ったコンビではなかった。凸凹コンビだ。二年前から、今までずっと。

 そんな凸凹コンビの音が消えた。どうせもともと不協和音だ、なくなったところでむしろ静かでいいだろう。……それとも今のテニス部は、三年生が抜けた校舎の二階みたいに――こんなにも寂しいのだろうか。


 家に森が来た。涼と一緒だった。

 まあまあまあ、と事情を知らない母親が嬉しそうにして勝手に盛り上がっていたが、母以外の面持は自分も含めわかりやすいくらいに硬かった。森と涼が普段通りにしようとしてくれているのがわかったが、それがわかってしまう時点で気を遣われているのだということもわかってしまう。普段そんなことをするような間柄ではないから、それだけで十分気まずい。

「腕、どうよ」

「ん。順調だって」

「そっか。リハビリの予定は?」

「四月からって話だけど、その気なら一週間くらい早く始めれるかもって先生は言ってた」

「お、よかったじゃん。じゃあ早く戻ってこれそうだな」

「ン」

 本題までの間を繋ぐような雑談はほとんと涼がしゃべっていた。森はニヤニヤしていなかった。母が出してくれたオレンジジュースには誰も手をつけなかった。溶けた氷が早く飲めと言わんばかりにカランと音を立てるが、氷入りのオレンジジュースには少し早い季節だと思う。

 部のことをしゃべり始めると森が口を挟むようになった。最近やっていること。冬の市民大会や練習試合の結果。追いコンの予定。誰が上手くなったとか、苦労しているとか――駆不在の今、部長の代理は副部長たる森の役目だが、意外にも琢磨が練習中は主導しているらしい。藤ヶ丘にはキャプテンという役職はないが、それに近い感じになっているのだと森は少し嬉しそうにそう言った。

「なあ、進藤」

 やがて森が本題に入る気配がした。

「春には戻ってくるよな」

 疑問符はついていないように感じた。問いかけというよりは、確認。念押し。でも、森の目は疑っていると思った。疑っているということは、やっぱりそれは問いかけなのかもしれない。

「戻るって?」

「練習だよ。顔出せよ。一年も入ってくるんだしさ」

「リハビリあるよ。むしろ今より時間なくなる」

「じゃあなんで今まで練習来ないんだよ」

「行ったって練習できねーじゃん」

 笑って誤魔化そうとしたが、森は笑っていなかった。顔も、目も、笑っていなかった。見るだけでも意味はあるよ、とどこかで聞いたセリフを言った。

 ――追いコンは絶対来いよ。おまえがいなきゃ始まんねえんだから。

 森はそう言い残して帰っていった。涼は森のように直接的なことは言わなかったが、たぶん同じことを思っているのだろう。


 密かに噂が広がりつつあった。

 ――進藤はもう部に戻ってこないかもしれない。

 あれからも結局一度も練習には顔を出さなかった。森や涼は話を広めはしなかったようだが、他の部員も馬鹿ではない。雰囲気でわかるのだろう。今の駆からは出ていないのだ。今まで噴き出していた、強いオーラのような何かが。ずっとそのオーラに触れていた人間からすれば、それがない駆はきっと別人だ。廊下ですれ違うたびに、どんどん存在感が薄れていく。文字通り、幽霊のように。

 三月になると、三年生がぽつぽつ学校に戻ってきた。受験が終わって、残す学校行事は卒業式だけだ。テニス部三年生の結果も人伝手に聞いた。全員第一志望、とまではいかないものの、進路は概ね決まったようだった。

 春休みまであと少し、というある日、突然嵐山が教室に来た。進藤先輩いますか、と入口のところでクラスメイトを捕まえて訊いている嵐山の声が聞こえて、呼ばれる前に駆の方から席を立った。

 廊下で少し話をした。内容はだいたい森や涼と同じだったが、嵐山は大概不器用だから、その分言葉は直球で、それゆえに駆の胸にもぐさりぐさりと突き刺さる。

「辞めないですよね、先輩」

 自分が言えた義理ではないが、入部した頃は問題児だった。一人で強くなるからと周囲を突っぱねていたコイツももう先輩になるんだなと思う。周囲を気遣って、チームのことを考えて動けるようになったんだなと思う。

 それに比べて自分ってやつは。

 骨と一緒に、心が折れてしまった。ぽっきりと、あっけなく。だけど高校生活の大半を賭けて積み上げてきたものを一気にへし折られて、責任とか、やる気とか、そんなものだけではどうしても立ち直れない。頑張ればなんとかなる、諦めるな、なんて綺麗ごとは聞きたくない。どうあがいたって自分はもう今年の夏に、山神や天本のような選手と対等に渡り合える選手たり得ない。マラソンだって、途中で転んだ選手が立ち上がるのを待つやつはいない。真剣勝負とはそういうことだ。

