蚊に刺されて一番最悪なのは、むこうずねの辺りだと思う。

 単純にかゆいし、骨が浮き上がったところはうまくかけないし、制服のスカートとソックスの間って、なんかすごい目立つし。

 だからかゆみ止めを塗ってすーっとしたいのに、薬箱に見つけたそれは見事に空っぽだった。お父さんは絶対使わないから、補充しなかった去年のわたしが悪い。

「おばあちゃんがいまも一緒に住んでたら、きっと知らないうちに新しいのを買っておいてくれたのに……」

 そう考えた自分に腹が立ち、わたしはピンクの腫れに指先を伸ばした。

『ノナ。こういうところを刺されたら、爪の先を押し当ててバツをつけるんだ。そうするとほら、比較的、跡が目立たずかゆみもおさまる。おまけにロボットみたいでかっこいいだろう?』

 むこうずねの腫れにネジの頭を作り、ニヤリと笑ったお父さんの顔が頭の隅をよぎる。隣には変なこと教えないでと呆れるお母さんがいて、喜んで自分をロボットに改造する小さなわたしもいた。

「……ふん」

 鼻で大きく息を吐き、ベッドから立ち上がる。自分の部屋を出てお風呂場へ向かうと、シャワーの水を思い切り足にかけた。

「ふっ……ひぃ」

 かゆみが引いていく気持ちよさに、思わず変な声が出る。でもこれでいい。足にばってんなんてつける必要ない。わたしはもう子どもじゃない。

 すっきりしたら少し気分が晴れた。ついでにお風呂も洗っておこう。

 洗剤のノズルを浴槽に向ける。わたしは少しためらってから、ぴゅっぴゅと盛大に発射した。景気よくお風呂のフタにも乱射して、スポンジでゴシゴシとこする。

「いい気味、AN」

 泡だらけになった浴室で、わたしは気分爽快だった。

『AN』はわたしがつけたお父さんのあだ名。先月十四歳になったわたしと、四十四歳のお父さんとの間には、その年齢差以上に理解できない溝がある。

 お父さんは携帯もガラケーだし、新聞紙でニュースを読むし、明日の天気が知りたいときは、永遠とテレビのチャンネルを切り替えるし。

 おまけにわたしが使う言葉に、『永遠とじゃない、延々とだ』とか、『一番最悪は意味が重複している』なんて感じで、いちいち文句をつけてくる。ニュースも天気もスマホで見れるよと教えてあげても、『ら抜き言葉はやめろ』とまた怒られる。

 国語の時間に、先生が「デジタルネイティブ」という言葉を教えてくれた。わたしたちみたいに、生まれたときからパソコンに触れている世代を指す言葉らしい。

『そんな風に世代が違うと、外国人と話すみたいに言葉が通じないことがある。俺とおまえらとかな』

 先生は騒がしい教室を見渡し、誰も聞いていない授業を続けた。

 申し訳なく思いつつも、わたしはその話にとても納得したのを覚えている。

 お父さんはアナログ世代だから、わたしと話がかみ合わないのだろう。『このお菓子、超やばい』って言ったら、『そんなにまずいのか?』って返ってきたし。

 昔はよかった。お父さんも子どもっぽいところがあったけど、わたしも子どもだったから。お互いに子どもの言葉でしゃべって聞いて、話がきちんと通じていたから。

 でも、最近のお父さんはとにかくやばい。

『無駄に洗剤を使うな』、『スマホばっかり見るな』、『食事のときにジュースを飲むな』、『ビールはいいんだ』、『口答えするな』、『親の言うことを聞け』、『宿題やったのか?(やってないだろ?)』、『いま何時だと思ってるんだ!(夜)』、『いま何時だと思ってるんだ!(朝)』、などなど。機嫌の悪い子どもみたいに、こっちの言い分も聞かずに全否定。

 お父さんはアナログな上にとことん「否定的」。だからアナログネガティブの頭文字を取って、ANと呼ぶことにした。

 ちなみにわたしは、お父さんがスーツに白靴下でかっこ悪いなあと思っても、その靴下を丸めたまま洗濯機に放り込んでも、別に文句を言わない。ゴム手袋をしてこっそりANを連呼しながら、丸まった靴下を伸ばして洗うだけ。

