プロローグ


「日本のロンドン」とも呼ばれる霧の深い土地、北海道釧路市の、釧路駅から南へ十分ほど歩いていくと、異国情緒溢れる橋が見えてくる。全長124メートル。北海道三大名橋の一つに数えられている幣舞橋を越えた先の向こう。交通量の多い道を逸れて、ひと気のない道を左に右に進んだ奥の、そのまた奥に小さな庭と、離れを持った宿が一軒建っている。

 大正時代の古民家を改装して造られたというその宿は、全てくすみがかった焦げ茶色の杉板で覆われている。玄関は両開きの引戸になっていて、向かって右には「あの」と文字が入った紺暖簾が、左には「この」と文字が入った白暖簾がゆったりと垂れている。表の壁に打ち付けられた「旅籠屋」の看板は雨風にさらされ続けて長いのか、文字は薄く掠れていた。

 何度も修復され年季が入ってはいる。けれど、丁寧に手入れされた母屋には独特の温かみと美しさがある。

 宿の名前は《旅籠屋あのこの》。

 霧の街の中にある、知る人ぞ知る小さなお宿だ。



 宿は二階建てになっていて、玄関を入るとロビー兼談話室の役割を兼ねている広間と呼ばれる部屋にでる。広間の奥には、アメリカンチェリーでできた一枚板の分厚い食卓テーブルが鎮座している他、黒電話、アボカドグリーンの共同冷蔵庫、椿の模様が彫られた箱階段など、昔懐かしい物が今も現役で活躍中だ。

 広間の左手、右手、奥に三つのドアがあり、それぞれが台所、事務所、廊下へと続いている。

 受付台で手続きを済ませたら、二階にある客間へと案内される。客室五部屋、全て十畳一間の和室となっており、床の間や押入れがある他には、小さな箪笥や、蔵行灯。端切れで作られた座布団などの小物が客室にしっとりと馴染んで置いてある。

 夏には涼しげな緑のさざめきが、冬にはしんしんと降る雪の音さえ拾えてしまいそうなほど静かな客室には、日常の喧噪を忘れさせてくれるような時間が流れ、仕事や人間関係にくたびれてやって来た人の心をほぐしてくれるのだった。


 そんな宿の前で朝の掃除に精をだす、うら若き女子が一人。彼女は今年から住み込みで働いている新米従業員の、円山丸子、二十一歳。

 目つきの鋭い三白眼と、少年のように細長い手足と癖っ毛の丸子は、〝あること〟がきっかけでOLをしていた東京からこの宿にやって来た。受付番兼、接客兼、雑務担当として働きはじめて、ちょうど五ヶ月目になる。


 そんな丸子の朝は、寝起きしている二階の物置部屋からはじまる。港から聞こえるうみどりの鳴き声で目を覚ましたら、煎餅布団を手早く畳んで窓を開ける。

 釧路には、一年間におよそ百日もの霧の日がある。特に春から夏にかけての朝晩は発生率も高く、例に漏れず本日も宿の外は深い霧で覆われていた。丸子は大きなあくびをふわふわとこぼした。

 今日の霧はとくべつ濃い。そのためか、外の灯籠にはもう灯りがともしてあった。優しい柑子色の灯りが霧の中で暖かく滲んでいる。訪れて来る客人が迷わないようにと、従業員の誰かが気遣ったのだろう。

 空気の入れ替えを終えた次は、着物に着替える。着物は全て宿の主から支給されたものだ。釧路は夏でも涼しいので、見た目が冷たい色は避け、臙脂とクリーム色の着物に、帯は黒の変わり縞柄を選んだ。ところどころに水玉が散っていてレトロで可愛い。最初は煩わしく感じた着物も、着てみると適度な緊張感があり、背筋がぴんと伸びて所作の一つ一つが気にかかる。毎朝柄や色を選ぶのも、ときめいて楽しい。

 髪をまとめながら広間に下りると、昆布出汁のいい香りが漂ってきた。ぐぅ、と鳴った腹をさすりながら台所を覗いてみると、がっしりとした体格の大男がのんびりと、同じ顔をした三人の子供達がせっせと朝食の準備に動いていた。行動スピードにそれぞれの性格がよく表れている。四人全員、「旅籠屋あのこの」で働く従業員だ。

「おはようございます」

 丸子が声をかけると、「おはよう」と賑やかな挨拶が返ってきた。

 丸子は次に、たすきで袖を捲し上げて、朝の日課である掃除にとりかかった。

 まず一階をホウキで掃く。それが済んだら、水を張ったバケツにさっぱりとしたペパーミントのオイルを数滴垂らして雑巾を浸ける。何でも馴染みの店の店主によれば、ミントの香りにはリフレッシュ効果の他に、殺菌効果もあるので掃除に最適なんだという。

 固く絞った雑巾でまずは広間の床から。それが終われば、廊下、洗濯室、浴場、トイレの順番に手際よく進める。爽やかな香りが宿に広がっていく。

 じんわりと汗をかいたところで広間に戻ると、ヒゲと毛足の長い大きな灰猫が受付台の上で丸くなっていた。この宿の看板猫のヨイチだ。毛が湿っているから外で遊んでいたのかもしれない。ヨイチの頭を撫でながらほっと一息ついた。

 ひとまず一階の掃除を終えた丸子は外にでて、取りこぼしがないかを確認するように宿を見上げた。

 古い宿は、働きはじめた五ヶ月前と変わることなく、今日もゆったりと佇んでいる。

「おーい、丸子。朝ご飯ができたぞ」

 ぼんやりしていると台所の窓から子供達の声がした。はーいと答えて、最後に赤い三角ポストから朝刊と、昨日うっかり抜き忘れたハガキ数枚を抜き取った。ハガキはどれも宿の主や従業員宛になっている。その大半は以前ここにやって来た宿泊客達からの便りで、『また泊まりに行きます』という嬉しいメッセージが添えてあった。自分宛の手紙がないことに、今日も少しがっかりしていると、

「丸子は朝ご飯食べないんだってー」

「あ、待って。食べる食べる」

 戻って来ない丸子にしびれを切らした子供達のイタズラな声がした。丸子は玄関戸をがらりと引いて、急いで広間に駆け込んだ。

 数拍遅れて、宿の中から「いただきます」の明るい声が聞こえてくる。

 玄関口では紺暖簾と白暖簾が、湿り気を孕んだ風に吹かれてふわりふわりと揺れていた。


 さて、今日は一体どんな客人がやって来るだろう?



  遅咲きの桜


「すみません。あの……ここって宿で合ってますよね?」

 その日、細身のグレーのパンツスーツに身を包んだ女性が紺暖簾をくぐってやって来たのは午後二時を回った頃だった。

 今朝、子供達から「吊るしておいて」と渡されたサンキャッチャーを手に、踏み台にのぼっていたところでの来客だったので、丸子は慌てて彼女のくぐった暖簾を確認した。髪の毛を一つに束ねた背の高い女性だ。ケイトスペードのトードバッグから、仕事用らしきA4サイズのファイルが顔を覗かせている。

 宿にはその他に、受付台の上ですぴすぴと寝息をたてている猫のヨイチがいるだけで、あとは皆出払っていた。

「いらっしゃいませ。大丈夫ですよ、安心してください宿ですから」

 慌てたせいで、妙な説明になってしまった。

 踏み台から下りて、彼女の前にスリッパを用意した。広告を一切だしていないマイナーな宿には、誰かからの紹介か、この宿を自力で探してきた客人しかやって来ない。つまり、何かしらの強いご縁に導かれているわけだ。

「道に迷いませんでしたか?」

「ちょっと迷いましたけど、大丈夫でした。実は去年父がこちらに泊まったことがあるんです」

「お父様が?」

「はい。……あ。そういえば予約も何もしてないんですけど、今日ってこちらに泊まることはできますか?」

「もちろんです。今日は予約も入ってないですし、ゆっくりしていってください」

 念のため受付台の中にある予約リストを見てから答えると、客人は「よかったぁ」と気の抜けた声をだした。

「埋まっていたらどうしようかと思いました」

 すいぶんとハラハラしていたらしい。

「大丈夫ですよ。うちの宿、知る人ぞ知るって感じですから。滅多に満室にならないんです」

 丸子はもう一度念を押してから、受付の後ろにある本棚に手を伸ばした。棚には歴代の宿帳がズラリと保管されており、一冊ごとに表紙のデザインが異なっている。宿を訪れた客人には、ここに名前を書いて受付を済ませてもらうことになっている。

