日曜日の隣人


 男は三十まで童貞を守ると魔法使いになれると言われているけど、女は処女でもそうじゃなくても、三十過ぎると問答無用で透明人間になれる。

 否、透明人間にされてしまう。

 魔女が着るような深い紫色のドレスに身を包んだ花嫁が私にそう耳打ちをする。

「露骨だよお、自己紹介のときに三十ですって言った途端、さっさと話切り上げられてる人見たもん。無だよ、無。みっちーみたいにトーキョーで仕事してるとぴんとこないかもね。まだ二年ちょいあるけど、でも、もう、さすがに運命の出会いとか望む年齢じゃないよお?」

 つい数時間前のことだ。新幹線で一時間程度の距離にある地元で行われた結婚式。花嫁は高校のときの同級生で、半年間の婚活の末、見事、運命ではない出会いを果たして、永遠の愛を誓った。

 彼女に聞いてみたい。

 ……はたして、私のこれは運命の出会いでしょうかね?

 住み慣れた五年目のマンションの部屋は、計画性の無い買い物のせいで物が溢れている。安かったから、流行っているから、強くすすめられて断れなかったから、そのせいで収納するための収納するための収納が必要になる悪循環。おまけにぶら下がり健康器なんていう大物まであって、八畳間を無駄に消費している。

 最寄駅から六分の距離の間でさえ、うなる三月半ばの冷たい夜風は容赦なかった。綺麗にセットしてあった髪の毛はぐちゃぐちゃで、もうさっさとお風呂入って寝たい、徹夜明けでも仕事に行ける年齢じゃないんだよ、二十七歳ってのはさあ、なんてやさぐれながらキッチンを通り過ぎる。

 部屋への第一歩目で、かさり、毛足の長いラグではなくてなぜか落ちていた紙きれの感触があった。電気のスイッチに手を伸ばしながら、そう言えばエアコンも入れてないのになんで部屋がちょっとあったかいんだろう、とぽつぽつ不可解の種に気付きだしたところに――――彼がいたのだ。

「ああ、良かった……」

 シーリングライトに照らされた部屋の中、心底安堵したというような掠れた男の声。

 どさりと引き出物とバッグを取り落とす。

 おそるおそる声のしたほうへ視線をやる。

 ……か、顔はめ看板?

 予想外すぎて悲鳴が出てこなかった。二次会でお酒飲みすぎたかな。違う、それなりにセーブしたし、これは見間違いじゃない。

 白い壁紙に、穴が開いている。

 ドアから向かって右側の壁、この角部屋五〇一号室と隣室との境界。その中央の一部分がぶち抜かれているのだ。

 壁の向こう側、最初に目に飛び込んできたのは青だった。眼鏡の色だ。ごついセルフレームの青縁眼鏡をかけた、同い年くらいの黒髪の男がこちらを覗いていた。

 ……てっ、敵襲――――――――っ!

 脳内法螺貝大音量。自宅という安住の箱庭になにこの抜き打ちの文科系イケメン。なんのテストですかこれ。

 しかも、私と目が合った瞬間、男の瞳からは、ぽろり、と涙がこぼれた。

 え、え、え、え、と慌てふためいて、警察かタオル、という人生初の二択が私の頭に浮かんだところで、男は緩慢な動作で頬に手を当てた。泣くという機能を搭載されていたことに初めて気付いたアンドロイドのようだ。無表情のまま溢れ出る涙を袖で拭うと男は口を開いた。

「あやし、いも」

 噛んだ。

「あやしいものではありません」

 あやしさしかない。

「……どちら様ですか」

「ぼくは隣人です」

「ですよね」

「はい」

「私も隣人です」

「だと思ってました」

「奇遇……ですね」

「まったくです」

 普段、廊下などで他の住人と鉢合わせになることはほぼない。

 越してきたときに挨拶もしていない。この部屋のカーテンが、私の好きな赤系や花柄ではなく落ち着いた緑一色であるのと同じで、防犯対策だ。女の一人暮らしであるというアピールをわざわざしてはならない。もしかしたら彼が後から隣に入居したのかもしれないけど、接触を図られたことはない。だから。

「……はじめまして」

「はじめまして」

 初対面なわけだ。ぺこり、とお互い会釈する。

「残り一週間ですので」

 隣人が言う。なにが。なにこれ。ていうかそもそもなにこの状況。思わず世間話しちゃったけど、もしかして私の余命宣告かなにか? お前を殺すぞってこと?

 ピ。

 へたへたとその場で腰を抜かすと、小さな電子音とともに部屋が暗くなった。転がっていた電気のリモコンにお尻が当たったのだ。

 穴から隣室の光が入ってくる。

 反対側の壁に伸びるスポットライト。

 男が体を半歩横にずらし、意味ありげに穴の中央に右手を掲げる。

 きっと逃げ出すべきなのに、隣人の動きから目が離せない。

 体は動かず、脳みそはこんなときだというのに今日の結婚式のことをのんきに振り返っている。私の司令塔は早々にすべてを諦めて、これまでの記憶を走馬灯のように駆け巡らせることに決めてしまったらしい。


 披露宴が終わり、二次会までの待機時間。チェーン店のファミレスのボックス席には、着飾った女四人の姿がある。新婦様ご友人たちだ。

「あの子、総合職受かったとき、私とかみっちーに『事務職って嫌じゃない? なんか養ってもらってるみたいで。いなくてもいいっていうか派遣にすぐ取って代わられそう』とか言ってたじゃん! なーのーにぃ、自分があっさり退職してんじゃん!」

