はあ。ゆーうつでございます――

 私の生涯で、これほど憂鬱な春があったでしょうか。

 ――神奈川県立・薩摩工業高校 入学式――

 そう毛筆書きされた看板が、いま私の目の前に立てかけられています。それだけならばとくに問題はないでしょう。ところが看板の余白には黒マジックでこう落書きがされているのです。


『バカ』『死ね』『アホ』


 嗚呼。なんて哀しいのかしら。

 看板に落書きされていることが哀しいのではありません。仮にもここは高等学校のはず。にもかかわらず、小学校低学年並みの語彙が連なるその罵倒語の数々――おのずと書き手の偏差値が知れるというものです。

 そんな下等下劣な落書きを眺めると、怒り、などという感情を通り越して、憐憫の情すら湧き起こってしまうのであります。

 もっとも地域社会へ向けてこの学校の有様を示す、という意味ではこの落書きはなかなか有効な手段と言えるのかもしれません。もちろん最悪の学校としてではありますが。

 しかし本当に最悪なのはこの学校ではないのです。この私の身の上であります。なぜならそんな低偏差値のヤンキーが跳梁跋扈する県立高校に、これから入学せねばならないのですから。


 私は、ヤンキーが嫌いです。いや、大嫌いであります。


『お前、変態なの?』

 中学時代――

 あるヤンキー男が私にそう言いました。男女別の体育から、教室へ戻ったときのことでした。

 私が授業中ひそかに描きためていたマンガ原稿を、勝手に読まれていたのです。おそらくド低脳な彼がいままで読んできたマンガとは、無法者たちがヒャッハーと殴り合う少年マンガなど、お子様向けのものばかりで、私の描く高尚な世界観など、一生理解不可能なものでしょう。

 しかし――

(ち、違うの。これは文学なの。れっきとした、芸術作品なのっ!)

 哀れ乙女の主張は、ただ虚しく心の中で叫ばれるのみ。私は顔を耳まで真っ赤にして、黙り、恥じらいに震えるのみでありました。

 そのヤンキーが戦利品のように高々と掲げたマンガの原稿は、美少年と美少年が裸で淫靡にくんずほぐれつする、文学的な原稿だったのであります。

『変態! 変態! 変態!』

 無神経にも、オーディエンスに変態コールを要求するヤンキー。そして残酷にも教室はその要求にまんまと応えたのでありました。

 数の暴力。

 少数派に対する強烈な吊し上げは、その後も私の中学生活に深刻な傷痕を残しました。

 中学の教室――そのキャピキャピとした喧騒の中、私はずっと、一人ぼっちでした。

 しかしそれは、幸いなこととも言えました。カラカラと音が鳴る軽石のような同世代の脳細胞から繰り出される無味乾燥な言葉を聞き流しながら、儀礼的な相づちを打ち続ける単純作業をやらされるよりは、ただひたすら文学に耽溺していたほうが、ずっとずっと、私の気性に合っていたからであります。

 ただ一つ、致命的な誤算がありました。

 それは、三島や谷崎やヘルマン・ヘッセや、栗本薫や、あるいは竹宮惠子や萩尾望都や車田正美を耽読してみたところで、学校の学力は一切上がらない、という事実でありました。

 文学とは、毒物であります。ことに、高校受験にとっては。

 そう。朝から私が憂鬱にさいなまれている一番の理由は、この神奈川県立・薩摩工業高校という県内屈指のヤンキー高校へ通わなければならなくなった原因が、誰のせいでもない、一〇〇パー自分のせい、自業自得だという、そんな残酷すぎる因果律に心を痛めているからなのであります。

「あれ? アイカじゃね?」

 校門前。突然背後から聞こえた声に、私はビクリと硬直しました。いきなり私の、下の名前を呼ばれたからです。

「はは、やっぱりアイカじゃん」

 そう言って馴れ馴れしく私の顔をのぞき込んだ男は――この世で最低、最悪の男――村田新八でありました。

 そう。彼こそが、私の中学生活を地獄の底に陥れた、あの変態コール・無神経ヤンキーなのであります。

「アイカも薩工なのかよ。へへ、おな中がいると、正直なんかホッとするぜ」

 村田新八はテヘラテヘラと笑いながら、頭を掻いています。

「薩工ってホラ、相当悪いみたいだしさ――」

(なっ――)

