あるひとつの古い夢をたびたび見る。

 その夢の中では、さまざまなものごとが僕にこう問いかけてくる。

 人生の終末に、あなたが望むものはなんですか?

 この世界から失われてしまう前に、あなたはなにを求めますか?

 そんなふうに。


 ここは東京だ。僕が今歩いているのは、渋谷のスクランブル交差点の手前。

 古い夢の中でも、しばしば僕はここによく似た場所を歩いている。

 そしてある日、僕は彼女と運命的な再会を果たすのだ。

 ふたりは世界で最後の恋に落ちる。いくつもの幸福な日々があり、いくつかの不思議な出来事がある。信じられないくらい神秘的なことも起こる。それらをくぐり抜けた先には、流星のように美しい愛が輝く。そういう内容だ。

 あれはなにもかも、本当にただの夢なのだろうか。


 それを知るために、僕は今日もさまよいつづけている。



 気だるそうな長身の青年が雑踏の中を歩いている。

 彼と目が合ったときの人々の反応は、おおむね二通りに分けられた。

 まずは多くの者が一瞬びくりとする。

 どこか不穏な青年の外見のせいかもしれない。

 彼は目つきが鋭く、首に銀のネックレスをさげている。黒いシャツに、ベルトが連なる細いパンツを合わせて、手には冷ややかに光るブレスレットをつけていた。

 気だるそうだが、危うげでもあって、臆病な者なら怯えてしまうかもしれない。

 現に、今も青年と視線の合った男が逃げるように道を譲ったところだ。

 そして残りの少数の者たちは怯えることなく、その場にぼんやりと立ち尽くす。

 青年に見入ってしまうようだ。

 たしかに彼には人を惹きつける、どこか不思議な魅力がある。

 独特の奥行きが感じられるのだ。ほっそりして端整な顔立ちだが、そういった外見によるものではない、ある種のガラス細工のように透明で複雑な存在感があった。

 ややあって、彼に目を奪われていたふたりの少女が、我に返って耳打ちする。

「あの人だれ? モデル?」

「見たことある気もするけど……知らない。だれだろう」

「聞いてみる?」

「やめたほうがいいよ。冷たそうだし、機嫌も悪そう」

「ん、言われてみればたしかに」

 視線をそらす彼女たちの横を、青年は冷たく鼻を鳴らして通りすぎる。

 爽やかな青空が頭上にひろがる、夏の週末。

 首都の繁華街は、若者や外国人観光客など、多くの人であふれていた。

 気分を変えるために来てみたが、こんな場所を休日にうろつくのは、やはり正気の沙汰じゃない。

 帰ろう。――気だるそうな青年、悠木はそう考えて踵を返した。

 まもなく駅前のスクランブル交差点にさしかかったとき、ふいに背後から小学生くらいの子供が駆けてくる。急いでいるらしく、彼はたちまち悠木を追い抜いた。

 でも少し、あわてすぎている。

「ひゃっ?」

 案の定、男の子は前のめりにころんだ。

 怪我をしたのか、ショックを受けたのか、その子はなかなか起きあがらない。でも周辺の通行人は、だれも手を貸そうとはしなかった。それどころか見向きもしない。

 悠木は短く舌打ちすると、子供に歩みより、その場に屈んで助け起こした。

 さいわい怪我はないようだ。黒髪だが、よく見ると瞳が青いから、外国人の血が入っているのかもしれない。

「ねぇ、ガキ。だいじょうぶ?」

 目線を合わせて悠木が面倒くさそうに尋ねると、青い目の子供は元気にこたえる。

「うん!」

「あっそ」

 えらいえらい、と悠木が頭をなでてやると、彼はうれしそうに笑った。

「ぜんぜん平気だよ。ありがとね、怖いお兄さん!」

「うるさいよ。なんともないなら、さっさとママのところに帰りな」

 はーい、と子供はうなずくと、「じゃあね、やさしくて親切なお兄さん!」と言い直し、悠木の眉をひくっと痙攣させてから、懲りずにまた走り出した。

 やがて何事もなく、小さな背中が人波に吸いこまれて消える。

 それを見届けると、悠木はふっと安堵の息をつき、日差しに輝く髪をかきあげた。

「やれやれ……」

 視線を感じたのは、その瞬間だった。

 ――どこかで、だれかが、自分を見ている。

 とっさに振り返ると、遠くに見知った顔があって、思わず息をのんだ。

 スクランブル交差点を渡った先の信号機の脇には、周囲から浮きあがるくらい美しい女性がいて、まっすぐにこちらを見ていた。

 流れるような黒髪に、上品な白いワンピース。手を軽く後ろで組んでいる。

 まちがいない。彼女だった。

 昔とはかなりイメージがちがう。髪を長くのばしているし、眼鏡もかけていなかったが、確信をもって断言できた。

 視線の先にいるのは、あの彼女だ。

 まともに思考を働かせる余裕もなく、いつのまにか悠木は彼女に吸いよせられている。夢でも見ているような足どりで横断歩道を渡り、近くに辿り着いた。

 ふたりは目の前で向かい合う。

 沈黙は長くつづかない。気づけば悠木は彼女の名をぽつりと口にしている。

「凪さん……」

