墨を薄く塗ったような――空にはそんな色の、雲である。

 雲からは雨が、降り落ちていた。

 途切れることなく、しとしと、しとしと。

 静かに降る雨は六月らしくて、耳には心地好いものである。


 ――が、鼻先に落ちる雨粒の冷たいのは、どうにかならんものか。


 濡れてじくじくになった土の細道に沿うようにして、紫陽花がずうっと並んでいる。

 どれもこれも白を咲かせているそのうちのひとつの下で、吾輩は寒さと空腹に体を丸めつつ、雨が止むのを待っていた。

 吾輩は物の怪である。猫又である。

 猫又であるからには、怪界の王に〝観怪〟と認められた身であるのだが、それでも雨に体が濡れれば寒くもなるし、食い物を口にしなければ腹だって減る。物の怪といえども寒さと空腹は、苦痛なのである。

 まったく、三日前の吾輩め――この時期に珍しく覗いた青空に、ついつい足を延ばしたくなる気持ちはわからんでもないが、しかし街の外にまで散歩に出かけるべきではなかったのだ。未来の吾輩のことも、少しは考えなさい。またすぐに雨が降るとは思わんかったのかね。

 吾輩は雨に濡れることが、なにより嫌いである。それは吾輩が生前に猫だったからというのも多少はあるが、いやそれよりも、雨に濡れるとどうしたって、昔のことを――あの冷たい記憶を――思い出してしまうのだ。

 ゆえに、雨に濡れることは嫌いであり。降られようものならば、吾輩は雨宿りをするのであり。そんなだから、雨に濡れながら街に帰るなどといった選択肢は毛ほどもないわけで。近くにあった紫陽花の下にて、こうして寒さと空腹に体を丸めながら、雨が止むのを待っているのだが――む?

 両の目を瞑り、考えに耽っていると、ふと雨の音が遠くなった。

 はて、どういうわけだろう。

 疑問に思いつつ、目を開けてみる。

 すると、驚いた!

 なぜって、吾輩の目の前に、いつの間にやら人間がしゃがみ込んでいたのだから。

 人間は、男であった。

 ややくたびれたような顔に、丸眼鏡。顎には少しばかり無精髭が生えている。

 その無精髭からは、透明な雨粒がぽたりぽたりと滴り落ちて、男の着ている海老茶色のくたびれたような背広がどんどん濡れていく。いや、無精髭から雨粒が滴り落ちずとも、雲から降り落ちる雨粒が、どうも男のことを直接濡らしていくようである。

 傘はちゃんと、手にしているのである。ところどころ穴のあいた、これまたくたびれた――それはぼろ傘であるけれども、それでも傘は傘なのだから、冷たい雨粒は凌げよう。ただ、その傘の下に男が入っていない。

 かわりに傘の下には、吾輩がいた。

 男はつまり、自身じゃなく、吾輩を傘の下に入れたのである。

 だから男は濡れていくのだ。雨に、どんどん濡れていく。

 なぁと、吾輩は鳴いた。気がつけば鳴いていた。

 ――やあ、君、それじゃあ君が濡れていくばかりじゃないか。

 吾輩の意を、男は正しく理解したのか。小さく小さく笑ってみせると、


「大丈夫だよ。少しぐらい濡れたって、僕は大丈夫さ」


 なに、大丈夫なものか。雨に濡れちゃ冷たいばかりなのに。

 なぁなぁと鳴く。

 しかし男はまた笑うと、


「本当に大丈夫だってば。――ふふ、君は優しいな」


 そう言って、傘を持たんほうの手を、こちらへ伸ばしてくる。

 それから吾輩の頭を、そっと撫でた。

 大きくて、温かな手だった。

 けれども雨に濡れたせいか、手はちょっと震えているようである。

 そら、大丈夫なことがあるものか。

 吾輩は鳴こうと口を開いて、けれど、寸前で鳴くのはやめた。

 なぜ?

 それは。

 男の吐いた優しい噓と、そして手の温もりが。

 吾輩の知るあの男に、よく似ていたから――なのかもしれん。


 暫しの間、おとなしく男に撫でられていた。

 するとやがて、出し抜けに。男の手が頭から体へ触れてきたかと思うと、そのままぐうっと体を持ち上げられて、吾輩の後ろ足が宙にぶらんと浮いた。浮いたと思ったら次にはもう、吾輩は男の腕の中である。とくとくと、男の心臓の動く音が聞こえてきた。生きている、そんな音である。

 男は言った。


「さあ、いつまでもここにいちゃ寒いだろう。それに君、お腹も減ってそうだ」


 ああそうだった、途端に寒さと空腹を思い出して、なぁと鳴く。

 男は笑って頷いてみせると、


「うちにおいで。魚はないけど、……ああそうだ、チーズならある」


 吾輩は一度だけ、尻尾を揺らした。そうしたら男が、歩き始める。

 ゆらりゆらりと男の腕に抱かれる。抱かれながら吾輩は再び、両の目を閉じた。

 雨の音が聞こえた。とくとくという心臓の音も、聞こえた。

 そして低く、だけれども穏やかな。そんな男の声もまた、聞こえてくる。


 ――君はあそこに、ずっと独りだったのかい? 君は強いんだね。

 ――ああ、ごめんよ。君、君、って。だけど君の名前が、僕にはわからないから。

 ――そうだな。君のこと、僕はなんて呼べばいいだろう。

 ――白黒のハチワレだから、ハチさん? それとも緑色の目だから、ミドリさん?


 実に楽しそうな男の声に、心地好さを覚えて。

 そのうち吾輩は夢に誘われたのだから、このあとのことは覚えちゃいない。

 けれど誘われる間際に、男が――佐々木鏡介が口にした贈り物のことだけは。

 きっと何年、何百年、何千年が経とうとも、吾輩は決して忘れんのに違いない。


 ――そうだ、君の名前は――







 チーズを食おうとしたところで、目が覚めた。

 目が覚めたということは、つまり吾輩、今の今まで夢を見ていたらしい。

 どうせならチーズを食ったあとで目覚めたかったが、仕方がない――吾輩はくあっと欠伸をして、それから体をうんと伸ばす。伸ばしたついでに爪を布へ食い込ませると、バリバリやった。これは吾輩が猫又になる以前、すなわち、まだ普通の猫であった頃からの習慣であり、本能なのだからやめられん。しかし、

「こら、斑さん」

 吾輩を窘めるような声が、すぐに上から降ってきた。

 やれやれ、どうもまた見られていたね。

 声が降ってきたほうへ目をやると、やはり、そこには吾輩の主人――佐々木鏡介のくたびれたような顔と丸眼鏡がある。

 なぁと、吾輩は鳴いてみせる。

 主人は吾輩を窘めるけれど、爪とぎはもう本能であるわけで、仕方のないことなのだからわかってほしい――そういう意味で鳴いてみせたのだが、主人は小さく笑うなり「反省してるなら、もう怒らないよ」と吾輩の頭を撫でる。まるで話が通じておらん。

 けれども、これこそ仕方のないことなのだろう。なにしろ同じ言語を扱える人間同士でだって、意思疎通の上手くいかんことがあるのだから、吾輩と主人ならなおのことさ。――もっとも、近頃知り合いになった雌の旧鼠などは、あまりにも主人がこちらの意を理解してくれんものだから、主人を時折〝ヘンテコさん〟だなどと言って、〝それだから三十八歳になってもお嫁さんが来ないんです〟だの〝いつも海老茶色の古いスーツばかり着ているのと、顎の無精髭をなんとかしないのもいけないんです〟だの、母親のごとくぼやいているのだが、それでも主人のもとから離れようとはしないんだから、意思疎通が上手くいかなくとも、彼女は彼女で主人のことを気に入っているのだろう。

 もちろん、吾輩だってそうさ。

 二ヶ月ばかり前の、六月の雨の日――寒さと空腹に参っていた吾輩を見るなり、この場所へ連れ帰り、食い物を与えてくれたのは主人だ。のみならず、主人はそれ以来吾輩をここに置いてくれている。

 名前だってくれた。〝斑さん〟という。吾輩がハチワレの白黒〝斑〟模様だから、この名前をくれたのだ。

 実を言うと、今から百年ほど前、これもまた吾輩が普通の猫であった大正の頃の話なのだが――その時分にも吾輩には主人がいた。だけれど、前の主人は吾輩に名前をくれなかったから、〝斑さん〟というのは吾輩にとって初めての名前ということになるわけだ。

 あれやこれやと、佐々木主人にはこんなにも世話になっている。ゆえに、主人がちとヘンテコさんであっても、意思疎通が上手くいかなくとも、吾輩がこの心優しい男のことを気に入っているのは当然と言えよう。

 さて、主人は吾輩の頭を撫で終えると、そのまま吾輩の体をぐうっと持ち上げた。そして布張りの長椅子から、吾輩をそっと床へおろすと、

「ごめんよ、斑さん。これから事務所にお客さんが来るんだ」

 言いながら主人、吾輩の頭をまた撫でる。

 主人の手は大きくて、いつだって温かである。言わずもがな心地好くて安心できるものだから、その手に撫でられるとついつい「なぁん」と鳴いてしまう。吾輩は例に漏れず鳴くと、おとなしく長椅子の傍にて体を丸めた。

 これから事務所に客が来る。主人が言う客とは無論、依頼人のことだ。

 ――ああ、言い忘れていたね。

 旧鼠曰く、主人はヘンテコさんなのであるが、しかしこの場所――佐々木探偵事務所の主は主人なのであり、主であるからには主人、探偵をやっている。それで意外にも、主人のもとへは依頼人がそこそこ訪れるというわけさ。

 はて、ヘンテコさんな主人のもとへ、なぜ依頼人がそこそこ訪れるのかと疑問に思う人があるかもしれん。そこで吾輩、猫又なりに理由を考えてみたのだが、ひとつ、こうではないかと思い当たったことがある。――この佐々木探偵事務所、周囲の人間には〝佐々木なんでも事務所〟というふうに認識されているのではなかろうか、とね。