 オレは脱落した。トップ争いの先頭集団から遅れた。致命的な差をつけられて、半年後にリスタートできますと言われて、でもその頃にはあいつらはいったいどこまで行ってしまっているだろう。部員として部に戻ることはできるかもしれない。単純にテニスをして、練習をして、部長としての役割を果たしつつ、都立戦は応援やサポートに徹して、チームをまとめあげて……それもできるかもしれない。いや、そうすべきなのだろう。それはずっと頭の隅に引っ掛かっていて――だけど引っ掛かっている場所が隅だということが、もうどうしようもなくオレという人間をよく表している。

 オレは、部長である以前に、選手だ。どうしようもなく選手なのだ。テニスをやりたくて、テニス部にいるのだ。

 やっぱりオレは部長には向いていなかったのだと思った。半年前にはあんなにも部長であることにこだわったくせに、今はそんなことどうだっていいと思っている。結局自分のことばっかりだ。器じゃなかったのだ。だったらなおさら、そんなやつが部長として部に戻るべきじゃない――。

「俺はそうは思ってないですから」

 嵐山が短く言った。口に出ていたか、それとも顔に出ていだろうか。嵐山は駆を見ていた。やっぱりまっすぐな目だった。まっすぐな目が、まっすぐに駆を見据えていた。

「部長が必要です」

 待ってます、と言い残して嵐山は去っていった。いつのまにか力強くなった背中に、胸の奥の深いところが軋む。


 もうすぐ春がくる。

 三月の風が吹いている。鼻がくすぐったくなって足を止めた。

 桜の枝先に春色の蕾が膨らんでいる。毎年、猛スピードの自転車で通り過ぎるばかりで、ゆっくり見たことはなかったなと思う。徒歩で登校することにもすっかり慣れてしまい、最近はもはや帰宅部と何も変わらない。朝早く登校してしまう習慣だけが、何かの名残のように体に染みついている。

 校門をくぐったところで、見覚えのある藤色のウインドブレーカーにラケットバッグを背負った人影が駐輪場の方に歩いていくのに気がつき立ち止まった。

 琢磨だった。

 駆には気がつかず、コートの方へその背中が消えていく。駐輪場に行く必要がなくなったので、そのそばにあるコートにも久しく寄りついていなかった。チラリと後ろ姿を見ただけなのに、また体の奥底からじわりと何かがにじみ出てこようとする――慌ててその場から遠ざかろうとしたところで、別の顔見知りと目が合った。

「進藤くん」

 藤村と河原だった。二人もウェア姿でバッグを背負っている。朝練に出るのだろう。

「お……はよう」

「なに、その顔」

 河原が駆の顔をずけずけと指差した。

「幽霊でも見たような顔して」

「いや……」

 河原と藤村が現れたタイミングからして、駆が琢磨を見ていたのはわかっているはずだ。河原のそれはたぶん、皮肉だった。

「先、行くよ真緒。私グリップテープ巻き直したいから」

「あ、うん」

 藤村が河原を見送る。相変わらずチビで駆の背丈でも旋毛が見える小柄な少女を見下ろしながら、なんでこいつは一緒に行かないんだろうと思う。藤村の目はコートの方を向いていたが、たぶん河原を見ているわけではないのだろう。

「曲野くんだけなんだよね」

 唐突過ぎて話が見えなかった。

「なにが?」

 藤村がこっちを見上げる。未だに苦手意識のある――宙見とは別のベクトルで力強い瞳。

「進藤くんのとこ、いろんな人が行ってるでしょ。でも曲野くんだけ、行かない。森くんとか、新海くんが色々相談してるときも、全然話に加わらないの。たぶん進藤くんが戻ってくるって確信してるから、ただ待ってるのかなって」

 駆は苦笑いする。藤村は根がネガティブだが、たまに楽観的だ。

「それってさ、世間一般では『見放してる』って言うんじゃないの」

「見放してる人は、『あいつは戻ってくるよ』なんて言わないと思う」

 ぶわっと右腕の血が騒いだ気がした。まるで今年に入ってから実はずっと、血が通っていなかったみたいに。思わずギプスの上から右腕をぎゅっとつかむ。そんなことで繋がりかけの骨が軋むわけもないが、ずきりとした痛みを確かに感じる。

「あいつがそんなこと言ったの?」

 人を信じるなんてこと、今だってろくになさそうなあいつが?