 客人は差しだされた宿帳に、「里塚曙美」と自分の名前を記した。まるで教科書のお手本のようにバランスのとれた字だ。

「字、お綺麗ですね」

 丸子がつい感想を述べると、里塚曙美は照れたように笑った。笑うとえくぼができて、少し幼い印象になる。

「子供の頃に、父が硬筆習字の練習ドリルを何十冊も買ってきてくれたおかげかもしれません」

「厳しい方だったんですか?」

「全然。ただ〝大人になったときに絶対に役立つから〟って。それだけ言って、私の部屋にどさっと置いていったんです。やらなくてもよかったんですけど、勿体なくて」

 当時のことを思いだしているのか、里塚曙美は懐かしそうに自分の書いた文字を眺めて、ふいに唇を強く結んだ。

「どうかしましたか?」

 気になった丸子が様子を窺うと、里塚曙美は神妙な面持ちでつぶやいた。

「本当に空いててよかった。私どうしてもここに泊まりたかったんです」

 どうやら里塚曙美には、ここに泊まらなければならない理由があるらしい。丸子は時計を確認した。もうすぐ三時になる。ゆっくりと話を聞くにはいいタイミングだ。

「ちょっとお待ちくださいね」

 丸子は里塚曙美をテーブルに案内してから台所に向かった。ちょうど先週、吉祥寺で喫茶店をしているという宿泊客から美味しい珈琲をいただいたばかりだ。

 珈琲と茶菓子を盆に載せて広間へ戻ると、椅子に腰掛けて、宿の庭に植えられた桜の木を眺めている里塚曙美の姿があった。窓に吊るしたサンキャッチャーの光が、彼女の頬にスクエアカットの煌めきを落としている。

 一瞬、泣いているのかと思った。

 丸子はおまたせしました、と一言添えてから、里塚曙美の前にカップを置いた。

「釧路の桜って遅刻の常習犯らしいです」

「そうなんですか」と相槌をうったばかりの彼女が、突然「えっ!?」と声をあげた。

「まさか、あの庭にある低い木って桜なんですか?」

「はい。あれは千島桜っていう、れっきとした桜の木らしいです」

 丸子は食い気味に詰め寄って来る里塚曙美に圧されつつ、窓の外を指さした。

 主に道北や道東に分布している千島桜は幹が短く、枝が横にぶわっと広がっているのが特徴だ。満開になると、まるで桃色の孔雀が左右いっぱいに羽根を広げたような迫力があるという――全て、今は不在の宿の主に教わったことだが。

「……じゃあ、他にこの宿に桜の木ってありますか?」

 今度は元気なく問いかけられる。雲行きが怪しくなってきた。けれど嘘をつくわけにもいなかいので正直に、

「それが……あの庭にある一本だけなんです」

 丸子が答えると、里塚曙美は目を見開いた。益々、雲行きが怪しくなってくる。

「もしかして里塚さん、桜を見にウチにいらしてくれたんですか?」

「はい。父から珍しくメールが届いて」

 そういえば去年、父親がこの宿に泊まったと言っていた。

「ここの宿の桜が本当に綺麗だったから、仕事が落ち着いたときにでも見に行けばいいってオススメされたんです。写真付きのメールを父が送って来るなんて今までなかったから、ずっと気になっていて」

「お父様とはあまり連絡はとらないんですか?」

「ええ……。ウチの父はとても無口で。おまけに出張続きで昔から家を空けることが多かったから、母はともかく、私となんかはメールも電話もする機会がなくて。そんな中での連絡でしたから、その日は天変地異でも起こるんじゃないかってそわそわしたくらい」

 何かを恥じるように、里塚曙美の声は穴があいた風船のようにしゅるしゅると萎んでいった。皆忙しいのだ。大人になって連絡をとり合わない親子なんて珍しくはない。それでもどこか悲しげな里塚曙美の様子が気になった。

 客人の悲しい気持ちを察知したのか、ヨイチが里塚曙美の足にすり寄っていった。彼女の表情が和らぐのを見届けてから、丸子は考えた。

 さて、どうしたものだろう。

 というのも、釧路の桜は日本で一位、二位を争うスロースターターなのだ。理由は年間を通して涼しい気候が原因だ。

 だから、木々の新緑が滴ってもおかしくない五月の今も、釧路では冷え込む朝晩にストーブをつける家もあるし、新作のシフォンワンピを着ようものならジャケットが必要になる。釧路の春は驚くほど短い。特に今年は四月下旬にうっすらと雪が積もったし、ぐつぐつと煮立った鍋を卓で囲むくらいひんやりしている。春採公園の桜はようやく昨日開花したらしいけれど、宿の桜はまだぐっすりと眠っている。

「すみません。せっかくお越しいだいたのに」

「やだ、そんな。謝らないでください。事前に確認できなかった私が悪いんですし、せっかくだから最初の通り、一泊していいですか? 実は私、北海道に来るのってはじめてなんです」

「もちろんです。古い親戚の家や友人の家を訪れたと思って、ゆっくりとくつろいでいってください」

 桜を見れらないなら帰ると言われずに済んで、丸子はほっと胸を撫で下ろした。

 二階の客室へ案内するまでに聞いた里塚曙美の話では、彼女は二十六歳で、大学卒業後に入社した会社で営業をしているという。男性ばかりに囲まれて、毎日忙しい生活を送っているようだ。東京のキャリアウーマンを想像して、丸子は久しぶりにハイヒールを履きたくなった。



「嬢ちゃん嬢ちゃん。お客さん、夕飯何がいいって言ってた?」

 広間に戻ると、受付台でお猪口と競馬新聞を手にした大男に声をかけられた。分厚い瞼に、がっしりした体格、赤い金魚の柄シャツを羽織った四十代の大男。彼の名前は南郷さん。宿でだす料理は材料の調達から調理まで、他にも備品の修繕やちょっとした力仕事も担当している「旅籠屋あのこの」一番の古株従業員だ。

「特に何も言ってませんでした」

「がははは。そういうのが一番悩むんだよなぁ、おじさんは。嬢ちゃん、もう一回聞いてきてくれよ。駄賃やるから」

 口ではそう言っても、笑ってるあたり実際のところは何も悩んでないのだろう。

 丸子は南郷の空になったお猪口に酒を注ぎ足した。

「リクエストはありませんでしたけど、北海道に来るのははじめてだって言ってたから、豪勢にしてあげてください」

「何だ、久しぶりに〝わけあり〟でも来たか?」

 南郷は分厚い瞼を指でひょうきんにめくり上げて、客間のある二階を見上げた。宿で長く働いている南郷は、丸子よりもずっとずっと勘がいい。

「宿の桜を見に東京から来たそうです。でもまだ咲いてないから」

「ウチの桜は寝坊助だからなぁ。まだしばらくは咲かねえだろうよ」

「温風であっためれば一枝くらい目覚めてくれないでしょうか」

「真顔で面白いこと言うのは反則だぞ、嬢ちゃん」

 チープな手段を提案してみると、がはははと豪快に笑い飛ばされた。

 ですよね。

 それに里塚曙美が求めているのは、満開の千島桜だ。さらには父親がその美しさに感動してメールをよこしてきた「旅籠屋あのこの」の千島桜でなくては意味がない。

「受付入ってやるから、その間に休憩に行って来ていいぞ」

 南郷がお猪口をぐいっと傾けた。外にでればいいアイディアが浮かぶかもしれないと、お財布と車のキーを持って外へでようとしたところで、南郷に呼び止められた。

「そういえば嬢ちゃん、ちゃんと〝ハンコ〟は押したのか?」

 ……しまった。すっかり忘れていた。

「何だ、その顔は。本当に忘れてたのか? しっかりしてる嬢ちゃんが珍しいな」

「す、すみません」

 丸草履に潜り込ませた足を慌てて引き抜いて、丸子は受付台に飛び込んだ。

「そんなに熱心にお客さんの話を聞いてやってたのか? まぁ、坊には秘密にしといてやるよ」

 南郷の言う〝坊〟とは宿の主のことだ。

 確かに、このことを彼が知ったら減給よりも恐ろしい罰を与えてきそうだ。

 想像すると今晩眠れなくなりそうなので、ひとまず宿の主のことは、宇宙の片隅ぐらい遠くに飛ばして忘れることにする。

 丸子は棚から重たい木箱をごとりと取りだすと、不思議の国のアリスにでてくるような小さな鍵穴に、これまた小さな鍵を差し込んだ。中には住所印や氏名印、済印やハートや星と、様々なハンコがパズルのように敷き詰められている。そこから一つ選んで、朱肉に押し付けてから「里塚曙美」の名前の横にぐっと判を押した。