 赤いソファに腰掛け、レアチーズケーキにフォークをぐさぐさ突き刺しながら花嫁の文句を言う彼女は既婚者だ。子供は持たずに経理の仕事を続けている。

「まあでもしょうがないんじゃない? たいそうなこと言ってても、人生ってなんだかんだ世間の波に流されるって。だからうらやましいよ、みっちーみたいに一人で生きていけるのって」

 その隣でおかわりしたコーヒーに砂糖を入れてぐるぐるとかき混ぜる彼女はパート主婦で二児の母。今日はちびたちは旦那が面倒見てるから久々にのんびりできるよ、と嬉しそうにしていた。

「わかる、わかる、私、絶対無理ぃ! 寂しくって死んじゃう! みっちーすごい!」

「生き方とか変えるのもう絶対手遅れだもんね。時間切れになる前に駆け込めー! とか焦らないの賢いよ!」

「そ、そうかなあ、えっへっへ、照れますなあ!」

 私は鈍感ぶっておどけて笑う。座っている木の椅子がぎし、と鳴った。対面する彼女たちがマウントを取りたがっていることには気が付かないふりをしておく。正直にむっとしたり、かっとしたり、しゅんとしたりしたら空気が悪くなってしまうから。

 なにより、怒りだったり、不快感だったり、そういう負の感情を表明することは苦手なのだ。

「でもね、私だって五年間彼氏がいないのは別にドラマティックラブロマンスがこの身に降りかかるのを期待してるわけじゃないんだよ。ただ、なんていうのかな、そう、一人のほうが気楽っていうか、今、結構多いらしいよ、こういう人……」

 って、あ、だめだこれ、嘘ってわけじゃないけど、口に出した途端、単なる強がりにしか聞こえないやつだ。

 家族連れやカップル、十代の集団による店内のざわめきに私の語尾は吸い込まれていく。正面からはみなまで言うなとばかりに温かい視線が送られてくる。

 一人でいることって、どうしてこんなに引け目を感じてしまうんだろう。

 私、このままでいいのかなあ、という手垢のついた不安。地元に戻るといつも現実が迫ってくる。別に東京での暮らしが夢みたいだとかふわふわしているとかいうわけではないのに(そもそも職場も住居も郊外だから、彼女らが想像するほど華やかなところではない)。

 なんとなくうつむき加減になる。テーブルの下、ここにいる全員、ドレスのスカート丈は膝より下で、過度な装飾のないストッキングで、つま先の露出していないパンプスで、マナーをそつなく守っていて、それを窮屈だとは多分誰ももう思ってない。いつの間にか外見はもっともらしい大人になってしまっている。

 ちら、と隣の友人を見る。この場でもう一人の独身者。田舎にいるぶん私よりもよほど息苦しい思いをしていそうだ。なにやら楽しそうに携帯を操作していた彼女は、私の視線に気が付くと、ごめん、ごめん、と手を止めた。

「チケット譲った人からお礼きてて」

「チケット? コンサート?」

「プロレス。ファンクラブ先行今日うっかり取っちゃってたから」

「えっ、好きなの? 怖くなあい? なんだっけ、プ女子ってやつ?」

「怖くないって、毎日めっちゃ楽しいよ! チケットのために仕事頑張ろってなるし、英語マイク聞き取りたいから英会話超頑張ってるし! あー、みっちーいいよね、東京。興行いっぱいあるし、聖地後楽園ホールも……って、ごめん、電話だ!」

 目を輝かせて語っていた彼女が席を立つ。その背中が遠く離れたところで、私以外の二人が苦笑する。

「あいたたたたー! だね」

「現実逃避? 普通にお金貯めといたらいいのに。アイドルとかバンド追っかけんのと同じじゃあん。それ許されるの十代、いいとこ二十代前半だよね」

 私は同調する気になれず、天井で回るシーリングファンに目を向けた。友人たちの会話も、同じフレーズを何度も繰り返す有線放送の流行曲も、ぼんやりと遠く聞こえる。

 結婚。子育て。趣味。

 一心に目指す場所がある人はいいなあ。ひたすらに愛している相手がいる人はいいなあ。がむしゃらに打ち込むものがある人はいいなあ。

 私にはなにもない。一応の仕事はあるけれど、これといった能力も学歴も職歴も、誇れる美貌もなくて、そしてアラサー。

 好奇心が衰弱していく。心動かされるものがどんどん少なくなっていく。なにごとにも興味と関心を芯からは持てず、新鮮味のない毎日が続く、人生の不感症。

 きっと、うっすらとした不満を抱きながら、死ぬまで閉塞感に包まれて暮らしていく。くる日もくる日も今日と同じような日があと、三十、四十、五十、六十年……。

 それでも、現状を変えられればと今年のお正月に抱負リストを作った。

・英会話(今年こそ)

・ダイエット(今年こそ)

・ちゃんとした自炊をする(今年こそ)

・恋?(好きな人ができない……)

 行きづまったアラサーがやりがちなことトップスリー(英語、ダイエット、料理)を網羅していて恥ずかしすぎる。最後なんかもはやただの愚痴だ。

 しかも、すでに全滅している。正直に言うと、一月段階で挫折した。楽なダイエット法を探し、今、これに再注目! という記事に踊らされ、案の定持ち腐れたぶら下がり健康器に至っては、部屋の隅で恨めし気にほこりをかぶっている。

 情熱もない私にふさわしい退屈な日々。

 ああ。

 ――――――ときめきが欲しい。

 人でもいい。ものでもいい。なんでもいい。

 それがあれば毎日がきらきらする、そういうのが欲しい。

 なんたる他力本願。いやね、私もね、まさか、アラサーになってこんな思春期みたいなことを考えてるとは自分でもびっくりですよ。

 子供のときはこの年代、すごく大人に見えたのに、私、全然ちゃんとしてないや。


「もしもーし」

 壁に開いた穴の向こう、あと一週間という謎の告知をしてきた隣人の声に、我に返る。なにをされるんだろう、と息を呑んでいると、隣人は右手をすっと狐のかたちにした。

 …………え?

