日本に探偵が何人いるか知ってるか?

 先に言っておくが、浮気調査をしているような奴らの事じゃないぞ。俺から言わせればそういう奴らは紛い物、ただの探偵だ。香りマツタケ味シメジの『シメジ』がスーパーで売っているブナシメジの事じゃないのと同じ。本物の探偵とは、警察に代わって難事件を解決する『名』と頭につけざるをえない者の事をさすんだ。

 そいつは一人しかいない。そう、俺様、東馬京、ただ一人だ。探偵界のホンシメジ。

 なんだ、疑っているのか。では、俺の腕前を軽く披露してやろう。

 ちょうど今、俺の足元に死体がある。初見では、難事件ってわけでもなさそうだが、推理力を測るにはこれぐらいがいいだろう。

 ――ここは高級マンションの地下駐車場。

 二十代半ばの男が血溜まりを作り、うつ伏せで倒れている。どうやら俺が一番乗りらしい。周囲には誰もいない。ざっと見まわしたところ、監視カメラが五台確認できるが、男が倒れている場所は、その全てから死角になっているようだ。

 死体を見てみよう。出血は左胸から貫通した銃痕によるものだ。銃弾は近くのコンクリートの柱に埋まっている。9ミリ弾だから拳銃だろう。ここはかなり音が反響しそうだが、誰も駆けつけていないところを見ると、拳銃に消音器でもつけていたか。監視カメラの位置も計算に入れていたとなると――プロの殺し屋による犯行。

 いや……そうでもないか。死体をさらに詳しく調べてみれば、銃弾は心臓をわずかに外れている。即死ではなかったようだ。犯人はプロではあるが二流。

 ん? よく見れば、男の左手首に裂傷がある。さらに男の右手には十徳ナイフが握られている。これはどういう事だ。殺し屋が、自殺に見せかけようと握らせたか。いや、拳銃を使っておいてそれはありえない。何か他に手がかりはないか……。

 左手首の近くに何か落ちているぞ。とても小さな米粒くらいのサイズ。これは、マイクロチップだ。GPS発信器と振動センサーが内蔵されているようだ。

 男はこれを左手首から取り出すために、十徳ナイフを使ったのか。脈が感知できなくなれば、どこかに通知される仕組みになっているようだ。となると、殺し屋が二流なのではなく、この男が只者ではないという事か。

 いよいよ、この男の素性が気になってくる。顔はよく見れば精悍で男前だが、身なりには気を使わない性格のようだ。無精髭に寝ぐせがついたボサボサの髪。服装は、くたびれたジャケットにジーンズ、汚れが酷いスニーカー。

 ジーンズのポケットから何かがはみ出ている。車のキー。男の隣に停めてある車のものだろう。この地下駐車場には来客用のスペースも別にあるから、男はこのマンションの住人で間違いないようだ。それにしても男の車は、服装同様かなり年季が入っている。周囲の車が高級車ばかりなので余計に目立つ。

 もしかすると、男は内面に大きな自信を持っているのかもしれない。そのせいで外面がなおざりになっているのではないか。頭が良すぎる者に見られる特徴の一つだ。

 ――よし、これらの情報をもとに、犯行の瞬間を再現してみよう。

 男は、どこかに出かけるために地下駐車場へ下りた。そこに殺し屋が現れる。殺し屋は事前に下調べをしており、監視カメラの死角となっている場所で待ち構えていた。そして、消音器がついた拳銃を構える。

 だが男に逃げた形跡は見られない。どころか、言葉巧みに殺し屋を翻弄する。そのせいで殺し屋は、惑わされ狙いを少し外してしまう。それでも即死を免れたというだけで傷は深い。男は一度膝をついた後、うつ伏せに倒れる。

 男は瀕死の状態ながら、持っていた十徳ナイフで自ら左手首を切る。『誰かに殺されるのはごめんだ。死ぬのなら自分の手で死にたい』などと言いながら。そこに隠されているチップを取り出し、助けを呼ぶために。

 そして殺し屋は、まんまと騙されその場を立ち去る。

 ――と、いったところか。……おい待て、今、男が微かに動かなかったか?

 脈はどうだ。ある、あるじゃないか! 男は死んでいないぞ、まだ生きている!

 誰か、早く来てくれ! ……くそ、どうして誰も来ないんだ。助けを呼びに行くか。……ん? なんだ、足がもつれる、歩きにくいぞ。おい、なんだこれは? 地面がいつの間にか砂利になっている。ここは――川原?

 川の向こうに、誰かいる。あれは、死んだじいちゃんとばあちゃんだ。

 あぁ、そうか……。そうだ、そうだった。撃たれたのは、俺だった。

 やばい、このままじゃ本当に死んじまう。探偵がどうとか言っている場合じゃなかった。考えろ意識が消えたら終わりだ。たしかに俺を撃ったのは殺し屋だった。一見、どこにでもいるボンボンの大学生みたいな顔立ちだったが、あれはたしかに本物の殺し屋だ。だが、どうして俺が殺し屋に狙われなくちゃいけない。誰が、殺し屋を雇った? いてっ! なんで、じいちゃんとばあちゃんが、俺に向かって石を投げてくるんだ。えっ、こっちに来るな? あぁ、まだ死ぬなって事か。違う? お前が来るとあの世が滅茶苦茶になるから? なんだよ、くそっ! 身内にすら嫌われているんじゃ、誰が殺しを依頼したかなんて分かるはずがないだろ。

 くそっ、死にたくねぇ。絶対あの殺し屋許さねぇからな。って死んだら許すも許さねぇもねぇか。早く誰か来いよ。あぁ、ちくしょう。……意識が――――。


1


 朝七時半。御堂禅は、仕事がなければ毎日その時間に起床する。

 いかなる場合でもだ。夏であろうと冬であろうと、たとえ前日の仕事が忙しく朝五時まで起きていたとしても、たとえ鈴虫が大発生し夜通し鳴き続け寝苦しかったとしても。自らが定めたルーティーンに従う事を何よりも大切にしている。

