ぼくの尊敬する人

 ぼくの尊敬する人はおばあちゃんです。

 ぼくのおばあちゃんは、かみの毛がムラサキ色で、耳にはいつも金色の大きなイヤリングをしています。そして、ちょっと太っていて、おこるととてもこわいです。でも本当は、すごく、すごく優しい人です。

 ぼくのおばあちゃんのすごいところは、ぼくのお父さんを女手一つで育てたことです。そして、ぼくのお父さんを育てながら、生命保険の営ぎょうでトップの成績を30年間とり続けたこともすごいと思います。

 そんなおばあちゃんが、30年間続けていた生命保険の営ぎょうをやめたのは一年前のことです。

 虹色町は人口1000人もいない小さな町です。

 一年前、虹色町に一つだけあった富士スーパーがなくなることが決まりました。

 富士スーパーは、野菜や果物、肉や魚、トイレットペーパーとか、ぼくたちが生活してくために必要なものが全部売ってるお店なので、なくなるとみんなが困ります。それに、富士スーパーがなくなると、車で一時間かけて、となりの町まで買い物に行かなければなりません。虹色町は、おじいちゃんやおばあちゃんがたくさんいるので、遠い場所に買い物に行くのは大変です。

 ぼくのおばあちゃんは、誰よりも虹色町が好きです。でもそれ以上に、虹色町の人が大好きです。おばあちゃんの口ぐせは「この町はあたしが守る」です。

 だから、町の人たちのために、生命保険の営ぎょうをやめて、色んなものが売っているコンビニをつくることに決めました。

 コンビニには、野菜も果物も、肉も魚も、トイレットペーパーも売っています。それに、富士スーパーにはなかったおいしいお弁当や、おでん、色々な種類の飲み物や、マンガ本も売ってます。

 虹色町にコンビニができてから、みんなすごくうれしそうです。

 でも、一番うれしそうにしているのは、ぼくのおばあちゃんです。

 おばあちゃんはいつもこわい顔をしてますが、町のみんなが笑うと、おばあちゃんも笑います。

 ぼくは、おばあちゃんの笑った顔が好きです。

 大きくなったら、ぼくもおばあちゃんのように、みんなが困ったときは助けることができる、強くて優しい人になりたいです。

三年一組 小山純平



 四月末日。

 すみればあちゃんの一周忌法要が終わる頃には、午後8時を過ぎていた。

 確か、僧侶が家に来たのが午前9時のことだった。当初の予定では、読経の後に焼香をして、会食をして、昼過ぎには店に戻れるだろうと考えていたのだが、その考えは甘かった。

 読経の段階で家に入りきらないほどの参列者が押し寄せてきてしまい、入れなかった人はコンビニの中で待機してもらうという事態が起きてしまった。そのせいで、午前中の店の中は、喪服を着た老人で溢れかえるというカオスがしばらく続いた。

 故人の息子であり喪主の店長は、最も苦手とする〝不測の事態〟に、まるまるとした体を右往左往させていた。そんな夫に、的確な指示を出しながら、息子の俺を使うことも忘れないマリアさんが、事態の収拾に努めたことで、なんとか無事にすみればあちゃんの一周忌法要を終えることが出来た。

 終わってみれば、一日の参列者は虹色町に住む町民数を遥かに超えた人数だった。

 虹色町の全町民はもちろん、昔すみればあちゃんにお世話になったというたくさんの人たちが、町外から足を運んできてくれた。

 へたな地方議員や町長よりも盛大に行われたすみればあちゃんの葬儀には及ばなかったものの、亡くなって一年が過ぎてもなお、すみればあちゃんという人間の存在の大きさを、俺たち家族は思い知らされていた。


「純平、今日は22時まで正雄くんがシフト入ってくれることになったから、それまで休んでなさい」

 マリアさんが白いエプロンを外しながら俺の肩をぽんっと軽く叩く。その顔は、おつかれさまと、今日の俺の働きを労っているようだった。

「わかりました。じゃあとりあえず、メシにしますか?」

「そうね! もう、忙しすぎてお腹空いてたことすら忘れてたわよー。純之介さんっ、ごはん買って来て~」

「えっ」

 すみればあちゃんと瓜二つの体型をした店長は、すでにテレビの前でごろんと横になっていた。

 マリアさんの声に顔だけ振り向くも、その重い体を起こそうとはしない。

 これでも、柔道では最強といわれる紅帯で、学生時代は全国大会で三連覇を成し遂げた強さから〝怪童〟とも呼ばれていた栄光の持ち主だ。

「僕が行くの?」

 ただ、怪童と恐れられていた少年の姿はもうそこにはない。

 そこにいるのは、坂道の前で軽く押しただけで勢いよく転がりそうな壮年男だ。

「うん、お願い!」

 そんな店長とは反対に、女性にしては背が高く、年齢を重ねてもスレンダーな体型を維持しているマリアさん。その上、器量も良いと評判だったりする。

 田舎町でコンビニ店長の嫁をやってる姿を見慣れてしまったせいか、マリアさんが元は資産家のお嬢様であることをたまに忘れそうになる。

 そんなデコボコの二人が結婚して、早20年。俺が生まれてもうすぐ19年。

 周りの人からは仲の良い秘訣は何かと、頻繁に聞かれるほど、息子の俺から見てもいつでもどこでも仲睦まじい二人。

「僕もう動けないよ。マリアさん行って来てくれないかなぁ?」

「えーお願い! 私はコーヒーセットしておくから。その間に行って来てー?」

「コーヒーなら店で買えばいいよ。新しいマシンのコーヒーの方が美味しいしね」

「……はあ?」

 パチン。と、もう一人のマリアさんのスイッチへと切り替わる音が聞こえた気がした。

 この後の展開が容易に想像出来てしまった俺は、先手を打つ。

「そういえば店長、言ってましたよね。今回マリアさんが新しく発注したコーヒー豆がすごく美味しいって。言ってましたよね?」

「えっ、あ、うん! 言った!」

「……あら、そうだったの? やだぁもう、純之介さんったら、コーヒー豆なんて誰が発注しても同じでしょ?」

「そ、そんなことないよ! やっぱりマリアさんが発注してくれると、こう、淹れたコーヒーの雰囲気が違うよっ!」

「えー…そう? もうっ、うふふふっ」

 マリアさんの声がいつもの高さに戻った。

 どうやらもう一人のマリアさんが姿を消してくれたようだ。

「コーヒーもメシも俺買ってきますよ。正雄さんにお礼も言いたいし」

「そう? 悪いわね純平」

「純平、」

 店長の黒目がちの瞳が「助・か・っ・た・よ」という信号を送ってきていた。

 これは、俺が10歳のときから店長と送り合えるようになった親子信号。

「はい」

 店長の信号に答えるように「大・丈・夫・で・す・よ」と送った。

 俺の信号を受けて、店長は安心したように頷くと、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

「アイスも頼むね」

 店長は暑がりで汗っかきのせいか、365日朝晩アイスを食べる習慣がある。

 店長にとって、ある種のルーティンのようなものだ。

「パプコですか?」

「うん。今日は頑張ったからリッチチョコでお願い」

 ただし、知覚過敏のせいで、吸うタイプのアイスしかまともに食べることが出来ない。そのせいもあり、うちの店のパプコの品ぞろえは日本一だと、パプコの製造元であるグリカのHPでも紹介されたことがある。