 というのも、吾輩が事務所へ来てまだ二ヶ月ばかりではあるが、この短い期間に持ち込まれた依頼のどれもこれもが、本来であれば探偵に依頼するようなものでは到底なかったのだ。

 いくつか実例を挙げてみようか。

 まずは吾輩がここに来て、そう、あれは三日目のこと――あの日には〝ちょっと子守をしてほしい〟というような依頼があった。

 次の日には〝家の掃除を手伝ってほしい〟という依頼があって、そのまた次の日の依頼は〝雨漏りをどうにかしてくれないか〟と、こんな内容のものだった。

 一昨日などは〝友人と喧嘩をしてしまったので、それの仲裁に入ってほしい〟という依頼である。

 さて、どうだろう。少なくとも吾輩は、挙げた依頼のどれもこれもが探偵に持ち込まれるような内容のものではないと思っている。――がしかし、そこは佐々木主人である。優しい性分であるためか、持ち込まれた依頼のどれもこれもを単簡に引き受けてしまうわけだ。嫌な顔ひとつ見せず、それはそれは嬉しそうに。時には報酬を受け取らず、無償で引き受けてしまうことさえある。

 無償云々は時折にしても、そうして主人がなんでもかんでも引き受けるから、あの探偵事務所はこんな小さなことも引き受けてくれるよと噂になって、結果、ここは探偵事務所ではなく〝佐々木なんでも事務所〟という認識になっているのではあるまいかと、吾輩は考えるのである。この持論には自信があるから、一週間分のチーズを賭けても構わんさ。

 と、なんの前触れもなしにピリリリリと、事務所にやかましく音が響いた。

 ふむ、この音はあれに違いない――そう思って見ていると、そら、主人が背広の胸ポッケに手をやって、小さな羊羹みたいなものを引っ張り出した。あれはガラケーとかいう折りたたみ式の小型電話だ。

 それを主人、耳に当てると電話の向こうにいる相手と話し始める。おそらく相手はこれからここに来るという依頼人なのだろう。

 まだその人が目の前に立っているわけでもないのに、主人はぺこぺことお辞儀をやる。やりながら事務所の端っこまで歩いていくと、そこにあるヤカンで湯を沸かし始めた。依頼人が到着したら、すぐに茶なり珈琲なりを出すためだ。〝ヘンテコさんなご主人さんですが、この辺りは随分と気が利くんですよ〟とは、これまた旧鼠の言葉である。

「斑さん、……ねえ、斑さんっ」

 長椅子の側にて主人を眺めていたら、不意にその、長椅子の下から吾輩を呼ぶものがあった。

「やあ、ココノ。やたらに切羽詰まった声を出して、どうしたね」

 言いつつ吾輩、長椅子の下に目をやる。すると、雪のような真っ白い体毛を持つ鼠の、真っ赤な瞳と視線が重なる。――鼠と述べたが正確には、彼女、旧鼠である。旧鼠であるということは、彼女は吾輩と同じで歴とした物の怪なのであり、そして彼女こそ、主人のことを時折〝ヘンテコさん〟と呼ぶ例の旧鼠なのである。

 旧鼠――ココノは両頰をぷぅっと膨らませると、

「もう、斑さんってば! まるで余所事なんですから……!」

「余所事? つまり君がそんな声を出しているのは、吾輩のせいだと言いたいのかい」

「そうですよ! そうなんです!」

 ココノは両頰のみならず、その小さな体まで風船のように膨らませると、何度も何度も頷くのだが、吾輩にはどうにもわからない。

「なぜ、吾輩のせいなのかね」

「なぜ、って。わからないんですか? ちょっとも? これっぽっちも?」

「わからんのだから聞いているんだがね」

「んもーう、信じられないです!」

 んもーう、とは牛のようだな。この場にもしも牛鬼などがいたら、同族だと勘違いしていたのではあるまいか。

 吾輩がそんなことを考えているうちに、ココノは頰と体を膨らませるのをやめた。やめたと思ったら、ほうと盛大なため息を吐く。それから改めて吾輩を見ると、こんなことを尋ねてきた。

「ねえ、斑さん。それじゃあ今朝、斑さんがわたしに言ったこと。それは覚えてますか?」

 はて。

「君になにを言ったかな」

「こんなことを言ったんです――」

 ちらと、ココノは主人のほうを見る。主人はヤカンの前に立ち、まだ依頼人と電話をしている。主人がこちらを見る様子はない、それを確認してからココノは吾輩に向き直り、

「今日からあの人――佐々木ご主人さんのお仕事を手伝うつもりだ、って。斑さん、そう言いましたよね」

 ああ、それか。

「それなら確かに言ったが、なにか問題でも?」

「ありまくりですよ!」

「む。どんな?」

 ココノに問う。

 世話になっている主人への恩返しとして、事務所に持ち込まれる依頼を手伝う――彼女はそれの、一体なにが問題だと言うのだろう。

 彼女からは、こんな言葉が返ってきた。

「だって斑さん、もしもですよ? 斑さんがご主人さんのお仕事を手伝うとして、そうするうちに斑さんの正体が――つまり、物の怪だっていうことが――ご主人さんにバレてしまったら、そしたら斑さんはどうするんです?」

「バレんように、こっそりやるさ」

「それでもですよ! ふとした拍子にバレてしまったら?」

「そのときは――」

「掟に従わなきゃいけませんよね? 物の怪であるわたしたちの、唯一にして絶対の掟です。わたしたちは人間に正体がバレてしまったら、その時点で怪界に戻らなきゃいけません。そしてそうなれば、二度と現界に来ることができなくなります。――といいますか、斑さんは〝観怪〟なんですから、怪界の掟のことは一番よくわかってますよね? それともなんです、観怪は正体がバレても怪界に戻らなくていいんですか?」

「いや、それはないよ」

「だったら!」

 むぐ、と。そこでココノは口を噤んだ。自分の声が少しばかり大きくなってしまったことに気づいたのだろう。そろりそろりと主人のほうを見て、主人が電話の向こうにいる相手との会話に没頭していることを確認すると、ほうっと安堵の息を洩らす。

 それから彼女、今度は声をちと潜めながら、

「――だったら、ねえ、斑さんがご主人さんを手伝う必要はないと思うんです。斑さんは普通の猫のふりをして、のんびりと事務所にいればいい。それなら余程のことがない限り、正体がバレることはないでしょう。現に、わたしは普通の鼠のふりをしてここに何年も暮らしてますけど、正体がバレる気配はちょっともありません。――ねえ、斑さん。ここは本当に居心地がいいんですよ? 人間って、大抵は鼠を追い払ったりするものですけど、ご主人さんはわたしのことを追い払ったりしません。ヘンテコさんではありますが、食べるものだってくれます。稼ぎがあまりないので、大体が安いチーズになっちゃうのは不満ですが――でもでもっ、食べるものをくれるだけでもありがたいことなんです! なのに斑さんは、どこもかしこも薄暗くてじめじめして、食べるものまでじめじめしたような――そんな怪界へ戻らなくちゃいけないかもしれないっていうリスクを背負ってまで、ご主人さんを手伝いたいんですか!? ねえ!」

「うん」

「うん、……って」

 彼女、鼻をひくつかせる。

 そのあと、一度は潜めたはずの声をまた少し大きくして、かようなことを言った。

「ここまで言っても〝うん〟だなんて、だとしたら斑さんはおかしいですよ! すごくおかしい! そもそも普通の物の怪だったなら、リスクを背負ってまで人間を手伝おうとはしないものなのに――あっ! ひょっとして斑さん、実は物の怪ってわけじゃなくて、普通の猫ってオチなんじゃ――」

「吾輩が普通の猫だったなら、鼠の姿をした君のことを見つけるなり、食ってやろうと追いまわしていたことと思うがどうだろう」

「はうっ」

「まあ、それはそれとして。――ここまで言っても〝うん〟だなんてと、君はそう言ったがね。ココノや、寧ろ逆なのさ。君の今の話を聞いて、吾輩、改めて主人のことを手伝わなくちゃいけないなという心持ちになったんだから」

「はうっ!? ちょ――っと待ってください、どうしてそうなっちゃうんですか!? どう考えてもおかしいでしょう!?」

「おかしいおかしいって、さっきから君は吾輩に対して〝おかしい〟とばかり言うようだが。吾輩からしてみれば、そこまで居心地のいい場所に置いてもらうのなら、なおのこと主人に恩を返すべきだろうと思うわけなんだがね。果たしておかしいのは吾輩なんだろうか」

「あ。……斑さん、遠まわしにわたしのこと、恩知らずって言ってます……?」

 む?

