自慢じゃないが、お化け屋敷に入ったら三秒で叫んで五秒で泣く。

 俺、三軒和音はそういう人間だ。けど、別におかしくないよな。

 だってお化け屋敷は、人を驚かせ、怖がらせるためのものだろ。ならお化け屋敷に入ったら、大声で叫んで顔がぐしゃぐしゃになるほど泣くのが客としての礼儀ってもんだ。お化け屋敷に入って泣きも叫びもしないほうがおかしいし、礼儀知らずだと思う。

 つまり俺は、空気を読んで礼節を重んじているわけだ。だからけして怖がりなわけでも、男らしくないわけでもない。

「うわあああああ! もうこんなところ嫌だああ! 出してくれえええ!」

 たとえどんなに涙と鼻水で顔が汚れていようと、既に叫びすぎて喉がからからであろうと、俺は断じて情けない奴なんかじゃあない。

「あっははは! 三軒の奴、まーた情けない顔で泣いてんぞ」

「いくらなんでも怖がりすぎだろ~」

 泣き叫ぶ俺と対照的に、大笑いする友人達。心の醜い奴らめ。大体お化け屋敷で泣かずに笑うなんて礼儀に反してるだろ。そう、俺はお化け屋敷に入った客の礼儀として泣き叫んでるんだ。こいつらは少し俺を見習うべきで……。

「うらめしや~……」

「びゃあああああ!!」

「だからびびりすぎだって!」

「こんな作り物だってわかりきってるお化け屋敷で、よくそこまで怖がれるよな~」

 俺は礼儀正しいだけ、俺は礼儀正しいだけ、俺は礼儀正しいだけ。

 そう言い聞かせていないと心が折れそうだ。おかしい。なんで卒業を記念する、楽しいはずの行事で俺はこんな目に?

 そう、今日は卒業遠足の日。中学三年生、卒業を目前にし、最後に皆で楽しもう! という本来愉快な学校行事。……だけど、場所が遊園地というのが、はっきり言って俺には地獄なわけで。

「こいつ、ジェットコースターでも白目剥いて叫びまくってたよな」

「観覧車でもやばかった。高いところ怖いって、顔が土色になっててさあ」

「あー、頂上付近で最高に笑えたよな。あのときのこいつの顔……思い出すだけで笑いが……っ」

「笑いすぎだ、ほまえら!」

 鼻水をすすりながら抗議するが、悲鳴を上げすぎて疲れ切った喉はもはや美しい発音というものを失っていた。

「悪かったって、三軒の顔芸が面白すぎて、つい」

「ほら、リタイア者用の出口あるぞ」

 友人に誘導され、震える足でなんとか出口――怖すぎてゴールまで到着できない、途中で脱落する人用の出口に辿り着く。

「う、うううう、怖かった……」

 暗い屋敷内から青い空の下に出て、ほっとひと息。

 ――したのも束の間、どこからともなくジャジャン! という謎の音が鳴り、心臓が口から飛び出そうになる。

「ひぃ! 今度はなんだ!」

「ただのスマホの着信音だって。おまえどんだけびびるんだよ」

「そういやさあ、前こいつと家で遊んでたんだけど、こいつ急にチャイムが鳴っただけでめっちゃ悲鳴上げてさー」

「ほんっと、三軒ってびびりだよなー!」

 そこで笑われる意味がわからん。チャイムの音なんていう平常心破壊兵器、平気なほうがおかしい。なんの前触れもなく突然ピンポーン! なんて凶悪な音がしたら心臓が飛び跳ねるだろ、普通。俺は昔から、チャイムの音はもっと静かで心臓に優しいものにするべきだと思っている。思いまくっている!

「傍から見てる分にはすっげえ面白いけどさ、でもおまえ、そんなんでこの先大丈夫なわけ? おまえの高校生活とか、心配だわ~」

「うるせえ、余計なお世話だ」

 口ではそう言ったものの、そろそろ強がりも限界だ。

 不本意だし、認めたくはないが、俺は少しのことですぐ動揺したり取り乱したりする。よく言えば繊細。悪く言うなら……いわゆる「びびり」な性格。

 大きな音や声に弱いし、怖い話も大の苦手。特にお化けとか妖怪とかは本当に、勘弁してほしい。

 自分でも、もう少しどうにかしたいとは思っている。もっと落ち着いていて、何事にも動じない男になりたい、と。

 四月が来れば、俺も晴れて高校入学。高校生になれば何かが変わるんじゃないか、という期待と、どうせ何も変わらない、という諦めがマーブル模様を描く。過度な期待はよくないと思いつつ、願わずにはいられない。

 どうか高校では、今の自分から変われるきっかけがありますように、と――



 そうして迎えた四月。俺は高校生になった。

 入学して約二週間経ったが、特に変わったことはない。当然だ。中学生から高校生になったからって、劇的な変化やドラマチックな出会いなんてあるはずない。そんなものがあるのは漫画やドラマの中だけで、平々凡々な現実を生きる俺は、教室の片隅で平坦な日々を送るだけ。

 ――ああ、ただ、一つだけ、少し変わったことを挙げるなら。

 中学では帰宅部だった俺だけど、高校に入って茶道部に入部した。

 茶道の経験があるわけじゃないし、興味があったわけでもない。ただうちの高校は、校則で部活動が義務づけられていて、全員必ずなんらかの部に所属しないといけない。

 じゃあなんの部に入ろう、と考えてみて――まず高速で自分に向かってくるボールとか絶対に無理なので球技系の部活はなし。そもそも大声で怒鳴られたりするのが苦手なので体育会系の部活全般は遠慮したい。となると必然的に文化系の部活を選ぶことになる。なるべく静かで、活動日数の少ない部がいい。

