プロローグ

 ――知ってます? 『化学資料室の不死身さん』という幽霊のお話。


 その幽霊、本当に実在していたんですってね。びっくりしました。学校の七不思議の一つとしてもう有名なのに、フジミさんが実際にいたというお話は正直初耳でしたわ。え? 何って、フジミさんのことですけれど? ご存知ありませんか? 内容も? あら。でしたら、最初から教えて差し上げますね。

 この学校には、古くから化学資料室という特別教室がありましたの。あ、今はもうありませんよ。いま現在、化学室の隣にあるのは化学準備室でしょう? 昔はあったみたいですよ。化学資料室が。そして、そこでは不慮の事故で亡くなった女生徒の幽霊が出るという噂がありまして。その女生徒の幽霊こそがフジミさんでした。

 学校に未練があったのでしょうか、フジミさんは化学資料室に住み憑き、化学の授業の片付けをしている生徒に悪戯したり話しかけたりしました。大抵皆さん気味悪がって当番でもない限り資料室に寄り付かなくなるんですけど、偶にフジミさんに魅入られてしまう子が出てきて、休み時間や放課後に資料室に遊びに行くようになってしまうんです。

 フジミさんは好奇心旺盛で、とにかくいっぱいお喋りをしたがる子でした。誰とでも仲良くなれました。どんなに人見知りの子でもフジミさんとなら友達になれちゃうんです。引っ込み思案だったり根暗だったりする子が特にフジミさんに惹かれてしまうそうです。それも仕方ありませんわね。だって、お友達になってくれますもの。親友になってくれますもの。どんな子にも優しくて、興味を注いでくれて、たくさん楽しいお喋りをしてくれる。幽霊だけれども、お友達になった子は彼女のことを天使のようだと思うようになるんですって。うふふふ。あ、そうそう。フジミさんはすっごい美少女だっていうお話もあるみたいですよ。たぶん、それも魅力の一つなのでしょうね。すでに死んでいて儚いから、よりキレイに見えるのかもしれませんね。同性を素敵だと思い憧れる気持ち、わからなくもありませんわ。

 そして、キレイなものには毒や棘が付きものです。

 あまり惹かれすぎてしまうと出られなくなるんですって。化学資料室から。いつまで? もちろん、死ぬまでですよ。カラカラに枯れたお婆ちゃんになるまで外に出られません。フジミさんは若くてキレイなままで、老いさらばえていくお友達に微笑みながらこう訊ねるのです。

『ねえ、死ぬってどんな気持ち? 教えてくださらない?』

 フジミさんは好奇心旺盛で、とにかくいっぱいお喋りをしたがります。やがてお友達がもう喋ることがないとわかると、化学資料室から干からびた死体だけを追い出して、今度は新しいお友達を迎える準備を始めるのです。

 え? ええ、閉じ込められて老死した生徒は数日間行方不明になっただけで発見されたというお話ですよ。化学資料室は異界で、その中では時間の流れが現実とは違って早いのでしょう。フジミさんは歳を取りません。幽霊ですし、なんと言っても不死身ですから。

 ……あら? 面白くありませんでした? けれど、このオチまでが七不思議の一つ『化学資料室の不死身さん』の内容なのですから、ご容赦くださいね。うふふふ。

 ――そうそう。駄洒落なんかじゃなく、どうしてこのお話が七不思議の一つに数えられるくらい有名かつ恐がられるようになったのかと言えば、それは実際に起き得る怪談だからなんですよ。

 フジミさんは実在しました。過去、この学校に実際に在籍していたんです。

 そして、この学校には現在も『化学資料室』がどこかに存在していて、フジミさんに魅入られてしまった子が今でもなお、ひっそりと通っているという噂があるのです。

 信じられませんか? ……まあ、そうでしたか。怪談はあまりお好きではなかったんですね。ごめんなさい。では、別のお話をしましょうか。

 いいじゃありませんの。時間ならたっぷりあるのだし、もっとお喋りしましょうよ。

 わたくしたち、せっかくこうしてお友達になれたのですから。


*   *   *


「そういえば、京花の学校にも七不思議ってあるの?」

 思いついたままを口にしたのが丸わかりだったので、だから私は葦原人理のその質問には答えなかった。あるかどうかもわからなかったし、興味もなかったから。

 それからしばらくして、気まぐれに「そういえば」と人理にされたのと同じ質問を別の誰かにしていた。思えば、それがすべての始まりだった。

 私、天保院京花が通う私立藍泉女子高等学校にも、俗に言う『学校の七不思議』が存在する。

 他人が見聞きすればどうということのない単なる自然現象も、学校という閉ざされた空間の中で、ふと不安感や恐怖心を覚えた瞬間に知覚してしまえば、次の日には古くから伝わる怪談となって生徒の間に広まっていく。

 噂話が三つ四つ飛び交い始めた辺りから、なぜか生徒は早く残りを登場させようと躍起になる。怪談話の蒐集に精を出し、あるいは、創作する。そうして間もなく不思議話は七つ出揃い、『学校の七不思議』が組み上がるのだ。

 私が知る限り藍泉女子に存在する怪談は、新旧合わせて十五個ある。取るに足らない、怪談とも呼べないようなものまで含めたら三十三個。私が知ることなく消えていった物語をすべて数えたら、おそらく百では利かないだろう。それらの中から七席に選ばれた怪談が、その年度を代表する『学校の七不思議』として囁かれることになる。

 七不思議は時代ごとに入れ替わる。伝承されるモノもあれば、席を取って代わったモノもあり。それはまるで、同じ時間を過ごした生徒のみが共有できる思い出、その表徴なのかもしれない。狭い空間に押し込められた腹いせと、退屈凌ぎによって選出された、言わば生徒の総意で生み出された大系だ。だから、時代によって怪談の傾向は異なるし、八に増えていたり七に足りていなかったりと、てんでバラバラ好き放題。

 そうして散々弄くり回され恐がられた怪談たちは、けれど生徒が卒業していくたびに学校内に取り残されて降り積もり、やがて忘れ去られていく。

 所詮、在校生が恐がって楽しむだけのエンターテインメントでしかないのだわ。

 間違っても生きるの死ぬのという実害に及ぶものであってはならない。

 怪談は、語られるのみで何もできやしないのよ。

 でも、もしもそれで人が大怪我をしたり死んだりしたのだとしたら、そのときは。


 まずは――人為的か否かを疑うべきね。



一章『一番目から三番目』



 春――。

 私立藍泉女子高等学校で、ひとりの生徒が校舎の屋上から飛び降りた。春休みで、寄宿生のほとんどが帰省していたこともあり、幸いにしてその瞬間を目撃した生徒はいなかった。いれば、少なからずトラウマを与えたはずである。

 養護教諭の古川葵は花束を手に自殺があった現場を訪れた。遺体はもちろんのこと、血痕さえ残っていない地面に花束を供える。第一発見者は校務員の小母さんで、飛び降りた瞬間を見たのだそうだ。善良な彼女の憔悴しきった顔をカウンセリング中ずっと見続けてきた葵には、遺体の凄惨さが容易に想像できた。割れた頭蓋骨というのは生理的に最も忌避したい光景であろう。

 きっと、休み明けには多くの生徒が知ることになり、全校生徒に対してもカウンセリングを行うことになるはずだ。学友の自殺は多感な時期を迎えた女子学生には刺激が強すぎる。心身に不調を来す子が出てきてもおかしくなく、新学期は早々から忙しくなりそうで、葵は自身もまた過労で倒れやしないかと今から心配になった。

 ――駄目駄目。しっかりしなきゃ。亡くなったあの子のせいにしちゃいけない。

 自殺した生徒の名前は高倉有紀。今年度二年生に進級する予定だった生徒で、虚弱体質でよく保健室を利用していた。葵のこともそれなりに信頼してくれていると思っていた。なのに、

 ――結局、私には悩みごとを打ち明けてくれなかったな。

 それを少しだけ悔んだ。養護教諭としても、カウンセラーとしても、不甲斐なく思う。

 合掌した手を下げて、何気なく屋上を見上げた。すると、フェンスを越えて今まさに飛び降りようとしている人の姿が目に飛び込んできた。

「――――ああっ!?」

 止める間もなかった。その人はスカートをはためかせると何の躊躇もなく宙に身を投げていた。真っ直ぐ目の前に落下してきた人体は、葵が供えた花束の花弁を撒き散らしながら、鈍い音を立てて命を潰した。身動ぎひとつしない。一目で即死だとわかった。

 割れた頭蓋が血と脳漿を垂れ流す。片方の眼球が半分飛び出て青い空を凝視する。華奢な体は骨を砕き、洋服の上からでも歪に捻じ曲がっているのがわかる。

 普段の澄まして美しい姿は見る影もなかった。

 遠くでうぐいすが鳴いている。牧歌的な春の日溜りの中、花弁がひらひらと舞い散り――。

 死体が、血の赤と花弁に彩られていく。

 葵は彼女を知っていた。

「天保院……京花、さん……」

 理事長の孫で、旧家天保院家の息女。二年A組に在籍する我が校の生徒。

 一年前に赴任してきた折、校長から特に顧慮するよう厳命された。それからというもの、彼女のことは見掛けるたびに意識した。どこか陰を引き摺った態度。少女のあどけなさを持ちながら娼婦のような妖しさを漂わす、その絶妙なアンバランスさには正直惹かれていたと思う。だからこそ、見間違うはずがない。

 死して形が崩れてもなお彼女からは気品があふれていた。

 死体までも美しい。

「――……え?」

 惚けた一瞬、目の前から死体が消えた。

 血の海も、散らばった花弁も、どこにもない。葵が供えた花束が元通りあるだけだ。

 背後に気配を感じて振り返る。そこには喪服姿のトークハットを被った女性が居た。黒のベールで顔を隠してはいるが、葵にはすぐにわかった。身を投げたはずの天保院京花が何事もなかったようにそこに居た。

 静かに問われた。

「古川先生。貴女、視えたのね?」

「今の……」

「高倉有紀が死んだ瞬間よ。それを再現しただけ。私、そういうことができるから」

 首筋を撫でていく柔らかな春風に、なぜか、ぞくり、と背筋が凍った。

 一体何が起きたのかわからない。何もかもが春日影が見せた白白夢だったような気がする。

「あの子が死ぬ理由なんて一つもなかったのよ」

 京花は地面に置かれた花束を寂しげに見つめて、静かに一筋の涙をこぼした。

 葵もまたそんな京花から目が離せずにいた。


*   *   *


 私立藍泉女子高等学校は、歴史こそ浅いが名家の子女が通う格式高い教育施設として全国に名を轟かせている。千千良町出身の大富豪、天保院家が設立した学校で、一定以上の学力と教養が必要なのはもちろんのこと、由緒ある家系の出自でなければ入学が認められないという正真正銘のお嬢様学校といわれている。

