中学生のころ、ちょっと怖い話を聞いた。

 居眠り常習犯のぼくが奇跡的に起きていて聞いた、理科の先生の雑談だ。

 もともとは、「人間に紫外色は見えず、モンシロチョウには赤色が見えない」という話題から始まったのだと思う。

 先生は言った。

「つまり、たまたま人間には世界がこのように見えているだけで、見えている世界と実際の世界はちがう。もっと言うと、人間は個人個人で視力や色覚が異なるので、同じものを見ているつもりでも実際見えているものは異なっている」

 それって、とても怖くて淋しい話なんじゃないか、とぼくは思ったのだった。

「きれいだね」「かっこいいな」と言いあって、共感しているけど、実はちがうものを見ているのだ。誰かと完全に同じものを見ることは永遠にない。

 ――そんな話を思い出して花柚さんにしたのは、六月のこと。

 彼女の婚約者である永谷氏が、その日の朝、夏椿の花を持ってきた。

 庭で咲いていたものを切り、お母さんに持たされたのだという。

 朝に開き夕方には落ちてしまうという白い花は、花びらが薄く、清楚で可愛らしい。

 花瓶に生けて「きれいね」「可愛いわね」と喜ぶ花柚さんの言葉で、中学時代のその一場面を思い出したのである。

「あら、それなら味も同じよう。おいしいねって言いあってても、感じてるのはちがう味」

 味を感じるのは口の中にある味蕾という細胞だけど、味蕾の数は人によってちがう。さらに、甘みを感じやすい人もいれば、塩気を強く感じる人もいるのだという。

「わたしが『百点満点のおいしさ!』と思っても、彗くんにとっては『八十点のおいしさ』かも。味の好みのちがいもあるものね」

「え、じゃあ、どうしたらいいんですか。料理する人は」

 料理の道に進もうかな、とぼんやり考えていたぼくは動揺した。

 もちろん、味に好みのちがいがあることは知っている。

 だけど、感じている味自体がちがうなんて。

 藤沢先生から花柚さんへと受け継がれてきた味を「正解」だと思い込んでいたので、それが根本から揺らいだ気がした。そんなことを言われたら、何を目指して料理をすればいいのかわからなくなる。

「正解なんてないわよう。もし絶対の正解があるなら、『だし巻き卵』だけであんなにたくさんレシピがあるわけないじゃない。この前、松園さんにお弁当作っていただいてわかったでしょう。わたしも松園さんも同じ先生にお料理を教わったけど、先生のもわたしのも松園さんのも、みんなちょっとずつちがう味」

 そう花柚さんは説明した。

 すでにあるレシピを試して、いちばんおいしいと思うものを選ぶ。さらに自分の好みに改良して何も見ないで作れるようになったら、それが自分の味。

「もちろん、わたしたちはお客さまのためにお弁当を作っているから、『自分の味』だけじゃだめね。理想は、たくさんの人がおいしいと思ってくれる最大公約数の味」

 でも、最大公約数を見つけるのは簡単なことじゃない。

 一般的に、脂質と糖質の組み合わせ(カロリーが高い)には快感を得る人が多いそうなのだけど、それだって絶対じゃない。

 婚約したばかりの花柚さんは両の手のひらを合わせて、うっとりと言った。

「わたしの場合はね、まずいろんなレシピで作ってみて、自分のいちばんおいしいと思う味を決めるでしょう。そのうえで、『総くんも喜んでくれるかな』って考えて、その味じゃだめと思ったら調整することにしてるわ」

 半分はのろけだと思うけど、言いたいことはわかる。

 本当の最大公約数は知りようがないから、自分の味覚と、あとひとり、他の誰かの味覚を軸にして考えるということなのだろう。

「でも、他の人の感じてる味はわからないんですよね?」

「ええ。だから、食べた人が『おいしい』『おいしくない』を言ってくれないと、作る人は永遠に、相手の『おいしい』がわからないの。食べているときの顔を見られないお弁当は、特にね」


