この日、真山凜太郎は本当についていなかった。

「ついてないな……」

 ため息交じりにうっかりそう呟いてしまうほど、朝から細々と悪いことが続いた。

 目覚まし時計は午前四時四十四分で止まり、アラームが鳴らなかったせいで朝寝坊。食事もそこそこに家を出れば、自転車のタイヤがパンクしていたおかげで、乗り慣れない満員電車で通学するはめとなった。慌ただしい朝に弁当を忘れ、昼食は購買のパン一個。放課後は、急に開かれたクラス委員の代表会に参加させられ、会はずるずると長引き、下校時刻を過ぎて帰宅することになった。

 ひとつひとつは小さな出来事だけれど、それらが束になってかかれば、凜太郎を落ち込ませるだけの威力はある。

 極めつけは、行く手にできた大きな穴。『迂回路にご協力ください』と、工事現場の立て看板の中、黄色いヘルメットを頭に被ったキャラクターが、申し訳なさそうに頭を下げている。駅までの近道を行くはずが、回り回って、ずいぶんと遠回りになってしまった。

 都心から少し離れた穏やかな街の風景は今、夕焼けの橙色に染まっていく。

 高校に入学して二年目の初夏、あまりの暑さに衣替えが前倒しされ、カッターシャツにネクタイ、夏用のグレンチェックのズボン……。軽装だった凜太郎は、急に肌寒さを感じてぶるっと身震いする。学校からさほど遠くない、住宅街の中にある神社の石段の前だった。風が吹くと、神社の境内を覆い隠すように広く伸びた木々の枝が、ざわざわと音を立てて揺れた。

「お……い…………おねが……い……」

 急傾斜の石段を見上げていた凜太郎は、誰かに呼ばれた気がして声のした方を向く。それまでたいして気にしていなかったが、神社のそばの交差点の隅にはお地蔵さんが設置されている。そのお地蔵さんの前に、白い服を着た少女が立っていた。

 ゆっくりと歩き出した凜太郎は、警戒しながらお地蔵さんのそばを通り抜ける。

 少女は、どことも言えない場所を見て何かぶつぶつと呟いている。それが幽霊だとすぐに気づけなかったのは、凜太郎が常日頃から幽霊を見ていたからだ。

 凜太郎の目には、人間も幽霊もほとんど変わらずに見えている。ただ、近くで見れば身体が透けていたり、ぞっとする冷気を感じたりする。目の前の少女は、よく見れば薄らと透けているし、幽霊特有の白装束を着て、頭に三角の天冠をつけている。

 こういうのは、関わらない方がいい。と、そう思った瞬間に、振り向いた少女の幽霊と凜太郎の目が合う。咄嗟に顔を逸らして逃げ出そうとしたが、背を向けた凜太郎の腕に、縋るように少女の幽霊がしがみつく。

「お願い、行かないで! 助けて!」

「うわあっ! 何? 待って!」

 少女の幽霊は、潤んだ瞳で凜太郎を見つめる。

「誰かがお地蔵さんに悪戯して、こんなに真っ赤にしちゃったの!」

 ただたんについていない、というだけのはずが、幽霊にまで憑かれてしまった。振り払おうとしても、蛇のように巻きついてとれそうにない。

「ねえ、あなた、名前は?」

「え? ええっと、真山凜太郎……です」

 うっかり真面目に返事をしてしまった後で、凜太郎は「しまった」と顔を顰める。

「凜太郎ね。ここで会ったのも何かの縁ってことで、そこに座って」

「いや、そんな暇ないんだけど」

「そう言わずに、座った座った!」

 強制的に路肩に座らされた凜太郎は、胡坐をかき、呆れたような顔をして頬杖をつく。すると、ステージに上がったモデルのようなポーズを取った少女の幽霊が言う。

「遅れてやって来た、ホラー界のヒロイン! 今世紀最恐の幽霊、霊子先輩だよっ!」

 マニアックなキャラ作りで迷走中のオタク系アイドルのような、理解不能な自己紹介をしたその幽霊の名前は、霊子先輩というらしい。ぱっちりした目に幼さの残る顔立ちをした、高校生くらいの可愛らしい少女の幽霊だ。肌は青白く、瞳の色も薄い水色、引きずるほど伸びた長い髪は銀色をしている。

「というわけで、私のことは、霊子先輩って呼んでね」

 霊子先輩を前にした凜太郎は、ぽかんと口を開けたままだ。

「こんな人、いや、こんな幽霊、先輩って呼ぶの嫌だなー……」

「でも、私、サダコやカヤコが初めて上映されるよりも前に死んで幽霊になったんだから、私の方が先輩でしょ?」

「サダコとカヤコっていったら、ちょっと前にも映画やってたよ。でも、それより前ってことは、ええっと、二十年くらい前?」

「そうなの、たぶん、それくらい……っていっても、よく覚えてないんだけどね」

「覚えてないって、何だよそれ」

 呆れる凜太郎を前に、霊子先輩はぺろっと舌を出して笑ってみせる。

「幽霊になる前も、なった後も、何だか記憶がぼんやりしてて。だけど、名前は霊子だって思ったから、勝手にそう名乗ってるの。幽霊の霊に、子供の子、だよ。よろしくね」

「そっか、わかったよ。それじゃあ、僕は帰るね」

「……ちょっと待って! 肝心の本題はこれからだよ!」

 霊子先輩は、お地蔵さんを指差して話を続ける。

「最近、お地蔵さんに悪戯をする人がいて、そのせいでみんなが寄りつかなくなって、怖がらせる相手がいなくなって困っているの」

 確かに、お地蔵さんは血の涙を流したように、目も、頬も、赤く染まっている。

「それ、自分でやったんじゃないんだ?」

「最恐の幽霊の私が、こんな子供の悪戯みたいなのするはずないじゃない」

 霊子先輩は自らを『最恐』だと言い張るが、神社の周辺で「幽霊が出る」という噂は聞いたことがなかった。そんな噂を耳にしていたなら、幽霊を避けたい凜太郎は、この神社の前を通ったりしない。

「先輩、それ、本当? 最恐って、大袈裟に言ってるんじゃない?」

 凜太郎は、疑惑の目を霊子先輩に向けた。そのとき、どこからか泣き声が聞こえてくる。血の涙を流したお地蔵さんが、嘆き悲しんでいるのか。「みゃー……みゃー……」と、赤子が泣くような声がした。

「こういう演出ができるってこと、先輩?」

「ううん、私じゃないよ」

 途端に霊子先輩が、凜太郎の背に隠れる。ふたり揃って、声のする方をじっと注視した。すると、お地蔵さんの裏から一匹の子猫が出てくる。広げた両手の上に乗るくらいの、小さな三毛猫だ。子猫は、「みゃー」とひと鳴きし、神社の方へ駆けていった。