 厳格である事は自覚している。つい先日も仕事のパートナーから指摘された。

 ――朝の七時半は早起きよ、と。

 正確にはこう言われた。

『あなたは、独身の一人暮らしで二十二歳と若く、別に時間を有意義に使いたいわけでも予定が詰まっているわけでもなく、ましてや早起き推進委員会に見張られているわけでもないのに、休みの日に朝の七時半に起きるのは、早起きだわ。鶏じゃないんだから』

 たしかにそうかもしれない。『早起き推進委員会』なるものが本当に存在しているのか、鶏からすれば朝の七時半は遅起きなのではないか、と気になるところはいくつかあったが、パートナーが言いたい事は理解できる。御堂の仕事は、非常に過酷なもので終わった後は毎回、肉体的にも精神的にもボロボロになってしまう。だからこそ、休日はゆっくりと時間をかけて療養するべきだと気遣ってくれているのだ。

 だが御堂にも言い分がある。御堂にとっての療養、癒しとは、長く眠る事ではなく、規則正しい日常を送る事なのだ。それが安心に繋がる。自分自身をコントロールできていると。この場所が――非日常ではないと。

 だから御堂は、誰に何を言われようと習慣を変えたりはしない。

 仕事がなければ朝七時半に必ず起床する。

 耳元で音楽が鳴っている。携帯電話のアラーム機能だ。曲は、エリック・サティの中からランダムに選ばれている。エリック・サティは、育ての父親が好きで子どもの頃から聴いていたので目覚めがいい。御堂は元々眠りが浅いほうなので、小鳥が囀るほどの音量で構わない。目を開くと天井が見える。姿勢は眠る前と寸分違わない。計ったようにベッドの中央で、仰向けで体を真っ直ぐにし両腕だけ布団から出している。

 さぁ、一日の始まり、ルーティーンの始まりだ。

 起き上がると、まずは軽くベッドメイキングをする。シーツの皺を伸ばし枕と布団を整える。そして、部屋の中を一通り歩き確認する。二つの絵を見比べて間違い探しをするように、寝る前に記憶した光景と同じかどうか細かく調べていく。チェック項目は、全部で二十七ある。携帯電話のエリック・サティはそのまま流し続ける。

 御堂の部屋は、1LDKで一人暮らしにしてはやや広めだが物はほとんどない。一時間後に引っ越せと言われても全く困らないほどだ。フィギュアをテレビ台に飾ったりしていないし、ビニール傘を玄関に何本も立てかけたりもしていない。必要な物が必要な分あるだけだ。

 リビングには、小さなテレビとベッド、ローテーブル。そのローテーブルには、黒ぶち眼鏡と分厚い動物図鑑が一冊置かれている。

 動物図鑑は、子どもの頃に育ての父親から貰った物で、もはやそこに何が書かれてあるのか一字一句覚えているが、それでも一日に一度は目を通している。

 眼鏡は伊達だ。一度仕事で使った際、なぜかしっくりきてしまい、以降どこへ行くのにもかけるのが当たり前になってしまった。

 クローゼットには、綺麗に折りたたまれた服と下着、そして外出するときに使うショルダーバッグが仕舞われている。下着は全て同じ物で統一してある。服はさすがに同じ物ではないが、どれも地味な物なのであまり違いはない。だが、衣服にこだわりがないわけではない。地味というだけでどれも洗練されたデザインだし、自分の体形にフィットした物を選ぶようにしている。

 キッチンは、明らかに他の箇所よりも物がたくさん置かれており生活感が滲み出ている。御堂の数少ない趣味の一つが料理だからだ。シンクとコンロの間には様々な調理器具と調味料があり、冷蔵庫にはぎっしりと食品が詰まっている。

 さらにトイレとバスルーム、そして玄関……。御堂は、全ての確認作業を終える。

 今日も特別、おかしなところはなかった。部屋に関しては――。

 洗面所に行き顔を洗う。鏡に映る自分の顔をたしかめる。だが部屋ほど細かくは見ない。御堂は自分の顔があまり好きではなかった。童顔で中性的な顔立ちをしており一人前の男としてふさわしくないように思える。だから、すぐに鏡から目線を外す。

 顔をタオルで拭くと、キッチンに移動し、やかんで温めた白湯を一杯飲む。

 そしてリビングに戻ると、エリック・サティを聴きながらフローリングの上で入念なストレッチを始める。今度は、体全体の確認作業だ。シャツを脱ぐと、その顔つきからはおよそ想像できない引き締まった体が露わになる。体には無数の古い傷が刻まれている。どれも仕事中か修業期間についたものだ。

 ストレッチをしばらく続けていると、すぐに汗を掻き始める。それは一時間もすれば水溜まりを作るほどになるのだが――。

「おい、早く驚けよ」

 背後から突然声をかけられた。

 御堂は、体をぴたりと止める。鼓動がやや速まっている。鼻から大きく息を吸いこみ、また吐き出す。まさか話しかけられるとは思いもしなかった。まさに、今驚きましたと言いたい気分だ。

 実は、先程から、ずっとおかしなものが見えていた。いや、『先程』どころか目を覚ましてからずっと見えていた。開口一番ならぬ開眼一番で、目を開くと目の前にそれがいたのだ。パートナーが言っていた『早起き推進委員会』が一瞬頭をよぎったが、それにしてはいささか奇妙な姿をしていた。

 それは、部屋の確認作業をしている間も、ずっと御堂の側にいた。無言でこちらを見つめていた。顔を洗っているときも鏡越しに。それでも御堂は、それを放置しておく事にした。日常を取り戻す作業のほうが大事だったからだ。今は、非日常と向きあう時間ではない。そのうちに消えるのではないかという甘い期待もあった。