 とはいえ、さすがに現代ではそこまで頑なに閉ざされてはいなかったが、生徒の大半が全国から集められた社長令嬢や家元の後継で、淑女に相応しい作法と実家に有利になりそうな人脈を身に付けるべく、学校の敷地内にある寄宿寮に預けられて寮生活を余儀なくされているという現状は、創設当時からあまり変わっていない。

 息苦しい高校生活。校舎と寄宿寮との往復だけで成り立つ日常。そこには潤いが圧倒的に足りていなかった。良家の淑女であろうとも、ほとんどの生徒が年頃の娘ならではの甘くて苦い青春の刺激に飢えていた。

 新聞部部長の合掌愛未の使命はそんな彼女たちに潤いをもたらすことである。新聞部の活動は、何も実際に起きた出来事や、次に控える行事などを淡々と紹介するものではない。ジャーナリズムとは言わば理想の押し付けである。時事を真実らしく描きだし、批評を重ねて読者の意識下に自らの思想を刷り込ませる作業である。――一般社会においては是非が問われそうな定義であるが、愛未は「新聞なんてそんなもんだし、それの何が悪い」というスタンスだ。

 知る権利を行使して得た真実が必ずしも面白いものとは限らない。何かを隠しているに違いないと決めつけて暴いた真相が、想像していたものよりも数段落ちていることなんてのはよくある話。

 とりわけ、学校新聞に載せられるような話題に面白さは望むべくもない。そもそも校内でセンセーションを巻き起こせるほどの出来事なんて起きやしないのだ。真実をありのままに書いたらなおのことつまらない。だから、たとえ結論は同じでも、そこへと至る道筋に多少の脚色を加えてでも読者を惹きつける書き方が必須となる。究極、真実は二の次で、面白いか否かが重要となってくる。

 例えば、新学期に転校生がやって来たならば、それは見目麗しい王子様のような風貌で表現する必要がある。あるいは、転校していった学友は亡国の姫君で、その後の波乱万丈の人生を随時更新していかなければならない。

 もはや小説である。閉じられた世界ではおよそお目にかかれない出来事を、あたかも現実のことのように臨場感たっぷりに伝えることそれこそが、藍泉女子高等学校新聞部のジャーナリズムであった。理想の押し付けであり、思想の刷り込みなのだった。

「それの何が悪いってのよ。みんなだって喜んでくれているのに」

 備品のノートパソコンでテキストの文面を添削しながら、先ほど顧問の老教師に叱られたことを思い出す。文芸部に鞍替えしたいのか、と問われて反論できなかった自分の不甲斐なさにも腹が立つ。好きで創作活動をしているわけではないのだ。確かに読者に読ませるための工夫が行き過ぎている感がないではないが、根っこの部分では今も真実の探求を目標に掲げていた。

 読者を楽しませつつ、嘘偽りのない真実を皆に開示する。そうすることがこのつまらない学校生活に潤いをもたらすと信じていた。

 二学期が始まった九月の半ば。愛未は部員が起こした原稿のチェックに時間を取られて苛立っていた。部長とは編集長であり総責任者でもある。各記事に最終的にゴーサインを出すまでが職務であった。たかが学校新聞であろうと生徒たちに広く報じるからには下手な文章は載せられない。誤字脱字はもってのほか。それは信用に関わることだからだ。校閲作業が一番疎かにできず最も神経を使った。

 フラストレーションが溜まる。部員たちが起こした原稿のなんとつまらないことか。部員の編集能力には及第点を付けられるが、取り上げるニュースが壊滅的に面白くない。

 愛未は一学期に創作活動で暴走してしまったために、顧問の言いつけで取材と編集から外されてしまっていた。本当なら不甲斐ない部員たちに代わって、今すぐにでも校内を駆け回って些細でも面白そうな題材を見つけ出し、無理やりドラマ性を詰め込んで読ませる作品に仕立てるものを。手段と目的が完全に入れ替わっていることには気づいていたが、一度覚えた創作混じりの編集の楽しさは身体の芯にまで染み渡っていた。

 誰にともなく問いかける。

「……行くか?」

 実は気になっていることがあった。寄宿寮の自室でこっそり資料をまとめている、とある題材があるのだ。有った事実と客観的な考察と自分の憶測を繋ぎ合わせて、それらをさらにフィクションに加工する、そのためのプロットを着々と仕上げていた。

 完成度を上げるには何より取材が必要だった。

 顧問の目が光っている今、表立った聞き込みはできないが、幸いにも取材対象はヒトではない。そして、今時分は放課後で人気もない。部員たちは皆帰ったし、顧問もさっき出ていったばかりだ。行くには絶好のチャンスである。

 屋上へ。

「……でも、やっぱり、鍵が掛かっているだろうし。そうなると、どうしても先生の協力が必要になるんだよなあ」

 テキストを添削していた手をふと止めて、改行した場所に文字を打ち込んだ。

 タカクラ ユキ

 春休みに自殺した生徒の名前だ。彼女の自殺にはいろいろな噂が囁かれた。

 元々体が弱かった高倉有紀は、早退と欠席を繰り返していたせいで、学校よりも寮に居る時間の方が長かった。愛未は一年生のとき同じクラスだったが、あまり印象に残っていない。顔を合わせる機会が少なかったということもあるが、彼女に際立った個性がなかったためである。美人でもブスでもなく、スタイルが良いわけでもなく、ただただ地味だった。性格も至って普通。意地悪でもなければ根暗でもない、陰はあったが可笑しいことがあれば屈託無く笑っていた。実家はそれなりに裕福だったようだが、親は一般的なサラリーマンで、家族構成も平凡。病弱の背景にドラマ性は皆無で、彼女を主人公にした小説を書こうとしても、体が弱かったこと以外にこれといったエピソードがないので話は膨らみそうにない。

 彼女はなぜ自殺したのか。それはいまだもって謎に包まれていた。

 遺書はなかった。悩みを抱えていたのかもしれないが打ち明けられた人はいなかった。もちろん、虐められていた事実もない。病弱なのは幼少の頃からという話なので今さらそれを苦にして自殺するとも思えなかった。

 わからないことが恐い。

 いつも過ごしている学び舎に未知の何かがあることが、少女たちには堪らなく恐かった。いくら良家のお嬢様たちでも学友の死には耐性がなかったらしく、むしろ箱入りで育った分ショックは大きかったようだ。だから、安心したいがために、理解できるモノに真相を落とし込もうとする。

 高倉有紀の自殺の原因を怪談に求めたのである。

 それまで生の尊さや花の美しさを喜んでいた乙女たちは、次第に死の儚さと人の汚らわしさに興味を持ち始めた。……いや、十代の多感な時期に差し掛かれば誰もが当たり前に抱く関心事項であるが、閉鎖されたこの空間に居るとそういったものにより強く惹かれやすくなるらしい。娯楽が少ない分、ちょっとした刺激でも快感だった。

 人の醜い感情から発生する怪奇譚はお嬢様たちの目を現実から逸らさせた。おそらく怪談に没頭することで、学友の自殺という生々しい記憶を薄めたかったのだ。あの出来事を作り話にすぎないと思い込もうとしたのである。

【おいでおいで】という古い怪談はこうして脚光を浴びた。

 愛未の興味は目下、その怪談に向けられていた。

 藍泉女子高等学校に伝わる七不思議をまとめたテキストを開いて読み上げる。

「屋上から聞こえる『おいでおいで』と呼ばわる不気味な声。その声を聴いた人は魂を抜かれて、誘われるままに屋上から投身自殺をしてしまう。……ありがちな話だよなあ」

 呆れた溜め息を吐いてテキストを閉じた。愛未は衝動を抑えきれずに立ち上がる。

 ――こんなものが真相であって堪るかっ。

 確かにショッキングな出来事だった。怪談のせいにしたい気持ちもわかる。しかし、本当にそれでいいのか。足元にはいまだ高倉有紀が陥った落とし穴があるかもしれないのに、目を逸らしたままでいるのは危険じゃないか。いつかほかの誰かが同じ穴へと落ちるかもしれないのに。飛び降りてしまうかもしれないのに。放っておいていいわけがない。

 真相は暴くべきなのだ。

 普段から創作ばかりしているくせに何を、と言われそうだが、真実の探求を怠ったことは一度もない。真実は二の次で、面白さが第一なのは変わらないが、又聞きばかりで自ら調べようとしないのはジャーナリズムに反することだと思っている。

 仮に、高倉有紀が虐めを苦に自殺したという真実を暴いたとして、愛未は彼女の名誉のためにそれを記事には書かないだろう。だが、知っていて省略することと知らずして無視することは違う。それは高倉有紀に対して誠意を欠く行為であるし、何より愛未が気に入らない。怪談を真相にしてそれでよしとしている空気そのものも我慢ならなかった。

「やっぱり行こう」

 廊下に出て顧問が居ないことを確認し、こっそり部室を出る。

 高倉有紀が飛び降りた屋上は隣の校舎――特別教室棟である。



 特別教室棟南側校舎、その三階の廊下にやって来た。ここまで普通に階段を上ってきたが、さらに上へと延びる階段の手前で立ち止まる。この先は屋上へと続いていた。

 今のところ愛未を誘う声は聞こえてこない。

「所詮、怪談よね。本当のわけないじゃない」

 端から信じていたわけではないが、少しがっかりしている自分もいた。恐い物見たさがあったのかもしれない。

 しかし、好奇心とは別に、怪談でなければ説明が付かない事態にも直面しており、落胆はその事態に臆している表れでもあった。

 このまま上って行った先には屋上がある。だが、その手前には屋上へと出るための非常口があるのだ。非常口は常時施錠されていて、高倉有紀が飛び降りてからはさらに厳重に封鎖されていた。――さて、どうやって屋上に出ようかしらね。

 自殺した理由にばかり目が行ってしまいがちだが、それ以外にも大きな謎が二つある。

 春休みのあの日、高倉有紀はどうやって屋上に出られたのか。

 鍵は当然教師が管理している。屋上へ出たいからと言って簡単に貸し出されるものではない。また、相応の理由があったとしても屋上へは教師同伴でなければ出られない。

 そしてもう一つ、高倉有紀はなぜ飛び降りの場所に校舎を選んだのか。

 飛び降り自殺がしたいなら場所は何も校舎でなくてもよかったのだ。寄宿寮の建物の上から飛んでもいいし、春休みだったのだから校外に出て好きな建物に上るのもいい。少なくとも校舎の屋上に出るより容易かったはずである。