「他意はなかったが、……なるほど言われてみるとそうかもしれん」

「ううぅ、斑さんの馬鹿馬鹿馬鹿っ」

 言うなりココノ、両の前足をバタバタさせて、

「わたしだって本当は、ご主人さんに恩返しをしたいんですよ! ただ、変に動くことで正体がバレちゃったらって思うと怖くて! それで――」

「ココノや、まあ落ち着きなさい。吾輩はね、受けた恩は必ず返すことに決めたからそうするのだが、だからと君にもそれを強要するつもりはないし、君を責めるつもりだって別段ないやね。それだからつまり、君は恩知らずを気にしなくたって――」

「気にしますよ! わたしが気にするんです!」

 随分と強い口調である。

 彼女は炎のように真っ赤な瞳をめらりめらりとさせながら、長椅子の下より這い出てきた。そうして吾輩の真ん前を、ちんまりとした体で陣取ると、その強い口調を保ちつつ、

「仮に、恩知らずだってことをわたしが気にしないとしてもですよ? 他にも気にすることがあるんです。だって、せっかくここに物の怪の仲間が――斑さんが来たっていうのに、正体がバレてすぐにいなくなっちゃったら、そうしたら寂しいじゃないですか!」

「はあ、そう言ってもらえるのは非常にありがたいことだけれども。しかし吾輩、誰になにを言われようとも恩返しをやめるつもりは――む、こらココノや――痛い痛い、やめないかっ」

 少しも落ち着く様子のない彼女は、ついに吾輩の右前足をポカポカポカと叩き始める。吾輩よりも小さな体をしているくせに、いやはや彼女の叩く力の強いこと強いこと。小さな体のどの辺りにそんな力を隠しているのか、まるで吾輩には見当もつかんが、とにもかくにもポカポカやられると、猫だった頃の本能で前足を〝えいやっ〟とやりたくなるものである。

 が、吾輩がまだ前足を動かさないうちに、尻尾のほうが勝手にぐるぐるまわり始めて、おや、と思った直後のこと。勢いよく事務所へと踏み込んできたものがあった。二十代後半ぐらいの男で、背丈は一八〇ほどだろうか――主人と同じぐらいの大きさに見えるが、態度は主人よりもだいぶ大きい。

「あんたが佐々木探偵か?」

 問いかけながら、男は遠慮もなしに客人用の長椅子へと腰を落とす。その際、男は直前まで耳にやっていた電話をズボンのポッケに押し込み、主人もまた「ええ、僕が佐々木です」と落ち着き払って背広の胸ポッケに電話をやるのだから、今回の依頼人がこの態度の大きな男――いいや、彼の場合だと雄と呼んだほうが寧ろ自然か――なのであろうことは、容易に想像がつく。

 吾輩は尻尾のぐるぐるするのをおさめつつ雄を窺う。ココノは吾輩の後ろに隠れるようにして雄を窺う。主人はまだヤカンの前に立ったままで、

「お待ちしておりました。ええと、法師人――」

「法師人春次。オレは弟のほうで、もうすぐ兄貴の雄太が来る」

 春次と名乗る弟とやらが言い終わるのと同時、事務所の扉が再び開いた。

 そうして吾輩たちの前に姿を見せたのは、弟の話にあった兄なのだろう。さすがは兄弟というだけあって、弟によく似た顔立ちと背丈の男――いや雄である。が、

「すみません、こんな夜遅くの時間を指定したくせに遅れてしまって。……俺は法師人雄太です、そいつの兄の」

 そう言って頭を下げる兄を見るに、兄弟といえども性分はまるで違うのだろうと思われた。それにじっくり見てみると、まずは身なりである。兄の身なりは英国紳士のごとく随分と落ち着いたものだし、また、彼自身が持つ雰囲気というのも弟と違って柔らかである。なるほどこの兄があるから、態度の大きな弟でもこの世界に留まれるのに違いない。

 考えを巡らせていると、「さあ、雄太さんもおかけになってください」と主人がのんびり言った。兄は一礼してから弟の隣に腰かける。主人がまたのんびりとした調子で言う、

「お湯が沸きましたが、珈琲はいかがですか。冷たいものなら、今はレモン牛乳がありますが」

 すると弟、自身の黒の短髪をバリバリ乱暴に搔いたかと思うと、

「おいおいマジかよ、どう考えても選べるドリンクが少なすぎんだろ? ほら、あれだ、冷やし汁粉ぐらいはないのかよ、冷やし汁粉!」

「冷やし汁粉、ですか? うーん、すみません春次さん、それは用意してなくて」

「いや佐々木さん、弟の言うことは気にせずに、俺たち二人とも珈琲でお願いします。あと、砂糖をいただけますか? ――まったく馬鹿春次、そんなもの常備してるのはおまえぐらいだよ」

 言いながら兄、弟の脇腹を小突く。……が、弟は懲りんものだ。

「言ってみただけだろ? ああ、じゃあ珈琲で構わねえからさ、佐々木のおっさん、クーラーつけてもらっていいかな。夜の十時過ぎっつっても八月下旬だぜ? 暑くてたまんねえよ」

 随分と好き放題に要求してくるじゃないか。そのうえ主人のことを〝佐々木のおっさん〟などと呼んで。

 吾輩、後ろ足がどうにもむずむずしてくる。がしかし、肝心の主人が気を悪くするどころか、またしても「すみません」と弟に謝る始末である。さらに続けることには、

「うちはクーラーがなくて。事務所のどこかに団扇はあったはずですが、どこにやったかな……」

「うっげ。おっさん、マジで言ってんのかよ」

「春次。俺たち、この時間帯に依頼を聞いてもらおうとしてるんだぞ。これ以上佐々木さんを困らせるなよ」

 と、ここでいよいよ兄がもっともなことを言う。

 そのもっともな言葉に、吾輩も全面的に同意であるよと示すごとくなぁなぁ鳴く。鳴くだけじゃ気が済まずに、むずむずしていた後ろ足でとうとう床を〝えいやっ〟と蹴ると、机へ飛び乗り、その机もすぐに後ろ足で蹴ってしまって、ついには弟の頭の上へと尻を乗せてしまった。

 するとである、

「っおぉい、なんだってんだよ!? やめろこいつ、この猫め!」

 それまでの大きな態度はどこへやら、弟、途端に身を縮こめるじゃないか!

 いや、これは面白いなと吾輩が頭の上で思ううちに、おたおたしながら主人、

「ああっ、すみません春次さん! いつもなら斑さん――猫の名前なんですが――もっとおとなしくしてるのに!」

 弟は弟で、吾輩の尻の下にて主人以上におたおたしながら、

「いつもならおとなしいとか、そんなのはこの際どうだっていいから! おっさん、とにかく早くこいつを取ってくれ! 兄貴も見てるだけじゃなしに手伝ってくれよ、なあ!」

「いや、……だけど……」

「っああー、マジで頼むから!」

 実に愉快であった。こうなることを意図したわけじゃなかったけれども、結果としては弟を懲らしめることとなって、吾輩のむずむずしていた後ろ足もすっかり平生のとおりである。

 よし、もう充分。満足したさと喉をゴロゴロ鳴らすと、吾輩は弟の頭を後にする。そうして机の上へ飛び降りると、それまでおたおたしていた主人と兄弟がそろって息を吐いた。

 それからは弟、態度の大きかったのが少しばかりおとなしくなる。主人の「斑さんがすみませんでした」という言葉には、不満そうに唇を尖らせるのであるが、吾輩の顔をちらと見ると、鼻を鳴らしてそれっきりだ。ついでに兄のほうも口数がだいぶ減ってしまったのだが、……うん、まあ仕方がない。

 やがて主人がこちらに来て、珈琲ふたつと、砂糖の入った細長い袋をこれまたふたつ、机に置いた。続いて吾輩の喉元をカリカリと指で搔くと、「今からは本当におとなしくしてなくちゃダメだよ」と言い聞かせる。それからようやく主人用の長椅子に腰かけた。これはさっき吾輩が爪をバリバリやった長椅子である。この長椅子の側にはココノがいるのだが、吾輩はココノのもとへは戻らずに、このまま机に座っておくことに決めた。誰にも怒られる気配はないし、こちらのほうがなにかと都合がいいだろう。

 主人が、切り出した。

「すみません、バタバタしてしまいましたが、――それでは雄太さん、春次さん。今からお話を伺っても大丈夫ですか?」

 吾輩を気にするように、兄がこちらを一瞥する。

 しかしすぐに主人へと視線を戻し、姿勢を正して頷くと、

「まず、佐々木さんに見ていただきたいものがあるんです」

 珈琲にも砂糖にも手をつけず、主人をまっすぐに見据えて言う。

 弟は出された砂糖をふたつとも珈琲に加え、一口飲んでから足元をごそごそやり始める。なにやら弟の足元には大きな紙袋が見える。その紙袋から一冊の本を引っ張り出すと、弟、それを机に置いて、

「まあ、開いてくれ」

 言われるままに主人、本を開いた。すると中には写真がびっしりと貼りつけられていて、どの写真にも五歳だか六歳だかの幼い少女の姿がある。ちょっと緊張した面持ちで写っているのが多い。

「アルバム、のようですが。これは一体どなたの――」

 主人が言い終わらんうちに、弟が一枚の写真を指差した。

「これは妹の美緒が家族になった日の写真だ。今から二十年前で、美緒は五歳だった。美緒の両隣に立ってんのはオレと兄貴だな。オレのほうは七歳で、兄貴は八歳……だったんだっけ?」

「ああ、そうだ。――それでこっちの写真は、美緒が家族になった次の日に撮ったものです。ほら、見てください佐々木さん、これに写ってる美緒の顔。だいぶ緊張してるでしょう?」

「ええ、確かに。そんなふうに見えますね」

「そりゃまあ緊張したってしょうがねえよな、って話だ。なんせ家族になって次の日だぜ? ああでもよ、おっさん、今度はこの写真を見てくれ」

「え? どれです春次さん――」

「これだよこれ、美緒の寝顔の写真だ! やー、昼間に緊張しまくりだったからこその写真だね、こいつは! 夜になって疲れちまって、それでこの寝顔ってわけさ。それにしたって美緒はこの頃から睫毛長くってさ、綺麗な顔してるわけだよ! なあ兄貴?」

「間違いないな、これは春次と同意見だ」

「ふふ、……なるほど」

「佐々木さん、この写真も見てください。これは家族になって一ヶ月経った頃に撮ったものなんですが――」

「ええ、見せてください――あっ、妹さん笑ってますね――」

「そうなんです! 美緒、この日にやっと笑顔を見せたとかで――」

 ええと、この話はいつまで続くんだろう?