 御堂は、とりあえず無視をして再びストレッチに集中する事にする。だが――。

「いや、だから無視するなって。お前俺の事が見えているんだろ、何度か目があったもんな」

 と、またしてもおかしな何かは、話しかけてくる。しかも今度は、御堂の目の前へと移動して来る。ここまで干渉してくるのか。どうやら、これ以上この問題を保留にしておく事はできないらしい。御堂は、一つため息を吐くとおかしな何かと目をあわせる。


 それは、プカプカと宙を漂う体の透けた男だった。


 御堂は、すぐにこのおかしな何かを『幻覚』だと決めつけた。部屋におかしなものがいるのではなく、自分がおかしくなったのだと。仕事で疲れているのだと。御堂の仕事はそれほど過酷なものだ。だからこそ、ルーティーンを最優先した。日常を取り戻せば、精神も平常に戻るのではないかと思ったのだ。

 御堂が黙って観察していると、おかしな何かは「というかお前なんでそこまで冷静でいられるんだよ」と不満そうに言ってくる。

「目を覚ましたら昨日自分が殺した奴が枕元に立っていたら、まず『うわぁ!』って飛び起きるだろう。なんで、俺を無視して部屋を見回ってんだよ。恐怖で慄いて、凍りつけよ。なんで、ストレッチしてじんわり汗掻いてんだよ。お前正気か?」

 異常な存在に『お前は正気か』と言われても、あなたを見ているのだから正気ではないのかもしれません、と返すしかないのだが、たしかに目の前の男は御堂が昨日殺した男と同じ姿をしている。

 ボサボサ髪に無精髭、よれよれのジャケットにジーンズに履き潰されたスニーカー。昨晩殺した探偵の東馬京そのものだ。

 ――宙を浮いている事と体が透けている事を別にすれば。

 だが、昨日殺した男が目の前に現れたぐらいで御堂は声をあげたりはしない。

「すいません、あなたは僕の幻覚ですよね?」

 と冷静に問いかけてみる。幻覚に『幻覚ですか?』と尋ねる事ほど滑稽な事はないのは分かっているが、自分自身に語りかける感覚でこの状況を自己分析する事にしたのだ。

「おいおい、なんで俺が幻覚になるんだよ。あのな、幻覚っていうのはパニックになっている奴が見るもんだろ。お前今、慌てているか? いたって冷静だろ」

「いえ。幻覚は、自分では冷静だと思っていても見たりしますよ」

「あー言えばこう言うんじゃねーよ。俺のこの姿をちゃんと見ろよ。普通は幽霊を疑うだろうが」

 昨日殺した男がスケスケの体で現れている時点で何が普通かを論ずるのは難しいと思うのだが、御堂からすればこの東馬京の姿をした何かは幽霊と呼ぶには少々物足りないように思える。たしかに宙を浮き体も透けているが、足はあるし血だらけというわけでもないからだ。それこそ、一般的な普通の幽霊の姿とも違うのではないか。

 それに――。「幽霊にしては、怨念のようなものが足りない気がするんですが」

 東馬の姿をした何かは不満気な表情こそ浮かべているが、憎悪と呼ぶほどのものでもない。

「いやいや、お前の事を無茶苦茶恨んでいるよ。実際にお前が寝ていたときに、こうして首を絞めようとしたんだけどな」

 と東馬の姿をした何かは右腕を御堂の顔めがけて振ってくる。だが御堂は上半身だけ反らし躱す。

「おい、何よけてんだよ。話が進まないだろ」

 そう言われても体が無意識に動いたのだから仕方がない。

「まぁいいや」と東馬の姿をした何かは、今度はテーブルに向かって右腕を振る。

 するとその右腕は、テーブルもその上に置かれた伊達眼鏡も動物図鑑もするっと通過して行く。

「なっ、俺の体はありとあらゆる物に触れられないんだ。だから、お前の首も絞めようと思ったけど何もできなかったんだよ。というかな、お前何俺を殺しておいて、普通にぐーすか寝てんだよ。おかしいだろ。ほら――」

 と東馬の姿をしたおかしな何かは、顔を近づけてきてくんくんと嗅いでくる。幻覚であるにしても幽霊であるにしても、嗅覚があるんだなと御堂は思う。

「酒の匂いもしねぇじゃねぇか」

「――どうして、僕がお酒を飲まないといけないんですか。そもそも、お酒飲めないんですが」

「飲めない酒を飲むくらい思い悩めって言ってんだよ」

「ですが、睡眠薬は飲みましたよ。仕事を終えた日は、やはり気が張っているんで」

「えっ、あっ、おぉ、そうか。まぁ、それなら……って、いやそうじゃねぇよ! というか、お前今、『仕事』って言ったな。っていう事は、お前は――」

「えぇ」

 幻覚にわざわざたしかめられなくとも、御堂は――プロの殺し屋だ。

「殺し屋だったら、なおさら俺が幻覚だと決めつけるのはおかしいだろ。お前、俺を殺して心が痛んだか?」

「いえ全く」

「即答はやめろよ、俺が傷つくだろ。まぁ……いいや、ともかくお前は誰を殺しても罪悪感を抱かない、そうだろ?」

「いえ、それは違います」御堂はきっぱりと否定する。「これまでの仕事で何度か思い悩んだ瞬間はありました。今回は、特に何も思わなかったというだけです。あなたはなんというか、周囲からとても嫌われていたんで」

 東馬の姿をした何かは、ハッと鼻で笑う。

「何を言ってやがる。それじゃあ、まるで俺が殺されても誰も悲しむ人がいないみたいじゃねーか」

「えぇ、僕が調べた限りではそうでした。むしろ『あいつ死なないかな』って言っている人のほうが多かったです」

「はっ? 誰だよそんな事言った奴」

「誰だよと言われても、数えきれないくらいいました」

 これは事実だ。東馬京は、数多くの難事件を解決してきた名探偵だが、その口の悪さから世間の好感度は恐ろしく低く、『嫌われ探偵』と呼ばれているほどだ。

「あっそ。まっ、まぁ……だったらなおさら、お前が思い悩んでねぇっていうんだったら、俺は幻覚じゃねーだろ。幻覚じゃないって事は、やっぱり俺は幽霊だ! 名探偵の幽霊だ!」

