プロローグ


 最寄りの駅から徒歩十五分。閑静な住宅街に、その女子大はある。

 白い壁の向こうに見える緑の木々。門の正面に広がるのは美しい芝生と歴史ある校舎だ。派手さはないが、年配の人間たちからはおおむね名門と認識されている大学。

 昼休みとあって女子学生たちで賑わう構内を、僕は門の外から通りすがりに一瞥した。大学の教科書が多数入っている鞄を肩にかけなおし、半ば身に染みついた癖のように、いるはずもない彼女の姿を探す。

 晴れた日の下に映える、緑のキャンパス。その中を行く学生たちは、一人一人皆違う。彼女たちの姿を僕は何となく目で追った。


 瀟洒な構内に「彼ら」の姿はない。


 曖昧で物悲しい、死を形にした影。それは未来から過去へと焼きついた、人間の濃い記憶だ。僕は「彼ら」がいないことに安堵して、正門の前を通り過ぎようとする。吹いてきた風に目を細めて――ふと、校舎の向こうの渡り廊下に目を留めた。

 色褪せた屋根の下を歩いていく、長いふわりとした髪の女性。

「……っ」

 華奢な後ろ姿。本を抱えたその背が一瞬、彼女のものに見えて、僕は足を止めた。

 だがすぐに、思い返す。

 ――彼女はもう、ここにはいないのだ。

 構内を必死になって駆けていくことも、僕を見つけて子供のように追いかけてくることもない。ただその面影を、木漏れ日の下に見るだけだ。

「……鈴子」

 平和で、幸福で、振り払えない死に慌ただしかったあの頃。当時の僕は、自分だけが苦しんでいると思っていた。そんな僕の隣に彼女はいてくれたのだ。

 瀬崎鈴子。善意を信じるふりが上手い、優しい彼女。

 僕を支えてくれた無邪気な笑顔を、今も鮮やかに思い出す。

 はじまりはきっと遠い日だ。僕がまだ、何も知らなかった子供の頃。

 それは、街のあちこちに佇んでいる「彼ら」――僕にしか見えないその存在から、必死で目を背けようとしていた時に始まった。



 よく晴れた日だ。

 高いビルが左右に立ち並ぶ真昼の繁華街。

 僕は通りを横切る横断歩道の上に立っていた。

 地面から伝わってくる熱は、真夏日を思わせるものだ。降り注ぐ日差しが街全体を白く光らせている。

 辺りを走り回っている人々は、恐怖と混乱の表情だ。騒然とした空気が辺りに立ちこめて、携帯電話を手に叫んでいる人が何人もいる。

 だが――それでも一切の音は聞こえない。僕の耳には届かない。

 ただ僕は、横断歩道のただ中に立ち尽くして、動かない背中を見下ろしていた。

 麻のストライプのシャツ。白かった裾が、じわじわと赤く染まっていく。体の下からアスファルトに、同じ色の液体が広がっていく。

 僕は何もできずその終わりを見つめているだけだ。

「……こんなの、うそだ」

 こんなはずじゃなかった。みんな救えるはずだったんだ。そのために僕と彼は、駆けずり回っていた。きっとなんとかできると信じていた。

 なのに、これは

「うそだ……」

 震える声。

 僕は両手で顔を覆う。

 息が苦しい。目の前が暗くなる。嗚咽が渇いた喉元でつかえる。

 僕は、小さく口を開き――



 目を開けた時、僕は真っ暗な部屋にいた。

 と言っても、見知らぬ部屋でもなんでもない。十八年間慣れ親しんだ僕の自室だ。

 真っ暗なのはシャッターを閉めきっているからで、でもそれはこの二年間、昼夜関係なくいつもそうだった。

「さむ……」

 嫌な夢のせいで、全身汗でぐっしょりと濡れている。

 でもその夢の記憶も、目が覚めるとほとんど思い出せない。ただちらちらと、倒れた背中の映像が脳裏をかすめているだけだ。子供の背中、とだけわかる断片。悪夢の残りかすだけが体中にまとわりついている。

「……今日は出かけるか」

 携帯の画面を確認すると、時刻は午前九時過ぎだ。僕は簡単に身支度を済ませて部屋を出た。玄関先で靴を履いていたところで、廊下に人の気配を感じる。

 本当に間が悪い――そう思った直後、背中に母親の声がかかった。

「どこに行くの?」

「ちょっとそこまで。ただの散歩だよ」

 答えた声は、自分でも自然なものだったと思う。けどそうして家を出て行こうとした僕に、母は苦い声で言った。

「どうして外に出るの。学校に行かないなら家にいればいいでしょう」

「散歩に行くだけだって。何もしないし、何もないよ」

 まいったな。普段は家の中でも顔を合わせないようにしてるのに、よりによって出がけに見つかってしまった。

「こんな昼間に外をうろつくなんて……あまりよその人にあなたを見られたくないの。何を言われるかわからないでしょう」

「…………」

「ねえ、聞いてるの?」

「……夕飯までには戻るから」

 それだけ言って、僕はさっさと外に出るとドアを後ろ手に閉める。

 幸い、母が追いかけてくる気配はない。角を曲がって家が見えなくなると、僕は大きな溜息をついた。

「近所の噂にはなりたくないってやつか。まあ、無理もないよな……」

 あんな事件に巻きこまれた我が子を、好奇の目にさらしたくないんだろう。

 でも別に、心配されるようなことはしない。外に出るのも、本当にただの散歩で気分転換だ。ルートは毎回変わらず、家から最寄り駅に出て下り方面に六駅。

 いつものように快速電車から降りた僕は、ホームの床だけを見て歩き出す。

 午前十時を過ぎたこの時間は人もまばらだ。

 ホームのベンチに座っているのも、疲れたような暗い顔の中年女性だけで、他には誰もいない。僕は彼女の前を通り過ぎると、階段にへばりつく乾いたガムを見ながら改札階へと降りて行った。

 ――その途中、階段を上ってくるサラリーマンとすれ違う。

「……っ」

 くたびれた靴とスーツの裾。俯いている僕の目に見えたのはそれだけだ。

 だがそれだけで、「彼ら」だとわかった。すぐ横を通り過ぎていくサラリーマンの体は、半分透けて階段の薄汚れた壁が見えていたからだ。

 ホームから走ってきた女子高生が、透けたサラリーマンの体を突き抜けて、改札へ駆け降りていく。けど女子高生もサラリーマンも、何らお互いに気づいた様子はない。

 半透明のサラリーマンは、僕と同じように足元だけを見て――ホームに消えた。

 振り返ってその姿を見送った僕は、階段の途中だったことを思い出し溜息をつく。

「いまさら驚くようなことでもないだろ……」

 僕は日頃、できるだけ「彼ら」の姿を見ないようにはしている。でも目に入ったからって、それはとっくに見慣れたものだ。

 だから僕は、いつものように「彼ら」を無視して、改札から外へ出た。冬の晴れた空が、僕の視界に突き刺さる。

「まぶし……」

 出勤通学が一通り終わったこの時間、駅のロータリーを歩いているのは買い物中の主婦と、一限がない大学生がほとんどみたいだ。僕は何食わぬ顔で彼らに混ざって、駅前のアーケードに向かう。一見すれば、これから大学に向かう学生に見えるだろう。事実、僕の籍はまだ、この近隣にある私立大に残っているはずだ。