 沈黙の後、徐に立ち上がった凜太郎は、納得した顔をして大きく頷く。

「お地蔵さんの前にいたのは、マヌケな幽霊だった。はい、完結」

 その場を離れようとする凜太郎を、霊子先輩が慌てて引き止める。

「そんなこと言われて、このまま帰すわけにはいかないんだから!」

 ふっと姿を消したかと思うと、今度は凜太郎の正面に現れた霊子先輩が、びしっと凜太郎を指差し、声高らかに宣言する。

「凜太郎を驚かせて、怖がらせて、私が最恐だってところを証明してあげる!」

「これまで何度か幽霊に関わったせいで厄介なことに巻き込まれているから、嫌だよ。時間もないし。ベタなホラーみたいな面白くないヤツをやったら、怒るよ」

 それまでの雰囲気とは打って変わって、俯き加減に上目遣い、目には表情がないのに口角を上げ、ちぐはぐな笑顔を見せる凜太郎。こっちの方が、霊子先輩より怖い。

「でっ、出直してきますっ!」

 びくりと震えて後退りを始めた霊子先輩は、瞬く間に姿を消す。

 先程まで感じていた冷気は和らぎ、幽霊の気配がなくなると、胸を撫で下ろした凜太郎は帰路につく。

 けれども、安心するのはまだ早い。これは、ついていない一日が生んだ、憑いている日々の始まりにしか過ぎなかった。


 都心まで続く線路が開通し、新しくできた駅周辺、まだ真新しい街の一画。その中にある、西欧風の戸建ての家が真山家だ。

 誰もいないリビングの灯りをつけた凜太郎は、カーテンを閉めようと窓辺に歩み寄る。窓は閉まっているのに、冷気を帯びた風が凜太郎のそばをすっと通り抜ける。

 幽霊の気配に気づいた凜太郎は、急に白けた目をする。

 案の定、薄らと透けるレースのカーテンの向こう、窓ガラスに人影が貼りついていた。頬をペタッとくっつけ、恨めしそうな顔で凜太郎を見ているのは霊子先輩だ。それに気づいたが、凜太郎は何も言わずに遮光カーテンを閉める。

 幽霊は、見なかったことにするに限る。

 何事もなかったようにキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、蓋を開けて飲もうとした。そのとき、リビングのテレビの電源が入る。まるで、ベタなホラーのワンシーンだ。そう指摘しようか凜太郎が迷っていると、テレビの前にふっと姿を現した霊子先輩が、顎に手を添えて思わず唸る。

「うーむ。最近のテレビはこんなにスリムになっちゃって」

「テレビなんて結構前から薄かったよ? 先輩、知らないんだ?」

「見たことはあるんだけど、いろいろ考える前に、忘れちゃった」

「何その適当な感じ。忘れるって、どういうこと?」

「興味ないことなんて、いちいち覚えてられないの。それにしても、これじゃあテレビの中に入るのは大変そう。人を驚かせるのも一苦労だね」

 おかしなことを言ってみせる霊子先輩に、凜太郎の目は点だ。

「いや、待って、今、何か間違ったことを聞いた気がするんだけど、テレビの中に入るって、どういうこと?」

「えっ? ほら、画面からにゅーっと出てくるでしょ?」

「それって別に、テレビの中に入って待機してるわけじゃないと思うよ」

「んんっ? 待ってね、凜太郎にわかりやすいように実践してみるね」

 テレビの裏側に回り込んだ霊子先輩が、画面をすり抜けて姿を現す。

「それ、画面の中から出てきたんじゃなくて、通り抜けてるだけだよね?」

 凜太郎の言うとおり、霊子先輩は四つん這いの態勢で、上半身だけをテレビの表側に出しているだけだ。どう見ても、テレビの中から出てきたとは言い難い。

「だって、テレビの中に入れないから、こうするしかないでしょ?」

「その頑張りは認めるよ。でも、やっぱり間違ってると思うんだ」

 霊子先輩の様子に呆れ果てていると、玄関の方から扉の開く音がする。

 警戒した霊子先輩が、その場からふっと姿を消す。

「ただいまー。凜太郎、帰ってるの?」

 帰宅したのは、凜太郎の母と妹のゆかりだ。

「ゆっくり買い物してたら遅くなっちゃった。すぐに夕飯の仕度するわね」

 リビングを抜けてダイニングまで来た母は、凜太郎を見てはっとした顔をする。

「そういえば今日、お弁当忘れたでしょ? 珍しいわね、凜太郎が忘れ物なんて」

「ああ、うん。まあ……」

 誤魔化し笑いをした凜太郎は、飲みかけのペットボトルを手にキッチンを後にする。

「お母さん、テレビ、何か変じゃない?」

 リビングのテレビの前で、リモコンを手にしたゆかりが訝しげな顔をしている。どきりとした凜太郎は、足早に廊下へ出て階段を上った。

 部屋に戻った凜太郎は、すぐに霊子先輩の気配を察知した。そうでなくても、クローゼットの中からがさがさと音が聞こえ、おまけに笑い声まで漏れている。

「先輩、クローゼットは開けないよ」

 凜太郎が指摘すると、中から声が聞こえてくる。

「開けてよ!」

「いや、開けないよ」

 クローゼットを勢いよく開けた霊子先輩が、外へ飛び出す。

「開けてってば!」

「……嫌だよ」

 凜太郎が拒否し続けると、霊子先輩は地団太を踏んだ。頬を膨らませ、幼い子供のようだ。すっかり拗ねてしまった霊子先輩を放置し、席に着いた凜太郎はバッグの中から教科書とノートを取り出し、課題を始める。

「ねえねえ、凜太郎? 聞こえてるよね? 凜太郎?」

 背後に現れた霊子先輩が肩を叩いても、凜太郎は表情ひとつ変えずに黙々と問題を解いていく。かまってもらえないとわかると、霊子先輩は机をすり抜けて凜太郎の正面に立ち、顔を覗き込んだ。

「凜太郎、それ、宿題?」

「ごめん、先輩、勉強が終わるまで待って」

 目の前にいても、視線が合わない。凜太郎は真剣だ。

 さすがに悪いと思ったのか、机から離れた霊子先輩はベッドの上に移動する。ごろごろと寝転がったりして、退屈そうだった。それに気を取られることなく、凜太郎は課題を終えると、今度は本棚から手に取った問題集を広げる。

「ねえ、凜太郎って、がり勉なの?」

「がり勉? どこが?」

「そんなに真剣なのって、勉強好きだからでしょ?」

「好きじゃないよ」

「でも、さっきから勉強ばっかり」

「……ふーん」

 質問に答えたかと思えば、急に空返事。真剣になり過ぎて前のめりになっていた凜太郎は、シャーペンの頭に額をぶつけてはっと我に返る。

「びっくりした。シャーペンだった」

「そんなに? そこまでして賢くなりたいなら、予備校に通えばいいんじゃないの?」

「予備校に行かなくても自分でできるから、いいんだ」

「それって、頭いいってこと?」

「いや、そんなによくないんだ。だからさ、できないから、たくさん勉強してできるようにしたいんだよ」

 両手を高く上げて背中を伸ばした凜太郎は、一息つくとすぐにシャーペンを取る。

「凜太郎って、真面目だね」

「まあ、予備校に行きたくない理由は他にもあるんだけどさ」

「それで、勉強はいつ終わるの?」

 返事がなくなった頃には、凜太郎は霊子先輩を待たせていることをすっかり忘れてしまっていた。


 風呂から上がり、家族で夕飯をすませて部屋に戻った凜太郎は、ベッドの下から飛び出している長い髪に気づく。霊子先輩は、まだ見つかっていないと思っているのか、いつまで経っても出てこない。霊子先輩を放置して、凜太郎はベッドに横になる。