 森や涼でさえ信じていないオレの帰還を、信じてるっていうのか。

「言ってたよ。ちょっと不機嫌そうに」

 藤村はくすっと笑って、確かにそう言った。藤村自身、疑ってなさそうな目だった。



 卒業式は出席したが、その後の出待ちには加わらずに家に帰った。先輩には個人的にメールを送ったが、返事は未だにきていない。テニス部では春休み中に追いコンがある。三年生との実質的な最後のお別れとなるのはその日だ。おそらく、そこにいなかったら駆はもはやテニス部の人間でいられなくなるだろう。

 終業式が終わり、春休みになって、花粉で鼻が少しずつむずむずし始める。胸のどこかもむずむずし続けていた。骨が繋がってきているせいか、ここのところ右腕もむずむずする。ずっと体中がむずむずしている。

 以前よりもメールがよくくるようになった。ほとんど読んでいないが携帯の通知ランプはつきっぱなしだ。たまに電話もくる。サブディスプレイに表示される名前は森や涼ばかりだが、稀に嵐山なんかが混じっている。一切何も言ってこないのが二人――琢磨と宙見だ。

 藤村に言われた言葉がずっと引っ掛かっている。

 年始に見た宙見の顔が瞼の裏に焼きついている。

 最近はその二つばかりがリフレインして、耳を塞いでも、目を閉じても、まるで責めるみたいに、あるいは慰めるみたいに、はたまた叱咤するかのように、ときに激励するかのように、駆の感情という感情を揺さぶって放っておいてくれない。

 机の上には書きかけの退部届が載っている。名前を途中まで書いたところで手が止まったそれは、もう長いことそこにあるような気がする。そばに放り出したシャーペンと一緒に、ずっとそこにあるような気がする。

 すっかり強張っているであろう右腕を少し動かす。何かに焦るみたいに動かす。部屋の隅のラケットバッグを見やる。ジッパーが少し開いている。

 何かを振り切るように、駆はカーテンを開ける。窓を開ける。春の風がぶわっと吹き込んで、大きく一つ、くしゃみをする。



 追いコンの当日は家にいたら誰かが連れ出しに来るような気がして、珍しく自主的に家を出た。前日には鬼のようにメールが入っていたし、当日の朝もすでに着信が絶えない。

 三月の空気はまだ少し冷たい。溶け残った雪のような、冬の名残だ。ダウンジャケットのジッパーをしっかり上げて、背中を丸めて歩く。行き先なんてどこだっていい。とにかく家にはいたくない――ドーナツ型の溝を数えながら、コンクリートの坂道を登りきると黒っぽい道路に出る。ひび割れたアスファルトの隅から雑草が覗いている。車の往来で巻き起こる排気風にゆらゆらと揺れる、その先端に蝶々が止まっている。やがて飛び立つその羽ばたきに釣られて視線を上げると、春先の空にはね雲が浮かんでいた。薄いブルーに溶けてしまいそうな、淡く薄い雲だった。

 長く部から離れ過ぎたのか。久しく空を見上げていなかった。

 テニスというスポーツはよく空を見上げる。サーブのとき、スマッシュのとき、ロブのとき――ポイント間に気持ちを切り替える意味でも空を仰ぐ選手は少なくない。インドアコートも数多くあるが、天候に左右されることがわかりきっていてもほとんどのテニスコートは屋外にある。それはきっと、多くのバスケットボールコートが屋内にあることと、まったく逆だが同じ意味があるのだと思う。

 いつだってテニスのことを考えている。

 いつだってテニスのことを考えてしまう。

 何をしていても、思考はそこへ至る。

 テニスから離れれば離れるほど、考える時間が増えた。

 チームから遠ざかれば遠ざかるほど、彼らの言葉を思い出す。

 居ても立ってもいられなくなる。

 諦めてしまおうとする自分を、別の自分が叱咤する。

 たまらず駆は走り出した。

 右腕は振れない。

 体力も落ちている。

 大してスピードは出ない。

 けれど息はすぐに切れる。

 はっ、はっ、はっ、と、荒い呼吸が喉を乾かす。

 春の大気に紛れ込んだ花粉が鼻孔をくすぐる。

 くしゃみが一つ出る。

 バランスが取れずに転びそうになる。

 近くのフェンスに左手でしがみついた。はぁ、はぁ、と肩で息をする。

「ナイッショー」

 声がして、弾かれたように顔を上げた。

 つかまっているのは藤高のフェンスだった。すぐ向こうはテニスコートだった。生い茂る雑草と微妙な高低差のおかげで駆の姿はほとんど見えないだろうが、こっちからは向こう側が見える。アップをしているのだろう。人影が動きまわっている。藤色のウインドブレーカーが、チラホラと見える。