 東馬の姿をした何かは、さらりと論点をすり替え、開き直りともとれる態度で胸を張る。御堂は思わずため息を吐きそうになる。

「およそ名探偵とは思えない非論理的な主張ですね」

「いいんだよ、時には突飛な発想も必要なんだ。大体、もし俺がお前の幻覚だったら、俺が今保有しているこの記憶はなんなんだよ」

 東馬の姿をした何かが自らのこめかみのあたりを指でトントンと叩く。

「ほら、例えば俺の好きな食べ物は何か分かるか?」

「アメリカンドッグでしょ。それも、一番下のカリカリした衣のところ」

「おっ、おい、なんで知ってんだよ?」

「一応、ターゲットの好きな食べ物は調べるんです。毒で殺すこともあるんで」

「そ、そうなのか……。アメリカンドッグの一番下のカリカリのところに毒を塗られなくてよかったよ。それで、死んだら滅茶苦茶かっこ悪いもんな。いっ、いや、そんな話をしてたんじゃねぇ! ――じゃあ、俺の初恋の相手は?」

「それは、知りません」

「ほら見ろ。小学三年生のときに隣の席だった永澤美波ちゃんだ」

「いえ、そう言われても僕はそれをたしかめようがないので。幻覚が勝手に創作している可能性もありますし」

「お前、本当に面倒くさい奴だな。っていうかよ、俺が幻覚なんだったらその幻覚と普通に話しているお前は、相当病んでいる事になるんだぞ。さっきから何もないところに向かって、アメリカンドッグのカリカリとか言ってるんだ。相当やばいじゃねーか」

「はい、それに関しては自分でも危機感を持っています」

「全然、持っているように見えないけどな」

 それは御堂が感情をあまり表に出さないからだ。実際に、内心では強い焦りを感じていた。昨晩殺した男と『あなたは幻覚だ』『俺は幽霊だ』と言いあっているこの状況は、異常以外の何ものでもない。御堂は育ての父親の言葉を思い出す。御堂を一人前の殺し屋に仕立てたのは、育ての父親だった。

『いいか禅。殺し屋の精神っていうのは、ピッチャーの肩と同じだ。仕事をすればするほど徐々にすり減っていくんだ。そしてある日、全く使い物にならなくなる』

 自分の精神は、知らず知らずのうちにすでに限界に達していたのだろうか……。

 東馬の姿をした何かは、なおも狂犬病にかかった野良犬のように吠え続けている。

「というか、なんで俺がお前の心配しなくちゃいけないんだよ。俺はお前に殺されたんだぞ。ふざけんなよ! 俺は恨みに恨みまくってるからこうしてお前の前に現れたんだ」

 と、エリック・サティを流していた携帯電話が、着信を示す無機質なベルに変わる。

 御堂は、東馬の姿をした何かを無視し、携帯電話を手に取る。ディスプレイには電話番号が示されているだけだが、御堂には誰だか分かった。そもそもこの携帯電話にかけてくるのは一人しかいない。

 仕事を仲介してくれるパートナー――袖崎華輪だ。通話のボタンをタッチする。

「はい、もしも――」

『禅君! ちょっとテレビつけてみて!』

 その張りつめた声は、御堂の体全体に響き即座に緊張を走らせる。華輪がこのように取り乱す事自体が珍しい。下駄の鼻緒が切れるよりもずっと明確な不吉の前兆だった。携帯電話を耳に当てたままテレビをつける。

 隣で東馬京が、「おい何勝手に電話に出てんだよ。俺との話が済んでねぇだろうが」と騒いでいたが、それに構っている余裕はなかった。

 ちょうど朝のニュース番組が流れている。アナウンサーが少し興奮気味にカメラに向かって語っている。まるで唾がこちらに降りかかってきそうなほどだった。アナウンサーがいるのはどこかの病院の玄関前。別の局のスタッフや中継車が映りこんでいる。

 だが、テレビから全く音が聞こえない。音量がゼロになっているからだ。御堂はほとんどテレビを見ないので、前回の記憶が辿れずどうして音量が消えているのか分からなかったが、とりあえずテレビの側面にある音量のボタンを押した。

 徐々に興奮したアナウンサーの声が聞こえてくる。

『――こちら、私立探偵の東馬京さんが運びこまれた病院の前です。東馬さんは昨夜未明、この病院に搬送され緊急手術を受けました。なんとか一命は取り留めましたが、現在もなお意識不明の重体となっています』

 太陽が消滅したかのように、目の前が真っ暗になる。体が痺れ、先程音量を上げたばかりのテレビから何も聞こえなくなる。

 ――一命を取り留め? 僕は、失敗したのか?

『……くんっ! 禅君! ちょっと、聞いているの?』

 電話口から華輪の声が聞こえ、どこかに吹き飛んでいた意識が徐々に目の前に戻ってくる。御堂は、なんとか「あっ、はい」と答えたが、それでも体の痺れは残っており、自分の声が別人のように聞こえた。

 ――でも、失敗したのだとしたら、これは一体……。

 東馬の姿をした何かは、御堂に向かって「おい、俺の話を聞け。俺はお前に殺され――」と喚いたところで、アナウンサーの声が耳に入ったのか、目を大きく見開き素早く振り向いてテレビを凝視した。

「こ、殺され、てないな。……じゃあ俺は、何?」

 それを聞きたいのはこちらのほうだ、と御堂は思った。


2


「少し相談したい事があるので、今からそちらに向かいます」

 御堂は、そう言って電話を切ると、深く息を吸いこんで目を閉じた。

 そのまま呼吸を止め、水中にいるイメージで体全体を弛緩させる。瞼の裏に見える光の残像だけに意識を向けながらギリギリのところまで我慢し、一気に息を吐き出す。

 すると幾分冷静さを取り戻す事はできた。やらなければいけない事と、考えなければいけない事の優先順位がつくほどには。今はよく分からない何かに構っている場合ではない。そのよく分からない何かは、いまだパニック状態だ。