「わかりました。じゃあ行ってきます」

 二人にそう言って、俺は二人がごねていた家から徒歩20秒の場所にあるコンビニに向かった。

 20秒後、コンビニのドアを開けると「は~い、いらっしゃいませ」という正雄さんの声に出迎えられた。

 正雄さんは俺の姿を確認すると、「あっれ~?」と首を傾げて、レジの中から出てきてくれる。

「純平チャン、どうしたのよ~? この時間シフト入ってないっしょ?」

 正雄さんこと、本名――正雄・リアム・Kさんは天然の金髪が眩しい28歳の美青年。その名前と彫りの深い顔からもわかるように、虹色町唯一のハーフだ。

 軽い口調と悪気のないナチュラルなナルシストがたまにイラっとするものの、金髪・イケメン・ハーフで、リアム・Kとくれば、僻むのもアホらしかったりする。それに、顔に似合わぬ「正雄」という名前を本人がえらく気に入っているところが正雄さんの愛すべき点でもある。

「メシ買いにきました。店長もマリアさんも俺も、朝から何も食ってないんで」

「マ~ジ!? まぁ、昼間も人やばかったもんね~。おつかれさま」

「いえ。正雄さんも、すみません。家の事情で、迷惑かけて……本当、ありがとうございます」

「な~に言ってんの、純平チャン。オレ、バイトリーダーだよ? 当然じゃんっ」

 正雄さんの、真っ白い歯と金髪と、そして自己愛の強いウインク付きの笑顔が眩しい。この笑顔に慣れるまで、一年かかったことが今では少しだけ良い思い出だ。

 このコンビニが出来た当初から働いてくれている正雄さんはいわゆる初期メンで、高校卒業後もこのコンビニで働き続けてくれている。

 噂によると、ファッションモデルや俳優のスカウトがあったとか、なかったとか。

 こんな小さな箱の中よりも、よっぽどそういう華やかな世界の方が似合いそうなものの。

「正雄さん」

「ん~?」

 正雄さんは、このオレンジ色の制服を、誰よりも誇らしそうに着る。

 スタッフの誰よりも、プライドを持ってこの仕事に励んでいることは、スタッフ全員が知ってることだ。

「あの、本当助かりました」

「だから~いいって~の。オレ、バイトリーダーじゃん?」

「はい。ありがとうございます」

「昭代チャンもバックヤードにいるからさ~、声かけてってよ」

「はい」

 正雄さんにそう言われて、買い物をする前に、バックヤードに向かった。

 バックヤードに入って左奥に、六畳ほどの事務室ことスタッフルームがある。

 部屋の真ん中にあるテーブルの上には監視カメラの映像が映ったテレビ、内勤業務を行うノートパソコン、エネルギーチャージ用のお茶菓子や飲み物などが置いてある。

 窓側には、小さな給湯スペースもあって、その隣のロッカーがスタッフ専用の荷物置き場となっている。

 スタッフルームのドアを開けると、椅子に座ってお茶菓子を食べている昭代さんがいた。

「お疲れさまです」

「えっ、純平ちゃん? あらやだ、もう交代の時間だったかい?」

 どら焼きを口にくわえたまま喋る昭代さん。

 昭代さんも正雄さんと同じく、このコンビニの初期メンだ。

 今年63歳になるものの、まだまだ現役で、このコンビニを支える一人として働き続けてくれている。トレードマークはアラカンとは思えないほど深く刈りあげた襟足とダメージがきいている細身のジーンズだ。

 自称、虹色町の夏○マリらしいが、若いお客さんの間では、「ヤンチャなばあさん」と陰で呼ばれてるのを俺は知ってる。

 ただし、生まれたときからすみればあちゃんの姿を見慣れてしまってる俺には、昭代さんを見ても、普通のばあさんにしか見えなかった。

「メシ買いに来たんです」

「そうだったの。それはそうとさ、純平ちゃんこそ、お疲れさまだったねっ!」

「いでっ」

 昭代さんから、背中に強烈な労いを受けた。

 心の中で、ばあさんと呼んだことがバレたのだろうか。普通に痛い。

「すみれさんの一周忌法要よっ。すごいことになるだろうなぁとは思ってたけどさ、さすがよねー」

 すみればあちゃんと同級生なのに、昭代さんは昔からずっとすみればあちゃんのことを「すみれさん」と呼ぶ。実は昭代さんも、虹色町の中では発言力のある人なのだが、本人はすみればあちゃんの足元にも及ばないし比べられる対象ですらないと言う。

「でも、当然だよねぇ。そもそもこんな小さな田舎町で収まるような人じゃなかったんだからさぁ……」

 昭代さんにとって、すみればあちゃんは、一生憧れの存在で、何をしても絶対に敵わない人。と、葬儀のときに大粒の涙を流しながら、すみればあちゃんの遺影に向かって言っていた。

「それなのに、離婚してまでこの町に残って。最後までアタシたちの生活守り切って……自分はあっけなくいっちゃうんだもん」

 昭代さんの目には、葬儀のときと同じように、大粒の涙が浮かんでいた。

 昭代さんだけじゃない。

 今日、一周忌法要に参列してくれた誰もが、すみればあちゃんの遺影を見て、思い出が蘇っているかのように嬉しそうに笑って、そしてすぐに堪えきれないように涙を流していた。

 すみればあちゃんは、あの口ぐせの通り、この町のみんなを何度も守ってきた。

 隣町との合併話が出た時も、裏山に熊が出たときも、公民館が火事になって斉藤さん家のミヨちゃんが取り残されたときも。それだけじゃない。小池さん家のばあちゃんが大雪の中で遭難したときだって、連絡を受けたすみればあちゃんが警察や消防よりも先に助けに行った。