「怖くないですよ。取って食ったりしませんから」

 ふ、とうっかり笑ってしまった。

 壁のピンスポの中、隣人による狐の影絵が喋っている。こちらを安心させようとしているのか、精一杯の裏声で、だ。か、可愛いことしやがってー!

「ぼく、次の日曜日に引っ越すんです。それで引っ越し準備をしていたんですけど」

 朝方、うっかり倒した金属の収納ラックの角が、壁にクリーンヒット。家具、壁を穿つ。様子を見ようと手を伸ばしたら、貫通している部分のまわりの壁もぼろぼろと剥がれ落ち、結果、ご覧の穴の出来上がりです、ということらしい(よく見たら、こちらの穴の真下に壁材らしきものが散乱している)。

 さらには、大家に問い合わせたら、こう提案された。修理の査定は、引っ越しの立ち会いの際、業者呼んでまとめてやろっか。そのほうが合理的でしょ。お隣さんにはこっちから電話入れとくから。

 ……二次会の最中、大家さんから電話がかかってきていたのってそれ!? 今の今まで放置していたけど、それでも待ってよ、私の同意を先に取ってよ! SNSに投稿したら炎上するやつだよ大家さァん!

「残り一週間ってそういう……」

「はい。そういうことなんです」

「あ、あの、普通の声で喋ってもらって大丈夫です」

「そうですか」

 気遣いのつもりだったのだろう、隣人はずっと裏声で喋っていた。感情が表に出にくい人なのか、声に抑揚が一切なくてシュールだったけど。

「本当に申し訳ありません。……部屋の中を物色などしてないですよ」

 言われて初めて室内の状況に思い至る。

 ぶら下がり健康器に部屋着が引っ掛けてある。洗濯物が取り込みかごに放置してある。部屋中央のローテーブルの上の本が雪崩れているのは、壁からの衝撃によるものだろうか。テーブル下の収納スペースからメモ帳も飛び出し散らかっている。軽く惨事だ。

 私は洗濯物の上にかけ布団を投げて隠す。崩れた本やメモ帳、踏んだ紙も、ろくに確認せず、適当に手さぐりで拾って、壁の穴の斜向かいに設置してある本棚にまとめて突っ込んだ。

「体で払います」

「はいっ?」

 電気をつけると同時に、真顔で隣人が突拍子もないことを言い出した。

「こんなことになってしまったお詫びをさせてほしいんです。この事故に対するお詫びは金銭では気が済みません。ぼく、なんでもしますから」

 人妻かきみは(エロ漫画とかAVとか都合のいい妄想に出てくるタイプの)。

「なにか欲しいものはありませんか」

 ときめき。

 ……と、反射的に口にしそうになったのをなんとか留めた。

「ないですか? 食べたいものは。行きたいところは。やりたいことは。会いたい人は。やっつけて欲しい人とか。なんでもいいんですよ。なにかないんですか。どうぞ、なんなりと」

 隣人はやけに必死だ。事故とはいえよほど罪悪感に駆られているんだろうか。

「壁が直るんなら、それでいいですよ、なにもいりません。私、今すぐ死んでも思い残すことはないくらいですから!」

 少し気の毒になってしまって、こっちが完全なる被害者にもかかわらず、冗談めかして笑ってみせた。

 私の無駄なサービス精神に、隣人は、そんな、と、絶句している。

 ……そこまでしてお詫びってしたいものなの?

「壁の穴だって、家具を移動するとか、なんか飾ってごまかしちゃえばいいだけですよ! あっ、ほら、うち、全身鏡ありますから、これなら運びやすいですし。応急手当て的にピザのDMとかでも。そっちからもなにかで遮ってくれればそれで」

「穴をふさぐつもりですか」

「え? もちろん。なにかふさぎたくない理由でも? ……あ」

 通帳でも狙われているんだろうか、などという思考は強制的に遮られた。

「どうしました?」

「……く、くく」

「笑っ……、てます? なにか楽しいことでも?」

「く、蜘蛛!」

「くも?」

 天井から巨大なアシダカグモがかさかさと姿を現し、穴付近で止まったのだ。叫びたいくらいに恐ろしいけど、迷惑をかけたくなくて必死に我慢する。

「そ、そっちに行っちゃうのではやく穴をふさ……」

「どちらにいます?」

「え? すぐそこに」

 私が震える指で壁を示すと、穴からにゅっと隣人の手が伸びてきた。そのまま蜘蛛を素手でつかんでしゅっと壁の向こうに消えていく。直後、あああああという悲鳴、なにかにつまずく音、床を転がって乱闘する音、がらりと窓の開く音、そして、ぴしゃりとそれをしめる音が続いた。