「怪談なんて馬鹿みたい」

 でも、怪談のせいにしてしまえば二つの謎があっさり解決するのも事実であった。

 どうやって屋上に出られたのか。――霊的な力で非常口の扉が勝手に開かれたから。

 なぜ校舎から飛び降りようと思ったのか。――悪霊の誘う声に操られてしまったから。

「……」

 愛未は恐怖を押して階段を上り始める。踊り場をくの字に曲がった先に屋上の非常口が現れる。視界に入れるのも恐ろしく、知らず俯いたまま階段を上っていた。

 踊り場に差し掛かる寸前。

「――えっ!?」

 ほんの一瞬だけど、確かに呻き声のようなものが聞こえた。

 聞こえた気がした。

 踊り場に立ち、初めて視界に非常口を捉えた。そこには閉ざされた無骨な扉があるだけだ。

 ぶるりと全身が震えた。

「あ、あはは、空耳に決まってんじゃん!」

 聞こえたから何だと言うのか。『おいでおいで』と誘われたわけではないし、怪談みたく魂が抜かれたわけでもない。体は自分の意志で問題なく動く。呻き声ももう聞こえない。何を恐がることがある。だって、まだ何も起きていないじゃないか。

 我こそは真実の探求者、藍泉女子高等学校新聞部部長である。記者とは名ばかりの物書きは、案外リアリストでなければ務まらないのだと実感している。夢を見るのは執筆時、夢を見させるのは読者にだけ。

 取材のときはロマンを抱くな。

 深呼吸。ほら。もう恐くない。

 階段を一段ずつ踏み締めて上り、非常口に辿り着いてもう一呼吸。どうせ鍵が掛かっているのだし、出られず落胆するのがオチなのだ、躊躇するのも馬鹿馬鹿しい。

 ドアノブを捻り、思いのほか軽い手応えに「おや?」と声に出して驚いた。押し出す形で自然と開いていく非常口にまるで手を引かれるように、あっさりと屋上に出てしまっていた。

 ――なんてこったい。

 高い空と遠い町並が見渡せる。

 緩やかなのに、唸る風が耳にうるさい。

 だが、放心する愛未の目は予想だにしていなかった先客の姿を捉えていた。その耳は、彼女の吐息さえも逃さず聞いた。

「何しに来たの? 合掌さん」

「そう言う貴女こそ何でこんなところに居るの? 天保院さん」

 屋上には、はたして、クラスメイトの天保院京花が居た。



 なぜ多くの名士は実の娘を、都内近郊にある有名な女学園ではなく、千千良町という田舎町の学校にわざわざ通わせたがるのか。なぜ藍泉女子高等学校を選ぶのか。

 理由は一つ。藍泉女子高等学校を創設したのが天保院家であるからだ。彼の家系は富裕層にとって一目を置かれる存在であった。

 天保院家はそもそも地元の名士で、千千良町を含む地方一帯を縄張りとする豪族の末裔だとする記録もあり、その連綿たる歴史は並み居る旧家と比較にならないほど貴い家格を示した。その威光は政財界に影響力を及ぼし、現当主である天保院清宗の不用意な発言が日本経済をにわかに揺らがすことも間々あるほどだという。

 そんな天保院家の縁者にして天保院清宗の実子である京花を知らぬ者は、学校内に一人としていなかった。天保院家と縁を結ぶために全国から送り込まれた子女たちは、入学した当初から彼女を意識してきた。愛未やその他の同級生の子たちは特に彼女の言動に注目してきた。彼女とお近づきになるために。

 しかし、京花は人間嫌いらしく、近づく輩を容赦ない毒舌であしらうことでも有名だった。最近では、下手に不興を買って親の商売に影響が出ても困るので、お近づきになるどころか関わり合いになろうとせず避ける生徒の方がほとんどだ。

 天保院京花の取扱いに注意されたし。

 なので、彼女はクラスでは完全に孤立しており、いつも独りで行動していた。


 ――こうしてニアミスしてしまったのが運の尽きか。

 京花のような存在は新聞のネタとしてなら垂涎の的なのだが、愛未とて野心ある親から送り込まれた刺客の一人である、京花との距離感は慎重に見極めなければならなかった。間違っても反感を買われてはならず、合掌家の命運は、いま、まさにこのとき愛未の両肩に重く圧し掛かっていた。

 知らず、腰を落として両手を突き出すファイティングポーズを取っていた。

「……」

 京花の冷ややかな視線が突き刺さる。

「くぅ……」

 どうしよう。無言で立ち去れば印象は悪いし、かといって適当なことを言って機嫌を損なわれても非常にまずい。出会い頭に「何でこんなところに居るの?」と訊いてしまった以上、会話の落としどころを見出さないことには据わりが悪く、でもでも下手に踏み込んでしまうのは心証を害す結果にも繋がりそうで、どちらにせよ京花の返答を待つしかなく、もはや二の句が継げずにいた。

 ――その上、このポーズだよ。戦う気満々かよ!? 何やってんだ、私……っ!?

 腰が引けているようにも見えてマヌケである。京花が相手じゃなくても恥ずかしい。

 そこで意外なことが起きた。京花がぷっと吹き出し、くすくすと笑い声を立てたのだ。

「なあに、それ。私は悪の手先か何かなのかしら」

「そ、そういうんじゃないけど」

「でも、残念ね。屋上へ出るのにちゃんと許可をもらってあるわ。無断侵入じゃないから責められる謂われはないわよ」

 どうやら愛未のことを、京花を注意しにきたものと誤解しているようだ。「あ、そうなんだ。ならよかった」と誤解は解かずに乗っかることにした。あえて否定してまで愛未の立場を明確にしたいとは思わないし、したところできっと意味はない。とりあえずこの場は京花に話を合わせるのが無難だろう。

 ――そういえば、天保院さんの笑ったところ初めて見た気がする。

 愛未は次第に頬が紅潮し、胸が高鳴っていくのを自覚した。

 以前から思っていたことだが、京花はやはり美人だ。それこそ創作の題材にしたいくらいに。タイトルは『孤高の女王』でどうだろう。発表すれば間違いなく天保院家から制裁を加えられるだろうが、生徒からは熱烈な支持を得られる自信があった。皆口にはしないけど、京花に憧れている子は実は多い。綺麗で、毒があって、華奢で、無口で、お金持ちで、陰がある――申し分ないヒロイン力だ。遠目から眺めていたくなる魅力にあふれていた。

 それに、京花にまつわる噂にはオカルティックなものまである。

 惹かれてしまうのも無理はない。惜しむらくは、そこにリスクが生ずることか。

「バラに棘は付き物だものね」

 思ったことがそのまま口から出ていた。京花が首を傾げた。

「バラ? 何のこと?」

「あ! な、何でもない! 何でもないよこっちの話!」

「そう?」

 京花は踵を返し、屋上の縁まで歩いていく。黙って見ていると、「飛び降りたりしないから見張らないでちょうだい」と呆れたように言った。

「と、飛び降りって……」

「不謹慎だったかしらね。でも、それを心配して付いて来たんじゃないの?」

 なるほど。注意の内容はそれだと思ったのか。愛未は「そうそう」と相槌を打つ。ちょっとわざとらしかったかもしれない。

 しかし、京花はもう愛未が居ないものとして無視して縁伝いに屋上をぐるりと巡っていく。縁にはフェンスが囲ってあるが、フェンスはさほど高くないのでちょっと跨げば簡単に越えられそうだった。屋上に出られれば飛び降りるのも楽だろう。

 そうだ。いま、愛未は屋上に出られているのだった。封鎖されているものと思っていたのに、扉は簡単に開いた。

 一つ目の謎、高倉有紀はどうやって屋上に出られたのか。

 謎でも何でもなかった。屋上の扉は初めから開いていたのだ。鍵が壊れているか、単純な締め忘れか。いつからこの状態だったのか知らないけれど、高倉有紀はこのことを知っていたのだ。

 であれば、自ずと二つ目の謎も解けるというもの。なぜ飛び降りるのに校舎の屋上を選んだのかと言えば、それが一番簡単だったからだ。

 やっぱり怪談なんかじゃなかった。高倉有紀は何らかの事情で自殺を決意し、鍵が掛かっていない扉を開けて屋上に出て身を投げた。それだけだ。

 第二、第三の被害を防ぐなら鍵の付け替えを教師に申請するだけで事足りる。

 取材終了。後はこのことを文章に起こして【おいでおいで】なんていう怪談が嘘っぱちであることを学校新聞に載せるだけだ。

 ――不謹慎、か。……つまらないって思っちゃうのも不謹慎かな。

 拍子抜けついでに全身から力が抜けた。扉の縁の段差に腰掛けて、夕暮れの空を見上げた。怪談の舞台で同級生が飛び降りた場所なのに、恐くない。ただただ物悲しくなった。

 この学校にはいくつも怪談があり、それぞれにそれらしい曰くとオチが付いている。人を恐がらせるのが怪談の醍醐味なのに、そこに悲哀が付き纏うと恐いと思うことさえ不謹慎に感じてしまう。高倉有紀の死は怪談とするにはあまりにも生々しすぎた。【おいでおいで】という怪談も、せめて昔から伝わっている『朝の校舎を徘徊する入院患者の霊』くらい支離滅裂な内容で肉付けされていれば、高倉有紀の死を連想せずに済んだかもしれない。

 ――怪談は楽しむものだ。人の死の原因にしちゃいけなかったんだ。

 どれくらいそうしていたのか、我に返ったとき、一周して帰ってきた京花が迷惑そうに愛未を見下ろしていた。扉を塞いでいて中に入れないのだと気づいた。

「ごめんなさい。いま、退くから」

「……目付役ご苦労さま。鍵を掛けるから中に戻ってちょうだい」

「へ?」

 いま、何て?

「どうしたの? まだ屋上に用事でもあるの? 私ももう帰るから中に戻りましょう」

 愕然としている愛未に京花が鍵を見せつける。

「その鍵は?」

「ちゃんと許可をもらったと言ったでしょう? もちろん借りてきたのよ。これから返しにいくから。合掌さんも一緒に来る? ところで、合掌さんはどうして私が屋上に行くって知ったの? どの先生の言いつけで追ってきたの?」

 京花の目つきが徐々に険しくなっていく。何を疑われているのかよくわからない。

 それよりも、もっと聞き捨てならないことがあった。

「天保院さん。屋上の鍵ってそんなに簡単に借りられるものなの?」

「……」

 京花の顔に険が宿る。一歩後退ると、警戒するように愛未を見据えた。

「どういうことかしら? 簡単に鍵を借りられるのがそんなに不満?」

「え? 違うよ。不満とかそんなんじゃなくて。私はさ、さっきまで非常口はそもそも開きっぱなしなんだと思ってた。だから、屋上にも簡単に出入りできるんだろうって。でも、鍵は掛かっていた。天保院さんもきちんと鍵を掛けてから返すって言った。じゃあ、どうやって屋上に出られたの? 先生からの許可ってそんな簡単にもらえるもんなの!?」

 混乱していたせいで考えていたことを全部口にしていた。

 鍵は掛かっていた。それに、鍵を受け取るには教師の許可が必要だった。もうそれだけで一つ目の謎がぶり返される。――どうやって屋上に出られたのか?