 はたきでちりを落とし、しばらくしたらフローリングモップで床をから拭きする。

 紅殻格子のついた引き戸を開け、窓も開けて空気を入れかえる。

 午前六時。

 早朝の姉小路通には、清冽な朝の光と澄んだ空気が満ちている。

 永遠に続くように思えた京都の蒸し暑さも朝晩だけはすっかりなりをひそめ、肌寒いくらい。

 カウンターの壁にかかった日めくりカレンダーを一枚だけ切り取る。

 カレンダーに書かれた季節の言葉は「禾乃登」。

 稲や粟などの穀物が実る時期、という意味だ。

 一年を二十四分割して、季節の言葉をあてはめたのが「二十四節気」。それらをさらに三分割した、五日ごとの期間が「七十二候」。

 今日は、二十四節気でいうと「処暑」の終わりがけで、七十二候だと「禾乃登」の始まり。「どこが立秋なんだ」と思っていた現実も、ようやく暦に追いついてきた。

「ああ、いい匂い。これは絶対、脂ののったおいしい秋刀魚よ」

 厨房に戻ると、花柚さんが声を弾ませた。

 グリルで魚を焼く香ばしい匂いが、厨房の中に充満している。

「わたしの天才ぶりも、素材そのもののおいしさには負けるわ」

 彼女は、この弁当・仕出し屋「ちどり亭」の店主で、二十四歳。

 秋草の柄が散った淡い黄色の着物に、レースのついた白い割烹着を身につけている。

 花柚さんがグリルを開けると、焼き色のついた秋刀魚が並んでいた。

 水分が沸騰しているらしく、薄い皮がところどころでぴくぴくとふるえている。

「ああ~。めちゃうまそう……」

「でしょうでしょう!?」

 ぼくの言葉に、花柚さんが声を上げる。

 秋刀魚をグリルで焼くときには、前もって焼き網に刷毛でさっと酢を塗っておく。酢はたんぱく質が固まるのを防ぐので、秋刀魚の身がこびりつかず、身をきれいに保てるのだ。

 そして秋刀魚の表面にも薄めた酢を塗っておくと、じっくり焼いても皮が破れない。

「さあ、味見味見! 彗くん、かぼすをスライスして」

 旨みが抜けないように丸ごと焼いた秋刀魚を、花柚さんが包丁で切り分ける。

 熱々の身を舌にのせると、皮のぱりっとした食感と天然塩の味わい、しっとりした身の脂が口の中に広がっていく。搾ったかぼすのさわやかな香りもアクセントになって、空腹だったことを思いだす。