「おひさしぶりです。わたし、見ていました」

「ん、なにを?」

「一部始終。相変わらずですね、元不良の悠木さん」

 少しだけ首をかしげてそう言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。

 その瞬間、心臓が強く打ち、悠木の中でなにかのスイッチが入る。そのことを頭の片隅でうっすらと自覚する。

 そんな悠木の内心を知るよしもなく、凪は響きのやさしい声でクールにつづけた。

「それにしても、わたしのことがよくわかりましたね。遠目に見ただけなのに」

「ん、ああ……。目はいいほうだからね。それに、高校を卒業して、まだ一年と少し経っただけでしょ。すぐにわかったよ」

「そうですか。それはなんだかうれしいような、残念なような」

「残念? どうして」

 悠木の問いに、しばらく思案するような沈黙をはさむと、凪は表情のとぼしい顔で髪をかきあげながら、淡々と言った。

「身だしなみなど、わたしなりにけっこう変えたつもりだったんです。でも案外、そうでもなかったみたいなので」

「いや、それは……そうでもあったけど」

「どういうことでしょうか?」

「イメージ変わったってことだよ。ほとんど別人みたいだったし、最初に見たときは驚いた。そもそもあのころの凪さんって、もっとこう……」

 思い起こすと、当時の記憶が突然あふれ出す。それはまたたく間にひとつの情景となって、悠木の胸を満たした。

 あれは梅雨時の、ぼんやりと明るい昼休みの廊下だった――。

 胸を打つささやかな衝撃と、花びらのように舞い落ちる白い紙片たち。

 その向こうで、呆然と目を見開いている高校生の凪。そして彼女の瞳に映る自分。

 幻想的な光景だった。

 なにかを新しく見つけ出したような、鮮明な瞬間でもあった。あのときのことは、やはりいまだに忘れられず、たちまち胸が思い出でいっぱいになる。

 でも今、それをどんな形で表現すればいいのだろう? あふれる感情に翻弄されて適切な言葉がみつからない。

 無言でたたずむ悠木の前で、凪はきまじめに「ほとんど別人みたいだった……。それなのに一目瞭然だった?」と平坦な声でつぶやく。そして心持ち首をかしげた。

「結論として、それはなにを意味しているんでしょう?」

 肩をすくめて悠木はこたえる。

「さあね。とにかく瞬間的にわかったんだよ」

「はあ……」

 凪は釈然としない様子だった。

 少し微妙な沈黙が通りすぎたあと、彼女は気を取り直したようにまた口を開く。

「ところで悠木さん、ひとつ提案といいますか、訊きたいことがあるんですけど」

「なに?」

「一〇〇日間だけ、いっしょに住みませんか?」

 えっ、と悠木は虚をつかれた。彼女はつづける。

「じつは少々こみいった事情があるんです。説明するのが難しいのですが、後悔はしたくなくて……」

 彼女の声は次第に小さくなっていき、聞こえなくなった。悠木はまばたきする。

 唐突になんだか不思議なことを切り出されたと思った。住むって、どういうことだろう。一〇〇日というのは、なにかの比喩表現だろうか?

 目の前の凪は言葉をつぐ様子もなく、問いかけるような視線を悠木に注いでいる。思慮深く、クールにじっと。

 冗談を言っているふうではないが、彼女の真意がわからなかった。

 でも、わからないなりに今ひとつだけ、はっきりしていることがある。

 高鳴る鼓動の中で、悠木は理解していた。あの日、断ち切られて終わったはずの感情が魔法のようによみがえり、自分がふたたび恋に落ちたという事実を――。

 同じ相手を、もういちど好きになってしまった。

 かつて実らなかった恋が、また幕を開けたのだ。



 やがて、この世界の秘密を分かち合うふたりの、運命的な再会。

〝使者〟の言葉を借りるなら、これは短くも長きにわたる、奇妙な恋の物語だ。

 季節は夏。このとき、すでに自身の行く末を知っていた彼女と、これから知ることになる彼がいっしょに暮らす、風変わりな一〇〇日間の始まりでもあった。




 この不思議な物語を、どのように語り出したらいいのだろう?

 そうだ。まずは無難に自己紹介から始めたい。

 僕がどうして今のような性格になったのか?

 小学生のころの僕は「心のおだやかな人間」だった。

 自転車をなくした子供が近くにいたらいっしょに探してあげたいし、愛情に飢えた猫は猫かわいがりしてあげたい。しおれた植物には水と光を与えたいと思っていた。もちろん無料で。

 僕の名前は悠木というのだが――悠久のときを生きる樹木のように鷹揚であれという意味が込められているらしい――悠木くんは名前のとおり心がおおらかだね、と教師にもクラスメイトにもよく言われたものだ。あらゆる人が素直な時代だった。

 そんな僕が変わったと思われるようになったのは、小学校を卒業して中学に進んでからである。

 思うに、中学時代というのは人生で最も立ち回りが難しい時期ではないだろうか?