 吾輩は最初こそ写真を眺め、兄弟の話にじぃっと耳を傾けていたのであるが、そのうち眠たくなってしまって、チーズを食おうとする夢を見始めた。だが食おうとしたところで目が覚めてしまったため、いや、また食えなかったなと考えていると、そこでようやっと兄が我に返ったように、

「しまった、すみません佐々木さん! いつまでも本題に入らずに……!」

「いえ、とても楽しかったですよ」

 主人の言葉は決して社交辞令などではない。吾輩には眠たい話であったが、主人はどんな話でも好んで聞くような男なんだから。

 とはいえ、兄はきまり悪そうに「すみません」ともう一度述べる。述べてから咳払いすると、改めて言葉を繫ぐのだった。

「つまりその、美緒、……俺たちの妹のことなんです」

 うん、そうだろうとも。そうでなければ先刻の時間はまるで無意味さ。

「――妹には婚約者がいて、今度の日曜日に結婚式を控えているんですが、……なんというか式の日が近づくにつれて、妹がなにか思い悩むような顔をすることが多くなってきまして。いや、表面上はなんともないふうを装っているんですが、それでもなにか悩んでいるんだろうなというのは家族だからわかるといいますか。――それで、妹の悩みを結婚式までに探っていただきたくて! できればその悩みも解消することができたらなと、そう思ってこちらへ来たんです」

 主人、真面目な顔で「なるほど」と呟くと、他にはなにも言わずにアルバムへと視線を落とした。それから自身の顎に手をやり、そこにぽつりぽつりと生えた無精髭を撫でる。撫でながら写真を眺めていく、やはり真面目な顔である。

 あまりにも真面目な顔で主人が黙り込んでしまうものだから、依頼を引き受けてもらえんかもと、兄弟、心配になったらしい。まず弟のほうが「おっさん」と呼びかけると、

「頼む! もうさ、あんたの他に頼れる人間がいねえんだ!」

「……え?」

「だってよ、おっさん――オレら他の探偵事務所なんかも当然まわってみたんだが、行くとこ行くとこ全部断られちまったんだ! 時間がねえだとか、そんなことにいちいち付き合ってられねえだとか、あいつらそんなこと言いやがるんだぜ!」

「ええと……」

 うんうん、主人、ちょっと困惑しているな。

「佐々木さん、俺からもお願いします!」

 と、今度は兄だ。

「そうして断られているうちに、とうとう妹の結婚式まで一週間もない状態になってしまって――そんなとき、俺たち、あなたの噂を耳にしたんです! どんなに小さなことだったとしても、佐々木さんなら引き受けてくれるんだって――だからお願いします! もうすぐ日付が変わって火曜日です、確かに時間はない――だけど、それでも、お願いですから――」

「ええと、お二人とも!」

 ここで主人、声を張り上げた。

 兄弟は目をぱちぱちさせて、主人を見る。

 吾輩も主人を見る。

 ……が、兄弟とは違い、吾輩にはもう主人の言わんとすることはわかっている。

 早い話が主人は、結婚式まであまり時間がないということを懸念して黙り込んでいたわけではなく、ただ、

「仲がいいんだなあ、って」

「……は?」「ええと、……どういう意味でしょう、佐々木さん」

「ああ、いえ、だからつまり、……妹さんのことを話すお二人を見て。それからこのアルバムを見て。皆さん、きっと仲がよくて、それぞれがそれぞれのことを大切に思っているんだろうなあ、って。――そう思っていたんです」

 だから主人の答えは無論、


「妹さんの悩みですが、結婚式までに解消することはできないかもしれません。もしかするとそれ以前に、妹さんの悩みがなんなのかということすら、わからないままになるかもしれない。――ですが、それでも今回の件、僕に是非手伝わせてください」


「佐々木さん、それは――」「神かよ、なあ、……マジで引き受けてくれるのか!?」

 言った直後に撤回するような主人じゃないから、君たち、落ち着いて座りたまえ。

 もっとも、吾輩から言わせてもらえば主人の返答は最初からわかっていたようなものではある。なにしろ、子守に掃除に雨漏り修理に、果ては喧嘩の仲裁まで引き受けてしまうような主人なのだから。……まあ、吾輩が主人の仕事を恩返しのためと手伝うことに決めた初っ端の依頼が、まさかこういうものになるとは、さすがに想像しちゃいなかったがね。

 などと思っているうちに、主人、話を進めていた。

「――それでは妹さんの悩みについて、本当に心当たりがないか、お二人に話を伺いたいのですが。たとえば、うーん、……結婚前というならマリッジブルーとか。そういうことではなさそうですか?」

 兄弟は長椅子に腰を落ち着けるも、まだ興奮冷めやらぬといった面持ちである。がしかし、そこはさすがの兄がどうにかこうにか答えた。

「ええと、マリッジブルーというわけではないと思います。……妹は普段から笑うほうではないんですが、婚約者の話をするときだけは幸せそうに笑うので……」

「あの婚約者の狐目野郎、どんな手ぇ使って美緒を落としたんだかな」

「やめろ春次。彼がいい人だっていうのは何度も会って確かめただろう?」

「ああ、確かめたさ。それで確かに、美緒のこと好きなんだろうな、ってのはわかった! ……が、どうにもあいつ、オレらになんか遠慮してるふうに見えたんだよ。ひょっとしたら隠し事のひとつやふたつはあるかもだぜ?」

「馬鹿なおまえにだって隠し事のひとつはあるものだろう?」

「……あ? おい待て兄貴、オレのことディスってんのか!?」

「だから隠し事をしてたって構わない、ただ美緒を傷つけるようなことさえしなければ、それでいいって意味だよ」

「だったらそう言えっつーの!」

 ぷんぷんしている弟である。

 主人のほうは、ふふと笑うと、

「なるほど、ありがとうございます。――それでは次に、仕事について思い当たるようなことはありませんか? たとえば、出勤前には食べるスピードが落ちるだとか」

「食うスピードが落ちる?」

 どういう意味だそりゃ、と弟。

 兄とのやり取りでまだぷんぷんした様子の弟に、しかし主人、怯むことなく答えた。

「ほら、嫌なことや緊張するようなことが目前に迫ると、食欲が落ちたりするでしょう? そういうことです」

「へえー、そういうもんなのか?」

「まあ、春次にはわからない話だろうな」

「またオレのことディスりやがったな!?」

「――佐々木さん。仕事のことなんですが、そもそも妹は今年の三月で辞めたんです。婚約者が県外に住んでいるので、結婚したら妹はそっちで暮らすことになっていて」

「なるほど、そうなんですね」

「二人してオレのこと無視かよ……っ」

 まあ兄は意図的だろうが、主人の無視はそうじゃないさ。

 その証拠に主人、丸眼鏡の位置をなおしつつ、ちょっと考えるように黙り込む。次いで無精髭の生えた顎を撫でながら、アルバムをめくり始める。やがて最初の頁まで戻ると、その中にある一枚の写真を指差して、

「すみません、さっき聞いたときから気になっていたんですが。この写真、確か妹さんが家族になった日のものだと、春次さんが言ってましたよね。家族になった日――つまり妹さんは――美緒さんは、養子だと。そういうことでしょうか」

「ええ、そうです」

 兄が頷いた。

「父と母は児童養護施設で働いていたんですが、……ある日、施設の前に置き去りにされた妹を見つけたそうです。妹の実親が誰なのかはまったくわからず、そのうち妹は父と母に特別懐くようになって。……それで二人は、美緒を引き取ることに決めたと」

 ……ふむ。

「そうでしたか、……話してくださってありがとうございました。きっとご両親も美緒さんのことがとてもお好きなんでしょうね。――そうだ、お二人とも。ご両親にもお話を伺いたいのですが、明日にでも会うことはできないでしょうか」

 するとたちまち、兄弟の顔が翳った。

 これはなにかあるなと思って、言葉を待つとだ。 

「父と母は、その、……もういなくて。つまり……」

 兄が紡いだはいいが、ここにきて口ごもってしまう。

 その兄のかわりに、ややぶっきらぼうな調子で弟が繫いだのであった。

「死んじまったんだ」

 死んでしまった。

 右前足を、少々舐める。……主人は息を詰めている。

 弟が、続けた。

「――ちょうど十年前さ。事故で親は死んじまった。だから法師人家にはオレと兄貴と美緒だけってことだ」

 刹那の、静寂。

 壁掛け時計の、針の進む音が聞こえる。

 しかし刹那の静寂と述べたように、それはすぐに破られた。

「雄太さん、春次さん」

 と。

 破ったのは、息を詰めていた主人であった。

「美緒さんのこと。それからご両親のこと。色々と話してくださって、本当にありがとうございました。中には話しにくいことも、もちろんあったでしょう――ですがお二人が協力してくれたおかげで、僕は色々と知ることができました」

 主人の表情は、いつもの穏やかなものである。

 兄弟はちょっと黙っている。

 すると主人がまた、ひとつ呼吸してから言葉を紡いだ。

「それでは明日なんですが、美緒さんとは会わせていただけないでしょうか。是非、会って話がしたいんです。近い位置にいるお二人じゃなく、僕みたいな他人だからこそ、美緒さんと話すことでなにかわかることがあるかもしれません」

「ああ、……ああうん、そうだな。それなら美緒に言っとくよ。なあ兄貴?」

「そう、だな。……ああ、そうしよう」

「よかった! では、ええと、明日の午後に向かわせていただきます。――そうだ、その際なんですが、美緒さんには僕が探偵ということは伏せてください。言ってしまうと、話せるものも話せなくなってしまうかもしれません。だから、そうだな――お二人は確か飲食業のお仕事をされているんですよね? 電話でそう仰って――」

「ええ、それで間違いありません」

「それならこういう感じでどうでしょう? 僕は〝お二人の仕事先の常連客〟という体で――」

「それで、俺たちの家を訪ねてくると」

「そうです。お二人とは仲良くなったから――」

「なるほど。それなら美緒も、佐々木さんの訪問を怪しむことはなさそうだ」

「じゃ、それで決まりか? オレ、演技ってのはどうにも自信ねえんだけど」

「いや春次、やれよ。どうしてもやれないんだったら、おまえは明日、余計なことは喋らなくていいから黙っててくれ。俺が佐々木さんに話を合わせるから」

「おい待て兄貴、オレは自信がねえって言っただけで、やらねえとは言っちゃいねえよ! つーか美緒のためなんだ、マジでやりたくなかったとしても、やるに決まってんだろうが!」