 ただずいぶん授業には出ていない。入学して一か月で大学に来なくなった僕の顔を知っている人間は、もういないだろう。

 アーケードを行きながら、僕はウィンドウに映る自分の顔を一瞥する。

 染めていない短めの髪に、平均的な身長。顔立ちはいたって平凡な大人のものだ。ただその目には、自分で言うのもなんだけど優しげな印象があると思う。少なくとも人に警戒を抱かれるほどじゃない。

 ――神長智樹。十八歳。

 大学に行くこともできず、かといって自室に引きこもり続けることもできない、そんな人間。たった一つ明らかに他人と違うところがあるとすれば、それは――

 僕は歩きながら、ちらりとある店を見る。

 小さな手芸店。その店先の椅子に、一人の老婦人が座っていた。

 やせ細った両手を膝の上に揃えた彼女は、雑多な店の陳列に溶けこんでいる。年は九十歳近いだろう。短い白髪の下、色褪せたカーディガンを羽織った背を、猫のように丸めている。

 まるで眠っているように目を閉じている老婦人は、だがよくよく目を凝らせば、体がうっすら透けている。丸い背中越しに見える毛糸の山は、昨日まではもっとはっきり色がわかった。

「……あれは今日明日が限界かな」

 その時、店の奥から小さな老婦人が、杖を突いてよろよろと歩み出てきた。

 曲がった背に色褪せたカーディガン。椅子に座る彼女とまったく同じその人は、ゆっくりと棚の前を通り過ぎると、定位置である店先の椅子に座る。

 透けている老婦人と、現れた老婦人、二人の体がぴたりと重なり合った。


 僕にしか見えない透けた人影の「彼ら」。

 それは言ってしまえば、場所に残る人の記憶――つまりただの幽霊だ。


 地縛霊のようなもの、とでも言えばいいのだろうか。「彼ら」はそれぞれ特定の場所にいて、記憶された動作を繰り返し続けている。

 繰り返す時間は、人によってまちまちだ。一分くらいをあわただしく反復する人もいるし、三十分以上動かない人もいる。

 ふっと消えることもある。だが再び現れて、同じ時を繰り返す。

「彼ら」は、どこにでもいる。駅のホームに立ったままのものや、暗い夜道を歩いているもの、マンションのベランダに立ち尽くしているものなど色々だ。そして、僕以外にその姿は見えない。騒ぎ立ててもおかしな人間と思われるだけだ。

 僕は、子供の頃からそんな「彼ら」の姿を見続けてきた。

 両親とぎくしゃくするようになったのも、普通の人間には見えない「彼ら」を指差して、しきりに訴えてしまったのが原因だ。彼らにとっては、僕は今でも「幽霊が見えるらしい不気味な息子」だろう。

 ただ、その認識はちょっと違う。

 僕が見ているものはただの幽霊じゃなくて――これから死ぬ人間の亡霊だからだ。


 正確には、まだ生きているんだから生霊と言った方がいいのかもしれない。けど、僕にとって「彼ら」は亡霊だ。なぜなら彼らは、やがて来る未来の自分の死の時を繰り返し続けている。

 ホームからふらりと電車に飛びこむ「彼ら」の幻視を見たのだって、一度や二度じゃない。道端で倒れている幻視に気づかず駆け寄ったこともある。透けていた体が、実体に近い色濃いものになっていくのは、「その日」が近づいているからだ。

 死の瞬間を繰り返し続ける「彼ら」は、やがて実際の自分と重なり合う。そうして人生最後の時を迎える。

 ――僕はその現場を、これまで何度も見てきた。


 この目のせいで色んな目にあったけど、とある事件をきっかけに、僕はついに学校にも行けなくなった。母親は、ただでさえ気味悪かった息子のそんな行動に、もはや匙を投げたらしい。

 もっとも、何人も犠牲者を出した連続通り魔事件に、自分の息子が巻きこまれかけたなんて話は、誰であっても参ってしまうのかもしれない。

 僕自身はよっぽどひどいショックを受けたのか、その事件を含めてあちこち昔の記憶に穴が開いてる。自分のことなのに、過去についてはわからないことばかりだ。

「思い出せない方がいい話ばっかりなんだろうから、別にいいけどさ」

 それでも、今朝みたいに忘れたはずの断片に触れることもある。

 ――この目を使って、まだ人を助けたいと思っていた頃の夢。

 そしてその希望が馬鹿みたいに砕かれた時の……きっと最後の記憶。

 例の事件をはっきり思い出せなくても、ひどい喪失感だけは覚えている。

 体中が冷え切るような、逆に火がついたような衝撃。

 頭が真っ白になるような絶望。

 それが全てで、それ以上はない。どういう経緯であの場所にいたのか、誰の名を呼ぼうとしていたのかもわからない。

 思い出せてももう意味がないだろう。全部とっくに終わってしまったことだ。そして、そんなことは二度と御免だ。


 だから僕はもう――「彼ら」を直視しない。


「……あら」

 店先に座る老婦人から、小さな呟きが漏れる。乾いた音を立てて転がる杖を、僕は一瞬迷った後、歩み寄って拾い上げた。老婦人に手渡すと、彼女は皺だらけの顔を綻ばせる。

「ありがとうね、坊や」

 現実の彼女は、ゆっくりとそう言って僕の手から杖を受け取った。僕は、杖を持った手が、膝上の透けた手に重なるのを見ながら、会釈して一歩下がる。

 老婦人は、そんな僕を少し寂しそうな目で見た。

 家族以外の人間と話すことはあまりないのかもしれない。人の温もりを求めるまなざしは、穏やかで慎ましやかだ。だが彼女はすぐに自ら眠るようにその目を閉じた。


 ――僕にしか見えない、過去と未来の亡霊たち。

「彼ら」は確かに、僕の人生を変えた。死んだ人間が見えるなんて言う子供に世の中は冷淡で、ましてや未来の死の警告なんか、ただの嫌がらせにしか思われない。

 いくら真剣に訴えても邪険にされて――結果残るのは、押しつぶされそうなほどの無力感と、変えられなかった人の死だけだ。


 僕は顔を伏せて、アーケードを出て東に進む。

 その先の住宅街は、芸術系の大学や古い女子大があるせいか、雰囲気自体が落ち着いていていい。僕は一週間前からの散歩コースを悠々と歩いてく。時折すれ違うのは、犬の散歩をしている老人や、新入社員らしい灰色スーツの若者くらいだ。

 ――だがそんな中にも「彼ら」が交ざっていることがある。

 角を曲がっていく透明な女性の後姿。OLらしい彼女は会社帰りなのか、左肩にビジネスバッグをかけている。右手に持っているのはスケッチブックだ。スーツのOLさんが持ってるものにしては変わってるけど、この辺りは美大があるせいか珍しくはない。あ、ひょっとして美大生が就活中でスーツを着てるとかなんだろうか。

 彼女の細身の体は、向こうが見えるほど薄く透けた状態だ。これだけ薄いってことは、ずっと先に亡くなる人なんだろう。いつかの未来、彼女に何が起きるのかはわからない。知るつもりもない。

 そうして住宅街を抜け、僕が辿りついたのは郊外の公園だ。

 大きな二つの池を取り囲むようにある緑の公園。犬の散歩をする人間くらいしかいないそこは、ちょうど古い女子大の真裏にあたる。池沿いに並ぶベンチはほとんどが空いたままだ。