 心と体のありようが大きく変化する思春期。無邪気だった子供が短いあいだに劇的な変化を遂げる。だからこそ、だれもが考える。

 前の席の彼はなにを考えているんだろう? わからない。隣の席の彼女はなにを考えているんだろう? わからない。僕はこの先どうしたいのだろうか?

 自分の内心さえも把握できず、気持ちをうまく言葉にできない。そんな季節だ。

 でもそれとは逆に、実用的な知恵は面白いくらいついてくる時期でもある。複雑な方程式を解けるようになり、難しい本も読めるようになる。そうやって知性の土台がつくられていくと、やがては自分の頭でものごとを考えられるようにもなる。

 良いほうに考えるか、悪いほうに考えるか?

 考えた結果として、酒や煙草やいじめなどに熱中する残念な者たちが出てくるのは、ある意味では仕方ないことなのだろう。それが「自分の頭」というものなのだ。

 その出来事は、僕が中学一年生だったある月曜日の放課後に起きた。

 教室の清掃が終わったあと、僕が帰ろうとしていると、軽鴨が声をかけてきた。

「悠木、ちょっと訊いていいか?」

「なに?」

 返事をしながらも僕は気乗りがしなかった。彼のことが苦手だったからだ。

 軽鴨は少し耳がとがっていることを除けば、どこにでもいる男子。口がうまくて友達が多く、親が地元でも有名な金持ちだ。家庭教師を雇っていて成績も悪くはない。でも学年トップには程遠い。

 そのストレスを解消するためか、軽鴨は気の弱い生徒をよく仲間といじめていた。クラスの皆がそのことを知っていた。でも彼に楯突いたら今後の学校生活がつまらないものになるという暗黙の了解ができていたから、見て見ぬふりをしていた。軽鴨は自分を大きく見せるための雰囲気づくりが途轍もなくうまかった。

 いじめをやめさせたいとは僕も思っていた。でも、どうすればいいのかわからなくて積極的にはかかわれずにいた。このときまでは。

 軽鴨は僕に近づいて言った。

「小耳にはさんだんだけど、悠木って施設育ちなの?」

「ああ、そうだけど」

「へえ」

 軽鴨はちょっといやな感じの笑みを浮かべた。

 適当な冗談であしらっておけばよかったかな、とも僕はちらりと考えたが、べつに隠すことでもない。同じ小学校の友人なら皆が知っていることだ。

 僕は孤児で、両親の顔を知らない。物心のつかないころに母親らしき人が僕を児童養護施設に預けて、そのまま姿を消してしまったのだそうだ。

 あしか園という小さな施設で、当時の僕はそこで生活していた。いろんな境遇の者がいたが、まずまず仲がいいと言ってよく、雑多なお菓子のアソートのようだった。

 もちろん細かい不満点はあるにはあったけれど、自分の出自を考えたら贅沢は言えない。居場所があるだけでも運がいい。だから軽鴨がにやにや笑って言った言葉には困惑させられた。

「マジかよ、かわいそうに」

「え?」

「そうとしか言えないだろ。同情するよ」

 僕は彼の発言の意図をはかりかねた。

 なぜ、どんな意味で今そんなことを言うのだろう。必要性がよくわからない。煎じ詰めれば、いじめの次の標的に僕を選びたいという意思表示だろうか?

 その旨をストレートに尋ねると、彼は露骨に鼻白んだ。当たり前のことをあえて訊くと、多くの悪人は気分を害する。非はもちろん悪人の側にある。

 いらついた軽鴨は毒気たっぷりにつづけた。

「想像してみろよ。親が子供を施設に置き去りにすることの意味。愛情があったら、そんなことできるか? おまえはいらない存在だったんだよ。おまえの母親も人としての倫理観がない、最低の――」

 その先の言葉を、軽鴨は口にすることができなかった。

 僕が彼の胸ぐらを片手でつかんで、間近にたぐりよせていたからだ。

 断っておくけれど、僕は生粋の平和主義者だ。公園のハトも近所の野良猫も僕からは逃げない。心はマシュマロよりも白くてのどかなのだ。ただ、このときは体が勝手に動いてしまっており、僕自身がそのことに驚いた。どうやら僕の中には思考とは関係なく、スイッチが入ったら自動的に働く仕組みがあるらしい。

 僕は長身だったから、引きよせられた小柄な軽鴨は苦しそうだった。でもそれ以上に驚いていたらしく、両手の人さし指と親指と小指を不自然にぴんと立てていた。おかげで深刻な状況のはずなのに、喜劇の一幕のようになっていた。

 僕はしばらく間近で軽鴨の目を静かにのぞきこんでいた。見ていただけだ。顕微鏡をのぞくように相手の瞳に映る僕の瞳を眺めていた。プレパラートは使っていない。

 でも、そうされているうちに肝を冷やしたのだろうか。彼のスラックスが濡れて染みができていく。

「ひゃああ」

「マジかよ、かわいそうに……」

 そうとしか言えなかった。同情もした。もしかすると彼はキスでもされるかと思ったのかもしれない。それはない。ぱりぱりと甘いキャラメリゼつきの濃厚なプリンをご馳走してもらったとしても、ごめんこうむる。