 否定の言葉にはトゲがあって、いつまでも相手の心に刺さると知っているから。

 そういう意味では、わたしも「消極的」かもしれない。けれど相手を傷つけるよりはずっといいと思う。お父さんのことは嫌いだけれど、無神経な言葉で誰かの人生を狂わせるのはもっと嫌だ。

 ずっと、そう思っていた。

「ノナ、飯だぞ」

 お父さんがキッチンでわたしを呼んでいる。

「……」

 わたしは返事の代わりにコックをひねり、もう一度すねに冷たい水をかけた。


「ノナ、学校はどうだ」

 お父さんが『いただきます』のあとにそう続けるのは、百回目くらいだと思う。

「わたし、いじめられてるよ」

 そう言ったら、お父さんはどう思うだろう?

 きっと、どうも思わないんだろうな。たぶん理由も聞かず、『おまえにも問題がある』って否定されるだけ。お父さんはわたしを心配しているんじゃなくて、親の義務として会話しているだけだから。

「別に」

 わたしはいつもと同じ言葉を返し、無言で食事をする。

 お父さんの作る料理は、おいしくもまずくもない。この間までは、なんでも味が濃くて文句を言いたかったから、上達したんだと思う。別にどうでもいいけど。

「ごちそうさま」

 作業みたいな食事を終えて立ち上がると、お父さんと目が合った。なにか言いたげにその口が半分開いたけれど、わたしは無視してキッチンへ向かう。

 あれほどガミガミうるさかったANのお父さんは、先週わたしがあれを言ってから口数が少なくなった。それはずるい言葉だったかもしれないけれど、言わせたほうが悪い。先に『反抗期か?』なんてこっちのすべてを封じる否定をしたのは、お父さんのほうだ。

 心のもやもやを押し流すように、思い切り蛇口をひねる。

 黙々とお皿を洗っていると、すりガラスの向こうに雨を感じた。

 水を流しているから音は聞こえないのに、六月の雨は匂いと温度で存在を押しつけてくる。まるでしゃべらなくても目でわたしを否定する、お父さんみたいに。

「……うるさいよ」

 わたしは毎日を穏やかに過ごしたい。お母さんやおばあちゃんみたいな物静かに見守ってくれる人たちと暮らして、誰も否定せずに生きていきたい。

 なのに、お父さんも、学校も、雨も、みんながうるさくてすごくイライラする。

「早く、週末になって」

 水音に愚痴をまぎれこませ、わたしはリビングへ戻った。

 ゴールデンウィークが終わったから、次の祝日はもう夏休み。雨も学校もうっとうしいいま、わたしの楽しみは週末しかない。

 ごく近い将来、わたしは家を出ていくつもりでいる。具体的には田舎のおばあちゃんに引き取ってもらう予定。

 だから週末は、神社やお寺で祈っていた。体調を崩したおばあちゃんが早くよくなりますように。そしてANなお父さんのところから、わたしを引き取ってくれますようにって。それだけが、いま唯一の楽しみ。

「ノナ、本当に学校でなにもないのか?」

 ソファでテレビを見ていたお父さんが、発泡酒片手に言った。

「……」

 わたしは返事の代わりにお鈴を鳴らし、仏壇のお母さんに手を合わせた。



 チャイムが鳴って四時間目の授業が終わる。

 クラスメートが一斉に立ち上がり、わいわいと騒ぎながら机を寄せ合った。

 しばらくしてクラス内にいくつか島ができたけれど、わたしのところは孤島。

 二週間前まではこうじゃなかった。給食の時間になると、わたしもハルカとユイナが座っている前に移動して、隣の男の子に席を代わってもらっていた。

 そうして誰それが部活を辞めたとか、あとで一緒にトイレ行こうとか、そのうち三人でダンスユニットを組もうとか、そんな話をしながら給食を食べていた。口に牛乳を含んでお互いに変顔もしたし、こっそりマンガを貸し借りもした。

 要するに、わたしも普通のJCだった。

 でもある日、いつものように男子に声をかけると、彼はなにか言いたげに口を半分開き、けれど結局なにも言わず、わたしの席へと移動した。

 ひょっとして、彼は席を代わりたくないんだろうか? でもそのことを言えないから、あんな風に口をぱくぱくして言葉をのみ込んだの?