 僕はそのうちの一つ、生い茂る枝の下にひっそりと置かれたベンチに歩み寄った。慣れた仕草で左側に座る。

 そして前を見たまま彼女に言った。

「こんにちは」

 返事はない。ベンチの右側に座る彼女は微動だにしない。

 僕はゆっくりと息を吐いた。水色の空を仰ぐ。

「一週間ぶりだね、鈴さん」

 彼女の名を、僕は知らない。

「鈴」と言うのは彼女のペンダントから僕が勝手につけた名前だ。

 風に揺れないショートカットの髪。少し俯き気味な、けれど前を見据えるまなざし。

 整った顔立ちをしているのだと思う。綺麗な形の顎を、僕は横目でそっとうかがう。


 彼女の横顔は――透けて向こうの木々が見えていた。



『辛いなら忘れたっていいだろ。まずは自分自身だ』

 それは、いつか誰かに言われた言葉だ。

 誰の言葉かはわからない。うっすらと見当はつくけれど、その存在は、失意と共に消えてしまった記憶の中だ。

 だから、時々わずかな断片だけふっと思い出すのは、僕の甘えた心のせいだろう。

 そう言われたのだから、忘れてしまっていてもいい。過去を封じこめて、自分だけの平穏を選んでも悪くない。そんな風に、自分を納得させようとしている。

 納得しようとして、でも本当は、僕は――



「昨日は雨だったから、自分の部屋にいたよ。ずっと本を読んでた」

 淡々と、僕は自分の日常を報告していく。

 日記をつけるように、彼女に向かって一人で話し続ける。

「部屋にいると、余計な心配をしなくて済むのはいいんだけど、ずっと引きこもってるのにも抵抗があってさ。人と目を合わせないように歩くのは上手くなったけどね」

 僕が口にするのは、誰にも話すことがない、誰も聞くことがない話だ。

 週に一度、僕はこの公園でこうして、彼女の隣に座る。

 鈴さんはいつもここにいる、「彼ら」の一人だ。

 初めて見つけた時から様子に変わりがないところを見ると、もしかしたら幻視じゃなくて、本当にただの幽霊なのかもしれない。

 年は見た感じ十八歳そこそこ。冬のジャケットにロングスカートを履いている。けど、その色味は、透けているせいでよくわからない。わかることと言えば、彼女はずっとここに座り続けているってことだけだ。


 初めて彼女に出会ったその日、僕はひどく疲れ果てていた。

 打ちのめされて、消沈してぼろぼろで、それでこの場所に来たんだ。

 そして、ベンチに座る彼女を見つけた。

『僕が見たもののせいで、人が死ぬんだ』

 隣に座って、ぽつりと話し出してしまったのは、彼女が「彼ら」の一人でありながら、今まで見かけた「彼ら」と違って、まるで穏やかに静かに、そこに座っていたからだ。その横顔に不思議と懐かしさを覚えて……心が緩んだんだろう。気づけば自分のこと、自分の周りで起きたことを吐き出していた。

『助けたかったんだ……それだけだった……なのに』

 ――人の死は、一人で背負うにはひどく重い事柄だ。

 なのに突飛な話のせいで、親も友人も信じてくれない。『あの人はもうすぐ死んでしまう』なんて訴えても、怒られたり気味悪がられたりするばかりだ。

 そうして空回りしているうちに、当の相手が死ぬって状況は……やっぱり辛い。

 死んでいく「彼ら」の幻視と、現実の自分の板挟みになって、その頃の僕は、正直言って限界だったと思う。

『もういやだ……こんな目はいらないんだ……こんなの、もう』

 全て終えたい。逃げ出したい。

 何もかも忘れて、捨てて眠ってしまいたい。

 けど、ひとしきり泣いて溜めこんだものを吐き出し終えた時、僕は見たんだ。

 夕暮れ時の赤味差す光の下、鈴さんの口元がふっと微笑んで――

『大丈夫。一人にしないから』

 それは、確かに僕が一番聞きたかった言葉だった。


 以来、僕は鈴さんの言葉に甘えてここに通っている。

 もちろん、それが僕に向けての言葉じゃないことはわかっているけど、確かに僕はあの時、彼女に救われたんだ。今も救われている。

 だからここに来るのも、大部分は自分の心の安定のためだけど、一部には彼女に恩返しをしたいって気持ちもある。定期的に様子を見ていれば、彼女に死が近づいた時色合いの変化でわかるだろう。それで何が変えられるってわけじゃないだろうけど、忠告の置き手紙をするくらいはできるかもしれない。