 そんな基準で選んで、最終的に決めたのが茶道部だったというだけの話。文芸部とも迷ったけど、そっちは見学したとき気難しく気が合わなそうな先輩がいたのでやめておいた。

 うちの学校の茶道部は、月二回――第一と第三の金曜日にしか活動しないそうだ。その活動日の少なさがいい、と思った。他の一年生部員とはまだほぼ会ったことがないけど、同じ考えの奴も多いかもしれない。先輩から聞いた話によると、入部だけして顔を出さない部員は毎年多いんだとか。

 なんにせよ、けして積極的な入部動機じゃなく、むしろ消去法で茶道部に辿り着いたわけで。そんなふうに情熱もなく入部したって、特別なことが起きるはずもなく。

 俺はこの先も俺のまま。変わらないし、変われない。

 ――そう、思っていた。



「……ん」

 瞼を上げる。俺は何をしていたんだっけか、とぼんやり周囲を見回すと、本棚だらけの室内、暗くなった窓の外、六時過ぎを指す時計。

「わ……っ」

 もうこんな時間か、と慌てて椅子から立つ。どうやら俺は図書室で本を読んでいて、そのままうたた寝してしまったらしい。

 図書室は好きだ。静かで、俺を怯えさせるものがない。だけどまさか寝てしまうとは。まだ高校生活に慣れてなくて疲れが溜まっていたところで、落ち着いて本を読むことができ気が抜けてしまったんだろうか。なんにせよ、用もないんだし早く帰らないと。

「ん?」

 帰り支度をしている中、ふと気づく。スマホがない。おかしい。どこへいった? と考えて、はっと思い至る。

 今日の昼休み、茶道部の集まりがあって茶室に行ったんだった。そこで先輩達と連絡先交換のためにスマホを使った。それは覚えている。だけどその後スマホを使った記憶はない。SNSでのやりとりとかゲームアプリとか、あまりするタイプではないし。だから今まで気づかなかったけれど、まさか茶室に置き忘れてきてしまったんだろうか。確証はないが、それ以外に心当たりもない。

 困った。いくら俺がスマホを頻繁に使うタイプじゃないとはいえ、急な連絡とかがあったらいけないし、何よりもし誰かに盗まれて悪用されたら、と考えると恐ろしい。

 とりあえず見に行ってみよう、と俺は図書室を出た。

 

 

 うちの学校――私立緑央学園の敷地内、校舎裏手には、「泡沫亭」という建物が建っている。その中にあるのが茶室だ。

 生徒への情操教育の一環として建てられたというこの泡沫亭は、自然に囲まれた木造建築。和の趣溢れる静謐な空気は、まるで別の空間を切り取ってきたかのような――どこか別世界に迷い込んでしまったような、学校の敷地内ということを忘れそうになる雰囲気がある。

 それにしても慌てて来てしまったけど、中に入れるんだろうか。職員室に行って鍵を借りてこないと駄目かもしれない。

 だがここまで来て校舎内に戻るのも億劫だ。駄目でもともとという気持ちで泡沫亭の、格子状の戸に手をかける。運のいいことに鍵はかかっていなかった。玄関口で靴を脱ぎ、上がる。

 入るとすぐに和室があり、その奥が、電熱式の炉が設けられている茶室だ。茶室は八畳と四畳半の二部屋あって、人数などの関係で八畳のほうが特によく使われているらしい。他に台所と、水屋という、茶道具の準備をする場所なのだと先輩から説明を受けたところもあるが、今用があるのは、おそらくスマホを置き忘れたのだろう八畳の茶室のみ。

「……ん?」

 茶室の襖は閉じられていたが、中に誰かがいる気配。鍵がかかっていなかったことといい、部員の人が使っているんだろうか。今日は活動日じゃないはずなのに。

「失礼します。すみません、俺今日の昼、忘れ物したみたいで……」

 そう言って襖を開け。

 俺は。

 叫んだ。

「ひいぎゃあああああああああああ!」

「おっと、なんだい?」

 そう言ったのは、茶道部の先輩ではなく、同級生でもないと一目でわかる何か。

 長い。首が、非常に長い。極太のホースのような首がにょろにょろと動いている。首の先には、女の顔。

 これは、そう……ろくろ首だ。空想上の生き物でしかないはずの、ろくろ首が、なぜか今俺の目の前に。

 ろくろ首だけじゃない。他にも人のようで人ではない「何か」が……。

「なんだなんだ、見ない顔だな。おれっちは提灯小僧の赤太郎だ、よろしくな!」

「ひいやああああ!」

 赤太郎と名乗ったのは、赤い顔をした和服の子供。彼が持つ提灯の周りには、まるで火の玉のような不思議な光が漂っている。

「ふむ、新顔さんか。あたしはろくろ首の六花だ、よろしくね」

「ぴぎゃああああああ!」

 ろくろ首が、長い長い首を伸ばして、こちらに顔を近づけてくる。

 理解の範囲を遥かに超えた目の前の光景に、俺は簡単にパニックに陥る。混乱と恐怖で逃げ出したかったが、腰が抜けて立てる状態じゃなかった。

「あっはは、あんた、なかなかいい悲鳴を上げるねえ。面白いからもっと鳴きなよ」

 長い首は更に伸び、俺の体をぐるっと囲う。その上で、耳にふうっと冷たい息をかけられた。

「ぃぃぃぃぎゃあああああ!!」

 もはや体は電動歯ブラシのごとく震え、口からはそろそろ悲鳴ではなく泡を吹きそうだ。

「六花、脅かしすぎ。この人間、もう、失神しそう」

 ぽそぽそと区切りの多い喋り方で、首の長い女を窘めるように声をかけたのは、狸。

 そう、狸だ。なんで狸が喋る? それとも俺が知らないだけで狸は喋るものだったのか? 確かに俺は生の狸を見るのは生まれて初めてだし狸について熟知した狸マスターでもないけど、そんな馬鹿な!