 彼もわたしと同じで、争うよりも我慢するタイプなのかもしれない。そう気づいておおいに反省した。

「わたし、明日から自分の席で食べるね」

 給食を食べながらハルカとユイナに伝えると、理由を尋ねられた。でも男の子のことを言えば、「あんな陰キャ、気にしなくてよくない?」と返ってくるだろう。そこで更に言い返して友だちを否定するのは嫌だ。

「なんとなく。でもトイレとかは一緒に行くから」

 そんな風に答えたところ、翌日からハルカもユイナも一緒にトイレに行くことはおろか、口も利いてくれなくなった。

 誤解されたと気づいたときにはすでに手遅れ。グループメッセンジャーのアプリを開くと、ハルカとユイナが『N』――わたしの悪口を書き連ねていた。

 それによると、地味な生徒であるわたしは、お情けで彼女たちと仲よくしてもらっていたらしい。『なのにうちらをうざいとかナニサマ?』と、ハルカとユイナはたいそうご立腹だった。

『うざいなんてひとことも言ってない』

 そう伝えても、わたしのメッセージは無視される。うんざりだった。ただでさえお父さんがうるさくてイライラしているのに、これ以上、誰かに否定されたくない。

 だいたい、わたしを地味だと言うけれど、ハルカとユイナも似たようなものだ。わたしたちはみんな普通の女の子で、ときに言い過ぎてケンカにもなるし、時間がたてば仲直りもする。

 だからわたしも、ふたりのことを無視した。ひとりでおいしくもまずくもない給食を食べ、ぼっちの休み時間を過ごした。去年ハルカとユイナがケンカしたときは、三日くらいで元に戻ったっけと思い返しつつ。

 けれど、問題はわたしが予想しなかったほうに転がっていく。

 クラス内に孤島はいくつかあるけれど、基本的には全員が男子だった。だからひとりで給食を食べている女子は、どうしたって浮く。悪目立ちする。

「ちょ、ウケる! 野菜が野菜食ってんだけど! トモグイ!」

 作業のように給食を食べていると、隣の大陸で笑いが起きた。

 発言したのは南マチだ。彼女はクラスのリーダー的存在ではないけれど、そろそろ髪を染めたりピアスを開けたりしそうな、目立つポジションにいる生徒。

「よく言われる」

 わたしは愛想笑いとともに答えた。これは「月観野菜」と書いて「ツキミノナ」と読むわたしの名前の宿命だから、いちいち怒ったりしない。

 その後に南マチの取り巻きAが「ベジタブル!」と叫び、取り巻きBが「マジベジタブル!」と返してなぜか爆笑が起こったときも、わたしは一緒に笑っていた。たぶんこの子たちは箸が転んだら、「マジチョップスティックスローリン!」って笑うんだろうなって、内心呆れながら。

 給食に野菜が出ないことはないので、この「いじり」は毎日続いている。これもまたうんざりだけれど、わたしは空気を読んで笑っていた。

 無視したり過度に反応したりすると、「いじり」は「いじめ」になる。どうせもう何日かすれば、飽きっぽい彼女たちは別のなにかに飛びつくだろう。

 そう思っていたのに、わたしはうっかり自分からネタを提供してしまった。

「うっわ、なにそれ! 御札? こわっ!」

 昼休みのひまつぶしに、わたしは家から持参した御朱印帳を眺めていた。それを南マチが目ざとく見つけ、瞳を輝かせてやってくる。もちろん悪い意味で。

 しまったという顔はしなかったつもりだけれど、南マチはどう見ただろう? ここは下手にごまかすより、きちんと説明したほうが素直に興味を失ってくれるかもしれない。そう考えた。

「御朱印は御札じゃないけど、それに近いものかな」

 わたしは南マチが見やすいように、御朱印帳の向きを変えた。蛇腹式に展開された十六枚の固い和紙には、現在御朱印が八体まで連なっている。

「このハガキサイズの一枚一枚、正確には一体だけど、ここに墨書きされたご本尊の名前や参拝日、それから梵字や寺社名が押されたハンコを総称して、御朱印って言うんだよ。基本的には各地のお寺や神社にお参りして、お気持ちを支払うと授けていただける参拝の証かな」

