死人


 稲村が生き返ったとき、僕は真っ先に野外学習のことを思い出していた。

 その大きなツバと、真っ赤な帽子が視界を包みこむようだった。

 白い棺桶の蓋を蹴飛ばして起き上がった稲村は、まず目をぱちくりとさせる。それから、椅子より転げ落ちた僕らに目を向けた。稲村の方もなにが起きたのかまだ理解できていないのか、棺桶の中に座りこんだまま「ん? ん?」と気まずそうに頭を掻いている。格好も、状況も把握できていないという感じだ。

 寝起きのそうした仕草にも、あの冬山での出来事が重なって見える。

 その稲村がぎょっと目を丸くした先にあるのは、濡れたように色の隙間のない黒髪。

 妖艶たる存在が反応するより早く、別の制服姿の女の子が立ち上がった。

「あんた」

 七里だった。椅子から離れて、稲村に一歩近づく。

 開いたままの七里の口から、言葉の続きはない。既に語り尽くしたように。名前を呼んだわけでもない、ごくごく短い呼びかけ。でもその中に、たくさんのものが詰まっているように思えた。複雑な胸中をそのまま明け渡すように。

 受け止めた稲村は、それらを事細かに仕分けすることができるのだろうか。

 惚けたような、眠たげな目もとが微かな光を帯びる。

「うん」

 小さく、納得するように一度頷いてから。

「やっぱり、ぼく死んだよね」

 稲村が朗らかに事実を認める。語り口は穏やかで、さきほどまで冷たく、硬く、閉じきっていた唇にも瑞々しさがあった。七里を真っ直ぐ見つめて、ふっと、息を吐く。

「じゃあここは天国かなぁ? だって、」

 稲村が話している最中、状況が渦を巻くように動き出す。

 葬儀場にはおよそ似つかわしくない、悲鳴のような反応が湧き上がるのだった。

 まず、稲村の両親が泣くのも投げだして駆け寄り、要領を得ない叫び声をあげて娘の肩を叩く。小さな頭が軽々しく揺れて、稲村が目を回す。次いで高校の友人たちらしき女生徒や、親族が続々と集う。小さな御輿を担ぐには不適当な大人数で、溢れた人の手足が崩れた砂山のように流れて、整っていた葬儀場を巻きこんでいく。

 厳粛に進行されるべき女子高生の葬式は、完全に瓦解していた。

 やがて少し落ち着いた葬儀場の人が病院へ検査を受けに行くことを提案すると、大騒ぎを引き連れて、拉致に等しい扱いを受けた稲村が姿を消した。混乱していたのか、稲村は棺桶ごと運ばれていった。本人は呆然とする七里に目を向けて、困ったように笑っているのだった。

 追いかけることなく残ったのは、僕を含めて四人。稲村の親友である七里まで付き添うことなく、この場に留まっていた。人と共に転がった葬儀場の椅子を、藤沢が黙々と直している。僕たちはそれが終わるまで、口も身体も動かせないでじっとしていた。

 そして最後の椅子の背もたれを掴んだところで、藤沢の動きも止まる。

 変哲もなさそうな白い椅子に、藤沢はなにを見ているのか。

 空調が効いて乾いた空気に晒されて、鼻が痛む。

「覚えてる?」

 振り向いた藤沢の長い髪が、滴る雨のように艶を放つ。

 なにを言いたいのかはすぐに分かった。

 少しの間を置いて。

「ああ」

 誰かの代わりに返事をする。

 他の連中も口こそ開かないけれど、きっと思い出しているだろう。

 僕たち六人があの日、魔女に出会ったことを。



死人死人


 弟はある日、急に亡くなった。事故だったか、病気だったか。

 どうも、はっきりとしない。

 そのときの散り散りとなるような気持ちは、時を経て落ち着いても再現することはできなかった。それまでの僕は、綺麗な絵を眺めているだけだった。目の前に飾られた、完成した絵をただ綺麗だと思っているだけでよかった。それが当たり前だった。

 その絵を描く人が、維持する人が、たくさんの人が動いていることも知らなかった。

 そしてそれだけ細心の注意を払っても、唐突に破かれて原形を失うことがあることも。僕は、なにも知らなかった。

 知った代償は決して小さいものではなかった。

 一緒に歩いて、弟だけが消える。

 死ななかった僕と、亡くなった弟にはどんな差があったのか。

 それをまだ、運という言葉で片づけたくはない。

 そんなことを思い返すには、最適の日だった。

 ぐん、と。意識が固まると同時に、顔にかかる重みを意識した。

 寝汗の混じった額に手を置いて、重い頭に辟易しながら起き上がる。

 すぐに、針が刺さるように日付を意識した。

「ああ、今日は……」

 言葉の続きは声にならなかった。額を押さえて、少し時間が過ぎる。痛みはすぐに引く。けれど鈍重なものがいつまでも頭の中に留まっていた。呼吸を強めても循環することはなく、蒸し暑さに応じて濁っていくようでさえあった。

 解消を諦めてベッドから降りる。カレンダーを一瞥して、思わず溜息を吐いた。

 今日は、弟の命日だった。

 二階の廊下から晴れ模様の景色を眺める。隣家の屋根の向こうから、雲がもくもくと生まれていた。入道雲が姿を見せ始めて、夏の始まりを意識する。家の近くではまだだけれど、登校中の神社の側を通ると蝉の声も聞こえるようになっていた。

 七月十五日。詳しく忘れたけれど、弟が死んだ日も同じように暑かっただろう。

 階段を下りて、自分以外誰もいない家のあっちこっちへと歩き回って用意を済ませる。両親は共働きで出かけるのが早く、帰るのも遅い。

「…………………………………」

 昨日のことを、幕でもかかるような視界の向こうで思い返す。

 稲村の葬式は中途半端に終わった。当たり前だ、生き返ってしまったのだから。あのあと、特に会話も弾むことなくなぁなぁで解散となった。本当は四人で話し合うべきことはあったはずなのに、上手く喋りだすことができなかった。