 語り尽くせないほどの伝説と、功績、そして誰の心からも消えることのない深い愛情を残して、すみればあちゃんは62歳という若さで亡くなった。

「食事気を付けてねって、たまには運動してねって、あれほど言ったのにさ……」

 すみればあちゃんの死因は肝臓がんだった。

 長年蓄積した脂肪肝を放っておいたことが大きな原因だった。

 そういえば亡くなる前日も、店長に無理やり持ってこさせたフランクフルトにたっぷりのケチャップをつけて美味しそうに頬張っていたな。

「純平ちゃん」

「はい」

「誰もすみれさんと比べやしないから。安心しなさい。気張らずにさ、純平ちゃんらしくやっていけばいいんだからさ」

「……はい」

 昭代さんがそういう意味で言ったわけじゃないことはわかっていた。

 それでも、まるで「比べる対象ですらない」と遠回しに言われているようで、右側のこめかみあたりがズキズキした。

 この町で、すみればあちゃんと同じ場所に立てる人なんて、いない。これから先50年経っても、きっと出てこないと思う。始めから目指すことすら敵わない人の後釜に座るのが、どうして自分だったのか、一年経った今もわからない。

「みんながついてるから。頑張んなさい、新オーナー!」

「……アハハ」

 すみればあちゃんが亡くなった高校三年の春、俺はコンビニのオーナーになった。


 ――遡ること一年前。

 すみればあちゃんの葬儀を終えた翌日。店長とマリアさんと俺の三人で、すみればあちゃんの部屋を整理していると、戸棚の中から、遺言書が出てきた。

 調べてみると、すみればあちゃんの遺言書は自筆証書ではなく、二名以上の証人が必要な、公正証書であることがわかった。

 公正証書は公文書扱いになるため、原本の保管期間は原則20年間と規定されている。証人が必要なことから、遺言書の中でも効力の高いものらしい。

 公正証書の作成日は10年前。コンビニが出来てからちょうど一年後の日付だった。

 二名の証人には、じいちゃんと真紀先生の名前が書いてあった。

 じいちゃんは、30年以上も前にすみればあちゃんと離婚して、今は東京で生活している。店長や俺は時々連絡をとっていたけど、すみればあちゃんともまだ繋がっていたことは誰も知らなくて、遺言書が出てきたことよりも俺たち家族はそっちの事実にしばらく驚いていた。

 そして、もう一人の証人である真紀先生はすみればあちゃんの親友で、20年前虹色町に移住してから、自宅でピアノの先生をしている女性だ。

 昔の事故の影響で右脚が不自由なこともあり、すみればあちゃんが生きてるときはほぼ毎日、真紀先生の家に様子を見に通っていた。

 そんな二人の名前が証人欄に書かれた公正証書遺言にはこう書いてあった。

 小山家が所有する全ての土地・家屋・家屋内にある現金および家財道具を店長に。

 すみればあちゃんが所有する普通預金および定期預金の全てをマリアさんに。

 そして、問題は最後の一文だった。

 コンビニ事業は孫である小山純平に継承する――と、書いてあったんだ。


「ただいま」

 リビングのドアを開けると、テレビの前で仲良く並んで寝ている、店長とマリアさんの姿があった。

 察するに、ごろ寝した後、本当にそのまま寝落ちしてしまったようだ。

 俺は買い物袋をテーブルに置いて、リビングの隣にある和室の押し入れから毛布を引っ張り出した。

 ちょっとかび臭い毛布を二人の体にかけ終えて、ようやく、椅子に座った。

 立ちっぱなし、歩きっぱなしの一日だったせいか、椅子に座れたことで、両肩にかかっていた力がふっと抜けていく。

「……腹減った」

 なるべく、ガサガサと音を起てないように、袋の中からもう何十回食べたかわからないミックスサンドと、チルドカップのコーヒーを取り出した。

 食べ飽きてるはずなのに、何十回食べても美味いものは美味い。

 チルドカップのコーヒーはムーンバックスのエスプレッソ。

 根っからの田舎者である俺は、ムーンバックスというのは商品名であって、店舗まであることを知らなかった。ムーンバックスという店があるのを知ったのは中学三年の修学旅行のときだった。

 どうりで、ちょっと高くて美味いわけだと、あのときは妙に納得した覚えがある。

「……」

 こうやって、息ついて、メシ食って、コーヒー飲んでも。あの日から、何をしてても考えるのは、すみればあちゃんの遺言のことだ。

 コンビニ事業は孫である小山純平に継承する、なんて。

 そもそもコンビニフランチャイズのオーナーは本部が決めるのであって、現オーナーの一存で決められるものじゃないことは俺だって知ってる。だから、すみればあちゃんの気持ちの中で、俺に任せるという意味だと思っていたのに……。

 すみればあちゃんが亡くなる一ヶ月ほど前、コンビニを始めた10年の節目に、すみればあちゃんが店を個人事業から法人化する手続きをとっていたことがわかった。

 すみればあちゃんから手続きを委託されていた税理士さんが、手続きが完了したことを報告しに家に訪ねてきたのは、すみればあちゃんが亡くなって二週間後のことだった。

 税理士さんの話によると、コンビニを始めた当初から支え続けてくれている家族とスタッフには、福利厚生をちゃんとしなければいけないと常々言っていたそうだ。

 税理士さんによれば、法人化することでコンビニは会社という形になり、スタッフは社員として社会保険の加入義務も発生する。それ以外にも、社員の慰安旅行も福利厚生費として処理することが出来て、退職金も支払うことが出来るらしい。