「ごはんと一緒にむさぼり食いたいです……」

 はあ……と幸福のため息で同意を表明し、花柚さんが首を振る。

「休憩時間までがまんがまん! 空腹は最高のスパイスよ」

 ピピピ、とタイマーが鳴りだし、蒸らしの時間の終わりを告げる。

 ぼくは羽釜のふたを取って、炊きたてのごはんをしゃもじで天地返し。

 花柚さんは残りの秋刀魚を切り分け、キッチンバットに並べていく。

 先に粗熱を取ったごはんを弁当箱に詰め、すべてが冷めるのを待ってからおかずを詰めていく。

 玄米入りのごはんにしめじのソテー、にんじん・いんげん・蓮根と鶏肉の炊き合わせ。味卵に秋刀魚の塩焼き。

 赤・黄・緑・黒・白の五色を兼ね備えたパーフェクトな色合い。

 作業台には、お客さんから預かったさまざまな種類の弁当箱も並んでいる。

 軽やかで便利なプラスチック。

 頑強で安心感のあるステンレス。

 中身が格段においしく見える曲げわっぱ。

 いちばん風格があるのは、漆塗り。

 預かりの弁当箱は、念のために一度消毒しなければならないし、大きさや形がまちまちなので詰め方も変えなければならない。

 それでも弁当箱の持ち込みを花柚さんが受け付けているのは、使い捨て容器とは食べるときの楽しさ・おいしさがちがうからなのだろう。


 その日は十四時に店を閉め、花柚さんとふたり、松園さんの家に行った。

 松園さんは、花柚さんにとっては祖父と孫ほど歳の離れた兄弟子。現在は西陣で家庭料理を出すお店を営んでいる。

 休憩時間に入った『まつぞの』の店内で話をしていたけれど、いつまでたっても美津彦さんが奥から出てこない。様子を見に行くと、彼は縁側に枕を置いて寝ていた。

「美津彦さん、美津彦さん」

 揺り起こすと、ニャア、と声がした。

 彼の浴衣の懐に入っていたらしい。猫が逃げ出した。

「……なんだ、うるさいぞ」

 うなりながら、美津彦さんが片目を開ける。

「……もう来たのか」

「何ですか、あの猫。松園さんの飼い猫?」

「……野良猫だ。じじいが餌付けしてたらしい」

 まだ眠気が残っているらしく、彼の返事はワンテンポ遅れる。

 彼は花柚さんのまたいとこで、彼女の料理の師匠である藤沢先生の孫。国立大学の大学院に籍を置いている。

 ちどり亭に入りびたっている居候のような人だが、現在彼は北白川の自宅を追い出され、松園さんの家で「性根を入れ替えるため」の修業をさせられている。

 もう二週間以上経つのに、性根が入れ替わった気配はまったくないんだけど。

「ひどい部屋ですね」

 彼が借りているという部屋を見ながら、ぼくはあきれた。

 籐の筵を敷き、日差しが入らないよう蔀をかけた室内は、京都の暑い夏をしのぐ工夫にあふれている……はずだったが、美津彦さんの部屋の惨状はそんな町家の工夫を台無しにしていた。

 文机にも床の筵の上にも本が山を作っていて、その山々の隙間に服やら紙やらが散乱している。彼の中に、「居候の遠慮」というものは存在しないようだった。

「家の自室はきれいだぞ。机の上以外にはものがない。なぜかここにいると部屋が散らかるんだ」

 しぶしぶ身を起こし、美津彦さんが言う。

「家主の心が邪悪だからな。エントロピーが増大するのかもしれん」

「エン……? 何言ってるのかわかりませんけど、簡単な話ですよね。家にいるときは、お手伝いさんが片付けてくれてたんですよ」

 美津彦さんは口を開けたまま、ぼくをまじまじと見た。

 気づいていなかったらしい。この人、本当に頭がいいんだろうか……?