 ちなみに「一体」と数えるのは、御朱印は神様の分身に近いもので、ご神体と同じと考えるべきものだから。そういう意味で、ありがたみは御札に近いと思う……なんて、このときのわたしはのんきに考えていた。

「は? なんか急にしゃべりまくってキモいんですけど」

 体が凍った。「止まれ」と命令されたロボットみたいに、頭も思考を放棄する。

 南マチの言葉を受けて、取り巻きが「きっしょ」、「マジそれ」と同調した。その空気はあっという間に教室内を覆い、すべての生徒が好奇、というより奇異の目をわたしに向けてくる。

「ていうか、なんでそんなの集めてんの? マジヤバくない?」

「あたしテレビで見た! 『御朱印ガール』とか言うんだよ」

 その言葉はメディアが作り出したレッテルで、SNSの影響で集印を始めた女の子のことを指す。彼女たちは寺社のジャパネスクな雰囲気を楽しみ、インスタ映えする朱塗りの鳥居を撮影し、土地土地の和スイーツを食べ、それをネットで報告する存在なのだと、取り巻きAが説明した。

「なんかマナーも悪いって、神社のお坊さんがテレビで言ってた」

 確かにそういう人もいるけれど、それは神社にいるお坊さんくらいレアな存在だと思う。わたしが出会った御朱印ガールのおねえさんたちは、みんな礼儀正しく親切だった。作法がわからず迷っているわたしに手本を見せてくれたし、オススメの御朱印ブログを教えてくれたし。

 でもそんなことは関係なく、南マチとその取り巻きは、わたしをいかにもな御朱印ガールと決めつけた。取り巻きBがネットに詳しいようで、やれインスタのアカウントを教えろとか、スイーツの写真を見せろとか、そんなものはないとわかっていながら、わたしをおもちゃにするため騒ぎ立てた。

 わたしはそれを聞き流せばよかった。アカウントも写真もないよーとへらへら笑っていれば、一週間後にはまた元の生活に戻る。

 なのにわたしは、立ち上がって叫んでしまった。

「わたしは遊び半分でお参りしてるんじゃない!」

 たぶんお父さんのこととか、ハルカとユイナのことで、イライラしていたんだと思う。初詣先の神様も知らないような人たちに、あれこれ言われるのも嫌だった。

 でもすぐに後悔した。よりにもよって一番最悪な相手にたてついてしまったと、恐怖が足をすくませる。

 そんなわたしの様子を見て、南マチの顔がくちゅっとゆがんだ。

「へえ。じゃあなんでそんなキモいの集めてんの?」

「それは、お父さんが……じゃなくて、おばあちゃんが……」

 説明にまごついているとチャイムが鳴った。

 五時間目の授業の間、わたしは明日からどうなるのかと不安だった。

 こっそりグループメッセンジャーを見てみると、すでに『ノナ』は退会させられていた。今頃ハルカやユイナも加わって、わたしの悪口で盛り上がっているんだろう。

 胃がむかむかして気持ち悪かった。でも早退したら弱みを見せる気がして、わたしは無理にすまし顔を作った。

 だから本格的に落ち込んだのは、家に帰ってから。

 別に南マチがいじめの常習犯というわけじゃないけれど、あのゆがんだ笑みが恐ろしかった。あれは愉快な状況に反応したというより、どうすれば一番面白くなるかを考えている顔だったから。

 わたしがベッドでふさぎ込んでいると、お父さんがまたガミガミ言ってきた。

 中学生の娘が電気もつけずに部屋にいたら、心配するかそっとしておくのが普通の親だと思う。カッとなって言い合いになった挙げ句、わたしはあの言葉を返した。お父さんはショックを受けたみたいだけれど、こっちはそれどころじゃない。