「霊子先輩、デリケートな話だから質問しづらいんだけど、聞いてもいい?」

 凜太郎は、霊子先輩に問いかける。

「先輩が幽霊の姿でいるのは、もう死んでるってことなんだよね? やっぱり、あの交差点で? 事故? どうして亡くなったの?」

 それに対して考え込んでいるのか、ベッドの下から唸り声が聞こえてくる。

「うーん、それもね、よく覚えてなくて。私、どうして死んじゃったんだろう?」

 霊子先輩が覚えていることは少ないようだ。

「生前、どこに住んでいたとか、どんな人だったとか、家族は?」

「その辺はさっぱり。気がついたらこの真っ白な格好で、あの交差点にいたの。どれくらいそこにいたかわからないけど、いつの間にかお地蔵さんができて……」

「生前だけじゃなくて、死後のことも覚えてないの?」

「霊子って名前のこととか、強烈に覚えてることもあるんだけどね。あとは、時々、ぽつん、ぽつんと思い出す感じかな」

「幽霊も記憶喪失になるんだ?」

「わからないけど、よく見かける人だったり、興味のあることだったり、そういうのは覚えてるよ。サダコは、近所の家を覗き込んだときにテレビで見た……のかな?」

 はっきりしないことばかりで、そのうち霊子先輩は黙り込んでしまう。根気よく霊子先輩の言葉を待っても、一向に返事はない。心配になった凜太郎は、起き上がってベッドの下を覗き込む。

「……霊子先輩?」

 霊子先輩は、ベッドの下で爆睡だ。

「疲れて寝落ちするまで驚かせるのに必死なんて、根性あるな」

 くすりと笑った凜太郎は、霊子先輩にそっと話しかける。

「先輩、風邪ひくよ……って、幽霊だから風邪なんてひかないのかな?」

 凜太郎は、手にした毛布をベッドの下へ押し込み、霊子先輩の肩に掛ける。

 けれども、霊子先輩は幽霊だ。毛布が身体をすり抜け、ぱさっと床に落ちてしまう。

 しかたなく、霊子先輩の横に畳んだ毛布を置いた。凜太郎は机の上のペンを手に取り、破いたノートの切れ端に『御供え』と書くと、それを毛布の上に乗せ、祈るように手を合わせた。



 翌朝、霊子先輩が目を覚ましたときには、すでに凜太郎は登校した後だった。

「狭いっ! 何? 私、どうなってるの? ここ、どこ?」

 あたふたする霊子先輩は、目の前に置かれた毛布と凜太郎の書いたメモを見つけると、状況を察して落ち着きを取り戻す。

「そっか、ここ、凜太郎の部屋だ」

 霊子先輩は、ベッドの下から出て一息つく。

「居心地よくってうっかり寝ちゃった」

 部屋の中をぐるりと見回すと、制服を掛けていた壁掛けにはハンガーだけが残っていた。凜太郎が使っていたスクールバッグも見当たらない。

「凜太郎は、学校かあ……」

 顎に手を添えて首を傾げ、小さく唸り声を上げた。霊子先輩は何か閃いたのか、にやりと笑みを浮かべ、凜太郎の部屋からふっと姿を消す。幽霊お得意の瞬間移動だ。好きなところで消えたり出たり、空も軽々飛んで、次に姿を現したのは、凜太郎と初めて会ったあのお地蔵さんの前だった。

「……昨日はここを通ってたから、この近くの学校なのかな?」

 辺りを見回した霊子先輩は、凜太郎と同じ制服を着た生徒が交差点を渡ってくるのを見つけると、こっそりと後をつける。登校時間の真っ直中だ。駅の方からも生徒達が続々と歩いてきていた。

 生徒達に紛れた霊子先輩は、学校の前まで来るとふっと姿を消し、校舎の上まで移動する。たった今、校門の脇にある駐輪場から出てきた凜太郎が、正面玄関へ向かって歩いていくのが見えた。

「いたいた! 凜太郎、はっけーんっ!」

 凜太郎を見つけた霊子先輩は、両手で筒を作り、望遠鏡を覗くような仕草をする。すると、自転車の間をするりと抜けてきた黒猫が目に留まる。

「あっ、猫いた」

 凜太郎を見ていたはずが、いつの間にか猫を目で追っていた。猫が草むらに姿を消すと、霊子先輩は校舎の中へ入っていった凜太郎を追う。



 教室の並ぶ南校舎、各階の中央にある掲示板に、一学期中間テストの順位が張り出されていた。結果を見る生徒達の反応はさまざまだ。

 順位表の一番上には、凜太郎の名前が書かれている。

 掲示板の前で順位を確認した凜太郎は、何食わぬ顔でその場を後にする。すると、見知らぬ女子生徒が遠慮がちに声を掛ける。

「真山くん、おはよ」

 それに対して凜太郎は、はにかみながら返事をする。

「……おはよう」

 洗練された雰囲気で一見近寄りがたいが、愛嬌のある中性的な顔立ちで、性格も穏やか。そんな凜太郎に、憧れや好意を抱く生徒もたくさんいた。

「凜太郎、一時間目、体育だぞ」

「ああ、和正、うん、わかったよ」

 呼ばれて返事をした凜太郎は、行き交う生徒達の間をすり抜け、颯爽と歩いていく。


 始業のチャイムが鳴ると、コートにネットを張り終えた生徒達は、各々にバレーの練習を始める。凜太郎はといえば、レシーブで上げたボールをバスケットゴールに入れてみたり、余裕綽々。勉強だけでなく、スポーツもお手の物だ。

 不意に、手から落ちたボールがころころと転がり出す。凜太郎は、ボールを追いかけてコートを横切る。

「おい、真山! どこまで行くんだ!」

 体育教師に呼び止められ、振り向いた凜太郎は誤魔化し笑いをしながら首を傾げて、そのまま体育館から外へ出た。

 通路を転がったボールがぴたりと止まる。顔を上げた凜太郎は、小さくため息を吐く。

「やっぱり。先輩の仕業か」

 ボールを拾い上げた霊子先輩が、不服そうな顔で凜太郎を見る。

「がり勉キャラだから、てっきり運動音痴なのかと思ってたのに」

「がり勉? 誰が?」

「凜太郎だよ。がり勉で運動神経もよくて、かっこよくてモテるなんて。凜太郎の弱点を探そうと思ってたのに、何にも見つからないの。ねえ、どうして?」

 霊子先輩が、凜太郎に詰め寄る。

「欠点がないなんて、そんなの、変だよ!」

 それを聞いた凜太郎は、「ははーっ」と、声を出して笑った。

「ああ、そうだね。変なんだよ、きっと」

 冗談で返した凜太郎だったが、不意に気が抜けると小さくため息を吐き、悲しそうな顔をした。

「……凜太郎?」

「ボール取りに来たんだった。授業に戻るよ」

 凜太郎はボールを拾い、体育館の中へ戻っていく。

「真山、遅いぞ! どこまで行ってたんだ?」

 体育教師に注意され、愛想笑いをして軽く頭を下げてコートに入る。試合形式で練習が始まると、凜太郎は慣れた感じで構えた。

 けれども、相手チームにバレー部の部員がいれば、いくら凜太郎だって敵わない。笛の音が聞こえた瞬間に、凜太郎の立っている位置すれすれのところへサーブが決まる。手も足も出せずにつっ立っていた凜太郎に向かって、どこからか野次が飛んだ。