 そもそも、他の連中と格別に仲がいいわけでもなく。

 稲村や七里とは付き合いがあるわけではなかった。学校も違うし、顔を合わすようなこともほとんどない。和田塚や藤沢だって似たようなものだろう。それでも、疎遠に等しい僕らが集ったのは、思えばあの時のことが頭の隅にあったからかもしれない。過去は忘れていても、埃をかぶっても、決して独りでに消えることはない。

 居間のテレビの前に屈み、電源を入れる。チャンネルを変えて確認してみると早速、稲村が映っていた。わぁ、と声が出る。世間は蘇った女子高生にどんな反応を示すだろうか。オカルトが流行っているし、ちょっと大きな騒ぎになってしまうかもしれない。稲村が家に無事帰れるのも随分と先になりそうだ。

「僕は……生きてるよな」

 一度は死んだ稲村が平気な顔で生きているなら、或いはここがあの世って考えもある。だけど、と部屋を見回してそれはないなと納得する。

 ここが死後の世界なんてものなら、弟が同じ家にいてもおかしくないだろう。

 紙の束でも噛んでいるように味のしない朝食を取り終えて、学校へ出かける。

 下天の右往左往もなんのその、快晴の朝が整っていた。空は群青の風呂敷を広げて無機質な社会を包む。背を伸ばして日に向き合うと、そのまま光に押されて後ろに倒れてしまいそうだった。夏休みも近いけれど、心浮き立つものは薄い。

 稲村が死んだり、弟のことを思い出したり、それどころじゃなかった。

 自転車を押して飛び乗り、いつも通りに学校へ向かった。



 下駄箱から教室まで、校内の様子を軽く窺ってみたけれど、稲村のことで大騒ぎになっている雰囲気はなかった。早くも訪れる夏の暑さに茹だり、死人の話なんて辛気くさいものは敬遠しているだけかもしれない。僕だって他人事なら考えたくはない。

 でも、多分、恐らくいやきっと。当事者なんだよなあ、と胸を叩く。

 廊下もそうだし、入った教室も茹だるように暑い。夏は人の熱がただ嫌なものになる。席に着いて大人しくしていても、身体を投げ捨てたくなるほどに不快だ。

 和田塚も、こんな落ち着かない気分になっているだろうか。

 他の四人の中で、同じ高校に通っているのは和田塚だけだ。クラスは違うが、会いに行こうかと考える。けれど短い休み時間だけで話しきれるかは疑問だった。和田塚も覚えているか、或いは思い出しているだろうし、こんな場所で話すにはいささか重たいものがある。

 夕方に家まで出張してもらえばいいかと結論を出して、授業が始まるまで動かなかった。

 その日の授業はどれも、いつもより頭に入らなかった。

 そうして放課後、一斉に沸き立つざわめき。その空気がどこか気に入っている。沈みがちな気分も少しだけ解放されて、なにをしようかという気になる。それは前向きであるし、人の中で生きるということの十分な意味だと思った。

「……帰るか」

 弟の命日ではあるけど、墓に最後に寄ったのは何年も前だ。中学生になったあたりで止めただろうか。それまでは盲目的に墓参りしていたけれど、ふと、その意味について考えだしてしまった。

 弟の死を振り返れば陰鬱の欠片が降ってくるし水溜まりに足首を突っ込むような気持ちになるけれど、その奥底にあるものはなんだろうと気になってしまう。弟の死に対して、本心から想っていることを見つけられないでいた。それを探した上で向き合おうと決めてから何年も経過して、未だになんの答えも得られないでいた。考えすぎなのかもしれないけれど、弟の死をいつの間にか、自らの生死と重ねている自分がいた。弟が死んで、なぜ僕が生きているのか。

 そこにどんな理由や意味があるのか。

 僕は、とてもややこしい悩みにつきまとわれている。

 一つの死によって面倒くさい人生に囚われる。生きていてくれたらよかったのに。

 死ぬ前にあの魔女と出会っていれば、弟も生き返ったのだろうか。

 詮無いことを考えながら帰路に就く。朝起きて、学校に行き、ただ帰る。異様なことが一つや二つ起こったところで、人生に起伏の波が訪れるようなこともなく。

 稲村のような存在とは異なる、俗人である自分を思い知らされる。

 家に帰ってから着替える前にテレビを点けてみると、早速、その知った顔が映っていた。室内の蒸した空気を吸い込みながら、画面をじぃっと見つめる。

「さすがに服は変わっているな」

 稲村がカメラと記者に囲まれている。病院の中で騒ぐのはさすがに駄目らしく、駐車場の端で大勢の人に囲まれていた。顔色もよさそうだし、昨日まで死んでいたとは信じがたい。葬式の場にいなかった記者たちだって、話半分なことだろう。

 稲村は変わらず瞼の重い顔つきで眠たそうだ。他所行きの顔なんてないらしい。

『そうですね、私は確かに死にました。心臓も一度止まりましたし……死んでいる間の記憶? ないですね。気づいたら狭いところにいて、足を動かしたら蓋がふっ飛びまして……』

 受け答えに慣れたものを感じる。昔とったなんとやら、ってやつだろうか。

 もしも死んだのが僕でテレビに映っていることを意識したら、緊張してろくに舌が回らないだろう。醜態を晒せば、奇跡も輝きを半減させる。それの良し悪しはともかくとして、この役回りを務められるのは僕らの中で稲村だけだろう。

 だれかの意思が混じっているように、上手くできているものだった。

 チャンネルを何度か変えて、稲村一色の番組をしばし観賞する。内容が一緒であることを把握して、テレビから離れて着替えた。まだ確認していないけど、夕刊の見出しにも載っているかもしれない。全国が再び、稲村を目にする。

