幼少期、柏原聖夏はヒーローに憧れていた。

 大好きなアニメの主人公のように、いつか誰かを颯爽と救ってみたかった。

 だから、それは必然の出来事だったのかもしれない。

 転がったボールを追って、まだ小学生にもなっていない少女が、交差点に飛び出した時、考えるより早く駆け出していた。

 伊達にサッカー漬けの日々を送ってきたわけじゃない。瞬発力にも、スピードにも、自信があった。

 交差点にトラックが入って来るのが見えていたけれど、少女を抱きかかえて反対車線まで走り抜けられると思った。そうやって、ヒーローになるつもりだったのに……。

 誤算があったとすれば、スパイクではなく通学用のローファーを履いていたことだろうか。

 ダッシュのために踏み締めた利き足が砂利で滑ってしまい、一瞬にしてバランスが崩れる。前につんのめったせいで、二歩目に力が上手く伝わらなかった。

 けたたましいクラクションが鳴り響き、トラックに気付いた少女の身体が固まる。

 あのスピードじゃ、ブレーキを踏んでも間に合わない。

 少女を救えるのは俺しかいない。

 足を滑らせていても、俺が飛び込むしかない。

 子どもの頃からヒーローになりたかった。スペシャルな何かに憧れていた。

 たたらを踏みながら突進し、少女を路肩の植木に向けて突き飛ばす。

 こんな時なのに、不思議と頭は冷静だった。

 思い出したのは、物理の授業で習った作用反作用の法則。

 少女を押し出した力の分だけブレーキがかかり、突進してきたトラックから逃げるために蹴り出した最後の一歩には、絶望的なまでに力が乗らなかった。


 ああ、そうか。

 こんなにも呆気なく、人生に幕は下りるのか。

 お父さん、お母さん、ごめんなさい。


 二〇一六年、十七歳。

 高校二年生の夏。

 ヒーローになり損ねた柏原聖夏は、そうやって死んだ。



「ですから、この男が北幻の森で倒れていたという事実そのものが、間者の可能性を示唆するに足る証拠だと申し上げているのです!」

「左大臣! それは、あなた個人の感想だ。何ら根拠のない……」

「北幻の森は仇敵、テルメニア共和国との国境沿いに位置している。大方、凍壁越えに失敗したというところでしょう!」

「あなたは行き倒れた旅人を、すべてスパイにするおつもりか?」

「おお、そうでしたな! 右大臣も亡命者であった。私は今も、あなたを信用しておりませぬ。さては、この者と通じて国家転覆を画策するおつもりかな?」

「言葉が過ぎるぞ! 叩っ斬られたいか!」

 鈍器で殴られたように頭がガンガンする。

 さっきから聞こえてくる、この物騒な会話は何なんだろう。

 重たい瞼をゆっくり開いていくと、視界の先に、目を疑う光景が広がっていた。

 ……これは、何だ? 何が起きている?

 俺はトラックに轢かれて死んだんじゃなかったのか?

 現代の若者は、死後の世界なんて信じない。

 三途の川だとか、天国だとか、地獄の審判だとか、馬鹿馬鹿しい。そんなもの噓に決まっている。死後の世界なんて存在するはずがない。今日まで俺はそう考えていた。

 目を開けた先に座っていたのは、閻魔大王じゃない。

 俺は中世ヨーロッパか何かにタイムスリップでもしたんだろうか。

 頭上にシスティーナ礼拝堂を思わせる天井画が広がっており、目の前には大理石の広々とした階段があった。その頂上、玉座か王座か分からないが、冠を被った人物が座しており、階段の両サイドに、銀の槍を持った白人の騎士たちが何十人も整列していた。

 そして、気付く。両足が椅子の脚に鉄の鎖で繋がれていた。妙なホールド感があると思ったら、下腹部が鉄の鎖で椅子にぐるぐる巻きにされている。

「おお! 右大臣君! 君の小鳥が目覚めたようだぞ! どんな言い訳を聞かせてもらえるのか、楽しみじゃないか!」

 白髪髭面の老人が、俺を見つめて嬉しそうに声を上げる。

「我々の言葉が分かるか? 頭を打っていたようだが、意識ははっきりしているか?」

 右大臣と呼ばれた男が、片膝をついて俺の顔を覗き込んでくる。ほかの男たちとは異なり、彼は中東系の容貌をしていた。さきほど髭の老人に亡命者と呼ばれていたし、出身地が違うのかもしれない。