「真山にも、できないことがあるんだ?」

「サッカーとバスケは得意らしいけど、バレーはあまり上手くないらしいよ」

 彼等は、事実を述べただけで、悪気がないのはわかっていた。それでも、俯いた凜太郎の顔色が変わる。


 その日の放課後、部活動が始まるよりも前に体育館に来ていた凜太郎は、バレー部の部員達を差し置いて練習に励んでいた。

 壁に向かってサーブを打ち込み、跳ね返ったボールをレシーブで上げる。何度も何度も、繰り返し、飽きることなく続ける。そんな凜太郎を、バレー部だけでなく、バスケ部や、バドミントン部、他の部活の生徒達も首を傾げて眺めていた。

 真剣に練習をしている凜太郎に、バレー部の主将が目を輝かせ声を掛けてくる。

「真山くん、バレー部に入部したくなったなら、ぜひ!」

「いえ、そういうわけじゃないんです」

 バレー部の主将の勧誘をきっぱり断る凜太郎の真意は、誰にもわからない。

 周囲の生徒から、凜太郎を不審がる声が上がり始める。

「あいつって頭いいけど、ちょっと変わってるもんな。いつも愛想よくしてるけど、人を寄せつけないっていうかさ」

「そうそう、壁を感じるんだよね。俺等とあいつは別次元の人間なんだって、そう言われてる気がするんだ」

 と、出入り口の脇で座り込んでいた三宅和正が立ち上がり、体育館の中を覗き込んで凜太郎に声を掛ける。

「凜太郎、もうそれくらいにしとけーっ!」

 すらっと背が高く、あっさりとした塩顔のその少年が和正だ。和正は、凜太郎を手招きするが、凜太郎は首を横に振って返事をする。

「もうちょっとだけ練習していくよ! 和正は、先に帰ってていいよ!」

「そっか? じゃあ、俺、帰るよ」

 凜太郎に背を向けた和正は、心配そうな顔をしてぽつりと呟く。

「変なんじゃなくて、負けたくないんだよな、凜太郎は……」

 和正のひとりごとを聞いた霊子先輩が、胸を手で押さえてしゅんと俯いていた。


 部活動も終わり生徒達が帰った後、ボールを片づけて体育館を後にした凜太郎は、今日もひとりで帰路につく。

 凜太郎の後を霊子先輩がつけてきていた。気配はするが、なかなか声を掛けてこない。凜太郎は、軽く振り向いて問いかける。

「霊子先輩、どうしたの?」

 凜太郎は、いつものような爽やかな笑顔を見せる。余裕があるように見えたが、頭から水を被ったように汗だくなのは、それだけ必死に練習していたということだ。

 凜太郎の正面に姿を現した霊子先輩は、申し訳なさそうに頭を下げる。

「……凜太郎、ごめんね。変だなんて言って」

「ん? 何のこと?」

「凜太郎が勉強も運動も何でもできるのは、それだけたくさん努力してるからなんだよね。凜太郎は、誰よりも頑張り屋さんなんだね」

 下を向いたまま目だけをきょろきょろさせ、霊子先輩は様子を窺う。すると、か細く頼りない声で凜太郎は言う。

「僕は……ひとりでも、頑張らないといけないんだ……」

 凜太郎は、眉尻を下げて困ったような顔をしていた。その顔を隠そうと、そっぽを向いて歩き出す。

「ひとりでいても生きていけるように、助けがなくても平気なように、強くならないといけないんだ」

 駐輪場から自転車を出して歩き、校門を抜ける。

「ひとりで、って。凜太郎、人が嫌いなの?」

「嫌いじゃないけど、苦手かな。そこそこ普通に、当たり障りなく接することはできるんだけど、友達とは呼べない人ばかり。親しくしてるのは、今は、和正だけかな」

「何か理由があるの? その……人が苦手になった理由」

「うん、わかってるよ、わかってるけど、言いたくない」

 いつの間にか、凜太郎は笑顔に戻っていたが、それは作り物の笑顔だ。眉も左右非対称で、右の頬が引き攣っている。

「言葉にすると、その事実が現実味を帯びて、余計に惨めになるから。だから、言いたくない」

 無理に笑おうとする凜太郎を見ていられず俯いた霊子先輩だったが、次に顔を上げたときにはあえてとびきりの笑顔を見せた。

「凜太郎は、頑なにみんなを避けてるのに私には普通に接してる……ってことは?」

「ってことは、何?」

「もしかして凜太郎、私のこと好き?」

 凜太郎は、堪えきれずに噴き出す。

「先輩は人間じゃないから、気を遣わなくてよくて楽なだけだよ」

「人間じゃないって、失礼しちゃう。永遠の十六歳の、こーんな可愛い女の子を捕まえておいて、犬や猫みたいな言いぐさはないでしょ!」

「永遠の十六歳って……」

 工事中の道を避けて神社の前を通過し、お地蔵さんのある交差点まで来た途端、お地蔵さんを指差した霊子先輩が大声で叫んだ。

「あ――――っ! また、悪戯されてる!」

 血の涙を流していたお地蔵さんが、いつの間にか頭から血を被ったように真っ赤になっていた。



 翌朝、凜太郎はお地蔵さんを綺麗に掃除してから学校へ向かった。

 残された霊子先輩は、張り込み担当だ。いつ、誰が、悪戯をするために現れるのか、ただひたすら待ち続けた。

 けれども、これといって変化がなければ飽きる。霊子先輩は、お地蔵さんの裏の木陰に座り込む。

「見張ってろって言われてもね」

 凜太郎がいなくなると、他に話し相手もおらず退屈なだけだ。足を伸ばしてパタパタさせ、両手を上げて背中を伸ばすと、そのままごろんと地面に転がった。そんな霊子先輩のもとへ、三毛柄の子猫が近寄ってくる。

「……あっ、猫だ」

 ごろんと寝返りを打ってうつ伏せになった霊子先輩は、子猫と睨めっこする。

「猫さん、今日は、いい天気だね」

 幽霊は、自由気まま。大きな口を開けてあくびなんかして、呑気なものだ。

「何だか眠くなってきちゃった」

 そのうち、うとうとと居眠りを始めた霊子先輩の意識が、ふっと途絶える。


 ――視界が灰色に染まる。霊子先輩は、いつものように神社のそばのお地蔵さんの前にいるつもりでいたが、よく見れば交差点にあるはずのお地蔵さんはない。その場所に、たくさんの花束や御供物が置かれていた。

