6回裏


 救急車のサイレンが聞こえる。

 慌ただしく動くストレッチャーの音が聞こえる。

 救命士、医師、看護師の声――朦朧としている頭に、様々な声が届く。馬場さん、大丈夫ですか、わかりますか。ひっきりなしに、誰かが懸命に呼びかけている。だが、言葉を返すだけの気力はなかった。

 辛うじて開いている目に映る世界は、急に視力が低下したかのようにぼやけている。それでも、今の状況は理解できた。

 どうやら自分は、救急車で病院に運び込まれたようだ。

 そういえば、前にもこんなことがあった。大きな怪我を負い、救急車で病院に運ばれた。

 あのときと、よく似ている。

 十三年前の、あの夜と――


 進学校での勉強と部活の両立は、なかなか厳しいものだった。

 朝の補習授業は七時半からで、部活の朝練は六時から始まる。五時半には家を出なければ間に合わない。

 授業中はいつも、眠くてたまらなかった。居眠りばかりしてしまう。ノートにはミミズが這ったような跡しか残っておらず、毎回友達に写させてもらっていた。

 学食で昼飯を食べ、午後の授業が終わると、待ちに待った部活の時間だ。野球部の練習は夜の八時まである。翌日はまた六時から朝練だ。授業の予習・復習なんてする暇はない。定期テストの成績は下がる一方で、学年での順位はいつも下の下だった。

 入学して半年が過ぎたが、高校生活の忙しさには未だ慣れない。

 それでも、部活の時間は苦痛ではなかった。毎日がむしゃらにボールを追いかけ、服が真っ黒になるまで練習する。野球をしている瞬間が、なによりも楽しかった。

 この学校は高校野球の強豪というわけではないので、甲子園への出場は難しいだろう。それでも、大学野球、社会人野球と腐らずに努力を続けていれば、そのうちスカウトの目に留まるかもしれない。いずれはプロ野球選手になりたいという思いが、今の自分を駆り立てていた。野球に没頭するあまり、他のことがおろそかになっている事実は否めない。それでも、毎日、頭の中は野球のことでいっぱいだった。

 そんな生活を送ることができていたのも、すべては父親のおかげだ。片親ではあったが、夢を追いかける息子をサポートし、好きなだけ野球をやらせてくれる父には感謝していた。彼は昔から、どんなに忙しくても、試合があるときはいつも予定をなげうって応援に駆けつけてくれる。軽い野次を飛ばしながらも、自分の活躍をあたたかく見守っていてくれた。父親はいちばんの理解者で、自分のいちばんのファンだった。いつかプロになって恩返ししようと、心に決めていた。



 この日の練習もハードだった。部活を終えると、チームメイトたちと一緒に帰宅した。全員、同じように頭を丸刈りにしていて、野球道具を入れたバッグを肩から下げている。仲間と語り合いながら歩く通学路での時間は、いつも楽しかった。

 通学路の途中で部員と別れ、馬場善治は自宅を目指した。最寄りの駅から歩いて十五分ほどの距離にある、二階建ての古いアパート。2LDKの部屋に、父親と二人暮らしだ。

 鍵はかかっていない。ドアを開け、玄関で靴を脱ぎ、

『ただいまー』

 声をかけたが、父親の返事はなかった。

『……父さん?』

 おかしいな、と首を傾げながら、馬場は廊下を進んでいく。そして、リビングへと通じる戸を開けた。

 テレビがついていた。野球中継だ。父はこの時間、いつも野球を観ている。赤い背番号をつけた地元球団の選手たちが、画面の中で躍動している。実況アナウンサーの声も聞こえる。

『父さ――』

 足を踏み入れた瞬間、馬場は息を呑んだ。

 目の前の光景に、思わず言葉を失う。

 そこには、男がいた。見たことのない顔の男が、リビングのちょうど真ん中に立っている。

 その男は、両手で、父親の首を絞めていた。

 虚ろな目をした父が、こちらを見た。息子の帰宅に気付いた。そして、彼の唇が微かに動いた。『ぜんじ、にげろ』と。

 父の顔は、血まみれだった。何度も殴られたように、顔中が痣だらけで、腫れ上がっていた。

 そんな父の姿を見た瞬間、馬場はかっと頭に血がのぼった。一瞬で全身が熱くなった。――と同時に、寒気に襲われた。得体の知れない恐怖が体の中をせり上がり、手足が震えはじめた。

