あのとき、僕たちは「恋人」じゃなかった。

 かといって「友達」とか、そういう感じでもなかった。

 関係しているようで、まだ、ほとんど関係していなかった、あの夜の、あのとき。僕たちの関係に、ふさわしい言葉をあてるとしたら、それはきっと「また会おうね」だった。



 渋谷駅前。スクランブル交差点。信号は赤。青になってくれないと困るけど、青になるのが怖いような。そんな感じ。恥ずかしながら、僕はこの交差点を、人と少しもぶつからずに渡りきれたことがない。

 名前も知らない何を考えてるかもわからない、そんな誰かと、腕や肩がこすれるたび、僕の中の何かは確実にすり減っていく。

 だから、青になるな。

 人が動き出した。前の人につられて、というよりも後ろの人に軽く押されるようにして、僕も動き出した。交差点は、瞬く間に、人の海と化した。

 僕の胸の数センチ前を、誰かが横切ったけど、誰かが横切ったことなど忘れたように、僕は歩いてる。

 きれいな白人の女の子。カラフルな光を発するフラフープを、交差点のど真ん中で腰を使って回し始めた。自撮り棒を持った女子高生三人組は、歩きながら器用に決め顔。対岸の信号付近では「フリーハグ(Free Hugs)」と書かれた白いプラカードが掲げられていた。見知らぬ男女による短い抱擁がタダで見れた。

 スクランブル交差点を渡ったところのガラス張りのビルには、言わずと知れたツタヤ渋谷店が入っている。ハチ公前と同じくらいに、ツタヤ前は待ち合わせ場所として人気だ。今夜も、誰かが誰かを待っている。

 僕はというと誰も待っていなかった。

 誰にも待たれていなかった。

 僕は、すべてを置き去りにするように夜の渋谷を歩いていた。この街で唯一、深呼吸できる特別な場所に向かって。


『夜空が好きな方、大歓迎♪』


 半年前、アルバイト情報サイトを眺めていたら、そんな文句が僕の目を突いた。夜空は好きでも嫌いでもなかった。それでも、その仕事の「時給」と「時間帯」に惹かれ、僕は履歴書を書いた。履歴書の志望動機は、非常に書きづらかった。というのも「仕事内容」に、ほとんど情報が記載されていなかったのだ。

『仕事の詳細につきましては、面接時にお話させていただきます。まずは、下記弊社まで写真付きの履歴書をご送付ください』

 志望動機に書いた文章は、今でも思い出せる。

 僕は「夜空、大好きです!」などと嘘はつけず、その代わりに、夜空がモチーフとなる、いくつかの文学に対する愛を綴った。牧野信一の『月下のマラソン』だの、小川未明の『月夜とめがね』だの。どちらもほとんど誰も知らないだろう、はるか昔の小説作品。けど、いったん火のついた僕の筆は止まらなかった。

 的外れなことをしたのかもしれない、と冷静になれたのは、履歴書の投函後。後悔先に立たず。書類審査すら通らないだろう、と思って、他のアルバイトも探し始めていた、その矢先、

「こちら、横森佑さんのお電話でしょうか」

 採用担当から、電話が。ぜひとも面接をさせていただきたい、と言われてしまう。

 僕は、志望動機に場違いな文学愛を綴った恥ずかしさを必死に押し殺しながら、面接の希望日を伝えた。その場で面接の日程が決まった。

 そのとき、

「どういう感じの、お仕事なんですか?」

 我慢できずに、僕は聞いてしまった。

 すると、電話の向こうの女性は声色一つ変えず、

「夜空を見上げていただきます」

 と言った。


 夜空を見上げる。そんな仕事、ほんとにあるのか? なんて疑った、半年前の自分に向かって、今の僕からメッセージを送るとしたら、

「あるよ、きちんとここに」

 になるだろう。

 僕は、そんなことを思いながら、雑居ビルの中へ入っていく。最上階の十階でエレベーターを降り、一旦、事務所に寄ってから、通路奥の非常口を出る。階段がビルの外壁に沿うようにして伸びていた。足場は網々で、真下の路地が透けて見える。恐る恐る登っていた頃が懐かしい。