 これは、失くした記憶の断片だ。

 交差点を渡ってきた紺のブレザー姿の学生達が、抱えていた花束を供えて手を合わせた。学生達は、涙を流しているのか、手の甲で何度も目元や頬の辺りを拭った。

 学生達が誰の死を悼んでいるのか気になった霊子先輩は、御供えのある場所を覗き込む。花だけでなく、お菓子やぬいぐるみ、手紙もたくさん供えられていた。手紙の宛名が見えそう……になったところでぴたりと動きが止まった。記憶は、ぐるぐると逆戻りし、再び同じ場所から再生される――。



 放課後、お地蔵さんの前まで来た凜太郎は、霊子先輩に話しかける。

「……霊子先輩!」

 しかし、返事はない。霊子先輩は、最初に出会ったときと同じようにお地蔵さんの前に突っ立って、何かぶつぶつ呟いていた。

「先輩? おーい、霊子先輩?」

 何度呼びかけても返事はない。目は虚ろで、顔に表情はなく、ただただ、ぼうっと立っているのだ。そのときの霊子先輩は、今までで一番『怖い』と、凜太郎は警戒したのだけれど、我に返った後は何事もなかったように話しかけてきた。

「凜太郎、おかえり」

「ああ、うん、ただいま」

 路肩に自転車を止めた凜太郎は、霊子先輩の様子を窺いながらゆっくりと近づき、そっと顔を覗き込む。

「先輩、ちゃんと見張りしてたんだよね?」

 きょとんとした顔をした霊子先輩は、首を傾げる。

「あれ? 私? 今まで何してたんだろ? 凜太郎と別れた後、日向ぼっこして、猫さんと遊んで、その後は……」

「見張ってるって、約束したのに。ほら、お地蔵さんが真っ赤だ」

「やだっ、本当だ、お地蔵さんが泣いてる!」

 綺麗に掃除しておいたはずのお地蔵さんの目は真っ赤。頬には赤い涙が伝った痕が残っている。

「それで、どうしてお地蔵さんが血の涙を流したの? 誰が悪戯しに来たの?」

「うーん……? ごめんね、凜太郎。私、ぼーっとしてて、見てなかった」

「先輩が見てなくてどうするんだよ」

 霊子先輩は、頭を掻いて誤魔化し笑いをするだけだ。


 夕焼け小焼けのメロディーが、遠くのスピーカーから聞こえてくる。時刻は五時を回っていたが、日暮れまではまだ時間がある。

 霊子先輩ひとりに任せておけず、見張りを手伝うことにした凜太郎は、お地蔵さんから少し離れた場所にある電柱の陰に隠れて様子を窺う。一時間以上経っても、その場を訪れるのは通行人だけ。ランドセルを背負った小学生、学ラン姿の中学生、近所のお爺さん……。同じ高校の生徒を見かけると、路肩に止めておいた自転車を押して通りすがりのふりをし、誰もいなくなった後で再び戻って見張りを続けた。

 けれども、待てども待てどもお地蔵さんに悪戯をしようとやって来る人はいない。

「ダメだ。今日はもう来ないのかも」

 諦めかけた凜太郎の帰宅を促すように、ポケットの中でスマホが着信を知らせる。

「先輩、たぶん、家から電話かかってきた」

 スマホを手にした凜太郎が電話に出ようとすると、ふっと姿を現した霊子先輩が何かを見つけて声を上げる。

「待って、凜太郎! 何か来たよ、ほら、あれ!」

 霊子先輩の指差す方、何かが交差点を曲がってやって来る。めそめそと泣きながらお地蔵さんの前で立ち止まったのは、小学校低学年くらいの男の子だ。

 男の子は、抱えていた黄色いバケツの中に手を突っ込み、真っ赤になった手でお地蔵さんの頬をべたべたと汚す。それを見た霊子先輩は、物陰から飛び出す。

「やめて! お地蔵さんを汚さないで!」

 霊子先輩は、男の子のそばへ詰め寄った。

 しかし、男の子は何の反応も示さない。幽霊が見えていないのだろう。男の子はその場にバケツを置き、お地蔵さんの裏へ回って神社の敷地の森へ入っていこうとする。急な斜面で転びそうになりながら、汚れた手で草木を掻き分け、男の子は何かを探しながら叫ぶ。

「どこに行ったの? 出ておいで!」

 泥だらけになるのも気にせず這うように辺りを歩き回った男の子が、お地蔵さんの前に戻ってくると、交差点の方から駆けてきた幼い女の子が叫んだ。

「……お兄ちゃん! 猫、いた?」

 その声に反応した男の子が、大声で返事をする。

「いないっ! どっかいっちゃった!」

 幼い兄妹のもとへ、凜太郎が向かう。

「キミ達、こんなところで何してるの?」

 声を掛けると、兄妹は飛びつく勢いで凜太郎に縋る。

「子猫達を家で飼うの反対されて、お地蔵さんの裏の森に隠してたんだ。でも、みんないなくなっちゃって」

「学校の帰りに見たの! 怖い人が来て、猫をみんな連れてっちゃったの!」

 真っ赤に汚れたうえに泥だらけになった手で腕を掴まれそうになり、慌てて飛び退いた凜太郎は、咳払いをひとつして話を続ける。

「猫を連れていった怖い人って?」

「変な着物着た人だったよ。きっと、猫を捕まえて食べちゃうんだよ」

「もう怖い人が来ないように、驚かそうと思って……猫、最後の一匹だったのに……」

 子猫が連れていかれないように、お地蔵さんに怖い悪戯をして、そばに誰も寄りつかないようにした、というのが『血の涙を流すお地蔵さん』の真相のようだ。

 めそめそと泣き出してしまった兄妹を、このまま放っておくわけにはいかない。

 凜太郎は、戸惑いながらもそっと手を伸ばし、兄妹の頭を撫でる。

「大丈夫、お地蔵さんが子猫を守ってくれるよ。子猫は探しておいてあげるから、キミ達は家に帰るんだ。家の人が心配するからね」

 凜太郎に説得された兄妹は、しぶしぶ家に帰っていく。

 お地蔵さんの前を離れた凜太郎は、そばにいるだろう霊子先輩に話しかける。

「というわけで、先輩、猫探しに行くよ」

 すると、どこからか返事がする。

「はーいっ! 私、猫好きだし、探すの得意だよ」

 凜太郎のすぐ隣に姿を現した霊子先輩は、両手で筒を作り、望遠鏡を覗くような仕草で辺りを見回す。

「待っててね、すぐに見つけてあげるね」

「いやいやいや、それで見えるなら、誰も苦労しないよ」

 霊子先輩は空を飛びながら捜索を続ける。と、両手で作った筒の中に何かを捉えた。

「……見えたっ! 猫、いたよっ!」

「見えるの? え? 本当に?」

「ほらほら、そこっ!」

 霊子先輩が指差した方、住宅街へ続く道の角を曲がってきた猫が今、凜太郎を見て「ぶにゃー」とふてぶてしく鳴いた。確かに猫だが、『子猫』ではない。むしろ、かなり大きい部類の、デブ猫だ。