「部屋借りてるんですから、ちょっとは片付けましょうよ」

 改めて室内を見回したぼくは、一角にある本の束を見て真顔になった。

『本気で働きたくない人のための処世術』

『不労所得で生きる』

『働かずに生きたい 二〇〇六年版』……

 二〇〇六年ということは十年前だ。他の本もずいぶん前に読んだものなのか、少々古びている。付箋も貼ってあった。

 何だこれ……。

「俺のいちばん上の兄は人格者なんだ。小遣いもくれるし」

 部屋に入り、紐で束ねたそれらの本を手に取って見ていると、美津彦さんはしみじみとした口調で語った。

「その兄が、俺をじじいの家へと追いやった。それで俺も目が覚めた。心を入れ替え、初心に戻ろうと思ったのだ。俺もちゃんと将来のことを考えている」

「美津彦さん……」

 焦燥感に駆られ、ぼくは正座して背筋を伸ばした。

「これはちがいますよ! 『ちゃんと考える』って、こういうことじゃないですよ!」

 この人といると説教したくなるから困る。年上なのに、この人の行く末がなんだかものすごく心配になってくるのだ。



 店のほうに戻ると、松園さんがお茶を淹れながら栗餅の話をしていた。

「西院にあるお饅屋さんや。あんこの中に、塩味つけた栗がぎっしり入っとんねん」

「ああ、すごく食べたいわ。栗って本当に罪な食べ物だと思いません? 食べるまでに苦労するのに、食べるのは一瞬。でもおいしいから、毎年使っちゃう!」

 持ってきた風呂敷包みを解き、うっとりと花柚さんが言う。

「来週九日は重陽の節句だから、お弁当には栗おこわと菊のおひたしを入れるんです」

 声を弾ませた花柚さんに、松園さんもにこにこと応じる。

「ええなあ。菊の節句、栗の節句やもんなあ。うちの店も酢のもんに菊入れるえ」

 九月九日は「重陽の節句」。

 奇数は陽の数といって縁起のいい数字。その陽の数の中で最も大きな数字が「9」。

 それがふたつ重なっているから、花柚さんいわく「大ハッピー!」な日。

 桃の節句や端午の節句に比べると影が薄くなってしまったが、昔はいちばん大切な節句とされていた。宮中では菊の花を愛で、菊酒でお祝いし、庶民は栗を食べていたそうだ。

 新暦の九月九日はまだ菊の時期には早いのだが、すでに出回っている食用菊もあるので花柚さんはそれを利用するという。

「美津くん、また寝てたのね? お手伝いをさぼっちゃだめよう」

 現れた美津彦さんを見て花柚さんが言うと、松園さんが笑顔を作った。

「美津坊はようやってくれとるわ。手先が器用やさかい、野菜の皮むきもあっという間に習得したんや。色男で賢い、優しいうえに気ぃ利いて、この上料理までできる言うたら、敵なしやないか? この立派な姿、先生にも見てもろうたかったなあ。――坊、アイスと小皿出してや。お月さんの柄のんや」

 美津彦さんは恥辱に満ちた表情である。

 褒め殺しが松園さんの嫌がらせだとわかっているのだ。

「あと一週間だから我慢してるんだ」

 憤懣やるかたない、といった口調でぼくに向かってそう言い、美津彦さんは冷凍庫を開けている。子どものころから松園さんが苦手だった彼にとって、ここでの生活は「精神的・肉体的苦行」であるらしい。

「わたしもおやつを持ってきました」

 花柚さんが持参したのは、夏の間、彼女が研究していたデザート春巻き。

 いちじくと胡桃とゴルゴンゾーラチーズを合わせたものと、さつまいものペーストとレーズンを使ったスイートポテト風のもの。

 春巻きの皮を半分に切って使うことで、パリパリサクサクした皮とフィリングの食感のバランスを取った。春巻きというより、パイに近いお菓子である。

 そして松園さんが用意してくれていたのは、里芋のアイスクリーム。

 蒸した里芋を、砂糖・牛乳・レモン汁と合わせてフードプロセッサーで攪拌し、冷凍庫で冷やしたもの。バニラエッセンスの香りが利いているのもあって、種明かしをされるまで里芋が原料だとは気づかなかった。言われてみれば確かに、ねっとりとしてまろやかな口あたりは、里芋っぽいかもしれない。

 今日松園家を訪問した目的は、近況報告と、十五夜のお月見ピクニックのお誘い。

「最近は、また基本に戻って教えなおしてもらってるんです。いざというとき、花柚さんの代わりが務まるように」

 アイスクリームを口に運びながら、ぼくは話した。

 事の発端は、八月の終わり。

 ぼくが料理の道に進みたいと言いだしたこと。

 花柚さんは、結婚にともない、店を畳まなければならなくなりそうだった。ぼくにはやりたいことも他にないし、ちどり亭がなくなるのは淋しい。だから彼女が店を続けられるように、いざというときの代わりを務めようと考えたのだ。

 それを受けて、花柚さんも方針を変えた。

 それまでは、ぼくが自炊できるようになって自分で生活を回せればいい、というスタンスだったけれど、最近は基礎の基礎から細かく見てくれるようになった。

 たとえば、ゆで卵は、ちゃんと黄身が中央に来るように、固さもゆで分けられるように。一回うまくできても、まぐれの可能性があるから、そのクオリティを安定して再現できるように何回もやる。