 彼の頭部を見て、私は絶句してしまいました。

 奇怪なパーマがあてられ、剃り込みが入っているのです。当然、中学時代なら校則違反の髪型ではあるのですが――

(ふ、古い)

 ヤンキーの流行になど微塵も興味はありませんが、私が予想していたヤンキーとは、せいぜいマンガ『クロー□』な感じの不良でした。目の前にいる村田新八のいでたちはなんと、『ビー・□ップ・ハイスクール』なのであります。

「ど、どうしたの? その頭――」

「へへ、アイパーだぜ。カッコいいだろ? こんぐらいキメとかないと、ナメられっからよ」

 村田新八はそう言って、誇らしげに手で髪をかきすくいました。

 なんなんでしょう。哀れ、ですらあります。

 一般的な感覚からすると、その髪型自体が罰ゲームかと思えるような、「変」な髪型なのですが――なぜ、美容院に大金を投じてまでわざわざ「変」になる必要があるのでしょうか。

 しかし――

 周りの様子を見るにつれ、むしろ私の感覚のほうが少数派であることに気づかされました。続々と校門に入っていくヤンキーたち。彼らがことごとく、『ビー・□ップ』な頭髪だったからであります。

 まったくもって、ヤンキーの文化は理解不能です。

「入学式、始まっちまうぞ。行こうぜ、アイカ」

 微笑するアイロンパーマの村田新八。

 彼はさきほどから、許されざる罪を犯し続けています。

(――なんであんたが、私のことアイカとか呼び捨てにしてんのよっ。仲が良いみたいじゃないっ! 大島さん、ってちゃんと他人行儀に呼びなさいよね、この莫迦、死ね、アホっ!)

 もちろん口には出しません。

 私は心の叫びを、素直に口にすることが苦手です。鈍感で無神経なヤンキーどもとは、細胞レベルで人種が違うのです。

「そう睨むなって。協力しようぜ。おな中なんだし、な?」

(――殺すぞ、この変パーマが)


♪いにしえの~ 道を聞きても唱えても~ 我が行いにせずば甲斐なし~


 校歌斉唱。

 声変わりを完了した野太い声が、体育館に響き渡ります。

 十五年に及ぶ私の生涯の中で気づいた、ヤンキーの生態がひとつあります。それは、ヤンキーは学校が大好き、という特徴であります。イベントごとで、とくに顕著です。

 不良を気取るんなら、そもそも学校に来るなやああああっ!

 ――と、声を大にして叫びたいところではございますが、しばしば合理的でない性質が遺伝子に刻まれることもまた、自然界のことわりであります。

 パンダの白黒模様が、厳しい自然の中でどう役に立つのかイマイチ分からないのと同様に、ヤンキーの生態もまた深く考察してはならないものなのでしょう。珍獣は所詮、珍獣。ただ不思議な生き物として遠くから慈悲深く眺めることが、この世界で我々が共存する唯一の方法なのかもしれません。

 聞くところによると、そんなヤンキーたちの一番の大好物は「成人式」というイベントであるらしいのですが、おそらく入学式もまた、それに劣らない彼らの大好物なのでしょう。

 体育館には、そんな珍獣どもがぎっしりと詰まっています。

 学校が指定した制服があるにもかかわらず、それぞれが思い思いに「変」な改造を施した衣装を身に纏っています。髪型も同様に、それぞれが世の中の流行や地球の重力にわざわざ逆らった「変」な髪型をしていました。

 その色彩豊かなヤンキーたちが一堂に集う様は、ある意味壮観である、とも言えます。それは私に、未開の部族の謎めいた祭りを思わせました。

 ここで私は一点、この薩摩工業の特徴に気がつきました。

 それは、女子が異様に少ない、ということであります。

 まあ当然、と言えば当然なのかもしれません。男女を問わずガチで工業が好きなガチ理系は、迷わず進学校や高専へ進むでしょうし、全てのヤンキーが憧れる花形職業・板金工になりたいと積極的に思う痛々しい女子が多数派であるとは、とても思えません。