「外に出してきました」

 戻ってきた隣人は息を切らせつつも、顔は少し青ざめている。

「もしかして、蜘蛛、だめなんですか」

「……ばれちゃいましたか。すみません、ぼく、殺せなくて」

「お、落ち込まないでください。益虫ですし! 価値がある命ですよ」

「あなたの命にも――――――、価値がありますよ」

 ものすごい重大発表のようにもったいぶって言われたけど、なんで蜘蛛と並列されにゃならんのだ。

「無理してくれなくてもよかったんですよ。一人暮らし歴は長いので、私だってなんとか退治できますし……」

「これであなたがぼくを信用してくれたらいいなあという打算も込みの行動なので気にしないでください」

 真摯な顔で言っちゃうの、それ。苦手な蜘蛛を頑張って追い払ったのは事実なんだから黙っておけばいいのに、なんたるばか正直。

「信用、っていうのは?」

「ぼくがあなたと話をしたいから」

「なんで……」

「思い残すこと、なにかあるはずでしょう。きっと、他人と話すことで自分の考えを整理できますよ。探しましょう、それを。ぼくはすぐにいなくなるし、下手に気心が知れた相手よりも適任です。感情のごみ箱みたいなものだと思ってもらえればいい。あの、その、ぼく、どうしてもこの穴のお詫びをしたくて」

 隣人は異常に律儀な人なのか、貸し借りを作らない主義なのか、それとも―――なにか、ほかに、狙いがあるのか。

 涙は流すくせに笑顔はちらりとも浮かべない不思議な青年。

 でも、悪い人ではなさそうだ。

 彼はお詫びがしたい。

 私はときめきが欲しい。

「一週間。ぼくと話をするためにここに帰ってきてくれませんか」

 ……これは、もしかしたら、Win‐Winなのでは?

 目立たないけどよく見たら整っているというこの地味顔イケメンと恋に落ちたいわけじゃない。けれど、毎日喋る程度ならまんざらでもない。

 いわば、インスタントのときめき。

 なにより、期間限定。そんなややこしいことにはならないはず。

「――――はい」

 お酒が入っているせいもあるのだろうか、私は軽率に隣人の提案に頷いてしまっていた。

「ありがとうございます」

 途端、隣人の無表情が緩む。一瞬、また泣き出すんじゃないかと思った。

「せっかくなので、話をしやすいように、とりあえず、ルールを決めておきませんか。そう――、ですね、三つ、言わせてください」

 切羽詰ったように隣人が提案してくる。やっぱりやめましょう、と私が意見を翻すのを恐れて、退路を断とうとしているのかもしれない。

「ひとーつ。毎日おかえりって言わせてください」

 隣人が人差し指を立てる。

「ふたーつ。毎日一度はここでお互い顔を見せましょう」

 中指を立てる。

「みーっつ。毎日ご飯を一緒に食べましょう」

 薬指を立てて、どうですか、とお伺いを立ててくる。

 言うなれば、『おかえり、よろしく、いただきます』の三つ。

 肩透かしを食らってしまった。そんなに難しいものじゃない。

「……私、ろくなもの作れませんけど」

「ぼくもですよ。三つ目は同じものを食べましょうということではなく、一緒の時間に食事を取るようにしませんかっていう意味です。もしぼくのでよければおすそわけしますけど」

「そっ、そこまで甘えるわけには。わかりました、わかりました、了解です。三つのルールですね」

「ぞんぶんに甘えてくれていいんですけどね」

「え?」

「いえ。名乗るのが遅れてしまいましたね。あー、……手近、です」

 なんか変な間があったような?

「手近空、青空のソラと書いてアケルです。二十六歳です」

「北平です。二十……七歳」

 道子、という下の名前は言わないでおく。この状況にはしゃいでいると思われたらそれはそれで嫌だ。だから、同年代ですね、と、握手を求めてこちらに伸ばされた手を握り返すこともできなかった。……我ながら面倒くさい性格だな。

「失礼。蜘蛛を触って手を洗ってませんでした。それにぼくはまだまだ得体の知れない男です。不安ですよね」

「そんなことは、全然……」

 ないわけでもないのだけど。

「どうぞ、安心してください。性的な目で見ているわけではないので」

「せっ……?」

「ああ、あなたに魅力がないということではなくて、ぼくに下心がないという意味で」

 手近くん(と、脳内よびかけ決定。黒目がちなせいか、くん付けが似合う)は手を引っ込めて、感情のこもらない声で言った。

「一週間、よろしくお願いします、北平さん。ごく部分的な同居ですね」

 青縁眼鏡のその奥、手近くんの視線が、ふっと、私の背後に向けられているような気がした。

「……なにか?」

 尋ねると、手近くんは、なんでもありません、と、首を左右に振った。

「ぼく、あなたのお役に立てるよう誠心誠意努力をします」

 奉仕の熱量に気圧されて、今度は私が首を縦にこくこくと振ることになった。


 ちょっとおかしな隣人の出現によって、退屈とは無縁そうな――それどころか愉快とか刺激的とかいう形容がふさわしいかもしれない――一週間が幕を開けた。



月曜日の殺し屋


「は? イケメン隣人がなんでもします? え、やだこれもしかして妄想の話? 道子妄想の話してたっけ、今? 病んでるならさっさと病院行きなよ。それでなくても三十年近くも生きてりゃ死にたいと思ったことの一回や二回誰にでもあるんだから。アラサーになったら行きつけのカウンセリングルームと婦人科のひとつやふたつ持つのがたしなみってもんだよ」