 胸ぐらをつかんでいた手を僕が離すと、軽鴨は床に尻餅をついた。しばらく荒い呼吸をしながら彼は放心していたが、やがて我に返ると半泣きで逃げていった。

 放課後の教室に、水を打ったような静けさが立ちこめた。

 さて、と僕はつぶやく。平穏な中学生活もこれで終わりになる気がした。



 案の定、僕の予感は的中した。

 翌日登校すると、僕の机に派手な落書きがされていたのだ。やれやれだった。目も当てられない罵詈雑言が、これでもかと書きこまれている。

 振り返ると、教室の後ろでほくそ笑む軽鴨と、仲間たちの姿が目に入った。

 ステレオタイプ。僕の頭に自然とそんな言葉がよぎる。

 なんというステレオタイプな仕返しなのだろう。それはさながら、いじめとはこうあるべきだという古い迷信に支配されているような中身のない嫌がらせだった。報復を予想してはいたものの、それを上回る安直さじゃないか。落書きされたことに加えて、彼らの想像力の貧しさが、僕を二重の意味で悲しい思いにさせた。

 肩を落として落書きを消していると、数人のクラスメイトが近づいてきた。

「手伝うよ、悠木くん」

「あ、やめたほうがいい。たぶん……」

「なに言ってんだよ。ひとりじゃ大変だろ!」

 彼らが手伝ってくれたおかげで、僕の机はまもなくきれいになった。感謝する。

 でも当然ながら、話はそんな美談では終わらなかった。

 一時間目の授業が終わると、次の時間は体育だった。爽やかな青空の下、グラウンドで球技にいそしんだ僕らが教室にもどってくると、今度は、さっき手伝ってくれた人たちの机にこっぴどく落書きがされていた。『よけいなことすんな!』と雑な調子で書かれており、僕の机以上にメッセージ性の強い汚れ具合になっている。

 かわいそうな机を前に、彼らは泣きそうな顔で立ちすくんでいた。

 そういえば軽鴨とその取り巻きが、体育の時間にさぼってどこかに行っていたのを僕は思い出した。このためだったのだ。

 半泣きで立ちすくむ級友を見ながら、「巻き添え」と僕はつぶやく。

 こんなことは断じて許されてはいけない。なにか対策を考える必要がある。

 でも、どうすればいいのだろう?

 エタノールをふくませたハンカチで彼らの机を拭きながら、僕は思案した。

 軽鴨を派手にやりこめてしまったのは事実だし、過去は変えられない。今後も嫌がらせがつづくのは明白だった。肉体面ではこちらがずっと上なのは理解できたはずだから、今後もこういった陰湿な嫌がらせを多々しかけてくるのだろう。

 親が有名な金持ちだというのは、取り巻きに事欠かないという意味でもある。軽鴨の護衛をいくらどうにかしたところで、本体には辿り着けない。辿り着けないなら解決できない。解決できないなら屈するしかない。

 待て。それなら大人に助けを求めてみてはどうだろうか?

 だめだ。学校関係者は役に立たない。軽鴨の親は校長に多額の寄付金を渡しており、これまでも多くの問題を揉み消してきている。そもそもこの町で、軽鴨の親に面と向かって逆らえるような大人は思い当たらなかった。

 こうなったら、と僕はひとりごちる。

 最後の手段をとるしかないと唇を噛んで決意した。



 その翌日、登校した僕を見たクラスメイトが一様にぎょっとしたのは、ささやかな外見の変化のせいだった。

 僕は黒かった髪をシルバーアッシュに染めてブレザーの前を開けていた。シャツのボタンを上から三つほど外し、ネクタイは限りなくゆるく巻いて、腰のベルトには銀のチェーンやフックをつけている。

 絵に描いたような危うい不良少年。それが僕の姿だった。朝、鏡の前で丁寧に確認してきたから、たしかだ。そしてこの記号性にこそ意味がある。

 いつもの親切なクラスメイトが数人、こわごわ近づいてきて僕に話しかけた。

「悠木くん……それ、どうしたんだ?」

 僕が返事をしないでいると、ほかの男子が横から口をはさむ。

「かっこいいけど、派手すぎない? 絶対不良だと思われるぞ」

 困惑気味の彼らを僕はちらっと冷たく見て、「うわぁ……。チンパンジーの群れに話しかけられちゃったよ。いやだねぇ」とつぶやいた。それから、できるだけ皆の反感を買いそうな気だるく退廃的な口調で告げる。