 幸いなことに、ぼくの大学の夏休みは九月末までなので、あと一か月はしっかり料理の練習にあてられる。

 春巻きをつまみつつ、花柚さんが言う。

「彗くんが大学を卒業するまであと二年あるし、ひょっとしたら気が変わって、別のことがやりたくなるかもしれない。それでもいいんです。彗くんがずっとお店を助けてくれるならうれしいけれど、そうじゃなくなっても、彗くんがそう言ってくれたことで、少なくともこの場は切り抜けられるし。別の道に進んでも、お料理は無駄にならないもの」

「なるほどなあ。お嬢さんのスパルタ指導開始か。怖いなあ」

 松園さんの言葉に、ぼくは花柚さんを見た。

「いや……花柚さんに叱られたことないですよ。たぶん、一回もない」

 バイトを始めた当初は、自堕落な生活から抜け出すのに一苦労。五時起きができずに二時間寝坊したことがあった。

 そのときも、彼女はまっすぐぼくの目を見て、「わたしは彗くんをあてにして動いていたんだから、時間は守ってくれないと困るわ」と言っただけだった。

 それはそれで応えたんだけど、叱責されたことは一度もなかったはずだ。

「ええ。これからも怒らないわ」

 花柚さんはあっさりと言った。

「怒られるのが嫌だからやるなんて、そんなの見込みないわよ」

 いつもどおりに彼女は微笑んでいた。

 だけどそれは、結構ドキッとする発言だった。

「こういう人のほうが厳しいんやで」

 松園さんが言い、ぼくもそのとおりだと思う。叱責されるより怖い。

「蒔岡のじいさんたちは何て言ってるんだ」

 美津彦さんが尋ねる。

 花柚さんのお父さんが、「店を続けたいって言うんじゃないだろうな」と説得に来たばかりだ。土地と店舗はおじいさんのものだし、まず花柚さんの実家への根回しをしなければならなかったのだ。