 これは宿の大切な決まり事で、受付に立つ人間は、宿を訪ねて来た客人が紺と白――どちらの暖簾をくぐってきたかを記録しておかなければならないのだ。去っていくときはいい。記録するのは、来たときだけだ。

「……あっ。そういえば去年の五月下旬ぐらいに、里塚さんって男の人が泊まりに来たと思うんですけど南郷さん覚えてますか?」

「里塚? うーん、悪い嬢ちゃん。覚えてねえや。客人のことなら坊に聞け。あいつ、そこんとこの記憶力は底なしだからな」

 南郷は口笛を吹きながら、受付台の隣にある黒いドアを顎で差した。表向きは事務所となっているが、実際そこは宿の主の仕事部屋と化している。

 それもそうだと、丸子は黒いドアを三回ノックした。けれど返事はない。一体どこに行ってるのやら。彼は神出鬼没だった。

 仕方がないので、メールで訊ねてから宿をでた。疎遠だった娘に突然桜の花の写メを送った里塚曙美の父親がどんな人なのか、純粋に気になった。



 茶菓子がきれていることを思いだしたので、休憩がてら買いに行くことにした。

 宿が持つ白い軽トラで向かった先は、ひぶな坂をのぼった途中にある六花亭春採店だ。販売スペースになっている一階では、マルセイバターサンドをはじめとするお菓子やケーキが手頃な価格でずらりと並んでいる。階段を上がった先の二階は喫茶室になっていて、広いガラススクリーンからは湖が一望できる。いつもはここで、近くに座る釧路マダムのお喋りに耳を傾けながら、あつあつのホットケーキにメープルシロップをたっぷり垂らして食べるのだが、それはまた次の機会に。

 どれにしようか迷った挙句、どら焼きと、フリーズドライされた苺にホワイトチョコがコーティングされたお菓子を買った。チョコレートは円柱型の箱に入っていて、六花亭らしい野花のイラストがプリントされている。あまりにも可愛いパッケージなので捨てるのが勿体ないと、食べ終わったあとはつい別のチョコや飴玉を入れてしまう。それを机の上に置いて、小腹が空いたときや、疲れたときにつまむのも楽しい。

 釧路のいいところは、腰を落ち着けられるこじんまりとした店がそこかしこに存在していることだと、丸子は思う。知らない路地にも、心と空腹を満たしてくれる素敵な出会いがある。

 いくつかの茶菓子と、通い詰めている漬物屋で桜漬けを買ってから、帰りは幣舞橋の上を通った。釧路はバリ島、マニラ湾と並ぶ世界三大夕日の街としても有名で、橋の欄干に飾られた四体の裸婦像の周りには、カメラを持つ人の姿がちらほらと見えた。彼らの後ろに広がる茜色の空に、丸子もしばし見入った。

 何だか今日の夕日は、誰かがそっとともしてくれる灯籠の灯りとよく似ている。

 東京から釧路へ来たばかりの頃、丸子はこの街のことを何一つ知らなかった。北海道から連想される言葉といえば、札幌時計台、ジンギスカン、旭山動物園にラベンダー。そんな中、釧路は霧が深い日は静寂に包まれていて、どこかさびれた印象だった。

 でもこの街で過ごすようになってからは、観光ガイドではわからない、街の営みなどがはっきりと目に見えるようになってきた。人々は粛粛と日々を送りながら自分の家や店をしっかりと守り続けている。

 そんな馴染みのない土地にボストンバッグ一つを持ってやって来た去年の暮れが、今となってはしみじみと懐かしい。

 早いもので丸子がここに来て、来月でもう半年になる。

 はじめてやって来た日は猛吹雪に見舞われていた。北海道の寒さをなめていたと後悔しながら、それでも引き返すことができずに、ひたすら歩き続けた。手先がかじかんで泣きそうだった。いや、実際泣いた。その涙もまつげと一緒にバリバリに凍って、正に地獄の道のりだった。

 ぼんやりと浮かぶ宿の灯りをたよりに、「旅籠屋あのこの」を探し当てたときは心の底から嬉しかった。絶対に訪れたいと、願っていた場所だったから。

 里塚さんも、うちの宿を見つけたとき嬉しかったに違いない。

 丸子は昼間、不安気な声で宿に空きがあるかを訊ねてきた客人のことを思いだした。

 今の彼女と昔の自分の姿が、ふと重なった。


 桜の木の前に佇む里塚曙美に気がついたのは、母屋の裏手から広間に戻って窓際に立ったときだった。

「夕飯の時間になったら呼んでくれってさ」

 幼い声がした。視線を下げると、大きなどんぐり眼に、ぱつんと切り揃えられたおかっぱ頭の可愛らしい顔をした子供が三人並んでいた。顔、背の高さはもちろん、髪型まで鏡に映したように瓜三つ。彼らの名前は赤音、青葉、黄乃。

 おもに南郷の手伝いをしている、看板三つ子達だ。

 見分けがつかないのを気にしているのか、各々自分の名前に入った色の服を着ている。今日は全員よく見るつなぎ姿だ。

「里塚さんがそう言ったの?」

 丸子が訊ねると、

「そうだ」

「言った」

「間違いなく言ったな」

 子供達は順繰りに頷いた。

 近場の小学校に通う彼等は、とある事情から親元を離れて、現在宿に預けられている。そこには複雑な香りが漂っているので、丸子はあえてその理由を聞いていない。

 丸子は膝を折って、窓の向こうを指差した。

「いつからあそこにいたかわかる?」

「教えて欲しいか丸子。いいぞ、教えてやろう」

「確か青葉達が学校から帰って来たときはもう外にいた」

「中に入ろうって誘っても、入ってくれないんだ」

 三つ子達は説明した。

 そうなると三時間は外にいることになる。丸子はカーテンに伸ばしていた手を下ろした。薄暗い外に一人きりでいる里塚曙美は微動だにせず、ただただ桜の前にいる。その華奢な背中は心細そうで、今にも泣きだしてしまいそうに見えた。父親から珍しくメールが来たとはいえ、あそこまで満開の桜を見たいというのにはもっと複雑な事情がありそうだ。

 宿の主がここにいたら、どう対処するだろう?

 丸子は携帯電話を確認した。宿の主から返信はない。

 とにもかくにも釧路の夜はまだ冷え込むので、大きなブランケットと、ござと、籠を持って丸子も追って外にでた。急に声をかけると驚かせてしまうかもしれないので、わざと足音をたてて近づいた。

「里塚さん、羽織ってください」

 ブランケットを差しだすと、振り返った里塚曙美の両目は赤かった。

「ありがとうございます」

 里塚曙美はすん、と鼻をすすって受け取った。

 じろじろと見ることのないよう、丸子は驚きつつも顔を逸らせた。声をかけるべきタイミングではなかったのかもしれない。

 ござを敷いて、飲み物とお菓子を置いたらすぐに去ろうと急いで準備をしていると、ござに座った里塚曙美の隣には、当たり前のように、一人分の空白ができていた。

 気づいた丸子は手を止めた。そうして、ゆっくりとそこに腰を下ろした。年も近いせいか、並んで座ると同級生と夜のピクニックでもしている気分だ。

 それから持って来た保温マグに、魔法瓶の中に用意してきた桜茶をゆっくりと注いだ。マグを受け取った里塚曙美は浮かんでいる桜の花びらに気がついて、ふっと口元を緩めた。

「桜が浮かんでる」

「よく行く漬物屋で桜の塩漬けを見つけたから、里塚さんにぜひにと思って淹れてみたんです」

「嬉しい。ありがとうございます」

 彼女の顔に笑顔が戻ったのを見て、丸子はほっと胸を撫で下ろした。声をかける前に覗いた横顔があまりにも険しかったから、本当は桜が嫌いなんじゃないかと心配だった。

 桜茶で冷えた体を温めたあとは、買って来たチョコレートを齧った。

「美味しいですね、このお菓子。中に入ってる甘酸っぱい苺とホワイトチョコレートのバランスが絶妙」

「苺はフリーズドライにされてるから、サクサクしてやみつきになりますよ」

「実は私甘いものってあまり得意じゃないんですけど、確かにこれなら買っちゃうかも」

「そうだったんですか?」

 チョコの欠片を指で払っていた丸子は思わず声をあげた。そういえば昼間だした茶請けにあまり口をつけていなかった。好みを聞きもせずに甘い物をだしたことを謝ると、里塚曙美は慌てて首を振った。