 そして、その法人化したコンビニの代表者が俺になるというのだ。

「……」

 ズズズズズズッと、最後の一滴まで吸い取っても、喉の渇きは治まらない。

 たまらず、もう一本手に取った。今度は水分補給に向いてそうなスポーツドリンクにした。

 一年前、税理士さんの話を聞き終えた後も、今のように喉がカラカラに乾いて、ほんの一瞬だけ、意識が遠のいた。

 もう、この世にはいないすみればあちゃんに聞きたいことはたくさんあった。

 どうして、息子である店長でもなく、すみればあちゃんと一緒にオーナー業務を取りしきっていたマリアさんでもなく、俺なのか。

 すみればあちゃんは、家族に対しても愛情深い人ではあったが、仕事に関しては血縁者にも甘えを許さない容赦のない人だった。

 実際に、自分のオーナー業務の手伝いをさせていたのは息子の店長ではなくマリアさんだった。

 いつだったか、「店の経営はお前に向いてない。麻里亜に任せる」と、一言そう店長に言い放ったところを、マリアさんも、まだ小学生だった俺も一緒に見ていた。

 店長はいつものように穏やかな顔で、平然と、「うん。わかったよ」と答えてはいたけど、本心ではどう思っていたかはわからない。

 今の俺が、もし同じことをすみればあちゃんに言われたら、きっと立ち直れないと思う。今後、店に立つことすら、怖くなると思う。

 そういう経緯もあったから、ゆくゆくはマリアさんをオーナーに据えるのだろうと、俺だけでなく、誰もが思っていたはずだった。

「……」

 それなのに。どうして……。

 誰が見たって、俺はオーナー向きじゃない。年齢とかは関係なく、俺はそっち側の人間じゃない。

 代表者なんて、学生のときだってなったことがない。

 どちらかといえば、代表者のサポートをする書記的ポジションの方がしっくりくる。

 俺は、みんなを先導していけるリーダータイプじゃない。絶対に。

 町と人を最後まで守り続けた偉大な祖母と、今は見る影もないものの怪童と呼ばれた父、資産家の一人娘の賢い母。そんな家に生まれたのは、何もかも平凡な俺。

 カリスマ性もなければ、人より秀でた才能も特技もない。

 無駄に神経質だし、愛想も良くないし、頭も固い。何においても真面目にコツコツ継続していかないと人並み以上に出来ない要領の悪さは店長譲りだと思う。

 僅かな取り柄とえば、無駄に伸びた188cmの身長と、幼少期から培ってきた忍耐強さだけだ。

「店長、マリアさんも。メシ買ってきましたよ。起きて下さい」

 仲良く寝落ちしてる二人に声をかけるも、「いらっしゃいませ~」という店長の寝言の後に、「こちらのレジにどうぞー」というマリアさんの寝言が返ってくるだけだった。

 なんか、もう寝言じゃないけど。

「……風邪ひきますよ」

 どんな動きをしたらこうなるんだろうってくらい、毛布が店長の体に巻き付いて、肉巻きおにぎり状態だった。ただでさえ汗っかきの店長の顔からは汗が噴き出て、耳の横に小さな池が出来ていた。

 店長の体に巻き付いてた毛布をほどいて、もう一度、二人の体に掛け直して、店長が作った小さな池はティッシュで吸い取っておいた。

 父さんが〝店長〟に、母さんが〝マリアさん〟になったのは、高校に入学して、コンビニでアルバイトを始めるようになってからだ。

 仕事中に父さん、母さんと呼ぶわけにもいかず、正雄さんや昭代さんといったスタッフが呼ぶように、店長、マリアさん、と呼んでいたら、いつの間にか家の中でもそうなっていた。敬語もそうで、店の中で一番下っ端なこともあって、誰に対しても敬語で喋っていたら、両親に対しての切り替え時も見失った。

 知らない人間が聞いたら、養子なんかの類と勘違いされそうではあるが、正真正銘の実子だ。

 周りがどう思うかは別として、24時間営業の家族経営で、親といっても仕事の先輩であり上司なのだから、俺としてはもう違和感はない。

「ああっ!!」

 突然、大量の汗をかいて眠っていたはずの店長が、大きな声を上げて飛び起きた。

「と、轟さんに頼まれてた雑誌の予約忘れちゃったっ!!」

 何かに怯えたように右往左往する店長の顔は真っ青になっていて、寝汗は冷や汗に変わっているように見えた。

〝轟さん〟とは、うちのコンビニの常連さんで、最低でも一日に三回は来店されるお客さんだ。冬になると雪深くなるこの町で、通年着物を着ている強者でもある。

 いつ見ても皮膚に張り付いたような微笑みを浮かべているのも特徴だ。

 そんな和装の美壮年が、店長と同級生で、しかも幼馴染だという話を聞いたときは、自分の耳を疑った。ビジュアル的には、どっちも年齢より若く見えるということだけは共通してるけど、他の共通点が何一つ見つからなかったから。

「どうしよっ、どうしよっ! 忘れてたなんて言ったら絶対いじめられるよ……」

 店長はこう言ってはいるものの、轟さんと店長の関係は、いじめっ子といじめられっ子というわけではない。むしろ、3歳から柔道を習っていたにもかかわらず、学校ではいじめられっ子だった店長をいつも助けてくれていたのが轟さんだった。と、すみればあちゃんが言ってた。

 いじめるどころか、轟さんは多分、店長のことが好きで仕方ないんだと思う。

「純平~どうしよう……」

「大丈夫ですよ。実際、今日は店のことに手が回らないほど忙しかったんですし、轟さんだってわかってくれますよ」

「甘いよ純平っ! 僕が今までひーくんに何されてきたか教えたでしょ!?」

 轟さん、本名――轟光さんにされてきたことを思い出しているのか、店長は大げさにガタガタと震え始める。

 轟さんに店長がされてきたことといえば……。

「確か、修学旅行で女湯に男湯の札をかけられたり、水泳の授業で水着をブリーフビキニに変えられていたり、リコーダーとちくわを入れ替えられたりとかですよね。可愛いイタズラじゃないですか」

 俺は絶対友達になりたくないけど。

「本当に可愛いって思ってるの!? 全然可愛くないよっ。ひーくんは僕のことからかって、弄ぶのが生きがいなんだよっ」

「弄ぶって……」

 確かに、弄んでるよなぁ。轟さん。

「純平、どうしようっ! どうしようどうしようっ」

「落ち着いて下さい。種類によっては隣町の店舗に連絡すれば」

「置いてないよあんなのっ!」

 顔を真っ赤にして〝あんなの〟と叫ぶ店長の声に、熟睡していたマリアさんが目覚めそうになる。

 マリアさんに聞かれるとまずいのか、さっきよりも声のボリュームを小さくした店長が、再びコソコソと喋り始めた。

「〝潮干狩りの魔術師〟なんだよ」

「……あの人は、また。先週Vol.9頼んでたでしょう?」

「今週のは増刊号なんだって」

 増刊号ってなんだよ。エロ本で増刊号って、どんなだよ。

「はあぁぁー…」

 一見すると、轟さんは和装の美壮年ではあるのだが、その蓋を開けると、中身はただの好色家の変態クソ野郎だ。どうしようもない助平野郎だ。なにせ、目視だけで女性のバストサイズをミリ単位まで狂うことなく的中させることが出来るのだから。

「純平~どうしよう」

 轟さんが毎週のように予約する雑誌は本屋にも置いてなさそうなマニア向けのエロ本やエロ漫画。もっと細かくいうと、エロ雑誌は毎週、エロ漫画は隔週で注文している。今の時代ネット注文でもすればいいものの、わざわざコンビニで予約して、店長や俺の反応を楽しんでるんだ。