「猿なら猿らしく、猿山で毛づくろいでもしてなよ。クソザルさんたち」

 その場にいるだれもが口を半開きにして固まった。気持ちはわかる。

 今後の方向性を決定づけるため、僕は内心の苦渋をこらえて、もう一押し加えた。

「聞こえなかった? 邪魔なの。おまえらみたいなクソザルさんこと猿の糞は、月曜と木曜に燃えるごみといっしょに収集されて、ごみ処理施設に社会科見学にでも行ってればいいんだよ」

 そして、もうけっこうです、というふうに手をひらひら振ると、やっと意図が伝わったようだ。ある者は眉をひそめ、ある者は口をすぼめて、さわらぬ神に祟りなしとでも言いたげに自分の席へもどっていった。

 今まで気づかなかったけれど、じつは僕には毒舌の才能があったらしい。

 こうして呆気ないくらいに簡単に、孤高の不良生徒が誕生したのだ。

 ごめんよ、と僕は心の中でつぶやく。苦しい。胸が痛い。でも意図したとおりだ。

 僕が「不良化」して、クラスで孤立することを決めたのは、もちろん軽鴨との件が理由だった。

 嫌がらせを受けるのはたしかに不愉快だ。でも僕は育った境遇のせいか、かなり忍耐強いほうだった。どうしても我慢できないかと訊かれたら、そうでもない。

 耐えられないのは矛先が、僕に対して親切な他の生徒にも向けられることだった。

 このままだと僕を助けようとしてくれる親切なクラスメイトも渦中に巻きこんでしまう。僕がしたことで僕以外の人が傷つく羽目になるのは、僕にとって心底つらいことだった。どうしてだろう? わからない。たぶん性格的なものなのだろう。そんなことになるくらいなら、僕は最後まで自分ひとりで傷ついていたいと思う。

 善良な人たちには、彼らが善良であるがゆえに、絶対に迷惑をかけたくなかった。

 あまりにもナイーブで、やさしすぎる考え方だと今なら苦笑することもできる。でもそれは当時の僕なりに真剣な正義感のあらわれだった。そういう気持ちには真摯に向き合いたい。だからこそ冷たい不良を装い、わざと孤立することにしたのである。

 結果的にこの戦略は功を奏し、以後はクラスメイトを巻きこむことはなかった。

 懸念していた軽鴨の嫌がらせも思ったほどではなく――きっと僕の反社会的な外見と態度を怖がったせいだろう――むしろ僕を避けるようになった。

 こうして孤高の不良少年としてすごす日々が、卒業まで平穏に流れていったのだ。

 悲しい三年間だったかって?

 そうとも言えるし、そうでないとも言える。

 もともと僕はひとりで読書をしたり、音楽を聴いたりするのが好きなタイプだ。たしかに孤独ではあったものの、まぎらわせる方法は一通り知っていた。

 多くの本を読み、いろんな映画を観た。成績も輪をかけてよくなった。志望校にも楽に合格した。危険人物を装っていたから最後まで友達はできなかったけれど、楽しそうな皆の姿をときどき遠くから眺めては、ささやかな心の安らぎを味わわせてもらった。そんなふうに、よくも悪くも何事もない静かな中学生活を送ったのだ。



 高校時代について語るべきことは、それほど多くない。

 実感として、ほとんどの日々は今までと大差なかったからだ。

 授業の内容こそ中学より高度になったものの、基本的には似たことの繰り返し。起きて、学校に行って、帰宅して寝る。大きく息を吸って、吐き出し、また吸いこむ。なにかストイックな反復練習でもしているようで、刺激といろどりが足りない。

 そして、その状況を招いた原因は僕自身にあった。

 これまでの三年間で、きっと僕は慣れすぎていたのだと思う。表面的には孤高の不良生徒を装いつつも、内面的にはひとりの自己完結した男子としてすごすことに。

 積み重ねた経験は、人の行動を無意識のうちに規定する。僕の場合は中学時代のふるまいが体の奥深いところまで染みとおって、癖になってしまっていた。

 笑い話にもならないけれど、具体的にはこういうことだ。

 高校の入学式が終わったあと、教室にもどって、皆がひとりずつ自己紹介をすることになった。自分の順番がまわってきたので、僕は立ちあがって口を開く。

「はじめまして。南中学出身の悠木です――」

 そこから先は無難に、趣味である料理の話などにつなげるつもりだった。

 ところが、ふと最前列の席にすわっている男子の後頭部が目に入り、僕は瞬間的にぎくりとした。ありふれた髪型と、つるりとした首の後ろ。耳が少しとがっている。

 耳が?