「なんで生きているんだよ、一度死を受けいれたのに。気持ちの整理がつかねぇよ、心の中がゴミ屋敷だ」と喚いている。

 御堂は、無視し即座に準備を始める。

 まずは服を着替える。シャワーを浴びるか迷ったが、汗もすっかり乾いていたので結局やめた。青と黒のネルシャツに細身のジーンズ。着替え終えると、伊達の黒ぶち眼鏡をかけ携帯電話をズボンのポケットに入れ、クローゼットの中に入れていたショルダーバッグを肩から斜めにかけ背中に回す。ショルダーバッグの中には、筆記用具と育ての父親の形見である銀のシガーケースが入っているだけだ。普段は、殺しの道具は持ち歩かない。

 部屋を出る。

 と、東馬の姿をした何かも「どこ行くんだよ、今はお出かけしている場合じゃないだろ」と不承不承な態度を見せながらもついて来る。別に一緒にいる理由はないし、できる事ならこのままどこかへ消え去って欲しかったのだが、御堂はとりあえず無視を続けた。外では慎重にならなければいけない。

 ――これが他人に見えるかどうかたしかめなくてはいけない。

 御堂は五階建ての古いマンションに住んでいた。四階の角部屋だ。廊下を歩きエレベーターの前でボタンを押すと、ギシギシ音を立てながら籠が降りて来る。

 上階に住む老婆が一人乗っていた。

 扉が開き、老婆と目があう。御堂は、老婆に悟られないように警戒心を高めながら、小さく会釈をしてみる。

 老婆は、優しく微笑みながら会釈を返してくれた。ただそれだけだ。どうやら老婆には、御堂の側を漂う体の透けた男は見えていないようだ。

 その後も東馬が、老婆の体を何度もすり抜けたり、「おいばあちゃん、俺こいつに殺されかけたんだよ」と話しかけたりしたが、やはり老婆にはなんの反応もなかった。

 御堂は、少しだけ緊張を解しマンションの駐輪場に行くと、停めてあったフラットバーのロードバイクにまたがり、勢いよく漕ぎだす。

 目の前に広がるのは、東京の木場という町。その名の通り元々貯木場があったところで、海へと繋がる川がいくつも通っているいわゆる下町だ。近年では都心へのアクセスがいい事もあり高層マンションがいくつか建ったが、都心の中では比較的静かなほうだろう。普段であれば、自転車を走らせると風が潮の匂いを運んできて心地いいのだが……。

 しばらく走っていると東馬の叫び声が聞こえてくる。

「おい、まてまてまて!」

 もちろん御堂は全く待つつもりはないので、背後に目だけやると後方上空を大の字になってついて来る東馬が見えた。どこまでも追いかけて来るというのは怪談話にはありがちだが、それにしては東馬の表情は辛そうだ。追いかけて来るというよりかは体が引っ張られているようで、まるで凧のようだった。

 どうやら東馬の姿をした何かは、どこまでも自由に動けるというわけではないらしい。今の状況から推測すると、御堂を中心に半径五メートルくらいの範囲から離れると、意志とは関係なく体が引っ張られてしまうようだ。

 これはどういう事だろう。幻覚に活動範囲なんてあるのだろうか。糸が絡まるように頭が混乱していく。さらに不快感も増していく。御堂もまた、このおかしな何かから離れられないのだから。

 なんとか振りきれないものかとそのままスピードを上げたが、東馬の姿をした何かは、同じ距離を保ちつつ凧になってついて来る。御堂は注意深くすれ違う人々の顔を確認したが、やはり老婆同様何も見えていないようだった。


3


 袖崎華輪は、錦糸町駅の北側にある繁華街の路地裏で小さなバーを営んでいた。

 錦糸町は、御堂が住む木場からは自転車で二十分ぐらいの距離にある。今日は急いだので、十分でついた。華輪のバーがある雑居ビルの前に自転車を停めると、地下への階段を下って行く。背後からぐったりとした様子でついて来る東馬が、「お前わざと速く漕いでいたろ、覚えていろよ」と因縁を吹っかけてきたが、無視を続けた。

 階段を下りきると『Water Lily』と書かれた分厚い木の扉が見える。まだ朝の九時前なので扉の前には『close』の看板がかけられているのだが、御堂は遠慮なく扉を開き中に入る。

 脚の長いカウンターチェアに座る華輪の後ろ姿が見える。カウンターの上にどこかから持ってきたテレビが置かれており、華輪は肩肘をつき顎を掌に乗せてそれを熱心に見ているようだった。華輪はバーでは、いつもチャイナドレスを着ているため、スリットから長い足が覗いており、御堂には岩の上で眠る白い蛇を連想させた。

 扉の上部についた小さな鈴が鳴っているが、特に反応はない。

「あの、華輪さん?」と呼びかけると、華輪は「ん?」と肩を上げ、目を擦りながら振り返る。どうやら眠っていたらしい。

 と、東馬が、振り返った華輪の顔を見て声をあげる。

「おい、誰だよこの美人」

 たしかに華輪は、付き合いの長い御堂ですら時折どきりとしてしまうほどの美貌を持っている。大きな目に長い睫、真っ直ぐに通った鼻筋、程よく厚い唇。まるで男を惑わすために生まれてきたような顔だ。実際に、華輪目当てでバーを訪れる常連客も少なくなく、店は常に繁盛している。

 と、華輪の焦点がゆっくりと御堂から東馬へと移る。そして、一呼吸空けた後、御堂に向かってため息交じりに呟く。

「……禅君、あんた何連れてきてんのよ」

 東馬が、先程よりもさらに大きく驚きの声をあげる。

「おっ、おい! この美人さん、俺の事が見えているぞ!」

 よほど驚いたのか、触れる事もできないのに御堂の肩を揺すろうとまでしてくる。

 だが御堂は、驚きよりも落胆のほうが大きかった。東馬が触れる事のできなかった肩が思わずがくりと下がる。そして、突きつけられた事実を受け入れるように意識的に口にする。