 あ、やばい。

 まただ。むずむずする。鼻じゃない。腕が。右腕の芯が。そこから伸びる血管がすべて集う心臓が。ドックンドックン脈打っている。

 なんでここへ来たのだろう。

 逃げるように走ってきたのに。

 まるで最初から目指していたみたいに。

 足元にボールが落ちていた。コートのフェンスと学校のフェンス、二枚とも越えて外へ飛んできてしまったらしい。

 拾い上げると同時に「あ」と声がした。声のした方に目を向けると、知り合いが立っていた。

「宙見」

 もともと丸い目をぱっちりと見開いて、こっちを見ていた。

「ボール……」

 とだけ言われて、駆は自分が握りしめたままのテニスボールの存在を思い出す。飛ばしたのは宙見だったらしい。

「ホームラン? 珍しいな」

 なんとなく、目は合わせられずにそんなことを言う。

「うん。久々」

 一瞬盗み見ると、宙見はぎこちなく唇を笑みの形に曲げていた。

 駆は左手でボールを放る。上手く投げられなくて宙見の遙か手前でバウンドする。宙見が拾い上げるのを確かめて、駆は黙って踵を返す。

「どこ行くの?」

 宙見の声が背中にぶつかった。

「コートはそっちじゃないよ」

 駆が振り向いた途端、ボールが飛んでくる。慌てて左手でキャッチする。宙見は少し怒っているように見えた。何に怒っているのだろう。病院でのことか。部に来ないことか。それとも今の自分の行動にか――全部かもしれない。

「オレはもう、戻れないよ」

 駆は言って、ボールを投げ返す。左で投げ返す。やっぱり上手く飛ばない。

「どうして……?」

「まともに練習できるようになるのは六月とか、ヘタしたら七月だ。そっから部に戻ってもブランク戻すので終わっちまう」

 そんなの、なんのために戻るのか、わからない。部長としての責任とか、チームワークとか、無理矢理縛り付けるための理由なら思いつく。でもオレが、オレの意志で戻りたいと思う理由は、もうなくなってしまった。

 宙見はボールを手の中でころころと弄びながら、考えているようだった。

 やがて何かを決意したみたいに、ボールをポケットに突っ込んで顔を上げる。

「今から私、ちょっと嫌なこと言うから先に謝っとくね。ごめん」

 そして、どこか突き放すようにこう訊いた。

「進藤くん。じゃあ、どうして退部届出していないの?」

 嫌な感じで心臓が軋んだ。

 森にも、涼にも、嵐山にも訊かれなかった。

 あいつらはただ、戻ってこい、待ってるとしか言わなかった。辞めるつもりなら早くしろと急かすことはしなかった。退部届を出さないのなら、戻ってくるんだよな? と言外に言っていた。そしてそれはたぶん、今の宙見も。

「……ずっと決めてはいたんだ」

 部屋の机の上でずっと書きかけのままの退部届を思い浮かべながらもそう答えると、宙見が変な顔で笑った。

「ウソ」

 力強く言う。

「誰にも『辞める』ってはっきり言わなかったじゃない。迷ってるってことでしょう? ちっとも決まってないんだよ。ずっと決まってたんなら、もっと早く退部届出せばいいんだから。決まってないから、未練があるから、諦めきれないから、ずっとずるずる答えを引き延ばしてきたんでしょう」

 駆は返す言葉を探す。

 必死に探す。

 あるはずだ。何か。退部届をずっと出さずにいたそれっぽい理由が――でも自分のつま先から頭のてっぺんまで探してみても、言葉は見つからない。ない。そんな理由は、どこにもない。

 宙見が言った以外の理由が、見つからない。

「私に言う資格ないのはわかってる。進藤くんが言う通り、私、自分が怪我すべきだなんて言うべきじゃなかった。ごめんなさい。でもね、やっぱり進藤くんが怪我をして、そんなふうに思いつめてしまった原因を作ってしまったとは思うから。本当はこういうことを言うのは、きっと曲野くんとか、森くんの役目なんだろうけど」

 どうだろう。

 あの二人に言われていたら、否定する言葉を見つけられたかもしれない。ひょっとしたら――でっちあげでも。

 だけど宙見に言われると……ダメだ。この子はソラ先輩と同じ目を持っている。いつでも心の奥底まで見透かしていそうな、夏のビー玉みたいな瞳。

 だから認めざるを得ない。

 ……そうだ。

 退部届を出さなかったのは、迷っていたからだ。自分で退部届を出す勇気もなく、だから追いコンというタイムリミットを逃げ切れば辞められると思っていた。自然に。誰に何を言うこともなく。だけど自分自身がそれを嫌がった。だから足がここへ、自分を連れてきた。この場所へ。藤ヶ丘高校硬式庭球部へ。

「さっき進藤くん、戻ってもブランク戻すだけで終わっちゃうって言ったけど。私はそんなことないと思う。絶対、ちゃんと選手として、コートに戻ってこれると思う」

「気休めはいいよ」

 駆は乾いた声で笑った。

 迷っていたことは認める――それは今でも。

 だけど、事実は変わらない。部に戻れば、あのとき部に戻ればよかった、なんて後悔はしないで済むだろう。でも逆の可能性が浮上するのだ。今年の都立戦に出られずに、コートの外から眺めるだけの――あのとき、戻らなければよかった、なんて。