「違うんです。久しぶりに食べたらやっぱり美味しいなと思って。元は好きなんですよ。もう一つ貰っていいですか?」

「もちろんです。里塚さんのために選んだんですから」

 余程口に合ったのか、里塚曙美はリスのようにさくさくとチョコレートを食べ進めていった。元気のなかった口元が幸せそうにゆるんでいく様子を隣で見ながら、丸子は桜茶をすすった。

 よかった。口福を味わうその笑顔が見たかったのだ。

「何から何まで、気を使わせてしまってごめんなさい」

 少ししてから、里塚曙美は小さく頭を下げた。

「滅相もない」

 里塚曙美のマグに桜茶を継ぎ足しながら、丸子は言った。

「宿に来てくれた人にはゆっくりしていって欲しいんです」

 ここでは肩書は関係ない。日頃の雑事をすっぱり忘れて好きなときに食べて、好きなときに寝て、自分をめいっぱい甘かやして欲しい。どんな厄介事や、悩みを抱えている客人がやって来ても、「旅籠屋あのこの」は、温かな食事と布団で出迎える、そういう宿だ。

 丸子の言葉を聞いて、里塚曙美はしばらく口を閉ざしていた。

 そして、

「……けど本当なら、私にそんな権利ないかもしれません。私、親不孝者ですから」

 春の夜風にかき消されてしまいそうな細い声で、ゆっくりと、話を切りだした。


 曙美は桜の花がほころびはじめた春の日に生まれた。家族は無口な父と、おおらかな母、それとせっかちな自分の三人で、今は亡き父方の祖父母から受け継いだ白い家に住んでいた。一人娘だから過保護に甘やかされた、という記憶はない。むしろ両親は、一人だからこそ、しっかりした子になりますようにと願っていたと思う。口うるさくはなかったけれど、自室に戻ると硬筆習字の練習ドリルが何十冊も机の上に置かれていたり、お菓子を食べ過ぎないように戸棚の中に恐ろしい形相の鬼の絵を貼られたりと、遠回しに諭されていた。今考えると、ずれた両親だったかもしれない。けれどそのおかげで就職活動のときには面接で「履歴書を見て驚いたけど、君は字が綺麗だね」と褒められたし、思春期にニキビやダイエットに悩まされることもなかった。実家の戸棚の中には今も鬼が住んでいる。

 曙美の父、里塚実は昔から仕事で家を空けることが多かった。曙美は小さな頃からそのことに不満を抱いていた。寂しい思いも、たくさんした。

 思春期に入ってからは父と会うと、どう接していいかわからなくなっていた。昔から唯一、二人の間で変わらないことといえば、父が出張先で買ったお土産のお菓子を渡してくれることだったが、それもいつからだろう、何も言わずにリビングにただ、置いておかれるだけになっていた。甘いものが好きだったのに、それもだんだん苦手になっていた。

 きっとお父さんは、お土産で家族のご機嫌取りをしているんだ。

 高校生になると寂しさが決壊して、父に対して冷たい感情が沸き起こりはじめていた。楽しみにしていたお土産も素直に喜べない。貰っても自分は決して口をつけずに、部活仲間に処理してもらうこともあった。娘が喜んでいないことに気づいたのだろう。曙美が高校三年生にあがったある日、父はとうとう何も買って来なくなった。

 さすがに嫌われたんだ、と曙美は思った。父と娘の溝が益々深まっていく。

 そんな父からはじめてメールが届いたのは実家をでて七年が経った月曜日の朝だった。母から教えてもらったのだろう、見慣れないアドレスにminoruの名前が入っていたことで、父だとわかった。本文には先週、北海道の宿に泊まって桜を見たことと、仕事が落ちついたら曙美も見に行ってみればいいとすすめる内容が書かれていた。ちょっと撮り方が下手だけど、今にも画面越しから花びらが溢れてきそうな桜の写メもついている。

 あの無口なお父さんでも桜を綺麗だと思うんだ……。

 情緒とは無縁の人だと思っていたから、純粋に驚いた。

 そういえば仕事が忙しくて、もう何年もゆっくりと桜を見ていないような気がする。

 一番最後に楽しんだのは小学校低学年の頃、家族で散歩がてら、見に行った近所の桜だ。麗らかな春の日差しの下で、父に肩車をしてもらって薄紅色の花びらに手を伸ばした。父は好奇心旺盛な娘が「次はあっちの枝!」「次はこっちの枝!」と言う度に、「わかったわかった」と、文句一つ言わず足を動かして付き合ってくれた。

 懐しい子供の頃の思い出がふと蘇った。

『お父さんが倒れたの。曙美、帰って来られる?』

 母親から連絡が来たのは、桜のメールが届いた二週間後のことだった。仕事がたて込んでいた。でも、無理を言って切り上げた。

 電車を待つ時間も億劫で、タクシーを飛ばして実家に帰ってみると、和室に敷いた布団で眠る父親がいた。

 ……この人が、私のお父さん?

 七年ぶりに見た父親は、最後に会ったときとずいぶん変わっていた。いつのまにこんなに老いてしまったんだろう。

 目の前の出来事に困惑していると、布団の中から父親の腕がもぞもぞと這いでてきた。血管の浮きでた細い手が、何かを伝えるようにゆっくりと上下に揺れている。曙美は部屋の前から一歩も動けぬままに、その腕を見下ろした。

「曙美……が……よ」

 父親が掠れた声で自分の名前を呼んだ。何か訴えかけている。苦しいのかもしれない。手を握って、「お父さん大丈夫だよ。私だよ、曙美だよ。今、人を呼んでくるからね」そう声をかけて励ましてあげないと。曙美は固まったままの足を前に踏みだした。スーツのポケットの中で、携帯電話が震えたのはそのときだった。長い。きっと会社からだ。気を使わせるからと、理由は告げずに忙しい合間を縫って来たから急ぎの確認だろう。ほんの数秒迷っていると、父の腕はもう布団の中に戻っていた。無機質な携帯の着信音だけが、長く鳴り響いている。

「……お父さん」

 声をかけるが返事はない。もう一度呼んでみようか迷ったが、結局父親に背を向けて携帯電話を手にとってしまっていた。タイミングの悪い仕事のトラブルに逡巡しながらも父親を母親に託し、曙美は実家を去った。


「それから私が実家に顔をだした二日後、父親の容体が急変したと母親から電話が来ました。父は娘をますます嫌いになったと……裏切られたと思っていると思います。あのとき、手を握ってたった一声でもいいから声をかけてあげればよかった。死んでしまってから後悔しても、何もかも手遅れなのに……」

 丸子に過去を話した里塚曙美の目からこぼれた大粒の涙が、カップの中に吸い込まれるように落ちていった。揺れ動く瞳から、並々ならない後悔が伝わってくる。彼女はずっとそのことを悔やんできたのだろう。

「だからせめて罪滅ぼしに、メールをよこしてきた父の言うことを素直に聞こうと思って桜を見に伺ったんです」

「……そうだったんですか」

 わけを聞いて、ようやく納得できた。満開の桜に執着していた理由は、父への後ろめたさだったのだ。丸子は千島桜の木を静かに見つめた。

「お父様は、曙美さんをとても気にかけていらっしゃったんですね。でなきゃ、桜が綺麗だなんて、わざわざ伝えていらっしゃらないはずです」

 伝えるも、里塚曙美はどうしても納得できてないようだ。彼女に巣食った頑固な後悔が、丸子には何だか不憫に思えてきた。

「母から言われたのかもしれません、たまには娘に連絡してみたらって。父は私とは仲が悪かったんですが、母との関係はよかったんです。親戚とも、職場の人とも。無口なのに父は不思議と周りから好かれていたみたいです。ただ、家族で唯一私だけが……」

 続きを濁して、里塚曙美は苦笑した。

 丸子が思うに、娘と同じように、父親もたまにしか顔を合わせることのない娘と何を喋っていいかわからなかったのだろう。たぶん、お互いすれ違っていただけなのだ。

 けれど、今の里塚曙美にそのことを伝えても認めてくれそうにない。長年ずっと、父に嫌われていると思ってきたのだから。

「急にぺらぺら喋ってすみません。けど誰にも言えないと思っていたからスッキリしました。ありがとうございます」

 隣で目尻の涙を拭っている里塚曙美が丸子に礼を言う。感謝されるようなことはしていないが、それを言うと気を使わせてしまうような気がするので、かわりに彼女の肩にブランケットを掛け直した。目の前の千島桜を見つめる。

 ――目の前でこんなに素敵な女性が涙を流してるのに、あなたはまだ寝てるの?