 一応俺も男に生まれたわけだから、エロ本に興味がないわけではない。が、轟さんが予約するものは内容が想像出来ないほど不可思議なタイトルのものばかりだから、安易な気持ちで見てはいけないし聞いてもいけない。

 幸い、店長も俺もまだ、週刊少年誌のグラビアコーナーで間に合ってる。

「とりあえず電話しましょう。まだ21時過ぎですし、多分起きてるでしょう」

「う、うん……」

 轟さんの生活リズムは未だに謎だけど、なんとなく、夜中まで起きてそうだと思った。

 家の固定電話から轟さんに電話をかけ始めた店長を隣で見守りつつ、俺は新商品の宣伝用のPOP作成の続きをすることにした。

 コンビニのPOPは販売促進のために重要な広告であるため、フランチャイズの本部から支給されるのだが、売上の良い店舗の多くは、スタッフが独自にPOPを作成している。だから、うちの店でもPOPは基本手製のものばかり。

 地味な作業が好きな俺は、休憩時間や休みの日にPOP作成をすることが、今ではちょっとした趣味になっていた。

 ただし、地味な作業ではあるが、POPの出来や、POPの有り無しが、意外と売上に反映されたりするからやりがいもある。

「……店長?」

 作業の手を進める俺とは反対に、電話をかけてから一言も発しない店長。

 受話器を持ったまま、固まっていた。

「店長。どうしたんですか?」

 店長は何も言わずに、ゆっくり、受話器を置くと、

「……る、留守電になってた」

「えっ、そうだったんですか。じゃあ、仕方ないですね」

「そうじゃないっ。留守電、ひーくん、僕のこと、見てる、怖い、よお」

 しどろもどろになっている店長の目の焦点はぶれぶれで、そのまま口から泡でも噴き出しそうな勢いだ。

 ここではやめろ。ティッシュじゃ間に合わない。

「店長、意味がわかりません。落ち着いて、単語をちゃんと言葉になるように接続してください」

 それでも俺が冷静でいられるのは、こんなことは日常茶飯事であって、店長が失神寸前になることはとくに珍しくはないからだ。

 嫉妬深いマリアさんのスイッチが切り替わったときなんかは、何かの防衛反応なのか、店長はパタッと失神する。

「留守電、で」

「留守電で?」

 店長の大きく分厚い背中をさすりながら、次の言葉を促した。

「『あ、ブッチャー? 今所用で東京にいるから、お願いしてた雑誌は来週取りにいくからよろしくね。ふふ、安心した?』……って」

「……たまたま、ですよ」

 違う。絶対にたまたまじゃない。

 あの人は、先のことを(今夜のことを)見越してたんだ……。

 ちなみに、〝ブッチャー〟というのは店長のことで、轟さんだけしか呼ばない店長の愛称。つぶらな瞳とふくよかな体がプロレスラーの〝アブドーラ・ザ・ブッチャー〟に似ているから。と言って、突然6歳のときからブッチャーと呼ばれるようになったと、以前店長が遠い目をして教えてくれた。

「純平っ、僕、怖いよぉ……。助けて。助けてよぉっ!!」

「店長、疲れてるんですよ。多分、きっと、聞き間違いってこともありますよ」

「……えっ……そうかなぁ?」

「はい。そうですよ」

 良かった。父親が天然で。

 俺の暗示にかかったように、「そうだよね。うん、きっとそうだ」、「聞き間違いだ」と、繰り返す店長が気の毒ではあったけど、俺もそろそろ出勤時間だし、店長の相手をまともにしてる余裕はない。

 今日は22時から6時という深夜勤務になったのだから。気を引き締めないと、今なら秒で眠れる自信しかない。

 田舎町ということもあり深夜帯のシフトは基本的に一人体制。ただし、一人では対応出来ないほど混んでしまった場合のみ、内線電話で自宅で休んでいる店長かマリアさんか俺を呼ぶ、というのがうちの店のやり方だった。

「轟さんの雑誌も、あとで俺が予約しておきますよ」

「うんっ。純平っ…ありがとうっ!」

「これも仕事ですから」

 そう。これも、仕事。

 高校を卒業後、コンビニで働くことを決めたのは俺自身。誰に強制されたわけでもない。すみればあちゃんの遺言書が見つかる前から、こうなる未来を想像していた。

 そう、思っているのに。

 今も、部屋の机の引き出しにしまっている、必要のない〝アレ〟を、まだ捨てられないのはどうしてだろう。

 もうゴミでしかない〝アレ〟を、捨てられないで。一年も経ってしまったのは、どうしてだよ――。



 すみればあちゃんの一周忌法要が終わって一週間も経つと、店の中は平常通りに戻っていた。それでも、二、三日は焼香をしにくる人が絶えなくて、昼間はマリアさんや店長が店に出られない状態が続いたけど、正雄さんや昭代さんがカバーしてくれたことで、店の営業に支障をきたすことはなかった。

 今日からまた、日常が始まる。

「春江さん、夏江さん、サッカーお願いします」

「「はい、オーナー」」

 今日は正雄さんと昭代さんが休みで、俺と店長、春江さん夏江さんの四人体制。

 春江さんと夏江さんは今年還暦の双子で、五年前からうちの店で働いてくれている。

 深夜以外であれば、どの時間帯でも入ってくれるし、仕事も丁寧だから助かってはいるけど。一つだけ、大きな難点がある。

「春江さんっ、夏江さんっ、こっちもサッカー入って!」

「「はい、店長」」

 レジ打ちをしている俺の隣から、店長のレジに行ってしまった二人。

 まるで磁石のようにぴったりとくっついて離れることのない春江さんと夏江さんは、二人で一人なんだ。

「「ありがとうございました。またお越しくださいませ」」

 大きな支障があるわけじゃない。春江さんと夏江さんで一人のスタッフだと思えばいい。真面目に働いてくれているんだから。

 そう、自分で自分を洗脳して、今は納得している。

 ちなみに、俺と店長が春江さんと夏江さんに頼んだ〝サッカー〟とは、袋詰め作業のことだ。

 店内が混んできて、ある程度の行列が出来たとき、レジは一人体制ではなく、サッカーが加わった二人体制になる。こうすることで、お客さんの待ち時間を減らし、店の回転率も上げることが出来る。