 その後頭部は、中学時代の軽鴨にまつわるさまざまな記憶を僕に思い起こさせた。これはもう理屈じゃない。ぱりっと頭の中で火花が散り、ほぼ無意識のうちに僕はこんな言葉をつづけていた。

「――おまえらゾウリムシさんに自己紹介する気はありません。意味もなく話しかけたら駆除しちゃうかもしれません。どうぞよろしく」

 耳のとがった男子が驚いて振り返ったが、その顔はもちろん軽鴨とは似ても似つかない別人だった。

 クラスの皆が顔面蒼白となる中、言い終えた僕は席につく。そして呆然とした。

 なんということを言ってしまったのか――。

 今さらながらに青ざめて震えたが、口にした言葉はもどせない。また、笑ってごまかせるような状況でもなかった。冗談の通じない空気というものがこの世にはある。

 クラスメイトのひそひそ声が、さざなみのように耳に打ちよせた。

「南中学の悠木……。噂には聞いてたけど格好いいな」

「いや、それ以上に怖いだろ。彼に逆らって失禁させられたやつもいるらしい」

「きっと悪魔じみたサディストなんだろうね……」

「ドSの星から来た毒舌の王子だってわたしは聞いてる」

 僕は机の上に置いた手の甲をじっと眺めながら、それらの声を聞いていた。

 ボタンをかけちがったまま、もとにもどせない。内省と考察の日々がつづいた。

 たぶん、こういうときはなにか行動を起こすしかない。まとわりつく閉塞感を動くことで振りはらい、移動しながら新しいあり方を模索するのだ。

 そのことに思い至ったのは、高校二年の夏である。

 そして、その気持ちを駆り立ててくれたのが、僕の初恋の相手――凪さんだった。



 凪さんとは、二年生に進級したときに同じクラスになった。

 もっとも、最初は気に留めなかった。あのころの彼女は飾り気のない眼鏡をかけていて、地味で、それ以上に物静かで、草原のクローバーの葉脈を流れる水よりも目立たない存在だった。いくらなんでも言いすぎだった。

 僕が初めて彼女の存在を意識したのは、空気の湿った梅雨時の午後のことだ。

 そのとき僕は考えごとをしながら、ぼんやりと淡い光が射す昼休みの廊下を歩いていたのだけれど、角を曲がった瞬間、出会い頭にだれかとぶつかった。

 その相手が凪さんだった。

「わっ?」

「きゃっ?」

 やわらかい毛布と衝突したような感触。僕はなんともなかったけれど、彼女は後ろに弾かれて、持っていたプリントの束を落とした。

 白い用紙が嘘みたいにゆっくりと廊下に散らばる。花弁のように。

 その引き延ばされた光景の中で、僕は初めて凪さんというひとりの女の子をみつけたのだと思う。うまく表現するのが難しいけれど、ふだんは隠されている透明な魅力のようなものにふれたのだ。彼女の華奢な姿が、実体感のある存在そのものが、鮮やかな生気とともに僕の胸に飛びこんできた。

 制服に包まれた細い体に、肩までのばした黒髪。眼鏡がずれて、前髪で少し隠れていた切れ長の目があらわになり、見開かれている。表情はとぼしいが、顔立ちは驚くほど整っていた。

 不思議だった。どうして今まで気づかなかったのだろう? こんなに素敵な女の子が同じクラスにいたことに。

 今だから言えることだが、このころの彼女はまだ魅力を外に出す方法を知らなかったのかもしれない。あるいは自分の美しさに無頓着だったか、他人にきれいだと思われることに興味がなかったのだろう。世間にはそういうタイプの人もいる。

 でも表に出さなくても、存在するものは存在するのだ。凪さんという女の子の中には、とっておきの宝石みたいに特別なものがたしかにあって、それが今、僕とぶつかった拍子に偶然きらきらとこぼれ出た。そして僕の心を奪った。