 無言で問いかけるも、寝坊助な桜からは当たり前だが何の反応もなかった。


「うわぁ、すごい」

 広間に戻ると、里塚曙美は履いていたヒールを脱ぐのも忘れて土間の上で感激の声をあげた。

 その日の夕食はずいぶん豪勢だった。

 艶々したイクラがあふれんばかりに盛られた大皿を中心に、錦糸卵、海苔に大葉、エビにサーモンにマグロにホタテと海の宝石達が並べられ、その前には人数分のふっくら炊きたてのご飯が置かれている。釧路の和商市場でだされている勝手丼を真似たものだった。白いご飯の上に、自分で〝勝手に〟好きな具を好きなだけのせて食べる、いわばオリジナルの海鮮丼だ。

 そして、焼き目がついたはんぺんの黄身焼き。里芋とキノコのそぼろあんかけ。キャベツのサラダに、きわめつきは、トキシラズのアラを使ったお味噌汁だ。秋ザケの三倍以上の脂を持つと言われるトキシラズは、季節外れの春にとれるので、「時を知らない」ことから「時不知」という名前がついている。卓の上に置かれているだけでふわりと出汁のいい香りが漂っていた。

 宿では部屋食か、一階の広間で食事をとるかのどちらかが選べる。広間で食べる場合は、たいてい従業員も一緒だ。

 南郷から勝手丼の説明を受けた里塚曙美は、「これ本当に好きなだけのせていいんですか?」と手渡された大きなスプーンを、いくらの海にそうっと差し込んで、ご飯の上にのせた。

「美味しい!」

 一口食べた瞬間、声をあげた里塚曙美はとても幸せそうだった。南郷は熱燗を飲みながら、嬉しそうに目を細めている。一見粗野に見える南郷が作る料理は、きまって客人に感動と至福の時をもたらしてくれる。最高のおもてなしなのだった。

 食後に珈琲を飲みながら従業員と談笑している里塚曙美は、もうすっかり宿に馴染んでいるように見えた。少し元気もでてきたようだ。

「もうこんな時間だったんですね。すみません長居しちゃって。そろそろ戻りますね」

 里塚曙美が大きなあくびをこぼしたのは、午後十時半を回った頃だった。

 客人によっては深夜までテレビを見ながら晩酌を楽しんだり、従業員を誘って花札をする人もいる。時間を気にする必要はないけれど、里塚曙美が眠そうなので丸子達も切り上げることにした。

「部屋に戻る前に風呂に案内するぞ」

「今日はぽかぽかする、しょうが湯だ」

「釧路の夜はまだ冷え込むからな」

 明日は学校が休みだからと遅くまで付き合っていた三つ子達が、里塚曙美の手を引いて二階の共同風呂へと案内を買ってでてくれた。南郷は一足先に離れで休んでいる。今日は丸子のわがままのせいで、腕をふるいすぎて疲れたらしい。

「久しぶりにこんなに大勢で食べました。本当に美味しかった。ありがとうございます、円山さん」

 去り際、里塚曙美は丸子に深く頭を下げた。



 戻って来た三つ子達を隣の離れまで送ってから、丸子は広間に戻った。テーブルの上を片付けて、受付台の中にある藤椅子にふーっと腰掛けた。

 同じように座布団の上に飛び乗ってきたヨイチが鼻からふーっと息を吐きだしたので、自分と同じ仕草をする姿に思わず笑ってしまった。

 丸子にとって受付台の中は、宿で一番落ち着く場所だ。二番目は自分が寝起きしている物置部屋の窓際になる。

 人がいなくなったせいか、少し肌寒くなったのでストーブの火をつけた。網の中で、赤い火がボォッと音をたてる。釧路は本当に寒い。

 体がじんわりと温まってからは、受付台に戻って、一年前の宿帳を本棚から取りだした。ぱらぱらとページをめくっていると、五月下旬にさしかかったページに「里塚実」の名前を見つけた。おそらくこの人が里塚曙美の父親だろう。それに、楚々として美しいその筆跡は彼女のものによく似ている。

 丸子は文字の横に押された暖簾の色の判をそっと指でなぞった。

 二人はただ、互いが互いの気持ちをうまくキャッチできなかっただけなのだ。それはどの家庭でも、恋人同士でも、友達同士でもよくあることだ。必ずしも悪いことではない。けれどその溝は、長く続いてしまうと埋められなくなることもある。気がついたときにはもう遅く、深い後悔だけが残るのだ。

 丸子も実際に体験したことがある。全てが手遅れなんだと知ったとき、とても後悔した。切なくて、悲しくてたまらなくて、幼稚な考えしか持てなかった自分を恨んだ。

 きっと、今の彼女もそうなのだと思う。

 宿帳を本棚に戻した丸子は受付台に肘をつくと、共同冷蔵庫の斜め上に貼ってある紙を見た。


一、どんな客人も拒まず、去るものも追わず。

二、美味しい食事と温かな風呂と布団で出迎えを。

三、重要道具の勝手次第なふるまいには天罰を。

四、宿帳に空白は作るべからず。

五、会うは別れのはじめなり。あの世もこの世も結びの時間は惜しむべし。


 そこには必ず守らなければならない宿の五ヶ条が書き留められている。働きはじめの頃、ハリセンを持った宿主に口酸っぱく「覚えろ」と言われたことが懐かしい。今では丸子も、一字一句をそらんじることができる。

 そろそろ午前零時を回ろうとしているが、里塚曙美のことが頭から離れず眠れそうにないので台所に向かった。

 どうやったら満開の桜を咲かせることができるだろう?

 湯が沸くのをぼんやりと待っている間考えていると、ふいにさっき見た五ヶ条の最後が頭に浮かんだ。


「会うは別れのはじめなり。あの世もこの世も結びの時間は惜しむべし……か」


 ――誰かと出会えば、必ず、その誰かとの別れはやって来る。

 他人とすれ違えばそれは出会いと別れを同時に体験することだし、友人に「ばいばい」と手を振ればそれもまた一時の別れだ。誰かが亡くなれば、二度と会えないことになる。人生は数多の出会いと、避けられない別れで満ちている。この宿で働くようになってから、丸子は人の出会いと別れを必然と目の当たりにするようになってしまった。一宿のご縁。とはいえ、せっかく関わりを持った人には、なるべく幸せになって欲しい。

 鉄瓶の中からこぽこぽと湯の沸く音がした。コンロの火をとめて、急須に緑茶のパックを二つ入れて湯を注ぎ、蒸らした。自分の分だけとなるとお茶の淹れ方も雑になるところが一人暮らしの名残だろうかと思い広間に戻ると、若い男が一人、椅子にかけていた。

 清潔感のあるさらりとした黒髪に、垂れ目がちの優しい目元が印象的なその男は、純粋さと透明感を兼ね備えた美しい瞳で、今朝宿に届いたハガキを一枚一枚読んでいる。時折、繊細さを感じさせる細い指で首から提げている古いロザリオを触っているその姿は、まるで神に仕える神父のようだった。……いや、どこからどう見ても神父に見えた。

 なぜなら男がまとっているのは、肌の露出を控えた禁欲的なカソックなのだ。

「物音がしなかったから、びっくりしました」

 丸子が声をかけると、男は顔をあげた。彼こそが、「旅籠屋あのこの」を経営している宿の主、大谷地紫鶴だ。

「いつ戻られたんですか?」

「朝九時から夜十一時の間かな」

 丸子が訊ねると、曖昧な答えが返って来た。相変わらず自分のことは多く語らない人だ。気にせず丸子は新しい湯のみを取りに台所に戻った。

 神父でもないのに常にカソックを着ていることから丸子に「神父様」と呼ばれている大谷地は、噂によるとずいぶんと若いときから二十七歳の今日に至るまで宿を切り盛りしているという。性格はいたって冷静。問題事に直面しても「それで?」とどこか面白がっている節さえみせる、変わった人物だ。

 どうしてカソックを着ているのか? その謎はまだ解決には至ってない。

「こんな時間までいたら明日起きられなくなるぞ、君」

 丸子が淹れた湯のみに口をつけた途端、大谷地の柳眉がひそめられた。対面の椅子を引いていた丸子の視線はあさっての方へと逃げる。手抜きで茶を淹れたのは失敗だった。

「ちょっと眠れなくて」

「眠れない? ……ああ、そういえば昔の君そっくりの〝迷える子羊〟が来たんだってな」

「突然何の話ですか」

「何だ、もう忘れたのか。午後にメールをよこしてきただろう。里塚実の娘が昼間やって来たと。大方君は彼女のために茶菓子を買ったり南郷に夕飯を豪勢なものにするよう頼んだりとあれこれ策をろうしたが、肝心な彼女の悩みを解決できなくて寝るに寝付けず、一人寂しく茶でもすすっていたんじゃないか」