「だいぶ空いてきたから、春江さんと夏江さんは前出しとフェイスアップお願いね」

「「はい、店長」」

 春江さんと夏江さんが頼まれた〝前出し〟とは、商品棚の一番手前にある商品が売れた後に、後ろにある商品を手前に出す作業のこと。お客さんがいつでも商品を手に取りやすい状態に保っておく目的がある。

 そしてもう一つの〝フェイスアップ〟とは、商品名のタイトルが記載された面が正面にくるように商品を整える作業のこと。陳列棚の手前にある商品はお客さんが一番手に取る機会が多い分、乱れも目立ちやすいため、店内の見栄えを良くするためにも、こまめなフェイスアップは欠かせない。

 前出しもフェイスアップも気付いたら行うことが大切なのだが、お客さんが来店するピーク時の前後に行うと、より効果的だと言われている。

「僕はドリンク補充してくるから。純平はポリッシャーかけて、レジ頼むね」

「はい。わかりました」

 ポリッシャーは床を磨く掃除機のこと。

 コンビニでは、店内を明るく見せるために、床磨きを徹底して行っている。

 だからうちの店では、混雑した時間帯の後は、モップではなくポリッシャーを使って床を掃除をする。

「じゃあ、よろしくね」

 暑がりで汗っかきの店長は、何かとドリンクの補充に行きたがる。

 それはもう、休憩時間かのように、足取りが軽くなり、背中からも笑顔が見える。

 通常であれば冷蔵室でのドリンク補充は、最低でも20分以上は作業に時間がかかるため、夏でもダウンジャケットを着用しなければ体が冷え切ってしまうのだが、店長にとっては一番心地よい空間らしい。

 バックヤードに向かう後ろ姿は、完全に浮かれてる。

「いらっしゃいませ」

 そこへ、来店を知らせる音が鳴り、反射的に出入り口に視線を移した。

「純平くん、こんにちは。ブッチャーじゃなくて、店長いるかな?」

「……はい」

 店長、オアシスはお預けのようです。

 今日もまた、いつもの張り付いた微笑みを浮かべながら店にやってきた轟さん。

 上品な藍色の着物姿に、落ち着いた話し方とゆったりとした仕草も相まって、まだまだ未熟な俺は、何年経ってもこの人の仮の姿に騙されそうになる。

「にしても、さっきすれ違ったあのお客さん……意外とあったなぁ。最近はDが増えたもんだねぇ」

 そうだ。この人は、目視だけでバストサイズを計る好色家の変態クソ野郎だ。

 悪い人ではないものの、百害あって一利なしとはまさに轟さんのことなので、陳列棚に隠れきれていない人を強めに呼んだ。

「店長、店長。早く来てください」

 バックヤードに入る前という、まるで図っていたかのようなタイミングで来店したんだから、とっくに気付いてるだろうに。こっちが呼ばなければそのまま隠れている気だったに違いない。

「店長、店長、店長っ」

 何度読んでも応答がなかったため、仕方なく、隠れてるつもりでいる場所まで行くと。だらだらと冷や汗を流す店長が呼吸を止めて立っていた。

 店長の足元には中くらいの池が出来ていた。

 ここはとくにポリッシャーを念入りにかけよう。

「店長、息止めたって存在消せないですから。呼吸してください。死にますよ」

「……ハアッッ!! ハアハアハアハアハアッ」

「ほら、轟さん待ってますから。行きましょう」

 まだ荒い呼吸を繰り返す店長の背中をさすりながら、レジの前で待つ轟さんのところに一緒に向かった。

 店長はヘタレなわけじゃない。

 基本的には仕事でも家でも頼りになる人だし、お人好しで優しいから、町の人からも好かれてる。ただ、ちょっと気が小さくて、恐がりなだけだ。

「轟さん、お待たせしました」

 轟さんに店長を差し出すと、さっきよりも轟さんの笑みが深くなった。

 相変わらず張り付いた微笑みではあるが、邪気の無い、赤子のようなイノセントスマイルを店長に向けている。

「ブッチャー、久しぶりだね。僕がいない一週間はどうだった?」

「……えっと」

 天国だなぁ。って、言ってたな。店長。

「そっか。そんなに長く感じたんだ。悪かったね。仕事の関係でどうしても会社に出向く必要があったんだよ。僕は嫌だと言ったんだよ? でも先方がどうしてもって譲らなくてね。でも今年はもう行く必要はないから安心していいよ」

「……そんなぁ」

 いつ聞いても、二人の会話は噛み合わない。

「そうそう。ブッチャーにお土産持ってきたんだよ。大したものではないんだけどね。はい、これ」

 そう言って、轟さんは着物の袂からお土産を取り出した。

 店長の後ろからそっと、お土産の正体を確認すると、

「うっぎゃあっ!!」

 確認する前に、店長の悲鳴とともに轟さんのお土産が床にふわっと落ちた。

 ふわっと着地したそれは、真っ白なブラジャーだった。

「ひどいなぁ。人がせっかく買ってきたお土産を床に落とすなんて」

 轟さんは床に落ちた真っ白なブラジャーを拾って、もう一度、店長に差し出した。

 当然ながら、店長が〝ありがとう〟と言って素直に受け取るはずもなく、顔を真っ赤にしてパニくっている。

「なにっ、これっ、どうしたのっ!? これ、僕必要ないよっ! いらないよっ! 早くしまってよっ!」

「ブッチャー、慌てる必要はないよ。これはね、男性用のブラジャーなんだ。ブッチャーもそろそろいい歳だしね。そもそもブッチャーはC寄りのBカップなんだから、ブラジャーをしていたっておかしくないんだよ?」

「おかしいよっ!」

 おかしいだろ。変態だよ。

 それよりも、父親がC寄りのBなんて知りたくなかった……。

「ブラジャーをつけるとね、母親の愛情を思い出す人が多いらしいんだよ。母親のような安心感がブラジャーにはあるみたいなんだ。利用者は主に30代から50代が多いって、ショップの人が言ってたよ。これはもう、タイミング的にもブッチャーにぴったりだと思ってね。大切な幼馴染である君のために、僕は恥を忍んで買ってきたというわけさ」