 と言うか、どういう理屈で、この男たちは日本語を喋っているんだろう。

「……言葉は分かります。意識もはっきりしていると思います」

「僥倖だ」

「それより、ここは何処ですか?」

「君はそんなことすら分かっていないのか?」

 不審の眼差しが突き刺さる。

「オーレリウス大陸の北中域、千年郷ヴィルダルド王国だ」

「ヴィルダル……ド? ヨーロッパか何処かですか?」

「ヨーロッパ? すまないが、そんな単語は初耳だ」

「そんな……。じゃあ、そうだ。今は一体いつですか?」

「君は本当に、おかしな質問ばかりするな。サレアル暦、四七年。統一暦なら七五四年に決まっているだろう」

 鼓膜に飛び込んでくるのは、耳慣れない単語ばかり。

 ……まさか。これは、そういうことだろうか。つまり、そう考えても良いのだろうか。

 アニメで何度も見た展開。

 ライトノベルで何度も胸を躍らせた展開。

 そう、健全な青少年なら誰もが夢に見た、あのシチュエーション。

 ざわつき始めた心を必死に抑え、もう一度、王宮を見回したところで気付いてしまった。

 天窓の向こうに、二つの青い太陽が輝いていた。

 もう間違いないだろう。ここは地球じゃない。

 天国に辿り着いたわけでも、地獄に送られたわけでも、三途の川を渡ったわけでもない。

 ここはパラレル・ユニバース、『異世界』だ。

 俺はトラックに轢かれ、異世界に転生したのだ!


「若者よ。ここからは慎重に発言して欲しい」

 右大臣が耳元で囁いた。

「ヴィルダルド王国は、長く隣国と臨戦状態にあり、君には今、間諜の容疑がかかっている。これから君は、この国にやって来た理由を申し開きしなければならない。王が納得出来るだけの釈明がなされなければ……」

 この空間に集うすべての人間が、冷たい瞳で俺を見つめていた。

 その理由を俺が悟るより早く……。


「君はこの場で、首をはねられるだろう」



 落ち着いて、状況を整理しよう。

 既にそんなことをしている場合ではない気もするが、今、必要なのは、とにかく自分が置かれた窮状を正確に把握することだった。

 ある初夏の夕刻、俺は年端もいかない少女が、ボールを追って交差点に飛び出すのを目撃した。考えるより早く、少女を助けるために飛び出し、トラックに轢かれた。そうやって柏原聖夏の人生は、たった十七年で終わってしまった。終わってしまったはずだった。

 しかし、天は善良なる若者を見捨てなかった。

 どうやら死ぬと同時に、俺の精神は別の世界、つまりは異世界へと転移したらしい。

 異世界とは俺たちが住んでいた宇宙とは別次元に存在する世界のことである。

 人種、文化、宗教のみならず、物理法則すら異なる世界。そんな異世界に転移した主人公を舞台にしたアニメや小説に、フィクションの中で散々触れてきたが、ここにきて俺自身の身にもその奇跡が起きたのだ。

 本やアニメで知った知識が正しいなら、こういった世界では大抵、主人公に物凄く都合の良い能力が発現する。加えて、文明レベルが現代社会より遅れている場合が多いため、有する知識を用いることで、論理的な尊敬を勝ち得ることまで可能になるのだ。