「どうだかな。なにしろ春次だから」

「くっそ、馬鹿にしやがって! 美緒に言いつけんぞ!? 兄貴が馬鹿にしてくるんだって」

「勝手にしろ。美緒は俺に味方してくれるんだから」

「いいや、絶対にオレの味方してくれるね!」

「ふふ、お二人は本当に美緒さんのことが好きなんですね」

「ええ、もちろん」「そりゃ可愛い妹なんだからな!」

 こういうところは息のぴたりと合う兄弟だな。

 ……そうこうしているうちに、彼ら兄弟がやってきて随分と時間の経過したこと、それから事務所内の空気がすっかり緩んでいることに気がついた。

 吾輩はくあっと欠伸をすると、机から飛び降りて、先刻まで主人がいたヤカンの前まで移動する。主人たちのあの様子だと、もう依頼に関するような、重要なことは話さんだろう。だったらいつまでもあの場に留まる必要はない、吾輩は吾輩で次に自らがとるべき行動について考える必要がある。

 そうして一匹、黙念としていたら、吾輩のもとへココノがやってきた。真っ赤な瞳をめらりめらりとさせているところを見るに、彼女はきっと、吾輩が主人の仕事を手伝うことに、まだ賛成とは言えんのだろう。けれども吾輩は、誰になにを言われようとも主人を手伝うことに決めたのだし、仮に吾輩の決意が豆腐のように脃いものだったとしてもだね――

「斑さん!」

 と、考えている途中でとうとうココノの声が割り込んできた。

 吾輩はいったん考えるのをやめて、彼女に向き直る。そうしたら彼女、こんなことを言ってくる。

「いいですかっ、なにがなんでも! この依頼は、解決まで持っていきましょう!」

 ……はてな、聞き間違えただろうか。

 両の耳を心持ち強く振って、それから彼女に問うてみる。

「ココノや、君、今なんと言ったね?」

「もう、斑さんってば! ちゃんと聞いててくださいよ――だからですね、なにがなんでもこの依頼は解決まで持っていきましょうって、わたし、そう言ったんです!」

「それだとどうも、……君もこの依頼に関わるつもりのように聞こえるが」

「もちろん、そのつもりで言ってますよ?」

 えっへんと胸を反らす彼女に、いよいよ吾輩はわからなくなった。

「一体どういう了見だね、さっきはあんなに反対していたのに」

「どういう了見もなにも、斑さんだってあの兄弟さんのお話を聞いていたでしょう? わたし、どうにも火をつけられてしまったんです。すごくすごく力になりたいって、そう思っちゃったんです! だから解決まで持っていきましょうねって、そう言ったんですよ斑さん!」

「はあ。あの兄弟が君に、……そんなにも火を? 兄はともかく、あの弟などは随分と態度の大きいものだが」

「それは否定しませんけど、でもですねっ、斑さん! あの兄弟さんの、妹を思う気持ちは間違いなく本物です! ええ、わかりますとも! わたしにはわかっちゃいますとも……っ」

「へえ、そうかい?」

「斑さんにはわかりませんでしたか!?」

「……君、そんなに目をかっぴらかなくとも」

「だって斑さんにはわからなかったみたいだから……っ」

「……はあ。それぐらいは吾輩にだってわかったさ。確かに彼らの、妹とやらを思う気持ちは本物なんだろう。あれを本物と言わなければ、世の中の大抵の愛などは偽りになってしまうぐらいだ」

「なんだ、わかってるんじゃないですか」

「だからこそこの依頼、主人のためというのもあるが、兄弟のためにも動きたいなという心持ちに、吾輩はなっているんだがね」

 しかしわからんのは君の心変わりの理由だ。あれほど人間に正体がバレることを恐れていたのに、果たして兄弟の妹を思う強い気持ちを知っただけで、こうも心変わりしてしまうものなんだろうか。

 ……まあ、とはいえ。やる気になっているところへ水をさすのは憚られるし、こちらとしても〝反対だ反対だ〟と言われるよりは〝解決まで持っていこう〟と言われるほうがいいのは確かである。

 気を取り直して、吾輩はうんと体を伸ばすと、改めて主人と兄弟に目をやった。さて明日からは主人や兄弟のために行動するのであるが、その前にちょっと、観怪としても動いておく必要がある。

 右前足を舐めつつ、ひとまず兄弟が帰るのを待つことにする。





 吾輩は物の怪である。猫又である。

 しかし無論、最初から物の怪として生まれたわけではない。

 数多くの物の怪たちが、最初は普通の獣として、或いは人間として生まれたように、吾輩とて元々はただの猫として生まれたのである。


 ――ならばいつから物の怪は、物の怪という存在になるのか?


 それは、生き物としての寿命を終えたあとである。

 ただし、寿命を終えたものがすべてそうなれるということでは決してなくて。

 肝心なのは、寿命を終える前に一度でも観怪に認められたことがあるかどうかだ。

 ……ということは、もうおわかりであろうが、吾輩もどこかの観怪に認められたために物の怪という存在になったのであり、これは遡れば、もう百年ほど前のことになるのだが。

 自分のなにが、どんな観怪に認められたのかというのは、実は吾輩、未だに知らんのである。吾輩に限ったことじゃない、他の物の怪だって想像してみることはあっても、自分のなにが、どんな観怪に認められたのかというのを完全に知っているものはおらんのだ。

 偉大なる怪界の王が、そういう仕組みとしたゆえに。

 王曰く、


 ――物の怪となるものは皆、生前に機会を必要としていたものなのだ。

 ――余は機会を必要とするものには、その機会を与えるべきだと常々考えている。

 ――ただし、ただ機会を与えるだけというのもつまらぬ話であるからな。


 ゆえに王は、仕組みをつくってしまったわけだ。

 自分のなにが、どんな観怪に認められたのか――それは自分で考えるがいいさと。

 偉大であるがゆえの、お戯れである。吾輩などは王の肉球にも及ばんのだ。

 それだから吾輩のなにが認められたのかというのを述べることはできんのであるが、かわりに吾輩が観怪となった経緯と、それから現界へ訪れた理由を述べようと思うので、欠伸はしても構わんから、もう暫しお付き合い願いたい。


 さて、物の怪となったものは、例外なくあちらの世界――怪界に送られるものである。そして送られると、まずは怪界の王である〝九尾の猫〟に挨拶をしなければならん。

 普通の物の怪であれば、王にちょっと挨拶をすれば、あとは怪界で暮らすなり現界へ向かうなりと、自分で自分のことは決められるものだ。……が、猫だったものが物の怪になると、そうもいかんのである。

 先刻も述べたように、王は〝九尾の猫〟だ。

 王は偉大なるもので、物の怪であるものは皆平等なりという考えをお持ちである。

 ……ところが、どうしても猫又や五徳猫などを贔屓する傾向にはあるらしい。その贔屓の具体的な形となったものが観怪で、これは生前に猫だったものにしか与えられない大役だ。

 例に漏れず吾輩も、王より〝生前は猫だったから〟と――そしてなぜだか〝そなたの働きには余こそが注目しているのだ〟と――観怪の仕事を任されたのであるが、それではそもそも観怪とはなんなのかと疑問を抱く人があるかもしれん。ちと説明させていただくと、観怪とは次のふたつの仕事をするもののことである。


 ひとつ。現界にて獣や人間を観察し、物の怪となる資格のあるものを見つける。

 ふたつ。現界に暮らす物の怪たちが〝怪界の掟〟を守っているか観察する。掟とはすなわち、物の怪であることを人間に悟られんよう生きることである。


 これらの仕事を任されたものが観怪であり、観怪であるということは、つまり現界を訪れなければ己の仕事を果たすことはできんわけだ。――こういうことで百年ほど前より吾輩は、現界にて誇り高き観怪の仕事をしているのである。


◇◇◇


「これでもう美緒の悩みは解決したようなもんだな、兄貴!」

「ああ。安心して結婚式の日を迎えられるだろう」

 かようなことを言いつつ、兄弟が上機嫌に佐々木探偵事務所を後にしたのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。

 吾輩たちは帰る兄弟の背中をいったんは事務所の端っこにて見送ったものの、五分も経たんうちに主人へなぁなぁ鳴いてせがみ、外へ出してもらった。それは無論、彼らを追いかけるためである。彼らが帰るときに一緒に事務所を出なかったのは、主人に感づかれんよう、念には念をというわけだ。

 外へ出ると彼らのにおいを辿って、トコトコトコと早足で歩いた。急ぐのはあまり好きではないが、かと言ってのんびり歩いたところで彼ら兄弟に追いつけようはずもない。彼らは吾輩たちより先に事務所を出たんだから、本当なら早足で歩くよりも駆け足したいぐらいである。

 ……そんならなぜ、駆け足しない?