 もっとも生徒の男女比などというものは、学校案内のパンフレットを読めば一発で判明することではありますが、もちろん私はそんなものなど一切読みませんでした。

 そんなヒマがあれば、角川ルビー文庫を耽読していたいからであります。

 か弱い乙女がただひとり、野蛮なヤンキーどもの集う工業高校へ通学せねばならぬというその身の悲劇を思えば、甘美な頽廃に逃避してしまうこともまた無理からぬ話でございましょう。

「――なあ、アイカ」

 入学式の新入生席。隣に立つ村田新八が、ヒジで私をつついてきます。

 変な髪型のくせに、まったく馴れ馴れしい。

 そもそも新八って名前からして、下っ端感がハンパない。彼に命名権を行使した親の素性が知れるというものです。まさに生まれながらの三下。三下の中の三下。

「そ、そんな睨むなよ。怖えーよ」

「――なに?」

「あそこ、見てみろって」

 村田新八の変パーマのトサカ頭の先をたどっていくと、そこには信じられない光景がありました。

(うそ、でしょう――!?)

 巨人。

 これは私の目の錯覚なのでしょうか。巨大な男が、過剰な装飾の巨大な椅子に座っています。まるで、玉座でありました。

「――あれがこの薩摩の番長、三号生筆頭の島津斉興さんだぜ」

(ば、ばんちょうっ!?)

 その番長へ向けて、なにか大きなものが運ばれてゆきます。屈強な男たち五人が、ワッショイワッショイと運ぶそれは、御輿ではありません。

 巨大なビール瓶でした。

 ビールは、それまた巨大なグラスに注がれ、番長が当たり前のように、ゴクゴクと美味しそうに飲み干しました。――あの、一応、入学式中なんですけど。

 髪型はパンチパーマ。ムショ帰りのヤクザの幹部のような風貌であります。とても高校生には見えません。

「噂によると、斉興さんはもう、数え切れないほど留年ってるらしいぜ」

 村田新八が勝手に、知りたくもないヤンキー事情を解説してくれます。

「――ものすごく、学力が低いの?」

「違う」声をひそめて、村田新八が否定する。「こんな工業高校、自分の名前を書けて、出席日数さえ足りてりゃ誰でも卒業できる。番長の座を譲りたくねえから、わざと留年してるって話だ」

(そ、そんな――)

 驚きのあまり、声が出せません。

(――なんて、お莫迦なのかしら!)

 県立薩摩工業高校――そこは私が悪意を込めて想像していたよりもずっと、ずっと――頭の悪いヤンキーの巣窟のようでした。

 その巨大莫迦番長の傍ら。巨大な椅子の肘掛け部分に、ひとりの女性が足を組んで座っていました。

「――あれは番長の彼女、由羅さんだ」

「番長の彼女――」

 巨大莫迦番長とは違い、体格は普通です。ただ高校生に見えない、という点では番長と一緒であります。美人、といえば美人です。しかし――その髪型、そのメイク――フレッシュさというものが、まるでありません。皆無であります。場末のスナックのチーママのような、すれたオーラが漂っていました。