 さようなら。そんなに嫌いではなかったけれど現実の社会。

 こんにちは。新しく生まれ変わった俺。

 これから、どんな冒険が始まるんだろう。

 どんな美少女と出会い、どんな革命をこの世界に起こしていくんだろう。

 胸が高鳴っていた。期待と喜びで、涙だって流してしまいそうだったのに……。


「若年の鷹に問おう」

 王冠を被った顎髭を生やした男が声を発した。

「貴様は何者であるか。我がヴィルダルドの大地に、いかなる理由で足を踏み入れたのか」

 答えられずにいると、左手より槍を持った騎士が近寄ってきた。

 問答無用で喉元に銀の切っ先が突きつけられる。

「ちょっ……待って下さい! 答えます! 答えますから!」

 やばい。まずい。おかしい。

 この場にいる誰もが、俺に不審の眼差しを向けている。勇者様が村に現れた的な歓迎を期待していたのに、四方八方から剥き出しの敵意が向けられている。

 王を納得させられなければ、首をはねられる。右大臣が囁いた言葉は真実らしい。

「あの、多分……俺は、この世界の人間ではありません」

「密偵であると認めるということか?」

 ドスの利いた声色で騎士が告げる。

「違います! 誤解です! 別の国からやって来たという意味ではなく、まったく異なる世界、異次元からやって来たということです」

 必死に頭を回転させて説明したのに、

「妄言だ! 意味が分からない!」

「王を謀る密偵を殺せ!」

「首をはねろ!」

 口々に騎士たちが叫び、左大臣が玉座を振り返った。

「我が主よ、この者は怪し過ぎます! 生かしても百害あって一利なし。即刻、処刑を……」

「お待ち下さい!」

 左大臣の言葉をかき消して、右大臣が叫ぶ。

「我が主には寛容なる裁きを求めます。この少年は、まだ釈明の途中です!」

 どうやら右大臣だけが俺の味方らしい。

「若年の鷹よ。その方、名を何と申す」

「聖夏です。柏原聖夏」

「おかしな名前だ! 魔女の名だ!」

「そんな名前は聞いたことがない! 処刑だ!」

「いや、待って下さいって! それはおかしいでしょ!」

 子どもの頃から変な名前だと言われ続けてきたけれど、聞いたことがない名前だから処刑というのはあんまりだ。

「我が主よ! この少年は異次元よりやって来たと申しております。だとすれば我が国に利益をもたらせるかもしれません。恐れながら申し上げますが、我がヴィルダルドが経済的に遅れを取っているのは、資源の母たる海がないからでございます。それがゆえに……」

「貴様、亡命者の分際で、ヴィルダルドを愚弄するか!」

 左大臣が激昂する。

「愚弄ではありませぬ! 為政者を貶めているわけでもない! 私は現実の話をしているのです! 北中域が経済的に不利な地であることは、疑いなき事実。災禍たる冬が迫っている今、我々には知慮と機知が必要なのです! 勝利の見えない消耗戦を覆すために!」

「それがこの若き鷹だと申すのか?」

「分かりませぬ。分かりませぬが、その可能性はある。異邦の人間なら、我々では気付き得ない知恵を持っているかもしれない。我が主よ! 知は財です! 処遇の決定は、この若者の頭の中を確かめてからでも良いのではありませぬか!」

「その方の言葉、一理ある」

 風向きが変わった?

「では、我が主よ。この少年の処遇は……」

「しかし、猶予は設けぬ。頭の中は決して覗けぬからな。若き鷹よ。貴様が我が国に迎えるに相応しい異邦人であるなら、それをこの場で証明してみせよ」

 ……あれ。風向き、変わってない?

「どうした? 提言がないなら首をはねるまでだ。惑わず述べよ! 我がヴィルダルドに福音をもたらす知識を披露するが良い。その方の世界において、最も魅力ある資源とは何だ?」


「それは……サッカーだと思います」


 その時、俺は何故、そんな言葉を口走ったのだろう。

 自分でも分からなかったけれど、口に出してしまった以上、その話を続けるしかなかった。

「サッカーとな? それは何だ?」

 ここは異世界。地球じゃない。サッカーなんて彼らは知らないはずだ。

 どうする。説明するのか? しかし、サッカーを説明したところで、どうなる?