「なっ、な、な、なん、なんだ、これ……!」

 いくらお化け屋敷に入って三秒で叫ぶ俺でも、ちゃんと理解はしている。化け物なんて実在しない。

 だから冷静に考えればこれは、特殊メイクか何かを使った、新入生へのドッキリだ。入学したてのひよっこをからかってやろうという、タチの悪い悪戯。だけど。

「顔、真っ青。大丈夫?」

「あああごめんなさい許してくださいなんでもしますから―――!」

 狸に話しかけられ、また叫んでしまう。化け物なんているはずないとわかっていても、怖いものは怖い。恐怖とは理屈じゃない、感覚だ。現実を見ないように目を閉じ、ガクガクと震えている、と。

「なんでもするのか。じゃあ、お茶を飲んでもらおうか」

 腰を抜かした俺に、まだ馴染みはないけれど、唯一聞き覚えはある声がかけられる。

「やあ。君は、新入部員の一年生だったね。名前はたしか、三軒和音、だっけ」

 目を開き顔を上げれば立っていたのは、茶道部部長の二年生男子。

 名前は、湯季千里、といったはず。特徴をいえば、日本人だ。

 いくらなんでも大雑把すぎる説明だろうか。だが「日本人」というのが、この湯季先輩という人を表すのに一番しっくりする言葉だと思う。

 艶やかな黒髪、綺麗な黒い目。もちろん、それだけなら日本中どこにでもいる。

 けれど湯季先輩のは質が違う。昼間に見たブレザー姿でも、内側から「和」の空気が滲み出ていた。しゃんと伸びた背筋といい柔和な笑顔といい、もし彼が女性だったら「大和撫子」という表現がぴったりだろう。

 そんな彼が、今は和服を着ているのだから、もはや完全としか言いようがない。制服姿のときは欠けていたピースが、きっちりはまったかのようだ。

「三軒? 大丈夫?」

「あ、その、え、あっと」 

 ようやく面識のある、ちゃんとした人に会えてひとまずほっとしたが、まだ全身が震えていて、まともに喋れない。

「ところで三軒、今日は部活の日じゃないのに、どうしてここに? ……ああもしかして、早く所作を覚えるために、一人で稽古をしようと? 感心だなあ」

 湯季先輩はにこにこと的外れなことを言う。

 ああ、でもよかった。こんな化け物に囲まれて悠長に微笑んでいられるなんて、やっぱりこれは単なるドッキリなんだな。まあ、当たり前か。

 そう考えたら、爆発寸前だった心臓もだんだん落ち着いてきた。

「ち、違います。別に、稽古しようとかじゃありません」

「そうなの? じゃあなんでここに? 日が暮れた後、茶室に忍び込む癖があるとか?」

「それも違います。そんな癖、あったらやばい奴じゃないですか」

「あはは。でも茶室って素敵な空間だろ。茶道部の部員達で稽古する昼の茶室。あやかし達が訪れて、ときに静かに、ときに賑やかにお茶を飲む夜の茶室。俺は、どちらも好きだな」

「……ん?」

「ん?」

 湯季先輩の言葉にひっかかるところがあって俺がぱちぱちと瞬きをすると、彼は「何か俺おかしなこと言った?」とばかりに笑顔のまま首を傾げた。

「あの……『あやかし』って?」

「もちろん、ここにいる皆のことだよ」

 今この場所に、俺と湯季先輩の他には、ろくろ首もどき、自称提灯小僧、喋る狸しかいない。

「あ、ああ、このドッキリ、そういう設定なんですか? あやかしって、妖怪のことですよね。それに扮して、新入生を脅かそうっていう趣向……なんですね?」

「あはは、三軒は面白いことを言うなあ。うちは茶道部であって、特殊メイク部でもドッキリ研究部でもないのに、そんなことするはずないじゃないか」

「だって現に、こうして周りに……化け物みたいな人達がいるじゃないですか」

「うーん、化け物、かあ。その言い方でも正しいのかもしれないけど、俺は『あやかし』と呼ぶほうが好きだな。何かこう……『化け物』より『あやかし』のほうが、柔らかい響きで、可愛くないか?」

 にこにこ、にこにこ。凪いだ海のような穏やかさで、ズレた言葉が返される。

「あ、あの、ともかく。俺は、ここには忘れ物を取りに来ただけなんです。そ、その、新入生を楽しませるために善意でやっているのかもしれませんが、こういうサプライズは心臓に悪いと思います。い、いえ別に、先輩方に文句があるわけじゃないですけど……」

「サプライズ? ごめん、さっきから君が何を言っているのかわからないなあ」

「湯季。その人間、わたし達が、本物のあやかしじゃない……人間が仮装してると、思ってる」

 やっと助言が入ったが、それを言ったのが狸だったので、ビクッとしてしまう。化け物なんているはずない……が、特殊メイクにしたって明らかに背丈が小さく人間のものじゃないし、玩具にしてはできすぎている。一体、この狸はなんなんだ?