「頑張ればなんとかなる! 諦めるな!」

 びくっとした。

 宙見が叫んだのだ。

 それはとてもありきたりな言葉で、今の駆が一番嫌いな綺麗ごとだった。

 にもかかわらず、耳にした瞬間涙腺が緩んだ。

 と思ったら、視界は滲んでいた。

 もう宙見の顔が見えない。

 頑張ればなんとかなる、なんて。

 諦めるな、なんて。

 そんな漫画みたいなセリフ、どうしてそんなまっすぐに言える。

 どうしておまえがそれを微塵も疑わず信じている。

 オレの体のことは、オレが一番わかっているはずなのに。

 どうしてオレよりも、オレの可能性を知っているみたいに。

 涙は止まらなかった。

 自分の中のどこにこんな水分が溜まっていたのだろう。

 くしゃみが一つ出た。

 右腕もむずむずする。体中がむずむずしている。

 テニスがしたい、と思った。

 無性にテニスがしたい。ボールを打ちたい。

 そして今年の夏に、またあのコートの上へ。

「宙見」

 駆は目を拭った。

「うん?」

「……ごめん。色々」

 宙見の笑う声がする。

「ううん。私こそ」

 宙見がポケットに手を突っ込んで、さっきのボールを取り出す。ぽーんと放られたそれは、駆のギプスで固められた右手に吸い込まれるようにおさまった。

 


1-0




 春になって新入部員が入ってきた。今年の教育係は村上らしい。おまえじゃないんだな、と嵐山に言ったら「向いてると思います?」と真顔で訊かれた。駆も人のことは言えないが、確かに一年に教育する嵐山というのは想像しがたい。一年前より幾分印象のやわらいだ今でも、嵐山はどっちかといえば取っつきづらいタイプだ。

 藤ヶ丘は去年の実績はあまり振るわなかったが、それでも有望そうな一年が何人か入ってきてくれている。新二年の代もそれなりに粒は揃っているし、来年を託すのに不安はない。もうそんなことを考える時期なんだなとぼんやり思う。いつかの先輩たちの立っていた場所は、思っていたよりも高くない。

 女子部には一人、おもしろい女の子が入ってきていた。青山春、と名乗った彼女はあの琢磨と同じ中学出身なのだという。「お久しぶりですー、ぼっち先輩」と、確かになんとなく話しかけづらい雰囲気を出している琢磨に物怖じもせずにずけずけと話しかけて周囲を冷や冷やさせる反面、一部の人間をニヤニヤもさせている。どこかゆるゆるとした雰囲気なので、多少なりとも規律に厳しい高校運動部の世界に馴染めるのか心配だったが、先輩の言うことはよく聞いているようだ。いい子ですよーと女子部教育係の白石がにこにこして言っていたが、藤村に言わせれば猫を被ってそう、とのことで駆から見てもおそらくその認識は正しい。もっとも、入部当初なんて大概の一年は猫を被っているのでそれはそれで悪いこととも言いきれない。

 そんな部にしれっと戻ってきてしまった自分も、最近は大概猫を被っておとなしくしている。

 追いコンの日、宙見の陰にこそこそ隠れるみたいにしてコートへ行ったら、気づいた森と涼にあっという間に連行されて、腕が使えなくても審判できるだろ審判! とずっと審判台に座らされた。それなりに根には持たれていたようで、自覚もある分、駆としては部員には基本頭が上がらない。

 四月になってギプスが取れ、ボルトも抜けた。最近は医者の指示に従ってリハビリに励んでいる。医者からゴーサインが出るまでラケットは当然振れない。練習には一応出ているが、激しい運動は厳禁なのでだいたいは見ている。


 インターハイ予選に向けて、ここのところ琢磨は嵐山とダブルスの練習を行っている。駆は当然出場できないし、森とリョウのダブルスはずっと練習してきたので今さら崩すわけにもいかないらしい(調子はよさそうだ)。駆がD1に入る可能性も残されているが、ひとまずは現状の戦力で浮かせるわけにはいかない琢磨と嵐山が組むのに異存はなかった。普段琢磨はバックサイドだが、嵐山は左利きなのでこれをバックサイドに置かない手はない。琢磨としては珍しくフォアサイドをやることになるようだ。

 練習を見ている限り、二人のダブルスにさして問題は感じなかった。嵐山は新人戦のときにダブルスで散々な結果を残していたが、ここ半年ほどで少しはダブルスのいろはもわかってきたようで、以前ほどの拙さはない。何よりその強力なサウスポーのサーブとフォアハンドは、ダブルスバックサイドにおいてもやはり得難い才能だ。そして嵐山自身、練習にはいつになく真剣な面持で望んでいる。

「進藤が本当の意味で復帰できるかどうかはまだわからない」

 練習中、琢磨が嵐山に言っているのを聞いた。

「仮に練習には戻れても、ブランクを戻せない可能性はある。あいつが戻ってくることをあてにするなよ。おまえと俺で都立戦ダブルスを戦わなきゃいけない可能性は十分あるんだ。仁や天本を、おまえが倒さなきゃいけないかもしれない」

 技術的に高いものを持っているのは周知の事実。部内で四番目を張る未来のエースだ、実力を信用しているからこその言葉だろう。そして駆にとっては耳が痛く、厳しい言葉でもある。