「……この人はやっぱり幽霊なんですね」

 東馬は、目を見開きながら壊れた扇風機のように御堂と華輪を交互に見つめる。

「おい、どういう事なんだよ。説明しろよ」

 この場で最も驚くべき存在が一番驚いているというシュールな光景だ。

 と華輪が、テーブルを指でトントンと叩きながら、

「わたしが教えてあげるわ、探偵さん」

 と言う。どうやら、東馬の声も聞く事ができるらしい。

 華輪は、即座に東馬の事を受け入れたようで落ち着き払った声を出し「まぁそこに座りなさいよ」と御堂と東馬にカウンターチェアを勧める。さらに、腰を上げカウンター裏に回りこむと、自らにミネラルウォーター、御堂には炭酸水を差し出す。そして、東馬には小さな小皿に載った塩を出した。

「なんで塩なんだよ」とすかさず東馬が突っ込むと、華輪は「冗談よ」と笑う。

 御堂の置かれている状況はまさに冗談のようであったが、今は笑う気にはなれなかった。ともかく勧められた椅子に腰を下ろす。東馬はフワフワと浮いたままだ。体が透けるため、腰を落ち着かせる事はできないらしい。

「浮いていたほうが座りが良い」とわざと混乱を招くような言い回しをし鼻を鳴らす。

 華輪は、ミネラルウォーターを少し口に含むと説明を始める。

「わたしはね、簡単にいうと霊能力みたいなものがあるのよ。父の血筋の人はみんな見えていたらしいから、それを引き継いだのね」

 東馬が即座に口を挟んでくる。

「ちょっと待てよ。霊能力とかお前、急にそんな眉唾な話されても――」

「あなたよく、その透けて浮いた体で言えるわね。幽霊がいるんだから、その幽霊が見える人がいても何もおかしくないでしょう」

「いや、そうなんだが、さっきこいつに電話かけてきたのは美人さん、あんただろう。って事は、殺し屋の仲間って事だよな。殺し屋の仲間に霊感があるのは、都合がよすぎるだろ」

「それは、順番が逆よ。幽霊が見えるから殺し屋になったの。まぁ、正確に言えば、殺し屋の元締めなんだけどね。わたしの何代か前の先祖が、幽霊の復讐を手伝ったのが始まりで、わたしの家は代々、そういう仕事をしているの」

 華輪は、そう言って、小指で小皿の塩を意味もなく一度くるりと混ぜる。

「だったら、どうして俺だけなんだよ。お前ら、俺以外にも何人も殺してるんだろ。幽霊で溢れ返ってなけりゃおかしいじゃねぇか。それに、あれは? あれは、どう説明すんだよ」

 東馬は、そう言ってテレビを指さす。テレビでは、ちょうど東馬のニュースを取り扱っているところだった。御堂もその事には疑問を抱いていた。

 ――東馬はまだ生きているのだ。

 以前、華輪から『わたしは幽霊が見える家系だ』と説明を受けた事はあるが、突っ込んで聞いた事はなく幽霊の知識はないに等しい。自分には関係のない事だと興味がなかったのだ。

 華輪が、「あぁ」とテレビ画面にちらりと目を向けて答える。

「幽霊っていうのは、そもそも体から飛び出した魂なのよ。で、魂っていうのは、元の体がなければ存在できない。つまりね、『幽霊イコール生霊』ってわけ。だからあなたの存在は異常だけれど、幽霊という枠組みで考えればいたって正常なの」

「おい、待て」と東馬が反論する。「じゃあ、俺は生霊であり魂って事か? ならどうしてすぐに元の体に返らない? なんで、この殺し屋から離れられないんだ?」

「まぁそう焦らないで。順を追って説明してあげるから」

 華輪はそう言うと、カウンターからナッツの入った袋を取り出しつまみだす。御堂も勧められたが手を出さなかった。自分で決めた時間以外の食事はとらないようにしている。華輪が説明を続ける。

「――そもそも、魂と体というのはね、強い糸のようなもので結ばれているの。魂を風船に例えると分かりやすいかしら。体が風船の糸をしっかりと握っているような感じ。で、その糸のようなものは、死んだ瞬間に――心臓が止まった瞬間に――切れてしまう」

 御堂は、真っ青の空に消えていく白い風船を思い浮かべる。

「けれど稀に、この世に強い未練を持った人が、『あぁ、ダメだ。このままだと死んじゃう。その前に誰かに一言言っておきたい』って念じて、自ら糸を切って自分の体が死ぬまでのほんの一時の間だけ、別の人間にその糸を持って貰って、この世に存在し続ける事がある。それが、生霊であり幽霊ってわけ」

 そう言って華輪は、何か含みのある顔でこちらを見つめてくる。

「まぁ、通常は、一番強く思った人にとり憑くから、恋人とかになるんだけれどね」

 東馬がなぜか少し顔を赤らめながら、「たしかに、お前の事を思っていたな」と言ってくる。

 御堂は「ありとあらゆる意味で、気味が悪いんでやめてください」と返しておく。

 華輪がまとめる。

「まぁそういう事だから、世間に溢れる怪談話はほとんど嘘だし、生霊になる事自体とても珍しい事で数自体少ないのよ。ちなみに生霊が見えるのは霊感がある人ととり憑かれた人だけで、霊感がある人はこの世にほとんどいない」

「いまいち納得できないな」と東馬が不満気に漏らす。さらにこちらを見て「お前は今の説明で納得したのか?」と問いかけてくる。

 御堂は十分に納得していた。そもそも華輪とはパートナーになるときに『互いに絶対に嘘を吐かない』と約束している。その華輪が言っているのだから疑いようがない。だが納得したのは、東馬がなんなのかという話のみで、この状況を受け入れたわけではない。

「あの華輪さん」と御堂は手をあげて言う。「で、いつまでこの人は僕にくっついているんですか? さっきの話では、一言言いたくて幽霊になるという事でしたが、この人、もう何言も僕に言ってきていますよ」