 右隣、奈々先輩がすでに中身が半分になったポップコーンを置いて、パンフレットを開いている。氷の美貌の持ち主で、かっちりとしたスーツを身に着けたスタイルのいい女。

「茶化すのやめてあげなさいよう、みっちゃんの久しぶりの恋愛話じゃないの? ふふ、あー、でも、ごめん、やっぱおっかしい。久々に貫通したのが自分じゃなくて壁って。それともこれから十八禁版の話になるのかしら? 大胆!」

 左隣、ロクさんがたしなめる。髭と筋肉がチャームポイント、ラフな服装で、熊を思わせる大柄の男。

「そうですね、やっぱり私も大人の女だからめくるめく官能の世界にー……って、PG12にも引っかからないです! 全、年、齢、対、応、版!」

 私のノリツッコミに、両隣に座る二人がきゃっきゃと笑う。もう、と、私はふかふかの青い座席にずるずる身を沈める。取り立てて特徴のないオフィスカジュアルのパンツスタイルだ。

 まだなにも映っていない大きなスクリーンに目をやる。

 これから上映される映画は、著名な賞も取ったブリティッシュコメディの続編だ。一作目が公開されたときはまだ三人とも同じ大学の学生だった。

 両隣の二人は映画サークルの二学年上の先輩で、イギリス映画好きとして意気投合して、サークル外でも仲良くしてもらっていた。社会人になった今は、職種も職場も違えど、二か月に一回ほどの頻度で、仕事後、月曜あるいは水曜のサービスデーにともに映画を見ている。

 私の趣味、だったはずの映画鑑賞はもはや惰性だ。先輩たちに誘われなければもうわざわざ劇場に足を運ぶことはない。ここの映画館はいつきても恐ろしいほどにがらんとしている。今日に至っては期せずして貸切だ。

 会社からまっすぐ帰途につかなかったのは、先輩たちとの先約があったからだ。

 手近くんにはなにも言ってきていない。おかえり、よろしく、いただきます、しょっぱなから三つのルールを破ることになるかもしれない。……緊張からか、私の深層心理はきっと手近くんとのやり取りを先延ばしにしたがっている。

 それでも、私がやたらに終了時間を気にしていたせいだろう、なにかあるのかと奈々先輩に問い詰められ、洗いざらい吐かされた、というわけだ。

「でも、みっちゃん。あなた、やっと、や――っとラブコメることになったのね。感慨深いわあ」

 ロクさんはしみじみと言う。彼は私をよくこう揶揄していたのだ。男嫌いのキャリア志向女と、オネエ言葉のゲイに挟まれるなんて、あなた、女性向け映画のラブコメ主人公の立ち位置じゃないの。そのうちハッピーな恋するわね。

「いやあ、穴越しに隣にいるだけですし……」

「道子に一目惚れしたイケメンが下僕志願って流れなんだよね?」

「そうやって表現すると確かに私の妄想っぽいですね……」

「道子、たまにトリップしてるもんね」

 失礼な、とは言えない。ありえるからだ。

 非実在青年、手近空。

 妄想で隣人を作り上げて、しかも妄想の中ですら制限をかける。突っ走れないところがいかにも私っぽくて悲しくなってくる。

「でも、違うんですってば。色っぽい話じゃないんです。手近くんはお詫びをしたいだけで、下心はないってはっきり言ってたんです」

「絶対嘘だよ。前々から道子が気になっててわざと穴開けたんだって」

「ありえませんよ。だって私ですよ? ……んっ」

 自分を卑下する言葉を吐く私の口に、奈々先輩は一粒ポップコーンを押し込んできた。

「そうだなあ、恋愛沙汰じゃないなら、逆に恨まれてるとかは? 道子が夜中に洗濯機回してたとか、爆音で音楽聞いてたとか」

「してませんよ、そんな非常識な」

「知らない間にやらかしちゃってたのかもしれないわね。きっとみっちゃんが多重人格者で眠っているときもうひとつの人格が好き放題してるパターンだわ」

「あー、その手のは私の大好物。逆に隣人が凶悪犯って線もあるよね。適当なこと言ってかく乱してるだけで、壁を破壊して窃盗を計画中」

「その手近くんとやらの元恋人にみっちゃんがそっくり、なんて単純なのでもいいわ」

「道子が特殊な記憶喪失で過去に道子とイケメンがつきあっていたのにそれを忘れている、っていうのもアリだね」

「生き別れのキョーダイっていう王道も外せないわ。時空を越えたコイビト、みたいなSF風味もきゅんきゅんするう」

「そもそもそのイケメンは元々いた住人ではなく、なんらかの理由で隣人に成りすましているっていうのも面白くない?」

「みっちゃん狙いじゃなくて部屋自体が狙いなのかもしれないわね。大学出たあと引っ越したところよね?」

「そうです。前いたところ、学生専用だったんで。あの部屋は住んで五年です」

「それなら、五年前いた住人が壁に死体か金塊を埋めていったのを手近くんは知っているのよ。やがて解き明かされる五年目の真実……!」

「激しい銃撃戦! 道子絶対絶命のピンチ! そこに現れる未来から送られたボディーガード!」

 ダダン・ダン・ダダン!