 それは森の奥深くに潜む魔女だって……魔女の家に、テレビと新聞配達はあるだろうか。なかったら世事をどう知るのかって話だけど、俗世なんて無縁かもしれない。

 今生きていたらと魔女の年齢をおおよそ数えようとしたけど、不毛なので止めた。

「さてと」

 夕飯は自分で用意しないといけない。平日は朝と夕の二食で済むけど、休日になると三食きっちりだ。これから夏休みに入れば毎日、と想像するだけで早速げんなりする。台所に立つ前から、汗がじっとりと背中に浮かんだ。

 蝉の鳴き声が小さくなるまで、ぼぅっと佇む。倦怠感はいつまでも消えない。

 話をすること以外にも、シェフを呼ぶ理由は十分だった。

 玄関の下駄箱に置いてある固定電話は、昼の残り火のように生温い。和田塚の家の電話番号は記憶しているので、脇のメモ帳に用はない。そのまま番号を押す。

 問題は家にいるかどうかだった。あと、できれば本人に出てほしい。

 友達の親と話す独特の気恥ずかしさは、一体どういう心の働きなのだろう。

 ややあって、電話が繋がる。

『はい和田塚ですが』

 本人のあまり愛想のない声が聞こえて、ほっとする。

「腰越だけど」

 名乗ると、声だけで用件を察したようだった。

『おぅ。出張か?』

「頼む」

『分かった。三十分ぐらいで着く』

 電話が切れる。僕はその言葉通り、大人しく三十分を待った。

 それだけでは足りなくて、四十分ほどが経過した。

 夕暮れが引っ込んで空が夜を着飾る頃、短パンに半袖のラフな格好の和田塚がやってきた。右腕には日焼けに混じって、虫さされの赤い跡がある。部活動に励んでいないのに、僕よりも焼けていた。庭の手入れの賜だろうか。

「よく来たな味沢君」

「こんな時期に黒ずくめの格好は死ぬって」

 靴を脱ぎながら和田塚が肩を揺らした。体格は痩せ気味で、肩の出っ張りが目立つ。やや長い髪を後ろで纏めて、普段は見えない耳が露出していた。

 和田塚は小学校に上がる前は近所に住んでいた。今はけっこう遠くの家となってしまったけれど、こうして時折、料理をするために家へとやってくる。

「じゃよろしく」

「うむ」

 差しだした千円をしっかり受け取る。内心、ちっと舌打ちした。

 和田塚は一回千円で出張してくる。機嫌がいいときは無料にしてくれるが、今日は千円札を徴収した。一緒に台所へ向かい、冷蔵庫の中身を確認する。

「お、今日はなんにもないってことはないな」

「確認してから呼んだよ」

 前に冷蔵庫が空の状態で呼んでしまって、和田塚はカップラーメンだけを用意して帰っていった。千円取られた。残念なことに、千円分の妙味は感じ取れなかった。

「なんにすっかな……ああ、向こうで待ってていいぜ」

「任せた」

 食材と睨めっこする和田塚にこの場を任せて、続き部屋の居間に寝転ぶ。

 和田塚は料理屋の跡取りとか、そういう出自はないが腕の立つ男だ。趣味なのかと聞いたら少し違うと返事があった。趣味は家の庭の水やりらしい。渋い。

「夏休みも呼んで大丈夫なのか?」

「特別料金で営業中」

「そりゃありがたいけど、財布は終日フリーってわけにいかないからな……」

 普段からして、二週間に一度くらいしか頼っていない。

「これがかわいい女の子だったらなー」

「お互いさまだ」

 ごもっとも。

 待っている間、テレビを点けるか二回くらい迷った。点けたら稲村とご対面だ。稲村は美人よりかは、かわいいに分類されると思う。大人びた七里とは正反対だ。

 どっちかというと僕は……なんて、好き勝手に二人を評価して時間を潰す。

 ほどなくして、香ばしい匂いがわっとやってきた。

「できたぞ」

「はいはい」

 起き上がってテーブルに四つん這いで寄る。皿や茶碗から上がる湯気が心地よい。皿に載っているのは豚肉とナス、それから獅子唐の味噌炒めだった。

「中華?」

「モドキ」

 和田塚は一仕事終えて、壁に寄りかかるようにして座る。考え事に耽っているのか、口が半開きだった。そういう隙を見せることの少ないやつなので、ちょっと珍しい。

「いただきます」

 手を合わせて挨拶する。和田塚は目だけ動かして、その挨拶に応じた。

「んむ」

「…………………………………」

 濃厚な味付けが舌を越えて喉まで痺れさせる。そこに飯をかっ込むと、口の中が蒸されるように熱気でいっぱいになり、それが充足感に繋がるのだから不思議なものだ。

 短く唸りつつ食べていたら、和田塚にせっつかれた。

「感想ないのか?」

 そういうのを欲しがる性格じゃないと思っていたので、少し意外だった。

 冷静なようで、和田塚もやはり昨日から浮き足立っているのだろうと察する。

「ああ……面白い」

「ん?」

「同じ材料や調味料を使っているはずなのに、僕が作るのとはまるで違う」

 ここまでできてこその料理だなぁとしみじみする。

「どーも」

 賛辞を受けて、ぼぅっと座りこんでいた和田塚が動く。テレビ台の代わりを務める戸棚を覗きこんで、扉をつんつくと突いた。

「スーファミやっていい?」

「どーぞ」

 許可を得て、和田塚が嬉しそうにゲーム機を引っ張りだす。

 新型のゲーム機の宣伝に煽られて、飛びつくように買ってはみたものの今や和田塚の方が遊ぶ時間は長い。どうも僕は、指先だけを動かすのは向いていないようだ。

「お前は買わんの?」

「検討中」

 和田塚がマリオのカセットをはめこんで、猫背をこちらへ向けながら遊び始める。僕はその様子へ時折目をやりつつ、ナスを噛む。不安定な歯応えから味わいがじゅっと広がるのが気持ちいい。