 ――何なんだ、これは。

 頭が混乱している。まともに考えられない。状況が理解できない。どういうことだ。いったい、なにが起こってるんだ。

 同時に、どうにかしなければ、と思った。父が襲われている。相手の男が何者かはわからない。だが、今すぐに父を助けなければならなかった。

 その衝動に突き動かされ、気付いたときには、馬場は部活の道具が入った鞄に手をかけていた。中から愛用の金属バットを取り出し、ぐっと握り締め、振りかぶった。

 やらなければ、と思った。雄叫びのような声をあげながら、馬場は男に向かって突き進み、バットを振り下ろした。

 男が父から手を離した。振り返り、攻撃を躱し、バットを握る自分の手を掴む。そのまま捻り上げられ、馬場は思わず手を緩めてしまった。

『……お前、こいつの息子か?』男は微笑を浮かべていた。弱者を嘲笑うかのような、厭な笑みだった。

 男は簡単にバットを奪い取り、それで自分を殴りつけてきた。金属の棒が横腹にめり込み、噎せ返る。激痛に襲われ、立っていられず、馬場はその場に蹲った。

『やめろ』と叫ぶ父の声が響き渡る。

 だが、男は手を止めなかった。何度も何度も、容赦なく自分をバットで殴りつけてくる。

 体を丸めて縮こまり、馬場は襲いくる衝撃に耐えた。痛い、やめろ、と叫び声をあげながら。それでも暴行は続き、激痛が次から次へと襲ってきた。知らないうちに、涙があふれていた。

『やめろ! その子は関係ない!』

 父が叫び、男の背中に飛びかかった。

 それを払い除け、男が自分に向かってバットを振り下ろす。その瞬間、頭が割れるような強い衝撃が走った。

 ぐらりと視界が揺れ、意識が朦朧とする。

 体中の力が抜け、馬場はそのまま意識を手放していた。



 ――しばらくの間、馬場は気を失っていた。あれから、どれほどの時間が経ったのかはわからない。だが、再び意識を取り戻しても、地獄のような状況は未だ続いていた。

 馬場はまだ家の中にいた。リビングで倒れているままだった。目を覚ましてすぐに、顔をしかめ、悲鳴をあげた。体中が痛い。少しでも動こうとすると、全身の骨が軋んだ。

 頭からは、生温い液体が滴っている。――血だ。

 父は? あの男は? ぼんやりとした頭で、辺りを見渡す。

 そこには、最悪の光景が広がっていた。

 あの男は、まだそこにいた。その手には黒いナイフが握られている。男の足元には、父が倒れていた。腹部が赤く染まっていた。

 まさか、と思った。

 まさか、死んでいるんじゃ――。信じられなかった。血走った目で、馬場は『父さん』と呼びかけた。だが、声にならなかった。掠れた息が漏れただけで、父親には届かない。

 代わりに、あの男が振り返った。虫けらを見るかのような目つきで馬場を眺め、『なんだ、まだ生きてたのか』と嗤った。

 男が、こちらに近付いてくる。血のついたナイフを構えている。殺される、と思った。自分を殺す気なのだと、嫌でもわかった。冷たい目で見下ろしている。人の命なんて、なんとも思っていないような目だった。

 体が震えはじめた。

 逃げなければ、と思った。だが、無理だった。痛みと恐怖で、体が思うように動かない。

 涙が出た。

 理解ができないでいる。頭がこの状況を拒絶している。どうして、としか言葉が浮かばない。どうして、こんなことになったのか。自分はただ、普通に生きていただけだ。こんな不条理な暴力とは、関係のないところにいたはずだ。

 それなのに、どうして。

 どうして、こんな男に、自分の人生を奪われなければならないんだ。大事な夢を潰されなければいけないんだ。

 なにもできずに、ただ無抵抗のまま殺される自分が、悔しくてたまらなかった。涙が止まらなかった。

『すぐに楽にしてやるよ』

 男の手が伸びてきた。倒れている馬場の髪の毛を掴み、無理やり上を向かせた。その首筋に、ナイフを当てる。ひんやりとした感触に、身震いがした。

 男は今にも自分の喉を掻き切ろうとしている。絶望と無力感が、心を覆い尽くしていく。

 もうだめだ、と馬場は命を諦めた。

 ――そのときだった。

 突如、男が呻き声をあげた。

 予想外の事態が起きた。馬場の視界から、男が消えた。誰かが、男の頭を掴み、壁に叩きつけたのだ。その衝撃で男は気絶し、その場に転がった。

 いったい、誰が――?