 駆は練習のとき、最初と最後だけコートに入っている。部長として練習の最初の挨拶とか、連絡事項を伝えるためだ。副部長である森がやってもいいのだが、おまえがやれ、と森本人が言うので駆がやっている。その後はすぐコート外に出て、練習を見ているか、たまにリハビリっぽいことをしている。ギプスのとれた右腕は目に見えるほど細く、小さくなっていて、本当に元に戻るのかと不安になるほどだ。ギプスがついていた頃から肩関節など負傷のない部分は意識的に動かして、筋肉が萎縮しないようにしていたが、肝心の前腕部がこの細さでは結局リハビリにはかなりの時間がかかりそうに思える。

「腕、動くの?」

 と森に訊かれ、

「ん、一応」

 と見せた動きは自分でもまるでロボットのようにぎこちなく、ナマケモノのように緩慢で森もしかめ面だった。もっとも、手首や肘のような関節を折ったわけではない。筋肉の委縮と関節の拘縮――要するに動かさずになまってしまった腕の機能を取り戻しさえすれば、骨はすでに繋がっているので理屈上は元通りの動きができるはずだ。

 リョウや森とはそんな話を笑いながらしている駆だが、琢磨とは会話にもなっていなかった。

 入院中、一度も会いには来なかった。

 深い理由はなかったのだと思う。あいつは合理主義だ。必要がないと思ったら来ない。他の部員が行けばいい、とか、自分はお見舞いなんてキャラじゃない、とか思っていそうだ。

 それに話しかけづらいのは駆だけじゃない。

 部に戻って目の当たりにした琢磨は確かになんというか――オーラに包まれているのだ。上手く言えないが、それはたとえるなら目の前にプロの選手がいるような――そのテの有名人が立っているだけでも垂れ流し続けている威圧感とでも言うか。

 要するに、気圧される。

 琢磨の雰囲気に、呑まれそうになる。

 琢磨がサーブを打つだけでコートがしんと静まり返るときさえある。

 強くなっている、と思った。骨折していたときに校舎から琢磨がサーブを打つのを見たことがあったが、あのときよりも速い。コートで受けなくてもわかる。まだ強くなるのか。一年の頃を思うと、差は歴然だ。入部当初ですら天才と言われ、実力者ぞろいの先輩たちに混じって平然とボールを打っていたこいつを三年生として見据える今の一年が、少しだけ憐れにも、羨ましくも思える。キラキラした目で琢磨のサーブを見ている一年が、こいつの背中を追っていずれはチームの中心になっていくのかと思うと頼もしくもある。そんな一年に話しかけられても、琢磨は淡々として必要最低限の言葉しか交わさないのだが。

 最近の琢磨は誰ともあまり話さない。

 まあしかし、やはり自分と話さないのは他とは少し理由が違うのかもしれないと駆は思う。

 喧嘩じゃない。というか、喧嘩だって今さらという感じだ。一年の頃から散々喧嘩しているし、周りも「ああ、またか」という感じで驚きもしない。琢磨と森が喧嘩したときの慌てようからするといっそ寂しいくらいだ。

 それとは違う。だからたぶん、周囲も微妙に気を遣っていて、二年まで曲がりなりにもチームのダブルスを支えてきた凸凹コンビのことを、変にからかうこともできないらしい。



 四月のインターハイ個人予選・シングルスで、駆は琢磨の真価を目の当たりにすることとなった。

 シングルスは誰の試合を観に行ってもよかったのだが、なんとなくというか、やはりというか、琢磨の試合をずっと観ていた。二週目の会場に山吹台の天本が来ていて、お互い勝ち進むと当たる。というか、当たることは確実視されていた。すでに周囲は私立の強豪校選手ばかりの中、公立出身の二人がマークされているのはちょっと小気味いい。

「ほんと今年の都立はバケモノぞろいだぜ」

 同じ会場に来ていた森が呻くように言う。

「山神、曲野、天本はセンスだけなら間違いなく東京で五本の指だからな。なんで全員公立なんだって感じだよ。山吹台はまあ不思議じゃねえけど、今思うとなんで曲野、藤ヶ丘入ったんだろうな」

「ホント今さらだな」

 駆は笑う。あいつのことだ、大したことは考えちゃいねえだろ。理由を聞いたことがあるような気もするが、覚えてない。

「いずれにしても三人とも山吹台じゃなくてよかったな」

「まあそういう考え方もあるか」

 森が頭をぽりぽりかいているうちに天本の試合が始まる。

 相変わらず淡々と針の穴を通すようなコントロールで相手を振り回し、自分はのらりくらりとオープンスペースに決めていく。腹が立つくらいに冷静でブレない。これは琢磨でも苦戦するだろう。どちらも自分から強打していくタイプじゃないが、自分が主導権を握っていれば長いラリーも苦にしない天本と、展開がどうあれ長いラリーを嫌う琢磨では、どうしても琢磨から先に仕掛ける展開になる。先に攻める方は焦りが出やすい。そういう意味では琢磨の方が不利に思える。