 まるで里塚曙美がやって来た瞬間から今までのことを側で見てきたかのような口ぶりだ。丸子は呆気にとられたまま、読み終えたハガキの隅をとんとん揃えている大谷地を見つめた。

「そんなに見つめてきても土産はないよ」

「いつも思うんですけど、どうして神父様は全部わかっちゃうんですか?」

「監視カメラをつけてあると言っただろう?」

「一度宿全体を探しましたけど、そんなものなかったですよ」

「そんなことを真にうけるとは、君は面白いことをするな」

 喉の奥でクスクスと笑った大谷地は再び度湯のみに口をつけた。また眉がぐっと、ひそめられた。申し訳なかったのでお茶を淹れ直そうとしたところで、「どうして里塚曙美さんは宿に来たんだ?」と訊ねられた。

 さて、何から話せばいいものか。

 丸子はお茶を一口飲んでから順を追って、今日の客人について語った。

「桜は無理だな」

 話が終わるや否や、大谷地は白旗に見立てたハガキを顔の横でふらふらと振った。予想外の言葉だった。

「何かいい案はないでしょうか?」

「いい案も何も君。釧路の桜は咲くのが遅いことは前にも言っただろう。それに、ウチのは筋金入りの寝坊助だぞ。願ったところでどうにもならない」

 まさか大谷地から案がでないとは思ってもみなかった。丸子は悩ましげな視線で広間の窓を眺めた。庭の千島桜が今だけちょっと憎い。

 働きはじめてから今日まで、大谷地は訪れる客人を癒やす気配りや悩みを解決するアイディアなどを、丸子の目の前で溢れる湧き水のようにぽこぽことだしてきた。またその人脈ネットワークは広く、常連客が言うには、南は沖縄にはじまり、北は稚内までのそこかしこに、ヤクザから医者、裁判官、芸能人にスポーツ選手と数多くの知り合いがいるらしい。

 北海道の、それも中心部である札幌から外れたこの街にいて、一体どんな奇跡を起こせば、そんなに多くの人と出会えるのだろう。

「焦ってる焦ってる。顔に気持ちがでているよ」

 俯いていた顔をあげると、大谷地が天使のような微笑を湛えて丸子を見ていた。彼には感謝してもしきれない恩がある。……が、こちらも嫌味の一つも言いたい。

「神父様なら、花咲か爺さんみたいな知り合いもいると思ってました」

「いたら素敵だろうな。知り合いになれたら是非ウチの宿で働いてもらうことにするよ」

「……私って、そんなに顔にでやすいですか?」

「さぁね。ただ記憶を辿る限り、ウチで働いてきた歴代の従業員の中では一、二を争うほど君の表情はかたいぞ」

「それ、褒め言葉ではないですよね」

「最初よりはずいぶん見られるようになってくれたことは認めてるよ」

 拗ねた子供をからかうように、大谷地は自分の唇の端を指で押し下げた。

「来たばかりの頃の君は、毎日口をへの字に曲げていた」

 それは確かに。

 目つきが悪いうえ、三白眼と、冷たい印象を受ける吊り目のおかげで、丸子の人生は灰色だった。怒っているつもりはないのに、いつも「丸子ちゃんがこっちを睨んでる」と言われてしまい、小さな頃から誰かと良好な人間関係を築けたためしがなかった。

 目尻があとほんの数ミリ下がっていたら、自分の人生はもう少し楽なものだったのにと、何度夢想したことだろう。生きづらさを抱えてきた自分が、まさか人をもてなし癒やす場所で働くことになろうとは――。病んでいた中学時代の自分は夢にも思わなかっただろう。

 孤独な十代に想いを馳せて胸を切なくさせていると、額にピン、と何かが当たって、丸子は反射的におでこをガードした。

「神父様、ゴム鉄砲はやめてください痛いから」

「俺も悪気があったわけじゃないんだ。許してやってくれ」

「自分でやっておいて、いけしゃあしゃあと」

「そんなことはどうでもいい。もし苦しんで手を伸ばしていたのなら、うめき声をあげるなり、力を振り絞って床を手で叩くなりするんじゃないのか」

「え?」

 丸子が惚けた声をだすと、向かいからまたゴム鉄砲が飛んで来た。今度はさっとかわしてから話の続きを待った。大谷地は「やれやれ」とわざとらしい動作をみせて、丸子の後ろに飛んでいった輪ゴムを取りに行った。

「さっき自分で言っていただろう。父親の里塚実は、布団の中から腕をだして娘の名前を呼んだんだろう? もしも容体が悪くて誰かに助けを求めていたんだとしたら、普通はもっと必死なはずなんじゃないか。それなのに、娘の名前しか呼ばなかったのか」

「いや、それは……久しぶりに会った娘に迷惑をかけたくないから我慢したんじゃないでしょうか」

「本当にそう思うか? 死の間際にある人間が?」

 大谷地のそれを最後に、しばし広間に静寂が落ちた。ストーブの中で炎がチチチと燃えている。ヨイチのふっくらとした後ろ姿を眺めながら、丸子は唇にそっと手をあてた。

 大谷地の言う通りかもしれない。

 でも、里塚曙美が語った父親の様子は違っていた。

「……神父様から見て、里塚さんのお父さんは、どんな人でしたか?」

「無口だったな」

「もっとこう、何か印象的なことって」

「ああ。確かその日は近所の澄川さんから、作りすぎたからと煮物をいただいたんだったけな」

 大谷地はさっくりと答えた。求めていた答えと違うものが戻って来て拍子抜けしていると、いつの間にか午前一時を過ぎていた。

「神父様と喋っていると、いつも時間が早く過ぎてしまう気がします」

「俺は喋るスピードが速くはないらしいからな。ちなみに去年来た里塚さんは確かに体調は悪そうだったが、桜を見て、顔をほころばせていたぞ。妻や娘と一緒に今度は見たいと言って、そこに曇った様子は一つもなかった」

「……本当ですか?」

「本当だといいよな」

「どっちですか」

「どっちにもできる。わかるだろ? 真実を伝えられない父親の代わりに、君が娘にそれを届けてやればいい」

 自分の湯のみを持った大谷地は、そのまま「残りはもらってくぞ」と言って、受付台の隣にある墨のように黒いドアを開けた。まだ仕事が残っているのだろう。丸子がお茶を淹れ直しますと言うと「時間がもったいない」と手首をぷらぷらと振って、事務所の中に引っ込んでしまった。

 そろそろ自分も寝ないと明日が危ない。丸子はストーブを消した。使った湯のみと、洗い桶に溜まっていた三枚の食器をテキパキと片付けて、広間に戻って薄手のカーテンの隙間に指をかけた。わかっていたけれど、淡すぎる期待もむなしく、窓越しに確認した千島桜に変化はない。

 罪滅ぼしにと桜を見に来た客人を納得させるだけの話術や知恵を、丸子はまだ持っていない。けれど客人には――自分に後悔を打ち明けてくれた里塚曙美にはどうにかして報いてあげたい。それはここで働く者としての務めだと思えた。

 会ったこともない里塚実も同じだ。彼が自ら伝えることができないのであれば、大谷地の言う通りその想いを代わりに自分が届けてあげたい。

 何とかしてあげたい。丸子は強くそう思う。

 そのために、宿にいる自分に何ができるだろう?