「あはは。三軒、君にはこの子達が、人間に見えるの?」

「み……見えないですけど。でも人間じゃなかったら、なんだっていうんですか」

「だから、この子達は、あやかしだよ。そして」

 湯季先輩は、笑う。いや、最初から今までずっと彼は笑顔のままだったけれど、その中でも一際、桜が舞うような笑顔で。

「俺の、大事なお客様達だ」

「…………」

 何言ってんだ、この人?

 あまりの会話の噛み合わなさに、口が半開きになる。俺とこの人は、同じ日本語のようでいて、実はまったく違う国の言語で喋っているんじゃないだろうか。真剣にそう疑うほど、言葉が通じない。

「これも何かの縁だよ、三軒。君もお茶を飲んでいきなよ」

「いやいや、その前にこれはどういう状況なのか、ちゃんと説明してくださいよ」

「まあまあ。とにかくお茶を飲んでいくといい」

「いいかげんにしてください。何もわけがわからないのに、呑気にお茶なんか飲めませんって――」

 すうっ、と。冷房をつけたわけでもないのに空気が冷える。

 湯季先輩は、それまで柔和に細めていた目をすっと開き、俺を見る。

「――俺の茶が、飲めないって?」

 その眼光は、まるでこちらを射る氷の矢。

 黒曜石のような瞳の中に、ギラリとした、刃のような威圧感が潜んでいる――いや。潜んでない。全然、潜められていない。目からだけと言わず、全身から、殺気にすら似た空気が静かに溢れ出ている。冷え冷えとした迫力で、背筋が凍りつく。

「飲ませていただきます」

「よし」

 冷たい空気は何事もなかったかのように消え、湯季先輩は元の笑顔に戻っていた。俺の心臓だけが、恐怖でバクバクと、また爆発寸前になっている。

 こ、怖かった。なんなんだ今のは。大声で怒鳴られるよりもよほど恐ろしい、静かな凄み。口から魂が抜け出るかと思った。

「ちょうど、お菓子も余分にあるからね。まあ寛いでいきなよ」

 結局、俺は湯季先輩に言われるがまま、この奇怪すぎる面子の中でお茶を飲む流れになってしまったようだ。

「あ、あの、でも俺、作法とかまだ全然わかりませんよ?」

 見学のとき、別の先輩に一度お茶を点ててもらって、ほんの少し客の所作というものを教えてもらっただけだ。

「正式な茶会ではないし、そんなに構えなくて大丈夫だよ。わからないところは教えるし、周りを見ながら参加してくれればいいさ」

 周りと言われても、今ここにいるのは化け物にしか見えない人達だけだ。仮装……なんだとしても、首がにょろにょろした女や喋る狸なんて、不気味で見ていたくない。

「それにね、三軒。作法は確かに大切だ。けしてないがしろにしてはいけない。けど」

「けど?」

「一番大切なのは、心なんだよ」

 にっこり、と。一際空気が華やぐような笑顔を見せる湯季先輩。この人笑顔のバリエーション多いな。

「はあ……そうですか……」

 しかしそんなふうに微笑まれても、巻き込まれ感が半端じゃない俺にとっては、申し訳ないが響かない。正直なところ「この人大丈夫なのか?」という感想しか出てこなかった。

 そんな俺の内心も知らず、湯季先輩は畳の上に用意されていた、和菓子の乗った器を持って一旦茶室を出る。すぐに、俺のためであろう追加分を乗せて来て、また畳に……最も床の間に近い位置にいる、ろくろ首の前に置く。

「さあ、三軒。皆と座って待っていて」

「は、はあ……」

 湯季先輩は退室し、襖を閉める。

「ん。隣、座って」

 狸に勧められ、俺は正座する。脳は相変わらず現状把握ができておらず煙を吹きそうだ。早く帰りてえ、とそわそわしていると。

 ゆっくりと、襖が開けられる。

 湯季先輩だ。彼は襖の外に正座しており、そのまま深く頭を下げた。周囲の化け物もどきの人達も合わせて礼をしたので、慌てて俺も同じようにする。そして湯季先輩は道具――茶道経験のまったくない俺には名称のわからない、蓋のついた陶磁器を室内に運ぶ。

 ただ道具を持って歩いているだけだ。……それなのに、息を呑んでしまった。

 これぞ正しい見本、と本にでも載せられそうな、美しい姿勢。歩くというのはこんなにも優雅な行為だったのかと、目を見開かずにはいられない足運び。

 そのまま彼は、他にも茶碗と小さな容器、柄杓を乗せた器などを丁寧に運んだ。畳に正座し、柄杓を手にする。

 それらの動作が、全て美しい。特別なことをしているわけではないのに、惹きつけられてしまう。

 部活見学のときに見た、別の先輩のものと違う。そのときの先輩が雑だったというわけじゃないはずなのに。それでも俺は、あのときは何も思わなかったのに、今は確かに、心が震えるのを感じていた。

 派手な動きはない。激しいスポーツの目を瞠る展開や、ダンスや演劇などのくるくる変わる華やかな展開など、何も。

 けれど先輩の所作一つ一つに、俺は目を奪われる。彼を中心にして、静謐な空気がひろがってゆくようだ。普段の日常から、今この瞬間だけ切り離されたかのような。時の流れが緩やかになり、日頃なんとなく常に抱いている、得体の知れない焦燥や憂鬱さといったものが消えてゆく。

 悠然と、しかし淀みなく先輩は布のようなもので道具を拭いてゆき、それらが終わると釜の蓋を開けた。ほわりと、白い湯気が立ち上る。それを見ているだけで、心も体も、ほっと温まる心地だ。