 天本には以前、涼が勝っているが、あのときの天本は復帰してからまだ数ヶ月だった。オフを越えてきた今、体力はアップしているだろうし山吹台で揉まれているのなら技術的にも向上しているはず――それは目の前の試合を観ていてもやはりそう思うし、自分が戦うわけでもないのに身が引き締まるのを感じる。

 一方の琢磨も淡々と勝ち上がっていた。私立の猛者相手だというのに格下のように蹴散らしていく。以前はロジャー・フェデラーやマルチナ・ヒンギスに喩えたりしていたのだが、もはやそれも違うのだと思った。あれは、曲野琢磨という選手だ。猛々しいまでの攻撃的ネットプレー、そのアグレッシブさにそぐわない繊細優美なタッチ――観るものを惹きつける。誰もが食い入るようにその一挙手一投足を見つめる。琢磨はソラ先輩や、サメ先輩にあったものを持っていないが、二人になかったものを持っている。山神とか……きっと天本も持っている。才能なんて言葉で片付けるのは容易いが、正しくはないと思う。でもそれ以外に適当な言葉も見つからない。もう少し近い表現をするなら……自分には決して真似できない、届かないものには嫉妬すらできない、という感じ。

 順当に勝ち進んだ琢磨と天本のカードは、午後の最後の一試合としてコートDに組み込まれることになった。


 アップはどちらも静かにサーブを打っていた。フォアサイドから二本、バックサイドから二本。どちらも肩の具合を確かめるように、軽く流してベンチへ戻る。上手いやつほど、アップはボールの行方よりも体の調子を気にする。

 琢磨の言いぶりでは、天本と直接やり合ったことはないようだが、お互いに名前は知っているのだろう。試合前のトスで何か言葉を交わしているように見えた。涼から聞いた話だと天本は意外とおしゃべりらしい。見た目通りに無愛想な琢磨とは微妙に違うタイプの選手だ。

「どっちか勝つかな」

 と、誰かが言った。

「そりゃ琢磨だろ」

「だな」

 森と声を揃えて答えてから、はっと振り返る。立っていたのは尾関だった。

「おまえ、試合は」

 駆が訊ねると鼻を鳴らす。

「終わったから来てんだろ。負けたよ」

「相変わらずあっさり言いやがるな。最後のインターハイへの挑戦だってのに」

「怪我したやつに言われたくないね」

 駆がぐっと言葉に詰まった隙に、ひょいと隣のスペースに割り込まれた。

「ちょうどこれからか」

 味方の試合を観るわりに、あまり緊張感のない声だった。

「……おまえはどっちだと思ってるワケ?」

「なにが?」

「自分で訊いたんダロ。どっちが勝つかって」

「ああ……どうだろうな。最近幸久は調子良さそうだけど。十本やったら仁から三本は獲るからな」

 まじか。すげえな。

「……おまえ、あいつとやったら何個獲れる」

「負けるの前提かよ」

 尾関は眉根にしわを寄せた。

「こないだは1-6だった」

 憤慨はしても否定はしないのか。言外に勝ったことはないというニュアンスも聞き取れる。

「マジか」

「おまえこそ、曲野とやったらどうなんだ」

「今はわかんねえよ。前にやったときは5-7」

 去年の都立戦前だ。その後、ガチンコでやり合ったことはない。

「ふーん。じゃあ幸久かもな」

 尾関はつまらなそうに言った。どういう意味だよ、とツッコむ前に試合が始まる。

 サーブ権は琢磨が取ったようだった。ボールを静かについている。見慣れているはずのルーティンだが、以前よりもなんだか落ち着いて見える。集中に沈む……そんな感じ。

 どう攻めるのだろう。天本は極めてリターンのいい選手で、そうそうエースが獲れないことは琢磨もわかっているはずだ。自分ならストロークでガンガン押して走力勝負に持ち込む……それしかない。小細工は向こうの方が遙かに上手だし、ストローク以外で劣っているのは歴然だ。だが琢磨なら――技術巧者という意味では琢磨も名の知れた選手だ。タッチそのものは天本をもしのぐ。ラリーを長く続けたくない以上はネットプレーを主軸に戦うつもりだろうが、そんなことは天本だってわかっているだろう。サービスゲームはサーバーが圧倒的有利で、かつ琢磨は都内でも有数のビッグサーバーということを考えると、やはりサーブ&ボレーか。