 奈々先輩とロクさんはそろって床でリズムを刻む。

 テンポよく繰り出される先輩たちのふざけた憶測につられて、SFちっくな映画に自分が放り込まれたさまを妄想をしてしまった。ぼんやりしていると、戻ってこーい、と左右から肩を叩かれる。

「はっ」

「はっ、じゃないわよ、みっちゃん」

「なら二人とも私で遊ばないでくださいよ……」

「真面目な話、そういう荒唐無稽な真相が隠されてるほうがましだって。お詫びとかそんな殊勝な男いる? イケメン絶対ヤバいやつだよ」

 奈々先輩は突然立ち上がる。そのまま両手を使って頭上に円を描きつつ、くねくねと腰を回した。

「なんなのよ、それ。あんた」

「創作ヤバいの舞」

「ばかじゃないの」

「この繊細さがわかんないんだ、これだから男って」

 ベリーダンス(の動きなのだろう、多分)は奈々先輩が好きな映画の影響で始めた数年来の趣味だ。

「大家さんは手近くんの人柄を保証してくれてましたけど……」

 念のため、壁のことについて電話した際に、『隣人さんの人となりについてなんですけど』と尋ねたのだ。大家さんは結構なおばあちゃんで耳が遠いため、何度となく『はー?』と聞き返され、『五〇二号室のー!』とめげずに絶叫して問いただした。結果としては『ちょっと変わっているとこあるけど、大人しい人だし警戒することもないよ』と太鼓判を押された。

「そりゃあ大家は工事遅らせたいんだからそう言うしかないよ。道子んち、オートロックとかついてないよね」

「安いところですからね」

「襲われちゃうってば。力じゃかなわないんだよ」

「でも顔はめ看板程度の穴ですし」

「物とか薬品とか投げつけられたらどうすんの。ベランダからだってなんでもできるし、それこそ廊下で待ち伏せでもされたらおしまい。あ! 盗撮投稿とかされるかも」

「筒抜けなのは恥ずかしいので、一応、穴の前に全身鏡を置いて目隠しはしてるんですけど……」

 すっぴんを見られるのも嫌なので、そこは手近くんに説明しておいた。お風呂に入る前には鏡を置きますよ、と。朝だってばたばたしているところを晒したくないから鏡を動かしはしない。

 つまり、彼が強引にどけることがなければ、私が帰るまで穴は封鎖されている。

 私の証言を一切信用する気がないのか、奈々先輩は携帯を手に取り検索している。

「手近、空……。うーん、SNSとかはやってないか。出身校とかも引っかかってこないし。『手近な~』の用法とか、空の画像とか……、あとはECサイトとか読書レビューサイトとか関係なさげなとこばっか。空って単語が広すぎるんだよ」

「あんたねえ、みっちゃんだって子供じゃないんだから。……とはいえ、一度様子を見ておいたほうがいいかもしれないわね。あたし、今日ちょっとだけみっちゃんのおうちにお邪魔しちゃおうかしら」

「オッケーよろしくロク。イケメンがどんな男か確認してきて」

「は……は!? なにを勝手に……!」

 こんなタイミングでじわじわと照明が落とされていく。しー、と両方から静かにするよう指示されて、私はしぶしぶと口を噤んだ。


「あら!」

 私の部屋にきたロクさんは真っ先に穴の斜向かいにある本棚に食いついた。

 昨日、いろいろと適当に詰め込んだせいでろくに整頓されていない中から、ロクさんがはしゃいで目ざとく手に取ったのは、大学時代サークルで使っていたものだ。いかにも手作り製本のそれはロクさん自身が書いたシナリオ冊子だ。

 自分たちで作った映画のシナリオを私は今でも時々読み返す。とは言っても、サークルにいた四年間で映画作りに私が携わったのは一回だけで、小道具の製作を手伝ったに過ぎないのだけれど。

「なつかしいわねえ」

 ロクさんは過去の自分の手による物語にはしゃいでいる。

 一センチの寿命という題名のその話の主人公は、貯金百万円をおろして、それを使い果たしたら自殺しようと決めている女の子だ。一センチとは、彼女の命のろうそくの残りを指す。つまり札束の厚みのことだ。

 主人公が最初に買ったのは真っ白な封筒と便箋、それから筆ペン、計六百円と消費税。それで真っ先になにをしたかと言えば。

 遺書を書いたのだ。

 それを皮切りにどんどんお金を使っていく。

 その流れで出会う人々によって生きる気力を取り戻す、という前向きなストーリーラインは一切ない。迷える子羊は救世主を査定する。不合格、不合格、不合格。誰でもいいから助けてほしいわけではない。世界が生きるに値すると思わせてくれるものを探していく。

 ご飯を食べながらセックスのことを考えて、セックスをしながら夜に見た夢のことを思い出し、夢の中でご飯が運ばれてくるのを待っているような主人公。

 欲求のすべてを満たす力が己にあるにもかかわらず、それにまるで気付かない不器用な人間が鬱々と描かれていた。

「みっちゃん自分じゃ書かなかったからシナリオとか実は興味ないのかと思ってたのに取っといてくれたのねえ。まあまあまあっ! やだあ、こんなものまで……」

「ちょ、ちょっと、もう夜遅いんですから声を」

 私はキャスター式の全身鏡へと目をやる。

 その向こうには穴がある。ロクさんもここへきた目的を思い出したらしく、手に持っていたものを元通りにした。

「もう寝ちゃってるかしら」

「かもしれませんけど、……ていうかやめません? ロクさん面白がってるだけでしょう」

「心配してるのよう。ネタになるかもって思ってもいるけど」

「ほら! ほらぁ!」

「はあい、こんばんはー」

 止める間もなく、ロクさんは鏡をスライドさせた。手近くんは、待ち構えていたようにすぐそこに立っていた。

 思わず、ひぃ、と二人で手を握り合って飛び上がってしまう。

「……良かった」

 そんな私たちを見てこぼれた手近くんの独白の声色は、心なしか明るい。昨日も言ってたけど、良かった、ってなに?