 後ろの小道を、ベビーカーを押した若い母親が歩いていく。その姿が通り過ぎるのを待って、僕は口を開いた。

「鈴さんは、いつも通るアーケードの手芸店知ってるかな。あそこのおばあさん、そろそろ長くないみたいだよ」

 手芸屋の老婦人については、三週間くらい前から見えていた。

 最初は蜃気楼のようにうっすらとした幻視だったのが、徐々に色がつき輪郭を持つようになっていったんだ。それは緩やかに死の時間に近づいているという意味だ。

「見た感じ……眠るみたいに穏やかな最期になる」

 慣れきった苦味を言葉にする。瞬間、肩に負っていたものが少しだけ軽くなる。

 僕はそんな自分に半分嫌気がさして、半分安堵した。

 人の死を見ないふりをして口を噤んでいても、やっぱり何かしらのしかかってくるのは事実だ。そしてそれは意識の底に溜まりこんでいく。

 だから僕は――沈殿しそうな感情を全て、鈴さんに聞いてもらうことにしている。聞いてもらって整理して、また自分の中にしまいなおす。

 そうやって僕は一つ一つを飲みこんでいって、一つ一つを忘れていくんだ。

「他にも色々幻視が見えるけど……みんな、まだ先かな。近くなったらまた散歩コースを変えないと」

 いくら僕でも、現実の人死にを目の当たりにはしたくない。それがあらかじめ知っていたことなら尚更だ。だから僕は、定期的に歩く道を変えている。

 でも、どんな道を歩いてもここに来ることだけは変わらない。

 僕は鈴さんが右側に座っていることを意識する。気分が凪いでいくのがわかる。

 ――この時間が、僕の生きていく上で必要なものだ。

 あの日と同じように、鈴さんの唇が優しく動く。

『大丈夫。一人にしないから』

 声は聞こえなくても、口の形でそう言ってることはわかる。

 こんな話を、嫌がらずに受け止めて頷いてくれる……彼女の存在に支えられて、僕は今日も安堵の息をついた。

「ありがとう……鈴さん」

 他人から見たら、馬鹿みたいに見えるだろう。けど、これが僕の生き方だ。穴だらけの記憶を抱えて、彼女との時間を頼りに日々を過ごしていく。



 人もまばらな公園では、聞こえてくるものは自然の音ばかりだ。

 そのままベンチでうたた寝していた僕は、近くの女子大から聞こえてきたチャイムではっと目を覚ました。

「っと、こんな時間か。また来るね、鈴さん」

 いつもは二時前には帰るんだけど、今日はもう三時近い。あんまり遅くなると、近隣の中高校生の下校に巻きこまれてしまう。

 別れの挨拶に鈴さんは何も応えないけど、僕は手を振って、来た道を戻り出した。

 その時、向こうから一人の女子大生が歩いてくるのに気づく。

 グレーの薄いニットに細身のデニムパンツ。

 すらりとした体型は中学生の少年みたいだ。

 けど、ふわふわと長い黒髪が、彼女の印象を女の子らしいものにしている。

 今年大学に入ったばかりの一年生なのかもしれない。真っ直ぐ前を向く目は春の日差しのようで……「彼ら」を見ないよううつむく僕とは、あまりにも違って見えた。


 彼女は、向かいから来る僕を一瞥する。

 そしてふわりと微笑んだ。


 翳りのない、澄んだ笑顔。

 茶色がかった瞳が柔らかな光を帯びる。

 僕はそれだけのことに――なんでか泣きたくなった。

「あれ……なんで」

 声が震えるのがわかる。

 でも彼女は、そんな僕の呟きに気づかなかったらしい。軽い足取りで僕の隣を通り過ぎた。

 すれ違う瞬間、その横顔を見る。

 綺麗な顎のライン。すっと通った鼻筋。

 先を見つめる、意思のある目。

 それはよく見覚えのあるものだ。

 なぜなら、つい今まで僕は……彼女と一緒にいたのだから。

「……鈴さん?」

 その声が届いたのか、三メートルの距離をおいて、彼女は振り返った。

 僕を見て、自分に言っているのだと理解して、鈴さんは首を傾げる。

「んー……? 人違いかな? ごめんね」

 ぺこりと会釈して、彼女は歩き去っていく。僕は呆然とその背を見つめた。

 その先にあるのは、鈴さんが座っているベンチだ。

 透明な鈴さん。僕にしか見えない「彼ら」。それはつまり、未来の彼女が――

「……っ」

 全てを理解するより先に、僕は駆けだす。

 ――急がなければいけない。間に合ううちに、早く。

 僕は、ちょうどベンチに差しかかろうとしている彼女に追いついた。

 その手を掴む。

「鈴さん!」

「ひゃぁ!?」

 悲鳴を上げて彼女は振り返る。茶色い大きな目が見開かれて僕を見た。

 僕はその顔を見て失敗に気づく。

「あ、いや、人違いじゃないんだ。僕が勝手に『鈴さん』って呼んでるだけで……」

 まずい。これは言い訳になってない。よけい不審に思われるだけだ。

 でもそう思う僕とは別に、僕の口は勝手に動く。

「でも、大事なことだから聞いてほしいんだ。本当のことだから、落ち着いて……」

 落ち着かなきゃいけないのは僕だ。もっと冷静に、慎重に言わなきゃいけない。

 本当のことは伏せて、彼女に注意しなければ。だって――


「君は、もうすぐ死ぬんだ」


 ――最悪だ。



『もうすぐあなたは死ぬ』

 初対面の人間にそう言われた時の顔を、日本で一番知ってるのは僕だと思う。

 驚きと恐怖と――何よりも得体の知れないものを見る嫌悪の目。

 覚悟はしていても、その目で見られると一瞬凍りついてしまう。

 だから僕は、信じられないような自分の失態を前に、とっさに目を閉じた。

 鈴さんにだけは、そんな目で見られたくない。見られたら、僕はまた小さな自分の部屋に帰りたくなってしまう。

 臆病を恥じながら、僕は素早く心の準備をした。どんな目を向けられても、何も感じないように――そう自分に言い聞かせながら顔を上げる。

 けど、目を開けた僕は、鈴さんの顔を見て拍子抜けした。

 大きな茶色の目が、じっと僕を見つめている。

「それ、ほんと?」

 純粋な疑問の声。

 驚いてはいるのだろう。でも彼女の目には、恐怖や嫌悪がない。

 ただ不思議なことに対し、「なぜ」と問う小さな女の子のようだ。

 僕は、そんな彼女に驚いて――ぽかんと顔を見合わせてしまった。

「……え、っと……信じてくれるの?」

「んー、まだわからないけど、ずいぶん真剣みたいだし。ちゃんと話を聞こうかと思って」

 彼女は空いた手を顎にかけて頷く。長い髪がふわりと波打った。

 あどけない表情で、当たり前のように当たり前じゃないことを言ってくる彼女。

 そんな姿は、僕の知る鈴さんとは違う。鈴さんはいつも黙って僕の話を聞いてくれる。全てを受け止めてくれるだけの存在で、逆に聞き返してきたりしない。

 でも、だから――

「……あ」

 声がつかえる。

 そのまま口ごもりそうになった僕は、強張る声を無理矢理吐き出した。

「あ、りが……とう」

 涙が滲みかけて下を向く。いくらなんでも初対面でおかしなことを言ったうえに、いきなり泣き出したりしたら取り返しがつかない。それでなくても、女の子の前で泣くだなんて格好悪い。そういうのは、一人の時にすることだ。

 僕は必死で感情をコントロールしようと唇を噛む。小学校三年の時、クラスの山田君が切れ味のいいギャグで、教室内に爆笑の渦を作った時のことを思い出そうとした。

 だが何とか涙が収まりそうになった時、ぎゅっと手を握り返されて叫びそうになる。

「……って!」

 まだ、鈴さんの手を掴んだままだった!

 あわてて手を放す僕に、彼女は怒るわけでもなく、くすりと笑う。

 何だこれ……もう調子が狂いっぱなしだ。

 頭の中がぐるぐるして思考がまとまらない。恥ずかしいような嬉しいような、自分で自分がよくわからない状態だ。無理にでも軌道修正しないと話もできない。

 僕は、こほん、と小さく咳払いをして顔を上げた。

「ごめん。ちょっと動転した。あんまりない反応だったんで」

「私も、もうすぐ死ぬって言われたのは初めてかな」

「ごめんね!」

 言われてみれば、本当に僕の方がひどかった。完全にごめんなさいだ。

 あらためて、僕は立て直しをはかる。

「えっと……端的に言ってしまうと、僕は時々……もうすぐ死ぬ人間の姿が見えるんだ。そういう人が幽霊みたいに、あちこちにいるのが見える。君のことも――」

「え、あちこちにいるって、死相が見えたりするってこと?」

「違う」

「じゃあ、頭の上にカウントダウンが見えるとか……」

「違うって」

 なんだこの子。変な子だぞ。何でこんなわくわくした顔で食いついてくるんだ。自分がもうすぐ死ぬって言われたのを忘れてるのか。

 鈴さんは茶色い目を輝かせて僕に迫ってくる。その距離感のなさにびびりながら、僕は続けた。

「じ、実際のその人を見てわかるわけじゃないんだ。ただ、その人が死ぬことになる場所に、幻が見える。たとえば交通事故だったら、道路に飛び出していく子供の姿が見えたり――」

「子供!? それどこ!? 早く何とかしないと!」

「いやそれはもののたとえで……」

「早く行こう!」

 彼女の手が僕の手を掴む。そのまま有無を言わさず、鈴さんは僕を引きずって走り出した。公園の出口へと真っ直ぐに向かう。

「え? ちょ、え?」

 あまりのことに頭がついていけない。

 この人、人の話を聞かないにもほどがあるぞ。パニック映画だったら、真っ先に飛び出して散々色んな人を巻きこんで死なせた挙句、なぜか最後まで生き残ってるタイプの人だ。

 鈴さんは僕をずるずる引っ張りながら、笑顔で振り返った。

「あ、私、瀬崎鈴子っていうの。君は?」

「すずこ?」

「鈴の子、って書くんだよ。だからさっき呼ばれた時、ちょっと驚いた」

 そう言って鈴さんは小さく舌を出す。胸元で見慣れた鈴の形のペンダントが揺れた。

 なるほど、このペンダントは彼女の本名をもじってのものなのか。「鈴」ってのは、彼女にとってはよくある愛称なんだろう。だからさっきも「人違い」って答えるまでに間があったんだ。いきなり知らない男に愛称を呼ばれたらびっくりするしな。