 ぽーん、とボールが上がった。

 いつもより、トスが高い気がした。

 ボールを待ち受ける琢磨の動きを遅く感じる。

 力みのないリラックスしたフォーム。

 けれど一度動き出せば、目にもとまらぬスイングだった。

 天本がぴくり、と反応した。

 それだけだった。

 ボールはすでに天本の背後のフェンスを激しく揺らしていた。

「15-0」

 審判のコールに、天本は異議を唱えなかった。駆には見えなかった。だが天本には見えたらしい。見えたが反応はできなかった――微妙に悔しそうなその表情は、そんなふうに物語っているように見えた。

「……珍しいな」

 尾関がぽつりとつぶやく。

「すっげ」

 森が素直な感想をつぶやいている。

 続く二球目。

 再び炸裂するファーストサーブ。

 今度は天本が動いた。ワイドへ突き刺さるえげつない角度のフラットサーブに、伸ばしたラケットの面だけで綺麗にロブを上げる。

「ありえねえ」

 森がぼやいた。

 触るだけでもすごいが、あの一瞬のタッチのみでコントロールまでしているのだとしたら確かに驚異的だ。

 かなり深いロブだった。駆なら一度落として、グランドスマッシュかフォアハンドを選択するところだ。あれだけのサーブを打って、ここまで完璧に拾われるとそれだけでも精神的にクる。ダイレクトで打ってミスをすれば目も当てられない。

 琢磨は下がらなかった。

 ラケットを振りかぶる。

 まるでもう一度サーブを打つみたいに――天本の上げたロブがトスであるかのように、迷わずぶっ叩いた。

「30-0」

「まじか」

 天本のぼやきが駆の耳にも届いた。ポイントが決まったにもかかわらず、それくらいコートはしんと静まり返り、あの天本幸久がわずか二本のサーブで圧倒されるという異様な光景に誰もが見入っているようだった。まだファーストゲームだぞ、と誰かがつぶやく。確かに。流れが来ていると断じるにはあまりに短い時間しか経過していない。にもかかわらず、間違いなく今押しているのは曲野琢磨の方だと、誰もが感じているのが駆にもわかった。

 三球目。

 センターへのフラットサーブは完全にオンラインだった。またしてもサービスエース。

 四球目はやっとセカンドサービスになったが、ほとんどファーストなんじゃないかという勢いで曲がるスライスサーブに天本が食いついた瞬間、琢磨はすでにネットに詰めていてそれで勝負は決した。お手本のようなサーブ&ボレーに天本はラケットと左手を合わせ小さく拍手を送る。

 あっという間の一ゲームだった。二人がサイドをチェンジする。

「珍しいな、幸久がリターンでラブゲームは」

 尾関がまたつぶやいた。

「どっちも十分おかしい」

 と、森。こっちには全面的に同意だ。ほんと、なんなんだ今年の都立は。


 天本もサービスゲームは譲らずキープし合う展開になったが、それでもゲームは終始琢磨が流れを支配していた。サービスゲームの内容が違い過ぎる。ほとんどラブゲームでかっさらっていく琢磨に対し、天本は琢磨にリターンから攻め込まれて苦戦する場面が目立っている。それでも落とさないあたりはさすがの一言だが、試合前の予想とは異なり天本が一方的に押し込まれる展開は本人にとっても予想外だったのだろう、あまり感情を露わにしない彼が珍しく苦悶の表情を浮かべている。

 似たような試合を駆は知っている。

 他でもない自分が戦ったのだ。よく覚えている。

 琢磨がスランプを脱した去年の夏の試合だ。

 あのときも、途中から琢磨のサーブが鬼のように速くなった。リターンがハーフボレーみたいなタイミングで返ってきて、あらゆるボールでネットを取られた。跳ねないドロップショットに、キレッキレのスライス。すべてのショットの精度が、神懸かっていた。

 あのときの琢磨は、凄まじく集中していた。ああ見えてムラっ気が強い選手だ、ここぞというときに完璧な集中を見せることができないのは本人も認めている。実際、去年の都立戦でも大事な試合ほど集中できずに悔しい思いをしていた。緊張とか、プレッシャーとはどちらかといえば無縁だが、それは自分一人の戦いに限った話なのかもしれない。チームを背負って戦うことに慣れていない琢磨は、そういう状況で集中力を欠く。

 だけど今日は――きちんと、ここぞで最高のプレーができるように、集中のピークを持ってきたのだろう。

 これがオフの成果なのか。

 これが曲野琢磨という選手の完成形なのか。

「やっべえな」

 置いていかれた、という強烈な感覚。

 そして同時に湧き起こる、奮い立つような闘争心。

「森」

 トスを上げる琢磨の背中を見つめながら、駆は隣のチームメイトにぽつりとこぼす。

「ん?」

 首を傾げる森に向かって、牙を剥くように笑う。

「やっぱオレ、戻ってきてよかったわ」

 森が一瞬目を見開いた。

「あれ見てそう思うのかよ。変態だな、おまえも」

 言葉のわりにニヤニヤしていた。たぶん駆も、ニヤニヤしていた。


 曲野(藤ヶ丘高校)VS天本(山吹台高校)

         6-3