「どうした。早く述べよ!」

 苛立ちを隠さずに左大臣が叫ぶ。

「我が主の時間は有限なのだ。戯言を口にしたのであれば、即刻その首を……」

「この世界にはスポーツがありますか?」

「スポーツとは何だ?」

 日本語は通じるのに、スポーツの概念は存在しないらしい。

「身体を動かすことを目的とした遊戯です。ボールや道具を使う場合もあります」

「クーロルケッタのことか?」

「それは、どんなスポーツですか?」

「棍棒と球体を使った遊戯だ。この国で最も盛んな見世物とも言えよう。テトリガレファ公国発祥の遊戯だが、我が国の第一王子、アゼリア様もまた有望な選手なのだ」

 説明してくれたのは右大臣だった。

「クーロルケッタでは参加者が二手に分かれ、片方は球体を打ち、走る。もう片方は球体を投げ、守る。これをティータイムを挟みながら交互におこなうのだ」

「……クリケットみたいですね」

「何だそれは?」

「似たような遊戯が俺たちの世界にもあるんです。確か野球とよく似た競技だったはずだ。それなら俺たちの世界でも人気があります」

「そうなのか? まさかお主も有望な競技者か?」

 右大臣がその質問を口にした瞬間、騎士たちの纏う空気が変わった。この世界ではクーロルケッタなる競技が、それだけ人気があるということなのだろう。だけど、困った。俺は野球なんて、ほとんどやったことがない。少なくとも有望な選手では絶対にない。

「俺たちの国では、その競技に世界大会があります」

「世界大会?」

「はい。様々な国が代表選手を出して競い合うのです」

「敵国ともか?」

「同盟国も敵国も大会には関係ありません。あくまでも競技だけで優劣をつけます」

「我々の世界では考えられないことだ。一体、幾つの国が参加しているのだ?」

「確か……去年の世界大会には、十二ヵ国が参加していた気がします」

 おぼろげな知識で答えると、どよめきが起こった。

「本当か? 本当に十二もの国が参加しているのか? 信じられない」

「あ。でも、少ない方だと思います」

「……どういうことだ?」

「そのクーロルケッタと似た競技は、俺たちの世界では、あまり普及していないんです。だから世界大会と呼ぶには参加国数が少ないなって」

「少ないだと? では、ほかの遊戯ではもっと多いというのか?」

「はい。俺たちの世界では、四年に一度、オリンピックというものが開催されます。あらゆるスポーツで人々が競い合う、言わば運動遊戯の祭典ともいえる大会です。競技種目数は三百以上ありますし、参加する国や地域は二百を超えます」

 それを告げると、今度は王も含めて、皆が呆気にとられたような顔を見せた。

「……二百の国が参加するのか? 戦時下の国もあるだろう? そういった国は」

「関係ありません。スポーツの場に争いは持ち込まれません」

「それが本当なのだとしたら、驚嘆すべき事実です」

 右大臣が王に告げる。

「我が主よ。彼らの世界は、恐るべき秩序に満ちているのかもしれません。クーロルケッタは魅力的な遊戯ですが、世界大会を催したとしても、争い合う国々が戦争をやめてまで大会に参加するとは思えない。開催国を決める段階で、まず戦争が勃発するでしょう」

「若き鷹に問う。貴様は先ほど『サッカー』と口にした。それは何だ?」

 そうだ。話はそこから始まったのだ。

「子どもの頃から、俺がやっていた遊戯です。私たちの世界で最も愛されている遊戯でもあります。先ほどオリンピックについて説明しましたが、サッカーの世界大会は、そのオリンピックを遙かに凌ぎます」

「オリンピックを凌ぐだと……」

「はい。大会期間中に競技を視聴する人間の延べ人数は、オリンピックの五倍以上です」

「なんと! 五倍以上!」

「オリンピックが束になっても敵わない、それが四年に一度開催されるサッカーの世界大会、ワールドカップなのです」

「何故だ? 何故、そんなことが起きる! サッカーとは何なのだ!」

「とてもシンプルな遊戯です。ボールが一つあれば、子どもでも、大人でも、男でも、女でも楽しめる。私たちの世界で、有史以来最も多くの人々に愛されてきた競技、それこそがサッカーです!」

 声を張り上げる。

「断言します! この世界でも、人々は必ずサッカーに夢中になる。サッカーは争いを止め、この世界に新たなる秩序をもたらすでしょう。先ほどクーロルケッタは別国が発祥の遊戯と聞きました。しかし、今、私を迎え入れて下されば、ヴィルダルド王国は未来永劫、サッカーの母国としてその名を歴史に刻むことになるでしょう」

 俺たちの世界で、イギリスがイングランドやウェールズといった地域ごとのチームで世界大会に出場しているのは、サッカーの母国であり、国際サッカー連盟FIFAが設立するよりも前に、自国のサッカー協会を有していたからだ。

 この世界には、まだサッカーの概念が存在しない。ヴィルダルド王国には、イングランドの誉れを繰り返すチャンスがある。


「王よ! 私はサッカーで世界の秩序を変えてみせます!」