「先輩、もっと小さい猫だよ、子猫っていうんだからさ」

「ごめん、ごめん。これだと、猫全部に反応しちゃうみたい」

 霊子先輩は、ぺろっと舌を出した。そのとき、どこからか猫の声が聞こえてくる。

「先輩、猫っぽい声がするよ」

「うん、あれは猫だね。それも、小さい猫」

 凜太郎と霊子先輩は、猫の鳴き声のする方を見る。

「神社の方だ。先輩、行ってみよう」

「あっ、待って、凜太郎!」

 駆け出した凜太郎は、神社の入り口まで来ると、ひょいひょいと石段を上っていく。その後を追う霊子先輩は、なぜか気まずそうだ。

「声がしたのは、こっちかな?」

「ねえ、凜太郎、この神社はやめておこうよ」

 神社の境内で立ち止まった凜太郎は、くるりと辺りを見回す。と、拝殿に隣接した母屋の窓にぽうっと灯りが点った。

「誰かいるみたいだ。行ってみよう」

 凜太郎が母屋の玄関へ向かうと、扉を開けて外へ出てきた男性と目が合う。作務衣を着た中年の男性だ。ぼさぼさの髪に無精ひげ、服も着崩れてだらしない風貌のその人は、この神社の神主で、『坊主ではないが生臭い』と有名だった。

 神主は、凜太郎と霊子先輩に向かって大声で叫ぶ。

「おまえ等、勝手に母屋の方へ入ってくんな!」

 おまえ『等』ということは、神主には霊子先輩が見えているのか。

「あの人、先輩の知り合い?」

「敵だよ、敵。成仏しろってしつこく言ってくるの」

 霊子先輩は、凜太郎の背中に隠れる。

「だいたい、用もないのに神社の境内うろつくんじゃねーよ!」

 ふたりのもとへ歩み寄ってきた神主は、三毛柄の子猫を抱えていた。

「あの、その子猫なんですけど……」

 凜太郎が恐る恐る問いかけると、子猫を見た神主は言う。

「こいつか? すばしっこいやつで、やっと捕まえたんだ」

 どうやら、子猫を捕まえていた『怖い人』は、この神主だったようだ。彼の風貌では、子供が怖がるのも無理もない。

「子猫を捕まえてどうするんですか? まさか、食べたり……しませんよね?」

「誰が食うか! 里親を探すんだよ。他のやつはもう貰われていったぞ。こいつも、放っておいて車に轢かれでもしたら困るからな。欲しいならやるぞ。ほら、受け取れ」

 神主は、子猫の首根っこを掴んで凜太郎に差し出す。

「え? あのっ……」

 猫は嫌いではなかったが、飼ったこともなければ触れる機会もほとんどなかった。凜太郎は、子猫を上手く受け取ることができず、あたふたする。

「ああっ! 逃げた!」

 ひょいと腕の中から飛び出した子猫は、境内の森の中へ駆けていってしまう。

「おい! 捕まえんの大変だったんだぞ!」

「ごめんなさい、すぐに捕まえます!」

 神主に怒られ、凜太郎は慌てて猫を探しに向かう。

「待って、凜太郎! 置いてかないで!」

 霊子先輩は神主を何度も振り返り、そのたびに「べーっ」と舌を見せながら凜太郎を追った。

「凜太郎、子猫はっ?」

「そこらへんにいるけど、すばしっこくて全然捕まらないんだ」

 凜太郎が草むらを掻き分けて捜すが、見つけてもすぐに逃げていってしまう。子猫は、斜面を一気に駆け下りて草むらから飛び出す。丁度、お地蔵さんの前だ。その場に戻ってきていた兄妹が、子猫を見るなり声を上げる。

「いたーっ!」

「猫、見つけたっ!」

 兄妹の手をするりとかわした子猫が、交差点へ向かって走っていく。それを追っていった兄は横断歩道の前で足を止めたが、妹はそのまま道路へ飛び出そうとした。

「何やってんだ、あの子達!」

 後を追って、凜太郎が慌てて道路へ駆け出す。歩行者信号はすでに赤に変わった後だ。横断歩道の真ん中で蹲った子猫を抱えようと、妹が座り込んだそのとき、クラクションが辺りに鳴り響く。

「……危ないっ!」

 凜太郎は、子猫を抱えて動けなくなっていた妹を抱え上げる。あとはもう、無我夢中だ。ギリギリのところで停車した車を避けて、どうにか反対側の歩道まで来た。

 歩道に座り込んだ凜太郎に、妹が泣きつく。集まってきた通行人や野次馬達が心配して声を掛けてきても、少しの間、返事もできずにいた。

 ふと我に返ったとき、凜太郎は、道路の向こう側に霊子先輩を見つける。

「霊子先輩?」

 霊子先輩は何も言わず、ただぼんやりと、どこか遠くを見つめていた。


 辺りがすっかり暗くなった頃、自転車でお地蔵さんの前まで来た和正に、凜太郎は頭を下げた。

「……和正、頼む!」

 凜太郎から受け取った子猫を抱えた和正は、呆れたような顔をする。

「いきなり呼び出して、猫って。凜太郎、どうした?」

「うちは母さんが動物アレルギーだから、預かるのも無理なんだ。でも、だからって放っておくわけにもいかなくて」

 必死に説明する凜太郎を前にした和正は、そばにいた幼い兄弟を横目に見る。兄妹は、潤んだ瞳で和正をじっと見つめていた。

「いいよ。親には理由話しておいたし、飼うつもりでここまで来たんだからさ」

「和正、ありがと!」

 子猫を入れた段ボールを自転車のかごに入れ、和正はその場を後にする。それを見た兄妹は少し寂しそうな顔をする。涙ぐむ兄妹のそばでしゃがみ込んだ凜太郎は、ふたりの頭をそっと撫でた。

「お地蔵さんが子猫を守ってくれるって言ったよね。大丈夫、子猫はちゃんと幸せになれるよ」

 迎えに来た母親につき添われて家へ帰っていく幼い兄妹を、凜太郎と霊子先輩は手を振り見送った。


 それからというもの、あの交差点のお地蔵さんは、『幸せのお地蔵さん』という噂話が広まり、願いを叶えるパワースポットになってしまった。おかげで、放課後になると、お地蔵さんの前で手を合わせる小学生達をよく見かける。意図した目的とは程遠い路線に進んでしまった。多少の罪悪感を覚えた凜太郎が、襟足の辺りを掻きながら苦笑していると、神社の石段を下りてきた神主が声を掛けてくる。

「困ってるなら、お祓いしてやろうか?」

 ぼさぼさの頭を掻きながら、咥え煙草で灰皿を持ち歩いてきた。おまけに、服もはだけてだらしない上に、酒の匂いまでぷんぷんさせた生臭い神主だが、意外にも真面目に相談に乗ろうと言う。