「あの二人が、この薩摩を仕切っている頭だ。アイカも気をつけろよ、あの二人に目を付けられたら、この学校じゃ生きていけないって話だぜ――」


【解説】

 物語の主人公・アイカが生きるこの時代――

 高等学校における最高権力者は、番長であった。

 学生自治。その美名のもとに教師の権威は地に墜ち、学生は教師たちの束縛から解放された。しかしその自由がもたらしたものは、つまるところ、暴力による支配であった。

 番長――それは厳格な身分制度の頂点に君臨し、絶対的な権力を持った存在である。

 原則、番長は一族の世襲によって受け継がれる。この県立薩摩工業高校の場合、番長は代々島津家の者が継承するしきたりとなっていた。



「ぶち殺すぞオラァ!」

「あんだろコラァ! とっとと金だせやコラァ!」

 入学式の終了とともに、そんな怒号が体育館にこだましました。

 体育館の出口の先に、上級生たちのいかつい顔が並んでいます。通路の両側に列を成すその様は、まるで新郎新婦を迎える結婚式の参列者のようでした。

 しかしそこに新入生たちの入学を祝福する笑顔はまったくありません。凶相・凶相・凶相。顔だけで有罪になりそうなヤンキーたちの顔面が、ズラリと並んでいます。

 上級生たちの目的は、カツアゲでありました。

 体育館の出口は一つ。

 私を含む新入生たちが体育館から出るには、その地獄のカツアゲロードを通るほかないのであります。新入生への無慈悲な洗礼が、まさかこんなに早く訪れようとは思いもよりませんでした。

 新入生たちは為す術なく、次々に上級生のヤンキーにカツアゲされてゆきます。

「なあ。どうしよう――アイカ」

(し、知らないわよ)

 村田新八が、頼りない三下フェイスで私のことを見つめてきました。

 新入生たちの金銭は効率的に、流れ作業のように奪われてゆき、みるみる私たちの順番が近づいて来ます。

(ぐぬぬ――)

 私にはまだ読みたい本や、手元に置いてムヒムヒと楽しみたい本が、たくさんあります。むろんこの私でもイマイチな同人誌を購入してしまい、涙で枕を濡らす夜は少なくありませんが、その私が投じたお金も腐女子の間を流通し巨視的には腐海に貢献していると思えば、そんなに悪い気はいたしません。

 しかしヤンキーに奪われるというのは、全く別の話であります。私のなけなしのお金を、文学を解さない低脳ヤンキーに献上するなど、ゴメンです。断じて許容できません。

「ねえ、」

 私は隣の村田新八を、ヒジでつつきました。

「あんたヤンキーなんでしょ。反逆しなさいよね」

 彼はブンブンと勢いよく首を振りました。

「無理無理無理無理。――あんなに大勢に、勝てるわけないって」

「なによ情けない(勝てるとか負けるとか――どうせお莫迦なんだから、そんなこと考えずに玉砕しなさいよね!)」

「し、しかたねーだろ」

 村田新八が上級生とモメ事を起こせば、彼がボコボコにされている隙に、私が逃げられるというのに。

「おいそこの女ぁ! 大人しく金だせや!」

(ひっ――)

 とうとう、私の順番が回ってきてしまいました。

「――(うう。怖いわ)」

「ああ? 聞こえねぇのか! お前だコラァ!」

 眉毛の無い変な頭のヤンキーが、変テコな顔面で私を威嚇してきます。こんな眉が無いようなニセ平安ヤンキーに、私の文学の世界など到底理解できないことでしょう。そう思うと、なんだか私は、無性に、腹が立ってきました。

「――イ、イヤです」

「あん?」

 私の拒絶に、体育館が一瞬で静まりかえりました。

「ば、ばか――」

 と怖じけづいて止めようとする村田新八を、私は振り払います。

 そして勇気を出して、こう言いました。

「(私はルビー文庫やBL同人誌を買うために、毎日死に物狂いでお金を貯めているの。だからあんたたちにお)金は、一円たりとも渡さない」

「ああ? なにガンつけてんだ、てめえ。ナメてんのかこの女ァ!」

「(これでも私は同人マンガを描いてるんだからね。もし私からお金を取り上げたら、あんたを実物の三倍ブサイクに描いてやる。それだけじゃないわ。そのマンガの中で超恥ずかしい姿を描いて)絶対に私は、復讐する。(でも、あんたみたいな眉無しヤンキーは主要キャラじゃないわ。単なるヤラれキャラなんだからね。開始早々殺されるヤラれキャラ。ぶっふーっ!)だからあんた――死んでも、いいの?」

「う――」

 私のやけっぱちの反論に、その眉無しヤンキーは少したじろぎました。

 しかしすぐに顔を真っ赤に変色させて、

「な、ナメやがって、この女ァ!」

 逆上。ヤンキーは勢いよくその拳を振りかぶりました。

 嗚呼――ぶたれる。

 我ながら、なんてお莫迦なことをしたのでしょう。ヤンキーの生態は、私もある程度把握していたつもりなのですが――。

 彼らには、面子を潰されると逆上するという生態があります。仲間の前では、特に。

 このままでは私は殴られた上に、なけなしの現金までヤンキーに奪われてしまうことでしょう。しかし後悔はありません。BLコンテンツ購入のために貯めていたお金を、無抵抗で奪われるのなんてイヤです。承服できません。

(腐女子たる矜持は伝えた。その上で痛い思いをするのであればそれも本望――)

 私は覚悟をして、ゆっくりと目をつぶりました。

(あれ?)