 ――目を覚ますと、広間の床が視界に飛び込んできた。

 しまった、あのまま広間で眠ってしまったらしい。

 勢いよく体を起こすと、肩からずるりと毛布が落ちた。寝ぼけ眼のまま辺りを見渡すと、時計の針はちょうど午前四時をさしていた。広間はほとんど夜に近く、薄暗い。共同冷蔵庫のブォンという稼働音と、かちこちと秒針の音が響く以外は、どの道具達も眠りについている。

 毛布を体に巻きつけたまま丸子がのろりと立ち上がると、テーブルの上にある六花亭の紙袋が目に入った。多分、大谷地からのお土産だろう。ないと言いつつ、宿の主はいつも何かしら買って来てくれる。中を見ようとしていると、二階から里塚曙美が下りて来た。寝癖一つない髪は綺麗に梳かれて、目はぱっちりと開いている。

「もう帰ってしまうんですか」

 きちんとした格好でないことを詫びるより先に、悲しげな声が丸子の口からほろりと落ちた。里塚曙美は鞄を持ったまま笑った。

「久しぶりに布団で寝ました。美味しいご飯も食べられて、あったかいお風呂にも入れて。とてもいい宿でした。何から何まで、本当にお世話になりました」

 そんな。

 丸子は毛布をたたんで椅子に掛けた。

「まだ四時で早いですし。せめて朝ご飯だけでも一緒にどうですか?」

「ありがとうございます。でも、長くいると帰りにくくなっちゃう気がして……。すごく居心地がいい宿だから」

 それは従業員冥利につきる。だけど素直に喜べない。どうしたらいいだろう。まだしゃっきりとしない頭で丸子があれこれと考えていると、里塚曙美が六花亭の紙袋を指差した。

「あれ? この紙袋、最後に父と会ったとき……父が私の名前を呼んだときに部屋の隅に置いてあったものと同じような気がします」

「最後って……お父様が手を伸ばされていたというときですか?」

「はい。確かこれだったと思いますよ」

 里塚曙美の説明に、丸子ははっとした。

 もしかして――。

 曙美の言葉に促されるように、紙袋を覗くと、中からは素朴な花柄の丸缶がでてきた。

「それってお菓子の缶……ですか?」

 里塚曙美に訊かれて、丸子はこくりと頷いた。

「昨日食べたチョコレートを売ってるお店のものです。確か別売りになってるんですけど、この缶を買えば中に自分の好きなお菓子をセレクトして詰め込むことができるんですよ。最近では女性へのお土産に買っていかれる道外の人が多いみたいです」

「はじめて見ました」

 里塚曙美はまじまじと紙袋の中身を見下ろしてから、不思議そうに言った。

「けど、どうして父の部屋にこの紙袋があったんだろう」

「……会社の方へのお土産じゃないでしょうか。確かお父様、職場にもよく買っていかれる方だったんですよね?」

「はい。けど……」

 里塚曙美は逡巡しながら、紙袋から視線をあげた。

「言ってませんでしたが、父は三年前に定年退職してるんです。会社にはもう顔をだしてないと思うので、お菓子は買わないんじゃないかなって」

「では自分で食べるためにわざわざ買ったんでしょうか……里塚さんは、どう思いますか?」

「それも……どうでしょう。父は甘いものが嫌いでした。だから、自分のために買ったりはしないはずです」

 里塚曙美は唇の下に指を添えた。

「それとも友達にかな……ううん、親しい人にはいつもお酒やおつまみを買ってるってお母さんは言ってたし」

 敢えて問いを重ねてはいるが、丸子にはもうわかりきったことだった。でも、父親に嫌われていると思い込んでいる本人だけがまだ、気づいてない。そこに事務室のドアが開いて、大谷地が姿を現した。客人の姿を見て、やわらかい笑顔を浮かべる。

「あなたが里塚実さんの娘さんですか?」

「あなたは?」

 里塚曙美が素っ頓狂な声をだした。古い宿の事務所からカソック姿の青年が現れたのだから無理もない。客人の誰もが皆、大谷地をはじめて見ると、そのときの会話も、感情も、一瞬放り投げたように、一様にポカンとするのだ。はじめて大谷地を見る客人の反応が丸子は好きだった。

「ご挨拶が遅くなってすみません。私はこの宿の責任者である、大谷地紫鶴と申します。この度はうちの宿をご利用くださり、ありがとうございます。滞在中、何かご不便などはなかったですか?」

 青天の霹靂にあったような顔をしている里塚曙美をよそに、大谷地はペラペラと名乗りながら名刺を手渡している。こういうところは商売人らしく抜け目がない。そのうえ、大谷地は里塚曙美が警戒心のバリアを張る前に、胸に手を添えて紳士らしくお辞儀した。澄み切った瞳で相手の目をじっと覗き込み、「こんな格好をしていますが、正真正銘この宿の人間なので安心してください」と折り目正しく頭を下げてから、慈愛に満ちた微笑をふんわりと湛えた。客人の懐にすんなりと入り込むのは大谷地の専売特許だ。

「いえ、不便はありませんでした。皆さんとてもよくしてくださいました」

「それはよかった……ああ、そこのセレクト缶。懐かしいな。娘さんも同じものを買うなんて趣味が合うんですね。去年ここに来た際にお父様も買っていかれましたよ」

 心地いい声ですらすらと喋る大谷地を横目で見ていた丸子は納得した。

 やっぱり、これを買って来たのは大谷地本人だ。

 大谷地の演技に、「これは自分が買って来たものじゃ……」と否定しようとしていた里塚曙美はつられて「そうなんですか?」と質問で返した。

「はい。間違いなくその店のものでした。私がそこまで案内したんです」

「……そのときのこと、詳しく教えていただけませんか?」

 結局否定しきれなくて、里塚曙美が買って来たことになっている。

 またこの人は、客人を自分のペースに巻き込んで――。

 けれど大谷地には、何か考えがあるはずだ。丸子は呆れながらも里塚曙美と一緒に、宿の主が語る一年前の出来事に耳を傾けた。


 一年前にやって来た里塚実。彼は宿を去る前に大谷地に、「近場で美味しいお菓子が置いてある店はないか?」と訊ねて来た。時間が空いていたので「軽トラでよければ案内しますよ」と言って、二人で春の木漏れ日の中、坂の上まで足を伸ばした。

 店内にはたくさんの菓子が並んでいた。全国的にも有名な、マルセイバターサンド。全8色あるカラフルなチョコレート、カラフル・マンスに、ほんのりとラム酒がきいたチョコロマン。噛めばサクサクと音をたてるチョコレートパイの名前は、霜だたみ。その他にも洋菓子、和菓子、ケーキまでもがたくさん並び、どれも手頃な値段の美味しそうな菓子ばかりだ。

 ちょうど午後三時を回った日曜日のせいか、店内は人で溢れ返っていた。

 十分、二十分、三十分たっても里塚実は戻って来ない。帰りの飛行機の時間もあるので車内で待っていた大谷地が様子を見に行くと、里塚は頭を悩ませながらまだお菓子を選んでいた。目についたものを片っ端から入れていったのだろう。カゴの中はこんもりと山になっていた。大谷地に気がついた里塚実は、気まずそうにカゴを揺すった。

「こんなにたくさんあると何を選んでいいかわからなくて、困るな」

 あまりにも熱心に選んでいるので、大谷地は折角ですからと、人気の丸缶に詰めることをすすめた。誰にあげるのかは知らないが、ふんわりとなごむパッケージの缶に、お菓子をたくさん詰め込んだ土産を渡されれば誰だって喜ぶだろう。

「それにしよう。昔から可愛いものと、甘いものが大好きだから」

 そのときの里塚実の表情は、庭で何時間も桜の木を見ていたときと同じものだった。何とも言えない、やわらなか幸福感に満ちていた。


「女性に渡すんだなと思っていました。男性相手へのものだと、あそこまで悩んだりしませんから」

 一通り説明し終えた大谷地は、

「きっと大切な方へのお土産だったんでしょう」

 最後をそう締めくくった。

 里塚曙美は、口を結んだまま紙袋をじっと見つめている。

 去年、里塚実の部屋の隅に置いてあったという紙袋。それは間違いなく、娘へのお土産だったのだろう。やはり娘への愛情が薄れたわけではないのだ。

 本人には見えないところで、それはきちんと形を持ってたしかにあった。

「里塚さん」

 丸子は静かに彼女を呼んだ。

「一年前のこと、もう一度よく、落ち着いて思いだしてもらえませんか? 里塚実さん……お父様は本当に、最後にお会いしたとき苦しそうでしたか?」

 その言葉に、呆然とした様子の里塚曙美の瞳が揺れた。


 ――――わからない。どうだったろう。

 里塚曙美は頭にそっと手を当てた。考えれば考えるほど自信がなくなっていく。

 それでも布団から腕を伸ばす父の動作はゆっくりだったし、声も掠れていて、言葉は途切れ途切れだった。

 じゃあ、父親はあのとき、私に何を伝えようとしていたんだろう。

『曙美…が…よ』

 父親が自分に言った最後の言葉と、部屋の隅に置いてあった紙袋を思いだす。女性が好きそうな可愛らしい花柄の紙袋。一体誰のためのものだろう?