「生と死は、同時には存在できない。おまえは生きた人間で、あいつは死んだ幽霊。今は害がなくても、何かの拍子に悪霊になって、人間に危害を加えるようになるかもしれない。あいつは、この世にいちゃあいけないんだ」

「でも、悪い幽霊には見えません」

 霊子先輩を庇おうとした凜太郎に、神主は忠告する。

「幽霊になってまでもこの世に留まっているっていうのは、それだけ強い執着があるってことだからな。その執着は、恨みか、妬みか、わかったもんじゃねーんだぞ」

 顰めた顔で吸いさしの煙草を向けられて後退る凜太郎に、神主は御札を差し出す。

「問題が起きる前に、成仏させるべきだ」

 戸惑う凜太郎の手に御札を握らせた神主は、来た道を逆戻り。石段を上り、煙草の煙とともに境内へ戻っていった。

 凜太郎は、握りしめた御札を見る。

「……一応、本人に確認した方がいいよね」

 成仏させるにしても、一方的に押しつけたのでは、後味が悪そうだ。そう思い、顔を上げた凜太郎の前に霊子先輩が姿を現す。

「あっ! 凜太郎!」

 霊子先輩は、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら大きく手を振る。目尻を下げ、口角を上げて嬉しそうに笑うその顔は、悪霊とは程遠い。ただの、十六歳の少女だった。

 凜太郎は御札をポケットにねじ込んでから、霊子先輩のそばへ歩み寄る。

「凜太郎、今、何か隠したよね?」

「え? ん? いや、気のせいだよ、気のせい。それより先輩は何してるの?」

「決まってるでしょ。ここを通る人全員に恐怖を与えて、心霊スポットとして再び脚光を浴びるために、今から計画を練ろうと思ってるの」

「そんなことしても無駄だと思うよ。この場所はもう幸せのパワースポットだからね」

 霊子先輩は、鬼のような恐ろしい形相で凜太郎に迫る。

「お地蔵さんが子猫を守ってくれるって、そう言ったのは凜太郎だよね?」

「まあ、それに関しては……うん……」

 凜太郎は、ポケットの中の御札をきゅっと握りしめる。

「何にしても、小学生の発想に負けるなんて、先輩、悪霊の才能ないよ」

 凜太郎は、霊子先輩に言う。

「あのさ、先輩、最恐になるのは諦めて、成仏する気はない?」

 すると、霊子先輩が凜太郎のポケットを指差す。

「それって、神社の神主の入れ知恵でしょ」

 ポケットから右手を出した凜太郎は、握りしめていた御札を見せる。悪戯を咎められた幼い子供みたいに、凜太郎は下唇を噛んで俯いた。

 途端に霊子先輩が姿を消す。いなくなってしまったのではないかと、慌てて顔を上げると、行く手をゆっくりと歩いていた霊子先輩が振り返った。

「やーだよっ。成仏なんてしないんだから。除霊もお断りっ」

 霊子先輩は、「べーっ」と舌を出し、楽しそうに笑う。

「夢が叶うまで、成仏できないよ。ねえ、凜太郎、私、夢があるんだよ」

 首を傾げた凜太郎の目の前、ふっと姿を現した霊子先輩が顔を覗き込んで言う。

「私、実写化されたいの」

 その目は真剣そのものだ。

「最恐になって実写化されたい。そのための研究に、凜太郎、つき合って」

 一点の曇りもない、美しい硝子玉のよう。霊子先輩のその瞳から、凜太郎はなぜか目を逸らすことができなかった。


 こうして凜太郎は、霊子先輩の野望達成につき合うはめに。霊子先輩は、事あるごとに凜太郎の後をついて回るようになった。家ではもちろん、学校でも、霊子先輩がくすくすと笑う声が微かに聞こえてくる。

「霊子先輩、隠れてないで出ておいでよ?」

 渡り廊下の真ん中で立ち止まった凜太郎が振り返ると、柱の陰に隠れていた霊子先輩が頭を掻きながら誤魔化し笑いをする。

「あれ? 凜太郎、気づいてたの?」

「気づくも何も、声が丸聞こえだよ。尾行するなら気づかれないようにするか、逆に物音でも立てて怖がらせたらいいのに」

 ふっと姿を消した霊子先輩が、凜太郎の正面に現れる。

「そっか、怖がらせるんだね。うん、了解っ! 次からはそうするね」

「次って、まだ僕に憑きまとう気でいるんだ?」

「もちろん! ずっとだよ、ずーっと」

 まさしく、凜太郎は霊子先輩にとり憑かれている状態だ。

「まあ、いいけど。先輩の好きにすれば」

 凜太郎は、霊子先輩を引き連れたまま渡り廊下を抜けて南校舎に入る。

「先輩、人の多いところでは姿も気配も消して。誰にも気づかれないように」

「大丈夫。神主さん以外で私が見えたのは、凜太郎が初めてだったか……」

 会話の途中で何かに気づいた凜太郎と霊子先輩は、ぴたりと足を止める。ふたりの視線は、二年一組の教室の前にいる少女を捉えていた。

 風にさらさらと靡くショートボブの小柄な少女・禰津未来は、教室の方を向いたままスマホの操作をしている。伏し目がちでアンニュイな雰囲気の横顔に凜太郎が見惚れていると、視線に気づいた未来が凜太郎の方を見た。

 刺さるような視線に含まれているのは、好意ではなく、悪意や敵意だ。

 未来は、凜太郎と霊子先輩の方へ足早に歩いてくると、ふたりのすぐ横を何も言わずに通り過ぎる。通り抜けた風が、やけに冷たい。

 振り向いて立ち尽くした霊子先輩は、未来から目を逸らせずにいた。



 窓から差し込む陽の光が教室内を橙色に染め、影を長く伸ばす。放課後の教室にひとり残っていた児玉円花は、髪をふたつに分けて編み込みにした、しおらしい雰囲気の少女だ。

「藤原さん? いないの? 話って何?」

 黒板の前に立ち、教室中を見渡す。円花以外に誰もいない。下校時刻間際の校内に人の気配はほとんどない。しんと静まり返った校内は、それだけで不気味だった。

「いないなら、私、帰るね」

 円花は、教卓に載せていたバッグを手に取り、その場を後にする。途端に、かたんっと、どこからか物音がした。慌てて振り返ってみても、やはり教室内には誰もいない。気味が悪くなった円花が、急いで外に出ようとした、そのとき、

「嫌っ!」

 何かに足を取られて転んだ円花は、廊下に倒れ込む。すると、そこへクラスメイトの藤原と熊井が駆け寄る。

「児玉さん、どうしたの?」

「ちょっと、大丈夫?」

「藤原さん? それに、熊井さんも?」

 立ち上がろうとした円花を支えた藤原と熊井は、悲鳴にも似た声を上げる。

「児玉さん、怪我してるよ!」

「大変! すぐに保健室に行かないと!」

 たいした怪我ではなかった。それでも、血を見て大袈裟に騒いだ藤原と熊井が、円花を保健室へと連れていく。三人の影が、南校舎から渡り廊下を抜けていった。

 誰もいなくなった後、廊下の柱の陰から顔を出した未来が引き戸の前へ行き、教室の中を覗き込む。足元には、切れた糸が落ちていた。それをじっと見つめる未来の手元でぽっと灯りが点り、画面に友達リストが表示される。無料通話やショートメッセージを扱うSNSアプリだ。