 僕は自分で走りながら、自己紹介する。

「えーと、僕は神長智樹。大学一年」

「かみなが、ともき……?」

 怪訝そうな声で鈴さんは繰り返す。まさか、同じ大学で名前を知られてるとかじゃないだろうな……。

 鈴さんはまた「んー」と悩む声を上げた。

「かみなが君……? 大学一年生って……」

「別に珍しい名前じゃないだろ?」

 噛んで確かめるような鈴さんの言い方は、ちょっと不安になる。鈴さんはその後も「うーん」と悩んでいたが、すぐに大きく頷いた。

「ま、いいか! 今はそれどころじゃないし! よし、じゃあ行こう、神長君! 人助けだよ!」

「だからどっちに向かってるんだって――」

 このまま闇雲に走っても「彼ら」に出会えるわけじゃない。僕もここに来る途中、何人もの「彼ら」を見たけれど、透き通って見えるってのは、死亡時刻が先の証拠だ。それを何とかしようと思ったら、数日から一か月くらい張りこまなきゃいけなくなる。

 僕はそこまで考えて、ふっとある光景を思い出した。

 ――最後に見たのは、一週間前のことだ。

 この公園から駅へと向かう途中に横切ることになる大きな道路。その横断歩道の前に、いつからか一人の透けた女子高生が立っているんだ。

 最初はほとんど透明だったけど、次第に色がついて輪郭がわかってきた。彼女の、どこか怯えたような、疲れたような目の様子も。

 道路をぼんやりと見つめる彼女の行く先はただ一つで――だから僕は、そこから散歩コースを変えた。

 きっと、あのままのペースで鮮明になっているなら、透けた女子高生と現実の彼女が重なるのは、もうすぐだろう。まだあの大通りで事故があったってニュースは聞かないからきっとこれからだ。

 僕は鈴さんに手を引かれて走りながら、重い口を開く。

「七号線の……横断歩道で……」

「七号線だね! わかった!」

 鈴さんは僕の手を離す。

 けどそれは、一人で現場に急行しようというわけではなく、走りやすさを重視してのものらしい。時々振り返って、僕にどっちへ行くか尋ねてくる。それ以外は振り返らない。まるで、僕が絶対ついてくると信じてるみたいだ。

 息を切らせて、長い髪を揺らして走っていく姿。

 その背中は、今まで僕が見た誰とも違っていた。

 僕はじっと彼女の背を見上げる。

 鈴さんはそうして、一キロ近い行程を一度も止まらずに、僕を疑わずに走り抜けた。

 僕は……情けないことに、ついていくだけで精一杯だった。



「で、この横断歩道で事故が起きるの?」

「……多分」

 鈴さんは、結構体育会系なんだろうか。うっすら額に汗が滲んでるものの、疲れた様子はない。むしろ汗びっしょりでばててるのはこっちで、僕は横断歩道が見える建物の角で、しゃがみこんで息を切らせていた。

 ぐったりとしていると、鈴さんがハンカチを差し出してくる。

「はい、どうぞ」

「……ありがとう」

 彼女のハンカチは、アイロンをかけなくてもいい、ふわふわのタオルハンカチだ。現実の彼女と出会って三十分足らずだけど、何だかいかにも彼女らしいものに思える。

 僕は遅ればせながら見栄を張って立ち上がると、彼女の疑問に答えた。

「その横断歩道に……ブレザーの女子高生が暗い顔で立ってる」

 僕が指差したのは、大きな道路を横切る横断歩道だ。

 交差点ではない。車は直進する道しかなくて、横断歩道は歩行者がボタンを押して渡るためのものだ。道路を渡った向こう側には古着屋があって、その前に数日前から一人の女子高生が立っている。

 鈴さんは思いきり眉を寄せて、僕の指した方を凝視した。

「……私には見えないけど」

「僕にしか見えないんだ。……今まで何人かに言ったことあるけど、誰も信じてくれなかった」

 ずきり、と胸が痛む。

 今まで、僕の言葉を頭から受け止めてくれた人はいなかった。返ってくるのは、呆れや怒りの言葉と冷たい視線ばかりで……説明すればするほど凍っていく空気が、ひたすらに息苦しかった。

 だから鈴さんも、結局はこんな無茶な話を信じてくれないだろう。

 どうせこうなるなら、あの時彼女を呼び止めなければよかった。警告するならもっといくらでも手段があったはずなんだ。正面から本当のことを話すなんて、子供のすることだ。

 どんどん気鬱になっていく僕は、鈴さんの横顔をうかがう。

 彼女はまた顎に手をかけて、「うーん」と考えこんでいた。

「それって、どれくらい先のことかわかる?」

「……わからない。透け具合からいって、多分二日以内」

 最後に見た時よりも、女子高生の色味ははっきりと増してきている。思いつめたような、憂鬱そうな顔もずっとリアルだ。遠目から見たなら、普通の人間と間違うかもしれない。

 僕は、女子高生の鬱屈とした表情が、まるで自分の感情とリンクしている気がして目を逸らした。

「いつかは確定できないけど、この横断歩道で彼女は車にはねられて死ぬ。――多分、信号を無視して飛びこむんだと思う」

「そんなことまでわかるの?」

「わかるよ。顔を見ればわかるし、急に飛び出すから――」

 そう言った瞬間、立っていた女子高生が道路に飛び出す。

 現実には、何の車も見えない。けど、うっすら透けた彼女の体は――何かにぶつかって宙を舞った。そうして道路に叩きつけられた彼女を見ないよう、僕は目を閉じる。

「神長君?」

「……ちょっと待ってて」

 僕がゆっくり深呼吸してから目を開けると、透けた女子高生はまた横断歩道の前に立っていた。ついさっきねじ曲がったはずの四肢は、ちゃんと元通りになっている。血だまりに沈んだはずの頭もだ。

「彼ら」は現実の死の瞬間まで、こうやって何度も未来の死をなぞっていく。それを見るのは、正直あまり好きじゃない。

 僕は額の冷や汗を拭った。

「死ぬ本人以外の幻視は見えないんだ。だから時間も、どんな車にはねられて死ぬかもわからない。ただ、近いうちに同じことは絶対起きる」

「絶対?」

「絶対。止めようとしても無駄なんだよ。こんな話、みんな信じないし……」

 今まで具体的にどんな苦い目にあったか、鈴さんに話す気にはなれない。ベンチに座る鈴さんにはなんでも話せるのに、僕の知らない彼女には言いたくない。簡単にこっちを覗きこんで欲しくない、って思ってるのかもしれない。

 遠くで信号が変わったのか、車が何台も道路を流れてくる。この時間、交通量はそう多くないけど、夜になれば運送トラックがスピードを出して通行するとも聞く。

 鈴さんは行き交う車両を見ながら、「うんうん」と頷いた。

「なるほどね。大体わかった……気がする」

 僕は彼女の言葉を聞き流す。

 鈴さんは、どうやら荒唐無稽な話に嫌悪感を見せる性格じゃないらしい。

 それにはちょっとほっとしたけど、でも「ここまで」だ。普通の常識ある人間は、「わかった」「大変だね」と続けて、最後になんにでも使えるような慰めをつけ足して話を終わらせる。こうすれば良心は痛まないし、逆にそれ以上踏みこむには、労力を使うからだ。