「なぁ、美味いのはいいけどさ。これ肉少なくない?」

 細切れの小さな豚肉を箸で拾い上げながら、疑問を口にする。

「あ、やっぱり?」

「遠慮せず入れてくれてよかったのよ」

「いいんだよ、それは野菜を食べる料理なんだ」

「そんなもんかね」

 言いきられると蘊蓄があるように思えて押しきられる。

 僕はどうも、他人の自信ってものに弱いようだ。

 直面するとまるで、強い日が目に飛びこんできたように顔を背けたくなる。

「お前は食べないの?」

「腹減ってないし」

 和田塚がファイアボールをばらまきながら返事する。和田塚は料理を作るのは好きだが、食べるのには大して関心がないようだった。本人は志していないみたいだけど、料理人向きの気質なのかもしれない。しかし、凄いなぁと噛みしめる度に感心する。

「努力家だな」

「あ?」

「勉強とはまた違うことも積み重ねて。毎日ちゃんと生きてるって感じ」

 自分を省みつつ賞賛する。和田塚は目を細めて「べつに」と呟いた。

「一人で生きるのが目標なだけだよ」

 テレビ画面の中でマリオを全力疾走させながら、和田塚が答える。

「一人で生きて、独りで死ぬ。俺の理想だ」

 土管を飛び越えたマリオが、すぐ後ろの穴に吸いこまれていった。

「ほげ」

「理想を貫いたな」

「まだまだ」

 残機があったのですぐ復活する。とはいえ、残りの数は心許ない。

 茶碗の底に残った米を箸ですくってから、思い出した四字熟語を口にする。

「独立独歩ね」

「まぁ、人付き合いが好きじゃないだけだな」

 あっさり細かく咀嚼してしまうのだった。こちらも噛んで、飲んで、味わう。

 普段は喉を通りづらい野菜の味が、鮮やかな後味を描く。

 和田塚の奮戦を観賞しながら、無言で箸を動かした。

「……ごちそうさま」

「あいよ」

 皿と茶碗を空にしてから挨拶する。和田塚は手が離せない中、目線だけよこす。

「皿とかは置いといてくれ。俺が洗うから」

「悪いな」

「それも料金の一部ってこと」

「プロは違うね」

「客は今んとこ、お前くらいだけどな」

 宣伝もしていないだろうにと笑う。和田塚だって普通にバイトする方が稼げるだろうし、じゃあなんでやっているかというと……まぁ、仲よしごっこってやつだ。

 満たされた腹に引きずられるように、目もとがぼんやりする。頬杖をついて目を瞑れば、テレビから訪れる音はよい子守歌となるだろう。が、いかんいかんと頭を起こす。肝心なことが済んでいないのに、寝てしまってどうする。

 和田塚を呼んだのは単なる横着ではないのだから。

 座り直し、眠気をごまかしてからぽつりぽつりと、本題を切りだす。

「稲村、いつ家に帰れるんだろうな」

「さぁなぁ」

 甲羅を踏みながら和田塚が淡泊に答える。

「なにしろ蘇ったわけだし、検査が終わってもカメラにでも囲まれるんじゃないか」

「もうテレビに映ってたよ」

「へぇ」

 テレビに大々的に、あの寝ぼけ眼が映るのを思い出す。随分久しぶりじゃないだろうか。小学生の頃は色々な大会に参加する稲村が、時々テレビに映っていた。神童だなんだと持ち上げられていたが、それも中学生になったあたりからなりを潜めたように思う。

 単に僕がそういう番組を見なくなっただけかもしれないけど。

 しかし天才だとは意識していたけど、まさか生き返りまでこなすとは。

 神童どころか、神様そのものだ。

 あぐらを掻いたまま壁を向く。目の焦点が合わなくなると、紅葉の色合いを記憶に見た。

「なぁ、覚えてる? 野外学習のこと」

 昨晩の藤沢みたいに、記憶の有無を問う。

 返事には間があった。

 答えは聞く前から分かっていたけど、待った。

 和田塚がステージの途中で停止もせず、コントローラーを床に置く。

 残機は既に失われて、あとはなくなっていた。

「昨日思い出した」

 やっぱり、僕と同じだった。



 そもそも大して親しくもない僕らを結びつけたのは、取るに足らない一行事だった。小学四年生の冬だったと思う。年が変わる前、十二月。夜の一番長い時期だった。

 小学校では野外学習という宿泊行事があって、自然と触れ合って共同生活して集団生活の意識を高めるとか……そういう目的なのだと思う。詳しいことは分からない。

 寒い季節に外で活動するなんて正直、心弾む内容ではなかった。

 活動の際には班ごとに分かれるのだけど、その班に集ったのが僕らだった。

 僕、七里、和田塚、稲村、江ノ島。そして、藤沢。

 班長は藤沢だった。当時の藤沢は無愛想極まりなく、今も変わらず極まりなく、それはさておきおよそ班を纏めるなんて人柄ではなかったのだが、先生がそう決めてしまったのだから変更はできないのだった。

 もし意見を交わして僕らが自由に決められるとしたら、班長は七里になっていただろう。七里は仕切るのが上手いかはともかく、そういう立場に率先して収まる女子だった。

 じゃあなんで藤沢かというと、担任の先生がそういう人だったからに他ならない。

 陰気なやつにも日を与えたがるような人だった。

 最初、僕にもやらせようとしていたが逃げた結果、藤沢に落ち着いた。藤沢は立候補こそしなかったけれど、決まってからは特に反対することもなかった。当時の僕はそれを意外に思ったものだった。この頃の僕は藤沢を強く意識していた。表立たないよう心がけてはいたけれど、もしかすると周囲には筒抜けだったのかもしれない。あとになってそうした部分を振り返ると顔を手で覆って身もだえしそうになる。