 ――しかし一向に、私の頬に痛みは訪れません。

「やめろ、虫が」

 その声に驚き目を開く。

 大きな背中。それが、私の視界いっぱいに広がっていました。突如現れた背の高い男が、眉無しヤンキーの拳を止めていたのでありました。

 破れた学帽に、すり切れた学ラン。素足に下駄を履いています。

 その男は、なんというか――

(め、めっちゃ、古い――)

 薩摩の平均的なヤンキーが『ビー□ップ・ハイスクール』だとすると、その男の姿は『男一匹ガ□大将』であります。

 バンカラなのでありました。

 それぞれが一騎当千の珍獣具合を発揮するヤンキーたちの中でも、その男の「男一匹」具合は、群を抜いています。

 なぜなら、この学校の制服は基本ブレザーなのです。あえて学ランという明後日の方向で校則を破る不良は一人も存在しないでしょう。彼、以外は。

「さ、西郷か――。チッ、面倒臭えやつが出て来やがったぜ」

「――」

 バンカラ男は無言で、眉無しヤンキーのことを睨みつけています。

「なんだよ。オ、オレたちだって、三号生の許可をもらってだな――」

「――」

「わ、わかったよ。今日のところはこれくらいにしとくぜ。おいお前ら、ずらかるぜ!」

 なぜか、ぞろぞろとカツアゲヤンキーたちが引き上げてゆきます。

 なんとバンカラ男はたった一人で、しかもなぜか睨むだけで、大勢のヤンキーたちを退散させてしまったのでありました。

「大丈夫か? 一年」

 彼が振り返って、私を見る。

(えっ――)

 その顔を見て、私は一瞬声を失いました。

 意志を感じる太い眉、鋭く光る眼光。そしてシャープな顔立ち――

「二号生の、西郷隆盛だ」

「――お、大島、アイカ」

 西郷隆盛と名乗った彼は、『男一匹□キ大将』というよりは『ジョジ□の奇妙な冒険』のオラオラオラオラオラオラオラオラの人を思わせました。

「アイカか。よろしくな」

 西郷先輩は少しかがんで、私の背丈に目線を合わせて来きました。優しい顔で笑っています。

(か、顔。近いわ――)

「――たいした女だ。その眼で、あいつらを黙らせたのか」

 西郷先輩はそう言っていきなり――私の頭を、ポムってしました。

(む。撫で、られた――)

 大きい手。そして温かい。西郷先輩が私の頭を撫でてくれたのは、それが最初でありました。


【解説】

 西郷隆盛(このとき吉之助)といえば、多くの人は東京・上野公園に立つ銅像のようなぽっちゃり体型を思い浮かべることだろう。

 しかし西郷の体型がぽっちゃりとなったのは、明治以降のことである。その原因は、島流しのときに患ったフィラリア感染症のためだとも、新政府でのストレスとも言われている。

 つまり西郷は、最初からぽっちゃりだったわけではない。

 そもそも上野公園の銅像は、その肥満治療のため医者から勧められた兎狩りを行っている最中の姿である。

 西郷隆盛のキャリアは、郡方書役助という役職から始まる。いまでいう税務署の事務アシスタントといったところだろうか。

 その当時薩摩藩では、農民に対し、苛烈な取り立てが行われていた。西郷の上司にあたる郡奉行・迫田利済は、その苛烈な取り立て方針に公然と抗議して、こんな和歌を詠んだ。


 虫よ虫よ 五ふし草(稲)の 根を絶つな 絶たばおのれも 共に枯れなん


 この虫というのは、搾取に狂う役人たちをさしている。農民を苦しめすぎると、自滅するぞという警告である。反逆と見なされれば、人間の首が簡単に飛ぶ時代――迫田利済は、己の目先の保身より、困窮した農民を救うことを考える豪傑であった。