 釜から柄杓で湯が汲まれ、茶碗に注がれる。湯季先輩はあの、茶道の定番である竹製の泡立て器みたいなやつを湯に入れ、持ち上げて先のほうを見た後、シャカシャカと動かす。あれ? お茶を入れなくていいんだろうか。この後入れるのか? いやでも、そういえば別の先輩もこうしていたような気もする。

 疑問に思って見ていると、その湯はそのまま、別の器に捨てられてしまった。湯季先輩は小さいふきんみたいなもので茶碗を拭くと、たしか茶を掬うために使う、竹の道具を取り……。

「お菓子をどうぞ」

 そこで、湯季先輩はそう言った。

 化け物もどきの皆様は、お互い礼をし合いながら、紙の上にお菓子を取ってゆく。

 はっと我に返る。忘れかけていたが、俺は今、ものすごく異常な状況下にいるんだよな。

 あらためて化け物もどきの面々を見る。そして、やはりおかしいと確信する。誰も彼も、特殊メイクにしたってリアルすぎる。首が伸びるのだっておかしい。何より、新入生一人脅かすのに、ここまで手の込んだことをするか?

 ……もし、もしも。もしも本当に、こいつらが「本物」なんだとしたら――?

「……人間?」

「ひ……っ!?」

 隣に座っていた狸が、顔を覗き込んでくる。

「人間、やっぱりまだ、顔、青い。大丈夫?」

 至近距離で目が合い、途端にまたパニックが襲ってくる。狸。目の前に狸がいる。しかも喋っている。玩具には見えない。人間でもない。得体が知れない。正体がわからない。何をされるかわからない。警戒心と防衛本能が、全身で目の前の「何か」を拒絶する。

「……駄目だ、やっぱり怖い!」

 とうとう耐えられなくなり、俺は立ち上がる。その、瞬間。

「あ……」 

 狸は傷ついた顔をした――ように見えた。

 だが、そんなこと気にしている余裕など、今の俺には皆無で。

「お、俺、やっぱり帰ります! それじゃ!」

 飛び出すように泡沫亭を背にし、校門まで全力疾走した。



「怖かった怖かった怖かった、怖かったぁぁぁ!」

 涙目で、息を切らしながら、溜まりに溜まった不安や恐怖を吐き出すように連呼しつつ走る。心臓がバクバクと破れそうなのは、全力疾走のせいだけじゃない。

 さっきのは本当に、一体なんだったんだ。化け物だなんて信じたくない。だけどドッキリにしてはあまりにも皆精巧だったし、湯季先輩の言動もおかしかった。

 万が一あれらが本物なんだとしたら。嫌だ。怖すぎる。妖怪なんて変な術や呪いを使うかもしれないし、人間を餌にするかもしれない。おとなしそうに見えたって、本性なんてわからないんだから。

 未知というのは、それだけで恐怖だ。「何」かわからないからこそ、余計に恐怖が煽られ、落ち着かない。ああもう二度と関わりたくない、あんな――

 最後に見た狸の顔が、ふっと脳裏を過る。

 狸の顔だっていうのに、はっきりとわかるほど、つぶらな瞳に悲しみの色が浮かんでいた。

 俺が、傷つけてしまったんだろうか。

 怖い、なんて目の前で言ってしまったから。

 破裂しそうな心臓とは別の意味で、胸が痛む。が、ぶんぶんと首を横に振って考えを散らす。

 罪悪感なんて抱く必要はないはずだ。あの狸が化け物だとしたら二度と関わりたくないし関わらない。特殊メイクか何かを施した茶道部員なんだとしたら、仮にも上級生に失礼なことを言ってしまったことにヒヤッとはするが、新入生にあんなドッキリを仕掛けるのは、いくらなんでもタチが悪い。

 だから、俺は悪くない、はず。そう自分に言い聞かせる。

 それでも、どうしても心の靄が晴れてくれないのは、なぜだろう。



「三軒」

「ひぃぃ!」

 翌日、教室にて。「突然後ろから肩を叩かれる」という凶悪行為により、俺は今日も悲鳴を上げていた。

「急に背後からはやめろよ、びっくりするだろ。声をかけるなら、正面からそっとにしてくれ」

「いや驚きすぎだろ……三軒、おまえ本当にびびりだな」

 入学して約二週間だが、仲良くなったクラスメイトには既に呆れられている。そんなこと言われても、こっちだって好きでびびっているわけじゃないんだから仕方がない。

「それより、おまえに客が来てるぜ」

「え? ……あ」

 言われて扉のほうへ目を向けると、湯季先輩が立っていた。

 昨日の夕方と違い、和服ではなく制服姿。けど不思議なことに、服装がどうであれ、ああ日本人だなという空気は変わらない。極端な話、湯季先輩なら着ぐるみやピエロの衣装を着ていたって日本人の雰囲気を漂わせてしまうんじゃないだろうか。そのくらい、彼からは「和」の感じがする。

 昨日のことを思い出すともうあまり関わりたくないけれど、上級生に呼ばれて無視するわけにもいかない。警戒心を最大レベルまで引き上げ、意味もなく忍び足で彼のもとへ向かう。