 それは君、さっきから〝吾輩たち〟と述べているように、吾輩には連れが存在するからさ。連れとは言うまでもない、旧鼠のココノのことであるが、なにしろ彼女は鼠の姿で歩幅がとても小さいものだから、吾輩の早足はココノの駆け足なのである。

 ゆえに吾輩が駆け足してしまうと、ココノはまたさらに駆け足しなくちゃならん、それはちと酷というものだろう。吾輩が彼女を銜えて運ぶのなら、遠慮もなく駆け足できるんだが――うんそうだ、その手があった。

「ココノや、ちょっと失敬するよ」

 早速と断りを入れてから、彼女の首根っこを柔らかく銜えた。すると彼女、ひゃんっ、と声を上げる。別に君を食うわけじゃないのだし、そもそも君を驚かせんために前もって〝失敬するよ〟と断ったんだがね。どうも上手くはいかないものだ。――というようなことを弁解したくとも、吾輩は彼女を銜えているんだから口もきけん。ひとまず、駆け足する。

 線路のすぐ側を駆けた。この線路というのは、夜の黒に染まる住宅街を分断するように、一本、横たわっているものなのであるが、時間が時間であるためか、電車なるものが通過する気配はない。かわりに夏夜の生暖かな風が、ゆるゆると背中の毛を撫でてくるのみである。

 と、前方に踏切が見えてきた。幅が狭いために自動車は通ることのできない、遮断機もない、猫の額ほどの踏切だ。そこへ差しかかると尻尾がぐるぐるまわり始めて、彼らのにおいも濃くなったので、吾輩は踏切を渡って向こう側へ行く。住宅街に入る。尻尾のぐるぐるが勢いを増す。駆けるごとに、ぐるぐる、ぐるぐる――

「斑さんっ、あれ! 兄弟さん、――法師人さんじゃないですか!?」

 出し抜けにココノが叫んだ。

 そしてココノが叫ばずとも、吾輩にだって見えていた。

 前方だ、前方に、あの兄弟の背中である。右側を歩く英国紳士のような落ち着いた身なりをしたものが兄で、左側を歩く米国男子のごとき派手なアロハシャツなるものを着用したのは弟だ、間違いない。

 吾輩が駆ける速度を上げると、

「ところでっ、斑さん――」

 口許にぶらぶら揺れながら、ココノ、ふと問うてくる。

「――わたしっ、斑さんが〝兄弟を追いかける〟って言うものだからついてきましたけど! でもっ、よくよく考えるとですね、行動に移るのが早速すぎではないでしょうか!? 佐々木ご主人さんのお仕事を手伝おうって、斑さんは張り切っているのかもしれませんし、わたしはわたしで法師人さんの力になれたなら、って張り切っていますとも! ですけどっ、依頼を引き受けたご主人さんでさえ明日から行動するっていうのに――」

 ああそういえば、ココノにはまだ話していなかったかもしれん。吾輩が今、兄弟を追いかけている理由――それだからココノはこう思い込んでいるのだろう、〝斑さんはご主人さんのお仕事を手伝うために、早速行動しているんだ〟と。けれどもココノや、それは半分正解で、もう半分は不正解とも言えるかな。……無論、吾輩の口許にはココノがぶら下がっているんだから、半分不正解の理由は言いたくとも言えんのであるが、まあ〝百聞は一見に如かず〟と言うぐらいだ。彼女には見てもらったほうが早いだろう。

 さらに駆ける速度を上げると、

「ちょっ、あの、斑さん!? そろそろ走るのをやめませんか、もう法師人さんを見つけたんですから、あとはこっそり尾行するぐらいでよくないです? ねえっ、このままだとわたしたち、法師人さんのこと、追い越しちゃう――」

 追い越すのが正解だ、そうして彼らの真ん前を陣取らなくちゃ始まらん。

 とぉうっ! と強く地面を蹴ると、いよいよ彼らより前に出た。それから吾輩は急停止、次いで体の向きをぐるりと変える。すると兄弟と向き合う形になって、思わずといった体で兄弟が歩みを止めた。同時に口許のココノも動かなくなる、動かなくなるが彼女の体はじわりじわりと汗ばんでくるものだから、吾輩の口の中が少々しょっぱい。このしょっぱさが、ココノの緊張感と心中の叫びを物語っているように感ぜられた。


 ――尾行で済ませればいいものを、どうして人間の前に陣取ったんです斑さん!?


 うん。まあココノや、見ていたまえ。

 吾輩が兄弟を見上げると、まず反応したのは弟のほうで、弟は身を縮こめるとこんなことを言った。

「また猫だ、まったく嫌になっちまう! しかもこいつ、さっきの探偵事務所にいたのと似てやがるし、……つーか似てるどころか同じじゃねえか? なあ兄貴、……こいつはもう嫌な予感しかしないぜオレは……!」

 兄はしばらく喋らずに、また動きもせずに吾輩の目を見ていたが、ふと吾輩のある一点――ぐるぐるしている尻尾だ――に気がつくと、その顔へと一気に緊張を走らせた。

 そろりそろりと、しゃがみ込む。吾輩へ目線を合わせる。

 兄の瞳に、吾輩とココノの姿が映り込む。

 兄は、静かに息を吸い込んで。

 そうして、尋ねてきた。

「君はもしかして、……そうなのか?」

 尋ねてきた兄に、吾輩は尻尾のぐるぐるをおさめた。

 それからココノを地面におろし、改めて兄へ向き直ると、尻尾をぐるんぐるんと二度だけまわしてみせて、

「やあ、挨拶が遅れたね。吾輩、猫又の斑さんという。斑と呼び捨てにするんじゃなしに、斑さんと是非呼んでいただきたい。というのも、吾輩の主人が斑ではなく斑さんという名前をくれたのでね、そういうふうに呼んでいただきたいと思うわけなんだ。ああ無論、主人とは佐々木主人のことなんだがね。吾輩、佐々木探偵事務所にて世話になっているわけで――やあ、もしもし?」

 呼びかけてみるが、兄弟は硬直するばかりでなにも喋らない。

 ふむ、これじゃあ仕方がないなと、今度はココノの紹介に移ることとした。

「――こっちは旧鼠のココノさ。彼女も吾輩と同じく、佐々木探偵事務所にて世話になっているよ」

「……え? ちょっと待ってください斑さん、わたしの紹介はそれだけですか?」

「仕方があるまい、なにしろ二匹が聞いちゃいないようなんだから」

「いやいやいやっ、それにしたってわたしの紹介、少なすぎでしょう!? ――いいえ、そんなことよりも! なんですか斑さん、〝二匹〟って! この状況がどういうことを意味してるのか、ちゃんとわかるように説明してください!」

「説明しなくともわかっただろう、大抵は」

「思考が追いつかないんですよ!」

 ココノが叫んだ直後である。

「マジだマジだ、マジだった……っ」

 弟、自分の頭をバリバリと乱暴に搔きながら、

「マジで出やがった! っああー、こんなときに出やがった! なんでだよ!? オレら人間に正体のバレちまうようなことはやってねえのに!」

「おい馬鹿」

 と、吼える弟へ突っ込むのは兄である。

 兄は弟やココノのように吼えるようなことはしなかったが、わずかに眉根を寄せると硬い声にて言葉を落とすのだった。

「そうか、……やっぱり君は〝観怪〟なんだな」

「いかにも、吾輩は観怪だね」

「あれだ、三毛猫の三毛っつーことは――」

「残念ながら見てのとおり、吾輩は白黒斑模様さね。弟くん」

「うぐっ」

「そもそも本当に三毛猫の三毛だったところで、普通の三毛ならこうして喋るようなことはしない」

「わかった、もう言うな」

「つまるところ吾輩、君が認めたくなかろうと、どうしたって観怪なわけでね」

「わかったから」

「観怪ということはだ。君たち兄弟が掟を破ろうものなら即刻――」

「だから! わかったからもう言うなっつってんだろうが観怪野郎!!」

 ははあ、ちょっと弟で遊びすぎたかな?

 などと思ったところで、再び兄が口を開いた。

「つまり、観怪ということは。俺たち兄弟が佐々木探偵事務所へ足を踏み入れた瞬間から、俺たちの正体を――俺たちが物の怪だということを――君は見抜いていたと。そういうことか」

「ふむ、違いない」

「まったくフェアじゃねえ!」

 おや、ここでまた弟が吼えてきた。

「相手が物の怪なのかそうじゃねえのかを判断できる力――そいつを観怪は九尾の猫からもらってるらしいが――まったくフェアじゃねえなって、オレは前々からそう思ってるね! 九尾の猫はさ、オレら普通の物の怪にも同じ力を与えるべきなんだよ! なあ兄貴」

 兄は答えない。眉根を寄せたまま、ただ、吾輩から視線を逸らす。

 ところへ声を上げたのはココノである。

「怪界の王様に物申すつもりはありませんが、それよりも斑さん! わたしは斑さんに物申したいですよ!」

 あまりにもココノがぷんぷんしているものだから、吾輩も、兄弟も、一様に彼女へと視線を移す。彼女がぷんぷんしている理由はこうだった。

「法師人さんが物の怪だってわかっていたなら、どうして法師人さんを追いかけるときに事実を教えてくれなかったんですか!? 斑さんが教えてくれていたら、わたし、変な汗をかかずに済んだのに!」

「うん、それはそうなんだがね。だがいかんせん、事実を教える機会に恵まれず――」

「言い訳は結構です!」

「むぅ、君が〝どうして〟と聞いてくるから、吾輩は答えようと思ったんだが」

「なんですって!?」

「ココノや、顔が随分とおっかないやね」

「誰のせいでおっかない顔してると思ってるんです!?」

「はてな、……吾輩かな……?」

「斑さんしかいないでしょう!?」

「ええと、……観怪の君と、旧鼠の君?」「そろそろオレらのこと思い出せ?」

 ……や、しまった。ココノに気を取られて、ちょっと兄弟のことを忘れていた。

「いや失敬」

「まったくだ。オレと兄貴を置いてけぼりにしやがって」

「でもわたしたち、意図してそうしたわけじゃなくてですね――」

「つーかあんた、確か旧鼠のココノだっけ?」

「え? ……ええ、そうですけど……?」

「あんたはよく観怪と行動できるもんだな」

 弟の出し抜けの言葉に、ココノが「どういうことです?」と首を傾げる。

 すると兄弟、互いに目を見合わせてから、また弟のほうが口にした。

「だってそうだろ? 観怪っつーのは現界で言う警察みたいなもんだ。オレらが怪界の掟を破ろうもんなら、そこにどんな事情があったにしても、問答無用で怪界送りにしてくるってことだぞ。――オレなら絶対に観怪となんて行動したくねえよ。そんな奴に見られてるって思うと変に意識しちまって、それこそすぐに正体バレるようなミスしちまいそうじゃんか」

 弟の言葉を聞いても、ココノはまだ首を傾げている。がしかし、そこは弟の言うとおりで、それだから観怪を煙たがる物の怪は非常に多く、ココノのように観怪と行動を共にするものというのはあまり例がない。