 閑話休題。

 ただ言うと、藤沢を意識していたのはませた色恋とかそういうものではない。同情や仲間意識というものが念頭にあったのだと思う。

 藤沢も、妹を亡くしていたのだ。

 野外学習の行き先は自然の家とかなんとか、そんな名称の場所だった。山にほど近く、喧噪から離れて、そして寒風を建物が凌いではくれない。平々として、閑散としていた。ここでなにを学べばいいのかと内心まで冬の冷たさに満ちるのだった。

 その日の昼はみんなで銀紙に包んでホットドッグを焼いたけど、僕の分は半分ほど炭になっていた。火に近づけすぎていたらしい。失敗したのは江ノ島のせいにしておいた。

 上手く作ったのは稲村と藤沢だけだった。

 七里が苦いのか悔しいのか、眉間に皺を寄せて食べていたのが印象に残った。

 上手く焼けたのを稲村が半分譲ろうとしたら受け取らないで逃げ回っていたのも、少し面白かった。

 稲村は学校でも大体、七里と一緒に行動しているのを見かけた。いつも眠そうに、瞼がやや重い。口もとはへらへらと軽薄に緩く、背丈の低さも相まってか七里と横並びだと同級生というより姉妹みたいだった。

 僕らの班で一番有名なのは、多分この稲村だ。

 その名は学校に留まらず、もっと広い場所にまでその存在は知られている。

 同年代と勝負すればどんなことでも負けない。種類問わず、勝ち続ける。本人の暢気な顔つきと相まっての余裕もあってか、大人しくしていても目立ってしまう。大人はそれを高く評価していた。僕はそれが凄いなと思っていても、そこまで大騒ぎするほどのことかな? と思っていた。騒がれていたのが気に入らなかったのかもしれない。僕にはそこまで人を左右するような価値は、少なくとも当時にはなかった。

 あの頃の僕らはまだたくさんの高いものに世界を囲まれて、息苦しさのようなものを覚えていた。自由に走り回っているようで、ふと気づくと自分がどこにも行けないような気がして焦り、苛立ち、それを解消することもできないで空を仰いでいた。

 僕たちが『それ』に出会ったのは、そんなときだった。

 翌日、山を少し登って、緩やかな広場まで来たところだった。洗濯でもされたように緑黄が抜け落ち始めた木々と共に、僕たちは自由行動の時間を迎えていた。自然の家から少し離れたその土地は遠くを森に囲われて、なだらかな丘陵となっていた。僕は親戚の家の近くにあった棚田を思い起こして、空気を吸いこむ。木の匂いが強い。

 遠くには行かない程度に、好きに遊ぼうというお達しを受ける。

 ただ自由とはいえ班ごとに行動するという決まりがあったのだけど、僕らの班はまったく守らなかった。そもそも班長である藤沢が無言で離れていってしまった。稲村も別方向に走りだして七里はそれを追いかける。残った僕、和田塚、江ノ島の男子組は周辺の植物に興味なくて立ち惚けていた。教室でも大して話さないのに、外に出たからってなにかが変わるものでもない。和田塚は無口だし、江ノ島はおどおどしているし、辛い時間となる。僕としてはこんな陰気な連中と一緒にいると、余計に寒々しくなるので逃げだしたかった。でもどこへ行く、と広場を見渡す目が定まらない。

 仲のよい友達なんて、ぱっと見つからない。

 居心地悪く、無益に過ごしているとほどなくして藤沢が戻ってきた。藤沢は森の方から一人で歩いてきた。

「ちょっと来て」

 近くで声をかけられてぎょっと目を見張った。頭から出血しているように見えたからだ。しかしそれが前髪に乗っかった葉っぱだと気づいてほっとする。藤沢は僕の視線を感じて一睨みでもするように目を動かす。それから、意味に気づいて頭を払った。

 赤と茶の混じった葉が散り、地面に溶ける。

 他の四人が集まっているのを見てか、稲村と七里が走って寄ってきた。

「どうかした?」

「人が倒れてる」

 藤沢が淡々と、冬風のように乾いた声で事態を告げてくる。

 え、と混乱で一拍置いている間に藤沢は動きだしていた。

「あっちよ」

 藤沢は最低限の説明を続けて先導しようとする。待て待て待てと言いたい。

 実際に口にしたのは七里だった。

「倒れてるってなに」

「そのまま。女の人が倒れていたの」

 言い方から、一緒にここへ来た同級生が相手ではないと知る。

 知らない大人が倒れているのだろうか。

「そういうのは先生に言った方がいいんじゃない」

 七里がもっともなことを言う。藤沢は一瞥して、すぐに前を向いた。

「先生は医者じゃないわ」

 そりゃまぁそうだけど、と七里を見つつ頭を掻く。七里は不服そうに藤沢の背中を睨んだけれど、藤沢はまったく意に介さない。

 けど僕らも医者じゃないのでは、と思ったけど口にはしなかった。

 言えば藤沢に殴られそうだったからだ。

 まだなにか言いたそうな空気を察してか、藤沢の足が速まる。早足で有無を言わせないつもりらしい。僕らが行ってなんの役に立つんだ? とは思うけれどだれかが倒れているという話なのに放って離れてしまうのも薄情というか、後ろめたさがあるというか。そんな見栄みたいなものがあって、藤沢についていくしかなかった。藤沢がやってきた方へ歩いていけば当然、広場を包む森へと続いていく。

「こっちよ」

 藤沢は止まらない。追って木々の隙間をすり抜けると大きく場所を変えたように、地面を踏む感触も変わる。積もった落ち葉が、靴の裏と土の間に余分なものを与える。

 藤沢に騙されて森の奥深くにでも連れこまれるのでは、と一瞬疑う。

 森に少し踏みいったところでその藤沢の足が止まる。広場からわずかに離れただけでも、日が沈んだように周囲の暗がりが深まっていた。元々冷えきっていた空気が更に霜でも堆積したように落ちこむ。でも、それよりも背中にぞわっと走るものがあった。