 突然のことに驚き、目を剥いていると、

『――間に合ったか』

 と、別の声がした。

 どこからともなく現れたその男は、突飛な格好をしていた。黒い着流し姿で、日本刀を腰に差している。まるで時代劇に出てくる侍のような、時代錯誤な男だった。

 そして、彼はなぜか、顔を赤いにわかの面で隠していた。

『……いや』倒れている父を一瞥し、にわか面の男が呟く。『遅かったか』

 彼を見上げたまま、馬場は唖然としていた。

 なにもわからなかった。この男が何者なのかも、なぜそんな格好をしているのかも。ただひとつわかっていることは、彼のおかげで自分は助かった、ということだけだ。

 ――この男は、味方なのか?

 体の痛みも忘れて、にわかの面をじっと見つめていると、

『おい、大丈夫か?』

 と、声をかけられた。

 はっと我に返り、馬場は無言で頷く。歯を喰いしばって激痛に耐えながら、なんとか上体を起こした。

 にわか面の男は腰の日本刀を抜こうとした。気絶している男に止めを刺そうとしたようだが、途中でやめた。『さすがに、子どもの前で殺しはまずいか』

 刀を鞘に納め、家の電話を馬場に向かって投げつける。

『それで救急車を呼べ』

 命じられ、馬場は頷いた。ただ言われるがまま、救急車を呼ぼうとした。だが、手が震えて、電話のボタンが押せなかった。

 見かねた男が、子機を奪い取る。『もういい、貸せ。俺がやる』

 そのとき、

『……善、治』

 自分の名を呼ぶ、か細い声が聞こえた。

 父の声だ。

 生きている、よかった。涙が込み上げてくる。倒れている父親の元へ、馬場は這うようにしてすり寄った。

『と、父さん、っ……』

 声が掠れた。

『ぜ、んじ』

 息子の呼びかけに、父が弱々しく答えた。吐血し、赤く染まった唇が、微かに動く。

『……守ってやれんで、ごめんな』

 絞り出すような声だった。

 馬場は心の中で首を振った。守れなかったのは、自分も同じだ。俺が弱いせいで、父を助けることができなかった。

 父は、泣いていた。まばたきをすると、目尻から涙がしずかに零れ落ちていく。そのまま、ゆっくりと目が閉じられていく。

『父さん! 父さん、――』

 もう一度目を開けてほしくて、声が聴きたくて、馬場は何度も呼び続けた。

 泣き叫びながら父の肩を揺する馬場に、

『おい、動かすんじゃねえ』

 にわか面の男が、鋭い声を発した。

『救急車が来るまで、これで傷口を押さえてろ』と、男は馬場に布を手渡した。それから、父を刺した男を一瞥して告げる。『あいつは、しばらく起きねえだろう。すぐに警察も来るから、引き渡しとけ』

 そう言うとすぐに、にわか面の男は背中を向けてしまった。

『――ま、待って!』

 脇腹の痛みを堪えながら、馬場は叫んだ。どうしても、知りたいことがあった。

 男が立ち止まり、振り返る。『なんだ?』

『あんたは――』

 ――いったい、何者なんだ。

 だが、馬場が問う前に、彼は首を振った。

『知らなくていいことだ』と、強い口調で告げる。『いいか、今日のことはすべて忘れろ。……まあ、すぐには無理だろうがな』

 踵を返し、再び背を向けると、

『こっち側に足を突っ込むなよ』

 それだけを言い残し、彼は立ち去ってしまった。

 こっち側――どういう意味なんだ?

 その言葉に眉をひそめながら、馬場は男の背中を見送った。救急車のサイレンが聞こえてきたのは、その直後のことだった。