 彼女は暫し首を傾げたままでいたが、やがてそろりと口を開くと、

「ええ、それはまあ確かに、斑さんは観怪ですが。……だけどですね、うーん、やっぱり斑さんは斑さんですし……」

「いや、意味わかんねえよ」

「そうだな、俺にもちょっとわからないかも」

「吾輩だってわからんぐらいなんだからね」

「もうっ! だからですね、わたしが言いたいのは! ええと、だからその、……そう、斑さんは斑さんで! ご主人さんのことが好きで、チーズが好きで、渋い声で、なんだかヘンテコな喋り方で、猫又なのに尻尾が分かれてなくて、本当に猫又なのかなって思えちゃうような猫又さんで――」

「ふむ、吾輩、貶されているのかな」

「――とにかく! わたしにとっては斑さんって、斑さんでしかないんですよ!」

「いや、やっぱわかんねえわ」

「吾輩にもさっぱりさね」

 ……こんなことを言ってしまうと、彼女はきっと怒るのだろう。ゆえにこれは口にはしないが、彼女こそ〝ヘンテコさん〟なのではなかろうか。

 と、ちょうど弟も「変な奴だな」と彼女に言って、言われた彼女はちょっと頰を膨らます。が、兄だけは吾輩や弟とは違う感想を抱いたようで、「なるほどそういうことか」と呟くと、どういうわけか一匹、面白そうに笑う。それから吾輩へ向き直ると、

「猫又の斑さん、……だったかな」

「いかにも。吾輩は猫又の斑さんだね」

「斑さんが俺たちを追いかけてきたのは、もちろん、ただの雑談目的じゃないんだろう。観怪の立場で気になることがあったから、君は俺たちを追いかけてきた――」

「うん、そうだとも」

「わかったよ。それなら斑さん、なんでも聞いてくれ。俺たちは噓偽りなく、本当のことを君に話そう」

 先刻まで眉根を寄せ、硬い声にて吾輩と話していた兄だったのに、それが今ではすっかり柔らかな笑みを浮かべ、柔らかな声である。兄の変化に、吾輩は少なからず目を丸くさせるのであるが、吾輩以上に驚いた様子なのが弟で、

「なんだよ兄貴、観怪なんかにフレンドリーになっちまってさ」

 すると兄、朗らかに笑いながら言うことには、

「いや、考えてみたらさ。ココノさんの言うように、確かに斑さんは斑さんなのかもしれないな、って」

「おいおい兄貴」

「ですよね、お兄さん! ああっ、やっとわかってくれる物の怪がいました……っ」

「こんな変な奴に影響されんなよ、マジで……」

「なんですって!?」

「おお怖っ……おい観怪のあんた。あんたの気になることっつーのはなんだよ? 話してやるから、それを聞いたらこいつ連れてさっさと帰ってくれ」

「なんて乱暴な言い方なんですか、もうっ!」

「……いや、こんなことばかり言う弟で申し訳ない」

「お兄さんはなんにも悪くないんですから、申し訳ないなんて言わないでくださいっ」

「だあっ、うるせえな! おい観怪、頼むから早く話を進めてくれ!」

 うんざりといった顔つきの弟に、ふむわかったと吾輩は頷くと、咳払いをひとつ。

 次いで皆の顔にぐるりと目をやってから、

「それでは尋ねさせていただこう。――まず、君たち二匹は物の怪となる以前から、兄弟だったんだろうか」

 すると兄弟、疑問符を頭の上へ浮かべて、

「斑さん。それは一体、どういう意味なんだろう?」

「まるでわかんねえぞ」

「いやね。さっき弟くんが言ったとおり、怪界の王は観怪にのみ、判断する力を与えているのさ。相手が物の怪であるか否かを判断する力――そして相手が物の怪であるならば、生前に獣であったか人間であったか、ここまでは容易に判断できるんだがね」

「それ以外のことは、観怪の君にも――斑さんにも判断できないと?」

「うん」

「あー、つまり……オレらが生前に〝獣〟だったことは判断できても、オレらがなんの獣だったかまではわからねえし、オレら二匹が本当の兄弟なのかってことも、聞かなきゃわかんねえってことか?」

「そのとおり」

「それなら俺たちは兄弟だよ。物の怪になる前から、そうさ」

「なるほど。そんなら次に、法師人美緒のことなんだが――彼女も本当の意味での、君たちの妹なのかい?」

「そいつの答えはノーだ。だって美緒は物の怪じゃねえ、本物の人間なんだからな」

 ふむ。

「……となると、法師人雄太と春次というのも実在する人間で、この二人こそが法師人美緒の本当の兄弟ということになると思うんだが、……そんならなぜ君たちは、いや、なぜ君たちが法師人美緒の兄弟を演じているんだろう? そして法師人美緒のために、懸命になっているんだろう?」

 吾輩が切り込むと、兄弟の表情が翳った。この翳りは、先ほど探偵事務所でも見たのとおそらくは同じ類のものなんだろうと思う。

 吾輩は右前足を一度舐めてから、


「法師人美緒の両親が死んだという、十年前の事故と――なにか関係があるのかい」


 兄弟が目を見開いた。言葉は発しない、頷くこともしない、そうして彼らはしばらく目を見開いたままでいたが、その彼らの様子こそが答えなのだろうと吾輩は解釈する。

 やがて兄のほうが息を吐く。それからゆるりと立ち上がると、夜空を見上げる。吾輩もつられるように夜空を見た。夜空は黒に染まるばかりで、星はあまり見えんようだ。

 そのうち夏夜の生暖かな風が、吾輩たちを撫でてきた。兄が口を開いたのは、それから間もなくのことである。

「ここよりも、星が輝いて見えた。元々は俺たち、そんな山の中に生きていたんだ」

 鼬として。十年前の、あの夏の日まではね――夜空の黒を見つめながら、ぽつりぽつりと紡いでいく。

「あの日の俺たちはさ、追われていたんだよ。空腹に苛まれていたらしい山の主である鷹が、ちょうど移動の最中だった俺たちのことを見つけたらしくてね。それで俺たちを追ってきて、俺たちは後ろも振り向かずに、とにかく逃げて逃げて、逃げまわった。鷹には悪いけれど、俺たちだって食料になるために生まれてきたわけじゃない。生きるために生まれてきたんだから、必死も必死だった。そうして必死に逃げまわるうちに、俺たちは道路へ出て――そこへ一台の車が――夏休み、久しぶりの家族旅行で山へ遊びに来ていた、法師人家の車がやってきたんだ。車は飛び出してきた俺たちを見たせいだろう、咄嗟に俺たちのことを避けたんだけど、……けれど避けた先にはさ、……川が、あったんだよ。とても流れの急なところで、車はそこに、……そのままさ、落ちて、しまって……」

「あ――」

「オレら二匹、急いで川へ飛び込んだ」

 弟が続きを引き取った。

「――だってそうだろ? 鷹に追われて逃げまわってたとはいえ、それでもオレらが道路に飛び出しちまったせいで、車は川に落っこちたんだ。その事実は変わらねえんだから、――だから助けねえと、とにかくあの家族を助けねえとって、川へ飛び込むのは当たり前だ」

「だが君たちはそのとき、鼬だ」

「そうだ、オレらは鼬だった。だから人間を助けるには、法師人家の五人を助けるには、あまりにも小さくて――」

「そして弱い」

 ぽつりと、ココノ。

「そう、だからそのうち川の中でな、オレも兄貴も意識が遠のいて――遠のく中でオレらはさ、強く後悔したわけだ。ああ、まったく関係のねえ人間を巻き込んじまった。オレらのせいであの人間たちは、巻き込まれちまったんだ、――ってな」

「そんな俺たちのことを、どこかで観怪が見ていたんだと思う」

 兄が繫ぐ。

「――きっと見ていたから、それで観怪が俺たちの強い後悔を認めて、俺たちには物の怪になる資格があるって判断したから。次に目を覚ましたとき、俺たちは怪界にいて、そして〝鎌鼬〟に生まれ変わっていたんだと思う」

「なるほど。それで鎌鼬に生まれ変わった君たちは、すぐさま怪界の王に尋ねて知ったわけだ。法師人一家の生存状況。法師人美緒以外の四人は助からなかったのだという事実」

「そして、――たった一人生き残ったあいつが、病院のベッドで眠ったまま、まだ目を覚ましていないこともな」

「……事実を知ってすぐに、俺たちはまだ目を覚まさない美緒のもとへ向かった。法師人雄太と春次の姿で。そうしてずっと、美緒の目が覚めるのを願っていた。――願いながら、考えてもいたんだ。美緒の目が覚めたなら、そうしたら俺たち二匹は、たった一人残された彼女のために生きる必要があるんだって。罪滅ぼしとして、あの子がいつか命を終えるそのときまで、俺たちはあの子の傍にいて、あの子を守る必要があるんだ――って」

「鎌鼬兄弟さんが美緒さんのお兄さんたちに化けているのは、そういう理由なんですね。……あれ? でも、ちょっと待ってください――その、ご両親だけでなく、お兄さんたちも亡くなってしまったということは、……美緒さん、知らないんですか?」

 囁くように口にしたココノに、兄は「知らないよ」と頷くと、

「両親は見つかったとのことだったけれど、……その、兄たちのほうは……」

 生暖かな風が、兄の言葉をさらっていく。さらわれた言葉は戻ってこない、兄が同じ言葉を繰り返す気配もない、だが、さらわれた言葉がどんなものだったのかを想像するのは決して難しいことではなくて。

 ……胸が、チクチクした。

 どこかで虫が鳴いている、それ以外には、なんの音も聞こえてこなかった。

 やがてそんな、張りつめたような、そうでないような。妙な空気を破ったのは弟であった。

「とにかくだ、……そういうわけでオレらは法師人雄太と春次に化けてんだよ。言っておくが、二匹とも正体がバレねえように、相当気をつけて暮らしてきたつもりだぜ。……そりゃまあ、オレのほうは兄貴と違って少しミスっちまうこともあったけど、でも正体がバレるまではいってねえ! それに、あんたの他にも観怪に会っちまうことはあったが、オレらなら問題なく暮らしていけそうだって、どいつもこいつも結論づけて別の場所に行ったんだ。だからあんたも、なあ、――オレらのことは放っておいてくれねえか」