 そう、僕はこの瞬間、彼女にひと目ぼれしていたのだ。

 眼鏡をかけ直すと、彼女は深呼吸して僕のそばへ近づいてくる。青ざめた無表情で体を震わせながら、ぼそぼそと消え入りそうな声で言った。

「……す、すみません。殺さないでください」

「えっ?」

「た、大変……申しわけなく、思います」

 途切れがちに、ぎこちなくそう言うと、彼女は屈んで廊下にばらまかれたプリントをすばやく拾いはじめる。

 なぜだろう? よくわからないが、不自然なくらいあせっていた。

 そこで、はたと気づく。きっと僕を怖がっているせいなのだろう。まずは手伝うべきだと思い、僕は床のプリントにすばやく手をのばした。

 ところが彼女は、あたふたしながら意外な反応をする。

「あっ? お、お金はいくらでも払いますので、それを破いて遊ぶのは遠慮してもらえると」

「なんでだよっ? 俺がそんな鬼みたいなやつに見えるわけ? 眼鏡のお嬢さん」

 僕の言葉に、彼女は安堵したのだろうか。「お嬢さん?」ときょとんとした顔でつぶやき、少し落ち着いた態度になった。

 僕はあらためてプリントに手をのばす。でも、ふれた瞬間、指先がちくっとした。

「痛っ?」

 不運なことに、今度は紙で指を切ってしまった。人さし指の腹に細い傷ができて、赤い血がぷくりと染み出てくる。

 僕は思わず舌打ちした。神経が集中しているせいか、傷口自体は大きくないのに、やけに痛い。血もやけに赤く、じわじわと自己主張を強めつつあった。

「あ……あのっ」

 そのとき、ふいに目の前の彼女が、僕のほうに身をぐっと乗り出してきた。

 彼女はあごを引いて体を震わせながら、それでも眼鏡の奥の瞳で食い入るように僕を見ている。不思議なくらい熱心に、希少な動物でも観察しているみたいだ。

 でも、なんだろう? そんなに珍しいだろうかと僕は思う。紙で指を切ることなんて、普通によくある事例だと思うのだけれど。

 やがて彼女は制服のポケットをまさぐると、なにか小さなものを取り出して包装を開けた。絆創膏のようだった。そして彼女は消え入りそうな声で僕に言った。

「ゆ、指を……その、こちらに」

「指?」

「は、はい」

 彼女のぎこちなさにつられて、僕もおずおずと人さし指を近づける。

 すると彼女は見とれるくらい手際よく、傷口にぴたりと絆創膏を貼ってくれた。

「ん……。サンキュ。助かったよ」

「い、いえ。その……べつに」

 僕はつづきの言葉を待った。でも彼女の口は、いつまでも閉ざされたままだった。

 無口というか、話し下手な女の子なのかもしれない。

「あのさ、きみって同じクラスの」

 世間話をしようとすると、ふいに彼女は「す、すみません!」と頭を下げた。そして残りのプリントを拾い、僕の前から走って逃げ出す。意外なくらい足は速く、華奢な背中はたちまち見えなくなった。

 僕はしばらく呆然としたまま、その場に棒立ちになっていた。

 なんだか不思議な女の子だと思った。たぶん人見知りなのだろう。もしくは人付き合いが苦手なのだろう。その両方かもしれない。

 でも、やさしい女の子だ。そしてじつは、とても美人だった。今のところクラスのだれも、その美点に気づいていないように思える。知っているのは僕ひとりだけ。

 そう。この一件で僕の胸には凪さんのことが強く印象づけられた。焼きつけられたと表現してもいい。不思議なことに、意識からまるで離れなくなってしまったのだ。

 授業中も休み時間も、気づけば彼女を目で追っている。いつも見てしまう。帰宅後も同じだ。瞼を閉じると彼女の姿が、夢のようにぼんやりと頭に浮かんでくる。

 ときに彼女は、実際に夢の中にまであらわれて僕を惑わせた。

 初恋がこんなに厄介なものだったなんて、と僕は何度も深く頭を抱えたものだ。

 教室にいるとき、遠くから眺める限りだと、彼女はごく普通だった。内気で目立たない、人見知りの女の子。たぶんクラスの全員がそう認識していたはずだ。

 でも僕は、それ以外のことも知っている。

 たとえば教室が汚れているとき、彼女がさりげなく掃除などをしていること。日直が黒板を消し忘れていたら代わりにきれいにしたり、黒板消しをクリーナーにかけたりもしている。また、プリントを運んだりといった皆のやりたがらない雑務を、いつも控えめに引き受けていた。

 目立つことなく、ただ無言で、彼女はさまざまなことに気を配っている。あきらかに人付き合いが不得意なのに、他人を気づかっているのだ。そういうことって、本当の意味でやさしくないとできない。僕はどうだろうか?

 ともかく、彼女の中にはいくつもの魅力と美点があって、ふだんそれは隠されているけれど、なにかの折に見えることがある。そして、その本質的なきらめきを目の当たりにした者は、心を奪われずにいられないのかもしれない。

 本来の素敵な自分を、うまく外に出せていないその不器用なところに、僕はひそかに共感をおぼえていた。あるいは、だからこそ強く惹かれたのかもしれない。

 もっと深く凪さんのことを知りたいと僕は思った。より彼女と親密になりたい。そのためには、やはり気持ちを率直に告げるのが近道だろう。

 だから告白しようと心に決めた。



 それを決行したのは期末試験のあと。夏休みが始まる前の夕方のことだった。

 静かな放課後の教室で、僕は凪さんが来るのを待っていた。

 約束の時間まで、あともう少し。凪さんの知り合いに頼んで、この時間にひとりで来るように呼び出してもらったのである。

 ほかの生徒はとっくに帰宅して、今ここにいるのは僕ひとりだけ。窓から射す夕陽が、だれもいない教室を濃密なオレンジ色に染めていた。そのまぶしさに塗り潰されて、机も教壇も淡くぼやけて見える。

 遠くで響く吹奏楽部の練習の音。微かに聞こえる野球部のかけ声。無為に終わるのが事前にわかってしまっている、僕らの時代の青春という感じだ。それは人の胸を締めつけて、悲しくも甘い気分にさせる。