「あなたが手近さん? はじめまして。彼女の恋人です」

「はっ?」

 唐突に小芝居を始めるロクさんにびっくりして顔を向けると、ウィンクを返された。手近くんが私に対してよからぬことをたくらんでいた場合の牽制ということなのだろうか。

 ちなみに、ロクさんは別に役者志望というわけではなく、シナリオライターだ。学生時代、誰よりもシナリオを書いて、こきおろされても続けて、結果、プロになった。ただの末端のなんでも屋よ、と本人は謙遜するけれど。

「この穴のこと、聞きましたよ。引っ越しの準備中に災難でしたねえ。転勤かなにかですか?」

「いえ、単にぼくは契約を更新しない主義なので」

「じゃあ二年ごととかで引っ越しを? 仕事しながら準備って大変でしょう」

「……休みなんです」

「引っ越しのために一週間も有給? ホワイトな企業ですねえ!」

「そうですかね」

「どちらへ越されるんです? 勤務先が変わってないなら下手に遠くに行くと通勤がしんどくなっちゃいますよね」

「ああ、まあ」

 ロクさんの尋問に、手近くんはのらりくらりと答える。

 訝しんで追撃しようとしたロクさんは顔をしかめた。穴から伸びてきた手近くんに、優しく手を握られたからだ。

「……な、なに?」

「お願いがあります。どうぞ、北平さんのことを大切にしてあげてください。彼女の言うことにきちんと耳を傾けて」

「あ、あのね、きみがどういう立場からものを言ってるのかさっぱりなんだけど、つきあいが長いあた、いや、オレ、のほうがみっちゃんのことはわかってるから」

「いいや、わかってない。つきあいの長さにあぐらをかいてはいけません。あなたはぼくと同じようなものです」

「え……、どういうこと? きみ、ゲイなの?」

「あなたゲイなんですか? 北平さんとつきあっているのに?」

「あっ」

 口を閉じてももう遅い。ロクさんのしまったという反応自体が手近くんの問いを肯定してしまっている。

「……まあ、これはみっちゃんも納得していることだから」

 恋人設定続けるんかい。

「北平さんをもてあそんだってことですか。彼女の恋心を利用した?」

「人聞きが悪いなあ。オレの世間体のためにかいがいしい働きをしてくれたってだけでしょうが。だから、彼女に変なちょっかいかけないでね」

「なんてひどいことを。北平さんはあなたの前では悩んでいる姿を見せていないかもしれませんけど、きっと我慢しているんですよ」

 ……そうなの、私?

「きみになにがわかるの?」

「北平さんを傷付けないでください」

「みっちゃんがいいって言ってるんだからいいでしょう」

 悪役にノってしまったらしいロクさんがちらりと視線を送ってくる。私はアドリブがきかず、えー、とか、あー、とか、もたついてしまった。その様子から、手近くんは私を哀れな被害者だと判断したらしい。

「反省してください」

 え。

 がつん、という音に、私も、そしてきっと体ごと壁にぶち当たったロクさんも、一瞬、なにが起こったのかわかっていなかった。

 手近くんがロクさんの胸ぐらをつかんで、思い切り自分のほうへと引き寄せたのだ。ロクさんは突然喉元を圧迫されて混乱している。

 なんだって昨日知り合ったばかりの私の味方をして、こうも真剣に怒ってくれているのか……とか悠長に考えている暇はない!

 ロクさんの苦しそうなうめき声に、私は慌てて手近くんを止めに入った。


「……すみませんでした、お友達に乱暴なことを」

「そ、そんな。こちらこそ騙してすみません」

 手近くんはもう何度目かわからないくらいに穴の向こうで頭を下げている。

 もともと素性を疑って猿芝居を打ったのはこちらのほうなので、そう誠実に謝られると居心地が悪くなってくる。

 ロクさんは調子に乗っちゃってごめんね、と喉元を押さえつつ、そそくさと帰っていった(手近くんに合格判定を出したのだろう、少なくとも彼は私に対してはひどいことをしない、と)。

「怖がらせてしまいましたよね。いきなり乱闘なんて」

「びっくりはしましたけど……。強いんですね、手近くん、いや、えっと、手近さんは」

「くん、でいいですよ」

 うっかり呼んだら許可が下りた。

「強くないです。さっきはどうしても許せなかっただけで。……ぼくの中ではかなりむちゃをしちゃいました」

 ふいに、手近くんが視界から消える。はあ、と大きな溜息が聞こえる。ちょいと覗くと、うずくまって顔を伏せているのが見えた。少し震えている。屈強な男に喧嘩を売ったことへの恐怖に時間差で襲われているらしい。