 僕は溜息を一つつくと、気分を切り替える。

 鈴さん自身の幻視については、どうにか助けられないか考えよう。まだ時間もあるはずだ。僕は彼女に軽く手を挙げた。

「鈴さん、悪いけど僕はこれで――」

「あ、ちょっと待って。張りこみするから、もうちょっと特徴教えて」

「…………は?」

 今、なんて言ったんだこの人。

「二日くらいなら何とかできると思うし。まだそんなに寒くないからいけるかなって。近くにコンビニがあるからご飯も何とかなるし……」

「……は?」

「あ、トイレもちゃんと断ってから借りるから、平気だよ」

「そういうことは心配してない!」

 突然の僕の大声に、鈴さんはびくっとする。驚かせたのは申し訳ないけど、今のは普通突っこむだろ。

 何なんだこの人……信じる信じないじゃなく、変なところに飛びこんでくるぞ。

「二日って長いよ。こんな路上で張りこむなんて無理だ」

「でも刑事さんとかはやってるよ」

「鈴さんは刑事さんじゃない」

 この人と話してると、小学生と話してる気分になるな……。怪訝そうな顔になる鈴さんに、僕は苦い顔で言い直した。

「初対面の人間の、本当かどうかもわからない話に、二日も張りこみするなんて正気じゃないよ」

「そう?」

 鈴子さんはぐるりと辺りを見回す。午後の街中は、車通りはあるけど歩いている人はまばらだ。その中には当然、問題の女子高生の姿はない。ただ同じ姿形の幻視が横断歩道の前に立っているだけだ。

 鈴さんの茶色がかった大きな目が、再び僕の方に戻る。

「私は、これが嘘だとしたら、そんな話を初対面の人間に話す理由はあんまりないかな、って」

「…………」

「少なくとも、私は神長君の様子を見て、本当のこと言ってるんだろうなって思ったよ。もし本当じゃなかったとしても、神長君は本当だって信じてるんだと思う」

「……君は」

 鈴さんの言葉は、裏表の感じられないものだ。

 不純物がない水のようで、すっと落ちて染み入る。

 それは、愚かさとはきっと別種のものだ。

 僕は奥歯をきつく噛む。そうしなければ、何だかこれまで飲みこみ続けた弱音を、吐き出してしまうような気がしたからだ。

 鈴さんは僕を見つめて、花のように笑った。

「それにほら、たった二日のことで人の命が救えるなら、やるしかないじゃない? だって人間は、八十年も生きるんだし! いける――大丈夫だよ!」


 大丈夫、と。

 何度も聞いたその言葉。

 小さくガッツポーズを作る彼女は、未来を知らない子供のようだ。

 善良で、単純で――だからその分、力強かった。


 本当に……何なんだ、この人は。

 こんなの、降参するしかないじゃないか。

 僕は彼女の視線を避けて顔を伏せる。笑い出したいような、逆に泣きたいようなおかしな気分だ。零れそうになる声を、僕は苦労して飲みこんだ。表情を作ってから、あらためて顔を上げる。

「わかった。じゃあ僕と交代で張りこみしよう」

「え、それは駄目だよ!」

「なんでだよ!」

「神長君に張りこみとかちょっと……無理なんじゃないかな?」

「それは僕が言ったことだから! 完全にお互い様だから!」

 なんだこの人、どういう基準で動いてるんだ。よくわからないぞ。

 けど僕の言い分は無視して、鈴さんは両手を前に出して「だめだめ絶対だめ」と断固たる姿勢だ。その頑固さの理由がわからないし、キャラが全然つかめない。この人友達いるんだろうか。いたとしたらきっと、心が海みたいに広い人なんだろうな。

 でも……彼女が僕を信じて何とかしようって思ってくれてるのは、きっと本当だ。

 だから、僕は僕でそれに応えるしかない。

「わかった。じゃあ張りこみは鈴さんに任せる。で、肝心の特徴だけど――」

 僕は女子高生の幻視を見ながら、わかる限りの外見について伝える。最後に小さなメモを取り出すと、そこに走り書きをした。

「あとこれ、僕の携帯番号。何かあったら連絡して」

「うん。ありがとう。私の番号はこっちね」

 鈴さんはそう言って、バッグの中からパステルカラーの名刺を差し出してくる。そこには「瀬崎鈴子」という名前と共に、携帯番号とメールアドレスが載っていた。

 この人……女子のくせに自分の個人情報にめちゃくちゃ無頓着だな。初対面の男に名刺渡すとか、僕がストーカーとかだったらどうするんだ。

 でも、連絡先がわかるのはありがたい。僕は名刺をバッグのポケットに入れた。

「じゃあね、鈴さん。ここまで付き合ってくれてありがとう。がんばって」

「うん! 神長君も気をつけて帰ってね!」

 子供に向けるような挨拶をされて、僕は内心げっそりしながらもその場を離れた。一度だけ振り返ると、鈴さんはまだ大きく手を振ってる。

 僕は仕方なく手を振り返して角を曲がった。鈴さんの姿が見えなくなると同時に駆けだす。

「まったく、あの人は……!」

 張りこみなんて、現実的だけど非効率的だ。本当に何も手がかりがない時の最終手段だ。

 幸い僕は「誰が死ぬか」を見ている。なら、まだどこかで生きてるその人間を見つけ出してしまえばいい。僕は走りながら携帯を取り出す。

「都内、高校、ブレザー……と」

 画像検索で出てきた写真を、僕はどんどんスライドしていく。中には全然関係ない校舎の写真とかも混ざってるけど、それはスルーだ。襟の形、リボン――そんなものから僕は、山ほどある画像を絞っていく。

 そして出てきたのは――

「あった」

 見つけた。二駅先にある女子校だ。ここからならそう遠くない。まだ下校時間には間に合うはずだ。

 僕は最寄り駅へと走る。頭上を通る高架を見上げながら、手を振る鈴さんの姿を思い出した。

 二日も路上で張りこみするなんて、まったく普通じゃないだろう。

 でも僕は、なぜだか彼女がそれをやり遂げてしまう気がして――ただただその馬鹿げた挑戦を阻止しなければと、思った。



 問題の女子校は、小さな駅から坂道を少し上ったところにあった。

 下校時間にはまだ早いと思ったけど、行事の関係か早く終わる日だったらしい。門前に到着すると同時に、中からは見覚えのある制服の女の子たちが湧き出てくる。

 弾むような彼女たちの声を避けて、僕は門が見える建物の陰に陣取った。

「結局僕も張りこみか……」

 こんなとこ、鈴さんには絶対見せられない。「駄目だって言ったのに!」と騒ぎになって警備員を呼ばれるに違いない。

 実際、門が見えるようなところにいれば、隠れてても隠れてないようなもので、僕は下校する女子高生たちの好奇の視線を浴びる羽目になった。僕を見る度に、彼女たちがくすくすと笑うのは、気のせいだと思いたいけど気のせいじゃないだろう。

「くそ……こういうの久しぶりだな」

 未来の死を止められるのは自分しかいない――そう思っていた頃には、張りこみも尾行も散々やったんだ。だからって上手くなったわけじゃないけど、ある程度人に怪しまれる気まずさには慣れている。

 そうして帰っていく女子高生たちの顔を、チェックすること約十五分。

「……あれか」

 長い髪を二つにわけた少女。友達と談笑しながら帰っていく彼女は、確かに僕が幻視で見た当人だ。

 でも、その表情はまったく違う。いたって快活そうな様子は、二日以内に車に飛びこむようには思えない。これ、人違いじゃないだろうな……。

 僕は不安になりながら、彼女たちが通り過ぎるのを待って、その後を追った。

 高い声で交わされる会話が、途切れ途切れに聞き取れる。

 女子高生同士の話は、よくわからない固有名詞だらけだ。でも彼女たちは、一言交わす度に声を上げて笑いあう。そういう友人との他愛もない会話ってのは、僕が失って久しいものだ。なんだか相手が女子高生だからって以上に遠いものを感じて、僕は重くなる息を飲みこんだ。