「吾輩には君たちを観察することなく、どこか別の場所へ行ってほしいと?」

「そういうことだ。さっきも言ったが、観怪に見られてるって思うと変に意識しちまって、それこそすぐに正体バレるようなミスをしちまいそうなんだよ。そんなのは困るんだ! オレらはまだ、怪界に戻るわけにはいかねえんだから!」

「だがしかしね、吾輩としても放っておけんのさ」

 言った途端、弟がふんと鼻で笑った。それからやれやれと首を横に振ると、

「ほらな、今の聞いただろ兄貴。なにが斑さんは斑さんだよ。――結局あれだ、観怪はどこまでいっても観怪で、自分の仕事優先でさ、こっちの事情なんか汲み取ってくれやしねえんだ。だから観怪なんかにフレンドリーに接したところで、なんにも意味なんかねえんだよ」

「春次――」

「んもーう!」

 と、ここで牛のような声を上げたのはココノである。小さな体をはち切れんばかりに膨らませ、真っ赤な瞳はめらりめらりと炎のごとく。彼女が怒っているというのは誰の目にも明らかで、彼女が誰に怒っているのかというのもまた、誰の目にも明らかというものだ。

 思わずといった体で「マジでおっかねえ旧鼠だな」と洩らした弟の足下へ、ココノ、じりりと詰め寄ると、

「弟さんはさっきから、斑さんのこと〝観怪だ観怪だ〟って! そういう弟さんこそ斑さんの事情なんて、ちっとも聞こうとしないじゃないですか!」

「なんだよ、そいつの事情っつーのは。そんなもん、どうせ観怪の仕事絡み――」

「また観怪って言いましたね!?」

「いてッ!」

 とうとうココノ、弟の靴をポカポカポカとやり始めた。すると弟は痛がる、大いに痛がる、ココノのポカポカが痛いことは吾輩も知っていることだから、吾輩は弟に同情する。同情していると不意にココノがポカポカをやめて、今度は吾輩のもとへやってくるものだから、吾輩はちと身構える。

 幸いにも、ココノは吾輩にポカポカをやるようなことはなかったのであるが、それでも燃えるような赤い瞳にて、吾輩を貫くように睨めつけると、

「斑さんは斑さんで、余所事みたいにしてますけど! もうちょっとこう、自分のことを知ってもらおうという努力はしてください! そうじゃないと、わたし一匹怒っちゃって、なんだかわたしが馬鹿みたいじゃないですか!」

「……ひょっとすると吾輩、君に謝ったほうがいいんだろうか」

「もういいですよ、斑さんのヘンテコさん!」

 吾輩のことも、佐々木主人のことも、ココノはヘンテコさんだと言う。吾輩は吾輩でココノのことを、ヘンテコさんなんじゃないかと考えている。吾輩の考えもココノの考えも仮に正しいものだとして、そうすると佐々木探偵事務所に集うものは今のところ、ヘンテコさんしかいないことになる。これはちょっと問題である。

「斑さん、今、絶対にどうでもいいこと考えてますよね?」

「……む? なに、そんなことはないさ」

「なんですか今の間は、怪しすぎます!」

 言うなりココノ、両の前足をバタバタさせる。

 これは非常にまずい、本日二度目のポカポカを今度こそやられるぞと、吾輩が背中の毛を逆立てたその瞬間、弾けるような笑い声が降ってきて、吾輩もココノもついつい声のほうへと視線をやる。

 声の主は鎌鼬弟――ではなく兄のほうで、これまで英国紳士のごとく振る舞っていたあの兄が、こんなにも大きな笑い声を降らせてきたのが吾輩には意外だった。意外に思ったのは吾輩だけではない、ココノや弟もそうだったようで、「兄貴、壊れちまったのか!?」とは弟の言葉である。

 さて、兄が笑い終えたのはそれから決して短くはない時間が経った頃であった。

 兄は目尻に滲んだらしい涙を拭いつつ、ようやく口を開くと一言、

「怖くないよ」

「は? なんだよ兄貴、怖くないって」

「春次。おまえだってさ、〝斑さん〟に怖さを感じるか? 今も感じているか?」

「なっ、そ、それは……」

 口ごもる、弟。

 兄はそんな弟から、吾輩へ向き直ると、

「斑さん。是非、聞かせてくれないか」

 聞かせてくれと君が言うのは、すなわち、

「吾輩の事情のことかい」

「うん、そうだ。教えてくれ。――君自身の事情をさ」

 するとココノが顔をパッと明るくした。弟は反対に、唇をむっと尖らせる。けれども口を挟んでくる様子はない。

 ……ふむ、誰も吾輩の話を遮らんのみならず、寧ろ聞かせてくれと言うのなら、うん、話してみようと思って吾輩、話してみた。二ヶ月ばかり前に、佐々木主人が吾輩を拾ってくれたこと。食い物をくれたこと。名前をくれたこと。だから吾輩は主人に受けた恩を、是非返さなくちゃならんのだということ。しかしなにをどうすれば恩返しになるのかがわからず、二ヶ月間うんうん唸って考えていたこと。その末に、主人の探偵業を手伝うことが、恩返しに繫がるのではないかと思い至ったこと。そういうわけで今日から早速、主人を手伝おうと思ったのであるが、そこへやってきたのが鎌鼬兄弟だった。吾輩には兄弟が物の怪であることは無論、すぐにわかった。兄弟の事情も今、聞いた。それだからなおのこと、依頼を手伝わせていただきたいのだ。主人のためだけじゃない、君たちのためにも、吾輩は動きたいんだということ。

 兄弟は吾輩の話に、静かに耳を傾けていた。そして吾輩が話し終えてからも、しばらくは黙り込んでいた。ゆえに兄弟の答えがわからず、吾輩とココノはじっと待つしかない――と、

「斑さん」

 吾輩の名を呼んだのは、兄であった。

 兄は小さく笑って、それから吾輩に目線を合わせるように、再びしゃがみ込むと、

「それじゃあ是非、手伝ってくれないか」

「おい兄貴」

「大丈夫だよ、春次。斑さんはきっと、いい猫又さ」

「春次くん。吾輩からも言わせてほしい。――どうか吾輩を信じてはくれんかね? 君が法師人美緒のことを思っているのと同じように、吾輩も佐々木主人のことを思っている。彼の力に、なりたいんだ。それだけじゃない、無論、――君たちの力にもなりたいんだ」

「……っ」

「迷うことなんてありませんよ、弟さん! 斑さんってば、本当に斑さんでしかないんですからね!」

「ココノや、やはり君の言うことはよくわからんのだが――」

「斑さんがわかってくれなくても、お兄さんはちゃんとわかってくれますもの!」

「うん。斑さんは斑さんだ」

「だあっ、もう! わかったわかった、わかったよ!」

 バリバリと自分の頭を搔いたなと思ったら、弟、降参したとばかりに吼えた。

 そして兄の隣へ並ぶようにしてしゃがみ込み、睨むように吾輩を見るとだ。

「美緒のこと、あー……頼む……よろしく、頼む」

 小さな小さな声だった。しかし彼は間違いなく、そう、口にして。

「ふふ、――うむ。頼まれた」

 言うと吾輩、自身の尻尾へ少しばかり力を入れる。

 あっ、とココノが声を洩らした。

「斑さんの尻尾が、……いつもは分かれていない斑さんの尻尾が! 猫又らしく二本に分かれちゃいました……! 斑さん、こんなことができたんですか!?」

「うん。なにしろ吾輩、猫又だからね。いつもは猫又だとバレんように、尻尾一本なのさ」

「わたし、知らなかったです……」

「見せたことも言ったこともなかったからね、君には。しかしこれで猫又らしくなっただろう? ――さて春次くん」

「な、なんだよ? なんでオレの名前だけ」

「特に君には言っておかなくちゃと思ったからさ。――吾輩、法師人美緒のことを君に頼まれたわけであるが、しかしやはり知ってのとおり、吾輩は観怪だから。君の正体が人間にバレた時点でね、君のことはすぐさま怪界送りに――」

「あああああっ、言うな! 言うんじゃねえよ馬鹿! ……つーかあんた、なにニヤニヤしてやがる!?」

「ふふ」

「どうやら春次は斑さんのオモチャになったかな?」

「おいっ、冗談じゃねえよ! 斑のオモチャなんて――」

「おや春次くん。吾輩のことは斑ではなく、斑さんと呼んでいただきたいんだがね」

「どっちでも構わねえだろ……っ」

「構わないことはないやね。これはさっき挨拶したときにも告げたことなんだが、なにしろ佐々木主人が吾輩に〝斑さん〟という名前をつけたんだから――」

「うるせえ! ああもうっ、オレ、やっぱこいつとやっていく自信ねえよ!」

「ちょっと皆さん、わたしのこと、忘れちゃっていませんか!?」

 と、ここでぴょんぴょん跳ねながら割り込んできたのはココノである。

「わたしも! わたしもですねっ、皆さんと一緒に頑張っちゃうんですからね!」

「うん、ありがとう。よろしく頼むよ、ココノさんも」

 兄が言うと、ココノ、うふふと嬉しそうに笑う。

 なんだかこの瞬間のこの空気は悪くない、とてもいい心持ちである。

 ……さて、いい心持ちになったところで〝明日の行動計画〟を皆に話そうかなと思った。具体的には、依頼を手伝うにあたって、吾輩も法師人美緒に会っておきたいということ。会うだけでなくて言葉も直接交わしておきたい。けれども主人、猫と鼠はさすがに事務所へ置いておくだろうし、仮に吾輩などを法師人家へ連れていくようなことがあったとしてもだ。無論、猫のままでは口をきけん。そこで吾輩は人間に化けて、法師人家へ向かいたい――とまあ、以上のようなことなのであるが、

「はてさて、一筋縄ではいかんだろうね」

 吾輩がひっそりと落とした言葉は、この場にいる誰の耳にも、きっと届くことはなかったのだろうと思う。