「やあ、三軒」

「な、なんの用ですか」

「忘れ物を届けに来たんだ」

 湯季先輩は昨日のことなどなかったかのような笑顔で、俺の手に何かを握らせる。

「君が昨日言っていた忘れ物って、これだろ?」

「あ……」

 渡されたのは、確かに俺のスマホだ。そういえば、俺は昨日これを取りに泡沫亭に行ったんだった。謎の化け物達のインパクトが強すぎて、すっかり忘れてしまっていた。

「あ……ありがとうございます」

「今度から気をつけたほうがいいよ。勝手に使われたりしたら大変だからね」

「はい……い、いや、それよりも」

「何?」

「昨日のは、結局なんだったんですか」

「ああ。泡沫亭は、あやかしの世と繋がっているんだ。そして茶道部員は、あやかしを見ることができるんだよ」

 笑顔で、至極さらっと言われた。「ああ、信号って青になったら進んでいいんだよ」くらいのノリで。

 いやいや。そんな平坦なテンションで話すような事実じゃないだろ、絶対。それとも、やっぱりからかわれているだけなのか。

「もっとも、それを知っているのは、今の部員では俺だけなんだけどね。あはは」

「あ、あの、そろそろ冗談はやめてくださいって。妖怪なんて、実在するはずないじゃないですか」

「俺はあの子達に茶の湯について教えたり、お茶を点てたりしているんだ」

「あの狸、すごくよくできていましたけど。どんな仕掛けがあったんですか?」

「もっとも、俺もまだまだ未熟者だから、他者に教えるとか、お茶をふるまうとか、恐れ多いことなんだけどね。もっと精進しないと」

 会話というのは、同じ言語を使用するだけじゃ成り立たない非常に高等なコミュニケーションだったんだなと、俺は今痛感している。

「……じゃ、じゃあ、百歩譲って、あれらが本当に妖怪なんだとしましょう。それにしたって、おかしいでしょう」

「おかしい? 何が?」

「湯季先輩は、なんで怖いと思わないんですか。妖怪ですよ? 非常識で、不気味な存在でしょう? それを怖がらないどころか、わざわざお茶でもてなすって、ありえないでしょう。なんでそんなことをするんですか」

「あはは」

 俺の、心の底からの疑問に、湯季先輩は優雅に笑って答える。

「通じ合いたいと、願うからさ」

「…………」

 駄目だ、まったく意味がわからない。この先輩はおかしい。すさまじい変人だ。

「三軒」

「ひっ」

 すさまじい変人だとか考えていたところで名前を呼ばれ、内心を見透かされたか、怒られるかとビクッとしてしまった。

「今はまだ、入部しているといっても、本入部じゃなく仮入部の期間だ。もし嫌なら、部を辞めても構わない」

「あ……はあ……」

「けどもし、気が向いたらまた、お茶を飲みに来てほしい」

 そう言って、湯季先輩は俺の手に何か握らせる。さっきはスマホだったが、今度は違う……紙の感触。目で確認すると、白い封筒だった。

「これは……?」

「昨日のあやかしからだ」

「びぃ!?」

 油断していたところで不意打ちのように言われ、変な声が出た。

 妖怪なんているはずないが、またタチの悪い仕掛けがあるようなものなら、受け取りたくない。俺は得体の知れないものが苦手だ。

「い、いりません。お返しします」

「遠慮しなくていいよ。受け取っておけ」

「遠慮とかじゃなくて本気でいらないんで」

「あはは、いいから受け取っておけって」

「い、嫌ですってば、なんだかよくわからなくて、気持ち悪いし――」

 ズガンッと、破壊音にも似た衝撃音が鼓膜を揺らす。

 俺の背後の壁に、強烈な蹴りが入れられたのだ。

「ああ、ごめん。蚊がいたみたいだったから」

 にっこりと穏やかに微笑むのは、なんの罪のない壁に、茶道部員ではなくキックボクシング部員なんじゃと疑いたくなるほど見事な蹴りを入れた張本人、湯季先輩。まだ夏でもなんでもないこの四月に蚊なんていないだろう。脅しだ。これは、完全に、脅迫だ。

「で、これ受け取ってくれるよね?」

「はい」

 ブルブルと生まれたての仔鹿のように震えた俺は、気づけば封筒を受け取ってしまっていた。仕方ない。今ここにいない化け物より、目の前の先輩が恐ろしい。

「それじゃ、三軒。機会があったら、また。俺はいつでも泡沫亭で待っているよ」

 顔だけは最後までにこやかなまま、湯季先輩は去ってゆく。

 俺はといえば、時間差でさっきの蹴りの恐怖が全身をかけ巡り、腰が抜けぺたんとその場に膝をついた。



 白い封筒を、中身を透かし見るように天井の照明にかざす。

 が、案外封筒が厚いのか、ひらひらと揺らしてみてもよくわからない。

「う~ん……」

 帰宅後。俺は自室のベッド上で、湯季先輩から受け取らされた封筒と睨めっこをし唸っていた。開封するのが怖くて、中身はまだ確認できていない。

 受け取ってから帰宅するまで何度も、捨ててしまおうと思った。だが相手がどんな変人であろうと、仮にも上級生から渡されたものを捨てるのは抵抗があったし(捨てたと知られたら後で何か言われるかもしれないし)、それに、もしあれらが本当に化け物だった場合、捨てたら呪われそうで怖い。

 ……ああ、うん。不本意だが、認めてしまおう。

 俺はそろそろ、昨日見たものは「本物」だったんじゃないかと思い始めている。

 だって、ただのドッキリであれば、俺が悲鳴を上げた時点でネタばらしをしていいはずだ。なのに湯季先輩は、一貫してあれらは本物だという態度を崩さない。

 それにあれらは、認めたくなかったけれど、特殊メイクや玩具と言うにはあまりに生々しくて――確かな意識を持ち、そこに「在る」者なんだと、空気から、伝わってきた。

「……受け入れざるをえない、か……?」

 きっと、あれは本物で。

 だとしたら、あの狸の傷ついた顔も、きっと本物で――って、いやいや。そんなこと考えても、意味ない、はず。

 ともかく、目下の問題は手の中の封筒のことだ。

「ええい、もうどうにでもなれ!」

 開けるのは怖かったが、中身がなんだかわからないままでいるのはもっと怖かった。封筒の口を破り、逆さに振って中身を出す。

「わ……」

 出てきたのは、ごく小さな、名前のわからない白い花。そして二つ折りの紙だ。もっとおどろおどろしい呪いの札とかを想像していたので、まずは案外不穏さがないところにほっとする。