 翌朝、憂鬱な気分で学校に行く。

 けれど、とりたててなにもなかった。給食の時間も南マチと取り巻きはわたしをニヤニヤ見ているだけで、いつものいじりもない。

 不気味だった。あれだけで終わるはずもないから、きっと水面下で盛り上がっているんだろう。遠くの席のハルカとユイナも、わたしを見て笑っていた。

 次の日、登校して下駄箱を開けると、上履きがびしょ濡れだった。これは知っている。気にせず履いていると、「なんか臭くない?」とクラス中がざわめき、上履きが便器の中に漬け込まれていたと気づいて、二重にショックを受けるパターンだ。

 わたしは上履きを捨て、体育館履きで授業を受けた。

 二時間目、わたしは「宿題を忘れました」と先生に謝らされることになった。やってきたはずのプリントが、スクバの中から消えていたから。

 犯人はわかっている。でも証拠がない。怒って抗議しようにも相手は集団。担任は事なかれ主義だから、まともに相手もしてくれない。ANなお父さんに言えば、わたしが悪いと否定されるだけ。

 どうしようもなかった。思い返すと気持ち悪くなるので詳細は語らないけれど、巧妙で、狡猾で、ささやかな嫌がらせは、以後毎日続いている。

 いまのところ大きな被害はないけれど、そのうち行為がエスカレートするかもと思うと不安に吐き気がした。夜ベッドに入ると、メッセンジャーアプリに書かれているであろう悪口が、見てもないのに頭の中でうるさく聞こえる。

 はっきり言って相当やばい状況だけれど、わたしはなんとか耐えていた。

 だってわたしには、「逃げ道」があるから。



「晴れたぁ!」

 目覚めてすぐに窓の外を見て、わたしはガッツポーズを作る。

 待ちに待った土曜日。今日は遠出して「お遍路さん」をするつもりだった。ここのところ降り続いていた雨が止んだのは、とても幸先がいい。

 ウキウキした気分で服を着替え、キッチンで朝食を済ませる。ついでにちゃちゃっとおにぎりを握って、水筒の中にパックのレモンティーを移し替えた。

 部屋に戻ると鏡の前で、いつもは下ろしている髪をふたつ結びに。

 気合いは十分。さあ出かけようと御朱印帳をリュックに入れたところで、お父さんに声をかけられた。

「ノナ、出かけるのか」

 まだ寝ていると思ったのに、お父さんはいつの間にか仏壇の前にいた。もうちょっとで家を出られたのに、一番最悪のタイミング。

「ノナ、出かけるのかと聞いているんだ」

「……見ればわかるじゃん」

「答えになってない!」

「そうやってガミガミうるさい人と暮らしたくないから、お参りに行くんだよ! おばあちゃんに元気になってもらって、わたしを引き取ってもらうためにね!」

 そう叫びたかったけれど、結局なにも言わずに靴を履く。

「おい、ノナ」

 呼び止める声を無視して、わたしは玄関を飛び出した。


「やっと着いた。遠かった……」

 立派な仁王門を見上げ、安堵と疲労でほっと息を吐く。

 わたしが住んでいるのは川沙希の望口というところで、東京の多摩市にあるここ高幡不動には、電車を乗り継いで一時間ちょっとかかった。

 本当はもっと早く着くルートもあったけれど、電車賃的には四百十二円のこれが一番安く済む。中学生のおこづかいでは、集印も簡単じゃない。

 そういう意味でも、おばあちゃんには早くよくなってほしかった。わたしだって年頃のムスメなので、ほしいもののひとつやふたつはある――。

「違います違います! いまのなし!」

 わたしはぶんぶん首を振り、神様に訂正を念じた。

 これからわたしが行うのは「お遍路さん」、つまりは四国八十八カ所巡り。もちろん東京は四国じゃないけれど、高幡のお不動さまには、四国八十八カ所を模したミニチュア版の巡拝コースがある。その名も「山内八十八カ所」。

 通常聖地を巡礼する際には、まず「願立て」から始める。そうしてすべての札所を回ると、「結願」――つまりは願いごとがかなうと言われている。

 一時間で回れる山内八十八カ所でも同じご利益があるのか不明だけれど、わたしはおばあちゃんが早くよくなるようにとお参りにきた。それが心の隅でうっかり欲したマンガやゲームでかなえられたら、泣くに泣けない。