 嘘だ。むしろノリノリだったに違いない。

「……そうなの?」

 でも、子どものように心が真っ白な店長は、すぐに洗脳される。

 あの顔はもう、轟さんの術中にはまってしまっている顔だ。

「あの……店長、」

 轟さんが店長で遊ぶのは一向に構わないが、自分の父親がブラジャーをつけることは息子的に阻止したい。阻止しなければならない。

 おじさんのTシャツから薄っすら透けて見えるブラジャーなんて誰得だよ。

 それを見て喜ぶ変態なんて、一人しかいない。

「あらー? 轟さん帰ってきてたんですか?」

 タイミング……。

「あぁ、マリアさん。こんにちは」

 店のドアの前には、出勤してきたばかりのマリアさんが立っていた。

 なんか、いつもこうだ。また、いつもと同じパターンだ。

 轟さんは、全ての行動を逆算して行っているのだろうか。そうでなければ、よほど神から寵愛されているに違いない。

 いつだって、神は轟さんに味方する。対して、いつだって神は店長に味方しない。

「……純之介さん、それ、何持ってるの?」

 いつの間にか、轟さんは雑誌コーナーに移動していて、店長とマリアさんが向かい合う形になっていた。

 店長に声をかけたマリアさんの顔には、さっきまであったはずの笑顔がもう無い。

「ねえ、何持ってるの?」

 いつもの高くて明るい声の温度も下がり、抑揚も無くなっていく。

 どうしてこういうときに限ってお客さんが来ないのだろう。

 店内には、何事もなかったかのように雑誌を立ち読みする無責任な轟さんと、前出しとフェイスアップを行う春江さんと夏江さん。そして、ポリッシャーを早くかけたい俺と、向かい合った一組の夫婦しかいない。

 それも、ただ向かい合っている夫婦じゃない。真っ白なBカップのブラジャーを持った夫と、その夫を見つめる妻だ。

 誰が見てもマリアさんの中で何らかの誤解が生じていることはわかるはずなのに、まだ轟さんの術中にはまってる店長だけはマリアさんの誤解に気付いていなかった。

「これはね、男性用のブラジャーだよ」

 そう。轟さんから東京土産にたった今もらった男性用のブラジャー。

「あのね、男性用のブラジャーにリボンなんてついてるはずないでしょう? もっとマシな言い訳言えねえのか?」

「「!?」」

 リボン!?

 マリアさんの言葉に震撼したのは店長だけじゃない。二人を真横で見ていた俺もだ。

 ブラジャーをもう一度よく見ると、マリアさんが言ったように、胸の谷間のところに小さなピンクのリボンがワンポイントでついていた。

 そこで、俺は店長よりも先に気付いた。

 これは男性用のブラジャーじゃないということに。

「……えっ、えっ、なんで、だって、これっ」

 店長はその事実にまだ気付いていないようだった。

 男性用のブラジャーがあるという話は俺も聞いたことがある。でも、轟さんが買ってきたのは男性用のものではなく、本当は女性用のだったんだ。

 買い間違いでもなんでもなく、きっと、初めからこうなることを想定して……。

「それ、何カップ?」

「えっ、えっ?」

「何カップかって聞いてんだよ」

「び、Bカップです」

 とうとう口調が変わってしまったマリアさんに、店長は馬鹿正直にサイズを答えた。

 もう、だめだ……。

 ブラジャーのサイズを聞いた途端、マリアさんの切れ長の目が完全に据わってしまった。

「……Bぃだぁ~? 純之介、お前、言ったよなぁ? 僕はスレンダーな人が好きだって、付き合ってるとき言ってたよなぁ? おい」

「は、はい。いいいいいい言いましたっ」

 マリアさんは店長の首元めがけて掴みかかる。

 細い腕のどこにあんな力があるのか、いつも不思議だ。

「だったら何でBカップのブラジャー持ってんだよっ! 出産前も出産後もAカップのあたしへの当てつけか!? おいっ、なんとか言えっつーのっ!」

 どうやら、マリアさんの中ではAカップ以上はスレンダーじゃないらしい。

 そして、マリアさんにとっては、店長が持ってるブラジャーが誰のブラジャーなのかではなく、ブラジャーのサイズがAより上であったことが気に食わなかったようだ。

「……」

「おいっ、純之介っ、寝てんなっ!」

 マリアさんに揺さぶられてるせいで、店長の首が何度もガクガク前後していて脳震とうを起こさないか心配だったけど、店長はもう失神していた。

 多分、本当の失神ではないんだろうけど、立場が悪くなると意識を失うというトリッキーな特異体質は、人の良い店長に天が授けたんだと思う。

 店長の人の良さにはこれくらい姑息な体質があるくらいがちょうどいいんだ。

「純之介っ、おい、起きろっつーの!」

 店長が失神しても、今日のマリアさんはなかなか元に戻らない。

 よほどBカップが許せなかったんだろう。

 資産家の一人娘として生まれたマリアさんは、それはそれは甘やかされて育ったらしい。欲しいものは全て手に入る環境で、自分の思い通りにならないことはないと本気で思っていた時期もあったらしい。

 そのおかげで、中学から高校までは親が手を付けられないほどハードな反抗期があったらしく、バイクを乗りまわし、悪い仲間とつるんでは、たくさんの人に迷惑をかけたと、ひどく後悔した顔で話してくれたことがある。