 ホーム画面に記載されたアカウント名は、『二年一組出席番号三十九番@noroi』。ずらりと並ぶクラスメイトの名前を、まるでルーレットで選出するように、画面上でカーソルが動き回っている。

 不気味な光景を前にしても、未来は、臆することなく画面をタップする。



「それで、霊子先輩は、どんなふうに実写化されたいの?」

 机の引き出しから新品のノートを一冊出し、マジックで『霊子先輩は実写化希望!!』とタイトルを書き込んだ。凜太郎は、満足そうな顔をして頷き、ノートの表紙を開く。

「まずは、下調べをしないと。やみくもに動き回ってもしかたないからね」

 真面目な凜太郎のすぐ隣、机に腰掛けていた霊子先輩が、そばに置いてあったミュージックプレイヤーの電源を入れる。思いのほか大音量で再生された音楽が、イヤホンから聞こえてくる。

「ひょえ――――っ! 何これ?」

 突然、霊子先輩は素っ頓狂な声を上げる。

「こんなに小さくても歌が聞けるなんて……」

 相当驚いたのだろう。わなわなと震える霊子先輩は、眼球が零れ落ちてしまいそうなほど目を大きく見開いている。

「私の知ってるのは、もっと大きくて四角くて、再生ボタンがついてて」

「先輩、いつの時代も、最低限、音楽機器に再生ボタンはついてるよ」

「どうやって音楽を録音するの? 中身は? テープ? それとも、何だっけ?」

「あのさ、霊子先輩って、何時代の人?」

 今の霊子先輩は、タイムマシンに乗って過去から未来へやって来た人のようだ。

「何言ってるの、凜太郎、私はこうしてこの時代に、ちゃーんと生きてるよ」

「うん、生きてはいないよね、幽霊だから、死んでると思う」

「でもでも、凜太郎が生まれるよりもずっと前からこの世にいるんだよ。私って、先輩だからね。大、大、大先輩!」

 年長者ぶって自慢げにしてみせるが、説得力もなければ威厳もない。

「それなら、もうちょっと現代のことを知っててもいいんじゃないかな?」

「蓋はないの? あれ? 蓋ってついてるよね?」

「先輩、人の話を聞こうよ」

 霊子先輩の目の毒だと、凜太郎は、ミュージックプレイヤーの電源を切って引き出しにしまう。それを目で追っていた霊子先輩は、引き出しが閉まると不服そうな顔をしたが、凜太郎の咳払いを聞くと両手を頬に当て、口角を上げて笑顔を作ってみせた。

「凜太郎、話の途中だったよね? 何?」

「うん、先輩の言う実写化って、一体、どんなものなの?」

「実写化? うーん、具体的に説明しろって言われると、言葉にしにくくて困るかも」

「そうだな、じゃあ、例えばだよ……」

 凜太郎は、ノートに図を書きながら話を進める。

「一番、霊子先輩の一生を元にした自伝的な、ノンフィクション映画」

「自伝? 私、昔のことはほとんど覚えてないよ」

「……そうなんだよね」

 アイデアを出してみたが、せっかく書いた図に、早々に×印を打った。

「じゃあ、二番、霊子先輩が恐怖でその存在を知らしめて、有名になって映画化される。実話を元にした映画、パ●ノーマル・アクティ●ティ、みたいな感じだよ」

「パラー……っていうのは、わかんないけど。それ、イメージに近いかも」

「そっか、それじゃあ、有名になれればいいってことだね」

「でも、それだと女優さんが私の役を演じるわけで、私が出演するわけじゃないよね?」

「出演? 霊子先輩、出演したいの?」

「うん、映画に出たいの」

「となると、三番は、ええっと……つまり、心霊動画?」

 意外な答えに悩んでペンを置いた凜太郎は、ポケットからスマホを取り出す。

「心霊スポットにカメラ持って肝試しに来る人達がいるよね? その人達を怖がらせて、カメラに写る。その映像がネットに投稿されたりするんだ」

 スマホを起動させてネット検索をする凜太郎の手元を、霊子先輩が覗き込む。

「何してるの、凜太郎?」

「動画を探してるんだ。ほら、こういうのだよ」

 画面に表示された心霊動画のうち、再生回数の多いものを選び、ふたりで閲覧する。

 ――立ち入り禁止の古いアトラクション。埃まみれの館内を行く男女は、馬鹿みたいに騒いでいる。男女の背後に人影が現れる。気づいた女が悲鳴を上げても、気づいていない男は笑っているだけだった。本当の恐怖は、その先にあると――。

 スマホを指差した霊子先輩が、凜太郎に問いかける。

「凜太郎、これは、ちっちゃなテレビ?」

「え? テレビじゃなくてスマホだよ。電話やメールしたり、ネットやゲームもできるよ。霊子先輩の時代で言う、携帯かな?」

「携帯……じゃなくて、何だろう、うーん……」

 霊子先輩は、顔を顰めて唸りを上げる。

「ポケベル? そう、そうだよ、ポケベル。ポケベルっていうの使ってた気がする」

 聞き覚えのない機器の名前が挙がると、凜太郎は首を傾げる。

「また、わけのわからない機械の名前が出た」

「知らないの? ポケベルが鳴らないと、愛が待ちぼうけしちゃうんだよ」

「だから、何のこと? 愛って、誰?」

 実写化について考えるよりも先に、霊子先輩が幽霊として現代に通用するか、凜太郎は一抹の不安を覚える。

「この調子だと、霊子先輩の頭の中にある恐怖は、一昔前のホラー映画なんだろうね」

 しかし凜太郎の不安を他所に、霊子先輩は自信たっぷり胸を張って答える。

「凜太郎、わかってないねっ、この世界の仕組みを」

「何、急に知った顔なんてして」

「あのね、凜太郎。流行っていうのは、巡り巡って三六〇度回って戻ってくるって決まってるの」

 立ち上がった霊子先輩は、サーフボードで波乗りするようなポーズを取ってみせた。

「ビッグウェーブは、明日来てもおかしくないんだからっ!」

 荒波にのまれてバランスを崩しそうになりながら、それでもサーフボードの上に立ち続ける。

「それで、そのブーム再来に向けた実写化は、この動画みたいな感じでいいんだ?」

「うーん、何か違うんだよね」

 霊子先輩は、途端にぴたりと動きを止め、真面目な顔をして言う。

「どうしてかわからないけれど、映画に出ないといけない気がするの」

 とはいえ、肝心なところはいつもはっきりしない。

「幽霊が出演する映画なんて聞いたことないし、先輩、カメラに映るの?」

「どうかな? 幽霊って、不思議な力でいろいろできるから、透けない方法も探してみるね」

 頼りない霊子先輩の言葉に、凜太郎は首を横に振るべきか縦に振るべきか、迷って頭をぐらぐらと揺らした。

「うん、わかった、期待せず待つよ」