 まだ参道だからセーフだよねとびくびくしつつ、わたしは門前で一礼した。

「今日は、おばあちゃんの回復祈願できました。よろしくお願いします」

 あらためて願いごとをつぶやき、仁王像の間を通って境内を進む。

 手水舎で手と口を清めたら、まずは手前にある不動堂に参拝。次いで七福神の弁天さま、その後にご本尊の大日如来さまのお堂で手を合わせ、いったんお参りは終了。お賽銭はそれぞれに五円ずつ。

 別にケチったわけじゃなくて、「五円はご縁」だと、御朱印ガールのおねえさんたちから教わったブログで読んだから。書いているのはおじさんぽい人だったので、わたしは勝手に「御朱印おじさん」と呼んでいる。言葉の選びかたに優しさがある文章で、「こういう人がお父さんだったらよかったのに」と思いつつ、わたしはときどきチェックしていた。

 お父さんを思い出してもやっとなったので、急ぎ足で授与所へ向かう。受付の人に御朱印帳を差し出し、お願いしますと初穂料を納めた。

 本当は全部をお参りしてからお願いするものだけど、いまはアジサイのシーズンで参拝客がものすごく多い。御朱印を授けていただくのも時間がかかりそうなので、待ち時間のうちに八十八カ所を巡ろうという目論見。

 それではと水筒のレモンティーを一口飲み、わたしは山内八十八カ所へ続く山道を歩き始めた。

 が、わずか数歩のところで、「山内第一番」の立て札と、弘法大師像に出会う。

 辺りを見回すと、すぐそばに「二番」もあった。どうやら思った以上にぎゅっと詰まった聖地らしい。体力に自信がないから不安だったけれど、これならわたしも一時間で巡礼できるかも。

「おばあちゃんの体調がよくなりますように」

 目を閉じて像の前で手を合わせる。わたしを引き取って欲しいという下心はあるけれど、このお願い自体は本心だった。

 一昨年にお母さんが亡くなり、わたしとお父さんのふたりだけでは大変だろうからと、おばあちゃんが田舎から出てきてくれた。

 おばあちゃんはANなお父さんと違って、いつでも静かに話を聞いてくれる。だからわたしはたくさん甘えたし、お父さんも自分の母親だから遠慮がなかった。

 そうしてわたしたちが頼りすぎた結果、おばあちゃんは体調を崩した。明らかにわたしたちのせいなのに、「ノナちゃん迷惑かけてごめんねぇ」と、おばあちゃんは申し訳なさそうに主治医のいる田舎に帰っていった。

 だからわたしは、一生懸命祈る。満願成就して田舎に引き取ってもらえたら、家事も全部やるつもりでいる。お父さんの分まで、おばあちゃんに恩返ししたいから。

 そのためにもまずはお参りと、わたしは続く二番、三番と、快調に巡礼した。

 やがて二十番を過ぎた辺りで、「ちょっと一息」と足を止める。

「いい気持ち……」

 目を閉じて胸いっぱいに息を吸い込むと、土と緑の匂いがした。風も吹いていないのに、空気がひんやりとして涼しい。

「静か……」

 山の中だからというわけじゃなく、寺社はどこにいても静けさを感じられる。あちこちに参拝客がいてもうるさく感じないのはなぜだろう。ほどよい緊張が世俗を忘れさせてくれるから? あるいは神前の空気を吸って心が洗われるのかも。

「ほら、この部分がアジサイの本当の花、『真花』だよ。ぼくたちが花だと思っている部分は『装飾花』、つまりはガクなんだって」

 ふっと男の人の声が聞こえ、わたしは薄く目を開ける。

「その豆知識、結構メジャーですよね」

 山の斜面で色づくアジサイの前に、大小ふたつの人影があった。

 大きいほうは女の人で、退屈そうにあくびをしている。短い黒髪をきちんと切りそろえていて、ぱっと見は十代後半くらい? でも涼しげな目元と口元に、妙に大人の余裕がある。年齢不詳……というより、色んな人を見てきた経験がありそう。

 そんなミステリアスなおねえさんの隣に立っている、小さいほうの影。最初は子どもかと思ったけれど、そのシルエットがやけにずんぐりしている。

 不思議に思って目を見開くと、小さな体は全身真っ白な毛で覆われていた。そのくせ背中の部分だけ、茶色のエプロンをしているみたいな模様がある。そして恐ろしいことに、アジサイに伸ばした指先には、黒くて太い爪がにょっきり生えていた。