 やがて教室のドアが開いて、凪さんがあらわれた。

「あ、あの……。遅くなりました」

 彼女はぼそぼそと言い、怯えた様子で教室に入ってきた。

「その、生命保険には入っていないのですが、問題なかったでしょうか」

「……べつに命の危険を感じる必要はないから」

 僕も彼女に近づいて、机と椅子に囲まれた教室の中ほどで向かい合った。

 息づかいも聞き取れるような沈黙が流れて、ややあって彼女が小さな声を出す。

「そ、それで、その……ご用は?」

「ああ」

 僕は短くうなずいて切り出した。

「三べん回って、わんって鳴いてみて」

 彼女は無表情で目を見開いた。ほどなく両腕で自分の体を抱き、かたかたと震えはじめる。直後に僕は我に返った。

 しまった。いつもの癖でついやってしまった。おそらく緊張していたせいだろう。僕の本音は活発すぎる建前に、ときどき先を越されてしまう。

 僕は赤くなった顔をすばやく手の甲でこすって言った。

「悪い……。つい口がすべって」

「口が?」

「なにかこう、舌に摩擦的なものが足りなかったというか。とにかくごめん」

 謝罪すると、まもなく彼女は落ち着きを取りもどしてくれた。よかった。

 僕は深呼吸すると、あらためて自分の気持ちを告げる。

「俺、きみのことが、その……。好きだ」

 彼女は、はっとしたように細い両肩をもちあげた。

 素の感情をそのまま表に出すのは学校ではひさしぶりな気がした。でも言うべきことはしっかり言えた。そのことに僕は自信を深める。あとは流れにまかせればいい。

「突然でびっくりしたよね。でも先月、廊下でぶつかったときに、ひと目ぼれしたみたいで……。ずっと気になってる。凪さん、俺とつきあってほしい」

 よほど意外な言葉だったのだろうか。彼女は唇をわずかに開いて固まっていた。

 やがて彼女は手のひらで自分の両目を覆い、肩を震わせる。そうやってしばらくのあいだ、なにか押し殺すような小さな音を立てていた。どうしたのだろうか?

 怪訝に思った僕が声をかけようとした瞬間、彼女は顔を覆っていた手を下ろす。

 僕は思わず目をみはった。――彼女が不思議な笑顔を浮かべていたからだ。

 彼女はほとんど無表情で、唇の両端だけをきゅっと持ちあげていた。面白くもないのに、表情筋の力だけで無理やり微笑んでいるというふうに。

 それはいかにも作為的で、不自然な笑顔だった。

 つまり?

 つまり僕は意図的に笑われたのだろう。問題外で、お話にもならないという意思を彼女はわかりやすく伝えたのだ。真っ白になる僕に、彼女は小声で短く告げる。

「ごめんなさい」

 彼女は足早に教室を出ていった。完璧な断り方だった。可能性ゼロだ。僕はすっかり力が抜けて、体がやわらかいフィナンシェにでも変わってしまったみたいだった。



 失恋のあとの僕の高校生活は、無味乾燥なものになった。

 もちろん、今までも日々に潤いなどなかったけれど、輪をかけてということだ。

 たぶん凪さん以外の相手を好きになれればよかったのだろう。でも、僕にとっては彼女だけが特別な存在だったらしく、それができなかった。失恋はしたが、どうしても彼女を忘れることができなかったのだ。ただ、手の届かないものと我慢の種が、またひとつ増えただけだった。そして我慢することには慣れていた。よくも悪くも。

 その後、僕はありがたいことに何人かの女子に告白されたけれど、胸の奥にはいつも凪さんがいたから、心は震えなかった。だからすべて断らせてもらった。気持ちには誠実でありたかったからだ。自分と相手の気持ちに対して。

 こうして誠実で孤独な時間が流れて、いつしか何事もなく卒業の日が迫ってくる。

 以上が僕の学生時代だ。甘酸っぱい青春どころか、ビターもいいところだった。

 最後に、進路について手短に語ろう。

 僕は校内推薦で就職を決めていたから、卒業後は地元の田舎町から首都に引っ越した。機械のパーツをつくる会社だ。世界的な大企業というわけではないけれど、設備がいいし、高い技術力がある。推薦枠のせいか、給与も満足のいくものだった。

 技術系だから、仕事の内容は派手ではなかった。でも地道な作業はもともと嫌いではないし、実がある仕事だ。僕は器用なほうでもあったから、仕事の腕はめきめき上達して、先輩たちによく驚かれた。

 ところが一年後のある日、唐突に社長が失踪する。文字どおり、彼は本当に消えてしまったのだ。その混乱と後継者不在という問題、また、昨今の不況のあおりなどを受けて、びっくりするほど呆気なく会社は倒産した。

 スリーアウトチェンジ。こうして僕は職を失った。つい先月のことだ。

 そして、ここで長い自己紹介が終わって、時系列が現在にもどってくる。

 仕事を突然失った僕は、がっくりくると同時に気分がささくれ立った。あまりにも思いがけない災難に見舞われると、人は理屈を超えた苛立ちにとらわれるものらしい。明るく再就職活動をする気分にはまだ到底なれず、昔のように不機嫌な装いで街をぶらついたりしていた。

 そんなとき、雑踏の中で再会したのだ。高校時代の初恋の相手と、運命的に。

「おひさしぶりです。わたし、見ていました」

「ん、なにを?」

「一部始終。相変わらずですね、元不良の悠木さん」

 そう言って凪さんはにっこりと微笑み、僕は同じ相手と二度目の恋に落ちたのだ。