 何度も家出を繰り返しているときに店長とすみればあちゃんに出会って、二人の優しさに触れて、改心し、今に至るのだそうだ。

「おいっ、こらっ、純之介っ、起きろっ!」

 マリアさんの方が、店長を好きで好きで、押しかける形で結婚まで持ち込んだということもあり、自信のなさからなのか、マリアさんは本当に嫉妬深い。

 店長が女性に接客してるのだって良く思ってないのに、自分よりも若くて綺麗な女性を店長が接客した日には、もう、手が付けられない。

 女性が絡むことだけでなく、自分への愛情の薄さを感じると、今みたいに、改心する前のマリアさんに豹変してしまう。

 店の中でこうなると、もう、仕事にならない。

「……轟さん」

「うん? なに?」

 事の発端であるくせに、まるで他人事のように一番右側にある成人コーナーの雑誌を読み込んでいる轟さん。

「最後まで責任もって遊んでください」

 遊ぶなとは言わない。そんなこと、この人には無意味な言葉だ。

 ただ、最後まで責任をもって遊んでほしい。毎回後処理に困る。

 お客さんが来ないからまだいいものの……。

「……うーん。そうだなぁ……考えておくよ」

 熟考した素振りを見せるだけで、答えはいつも保留だ。

 わかっていたけど……。

 そこへ、やっと来店を知らせる音が鳴った。

 反射的に出入り口に視線を移すと、

「こんにちはー! あれっ、マリアさんと店長、プロレスごっこですかー?」

 底抜けに明るい高い声で、テンション高く、マリアさんと店長を見下ろす女子高生、西がいた。

「あれっ? 純平先輩も、轟さんも、春江さんと夏江さんも、勢揃いだっ!」

 小さい体でぴょんぴょん跳ねる西。本名――西茜は、高校の二年間だけアルバイトとして店に入ってくれていた元スタッフ。

 三年になった今年、受験勉強に専念するためにバイトを辞めたものの、今は常連客としてほぼ毎日のように店に顔を出しにくる。

「あっ! 純平先輩、注文してた〝ジャンプ!〟ってもう来てますよね? そろそろかなって思って寄ってみました!」

 ちなみに、西は俺の高校の後輩でもある。

「届いてるよ。それよりお前学校は?」

「午前で終わりだったんですよー! ダッシュでバス乗って、帰ってきましたー」

「そうか。ちょっと待ってて」

 いまだにプロレスごっこ(にも見える)をしている店長とマリアさんを通り過ぎて、レジカウンターの中に入った。

 予約本の棚からジャンプ!の入った袋を取り出して、西に確認してもらう。

「四月号、間違いないな?」

「はいっ! 待ってましたー!」

 今月号のジャンプ!を見て、大きな目をキラキラと輝かせる西。

 ジャンプ!と聞くと、あの有名な週刊少年誌を思い浮かべる人間が大多数だろうが、西がわざわざ毎月注文しているジャンプ!は、あの少年誌ではない。

「先月号の背を伸ばす簡単ストレッチ法が全然効果なかったのでがっかりしてたんですよねー……」

 西が愛読しているジャンプ!は、低身長で悩んでいる人のためのハウツー本だ。

「で、今月号の特集は?」

「今月号はー、〝身長を伸ばすために意識したい法則〟です!」

「どうせ、姿勢や睡眠の類だろう」

「えー違いますよー! もっとアッと驚くような法則に決まってます! だって、1080円ですよ!?」

 ブンブン頭を振って俺の予想を否定するが、その1080円の内容にいつも騙されているのは誰だ。

 西は高校三年にして身長144cmというミニマムサイズなのだが、何の神様のイタズラか、足のサイズが25cmという低身長には似つかわしくないビックフットであることから、いつか身長が伸びると本人は盲信している。

 西はやってくるかわからない(多分やってこない)成長期に備えて、独自に色々なサポートをしているが、効果があった試しはない。

 ただし、本人はいたって本気であって、小遣いもバイトをしていた時のバイト代も全て、コンプレックス解消のためにつぎ込んでいた。

 ちなみに、今西がはいているローファーも、バイト代で買った一番かかとの高いローファーだ。西はさらに靴の高さを増すために、ローファーの中敷きの下に色々なものを入れている。

 日によって変わるから中敷きの下に何が入っているかは不明だが、以前何かの拍子に西が転んでローファーが脱げた時、フリスクーのケースとレオブロックが転がってきたことは覚えている。

 とりあえず、ちょっとやそっとじゃ割れない固いものを入れてることは間違いない。

「あれっ、そういえば今日は正雄さんいない感じですね。休みですか?」

「あぁ。すみればあちゃんの一周忌もあって連勤してもらってたからさ。正雄さんと昭代さんには休みとってもらったんだ」

「そうだったんですか。だから今日はお店の空気が清々しいんですねー!」

 正雄さんが休みだとわかると、西はあからさまに嬉しそうな顔をして、しまいには軽くはしゃぎ始める。

 正雄さんと西は仲が悪いわけじゃない。

 正雄さんは幼女から老女まで女性とみればホスト対応だし、轟さんのようにからかって遊んだりもしない。

 それなのに、正雄さんが西の反感を買った理由は……。

「あっれ~、店長とマリアサン、プロレスごっこですか? 相変わらず仲良しですね。妬けちゃうなぁ」

 来店を知らせる音とともにやって来たのは、今日は休みのはずの正雄さんだった。

 噂をすればなんとやら。

 レジカウンターの前に立つ西が、隠すことなく「げぇっ」という声を出す。

「正雄さん、どうしたんですか? 今日、休みですよ」

「うん。そうなんだけどさ~、なんかじっとしてらんなくて、昼メシ買うついでに様子見にきちゃったのよ~。ほら、オレってバイトリーダーじゃん?」

「……あ、はい。そうですよね。ありがとうございます」

 自分で言っておいて、一体何がありがたいのかもよくわからなかった。

 多分、これ以上話を広げたくなかったんだと思う。

「あっれ~? にしにしチャンもいるじゃん。轟さんも。春江さんと夏江さんもいるし~。なにこのゴールデンメンバー。アガるわ~」

 ゴールデンメンバー?

 このカオスっぷり見て何言ってんだこの金髪ハーフは。

 げんなりした顔を隠すことなく正雄さんに向けるものの、何の効果もない。

 ジャンプ!のハウツーくらい効果がない。

「正雄さんっ、いい加減その呼び方止めて下さいっ!」

 正雄さんの登場でさらにぐったりした俺の前で、次は西が声を上げた。

「え~? にしにしチャン、何で怒ってんの? お菓子買ってあげるから落ち着きなって~」

「だからー、その、〝にしにしチャン〟っていうのが嫌なんですっ! 私の名前は西茜ですっ!」

 始まったよ……。

 正雄さんが西の反感を買った理由は、名前の呼び方だ。

 西がバイトを始めることとなった初日。西のネームプレートを見た正雄さんが、西の名前である〝茜〟という文字を〝西〟と見間違ったことが事の始まりだった。

 その後、西は何度も「茜です!」と訂正していたのだが、正雄さんの一度覚えた女性の顔と名前は忘れないという性質のいらない正確さによって、正雄さんの中で西は、西茜ではなく西西としてインプットされてしまった。

 西が西西ではなく西茜という事実はかろうじて認識出来てはいるものの、口にするときにはもう「にしにし」になってしまうらしい。

 正直、ここ数年の中で一番どうでもいい。

「純之介っ、おいってめっ、起きろっつーの! いつまで寝てんだよっ!」

「……」

「にしにしチャンさ~、あんまりピリピリすんなって~。最高にキュートな顔が台無しだよ? 細かいことは気にしない気にしないっ。ねっ」

「細かいことなんかじゃないですー! 私の名前は、あ・か・ね、ですっ!」

「「オーナー、前出しとフェイスアップ終わりました」」

「あぁ、そうそう純平くん。予約してた潮干狩りの魔術師の増刊号、もう届いてるよね?」

 すみればあちゃん。

 俺にはやっぱ無理だと思う。いや、無理だ。

 オーナーに向いてる向いてない以前に、この人たちをまとめる自信がない。

 もう、とりあえず。早く俺にポリッシャーをかけさせてくれ……。