 この街で唯一、深呼吸することのできる特別な場所。それはこの外階段を上がった先に、あった。

 夜の屋上。

 渋谷のスクランブル交差点から、そう遠くはない十階建ての雑居ビル、その屋上に僕は足を踏み入れた。

 屋上は、光から忘れ去られていた。真っ暗だった。足元のコンクリートは昼間、灰色を呈しているが、今はインクをこぼしたように黒かった。

 両隣りのビルの屋上も同じ高さにあって、同様に暗かった。屋上から、屋上から、屋上。それらは、すべて闇でつながっていた。

 大きく息を吸って。

 吐いた。

 空気はおいしくないが、体が軽くなる。

 頭も空っぽになる。

 この場所は僕に、何も考えないでいることを、許してくれる。僕は、この許しを求めていた。この許しが恋しかった。

 スマホで時間を確認する。

 午後八時まで余裕はあったが、僕は準備を始めることにした。

 屋上の隅にぽつんと佇んでいる物置の前へ。スマホの光をダイヤル式の鍵に当て、数字を揃える。物置を開けたら、今度は室内灯の光を頼りに必要な道具などをすべて屋上に運び出す。

 椅子とテーブルは、屋上の真ん中あたりに置いた。

 暗いながらも、屋上は正面の通りに近づくほど明かりが増す。台車に乗せたプラスチック・コンテナは、明るい柵の付近に置いた。

 コンテナの中を開けて、ガスボンベや、ロープ、ケーブル等を取り出した。

 いちばん下にあったのが、今夜の主役だった。主役の「生地」だった。僕はそれを屋上に薄く広げた。

 それから、ガスボンベにホースを付けて。屋上の突起に掲揚ロープを嵌め込んで。簡易テーブルに置いた、作業用PCにケーブルを接続して。

 もう一度、深呼吸した。

 ここからが、もっとも緊張する作業だった。

 パイプ椅子に座りながら、ゆっくりと、本当にゆっくりとヘリウムガスのボンベを開栓し、徐々に徐々に生地を膨らませていく。この速度を誤れば、生地は簡単に破けかねない。慎重に、慎重に。

 と、生地がパンケーキのようにふっくらしてきた。

 膨張は順調のようだ。

 そのまま、こんもりと膨れ上がって、ふわっと浮き始めた。屋上を離れ、ぷかーっと浮き上がり、夜空の中ほどで留まった。掲揚ロープでつながっているから、飛んでいく心配はなかった。

 それは、とっくに「平面」ではなかった。

 完全なる球体。

 八時になるのを待って、

「点灯」

 電源を入れた。

 夜空に浮かんだ大きな球に、ぼうっと、光が灯る。屋上の隅々まで暖かな明かりが行き届く。隣り合った屋上とは闇ではなく、光で、つながった。

 夜空に浮かんだ、光る球体は、アドバルーンだった。

 ただのアドバルーンじゃない。

 夜光アドバルーン。

 そう。

 僕の仕事は、ビルの屋上で、夜光アドバルーンを監視することだった。

 アドバルーンは、大きな気球を使った、広告手法の一つだ。そして、夜光アドバルーンとは、光る気球を利用した、夜用のアドバルーンのこと。

 アドバルーンといえば、気球から、短冊のような形をした縦長の「文字ネット」が垂れているもの。広告主にもよるが、そこには《本日グランドオープン》とか《売りつくしセール中!!》などと書かれている。

 ……が、しかし。

 今は夜だ。

 ただの「文字ネット」では暗くて読めたものではない。

 夜光アドバルーンでは特殊なネットを使用する。素材までは把握していないが、表面に無数の小さなランプが埋め込まれており、そのランプによる電光表示でもって文字を表現する。俯瞰すれば、ノスタルジックな電光メッセージだ。

 この夜用の「文字ネット」を、僕たちは、夜に布と書いて「夜布(やふ)」と呼んでいる。あくまで、便宜的な呼び方だが。

 今のところ、気球だけに光が灯っている。気球から垂れる夜布は、いまだに真っ暗だった。何の文字も映してはいない。

 最後の作業が、残っていた。

 僕はPCを使って、専用のサイトにアクセスすると、いつもの手順で、夜光アドバルーンとSNSの「オーパス」を繋げた。

 すぐさま、スマホを手に取って、オーパスのマイアカウントにログインする。

 深呼吸。

 肩の力を抜く。

 僕は、この夜にふさわしい〈つぶやき〉を一つ、発信した。

 すると僕の〈つぶやき〉が、ほどなくして、アドバルーンの夜布に電光文字として反映された。


――あなたは今夜、何をつぶやく?