 大きな木の向こうに、足が伸びていた。

 側に立つ藤沢の背中越しに、そろりとそれを覗きこむ。

「ほんとだ」

 僕らを代表して稲村が呟く。

 倒れていたのは、魔女だった。

 少なくとも僕は最初にそう思った。

 その魔女は魔法の杖も、黒いローブも持ち合わせていなかったけれど真っ赤な帽子に顔が覆われていた。目もとを切り裂くように斜めに折れた、ツバの長い帽子。魔女がかぶる三角帽子は、まだ枯れていない紅葉の寄せ集めのようだった。

 そんな人が、横たわっている。

 木々の隙間に、光も届かないまま。

「だいじょぶですかー?」

 側に屈んだ稲村がぐいぐいと肩を揺する。「ばか、動かしちゃだめよ」と七里がすぐに注意して抱えるように引っ剥がす。揺すられた魔女の方は反応しない。代わりとばかりに、掴まれた稲村が手足をばたばたさせている。「えぇい鬱陶しい」と稲村を放り投げて、七里が魔女に近寄った。

「息してんの?」と和田塚が確認をとるよう促す。怖いこと聞くやつだな、と首を引っ込めそうになる。息していなかったら死体だ。死体を気軽に触っている稲村まで怖くなる。江ノ島も似たような想像をしたのか、そろっと、一歩距離をとった。

「してないわ。肌はまだ温かいけど」

 七里が確かめる前に、藤沢が淡々と呟く。ぎょっとなって、藤沢を振り返った。藤沢はそれぞれの視線を受け止める気もなく、だれとも目を合わせない。魔女を見据えている。七里は一瞬腰が引けたものの、足は下がることなくゆっくりと振り向く。

 表情はこわばり、顔色も暗がりで分かる程度には血の気が引いていた。

「やっぱり先生を呼ぼう」

 七里がこの状況にしては冷静に提案する。稲村も「そだね」と短く答えた。和田塚は無言ながらも同意を示すように目を伏せて、江ノ島はみんなの顔色を窺っていた。取り分け、藤沢に目が行っていた。気づけるということはつまり、僕も藤沢を見ていたっていうことなんだけど。で、その藤沢はというと。

「だめよ」

 冬に似つかわしい、冷たい調子で反対する。

「大人を呼んだら面倒なことになるもの」

「なんだそりゃ……」

 藤沢があまりにも動じないので、実はお前が殺したんじゃないかと邪推しそうになった。もしそうだとしたら死体と藤沢、どっちがより恐ろしく感じられるだろう。

「じゃあどうするのよ」

 七里が苛立ったように問う。藤沢は答える前に、足を前に出した。

「こうすればいいのよ」

 藤沢が倒れこむように膝をつき、そして。

 帽子を剥いで表れた魔女の唇に、自身の口を重ねた。

 突然のことに呆気にとられる。

 藤沢はそのまましばらく顔を押しつけていた。背中の動きが激しいことから、どうやら、人工呼吸を行っているようだった。ああ、そういうのか、と遅れて理解する。

「ほら、次」

 顔を離した藤沢が代われと催促してくる。しかも、僕の方を見つめていた。

 ただでさえ藤沢には色々と思うところがあるのに、急に見られて、しかも内容が内容だけに目を逸らしてしまう。寝ている女の人に、えぇと、と恥じる。

「え、いや、おれはいいよ」

 人命がかかっているのに拒否とか、酷くないだろうかとは少しくらい思った。

 本当に、ちょっとだけ。

「あ、そう」

 藤沢があっさりと僕を見限る。そうして動こうとしない他の顔を見回したあと。

 特に、七里と稲村を見ていた気がする。

「使えないやつら」

 抑揚なく吐き捨てて、藤沢がまた魔女に口づけをした。

 結局、藤沢だけしかやらなかった。僕らがここにいる意味はなんだろうと、冷寒たる森の中でぼんやり考える。それは弟があの日、あの場所にいて、事故に遭ったことにどんな意味があるんだろうという、終わることのない問いかけに重なるのだった。

 藤沢が三度目の人工呼吸を終えて、顔を離したときだった。

 魔女の投げだされた右腕が跳ねる。そして、噎せた。

 三回ほど背中を震わせたあと、帽子の向こうで顔が動く。呻き声をあげながら、地面を手で押して身体を起こした。倒れているのも怖かったけど、起きたら起きたで身構えてしまう。魔女は薄くこぼれた涎を拭った。

「あなたたちは……えぇと」

 魔女が寝起きのように頭を掻きながら、僕らを見回す。担任の先生より干支一回りは若い。声もぱらぱらと、綺麗な砂が流れるように細やかだ。魔女の帽子から連想するのは異国だったけれど写真で見た外人とは異なり、顔の彫りは深くない。柔らかそうな頬は森の中のせいか一層、青白く見えた。

 わずかに赤みが差したような、黒く長い髪。弱気なように萎んだ眉毛。ダウンコートのサイズが大きいのかもこもこと羊みたいだし、こうして見ると帽子以外に魔女を象るものはなかった。その帽子も、今は地面の上で潰れている。

「だいじょぶ、ですかー?」

 稲村が少し膝を曲げて、目線を合わせながら逆に質問する。

 ぼぅっとして頼りない、魔女の目が稲村を捉える。

「そうみたい」

 他人事の口ぶりだった。それから稲村の緩い顔つきに釣られるように、ゆっくりと微笑む。笑い方に丸みがあって、人好きしそうだと思った。

 魔女が森の木を見上げる。なにかを確かめるように頭の動きは素早い。

 それを終えてから、魔女は改めて僕たちを見た。

「あなたたちが見つけてくれたの?」

「そうよ」

 藤沢が冷たい声で答える。魔女は藤沢の反応に、「ふむ?」と不思議そうに目を揺らす。僕からすると、変なのは魔女の方だった。見つけてくれたって、この状況に似つかわしい表現なんだろうか。呼吸が止まっていたのに、暢気な人だ。