 いたって真剣に言ったのだが、なぜか華輪は微笑んだ。

「生霊というのは、限定的な存在だからそんなに長くはないわよ。生霊が生霊でいられなくなる条件は、三つある。さっきも言った通り、体が死ねば魂も消滅する。つまりこの探偵さんの心臓が止まれば、魂も消える。次に、生霊が自分の意志で体に戻ってもいい。そのときは、憑かれている人が生霊の体の近くに行く必要があるけれど。最後に、憑かれている人自身が死んでしまっても終わり。生霊となった魂も行き場所を失い消えていく。よし、簡単にまとめておいてあげよう」

 そう言って華輪は、近くにあったコースターの裏側に書きはじめる。


 1、生霊の体が死ぬ事

 2、生霊が体に戻る事

 3、憑かれている人が死ぬ事


 だが御堂は、それを受け取る事なく席を立つ。一つ目の選択肢を聞ければそれで十分だった。

「ではこの人にとどめを刺してきます」

 ――最初からそうしておけばよかったのだ。

「待ちなさい!」

 華輪の鋭い声が背中に突き刺さり、扉に手をかけたところで体を止める。

「この探偵さんを殺す事には賛成だけれど、今はダメ。さすがの禅君でも、あそこに単身で突っ込むのは自殺行為だわ。ほらテレビをよく見てみなさい」

 振り返りテレビに目を向けると、病院の様子が生中継で映し出されていた。世間から嫌われていたとはいえさすが有名な名探偵だ、マスコミと警察官と野次馬でごった返している。それはまさにお祭り騒ぎで、今にも病院を神輿に見立てて持ち上げそうなほどの熱気で溢れている。たしかに華輪の言う通りだ。だが、どうする事もできないこの状況と、東馬を仕留めきれなかったという事実からくる苛立ちを抑える事はできない。御堂は、思わず掴んでいた扉のノブを握り潰してしまいそうになる。

 と、華輪が諭すように言う。

「らしくないじゃない禅君」

 それも自覚している。殺し屋は、常に冷静でいなければ死に直結する。だからいつもなら余計な感情は、腹のずっと底の深い沼に沈めてあるのだが、今はどうしても抑えきれない。マグマのように沸き立っている。

 華輪が続ける。

「ねぇ、そろそろ教えてくれない? どうしてこの探偵さんを殺しきれなかったのか」


4


「僕は、大きなミスを二つ犯しました」

 華輪にそれを説明するのはどんな拷問を受けるよりも辛い作業だった。昨日の事を思い出すと、御堂は奥歯を砕きそうになるほど食いしばってしまう。

 まず一つ目のミスは、一発で東馬を仕留めきれなかった事だ。

 今思えば、東馬に惑わされていたのだろう。

 東馬は、他のターゲットと明らかに違っていた。銃を向けると即座に自らが置かれた状況を理解し、ポケットから何かを取り出すと「これは、防犯ブザーだ」とこちらの心理を揺さぶってきた。ちなみに後で分かったのだが取り出したのは、防犯ブザーではなく十徳ナイフだった。

 微かに手元が狂い、心臓を狙ったのに、即死とはいかなかったのだ。

 そして二つ目のミスは、とどめを刺さずにその場を離れた事。

 東馬が、死ぬんだったら自分の手で死んでやる、と言って手に持っていた十徳ナイフで自らの左手首を切ったからだ。

 御堂がそう説明をすると、東馬は鼻を鳴らし勝ち誇る。

「あれは見事な作戦だった。俺の左手首には、マイクロチップが入っていてな。脈が止まると、警察と病院に連絡がいくようにしてあったんだが、それを自ら取り出したってわけよ」

 ――どうして、この男の頭にもう一発叩きこまなかったのだ。

 悔やんでも悔やみきれない。――今回が初めての失敗だったのだ。

 御堂は、十八歳のときから殺し屋の仕事を始め現在までの四年間、一度も失敗した事はなかった。

 御堂が説明をし終えても、華輪はどこか納得のいかない表情を浮かべていた。

 理由は分かる。あまりにもそれは御堂らしくない。特にとどめを刺さなかったという点だ。死んだ事を確認せずに現場を立ち去った事などこれまで一度もなかった。

 実は、華輪に伝えていない事が一つある。

 ターゲットが死ぬ直前に吐く言葉は、大きく分けて二つしかない。『助けてくれ』か『やれるものならやってみろ』だ。だが、あのとき東馬は――十徳ナイフで自らの左手首を切った後――本当に悔しそうに声を振り絞り、こう言ったのだ。


 ――『本当に俺は死ななくちゃいけないのか?』


 冷静になってみれば、自分で手首を切っておいて何を言っているんだと思うのだが、あのときはなぜかその言葉が、猛禽類の爪のように心を引っ掻き抉った。酷く動揺してしまい、逃げ出すようにその場を立ち去ってしまったのだ。これは言い訳になってしまうかもしれないが、そもそも今回の依頼には、どこか納得しきれていなかったからかもしれない。

 御堂は、その事を追及されるのが嫌で話を切り上げる。華輪とは『絶対にお互いに嘘を吐かない』と約束したが、自分ですらよく分からない感情については、しっかりと説明する自信がなかった。