 京花はしばらく黙考し、やがて冷たい声で言った。

「合掌さん、もしかして貴女も高倉有紀の飛び降りについて調べているの?」

 驚いて顔を上げる。

 図星だったこともそうだが、それ以上に今の台詞は失言だった。

「貴女も、ってことは、天保院さんもなの?」

 京花も、あっ、と口許に手を当てたが、後の祭りと諦めたようだ。「ええ、そうよ」とあっさりと認めた。

「調べていると言っても大したことじゃないわ。彼女が死んだ原因なんて知らないし、興味もない。ただ、ここからの景色が気になっただけ。屋上に出たのも今日が初めてよ」

 なぜか、本当にそれだけなのだろうとあっさり納得していた。普段から超然としているからか、クラスメイトの死にも淡白なところがまた京花らしいと思えてしまった。

「そうなんだ。私はちょっと違うんだけど」

 高倉有紀の自殺の真相を探りに屋上にやって来た共犯者――そのように感じられる京花になら、この思いも共感してもらえるような気がした。

「怪談の【おいでおいで】が事件の真相のように語られることに違和感があったから、はっきりさせたかったの。たとえもし怪談が本当だったのだとしたら、それって放置していい問題じゃないと思う」

 いや、共感を得られなくてもいい。ずっと胸にあったモヤモヤを誰かに吐き出したかっただけなのだ。京花に言い触らす相手がいないことや、京花がそういうタイプでないこともあって、愛未は思いの丈を吐き出していた。

「心霊現象なんて正直ありえないって思ってるよ。でも、本当だったらどう? 同じ目に遭う人が今後も出てくるかもしれないじゃない? 怪談は嘘か本当か、はっきりさせなきゃいけない。高倉有紀さんの自殺を怪談のせいにして終わらせちゃ駄目だった。白黒はっきりさせて対策を講じなくちゃ駄目なんだ」

「……正義感のお強いことで」

「そうじゃない! これは私のエゴだ! 我慢ならないからしてるんだ!」

 立ち上がる。そうとも。怪談に怖気づいていたのではジャーナリスト失格だ。

「怪談が高倉さんを殺したなんて思えない!」

 啖呵を切ってみせると、京花は白けきった顔をした。

「それを証明するには飛び降りの真相を暴くしかないけれど、できるの? どう足掻いたって無かったものを無いと証明することはできない。貴女がすべきは有った事実を提示するのみよ」

「悪魔の証明って奴ね。怪談を否定したければ、自殺の原因を突き止めるしかない。ええ、わかってるわ。初めからそのつもりよ!」

 鍵が掛かっていたことや、鍵が容易に貸し出されないことは最初からわかっていたことだ。振り出しに戻っただけで何を落ち込むことがある。

 拳を握る愛未を眺めていた京花は、「ああ」と思い出したように口にした。

「そういえば、合掌さんって新聞部だったわね。なかなか面白い記事を書くのよね」

「え!? もしかして、読んでくれているの!?」

 それは嬉しい。誰よりも俗的なものに無関心そうだからなおさらに。

 しかも、面白いって!

 思わず京花の両手を握ると、迷惑そうに払いのけられた。

「学校新聞のお定まりの記事に比べればまだ面白く読めるというレベルよ。ただ、悪ふざけも目立つわ。怪談を解き明かすなんて記事を書こうとしているのにも納得いったわ」

「いや、何でもかんでも記事にしようってわけじゃないから」

 それについての誤解は解いておく。

 暴きたいのはさっきも言ったようにエゴでしかない。高倉有紀の自殺にしたって、真相を暴いてもデリケートな部分は書かないつもりでいる。

 そう説明すると、じゃあ、と京花から思いも寄らない提案を持ち掛けられた。

 ――じゃあ、一緒に怪談の謎を解き明かしてみる? と。

 その、そよ風のような囁きは、かの怪談の誘いを思わせた。



 天保院京花には、にわかには信じがたい妖しげな噂がある。


 藍泉女子高等学校は全寮制であり、生徒は寄宿寮で集団生活を送っている。一年生は四人部屋、二年生は二人部屋、三年生になってようやく一人部屋が割り当てられるシステムで、部屋割り以外にも清掃当番回数に乾燥機使用権、浴室利用時間とその順番に至るまで年長が優遇される仕組みが確立されていた。賢女淑女を育成する施設にあるまじき体育会系的年功序列型制度。『伝統』という魔法の言葉の強制力に抗える者はなく、毎年理不尽な決め事に新人が泣きを見るのはもはや春の風物で、秋を過ぎる頃にはあれほど嫌がっていた『伝統』に従順に仕上がってしまうのもまた一年生の習いであった。

 そうして一年間を共に耐え忍んだ学友との間には奇妙な結束力が生まれる。横の繋がりは縦よりも強固で、そこに暗黙の規律が整うこともしばしばだ。学年や時代によってタブー視されることに幅があるが、概ねその前提には裏切り抜け駆けを恐れる意識が働いており、その気はなくても相互監視の気風に染まる。何より許せないものはそこから逸脱した存在だった。

 全寮制なのに近所のアパートで一人暮らしをしている天保院京花に負の感情が向けられるのも当然と言えば当然だった。何も全校生徒が寮生活をしなければならないというわけではなく、特例は認められているし、京花も持病を理由に理事長から許可を得ているので、文句を言われる筋合いは本来ないのだが、しかし、京花の美貌や境遇は、憧れを抱くのと同時に嫉妬心を煽るものでもあった。

「天保院家の子だからって特別扱いなんてずるいよね」

 言い掛かりも甚だしい。が、そのように陰で言われていても京花は他人事のように無視を決め込んだ。その態度がなおのこと鼻につくようで、それまで天保院家に遠慮してきたことへの鬱憤までも晴らすかのように、京花への陰口が全学年に広まることになる。

 大半はやっかみであるが、中には首を傾げたくなるような逸話まで流布された。


 曰く、登下校の途中で喪服に着替えている。――気味が悪い。

 曰く、街中で交通事故に遭い、あるいは歩道橋の階段から転がり落ち、血だらけになっても平気な顔して歩き去った。――気持ち悪い。


 寮生ではないことへの妬み嫉みも大いにあろう。忘れていた寮生活での不平不満を京花への陰口に変換して発散させている嫌いさえある。

 だが、それを差し引いても、京花を貶める陰口にしてはどうにも捉えどころがない。何を糾弾したいのかもわからないし、有ること無いこと言い触らすにせよ、なぜオカルト的な目撃談に偏るのか。あまりにも現実離れし過ぎていてむしろ見たという人の神経を疑いそうになる。当然、そんなことを言い触らされても「見間違いではなくて?」と言い返せる京花は痛くも痒くもないはずだ。

 嘘にしてはやたら具体的なのも引っかかる。

 合掌愛未は考える。――陰口は、あるいは本当のことなのかもしれないな、と。



「じゃあ、一緒に怪談の謎を解き明かしてみる?」

 そう言った京花の顔は真剣そのもので、冗談のようには聞こえなかった。

 一瞬、噂話が脳裏を過ぎった。背後から差す西日のせいで紺の制服に黒い陰を落とし、それがまるで喪服に見えた。生者とは思えなかった、愛未を迎えに来た死神だと告げられても信じられそうなくらい。

 オカルト的な雰囲気を纏った京花に、彼女の本質を見た気がした。

「謎って、……【おいでおいで】の謎?」

「ああ、確かそんなタイトルだったわね。屋上へと招く死霊の声。その声に心奪われた者は屋上から身を投げてしまう――とか、そういうお話だったと思うけど」

「うん。そうだけど。……よく知ってるね。天保院さんって、こういう噂話って嫌いなんだと思ってた」

「ええ。嫌いだわ。でも、知っているかどうかは感情とは別問題でしょう?」

 まあ、確かに。知っている=好き、というのは暴論だ。知ったからこそ嫌いになることだってあるわけだし。京花の場合は知識として身に付けていただけだろう。

「でも、謎を解くって……。私はそのつもりだったから断る理由はないけれど。訊いてもいい?」

「何?」

「どうして天保院さんは謎を解きたいの? どうして私を誘うの? ごめん。これは単なる好奇心。でも、……気を悪くしないでね? 天保院さんは別に私と仲良くなりたいわけじゃないよね? 私を誘っても天保院さんにとって得はないんじゃないかな」

 言い過ぎたかな、と少し不安になる。京花に対してここまで大っぴらに意見した生徒はおそらくいないんじゃなかろうか。

 でも、京花は怒らない気がした。理知的だし、たとえ気に障ったとしても感情に流されるまま実家の権威を振りかざすような子でもないはず。

 思ったとおり、「その疑問はもっともね」と愛未の心情を冷静に察してくれた。

「貴女をどうこうする気はないわ。ただ目的が一致したから協力したいだけ」

「目的?」

「載せるのでしょう? 学校新聞の記事にして。怪談なんて嘘っぱちだということを全校生徒に知らしめてほしいの。私の目的はそれよ」

「どうして?」

「合掌さんもさっき言ったじゃない。私、その手の噂話が大嫌いなのよ」

 愛未と同じく、いち生徒の自殺さえ下世話なものに落とし込む空気そのものが我慢ならないと言った。何だか、愛未の意見に便乗して煙に巻かれているようにも感じられる。

 でも、まあいいや。一人よりも二人の方が心強い。

「わかったわ。じゃあ、よろしくね。天保院さん」

「ええ。早速だけど、なぜあんな怪談が生まれたのか検証してみましょうか。一旦、中に戻りましょう」

 愛未が差し出した手を無視して屋内へ入っていく京花。――そうだった。別に私と仲良くなりたいわけじゃないんだっけ。

 薄情な人。けれど、それでこそ京花だと思い直すと、冷たくあしらわれたことがむしろ嬉しくなる愛未であった。



 屋上の扉を閉じて鍵を掛ける。丁寧で正しい処置だが、見ていた愛未は首を傾げた。

「もう屋上に出ないの?」

 徹底的に調査するというならこの後も屋上に出る必要があるだろう。いちいちその度に鍵の開け閉めを行なう気だろうか。

「それとも、どこか別の場所に移動するの?」

「移動はするけど、階段を下った三階までの範囲で事足りるわ。とても簡単なカラクリだから、正確に再現しようと思っただけ」

「?」

 京花に伴われて階段を下りる。ひとまず踊り場まで下りると、京花は窓際に寄って外を眺めた。窓からは中庭が見下ろせた。三本の常緑樹と、それを五角形に囲むベンチが、タイル貼りの地面に長い影を伸ばしていた。居残っている生徒は見当たらず、遠くから聴こえてくる吹奏楽部の演奏と相俟ってとても寂しげな光景だった。