 若き日の西郷は、この迫田利済から大きな影響を受けたという。

 実際、西郷は生涯にわたって、目の前にいる困窮した民を決して放っておかない男であった。たとえ民を助けることで、自分自身が困窮したとしても。

 ちなみに、西郷隆盛の目力は強烈で、その迫力に並の人間は睨まれただけで平伏したという伝説がある。



(こ、困ったなあ――)

 翌日から、私の周囲で奇妙な現象が起こり始めました。

 朝の通学路。

 周りのヤンキーたちが、私のことをチラチラと見ています。その気配を感じて目が合うと、ヤンキーたちは慌てた様子で会釈を返して来るのです。

「――ふふ。気づいたか?」

 村田新八の声。

「みんなに一目を置かれているんだ。昨日の一件で、アイカは一躍、一号生の筆頭候補になったわけだからな」

「は? なによ一号生筆頭って」

「まあ、平たく言やあ、新入生の番長ってことだな」

「ど、どうして私が番長候補なのよ。女子だし。そんなの、あんたたちヤンキーが勝手に決めればいいことでしょ」

「いいか、これはチャンスだぜ? 薩摩に気合いの入ったスケバンが入ってきたって、もう学校中の噂になっている。これを活かさない手は、ないってばよ」

「お莫迦ね。たった一日で、そんな噂が立つわけないじゃない」

「ふふーん。ところが、なってるんだよ。――その噂を流したの、オレだしな」

 村田新八が親指を立てて笑う。最高にムカつく笑顔でした。

「なっ――なにしてくれてんのよっ!」

「お、怒んなよ」

「怒らせてるのは、あんたでしょっ!」

 思わず大きな声で怒鳴ってしまいました。

 気づくと周りのヤンキーたちがみんな、私のほうを見ていました。「さすがだな」「迫力が違うぜ」「やっぱ怖えーな」などと言うヒソヒソ話が漏れ聞こえて来ます。

 どうやら私は、妙な勘違いをされ始めているようです。

「――そんでひとつ、頼みがあんだけどよう、アイカ」

 村田新八が両手を合わせて頭を下げました。

「オレのこと、舎弟にしてくんねえ?」

「はあああああっ!?」


(ぐぬぬ。ぐぬぬぬぬ――)

 こんなはずではありませんでした。

 私は自分自身の若さゆえの過ちによって、不本意ながらもヤンキーが跋扈する工業高校へ入学してしまいました。しかしそれでも入学そのものを拒絶し、高校に進学しないという選択をするほどの事態とは考えていませんでした。

 同級生との交流を断絶し、孤独にひとりぼっちで過ごすことは、私の中学生活とさほど変わることではないからであります。

 心頭を滅却すれば、ヤンキーもまた涼し。

 無視すればいいのです。そもそも普通科の進学校で「ウェーイwww」などとやっているリア充どもも、私にとってはヤンキーと同等か、それ以上に忌むべき邪悪な存在なのでした。