 ……いや、もうその答えはでている。

 ……ああ、そっか。

 もう何年も貰ってなかったから、わからなかった。

 気がつくのが、遅くなってしまった。

 里塚曙美の目に透明な涙が溜まっていく。

 ゆっくりと瞬きをすると、温かな涙が頬の上をすべった。

『曙美、お土産があるよ』

 最後に会った日、父は自分にそう言ったのだ。「久しぶり」と言うでも「苦しい」と訴えるでもなく、ただただ娘に伝えたかった。

 お父さんが、昔のようにお菓子を買って来たんだよと――――。


「甘いものが好きだったのなんて昔のことなのに……」

「それでもお父さんにとっては、ずっと忘れられない記憶なんでしょうね」

 里塚曙美の独り言に丸子が答えた。

「里塚さんは、立派だと思います」

 今涙を流している彼女を見て心からそう思った。

「父親を思って遙々ここまで、一年越しに桜を見に来てくれる娘なんてそうそういないですよ。時間は違っても同じ場所に立って、同じ景色を見ることができた。例え満開の桜ではなくともお父さんの願いは叶えられたと私は……思っていいと思います」

 丸子は持っていたハンカチを彼女に手渡した。

 受け取りながら里塚曙美は小さな頃、父親が買って来てくれたお土産を待ち遠しくしていたことを瞼の裏で思いだした。

 あのとき、自分が両手をあげて喜ぶと不器用な父親も小さく声をあげて笑ってくれた。自分はあの頃お土産も嬉しかったけど本当は……本当は、父が喜んでくれる笑顔を見るのが――自分のために一生懸命選んでくれたであろうその姿を想像するのが、好きだったのだ。

 色々な想いがこじれて、ずっと意固地になっていただけだった。

 父のことが大好きだった。

「……お父さん」

 里塚曙美の目からこぼれた涙が、ハンカチに吸い込まれていく。

 大谷地が足音をたてずに広間のカーテンをそっと開けた。そこには、霧のかかった庭の中にある一本の桜が、ガラス越しに見えた。

「桜は見れなかったけど、来てよかった」

 里塚曙美がハンカチから顔をあげた。その表情は穏やかで、また、桜を見る目も優しかった。


 そうして彼女は出会ってから見る一番の温かい笑顔で宿をでて、霧の中へと消えていった。



 里塚曙美が去って三日後。

 休憩を終えた丸子が宿に戻ると、広間で大谷地と六十を超えたあたりの痩せた男性がお茶を飲んでいた。

「こんにちは」

 暖簾をくぐって挨拶をすると、「何だ君か」と大谷地が残念そうに首を振った。

 ナイスバディな来訪者でも期待していたんだろうか。胡乱な視線を大谷地に向けていると、一緒にいた男性が「こんにちは」と頭を下げてきた。丸子もぺこりと頭を下げると、大谷地がテーブルの上の茶請けを指差しながら、父親のような口調で言った。

「里塚さんからいただいたお土産の草加煎餅だ。きちんとお礼を言いなさい」

「里塚さん?」

 丸子が思わず声をだすと、席についていた男性が首を傾げた。丸子は慌てて説明した。

「すみません、先週同じ名字の方がいらっしゃったものですから。お煎餅ありがとうございます」

 丸子はそそくさと受付台の中に戻った。ふぅ、と息をついてから、もしやと思って宿帳をめくると、新しいページに「里塚実」と綺麗な字で名前が記されていた。

 丸子はそっと視線をあげた。彼の横顔は、里塚曙美とよく似ている。

「見事な三白眼でしょう。今年の一月に入ったばかりの新入りなんです」

 煎餅を割ることに夢中になっている大谷地がふと丸子の話題を相手に振った。「よろしくお願いします」とだけ答えると、お茶を飲んでいた里塚実が体をこちらに向けた。「一泊させてもらいます。世話になります」と、丸子よりもずっと丁寧に頭を下げた。

 と、その手元にある一枚の写真に目がとまった。それは、スーツを着ている十代の頃の里塚曙美だった。

「その写真、娘さんですか?」

「ええ」

 丸子が訊ねると、里塚実は写真を手に持った。向かいでは大谷地が何かの職人のように、ぱきぱきと煎餅を割り続けている。

「これはウチの娘が大学に入学したときの写真です」

 里塚実は懐かしそうに目を細めてから丸子を見た。

「君はウチの娘と同じくらいかな?」

「二十代です」丸子が答えると、里塚実は「そうか」と頷いた。それから向かいでのんびりと煎餅を齧っている大谷地に、

「大谷地くん。わかってると思うが従業員には十分な休息をとらせてやるんだよ」

 と妙に真剣味を込めて言った。大谷地は小さく笑った。

「心配しなくても里塚さん、そこのところは大丈夫ですよ。うちはホワイトもブラックも通り越して最終的にはスケルトンですから」

「またよくわからないことを言って君は」

 里塚実は呆れたように肩を落としてから、突っ立ったままの丸子に改めて説明した。

「いや、突然すまないね。ただ去年、自分が脳梗塞で倒れたあとに娘を亡くしていてね」

 里塚実は写真に写る娘を、寂しそうになぞった。

 何でも、風邪をこじらせてそのまま逝ってしまったという。二十六歳という若さで。

「てっきりあのときは自分がすぐに逝くと思ったのに、私は回復してね。逆に娘が逝ってしまった。仕事が生きがいみたいな子だったから、風邪で仕事を休むなんて考えられず、無理を押し切ったんだろう。ここの桜を見せてやりたかったんだがなあ」

 言葉に表さずとも、それが心残りなんだという里塚実の想いが彼の瞳からひしひしと伝わって来る。丸子は受付台の中から、写真に写っている笑顔の里塚曙美を見つめた。サンキャッチャー越しに落ちた光が、彼女の周りでキラキラと瞬いている。

「だから今年もつい来てしまった」

 最後にそう言った里塚実の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。それを誤魔化すように、彼は少し外の空気を吸ってくると告げて早足で外にでてしまった。

 そのまま帰って来ないので心配になって外にでてみると、里塚実は満開の千島桜の前にいた。

「ちょっとした優しい嘘なら、ついてもいいんじゃないか」

 里塚実の背中を見ながら丸子がうずうずしていると、いつのまにか大谷地が背後に立っていた。

 ちょっとした優しい嘘――考えて、丸子はピンと来た。

「娘さんがこの宿に桜を見に来たこと、私が里塚実さんに伝えていいんですか?」

「そのかわりウチが〝生きている人〟だけではなく、〝死者〟も来る宿だとはばれないように上手く運んでくれ。例えば……そうだな。実は里塚曙美は父親からメールを貰ってから亡くなる直前の一年前に、宿に来ていたことにする、とかな」

 大谷地は玄関先に掛かっている二色の暖簾を見つめた。

「それに今回は、俺より君の方がよっぽど里塚曙美さんの気持ちに寄り添ってあげられたんじゃないか。彼女も君に自分のことを伝えてもらった方が喜ぶだろう」

 大谷地は丸子の背中を軽く叩いた。

「残された方が死者の想いを知りたいと思うように、死者もまた残したものに伝えたいことはあるからな。この先、里塚さんが寂しい気持ちで桜を見ることのないよう、君が彼女の想いを里塚さんに届けてあげなさい」

「……はい!」

「ただし大事な仕事を片付けてからな。里塚さんにはもう宿帳に名前を貰ってるから、最後に暖簾の丸判だけ押しておいてくれ」

「わかりました」

 丸子は早速受付台の後ろから木箱を取りだして、「里塚実」の名前の側に、「白」と彫られた丸判をくっきりと押した。

 その前のページにある里塚曙美の欄には、「紺」の丸判が押してある。

 それらはやって来た宿泊客が〝どちら側の人間か〟わかるようにするための目印だ。

 丸子は玄関扉を見やった。

 霧の街の中にある「旅籠屋あのこの」には様々な客がやって来る。

 腹を空かせた客、仕事に疲れた客、観光客に、悩みを抱えた客に十人十色と様々だ。けれど宿は、どんな客でも拒みはしない。どうぞうちへいらっしゃい。

 それが例え、未練を残してあの世へ行けずに、この世を彷徨う〝わけあり〟の者達であってもだ。

 生きている人間が亡くなった人の気持ちを知りたいと思うように、亡くなった人もまた、残してきた人に気持ちを伝えたいと切望している。両者の想いを繋げるために、「旅籠屋あのこの」は建っている。

 丸子は、今はもうこの世にいない里塚曙美と過ごした時間を大切に振り返った。

 それから、彼女が桜を見に宿に来ていたこと。意地を張っていただけで、お土産を待ち遠しくしていたこと。父親のことが本当は大好きだったことをすべて残らず伝えようと心に決めてから、深呼吸して、里塚実のもとに向かった。

「里塚さん!」


〝この世の人間しか通れない白暖簾〟と〝あの世の人間しか通れない紺暖簾〟。

 二色の暖簾が風に吹かれて、ふわりと揺れた。