「じゃあ、あの渾身の締め上げは火事場のばか力のようなものだったんですか? 殺し屋かと思うくらいの迫力でしたよ」

「……かもしれませんね。実はぼく、殺し屋なんですよ」

「え?」

「冗談です」

 よろよろと立ち上がった手近くんは、くすりともせずに言った。

「ぼくが差し出がましいことをするまでもなく、北平さん、大切に思われてるんですね。いいお友達です」

「ちょっと私には過ぎているというか、コンプレックスを感じちゃうときもあるんですけどね」

 手近くんは少し首を傾げた。

 地元だけじゃなくて、ここでもだ。奈々先輩は、会社で順調に出世していくかたわら、趣味として映画とベリーダンス。ロクさんはシナリオを書くという夢を叶えた先の仕事。同じ映画サークル出身なのに、私だけがなにも持っていない。

「友達はみんなちゃんとしてるのに、私だけからっぽだなあって」

 うざったがられそうで、誰にも言ったことがない心の内をついこぼしてしまった。

 インスタントのときめきを与えてくれる相手は、インスタントの友人でもあるということだ。これ以上関係が発展しないからこそなんでも言える。

「からっぽ……ですか」

「はい」

「なにかこれで埋めたいってものがあるんですか? ぼくにお手伝いできることがあれば」

「あー……、そう言われても」

 具体例はやはり思い浮かばない。

 欲しいものがわからないから、どうでもいいもので埋まっていく。この部屋を見れば一目瞭然だ。住むところはその人間の生き様に等しい。

「……私、ただのないものねだりですね。こんなことくらいで悩んで」

 手近くんは、間髪を入れずに、いいえ、と言った。

「北平さんの大事な大事な感情じゃないですか。ないがしろにすることはないです。世間の基準は関係ないですよ。あなたが悩んだり、落ち込んだり、傷ついていたりするとしたら、それはちっとも『こんなことくらい』じゃないです。重大なことです」

「そう……ですか?」

「ええ。もっとたくさんぼくと話をしましょう。北平さんの感情をおすそわけしてもらえて、ぼくは嬉しいですよ」

 顔こそ笑っていないが、手近くんの雰囲気がふわりと柔らかくなる。

「言いそびれるところでした。北平さん」

「はい?」

「おかえりなさい」

 瞬間。

 少しにやけそうになってしまった。仕事から帰ってきて、誰かにこうやって迎えられるなんて、初めてのことだ。手近くんの囁くような口調も、こちらをじわじわとくすぐったい気分にさせる。彼はおかえり、を、すごく大事な宝物であるかのように扱っている。口に出せることそれ自体が嬉しいと言わんばかりに。

「た、ただいま、です」

「ご飯は食べてきたんですか?」

「まだです、……もしかして、待っててくれたんですか?」

「はい。あ、いえ、ぼくは特にお腹がすいてなかったので」

 きゅるるん、と可愛らしい音が響く。

 ふき出した私に、決まり悪そうに手近くんはお腹を押さえた。

「……実は待っていました」

 うん、ばればれだった。

 私が気にしないように下手くそな嘘をついてくれたのだろう。急いで食事の支度をする。といっても、まとめて炊いて小分けにしておいた白米をレンチンして、出来合いのお惣菜をローテーブルに並べただけだ。

 手近くんは夜はあっさり派なのか、単に小食なのか、小さな土鍋に洋風スープを用意していた。手作りのインスタントというべきか、味噌やコンソメと具材をラップで包み、一食ずつ作っておいて、食べるときにお湯を注ぐだけ、というやつだ。作り置きではあるけど、そういう作業をちまちまできるあたり、繊細さを感じる。

「手近くんは料理得意なんですか?」

「嫌いではないです。作っているときは無になりますからね。無になれることはたいてい好きです」

 理由がよくわからない。天然っぽいんだよなあ、この人。

 テーブルの位置的に、ぺたんと座ってしまうと手近くんの顔を見ることはできなくなる。でも、声は聞こえるから話すことはできる。

「すみません、お待たせしちゃって。いただきます」

 ぱん、と手を合わせる。向こうからも同じ音が返ってくる。

「はい、いただきます。遅くまでお仕事お疲れ様です」

「え、あ、その、実はこんな時間になったのは、映画をですね……、見ていて……」

「そうでしたか。どうでした?」

 怒った様子もなく感想を求められる。

「え、えと、それがですね、続編だったんですけど、ただの続編じゃなくて――」

 いつもなら鑑賞したあとの私はもっぱら聞き役だ。先輩たちの考察や分析は切れ味抜群でもちろんすごく面白い。でも、こうやって、自分の感じたことを伝えて、穏やかに相槌が返ってくるのも悪くない。自分の耳で聞いて、自分がこう思っているんだと再確認する。言葉が体に浸透していく。

 普段だったら栄養補給に詰め込むといった感じの食事が、楽しい。

 ……だけど、私は。

 壁を挟んで会話しているこの青年が本当に私の妄想ではないのか、ロクさんに早急に確認のメッセージを入れたかった。

 ――実はあたし、さもそこにいるかのように調子を合わせて振る舞っていただけで、手近くんも穴も本当は存在しないのよ。小さな穴っていうのはきっとみっちゃんの心のメタファーじゃないかしら。みっちゃんが今現在新しいものを受け入れる余裕はその程度だとあらわしている――。

 そうやって人生を適当にシナリオ読解されたほうが、まだ真実味がある。手近くんの存在は、都合がよすぎて、心地よくもどこか胡散臭く思えた。

 疑り深くて嫌になってきちゃうなあ、こじらせアラサー。

 手近くんは確かにそこにいるんだから、素直にときめいちゃえばいいのに。