 私は清く正しい腐女子。

 高校に進学しても孤高に、世捨て人のように、むふむふと腐の道を極める所存でありました。

 にも、かかわらず――

「アイカさん、これを」

 教室。

 一人のヤンキーが大袈裟に私の前でひざまずき、何かを差し出しています。

「なに、これ」

「――『特攻の□』の七巻です。面白いですよ」

「いらないから(怒)」

「そ、そんな――」

 なぜか私は、凶悪な不良少女として、同級生から敬意を払われるようになってしまいました。

「まあまあ。『特攻の□』、面白いよな。あとでオレが読んでおくからよ」

 シレっと私の隣の席に座る村田新八が、そのヤンキーマンガを受け取ります。

「ねえ、」

 私は村田新八に耳打ちをする。

「いくらなんでもおかしくない? なんで昨日の今日で、女子の私がここまでみんなに怖がられてるのよ」

 ヤンキーの知能指数の低さはある程度想定していたこととはいえ、これはおかしい。噂にだまされすぎです。異常であります。

「へへ。それには秘密があるんだよ」

 村田新八がほくそ笑みます。

「噂じゃ、アイカは西郷先輩の彼女ってことになっている」

「――その噂って、あんたが流してるんでしょ」

「そのとおり」

「――ガチで、殺したい」

 私は頭を抱えました。この村田新八は、いったいどこまで私の学生生活をぶち壊すつもりなのでしょうか。

「いいじゃん、いいじゃん。とにかく二号生筆頭である西郷先輩の彼女にケンカをふっかけてくる根性のあるヤンキーなんて、そうそういねーだろうし。バレるまでは安全だぜ」

「莫迦莫迦莫迦。嘘がバレたら、どうすんのよ」

「嘘じゃねーし。噂だし」

 げに恐ろしきは人の噂なり。

 教室のヤンキーたちは村田新八のデマを簡単に信用して、勝手に私を崇め奉ってゆきます。マンガ雑誌の誇大広告にまんまと引っかかる連中は、この手の人々なのでしょう。

(ぐぬぅ。早急に、この誤解を解かねば――)

 などと考えているときに、

「すんません、あの、アイカさんにお客さんが」

 教室に、ある上級生が私を訪ねて来たのでした。

「――ふ。君が、大島アイカか」

「そう、ですけど」

「私は大久保利通。二号生だ」

 柔和に微笑むその男。黒縁の眼鏡が光りました。

 他のヤンキーどもとは違い、制服を綺麗に着こなしています。シュッとしている。なんというか、品、というものを感じます。この学校では非常に珍しい、優等生タイプの人間のようでありました。

 生徒会長風の眼鏡イケメン――

 私の腐った妄想において繰り返し登場してきた、腐女子好みのキャラクターであります。あえて言おう、大好物であるとっ!

「あ、あの――二号生の方が、私になにか?」

「――少し話をしたい。ちょっといいか?」


 大久保先輩が私を連れて行ったのは、学校の屋上でした。

(うぐ。二人きりか――)

 私は少し、教室に村田新八を置いてきたことを後悔しました。でもほんの少しです。彼に会話の内容を聞かれ、またあらぬ噂を立てられでもしたらかないません。

 二人きりの緊張を乗り越えて、話を切り出します。

「――あの、話って、なんですか?」

「君と、西郷のことだ」

「わ、私たち、付き合ってませんからねっ!」

 無責任な噂が、まさか二号生にまで広まっているとは思いませんでした。

「知っている」

「えっ――」

「西郷は、硬派だ。あいつは女不犯の誓いを立てている」

「女不犯の誓いって――西郷先輩はもしかして、お、お、おホモってことですか?」

「違う。そういうわけではない」

「おホモじゃないのに、どうして」

「次期番長をめぐって薩摩工業がいま、二つに分裂していることは知っているか?」

「いいえ――知りません」

「次期番長は以前から、島津斉彬さまと定められていた。それに由羅を中心とした勢力が異を唱え、弟の久光さまを推して薩摩工業を二分している。現番長の島津斉興さまも、由羅側だ」

「はあ――」

「斉彬さまは聡明な方だ。私も西郷も、斉彬さまこそが次期番長に相応しいと思っている。西郷はあれこれ策謀をめぐらす由羅を嫌って、不犯の誓いを立てたというわけだ」

「は、はあ――」

 どうやら西郷先輩は、ずいぶんと下らない理由で女性を避けているようでした。もともとヤンキーの文化なぞ、私には理解不能なのですが。

「そこで相談なのだが――」

 大久保先輩があらたまって、私の顔をのぞき込みました。

「――西郷と、本当に付き合ってくれないか?」


 なっ――


「なっ、なんでですか! いいい、意味がわかりません」

「お似合いの二人。そんな理由では、ダメか?」

「ダメに、決まってるじゃないですかっ! だって、昨日初めて会ったんですよ?」

 大久保先輩が、指でクイっと眼鏡を押し上げる。妖しくレンズが光りました。

「――ならば本音を言おう。簡単な話だ。二号生筆頭の西郷と、一号生筆頭の君が付き合えば、三号生にも対抗できる勢力になる。そうして結束した一号生・二号生連合を以ってすれば、現番長斉興さまに引導を渡し、斉彬さまを番長にすることも可能だろう」