「――これから僕はどうすればいいんでしょうか?」

 華輪は、腕を組んで一度目を閉じ大きく息を吐き出す。納得はしていないが受けいれてくれたようだ。再び目を開くと言う。

「そうね。真っ先にやらなければいけないのは、信用回復よ。あのシルバーチップが、初めて仕事を失敗したんだから。もうすでに、裏社会の人たちがざわつき始めているもの」

 御堂は『シルバーチップ』という名が華輪の口から出てきた事に思わず片眉を上げた。それは、殺し屋としての家名みたいなものなのだが、東馬の前で言っていいのだろうか。

 と、案の定、東馬が突然口を挟んでくる。「おい、ちょっと待てよ。シルバーチップって、あのシルバーチップか?」

 だが華輪に慌てる様子はない。どころか、詳細に説明を加える。

「正しくは二代目なんだけどね。元々は、禅君の師匠が名乗っていたの」

 御堂は、思わず「ちょっと華輪さん」と口を挟むが、東馬は大きく見開いた目をこちらに向けてくる。

「シルバーチップって俺でも知っているくらい有名な殺し屋だぞ。お前が、そうだったのかよ?」

 そしてさらに、今度は目を細めて嬉しそうに笑いだしたかと思うと、

「そうかそうか、あのシルバーチップでも俺は仕留めきれなかったか」

 と胸を張る。

 御堂は、うんざりしながら華輪に言う。

「……『信用回復』も何もこの人がいるのに、仕事にならないでしょう。どんな邪魔をされるか分かりませんよ。次も失敗なんて事になったら、それこそ僕はもうおしまいじゃないんですか」

 華輪はそれでも笑みを崩さない。

「大丈夫よ。この探偵は、あなたの邪魔はしないわ。むしろ協力してくれるはずよ」

 御堂は、華輪が何を考えているのかよく分からなかった。本気で探偵に殺し屋の仕事を手伝わせようとしているのだろうか。

 東馬も不満があるようだ。

「おい、ちょっと待てよ」

 と言って、顔を険しくし、さらにこうまくしたてる。

「それは冗談でも頷けないな。華輪とか言ったっけ、俺は探偵だぞ。探偵っていうのは、正しい事を見つけるのが仕事なんだよ。お前らの悪事に加担するわけねぇだろ」

「あら、わたしはいたって真剣よ。それに探偵の仕事は、『調査』じゃないの?」

「それは、ただの探偵の話だろ。俺は、ホンシメジの『名探偵』様なんだよ!」

「ホンシメジ?」

「こっちの話だ、気にすんな」

「あっそ、じゃあまぁそれでいいわ。でもね、ホンシメジの探偵さん、わたしたちだって、あなたを殺すために色々と調べたのよ。あなたが何を苦手としているかちゃんと分かっているの」

 東馬が、その言葉に身構える。

「あなたが最も嫌うのは、『暇』でしょ」

「んぐっ」と東馬が明らかに痛いところをつかれたといった顔で唸る。

「さっきかっこいい事言っていたけれど、ちょっと想像してごらんなさいよ。普段の禅君を。この子、家にいるときはずっと動物図鑑を読んでいるのよ。禅君にとり憑いているあなたも、それに付き合わなくちゃいけないのよ」

 なんだか少し馬鹿にされている気がする。東馬が想像して顔を青ざめさせているのも気に入らない。

「それにね、仮にあなたが仕事を邪魔してごらんなさい。そうなると禅君は捕まるわよ。ほら、想像してみなさいよ。この退屈な青年と一緒に牢屋に入っている自分を」

 ――今、はっきりと『退屈な青年』って言った。

「たしかに、そいつはハードな拷問だ」

「でしょ。そうならないために、あなたはわたしたちの仕事を手伝うべきよ」

「いや、だがそれとこれとは――」

「それに、あなたは『悪事』と言ったけれど、わたしたちにだってルールはあるし誰でも殺すわけじゃないの。信念だってある」

「なんだよ、その信念って」

「――殺さなくてもいい人は、殺さない」

 単純明快でしょと華輪は胸を張る。

「ふざけんな。じゃあ、俺にも殺されなきゃいけない真っ当な理由があったのかよ?」

「えぇ」

 東馬がじっと華輪の目を覗きこむ。華輪もまた東馬から目を逸らさない。二人の間に目には見えない磁場のようなものができ上がっている。御堂はその磁場から弾き出され、蚊帳の外だ。二人はしばらくじっと睨みあい、互いの腹の内を探りあっているようだった。そして、納得したのか東馬が一つ頷く。

「ほう、なるほど。オーケー、分かった。協力するかはともかく邪魔はしない。ただしこちらからも条件が一つある」

「――誰があなたを殺すよう依頼したのか教えろ、でしょ」

「察しがいいな」

「まぁ、あなたが禅君にとり憑いた目的を考えれば、それぐらいはすぐに分かるわ。……いいわよ。次の仕事が上手くいけば、教えてあげる」

 東馬と華輪は、互いの顔を見あいながら含み笑いを浮かべる。それは、殺し屋の御堂ですら、戸惑いを覚えるほどの悪人の表情だった。つい先程、『正しい』がどうとか『信念』がどうとか言っていた人たちとは思えない。

 御堂はそこでようやく話に割って入る。このまますんなりまとまるのは不満だった。

「ちょっと待ってください。仕事を手伝わせたら、こちらの事を色々と知られる事になるんですよ。仮に、この人の傷が癒えて体が魂に戻ったらどうするんですか?」

「それは心配しなくてもいいわ。実は、まだ二つばかり、生霊についてあなたたちに言ってない事があってね。もし、そうなったときは、わたしがなんとかしてあげる」

 御堂は「ですが」と言うのが精一杯で口籠ってしまう。まずい状況だ。華輪に押し切られ何も言い返せない。だが、まるで納得はできていない。世から『嫌われ探偵』と呼ばれている男の生霊に憑かれた状態で仕事をするなんて、あまりに無謀だ。

 と華輪がテーブルの上に置いていた御堂の手にそっと触れてくる。

「禅君、気持ちは分かるけれど、何もしなければ引退したと思われるのよ。引退した殺し屋がどうなるか、あなたが一番よく知っているでしょ」

 華輪の大きな瞳に濁りはなく、本気で心配している事が御堂には分かる。

 その瞳の向こうに、育ての父親の末路が映っていた。

 御堂は、その目を逸らすように頭を下げる。

 ――もはや反論のしようがなかった。

 華輪がパンと両手を叩く。場を仕切りなおすように。

「さぁ、という事で、仕事の話をしましょう。これが次のターゲットよ」