 そんな無防備な魔女に対して、笑顔を向けているのは稲村ぐらいだ。

 七里は口もとが険しく、やや警戒しているようだった。それでも、稲村の隣からは離れようとしない。和田塚と江ノ島は一歩離れていた。和田塚の方は興味なさそうに、江ノ島は怖そうに。江ノ島の方はいかにもすぐ帰りたそうにしていた。そもそもこいつは、野外学習なんてものに参加するのも嫌がっていたと聞く。家以外に寝泊まりとか考えられないようなやつらしい。甘ったれというべきか。

 そして藤沢だけが、まったく動かない。

「なんとも元気に爽快……ふふーん」

 魔女が自分の唇に触れてから、藤沢を見据える。

「最近の子供にしてはお人好しね」

「よく言われるわ」

 藤沢が平坦な顔のままうそぶく。お前がいつ、だれに一度でもそんなこと言われた。

 しかし実際、藤沢が人助けなんてイメージ外にもほどがあった。

 教室での藤沢だったら、素知らぬ顔で見捨てているだろう。

「感心、感心」

 魔女が言葉を繰り返す。そして載った葉っぱを払ってから、帽子をひっくり返す。手品の鳩の代わりとばかりに、帽子の中からそれを取りだした。

「よい子にはお礼が必要ね」

 両手のひらに載っていたのは、六つの木の実だった。図鑑で見たハマナスの実に形が似ている、赤い実。でも季節が外れているからまた別の実のようだった。

「山で採れたとても美味しい木の実よ。食べてごらんなさい」

 屈託のない笑みで魔女が勧めてくる。僕らは顔を見合わせて逡巡する。人当たりがよさそうではある。でも知らない人だし、変なところで倒れているし、とお礼を素直に受け取れないでいた。例外を除いて。

「どーもどーも」と真っ先に受け取ったのは稲村だった。「ちょっと」と七里が肘で脇を小突くが、すぐに口に放りこんでしまう。むぐむぐ、口もとが上下して。

「んー?」

 予期せぬ味に見舞われたのか、稲村の眉間に皺が寄る。そのまま気難しそうに噛み続けて、けれど飲みこんだあとは「おぉー」と晴れやかな表情になった。

 どんな味なんだろう、と魔女の手に残る木の実をおっかなびっくり、見つめる。

「ここに住んでるの?」と稲村が聞く。

「そうね。冬はこのあたりにいることが多いかも」

 はいどうぞ、と魔女の手が僕に向く。たおやかな手先だった。柔和な笑顔と共に木の実を受け取る。魔女の手は冬の山でありながら、指の腹に微かな温もりを残していた。その温かさを伝うように目線が上向き、魔女の容貌を意識する。

 かぎ鼻も深い皺もない、端整な顔立ち。山を下りれば、その涼しげな態度と共に町に溶けこんでしまうだろう。森と帽子が、魔女という存在を支えていた。

 別に、本人が魔女と名乗ったわけではないのだけど。

 にこにこと見つめられては、木の実を口にする他なかった。慎重に、奥歯で噛んでみると実は抵抗なく割れた。花の香りが口を経由して鼻の中いっぱいに広がる。赤色の実のイメージ通りに、薔薇に似た風味だった。美味しいか? と首を傾げつつ、そのまま噛んで飲みこむ。食べている間は花の味だけだったのに、喉を通ってから甘い後味で満たされた。稲村の表情の変化に納得する。

「ふぅん」

 和田塚は僕が食べたのを見てから木の実を口にした。毒味役かよ、と渋い気持ちになって目を細める。江ノ島もそれに続いて、おいおいとなった。慣れていない味だからか、和田塚の顔が渋く皺を寄せる。その目が僕を一瞥した。

 よく食べたな、と目が言っている気がした。

「れれ? いらないの?」

 稲村が七里の手もとを覗きこみながら尋ねる。七里は常識に則って躊躇していた。

「私が食べたげよーか?」

 稲村が代わりに手を伸ばそうとする。が、魔女の柔らかい指が伸びた。

「だめよ、一人一つずつ」

 魔女がやんわりと遮る。

「ま、一人で全部食べるのも面白かったかもね……」

 ぶつぶつと独り言を付け足したけど、離れていて僕にはよく聞こえなかった。近くにいた藤沢や稲村たちには聞こえたかもしれないが、要領を得ないのか反応が薄い。そうこうしている間に、七里が木の実に鼻を近づける。香りを確かめたあと、口に入れる。

 それを見守って、「えらいねえ」と稲村が七里の頭を背伸びして撫でる。七里は目の端を吊り上げながら「アホ」と頭を叩き返した。仲いいなこいつら、と密かに噴きだす。

「あなたはどうする?」

 魔女が藤沢に問う。藤沢は常識以外のなにかに基づいて抗うように、まだ木の実を口にしていなかった。藤沢に全員が注目する。藤沢は指の間に木の実を挟んで、目の高さに掲げる。