「ほ、ホッキョクグマ……!」

 その生き物を形容する言葉を、わたしはほかに知らない。

「えっ」

 まるで人が驚いたような声を発し、ホッキョクグマが振り返る。

 クマにしてはちょっと顔が細長かった。その目もやたらとつぶらでかわいい。

「あの、『ホッキョクグマ』ってぼくのことですか?」

「えっ」

 今度はわたしが驚いた。クマがしゃべった。優しそうなおじさんっぽい声で、わたしに質問をしてきた。どうしよう? すたこらさっさと逃げるべき? なんかいまも小首をかしげてすごくかわいいけど、クマってやばいよね?

「あの、ぼくは有久井と申します。クマじゃなくてアリクイです」

 自らをアリクイと名乗ったホッキョクグマが、かぶっていた帽子を取ってぺこりとお辞儀した。その短くてふさふさした手が、名刺を差し出している。


 有久井印房 店主 有久井まなぶ


 好奇心に負けてのぞき込むと、そんな文字が書いてあった。アリクイだから有久井なの? それにしてはちょっとぽっちゃりしてるし、やっぱりクマなの? なんで名前がひらがななの?

 目の前にクマっぽい動物がいるのに、わたしはどうでもいいことを考えていた。混乱しているというより、かわいい外見に危機感が反応してくれない。

「この地には、かつてこんな言い伝えがありました」

 白いアリクイの隣にいたおねえさんが、神妙な面持ちで一歩前に出る。

「『アジサイの咲く季節、悩める乙女が山道を歩いていると、そこに伝説の白いアリクイが現れて願いごとをかなえてくれた――とまではいかないけれど、まあまあ相談に乗ってくれた』と」

 おねえさんはにっこり笑い、アリクイが持っていた名刺をわたしにくれた。

「うちのお店は、川沙希の望口というところにあります。ちょっと遠いけど、よかったら遊びにきてくださいね。驚かせたお詫びにご馳走しますよ。店長が自腹で」

 それではと、おねえさんが背中を向けて去っていく。

 アリクイもぺこりと頭を下げて、おねえさんの後を追っていった。

「宇佐ちゃん、またあんな適当なことを」

「店長が悪いんですよ。『会合ついでにお参りしよう』なんて言うから。あの子をびっくりさせたフォローから流れるように営業まで持っていった、わたしの手腕をほめてください。ごほうびもください」

「でも、ぼくを神様みたいに言うのは……」

「デモも製品版もありません。今日はまかないとは別におやつも要求します」

 そんな会話を最後に、ふたり(?)の姿は見えなくなった。

「なんだったの、いまの……?」

 わたしは全身脱力し、ぺたんとその場にへたり込む。

「幻覚? 夢? わたし寝ちゃってた……?」

 つかの間の出来事だったからか、どうも現実感に乏しい。けれどわたしの手の中には、白い名刺がきちんと残っている。

「『印章及び軽食の製造販売』……? なに屋さんなのこれ?」

 謎はますます深まるばかり。

 でも場所が場所だけに、不思議な体験をしてもおかしくはないと思う。こういうところで神様やアヤカシ――つまりは妖怪に出会う話ってよく聞くし。

 それにしたってしゃべるアリクイはどうなのと思わなくもないけれど、少なくとも都市伝説にある、「見ただけでアウト」なオバケっぽくはなかった。

「じゃあ……いいのかな。うん。あのアリクイはいいアヤカシ。出会ったのはおばあちゃんがよくなる前触れ。きっとそう」

 そう思うことにして、わたしは気分よく巡礼を再開した。

 静かな場所にいるときのわたしはポジティブだなあと、自分でも思う。


 一時間かけて八十八番目の巡礼を終えると、そこはかとない達成感があった。おばあちゃんわたしがんばったよ、満願成就だよと、拳を握って目を閉じる。

 それだけでも感慨深いのに、授与所へ戻って御朱印帳を受け取ると、思わずジーンとなってしまった。

 御朱印は各寺社に一体というわけじゃなく、お参りした箇所ごとにいただける場合もある。高幡のお不動さまでは、ご本尊の大日如来、その化身の不動明王、それに弁財天と、八十八カ所を巡った証として、弘法大師の印を授けていただけた。