 京花は窓外を窺いながら踊り場を折り返し、三階の廊下へと下っていく。後ろに居た愛未は踊り場の窓が無性に気になった。

「さっき、誰か捜していたの?」

「違うわ。私が見ていたのは窓よ。きちんと戸締りしているかどうか」

「はあ?」

 思わず間の抜けた声が出てしまったが、京花は気にした様子もなくあっさりと話を戻した。

「怪談のことだけど、『おいでおいで』と言って誘う死霊の呻き声が聞こえるんですってね。そんな声が実際に聞こえたなら、どんなことが考えられると思う?」

「あっ!」

 そうだった。京花には言っていなかったが、愛未も屋上へ向かっている最中に不気味な声を聞いたんじゃなかったか。そのことを興奮気味に話すと、京花は「へー」と棒読みみたいな相槌を打った。

「じゃあ、それ、再現しましょうか。私の後に付いて来てちょうだい。ただし、私が踊り場まで上りきって折り返してから、貴女は階段を上り始めること」

 京花が階段を上っていく。目の前で徐々に高い位置に進んでいくスカートがひらめくたびにドキドキしてしまう。京花の細い足と膝裏がなぜか艶かしい。見惚れていると、京花が踊り場まで上りきった。くの字に折り返し、その姿が見えなくなる。言われたとおりに愛未も階段を上り始めた。

 無意識のうちに、さっき屋上に上ったときと同じように俯いていた。一段一段確かめるように交互に足を上げていると、オォオオォオオオォォオオオ――、という不気味な声が聞こえてきた。ハッとして顔を上げる。この呻くような声はっ!

 急いで踊り場まで駆け上がると、愛未を見下ろす京花と目が合った。

 京花は非常口の取っ手に手を掛けており、無言のまま扉を開けていた。

 オオオオオオォオォオオオオォオ――――。

「……これって」

「風の音よ。さっき合掌さんが聞いた声の正体ね。何のことはないわ。貴女は知らなかったでしょうけれど、私が一人で屋上に居た時間って、実は十秒も無かったのよ。私が非常口の鍵を開けて、扉を開いて屋上に出たときにはもう、貴女はすぐ真後ろに居て外から吹き込んできた風の音を聞いていた。一瞬だけ聞こえた気がしたっていうのも、私が扉を開け閉めしたのが一瞬だったから。これが【おいでおいで】の正体よ。簡単でしょ?」

「あ、そうか。だから窓を確認していたんだ」

 風が唸るのは、細い通り道を風が抜けていくことで風切り音が発生するからだ。階下の窓がわずかにでも開いていれば、そこが通り穴となり風の道ができる。おそらく非常口の蝶番側の細い隙間から入る風が、道に向かって吸い込まれていく過程でより甲高い篭もった音を生み出していたのだろう。

 振り返って見てみると、踊り場の窓がほんの少しだけ開いていた。

「本当にわずかな隙間だけれどね。とはいえ、それだけが原因ではないわね、きっと。他にもいろんな要素や条件が折り重なっているのだと思う。窓の位置、校舎の構造、気圧の高さ、奇跡的な組み合わせのおかげでこの呻き声のような音は生み出されている」

 そして、屋上の非常口が開いた瞬間にしか発生しない現象であることが、より偶発性を高めていた。毎度毎度三階の廊下を通るたびにおかしな呻き声が聞こえていたならすぐに風の音だと気づけただろうし、おそらく怪談にもならなかったはずだ。

「そもそも『おいでおいで』なんて言葉に聞こえて? 過去に誰かが偶然この音を聞いたのだとしても、怪談を知った後だと記憶は改ざんされて『おいでおいで』という声を聞いたように錯覚してしまったのでしょうね。その勘違いだけが一人歩きして、いつしか怪談は真実となってしまった」

「幽霊の正体見たり枯れ尾花、だね。まさしく」

 なんと他愛ないことか。まさかこんなに簡単に怪談の謎が解けてしまうなんて。

 後は、高倉有紀がどうやって鍵を手に入れたかだけだ。


「鍵の入手方法なら解き明かす必要はないわ」

 もう一度非常口をきちんと施錠して階段を下りてきた京花が、その鍵を愛未の掌の上に乗せた。まじまじと眺める。黒い紐が括りつけてあるだけの、何の変哲もないよく見るタイプの鍵だった。実家の玄関の鍵も確かこんな感じだったっけ。

「で、でも、重要なことでしょ? 鍵が無くちゃ屋上には出られないんだから!」

 京花はさらに階段を下りていく。このまま帰るつもりらしい。

「ええそうよ。でも、現にこうして鍵はここに在る。屋上に出るための手段は存在している。入手方法なんて、そんなのは正直どうでもいいことよ」

「ど、どうでもよくないよ!?」

 確かに【おいでおいで】の声は風切り音で説明できるかもしれない。でも、怪談では魂を抜かれた子が、独りでに開いた扉を抜けて屋上に出るのだ。こちらにも納得のいく説明を引っ提げないと怪談を嘘だと証明することができない。

 現に自殺者が出ている以上、鍵の入手方法は特定すべきだ。

「いいえ、どうでもいいのよ。鍵の入手方法なんて、成功率を考慮しなければいくらでも思いつくんだから」

 トントンとリズミカルに階段を下りていく。今度は上から京花を見下ろす形だ。可愛らしい旋毛が前後に揺れ動く。

「屋上から飛び降りるには、教師を騙すなり出し抜くなりして屋上の鍵を手に入れなければならないわ。あの日、実際にはどのような方法で鍵を手に入れたのかは当事者――高倉有紀から聞き出さない限りわからない。でもね、いい? 重要なのはね、過程ではなく、それが実現できるか否かなの」

 一階まで下りて振り返る。階数が下がったことにより窓から差し込む西日の量が減った。廊下は夕闇の底に沈み、二つの影はかろうじて輪郭だけを浮かび上がらせる。

 なのに、京花の顔ははっきりと見えた。

「実現は可能。現に私は鍵を借りられたし、事実として高倉有紀は屋上から飛び降りている。見事、教師から鍵を奪い取ったのでしょうけど、正直その過程を暴くことに意味はない」

 愛未は待ったを掛けるように掌を差し出して、閃いたことをそのまま口にした。

「ええっと、頂上まで登れるならルートの違いはさして問題じゃない……みたいな?」

「登山に喩えるならそんな感じね。いちいちどの道を登ってきたかなんてどうでもいいことなの。登頂は不可能じゃない。飛び降りは不可能じゃない。それさえわかれば。――ね? 大切なのは結果の可否でしょ? 事件以来、教職員には鍵の管理を徹底させているからこれ以上改善のしようもないわ」

 そう言われると確かにどうでもいいことのような気がしてくる。たとえば遠く離れた場所からあの屋上まで一瞬で移動したというなら、そのトリックを暴く必要があるけれど。ただ屋上に出るだけなら鍵を入手するだけで事足りる。密室でも何でもない。ミステリーでもオカルトでもない。実現可能な問題だった。

「知らないから不安になる。不安を理由に考えることを放棄する。安易にオカルトに出口を求めてしまう。怪談が生まれた理由はこれだけ。ただ視野を広げるだけでそんな必要もなくなるのにね。――鍵」

「え? あ、はい」

 さっき渡された屋上の鍵を返す。返すよう要求されたということは、京花一人で返却しに行くつもりらしい。つまり、愛未とはここでお別れということになる。

「それじゃあ。いい記事期待しているわね」

 名残惜しい。せっかく京花とお話できるようになったのに。たぶん、明日からはまた話しかけても素っ気無い態度を取られるに違いない。ひとときの逢瀬のようで切なくなった。

「天保院さん」

 思わず呼び止めてしまった。

「何?」

 京花が振り返る。どうしよう。わざわざ足を止めたのだからそれに見合う用件でないときっと京花を呆れさせてしまう。つまらないと思われるのは嫌われるよりも嫌だった。

 でも、これで最後かもしれないのなら、訊かないわけにいかない。

「高倉有紀さんがどうして自殺したのか。天保院さんはどう考える?」

 正直、この手の質問は、相手が京花でなくてもしたくなかった。けれど、当初から目的は自殺の原因を特定することだったし、それでいつかは別の誰かに同じことを訊かなければならなかったのだから、むしろ京花が最初の相手になってくれたのはありがたい。この山を越せたとき、きっと誰が相手でも臆せず取材ができるようになる気がする。

 京花は黙って愛未を見つめている。答えを探しているのだろうか。

「いじめ、病身、家庭環境。高倉有紀さんが思い悩むことと言ったらこんなところじゃないかしら? どう思う?」

 でも、どれも決定打に欠けた。春に自殺したとき、これらのどの噂も耳にしなかった。だから怪談の仕業にされたのだ。

「それとも、失恋、とか。いえ、さすがにこれはないか」

 失恋を除いたのは藍泉が女子高で、高倉有紀が寮生だからだ。同年代の男子がおらず、教師にもおじいちゃん先生しかいない環境では失恋のしようがない。……年齢や性別の壁を乗り越えた禁断の恋をしていたらその限りじゃないけれど。まさかね。

 ただの思いつきだったのに、失恋というワードがやけに引っ掛かる。自殺するくらい思い悩んでいたのに誰にも相談しなかったのは、できなかったからではないのか。

 京花の意見が聞きたかった。

 あるいは、もしかしたら、京花はすでに答えを知っているんじゃないだろうか。

 そんな期待もしていたのだと、このとき初めて自覚した。

 京花が不思議そうに口にした。

「ねえ、どうしてその二択しかないの?」

「何が?」

「怪談でなければ自殺って、合掌さんこそ決めつけているわ」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 京花が目を細めた。人を見下すかのように。