 そのまま押し潰すかと思ったが、一睨みしたあとに大人しく口に入れた。

 噛みもせず丸のみしたのか、すぐに喉が動いた。

 魔女は微笑みながらそれを見届けて、立ち上がる。

「命の恩人に返せる恩義は命だけよ。あなたたちに命をあげたわ」

「へぇ?」

 思わず間の抜けた声をあげる。いきなりなにを言いだすのか、と理解できない。

「山で採れたと言うのは大嘘なの。ごめんなさいね」

 帽子を深くかぶった魔女がツバの傾きを指で調節する。張りついた葉が舞い散り、身体の一部のように剥がれていった。その落ち葉と一緒に、泳ぐように動く。

「みんなにナイショだよ」

 魔女は最後にそう言い残して、森の奥へと歩いていった。

 なんだったんだ、と微かに残る指先の感触を見下ろす。息を吹きかければ、埃のように宙を舞いそうだった。そして魔女がここにいたという証も一切、消えてしまいそうで。

「大嘘って……やっぱり変なものだったのかしら」

「変な人」

 心配する七里と正反対に、稲村が面白そうに見送る。まだ木の実の欠片でもかじっているのか、頬がもごもご動いていた。

「仙人様かな」

「どっちかっていうと、魔女じゃない?」

 七里の感想に内心で同意する。仙人要素あるか? と首を傾げそうになった。それからすぐ、ああ山か、と気づいた。山にいるのは確かに仙人様だと思う。

 魔女はどこにいるだろうと考えたら、深淵を宿す森の中を思い浮かべた。

「……ここじゃん」

 顔を上げて、その薄暗がりにへへへ、と笑った。

「そろそろ戻ろう。先生に見つかったら怒られるわ」

 七里が班長みたいにみんなを纏めて動かそうとする。リーダー風を吹かせる七里は教室内で反発を生むときもあるが、今は反対する者もいなかった。むしろそうして引っ張っていってくれることに、頼りがいさえ感じていた。

 そんな七里をにまにま笑うのは稲村、無表情なのは藤沢。

 そうして七里を先頭に戻る途中、最後尾の藤沢の呟きが耳に留まる。

 それは冬の風を受けて、すぐにでも凍りつく。

「悪い魔女じゃないといいけれど」



『命をあげる』とあのときの魔女は言った。

 僕はそれについてこれまで、深く考えてくるようなことはなかった。いや、意識して避けていたように思う。命というものと向き合えば必然、弟の死についても触れなければいけない。それは僕の中で引き剥がすことは決してできないのだった。

 弟は僕が六歳のときに死んだ。まだ四歳だった。

 四歳だろうと百歳だろうと、死ぬときは死ぬ。

「……まぁ、まぁ、まぁ」

 それは、おいといてさ。咳きこんで、考えを切り替える。

 今思うと、藤沢が僕たちを呼んだ理由はなんだったのだろう。さすがに心細かったのだろうか。そんな性格かなぁ、と首を傾げそうになる。むしろ、周りに人がいると鬱陶しがるような仕草を見せていたやつだ。

「あのとき食った木の実。あれがあいつの言う、命だったのかもな」

 一通り昔のことを思い出していたら、和田塚が話しだす。

「あれか……花の味がしたな」

 残り香は記憶と共に鼻の奥に留まっている気がした。ピンクに近い赤を想起する。花びらが舞い上がり、鼻と目を包むようだった。随分と生き生きとした幻である。

「僕たちも、やっぱり死んでも生き返るのかな」

 テレビ画面では、マリオの残機がなくなっていた。

「興味はあるが、気軽に試せないしな」

 いやまったく、と笑う。いくら稲村が手本を見せても真似はできない。

 だってあいつ、天才だし。

「確かめたいことは色々あるんだが、しかしこりゃ難しいな……」

「どんなことだ?」

「そうだな……まず、俺たちの命が無限なのか、それとも有限なのかだ」

 和田塚が自分の胸もとを二度、指先で叩く。

「何回死んでも生き返るのか、それとも一回か二回なのか……そこが気になってる」

「……はぁ」

 和田塚の関心はこちらにとって意外だった。僕は一つ余分に貰ったぐらいだというのを前提として考えていた。魔女が言っていたからだ。

『一人一つずつ』だと。

「まぁ、無制限っていうのはないな」

「根拠は?」

 和田塚がゲーム機の電源を切ってから振り返り、僕に向く。

「ない」

「なんとなくか……」

 苦笑する。でも僕は、まぁそうだろうなって思った。

 それと同時に、江ノ島のことを思い出していた。

 江ノ島は数年前に亡くなっている。こちらは葬儀で棺桶を蹴るような不作法なことはなかったのだろう、話題になっていないし。あのときも確か参加はして、魔女のことをうっすらと思い出していた……はずだ。正直、薄情だけど葬式の様子やら含めてあまり覚えていない。ほとんど話もしたことがない相手だ。

 いつもびくびくしていたのは覚えている。なにがそんなに怖かったのだろう。

 命が二つあるのだとしたら、江ノ島は二回死んだことになる。

 つまり、矛盾する物言いだけど死ぬ前に一度死んでいる。

 僕らに相談することはなかったし、なにを思っていたかは謎のままだ。

 和田塚が話を切り上げて立ち上がる。皿や箸といった洗い物を済ませてから、そのまま玄関に向かった。家の外まで見送る。二人で外に出ると、相手の顔が陰に染まる程度に夜が深まっていた。僕の家の周囲はまだ街灯が少なかった。

「じゃあな」

「うん。今日はありがとうな」

 いいのよ、と指に挟んだ千円札をひらひら振って和田塚が去っていった。

「またな」

「お、おー」

 珍しく、和田塚がそんなことを言ってきて、反応が遅れた。

 そんな僕を面白がるように、和田塚が控えめに肩を揺らすのだった。

「なんなんだ……」

 ぼやきつつも、不思議と悪い気はしない。

 そういえば和田塚は自転車で来なかったんだな。学校には自転車通学だけど、夜間は乗らないのだろうか。前呼んだときは乗ってきただろうか。思い出そうとして記憶になくて、いい加減に生きている自分に呆れる。散漫な人生だ。

 僕も、命が一つじゃないからだろうか。

「…………………………………」

 まだ夜に蝉の鳴き声はない。でも、立ち止まっていても、夏は始まる。

 命はすり減っていくのだった。

 そして世間で稲村が祭り上げられる中、僕は何事もなく日々を過ごす。

 当たり前のように訪れた十七回目の夏は、長い休みに入るのだった。