 わたしは集印を始めたばかりなので、御朱印の数が増えること自体がうれしい。達筆な墨書きはお守りみたいで心強いし、自分はこんなにたくさん静かな場所を知っていると思うと、日常生活でも安心できるから。

「お若いのに、偉いですね」

 背後で若い女の人の声がした。年齢のせいか、ひとりで参拝しているとこんな風に声をかけられることがある。だいたいはおじいちゃんおばあちゃんだけれど、ときどきは御朱印ガールっぽいおねえさんたちもいた。

 今回もそうかなと顔を上げると、声の主はさっきアリクイを『店長』と呼んでいたおねえさんだった。

「あれ? 店長店長。このハンコ、どこかで見た覚えありますよ」

 おねえさんは興味深そうに、わたしの御朱印帳をのぞき込んでいる。

「うん、夕子さんの印だね。先代のときからうちで彫らせていただいてるんだ。工房にも印稿が残ってるよ」

 おねえさんの後ろから、アリクイがひょこりと顔を出した。

 わたしは「出た!」と、目を見開く。

「夕子神社の御朱印ですかー。それはまた、ご縁がありますね」

「うん。夕子さんには縁結びのご神木があるから、そのおかげじゃないかな」

 おねえさんとアリクイが、わたしを見て微笑んでいる……かは微妙だけれど、表情は優しげだった。間近で見ると本当に動物っぽい。

 それは置いといて、わたしはちょっと驚いた。確かに夕子神社にはご神木があるけれど、別に立て札なんかがあるわけじゃない。パワースポットとしてはとてもマイナーで、縁結びのご利益があるなんて話、わたしも御朱印おじさんのブログを読んで初めて知った。それを知っているなんて、このアリクイよっぽどの通? もしくは本当に神様かアヤカシ?

「ああ、この印。神鳴寺にもお参りしているんですね。あそこのご住職、変わっていたでしょう?」

「え……? はい! カミナリ和尚!」

 あの和尚さんまで知っているなんてと、わたしは思わずうれしくなった。

 神鳴寺にはいつも苦虫を噛みつぶしたような顔で境内をうろつき、参拝客をつかまえては「喝」を入れる名物和尚さんがいる。作法を守っていても、爪が長いとか、髪を染めるなとカミナリを落とされるので、わたしは授与所に並んでいる間、ずっと身を縮こまらせていた。

「あらあらどうしました? 急に暗い顔をして」

 わたしは「なんでもないです」と、おねえさんに笑顔を作る。

 本当になんでもない。神鳴寺もうちから近いので、初めてお参りにいったときはハルカとユイナも一緒だった。それをちょっと思い出しただけ。

「あの和尚さんには、ぼくも怒られました。『ふわふわするな!』って。どうもハンコがあるところにくると、ぼくは浮き足だってしまうみたいで」

 わたしがカミナリを落とされたことを思い出してへこんでいると誤解したのか、アリクイが励ますように言ってくれた。

「それたぶん、態度じゃなくて見た目のことですよ」

 おねえさんの冷静なツッコミに思わず吹き出す。アリクイのどこに文句をつけようか迷っている和尚さんを想像してしまった。

「あ、降りそうだね」

 唐突にアリクイがすんすんと鼻を動かし、空を見上げる。

「店長が言うなら降りますね。傘はお持ちですか?」

 おねえさんはわたしに聞いているらしい。首を横に振る。

「御朱印帳の最初のほうが夕子さんや神鳴寺ということは、あなたは望口にほど近い場所に住んでいますね?」

「は、はい」

「ところでもうすぐ雨が降りますが、わたしたちは車できています。知らない人の車に乗るのは絶対ダメですけど、わたしたちが会うのはもう二度目。これもなにかの縁ですし、水筒持参な節約家さんの電車賃も浮きますし、よかったら乗っていきませんか? 店長もわたしも、かわいいだけで無害ですよ?」

 ここまで言われて断れる人がいたら、わたしは心の底から尊敬する。