 そうしているうちに、彼女は友人たちと別れて一人になる。

 向かっているのは、鈴さんが張りこみしている七号線の方角だ。

 彼女が飛びこむのは、今日か明日か。その間に、彼女の心境を一変させる出来事が起こるに違いない。彼氏に振られるとか、友人に裏切られたとか、大事なものを失ったとか、後は……宿題を忘れたとか……

「……想像力が貧困すぎる」

 だめだ、僕は。これが人付き合いをしてない弊害か。

 でも僕にとって人の死は身近でも、人が「死にたくなる理由」はあんまり想像がつかない。

 死っていうものは多くが理不尽で、ある日突然やってくるものだ。人の意識の隙間を縫って現れる。そして、抗うことはできない。

 だから彼女も――きっと逃げられない。

 僕はそう思いながら、一定距離を開けて女子高生を尾行した。

 辺りは碁盤の目状になっている住宅街だ。彼女は一見体育会系には見えない細身だけど、結構歩くのが速くて何度も引き離されそうになる。僕は小走りになって彼女の後を追いかけた。

「……まずいな」

 このままずっと行けば、鈴さんのいるあの横断歩道に出てしまう。

 今のところ車に飛びこむきっかけは全然ないけど、人にはどんな心境の変化が訪れるかわからない。ましてや鈴さんと出会ってしまったなら何が起きるかわからない。

 たとえ飛びこむのが明日であっても、鈴さんなら知らない女子高生にタックルくらいかましかねないし。こんなことなら外見特徴とか教えなければよかった。会ったばかりの僕にこれだけ心配される鈴さんってなんなんだ、という気もするけど、そこは大体彼女のせいだろう。

 それに――何だかんだで、やっぱり僕は鈴さんにこれ以上「彼ら」に関わって欲しくないんだ。

 僕のことを信じてくれてる鈴さんだけど、それは「彼ら」の存在に確信を持っているってほどじゃないだろう。ただ僕が真剣だから信じてくれてるだけだ。

 けど――一度そこを踏み越えて幻視を確信してしまったら、鈴さんは全部の「彼ら」に関わろうとする気がする。それも必然的に僕を巻きこんで――そんな事態はご免だ。

 角を曲がっていく女子高生を、僕は走りながら追いかける。

 こんなところ誰かに見られたらストーカーとか言われそうだ。けどあの幻視の通り、現場に向かうなら、彼女はこのまま大通りに沿って西に歩いてくはずだ。

 ――鈴さんと出くわすまで、もう一キロもない。

 このまま尾行をするか、それとも……

 ブレザーを着た背中を見ながら、僕は迷う。


 たとえあの女子高生が近い未来、死を選ぶのだとしても。

 知らないふりをすればいい。今までもずっと見ないふりをしてきた。

 鈴さんだって、本当にあの横断歩道で二日も張りこみするかどうかわからない。

 関わらない方がきっと平和だ。死の幻視なんて、普通は見えないものなのだから。

 でも――



 道路に飛び出す彼女の幻視。

 細い体がおもちゃのように宙を舞い、そして道路へと叩きつけられる。

 その結果としてあるものは、ただの死だ。

 突然で、ひどく理不尽な――

「…………っ」

 胸が詰まる。

 息が苦しい。脳裏を判然としない映像がいくつも流れていく。

 路上に広がる赤い血。動かない体。

 悲鳴。子供の泣き声。遠くから聞こえるサイレン。

 そんなものは、もう――


 暗くなりかけた視界に、けど、真っ直ぐな声が響く。

『人の命が救えるなら、やるしかないじゃない?』

 僕の心に届く言葉。

 その声が、聞こえる。

『大丈夫。一人にはしない』

 それこそが、僕と世界を繋ぐ欠片だ。



「……っ、あ、あの!」

 喉につかえかけた言葉が滑り出る。

 まるで引きつった声を聞いて、僕はそれが自分の発したものだと気づいた。怪訝そうに振り返った女子高生に、あわてて続ける。

「あの、君! ちょっと待って!」

 女子高生はちらりと僕を見て、眉をひそめた。

「なに……あたしがどうかしたの?」

「その先に行かない方がいい」

「は?」

 一日に二回も初対面の人間に話しかけるなんて、はっきり言ってどうかしてる。こんなのきっと鈴さんのせいだ。

 だから、もうこれで最後にする。僕は必死で止まりそうな頭を回転させた。

「行くと、君は絶対後悔するんだ。君の周りの人間も」

 うまい言い方が思いつかない。女子高生はあからさまに顔をしかめた。

 まずい。これは絶対信じてくれてない。駄目だ。何とかしないと。何とか……。

「い、行っちゃ駄目だ。行くと……命に関わる」

「何それ。そういうの学校で流行ってるの? 言っとくけど、面白くないよ」

 彼女の目が苛立ちと嫌悪で吊り上がる。今まで何度も見てきたそれに、僕は内心たじろいだ。言うべき言葉が霧散する。

 でも、それでも止めなきゃいけないんだ。僕は両拳をきつく握った。

「……悪戯じゃなくて本当なんだ……。このままだと、君は死ぬかもしれない」

 信じられない話だとはわかってる。

 それでも少しでも用心してくれればいい。そう祈って……けど彼女は冷えきった目で僕をにらんだ。小さく吐き捨てる。

「気持ちわる!」

「……っ」

 止める間もなく女子高生は走り出す。僕はあわててその後を追った。

 けど、彼女の姿はたちまち角の向こうに見えなくなる。その先はもう七号線だ。僕は走る速度を上げ、角を曲がった。

 ――そして絶句する。

「ちょっ……! バスかよ!」

 ちょうど来たらしい路線バスに、女子高生が飛び乗るのが見える。

 そのまま僕の目の前でバスは無情にも発車した。行き先表示を見た僕は、バス停に駆け寄って路線図を確かめる。

「げ、やっぱ七号線か……」

 遠ざかるバスは、この後すぐに七号線を西に行き、最終的に二つ先の駅につく。鈴さんが張っているのは、その途中にある横断歩道だ。

 僕はバスの後を追って駆けだす。

「くそ! さすがに予想外だよ!」

 ひょっとして僕が声かけたからバスに乗ったのか?