「ジャーナリストを気取るならほかの可能性をなぜ考慮しないの? 怪談と自殺以外に何も思いつかないの? 他にもあるでしょう?」

「…………じ、事故、とか?」

 かろうじてそう言った。わなわなと唇が震えた。

 それ以外の可能性をどうして思いつけるのか。

「他殺だとは思わないの?」

 言い淀んでいたことを、京花はあっさりと口にした。

「ちょ、ちょっと待ってよ!? 高倉有紀さんを屋上から突き落とした犯人がいるって言うの!? それじゃあ殺人じゃない!?」

 京花がその可能性を疑っていたことよりも、そこに思い至らなかった自分にショックを受けた。だって、ここは名門女子高で、人の死を怪談で誤魔化すような純粋で幼稚な子供ばかり居る学び舎で、だから殺人を犯すような人なんているはずない、いてはいけない――そんな先入観に捉われていたのだと気づかされた。

 一旦「事故」に逃げたのは奇妙な罪悪感があったからだ。自分を含め、藍泉女子に通う淑女には俗世にありふれた悪意が存在してはならないのだと、なぜか神聖視していた。

 呆然とする愛未を見続けるのも飽きたのか、京花が踵を返す。

「冗談よ」

 慰めのつもりだったのかもしれないが、丸きり冗談に聞こえなかった。

 京花は最初から高倉有紀は何者かによって殺されたものと考えていたのだろう。「飛び降り」とは言っていたものの、一度として「自殺」とは口にしなかった。

 昇降口とは反対方向の廊下の暗闇に京花の姿が溶け込んでいく。

 愛未はしばらくその場に佇み、彼女との距離を遠いと感じた。



 自殺か、他殺か。

 一晩中考えてみたが、やはり自殺であるという結論にしか至れなかった。

 高倉有紀が死んだ春休みは、寮生のほとんどが実家に帰省していた。ただでさえ生徒が少なくて歩くだけでも目立つのに、その上学校に忍び込み、さらに屋上に上って人を突き落とすだなんてそんなこと、誰にも見られずに実行するには運に頼るところが多すぎる。たとえ衝動的な犯行だったとしても、どちらにせよ常駐している警備員や教師たちに見つからなかったとは思えない。実際に、高倉有紀の飛び降りの瞬間を、巡回していた校務員の小母さんが目撃している。もし屋上に突き落とした犯人が居たのならそのときに気づけたはずなのだ。

 ただ、京花の穿った物の見方には大事なことを気づかされた感がある。

 思い込みで調査をしていたことを反省した。次はもっと視野を広げて臨むとしよう。

 藍泉女子高等学校の七不思議をすべて暴こうと思った。

【おいでおいで】の謎を解いたことが思った以上に爽快だったのだ。もちろん、高倉有紀の身辺調査の片手間にだが、そちらはきっと発表できないので、同時に使えるネタも仕入れておかなければならなかった。差し当たって来月末にはハロウィンがあるし、時節に合わせた特集記事には毎月悩まされているので怪談ネタは渡りに船であった。

 ノートに七不思議の項目を羅列していく。今年更新された最新版である。


①【おいでおいで】特別教室棟南側校舎の屋上から聞こえる『おいでおいで』と呼ばわる不気味な声。その声を聴いた人は魂を抜かれて、誘われるままに屋上から投身自殺をしてしまう

②【飛ばし鏡】被服室の姿見の怪談。鏡の中の自分が勝手に動き出し、その分身が移動した先へと瞬間移動させられてしまう。(諸説あり。鏡は被服室に限定しない?)

③【手首階段】特別教室棟北側校舎には無数に手が生える階段があり、利用する生徒の足を掴んだり滑らせたりして突き落とす。

④【化学資料室の不死身さん】化学室に隣接する化学資料室にいつも居る女生徒の幽霊・不死身さん。そこに迷い込むと不死身さんと友達になれるが、二度と出られなくなる。

⑤【くずばこ】素行の悪い生徒を閉じ込め、生き埋めや水責め、火炙りなどの体罰を行い、改心を促す拷問箱。もし間違って入ってしまえば同じ責め苦を死ぬまで味わうことになる。

⑥【天使の福音】いまは壊れている講堂のチャイム。鳴るはずのないその鐘が聴こえた者はその日のうちに天に召されてしまう。天使からの死の宣告。

⑦【(仮)】××× 何か大変なことが起きる?


 確かめようがないものがいくつもあるが、証言だったらいくらでも集まるはずだ。七不思議のような生徒間に深く浸透している怪談ならば誰しもが情報を持っているし、聞き比べていけばいくらでも矛盾を見つけられるはず。

 寮の食堂で朝食を食べた後、寮生はそのまま同じ敷地内にある校舎へ登校する。朝練がある部活動生以外はほぼ同じ時間に登校するので、クラスメイトの大半とは道の途中で顔を合わせることになる。朝の挨拶もそこそこに、すかさず七不思議の取材を開始した。

 朝のHRが終わり、担任が教室を出て行く。一限目の授業が始まるまでの五分間でも、朝練で会えなかった部活組の面々にも話を聞いて回った。

 すべての生徒から話を聞き出したわけではないが、七不思議に関する情報は似通っていて、目新しいものはやはりなかった。

「うーん。……まあ、こんなものか」

「それも新聞部の取材? 頑張ってね。新聞部の記事、毎回楽しみにしているんだから」

 周囲からも「そうそう!」と相槌を打たれる。日常に変化のない生徒たちにとってどんな些細なことも刺激になった。こういう期待を寄せられるから新聞部はやめられないのだ。

 ――誰かに不幸が起きても怪談にしか逃げ込めないっていうのはやっぱり不健全だわ。

 話題なら新聞部がいくらでも提供してやる。怪談で盛り上がっているところに水を差すようで恐縮だが、正すべきは正さないと。

「七不思議かー。今度も誰か死んだりしてー」

 そう言って笑い合う。

 冗談だとわかっていても、皆の倫理観は確実に麻痺していた。


 昼休みになり、すぐさま向かった先は保健室である。クラスメイトの天保院京花に会いに行くためだ。京花が、登校しているのに保健室に入り浸るのは一年生のときからよくあることだった。今朝は教室に姿を見せず、担任の先生も彼女に関して一言も触れなかったので、どうせ今日も保健室でサボっているに違いない。

 保健室には養護教諭の古川葵先生が居た。

 ベッドの方を見ると、思ったとおり、京花がベッドに腰掛けていた。寝起きなのか、これから横になるつもりなのか、ぶらぶらさせている両足は靴下を脱いで素足を晒していた。

 入ってきた愛未を見て、京花ははっきりと嫌そうな顔をした。

「やっぱりここに居た。天保院さん、ちょっとお話があるんだけど」

「何? くだらないことなら聞きたくないのだけど」

 まるで何を言われるかわかっているような口ぶりだった。

 怖気づくな。京花だったらきっと協力してくれるはず。

 古川先生に聞かれないように、声を潜めて言った。

「私と一緒に他の七不思議の謎も解いてくれない? 一晩中考えたのよ。怪談を一つ暴いたくらいじゃ今の雰囲気は変わらない。七不思議みたいに、次から次へと別の何かで上書きされていっちゃうだけなんじゃないかって。私はその空気を変えたいの。お願い。天保院さんが一緒ならこんなに心強いことはないわ」

 京花はしかし、強い口調で拒絶した。

「嫌よ。何でそんな面倒臭いこと。合掌さん、自分でも言ったように、怪談なんてものは否定したところでまた新しいものが生まれるものよ。謎を解くったって、結局イタチゴッコにしかならないわ。私はそんなに暇じゃないの」

「あ、ちょっと!」

 京花は言いながら靴下を履き直すとそそくさと保健室を出て行った。追いかけようとしたが、立ち去る背中がやけに威圧的で思わず怯んでしまった。

 まさかここまで拒否反応を見せられるとは思わなかった。昨日の謎解きはあのときだけの気まぐれだったのかしら。断られると思っていなかっただけに割と凹んだ。

 その様子を古川先生が意外そうに眺めていた。

「天保院さんのお友達? 彼女があんなふうに感情的になるなんて珍しいわね」

「あ、はあ、……いえ、ただのクラスメイトです」

 友達ですと言いきれないことが悲しい。見栄を張って京花に迷惑が掛かってはまずいと、卑屈になってしまうところも情けない。

 ところで、と古川先生は愛未を手招きしながら口にした。

「七不思議って何のこと?」

 まさか聞こえていたとは。とはいえ、聞かれてまずい内容でもないし、怪談に嵌まっている生徒をいちいち咎めたりしないだろう。

「私、新聞部なんです。新聞部部長、二年A組、合掌愛未です」

「あら。だからなのね。前に天保院さんが学校の七不思議について先生にも尋ねてきたことがあったから」

「そうなんですか?」

「去年の話よ。私、ここの卒業生なの。在学当時に流行っていた怪談を訊かれたわ。ふうん。そっかそっか。新聞部の取材に協力してたのか」

 去年の話というのは意外だが、やっぱり京花は七不思議にご執心だ。

 閃いた。ならば、京花の関心を惹くくらいに七不思議を調べ上げたら、彼女も愛未を無視できなくなるのではないだろうか。もはや目的が違っていることにも気づいていたが、愛未は俄然やる気が出てきた。

 古川先生がぽんぽんと診察用の椅子を叩いた。

「興味があるなら先生の頃のお話聞かせてあげるわよ。天保院さんが居なくなって開店休業状態になっちゃったしね。良かったら話し相手になってよ」

 喜んで。多くの生徒に慕われている美人先生の特別授業だ。受けない手はない。

 これはこれで新聞のネタになりそうだと、愛未は心躍らせた。



 次は、七不思議の三番目【手首階段】の被害に遭ったという上級生を直撃した。

 生徒会室には部費を申請する以外に訪れたことがない。私的となるとこれほど入りづらい場所もなかった。心の躊躇とは裏腹に、体はさっさとドアをノックしていた。取材に怯んでいてはジャーナリストは務まらない、と無意識下に刻んだ銘に突き動かされてしまったのだ。「どうぞ」と声が掛かり、意を決して踏み込む。生徒会室には、三年で生徒会長の長野亮子と、その同級生の庄司弘美のふたりが居た。

 亮子は愛未を見て眉を顰めた。

「新聞部の、確か、新しい部長さんよね? 夏に代替わりした」

「はい。二年A組の合掌愛未です。今日は生徒会長に取材したくて参りました」

「取材って……。生徒会長選挙は十一月よ。私の引退までまだ二ヶ月もあるのに、もう過去を振り返らなきゃならないのかしら?」

 呆れ顔で言う。毎年、生徒会長は引退時期になると新聞部で特集記事を組まれるのが恒例となっている。二年生の新生徒会長への激励と、就任後一年間を振り返った総括を載せるもので生徒会と新聞部の決まり事になっていた。