「結論から言うと、『彗くんに店を引き継ぐ』、『彗くんが大学を卒業するまでわたしが店を続ける』という点は了承が取れているの」

 花柚さんが眉を寄せた。

「ただ、新しくオーナーと店長を探さなきゃいけないのよ」


 お月見ピクニックの打ち合わせを終え、ちどり亭に戻った。

 花柚さんと来週の予定について話しながら、片付けと掃除をゆっくりする。

 もうすぐ六時になるというころ、表の呼び鈴が鳴った。

「はーい」

 花柚さんが表情を明るくして答え、いそいそと手を洗いはじめる。

 すぐに引き戸を開ける気配がして、彼女が出迎える前に永谷氏が顔を見せた。

「おかえりなさい」

 花柚さんとふたり、声を合わせて迎える。

 シャツにネクタイを締め、黒縁眼鏡をかけた彼は、花柚さんの婚約者である。

 子どものころからの許婚だったのが、訳あって婚約解消となり、七年ぶりに再会して再び婚約することになった。

 毎朝、花柚さんは府庁に勤める彼のためにお弁当を作っている。彼は仕事帰りにお弁当箱を返しに来て、コーヒーを一杯飲んで帰る。それが平日の日課なのだった。

「美津彦はちゃんとやってたか」

 バッグから取り出した弁当の包みを花柚さんに渡しながら、永谷氏が尋ねる。

 彼は美津彦さんとも幼なじみの間柄だ。

「松園さんは褒めていらっしゃったわ。美津くんはいやーな顔してたけど」

「部屋はひどかったですよ。変な本を見ました……」

 ぼくが『働かずに生きたい 二〇〇六年版』の話をすると、永谷氏は心底あきれたようにため息をついた。

 彼は美津彦さんの研究者としての資質については何の疑いも持っていないようなのだが、ひとりの人間としての行く先には不安を抱いているらしいのだった。

 永谷氏が奥の和室にバッグを置きにいっている間、ぼくは三人分のコーヒーを用意しはじめ、花柚さんは永谷氏の弁当の包みを解く。

 毎朝、彼女はこそこそ何かを書いていて、その返事がお弁当箱と一緒に返ってくるのだ。

 まっすぐな美しい木目の入った杉の弁当箱は、かっちりとした長方形。

 その上に畳んで置かれていた一筆箋を、花柚さんが開く。目を通したあと、彼女は何やら感激の面持ちで手紙を胸に押し当てていた。

 そして、そわそわしていたかと思ったら、和室のほうへ寄っていく。

「総くん、総くん」

「何だ」

 返答があって、柱の陰から和室をのぞきこんだ花柚さんは、もじもじしながら言う。

「ちょっとそっちに行ってもいい?」

 返事はなかった。

 身振りで合図があったのか、花柚さんは和室に行く。

 静寂。

 ぼくはやかんでわかしたお湯を、ドリッパーに注いだ。

 コーヒーのしずくが落ちる音。

 ぼくも学習したのだ。こういうときは、もう絶対奥に行かないことにしている。



 先週末、ぼくは永谷氏に連れられて花柚さんの家に行った。

 蒔岡家は、十一月にある「秋の一般公開」で庭園と茶室、自宅の一部を公開するような、たいそうな旧家である。庭には琵琶湖疎水を引き込んで作られたという川が流れ、夏の終わりの午後の日差しに水面をきらめかせていた。

 印象的だったのは、永谷氏のくつろぎぶりだった。

 花柚さんとは十分と会話がもたないような関係だったのに、おじいさんやお父さんに対しては、特にかしこまる様子も見せない。おじいさんも親戚の子に対するような態度で、総一郎と呼び捨てにしていた(実際、遠い親戚なのだ)。子どものころからの許婚というのは、こんな感じなのかと家族との距離感を新鮮に感じた。

 ぼくに話もさせつつ、永谷氏がおじいさんたちに伝えたのは二点。

 ひとつは、「彗太が店を継ぎたいと言っているので、引き継ぎのため、彗太が大学を卒業するまでの二年間、花柚に店を続けさせたい」ということ。

 もうひとつは、「下鴨の家に住むつもりだったが、しばらくどこか家を借りてふたりで暮らそうと思っている」ということ。

 永谷家で同居しないのは、本当は花柚さんが店を続けるためなのだけど、永谷氏は「自分が一度家を出てみたい」という理由の他に、「花柚が気兼ねなくこちらの手伝いに来られるように」と蒔岡家に恩を売る名目もこしらえていたのだった。

 おじいさんの隣で、お父さんは初めて聞くような顔をしていた。

 先月、店を畳むようにと娘を説得しに来ていたことは、おくびにも出さない。

「まあ、支えてくださったお客さんへの義理もあるから、いきなり店を閉めるのはよくないよね」

 扇で顔を仰ぎながら、おっとりとお父さんは言った。

「でも、総くんと永谷のお家のことが第一だからね」

 釘を刺しつつも、援護してくれているようだった。

 二年という期限を明確にしたのがよかったのかもしれない。おじいさんの返答も、「永谷家が納得するなら反対はしない」ということだった。

「ただし」

 喜びかけた花柚さんを制するように、おじいさんは続けた。

「花柚は店主を辞めること。権利関係も名義を書き換える。十二月に結婚式だ。今年度いっぱいで一度経理も締めて、経営からは手を引くこと。身内の店じゃなくなるんだ。家賃も取る」

 店主でいると、花柚さんがなんだかんだ理由をつけてずるずる店に関わるだろう、とおじいさんは考えたのだった。

「そんなの困るわ。彗くんはまだ学生さんなのよ」

 花柚さんが抗議したものの、おじいさんはその一点だけは譲らなかった。

 彗くんのご両親にお願いしてもいいし、他のオーナーを見つけてもいい。とにかく花柚はいつでも店から離れられるようにしておけ、というのがおじいさんから出された条件である。