「お、女の子を、なんだと思ってるんですか! 政略結婚みたいなのも意味わかんないですし、そもそも私、ぜんぜん一号生筆頭じゃないですし」

「事実が重要なのではない。君が一号生の筆頭だという、人々の認識こそが重要なのだ。それは西郷との交際においても同様だ」

(こ、この男――)

 大久保先輩のことを優等生タイプだと思った私が、間違っておりました。この男は、鬼畜です。鬼畜眼鏡であります。

 この大久保先輩のキャラを大好物だとぬかした先ほどの私の発言を撤回し、謝罪いたします。

「――西郷と付き合うのは、嫌か?」

「承服しかねますっ!」

「ならいい」

「――へ?」

「実のところ、今日私は君を拷問してでも、強引に西郷と付き合わせようと考えていた。しかし気が変わった。君と会ってみて」

「――いまなんかサラリと怖いこと言いましたよね」

「ひとつ君に、提案があるのだ」

 大久保先輩は屋上の金網に私を追い詰め、逃げ道をふさぐように金網に手をかけました。

(こ、これは――)

 俗に言う金網ドンであります。まさかリアルにそういうシチュが自分の身に降りかかろうとは思ってもみませんでした。腐っているとはいえ、この私も年頃の乙女ではあります。不覚ながらドキドキしてしまうことを誰が責められましょう。

 鬼畜眼鏡先輩が、私を見下ろして来ます。

「――な、なんですか? 提案って」

「私と、交際をしないか? むろん男女交際だ」

「い、意味がわかんないです。なんでいきなりそうなるんですか」

「私は君のことを、可愛いと思った。これ以上、理由が必要か?」

(えっ――)

 これはドッキリか? ドッキリなの? 私はキョロキョロと周りを見渡しましたが、屋上には二人きり。カメラを構える悪童の姿はどこにも見当たりません。

「からかわないでください。――可愛いとか」

「ふふ。からかっているのではない。奸計を弄しているのでもない。私が君のことを可愛いと思ったその気持ちに偽りはない。本気だ。それに私は女不犯の誓いもしていない。もし許してくれるのならば、いまここで君にキスすることだってできる」

 大久保先輩がそう言って、ゆっくりと顔を近づけて来ます。

(えっ――なになになに)

 体勢は依然、金網ドンのまま。このままでは彼の唇が、私の唇に重なってしまいます。

「だ、だめっ」

 私は必死に両手で大久保先輩の体を押しのけました。

「なに考えてるんですか、いきなり。非常識です」

「失礼――少し性急すぎたかな」

 大久保先輩が眼鏡を指で押し上げました。

「ふふ。西郷が君の頭を撫でたと聞いて、私も気持ちが急いたのだろう」

 その物言いに、私は少しムッとしてきました。

「どうして西郷先輩の話になるんですか。私にキスをしようとしたのは大久保先輩です」

「――君は、君自身の魅力に、鈍感すぎる」

「な、なんですかそれ」

「女不犯を誓った硬派の西郷が、君の頭を撫でた。その事実を、君は少々軽視しているのではないか。あの西郷が、好意のない女性の体に触れるとは思えない」

「わ、わけがわかんないですよ――」

「ふ。まあいい。私との男女交際の件は、熟慮してくれたまえ」

 そう言って大久保先輩は、私に背中を向けました。

「君と私が付き合っても、対外的には一号生と二号生が連合したように認識されることには変わりがないからね」

「結局、それですか」

「君のことを魅力的だと思ったのは本当だよ。だからこそ、こうして平和的に交渉をしている。しかしこれだけは憶えておいて欲しい。――私が目的のためであれば、手段を選ばない男であることを」

 薩摩工業二号生・大久保利通――

 彼は、その手のキャラに免疫があるはずの私がドン引きしてしまうほどの、鬼畜眼鏡でありました。