 とはいえ、まだ安心はできない。油断させておいて罠が仕掛けられている可能性もある。警戒しつつ、そっと花に触れ――

「!?」

 俺の指が花に触れた、瞬間。花の輪郭がぼやけるように、淡い光の粒となって立ち上ってゆく。

 明らかな怪奇現象。何が起きるのか予測不能。一瞬の判断が全てを左右するかもしれない。そんな状況下で、俺は咄嗟に。

「あああああ、助けてぇぇぇぇ!!」

 全力で、泣き叫んでいた。

 仕方ない。こんな非常識な事態で、冷静に対処できる十五才のほうが少ない、と思いたい。

 いずれにせよ、両親が夜遅くまで帰ってこない家の中で、叫んだところで助けてくれる人なんているはずなく。俺の絶叫は、喉を無駄に痛めつけただけで虚しく消えてゆき。

 パニックで真っ白になった頭に、何かが流れ込んでくる。

 厚紙の上に、薄く柔らかな紙を一枚、重ねられるような。俺の意識の上に、誰かの意識が――記憶が、重なり触れる。

 微睡にも似た、心地のいい頭の重み。半強制的なそれに抗う術がなく、そのまま身を委ねるように、自分の意識を手放した。



 気がつくと、俺は泡沫亭の茶室にいた。……いや。

 俺は、茶室に「いる」わけじゃない。直感的にそれを理解する。

 ふわふわと宙を漂うような、自分の実体がないような不可思議な感覚。言語化が難しいが、夢の中にいるよう、というのが近いだろうか。

 俺は、現実ではないどこかで、実体がないままぼんやり茶室を眺めている。そんな感覚だ。

 現状はまったく理解できなかったが、夢の中(のようなもの)だからか、あまり恐怖心はなかった。軽い催眠状態のような、思考を溶かす温もりに包まれている。

 そのままぼけっとしていると、室内に、突然ぶわっと何かが浮かび上がった。漫画でよく見る、魔法陣……の和風版みたいなもの。

 円形で、いろいろと複雑な模様があるところは西洋ファンタジー風の魔法陣と同じだ。だが中身は、筆で力強く描いたような、漢字に似た不思議な文字。ドラゴンや悪魔よりも、鬼や妖怪が出てきそうな雰囲気が漂っている。

 叫びそうになったものの、声が出なかった。どうやらこの夢(?)の中で俺は、あくまで透明な傍観者であり、声を出すなど目の前の世界に干渉することはできないようだ。

 やがて魔法陣もどきの中心部から、ぴょこんと何かが飛び出した。狸だ。

「……ふむ。これが、人間の世界」

 声からして、どうやら昨日と同一人物……ならぬ同一狸のようだ。魔法陣もどきを消すと、つぶらな瞳をキラキラと輝かせ、きょろきょろと室内を見て回ったり、ふんふんと匂いを嗅いだりする。

 しばらく泡沫亭の中を観察し満喫した後、狸は玄関に向かった。ぴょんと跳ねて器用に鍵を開ける。そして外に出るべく、玄関の戸を開けようとし――

「……っ!」

 バチン、と派手な音、そして閃光。声にならない俺の絶叫。狸が玄関の戸を開けようとした瞬間、見えない何かがそれを拒むかのように、狸の前足が弾かれたのだ。

「む。本当だ、外、出られない。噂通り」

 狸は痛そうにしつつも、納得したようにうんうんと頷く。一応玄関以外にも縁側などから出られないか試して、同じように駄目だったことで、外に出るのは諦めたようだ。茶室に戻って襖を閉める。

「人間、いない、か……」

 声に、僅かだが落胆の色が滲む。狸はしばらくそのまま無言で俯いていたが、やがてぴょんと高く飛び跳ね、宙でくるりと回った。

 刹那、どろんと爆ぜるような音とともに、大きな煙が生まれる。

 もくもくとその煙が晴れると、さっきの狸の姿はなく、俺と同い年くらいの、和服を着た少女が現れた。

「ふふ。人間の、真似」

 狸が人に化けるという怪奇現象も、これは夢これは夢と自分に言い聞かせれば、まあ口から心臓が出そうになる程度ですんだ。現実だったら卒倒していた。

 それに怪奇現象とはいえ、狸が変化した姿は、認めたくなくとも認めざるをえないほど、可愛かった。

 触り心地がよさそうな栗色のショートヘア。形のいい輪郭の中に、黒目がちな瞳、小さな鼻、桜色の唇が収まっている。和服を纏ったしなやかな肢体といい、一瞬前までころころした狸だったなんて信じられない。