 この条件をクリアすることが、目下の課題だった。

 名義とお金だけ貸してくれて、今の店のやり方を守ってくれる人――というのが理想だけど、そんな都合のいいことはないだろう。

 永谷氏は、お金なら自分が出せると言う。いざとなったら、名前だけ誰かに借りることもできる。ただ、結婚に際してのことだから、できる限りズルはしたくない、ということだった。

「もとは花柚のわがままだし、こちらで方策は考える。お前は心配しなくていい」

 そう言ってくれているので、ぼくは料理の上達だけ考えればよかった。

 状況はたびたび説明してくれたし、ぼくが手作り市に行くという話をすれば、「花柚、お前、箸置きを集めてただろう」と言いだし、「ひとつだけ買ってきてくれ。釣りは食材費にあてればいい」とぼくにお小遣いをくれるのだった。

 正直なところ、自習のための食材費がばかにならなかったので、本当に助かった。

 彼は彼なりに、花柚さんを助ける存在としてぼくに感謝してくれているらしかった。


 翌週の水曜日。

 朝、日めくりカレンダーをめくると、ちょうど暦の変わり目だった。

 二十四節気は「処暑」から「白露」へ、七十二候は「禾乃登」から「草露白」へ。

 どちらも、朝露がおりるほどに涼しいという意味だろう。日中はまだまだ暑いけれど、朝晩は冷え込むようになってきたし、頭上を見上げれば空高くに鱗雲。

 着々と季節は秋へと移り変わっているようである。

 その日の日替わり弁当のメインは、「吹き寄せごはん」。

 きのこの炊き込みごはんの上に、具材が散らしてある。

 黄金色のさつまいもと枝豆、小豆。

 紅葉の形に型抜きしたにんじん、半月に切った蓮根。

 じゃがいもは、薄くスライスして銀杏型に抜き、揚げてある。

「吹き寄せ」というのは、いろんな木の葉が風に吹き寄せられた様子を表した料理で、日本料理では秋の定番なのだという。

 季節を先取りした華やかな弁当になった。

 梶原さんがやって来たのは、十一時を少し過ぎたころだった。

「こんにちは」

「こんにちは」

 レジ台を挟んで挨拶を交わす。

「今日も暑いですね」

 ん、と短く応じて、梶原さんが予約票を差し出す。

 白髪交じりの髪を短く刈った彼は、黒いポロシャツにベージュのチノパンを身につけている。

 歳は五十歳くらいだろうか。無口な人らしく、必要最低限の会話しかしない。

 それなのに名前を憶えているのには、理由がある。

 週に二回、月曜と水曜の昼に必ず来てくれるからというのもある。男のお客さんが少なくて目立つというのもある。

 だけどいちばんの理由は、かっこいいお弁当箱を使っているからだ。

 彼のお弁当は、つやつやとした黒い漆塗りの、丸い弁当箱だった。

 弁当の見本の写真を撮るときに、許可を得てお客さんの弁当箱を使わせてもらうことがあるのだけど、梶原さんのを使うと、かなりの頻度でお客さんから「あのお弁当箱、どこで買えますか」と訊かれる。それくらい印象的な、いい弁当箱なのだ。

 予約分の棚から、小さな風呂敷に包んだ弁当箱を取り出して手渡すと、交換するように梶原さんが別の風呂敷包みを出してくる。

「来週月曜日の」

 次回の予約だ。

「いつもありがとうございます」

 会計をすませて予約票を渡し、頭を下げる。ここまではいつもどおりだった。

 ふだんなら、「どうも」と言って受け取り、彼は去っていく。

 だけど、この日はちがった。

「一昨日のきんぴらな」

 弁当を受け取ったあとで、彼は口を開いた。

「はい?」

「何や知らん、味変わったんか。前のほうがうまかったな」

 ドキッとした。

 急に鼓動が激しくなるような感じがした。矛盾するようだけど、体温が下がったような感覚もあった。

「すみません、ぼくが作ったので……」

「醤油と砂糖の味しかせん」

 言いおいて、いつもどおりにそっけなく彼は去っていった。