 愛未は慌てて首を振り、先ほどから恐い顔で睨んでくる庄司弘美にも愛想笑いを浮かべて、

「違うんです。訊きたいのは学校の七不思議のことです。会長は一度、七不思議の怪談の一つに遭遇したことがありましたよね?」

 有名な話である。今年の春のこと、生徒会長の長野亮子は、同じく生徒会の役員メンバーと一緒に、卒業していった先代が残していったありとあらゆる資料の整理に追われていた。休日も返上して生徒会室に出動し、教師からも都合よく雑用に走らされ、空き教室の掃除などにも駆り出された。

 七不思議に遭遇したのはそのときである。

「お訊きしたいのはそのときの細かい状況なんです。古いお話で恐縮なのですが、ぜひともお話をお訊きしたく」

 頭を下げる。答えたのは傍らにいた庄司弘美だった。

「そんなこと訊いてどうするの? まさか今さら記事にしようってんじゃないでしょうね?」

 高圧的な態度の裏には亮子への激しい友情があった。生徒会役員でもないのに亮子の傍に居る彼女は、会長の右腕としても知られていた。影の会長との噂もあるが、庄司弘美が率先して駒のように動いている印象である。何にせよ、ふたりは親友同士であった。

「記事にはしますが、メインは七不思議の紹介であり、あくまで裏付け取材です。会長の体験談をそのまま載せるつもりはありません」

 半年前の出来事で、高倉有紀の自殺と並んで当時それなりに話題になったのだ。弘美の言うとおり今更感は拭えないし、言われなくても載せるつもりはさらさらなかった。

 亮子は「別にいいわよ」とあっさり承諾し、弘美は舌打ちしたものの渋々引き下がった。

「まあ、あのときも周りから散々根掘り葉掘り訊かれたことだから、隠すことでもないしね。あれは確か、使わなくなった学校教材を段ボール箱ごと運んだときだったわ。特別教室棟の三階にある空き教室に生徒会のみんなで手分けして持っていったんだ。ついでにそこの掃除もさせられた」

「私、その話嫌いだわ」

「ロミはそのとき居なかったのよね。私が階段から落ちて怪我をして、なのに、私以上にロミが慌てていたっけ」

「亮子ちゃんが保健室に運ばれたっていうのに、一緒に居た生徒会の子たちはみんな七不思議が起こったことに浮かれて、誰も亮子ちゃんを心配しなかった。ふざけんなって思った。あのときからここの連中は信用できなくなったんだ」

「ロミ。後輩の前だよ。――誤解しないでね。彼女たちに悪気はなかったのよ。この学校の生徒ならわかるでしょ? 階段から落ちたってだけでも大事件になるのよ、ここではね。なにせ刺激に飢えているから」

「わかります。ええ、ええ、わかりますともそりゃあもう」

 創作記事で読者を煽っていた身としては、むしろ耳に痛い。

 そして、亮子は空き教室の掃除が終わり生徒会室へ戻る道すがら階段から落ちてしまう。それは特別教室棟北側校舎の階段で、三階から二階へと下り始めるときだった。

「やっぱり、北側校舎でしたか」

「ええ、そうね。そしてあれは、確かに『手』だった」

 亮子は左足を上げて見せ、その足首を掴んだ。「こうね」としっかりと握り込む。

 何でも、右足から一段下り、二段目に続こうとしたところで左足を掴まれたという。意識は左足に向いていたので軸足の踏ん張りが利かず、前のめりに膝から倒れ込む。しかし、眼前には階段の段差があるだけで、手を付ける十分な幅の床がない。

「咄嗟に頭を庇ったのだけど、踊り場まで一気に転がり落ちたわ。一緒に居た子たちはいきなり前転を始めたと思って驚いたみたい。幸い、怪我は打撲程度で済んだけれど。あれ以来、ちょっとだけ階段が苦手になったわ」

 その後、亮子もまた七不思議にある【手首階段】のことを調べたらしい。実際に体験したせいか、高倉有紀の死も【おいでおいで】によるものと信じて疑わなかったという。

「でもね、時間が経って、周りが面白がっている空気にも当てられて、急激に冷めちゃったのよね。逆に怪奇現象であって堪るかって反発するようになっちゃって。今はどっちかというと否定派よ。高倉有紀さんのことも……歪められた」

 亮子のスタンスは愛未に近いようだ。きっと、だから話す気になったのだろう。否定したい考えまで記事にしてもらうことを期待して。

 弘美が「もういいでしょ?」と話を切り上げた。終始、快く思われなかったのは残念だが、核心部分は十分に聞けたので満足だった。

「ありがとうございました。失礼しました」

 退室しようと背を向けたとき、「待って」亮子の声が追ってきた。

「七不思議のことが知りたければ化学部の子に訊いた方が早いわよ。放課後だったら部室に居るんじゃないかしら?」

 声には出さないが口許は「うげっ」と動いていた。――やっぱりそうか。ううん、そりゃそうだよね。あの子に訊くのが一番手っ取り早いもんね。同じクラスで後々面倒になりそうだからあえて避けていたんだけれども。生徒会長のお墨付きとあらば行かないわけにいかないようだ。苦手だからという理由で取材対象を弾くことを良しとしないジャーナリストの性を呪う。

 でも、七不思議を取材するなら化学部は避けて通れないのも確か。

 化学部を騙り、化学準備室を活動拠点においたそのクラブの正式名称は『オカルト研究部』。

 あの子とは、そこの部長を指している。



 放課後になり、愛未は化学準備室を訪れた。特別教室棟北側校舎二階の化学室のその隣にある部屋で、普段は化学教材が置いてある倉庫だが、放課後の短い時間だけオカルト研究部の部室として認められていた。

 初代以来廃部となっていたオカルト研究部を復活させたのは、現部長にして唯一の化学部部員である射水道子である。初代に私淑するあまり、活動拠点も初代に合わせて化学準備室に据え、化学教諭で顧問の上坂先生が大切に保管しておいた初代が付けたオカルト研究部の活動記録や日誌などを経典のように崇めているという。

 ――射水さんかあ。あの子、苦手なんだよなあ。

 ある意味、京花よりも近づきがたい相手である。オカルトに傾倒しすぎるあまり、自分のことを『悪魔様の僕』と名乗って日夜黒魔術の研鑽に励んでいる少し変わった子。……いや、はっきり言って変人だった。会話が噛み合わないのはともかく、突然奇声を発したりするから心臓に悪いのだ。

 同じクラスなのにわざわざ放課後を待って部室を訪れたのは、彼女と話しているところをクラスメイトに見られたくなかったからだ。……差別的な行為だと思うし自己嫌悪も感じているのでどうか見逃してほしい。それ以上に『悪魔様の僕』の友達と思われたくなかったのである。その上、七不思議を話題にするのだから、下手をすれば同志だと思われていたかもしれなくて、それだけは本当に御免被りたい。今後の学校生活に支障を来しかねないし。

 生徒会室に行くよりも緊張しながらノックする。中で、ガタタッ、と音が鳴り、恐る恐るといった具合にそっと扉が開かれた。三つ編み眼鏡の地味な風貌をした少女が顔を覗かせた。

「……何? 何の用?」

 射水道子はクラスメイトの愛未に気づくと、煩わしげに目を細めた。


 床にそれっぽい模様が描かれた布が敷かれた部室。黒マントを羽織った射水道子が座布団に乗った水晶を覗き込んでにたりと笑う。いろんな感情が押し寄せてきて背筋がぞわぞわした。

「七不思議について知りたい? そんな初歩中の初歩に拘泥するなんて、素人はこれだから。その先を読み切れない憐れな愚者。それが今の貴女よ、合掌さん」

「へ、へえ……」

 ああもう、帰りたい。

 でも、この手のオタクは知識量だけは豊富で、妄信的でもあるからあれもこれも詰め込みすぎて自己矛盾を抱えていることが多かった。射水を通じてオカルトが如何にデタラメであるかを再確認するチャンスでもあるのだ。

「今年と去年とで七不思議の内容が変わったことはご存知かしら?」

 射水に訊かれて、記憶の中を整理する。

「えっと、確か七番目が変わったんだっけ。【永眠ベッド】が無くなって……んーっと、何だっけ? あ、そうそう。カッコカリってのが入ったんだよね?」

【永眠ベッド】というのは保健室にあるストレッチャーが元になった怪談である。その上で寝たら寿命が縮むとかなんとか、そんなどこにでもありそうなお話だったと思う。

「そのとおりよ。もっとも、【(仮)】はずっと昔からあったものなのよ。それは本来八番目に数えられていた。ここまでは基本よね」

「八番目? 何それ。七不思議なのに八番目があるの?」

 射水が呆れた顔をした。しかし、その目は啓蒙の機会に触れて爛々と輝き始めた。

「よくある話じゃない。七つの怪異が実現したとき八つ目の災厄が降りかかると云われているわ。それを知ることはすなわち死に直結する。絶対に知ってはいけない怪談なのよ、八番目はね。そしてそれが【(仮)】だったの」

「へえ。すごいね」

 知ったら死ぬのになぜ有名なのか。早くも矛盾が見つかった。

「でも、それも去年までの話。今年は【永眠ベッド】が外されて【(仮)】が七席目に着いた。八つ目は無くなり、六つの怪談が起きたとき、七つ目の【(仮)】が現象として現れる。それが今年のルールよ」

 何よ、ルールって。どうせアンタが考えたんでしょ、と内心で突っ込んだ。

「よくわかんないんだけど、【(仮)】ってどんな怪談なの?」

 射水は待ってましたとばかりに饒舌に語り始めた。

「【(仮)】は全校生徒を呑み込む災厄の箱のことよ。七不思議の怪談が一つ起きるたびに光芒が灯されていき、六つの怪談が現れたとき、そこには六芒星が浮かび上がるの。この学校の敷地内すべてを包む大結界よ。そしてそれは悪魔を召喚するための魔法陣でもあるわ。七つ目の怪談とはね、呼び出された悪魔によってもたらされる究極の魔術のことを表しているのよ。つまり、七不思議とは悪魔を呼び出すための儀式だということ。八つ目の怪談? 怪談に八つも要らないわ。必要な物語は六つなの。幻の怪談というのは七つ目のことを言うの。そうして現れた悪魔はすべての人の心を覗き、裁断するわ。僕となる者を選定するためにね。僕に選ばれたらどうなるかって? 悪魔に代わって人間を呪っていくことになるわ。そうしてこの世に混沌と破壊をもたらすの。これが七不思議の正体よ。悪魔をこの世に降臨させるための大儀式。恐ろしいわよね。でも、美しくもあるわ。学校というたくさんの人が詰め込まれた場所で熟成された怪談はそれだけで魔力を帯びるもの。それを六つ用意して、そこに居る歳若い人間から恐怖の感情だけを吸い上げて魔力に変換し魔法陣に組み入れるという、なんて完全で完璧で完成されたシステムなの! 驚嘆に値するわ! これこそ悪魔の所業! そうは思わない!?」