「やっぱり、人型、手足、長い。面白い」

 狸娘はそのまま、変化した姿を楽しむように、くるくると回る。表情の変化こそ大きくないものの、はしゃいでいるのだと見ていて伝わってくる。

 そんな中。外から、襖が開けられた。

「え」

「……え?」

 襖を開けたのは、うちの学校の制服を着た、一人の生徒。切り揃えられた長い黒髪が美しい、清楚系の女子だ。

 さっきの狸の独り言からすると、妖怪は泡沫亭の外に出ることができないようなので、この女子は人間なんだろう。狸娘を見て、不思議そうにぱちぱちと瞬きをする。

「あの……失礼ですが、どちら様? うちの部員では、ないですよね」

 女子は当然の疑問を口にし、首を傾げる。狸娘は、突然人間と会って驚いたようで硬直している。

「……えと。わたしは、その、えと……」

 狸娘は必死に、何を言えばいいか考えているようだ。口を開けたり閉じたり、ぱたぱたと小さく手を動かしたりする。その頼りないあたふたっぷりは、いつの間にか見ているこっちまで「頑張れ!」と応援したくなってしまうほどだった。

「あの、そう……!」

 やがて、狸娘は、ぐっと拳を握りしめ。

「わたし、おいしいもの、大好き」

 ……目を輝かせて、そう言った。

「…………」

 まさかこれは、妖怪基準では、うまく喋れたつもりなのか? 駄目だ、俺のほうが頭を抱えたくなってしまう。

「え……ええと……?」

 女子生徒もきょとんとしている。茶室に見知らぬ和服姿の女がいて、突然こんなことを言い出したら、そりゃ混乱するよな。

「む、や、その。ここには、とてもおいしいものがある、そう聞いた。だから、興味があって……」

 女子生徒の反応を受けて、狸娘は自分でも今の発言はおかしいと気づいたようだ。慌てて弁解する。

「つまり……入部希望の方ですか?」

「え? ……ああ、そうか、ブカツ、だっけ……?」

「はい?」

「なんでもない。その、わたしは、ニューブというのは、できない。だけど、おいしいもの、どうしても、味わってみたい」

 たどたどしく言葉を連ねる狸娘。不安そうに、ちらりと女子の様子を窺う。

「駄、目……?」

「……ふふ、いいわよ。お茶、飲んでいく?」

「え。……いいの?」

「だって、『おいしいもの、大好き』ってあんなに目をキラキラさせられたら、おもてなししてあげたくなっちゃう。それに、お茶を飲むために、わざわざ和服まで着てきてくれたんでしょう? すごい気合の入れ方じゃない。なら、私も茶道部の一員として、それに応えなきゃ」

 クスクスと小刻みに笑う女子は、目の前の相手が人間ではないなんて、まったく思っていないようだ。……まあ、普通は相手が妖怪だなんて、疑いもしないのが当然か。

 彼女にとってこの狸娘は、「ちょっと変わってるけど、悪い子ではなさそう」程度の認識なんだろう。だからこそ、笑顔で話をしていられる。

「私、琴子っていうの。あなたのお名前は?」

「わたし、玖狸……」

「そう、よろしくね、玖狸。お茶の準備をするから、ちょっと待っていてくれる? お干菓子もあったはずだから、持ってくるわ」

「あ、ありがとう……!」

 琴子さんはすぐに準備を整え、狸娘……玖狸に、お菓子を出し、お茶を点ててくれた。

 玖狸は先にお菓子を食べた後、茶碗に入ったお茶を、まるでそれが液状の宝石であるかのように、瞳を輝かせ、眺める。

 宝物を捧げ持つようにそうっと茶碗を掲げ、ごくんと一口。

「おいしい……!」

「そう。よかった」

「それに、すごく……あったかい」

 頬を紅潮させ、心から嬉しそうにお茶を飲む玖狸。琴子さんは、まるで幼い妹を見つめる姉のような優しい視線で、彼女を眺めていた。

「ああ、なくなった……」

 最後の一滴まで残さずお茶を飲み干した玖狸は、空になった茶碗を見つめ、しゅんと眉を下げる。そのあまりに残念そうな、この世の終わりのような顔に、琴子さんはふっと小さく噴き出した。

「ねえ。もしよかったら、また会わない? また、お茶をご馳走するわ」

「え……いいの?」

 ぱああと、玖狸の顔に光が満ちる。

「ええ。……私、家にいるの、好きじゃないんだ。でも、だからといって行く場所とかもなくて、いつも一人でふらふらしてるから。誰かと一緒にいられると、嬉しいの」

 家にいるのが好きじゃないと言ったとき、一瞬だが彼女の表情に憂いのようなものが見えた。具体的に口には出さなかったものの、家庭環境がよくないのかもしれない。

「今日も、部活でもないのに、ふらっとここに来ちゃって。でも、どうせ中には入れないだろうと思っていたんだけど……鍵が開いていたからびっくりしちゃった。玖狸が開けたの、よね?」

 玖狸はドキッと表情を強張らせたが、咄嗟に誤魔化す。

「……ん。その、わたし……こ、ここの偉い人と、知り合い。鍵、自由に使える」

「そうなんだ、すごい。じゃあ、またここで会えるわね」

「ん。琴子、家、好きじゃないなら、わたしと一緒にいればいい」

 ごく真面目な表情で、かつとても自然なことのように、玖狸は言った。

「わたし、琴子、好きだから」

 琴子さんは、本日何回目となるだろうか、驚いたようにぱちぱちと瞬きをする。

 そして、クスクスと肩を揺らした。

「あなた、本当に変わってるわね」

「そう?」

「ええ。そんなにまっすぐな言葉、照れもせず、真面目な顔で言って……。もう、聞いてるこっちがくすぐったいじゃない」

「だって、わたし、琴子優しいって思った。琴子と仲良くなりたい。駄目?」

「駄目なわけないでしょう」

 クスクス、クスクス。琴子さんはしばらく小刻みに笑い――やがて、はにかんで言った。

「……ありがとう。また、絶対に会いましょうね」