 だとしたら裏目に出たにもほどがある。このまま駅までバスに乗っててくれたらいいんだけど、あいにくそんな保証はない。

 僕は走りながらスマホを取り出した。バッグのポケットからは鈴さんの名刺を。

 本当は嫌だけど、そうも言ってられない。僕は名刺に書かれた番号を素早く入力する。少しの間をあけて呼び出し音――じゃなくて、童謡が流れ始めた。

「って、何で呼び出しが『とおりゃんせ』なんだよ! 怖いよ!」

 しかもインストじゃなくて、ご丁寧に小さな女の子の声が歌うとおりゃんせだった。めちゃくちゃ怖い。嫌がらせか。この名刺自体が罠なのか。罠だとしたら鈴さんのキャラ、イメージ変わり過ぎだろ。

 とおりゃんせを真剣に聞きたくない僕は、耳からスマホを離して走る。けど一向に鈴さんが応答する気配はない。番号を間違えたかと思って名刺を見直したけど、そんなこともない。

「あの人、着信音とか切ってるんじゃないか……!?」

 だとしたらもうあてにならない。僕は体のあちこちが上げる悲鳴を無視して、とっくに見えないバスの後を追った。七号線に出ると広い歩道を走り始める。

 ――まったくもって最悪だ。

 見ないふりをしていたのに、鈴さん一人に声をかけたばっかりに。

 女子校で張りこみする羽目になるわ、女子高生に蔑みの目で見られるわ、怖い童謡聞きながら全力疾走するわで散々だ。今すぐ走るのをやめて、家に帰ってシャワー浴びて寝たい。

 でも、ここで降りたら意味がないんだ。――僕はそんなぶつぎれの思考をしながら、ひたすら七号線を走っていった。

 車道は大きい道路だけあって交通量も多い。

 けど、どうやらバスは降りる人間が他にいたみたいで、百メートルくらい先で止まっているのが見えた。距離を詰めるなら今のうちだ。そう思った矢先にバスは再び発車する。

「つ、つらい……」

 これ、やっぱり横断歩道で張りこみしてた方が正解だったんじゃないか? でもそんなこと思うだけで鈴さんに負けた気がするから嫌だ。ってか、あの人まだ電話でないし。とおりゃんせが鳴り続けてるし。

 僕は必死にバスを追いかける。でも、いくら頑張ったってしょせん人の足だ。バスの背はみるみる遠くなり――だけどまっすぐに伸びる七号線のずっと先で、また止まった。中から見覚えある女子高生が降りてくる。彼女はそのまま、周囲を気にしながら近くの古着屋に入っていった。

 ――そこは、鈴さんが張っているはずの横断歩道の前だ。

「……っ! 鈴さん!」

 呼び出し中のスマホを見る。留守電にもならないし、これは一回切ってかけなおした方がいいかもしれない。

 だがその時、不意に画面が変わって明るい声が響いた。

「もしもーし、瀬崎です」

「鈴さん! 今のバスから降りた子!」

「あ……大丈夫だよ、神長君」

 何が大丈夫なんだろう。不安になるけど、僕だってことはわかったみたいだ。よかった。それについては斜め上にいかなくて済んだ。

「僕だけど、古着屋に入ってった子を見たよね?」

「古着屋?」

「すぐ目の前にあるだろ。そこの――」

 そこまで言って、僕は失敗に気づいた。

 僕は、例の横断歩道のどっち側に女子高生の幻視がいるのかを言っていない。

 はねられる女子高生の姿から目を逸らしていたから、ちゃんと指差さなかった。

 だからきっと――鈴さんはまだ、さっきと同じ横断歩道の反対側にいるままだ。

「……まずい」

 僕はぞっと青ざめる。

 ――いや、まだ間に合うはずだ。

 古着屋に入ったってことは、服を見ている時間があるだろう。その間に追いつけばいい。

 けど直後、数百メートル先の古着屋から、入ったばかりの女子高生が出てくる。

 って、なんでもう出てくんの!? もっとゆっくり見なよ! 気に入るものがあるかもしれないだろ!

「す、鈴さん!」

 僕は苦し紛れの叫びを上げる。鈴さんの返事がすぐに聞こえる。

「うん。――見つけた」


 澄んで響く声。

 今まで聞いた声の中で、それはもっとも綺麗なものとして、僕の耳に届いた。

 もし僕がもっと子供だったら、それを「運命を変える声」と思ったかもしれない。

 彼女の声には、それだけの力がある。

 彼女の言葉もそうだ。だから僕は、ここにこうしていられる。


 でも……相手はあの鈴さんだ。横断歩道をあわてて渡ろうとして、自分が車に轢かれるかもしれない。せめて注意喚起をしなければ。

「鈴さん、ちょっと待――」

 ぷつりと、スマホの通話が切られる。鈴さんが切ったんだ、と理解する頃には、もう僕は横断歩道まで百メートルほどのところにまで来ていた。

 女子高生は、幻視と同じ場所で、幻視の通りに暗い顔で足下を見ている。

 さっきまでは、あんな様子じゃなかったのに。古着屋で彼氏に振られたり、友達に裏切られたりしたんだろうか、って……あ。

「ひょっとして……僕のせいか?」

 僕が、あんな忠告をしたから。

 だから気にして、暗い顔でうつむいて――ああ、やっぱりそういうことなのか?

「……っ、でも!」

 でもそんなの自殺するほどのことじゃないはずだ。ならやっぱり他に何かあるのか。

 距離はあと五十メートル。

 女子高生は、歩行者信号をちらりと見上げる。信号はまだ赤で、車通りはまばらだ。

 けどその時――反対側の歩道から子供の声が上がる。

「あ、お姉ちゃん!」

 歩道を行く幼稚園児の行列から上がった声は、三歳くらいの小さな男の子のものだ。

 彼は道路の反対側に姉の姿を見つけて飛び上がる。そのまま引率の大人の制止を振り切って、車道へと駆け出した。

「タケル!」

 女子高生が悲鳴を上げる。

 彼女は弾かれたように道路に飛び出そうとする。

 そこから先の未来は僕のよく知るものだ。

 女子高生は弟を庇おうとして車にはねられる。

 僕は思わず顔を背けようとして――

「駄目!」

 伸びてきた細い腕が、男の子の襟首を掴んで歩道に引き戻す。

 そんなことをできるのは、一人しかいない。

「鈴さん!」

 鳴り響くクラクション。

 男の子の鼻先を、間一髪で車が掠めていく。弟の無事に女子高生の足も緩んだ。

 止まろうとよろめく彼女に、けど白いワゴン車が迫る。

 踏まれるブレーキ。彼女はまだ動けない。

 そのまま宙を舞うはずの彼女に――僕はついに、追いついた。

「危ない!」

 彼女の腕を掴んで、全力で引っ張る。

 そのまま僕は格好悪いことに尻餅をついた。女子高生ともつれ合って歩道脇のアスファルトに転がる。頭のすぐ横を車が通っていって、全身が一瞬で冷えきった。

 けど……汗で濡れた体とは反対に、頭の中は焼けるほど熱い。

 僕は女子高生の下敷きになったまま、空を仰いで息をついた。

「なんなんだ、もう……最悪だ」

 体はあちこちぶつけてズキズキと痛む。走り続けた脇腹も肺も同様だ。「きもい」って言われるし、服は汚れるしでいいことがない。


 そして極めつけに――今の気分は最高だ。


「神長君!」

 鈴さんの声が僕を呼ぶ。

 日の光を遮って、彼女が僕を覗きこんだ。ふわふわと長い髪先が僕の顔に触れる。

「神長君、大丈夫?」

「……おかげさまでね」


 僕が越えられなかった壁を、いともたやすく越えてしまった彼女。

 まるで馬鹿馬鹿しい奇跡だ。少なくとも、僕にとっては。

 その彼女は僕に、白い手を差し伸べる。

 透き通ってはいない、現実の彼女の手。

 ベンチの隣じゃなくて、向き合っているこの距離。

 僕は彼女の確かさに息を飲む。


「神長君?」

「……なんでもないよ」

 僕は動悸のやまない胸で深呼吸をして、彼女に手を伸ばす。すりむけて血の出た掌を、白い手に重ねた。

「ありがとう、鈴さん。……あと、大事なことを一つお願いしたいんだけど」

「なになに? 言ってみて?」

「呼び出し音変えてくれ」

「え……気に入ってるのに」


 これが僕たち二人の、「彼ら」にまつわる話の始まりだった。