 射水はカッと目を見開いて、長い台詞を一気に吐き出した。興奮していて息遣いが荒い。

 正直、引いた。

 そして、結局、何もわからなかった。

「そ、そうなんだ、なんかすごいね。ちなみに、何でカッコカリって名前なの?」

 仮題に付いているわけではなく、それを示す表現自体が怪談のタイトルというのはやっぱりおかしい。

 意外なことに、初めて射水が考える素振りを見せた。

「名前。……そうね。言うなれば、選ばれた者を指すレトリックなのでしょうね。そう、人間でも悪魔でもない、悪魔様の僕。彼らにはもう名前なんて必要ないの。存在そのものが歪だからカッコカリなんて呼ばれ方をするんだわ……」

 恍惚に目を輝かせた。意識を遠くに飛ばした射水には、それから何を言っても応えてくれなかった。

「私は悪魔様に選ばれた。私はもう【(仮)】なのよ……」



 翌日、放課後になると、今度は七不思議の舞台となった場所を実際に見て回った。

 一番目【おいでおいで】――どの先生に頼んでも非常口の鍵を貸し出してくれなかったので、舞台である屋上へは出られなかった。京花は誰にどうやって鍵の貸し出し許可を取ったのだろう。やはり天保院家の名を笠に着たのだろうか。

 三番目【手首怪談】――特別教室棟北側校舎の三階と二階を繋ぐ階段が舞台だと言われている。実際、長野亮子もこの階段で足首を掴まれた。愛未も何度も上り下りしてみたが何も起こらなかった。一応写真を撮ってみたが、手首一つ写らなかった。

 四番目【化学資料室の不死身さん】――現在、この学校に化学資料室なる特別教室は存在していない。あるのは化学準備室であり、そこに居るのは射水道子という変人だけだ。

 五番目【くずばこ】――アイテムなので特定の場所はない。現物を見たという生徒も今のところ出てきていない。

 六番目【天使の福音】――講堂に入るにも鍵は必要で、許可は得られなかった。残念。

「七番目【(仮)】は、射水さんの話だと、他の六つが起きないと現れないんだよね。となると、あと一つは――」

 被服室には、被服科の生徒と被服部の部員が帰寮する頃を見計らって訪れ、鍵を返却する代わりに中を見学させてもらった。愛未が七不思議を取材していることは周知であったので話が早かった。むしろ、巻き込まれては敵わんと鍵を押し付けてきた感さえある。

「じゃあ後よろしくね」

 被服部の部長が帰ってひとりきりになると、早速布が被さった姿見を引っ張り出す。一番奥に仕舞ってあったその姿見は怪談の元になったものだ。

 二番目【飛ばし鏡】――被服室の姿見の怪談である。鏡の中の自分が勝手に動き出し、その分身が移動した先へと瞬間移動させられるという、恐いというよりは不思議な怪奇現象だ。誰が言い出したのか知らないが、被服室に出入りする生徒は皆恐がって、今では誰もこの姿見を使いたがらない。

 布を剥ぐ。ごく普通の姿見だった。愛未の姿と、背後の被服室の室内を枠の中に切り取っている。なんとなく髪の毛を弄ってみたり、スカートの裾をひらりと撫でたりしてみる。鏡を見ると身嗜みをチェックしてしまうのはもう習性というほかなく、誰が見ているわけでもないのに誤魔化すように鏡面の埃を拭き取る真似をした。

 何も起こらない。

 ほらね。どうせこんなことだろうと思った。

「鏡の中の人間が勝手に動き出すっていう怪談はありふれているけれど、その後に瞬間移動するなんてのはちょっと無理ありすぎだよね」

 前後の繋がりの曖昧さから誰かが創作したものとは思えなかった。きっと、被服部の間で面白がられた『鏡の中の動く分身』の怪談が外に漏れて、伝言ゲームのように回っていくうちに大袈裟に脚色されていったのだろう。実際に瞬間移動の被害に遭った人が居ないのだからそもそも信憑性は皆無だった。ま、それでこそ怪談だ。面白がられてナンボである。

 片付けよう。布を被せに姿見の背後に回ろうとした愛未は、顔を横に向けた。


 ――?


 あれ、何だろう。いま。

 鏡、変じゃなかった?

 横目に視線を戻す。横顔が映っているはずの鏡の中。

 もうひとりの愛未が正面を向いたまま。

 薄っすらと微笑んだ。

「くだらないことはやめなさい」

「え? ――はっ!?」

 後ろを振り返るとそこには天保院京花が居た。慌てて姿見に向き直る。口をぽかんと開けている愛未の姿が映っていた。変わったところのない、普通の反射。

「まさか本当にすべての七不思議を調査していたなんてね。呆れて物が言えないわ」

「天保院さん、どうしてここに?」

「忠告しに来たの。あまり深入りしたって身のためにならないわ。時間を無駄にするだけ。怪談なんてね、調査するまでもなく全部嘘に決まっているじゃない」

「そりゃそうだと思うけど……。で、でも、嘘であることを証明するためには調査は必要でしょ! 一方的に決め付けて調べもせずに記事にしていたら、そんなのはジャーナリスト失格だわ! たかが学校新聞だと思って舐めないで!」

 京花は肩を竦めたが、愛未には一歩も引く気はなかった。記事にする以上裏付けはきっちり取る。エゴから始めたことなのだ、自分の良心を裏切る真似だけは絶対にしたくない。

 それに、怪談も馬鹿にできたものではない。

 京花に【手首階段】のことを話す。生徒会長の長野亮子に起きた出来事を。彼女の思い込みだと言われればそれまでだけど、怪談を盲信する人たちには十分すぎるほどの証拠となるのだ。怪談の呪縛から生徒を解き放つにはさらにそれを覆す論理的説明が必要だった。

「どう? これでも調査は必要ない? 否定するためにはそのための材料が要るのよ」

「そんなのわかっているわよ。私が言いたかったのはそのことだけじゃなくて。――まあいいわ。もう好きにしなさい。ただ、これだけは肝に銘じておいて」

 京花からまっすぐに見つめられてどきりとした。

 何、と上擦った声で訊く。

 静かに。

「気をつけて。怪談が嘘なら、それらを起こすのはヒトだから」



 ――屋上の鍵? 生徒に貸し出せるわけないでしょう。春休みにあんなことがあったんだから……。それに、以前から管理していたのも先生たちじゃないしね。え? 誰が管理しているのかって? さあ、それは……誰かしら?


 部室でひとり原稿を書きながら、思い出す。ほとんどの教師が鍵の保管場所を知らなかった。自殺があった後はさすがに防犯意識が働いたようだが、結局鍵の所有者については今も知らされていないらしい。

 ――先生でさえ鍵の在処がわからないってどういうことよ!?

 京花は鍵の入手が可能か否かが重要で、入手方法自体はどうでもいいことだと言っていた。愛未もそう思っていた。けれど、いざ教師に取材してみれば、いち生徒に鍵の入手はますます困難であったことが証明されてしまった。

 高倉有紀はどうやって屋上の鍵を手に入れたのか?

 結局、振り出しに戻る。原稿を書く手を止めて項垂れた。八方塞だ。

「くだらないことはやめなさい……か」

 京花は何かを知っている。屋上の鍵を易々と手に入れ、高倉有紀の死を他殺だと疑っていた。そして、愛未には七不思議の調査から手を引けという。気をつけて、とも。

 思わせぶりが多すぎて京花が一番怪しい存在になっていた。

「……天保院さんが犯人だったりして。で、調査に乗り出した私を警戒している、とか」

 真相に近づきすぎたから警告しに来た――なんて、まさかね。

「鍵の入手先が決め手のような気がする。高倉さんが屋上に出られたのは誰かの手引きがあったから。すると、つまり、そうなると――」

 飛び降りたとき、屋上には別の誰かが居たという可能性も。

 チャイムが鳴った。

 驚きすぎて思わず立ち上がっていた。心臓がドキドキ言っている。

「あ、あははっ。な、何びびってんだか。……いいや。明日、天保院さんにもっと深く突っ込んで訊いてみよ。【おいでおいで】は一旦置いておくとして。次行こ、次!」

 カーソルを動かして、七不思議の二番目の項目に合わせる。キーボードの上に指を乗せていざ文章を打ち込もうとしたが、ううん、唸ってしまう。これもこれで反論が難しい。無いものは無いと証明することのなんと困難なことか。

 机の上にあった手鏡を手に取った。

「【飛ばし鏡】もねー。何を根拠にしたら否定できるんだろ? 瞬間移動できない理由を求めよとか、そんな問題アリ? できないもんはできないってのに」

 鏡の縁を指先で撫でていると、ふと気がついた。

 ――あれ? 部室にこんな鏡あったっけ?

 鏡の中の愛未が、薄っすらと微笑んで、ステップを踏むように枠の中から姿を消した。手鏡の取っ手を掴んだ自分がここに居るにもかかわらず、鏡には背景だけしか映っていない。

「何よ、――――これって、」


 唐突に、意識が飛んだ。



 風が吹きつけてくる向きが下からだった。次に聴覚が風の音を捉え、最後に映像が視界一杯に広がった。

 空を飛んでいた。高い位置から町並を見渡していた。だが、視点はいつまで経っても変化することなく、定点カメラを覗いているようにその場から動かない。飛んでいるわけではなかった。もちろん、落下もしていない。浮いている。そんな夢を見ている。

 ――あれ? でも、ここって……。

 夕暮れの町並には見覚えがあった。つい最近、同じ景色を見たことがある。あのときは確か誰かと一緒だったような気がする。

 入っちゃいけない場所で。

 屋上。

「……」

 ようやく、意識がはっきりとしてきた。

 視線を、ゆっくり、ゆっくり、下げていく。校舎の屋上から見下ろすと地面は遥か下方にあった。フェンスを乗り越えて縁に立ったまま、愛未は最期の瞬間を意識する。

 わけがわからない。ぐちゃぐちゃな思考はしかし、最後はこの一言に集約された。

「どうやって?」

 答えを聞きに一歩前へ。

 どうせ明日には怪談の登場人物に名を連ねている。

 ――『おいでおいで』なんて声聞こえなかったけどな。


 落下――――、ぐしゃり。


(つづく)