 夜光アドバルーンは、SNSのオーパスをより多くの人に知ってもらうための、巨大な夜間広告だった。

 オーパスのユーザーであれば、誰でも「# 夜布に乗せて」とタグを付けるだけで〈つぶやき〉をアドバルーンの夜布に反映させることができる。

 反映可能な文字数は、二〇字以内。絵文字は使えない。コンプライアンスに引っかかった〈つぶやき〉は、自動的に弾かれる。

 一つの〈つぶやき〉の表示時間はたったの数秒だが、短文だから簡単に読めてしまう。気がついたら、後続の〈つぶやき〉が夜布を光らせていて。でも、それもいずれは消えて、別の誰かの〈つぶやき〉に……そうやって、夜布の上で電光文字の表示と消滅が延々と繰り返されるのだ。

 渋谷。

 と、アドバルーン。

 変わりゆく街の夜空に、古めかしい物体が光を放って揺れる。そんな、ギャップのある光景に、多くの人の目が惹きつけられていた。夜光アドバルーンを揚げ始めてから、アプリのダウンロード数が飛躍的に増えている、という話だ。

 僕は「オーパス」本社の宣伝部に電話を掛けて、

「横森です。アドバルーンは、正常です」

 と報告を入れた。

 春の夜風が、布を揺らす。

 揺れながらも夜布は〈つぶやき〉を切り替えることを忘れなかった。この夜を生きる誰かの声を、たしかな電光文字に換え、解放していた。

――渋谷なう。

 という〈つぶやき〉が今、夜布に表示されているが、次の瞬間には、

――彼女にフラれた。この夜を忘れない。

 に変わった。それも、すぐ、

――明日から痩せる♪

 に変わった。

――頼むから高橋一生が上司であれ!

 基本的に、夜布に表示される〈つぶやき〉は互いに脈絡がない。

――今日から痩せろ。甘えるんじゃない。

 ただ、こんなふうに「返し」をしてくる人も少なくない。

 言うまでもなく呟きとは声のこと。アドバルーンの夜布に〈つぶやき〉を飛ばしてくる人たちが「声徒(せいと)」と呼ばれるのは、そのためだった。

 監視員の僕は、アドバルーンが飛んでいかないように見張る。同時に、夜布の文字表示に問題ないかもチェックする。

 夜空を見上げる仕事とは、そういうことだった。

 楽そう、が第一印象。でも実際のところは、見上げてばかりの首の疲れる仕事だ。僕は薄手のグレーパーカーを脱ぎ、パイプ椅子の背もたれに被せると、立ち上がり、ちょっと伸びをした。

 それからバッグを開けて、ラジオを取り出す。下の事務所から持ってきた、同僚のみとじゅんこと、水戸淳之介のものだ。彼には金を貸していたし、ラジオくらい勝手に拝借したところで良心の呵責はなかった。

 ラジオの電源を入れる。と、さっそくこんなニュースが。

『渋谷区を対象として、計画停電が実施されることが決定しました』

 速報、みたいな喋り方だった。

 実施日は六月三十日。夜の九時からを予定しているとのこと。

 僕の予想通り、声徒たちの反応は早かった。

――計画停電 in 渋谷(笑)

――何だ。二ヶ月以上も先じゃん。

――渋谷滅亡

 僕は大停電の夜を想像してみた。渋谷から明かりが消える夜。その夜に、叱責されるのを承知で、この夜光アドバルーンを揚げてみたい。きっと美しいだろう。妄想はさらに進む。掲揚ロープを屋上の突起から外し、夜空へとアドバルーンを放つのだ。大停電の夜は、夜光アドバルーンが世界を明るく照らす。

 実現不可能な妄想ではなかった。屋上の物置には、アドバルーンの光に万が一があったときのための「予備電力装置」がある。

 わくわくした気分、そのままに僕はつぶやく。

――大停電の夜も、きっと楽しい。

 僕は、この仕事をするようになってから、夜が好きになった。

 僕の声に対するリアクションが夜布に現れては、消え、また現れた。同調するような声が多かったがゆえに、その〈つぶやき〉は何か刺さった。


――夜が怖い人もいるんです。



 アドバルーン監視のアルバイトをした夜の翌日に、私立中学の教壇に立って、平気で授業をしている自分が、不思議だった。

 不思議な現実だった。

 夜空を見上げていた僕だが、今は、自分の半分くらいしかまだ生きていない、中学二年生の子供たちに見上げられている。

 昼間、僕は中学校教師だった。

 教員というと、何だか偉いふうに聞こえてしまうが、全然そんなことはない。

 僕は、非正規雇用で、いわゆる「時間講師」という身分だった。

 任意のクラスに出向き、担当科目の国語を教える。それ以外の学校行事や、生徒たちの学校生活には干渉しない。担任の先生として学級を持つこともない。

「今日、読んだ小説は『こころ』です。作者は夏目漱石。明治時代を代表する作家です。漱石は僕みたいに、学校の先生をしていた時期もありました」

 教科書には載っていない、その外にあるものこそ生徒の興味を引く。授業中、僕は生徒のために「寄り道」をしたりする。

「さて、そんな漱石ですが、ある逸話が残っていて……」

 僕は言いながら、黒板に「I love You.」と書いた。英語の下には、カタカナで「アイラブユー」と読み方も添えて。

 夏目漱石は、かつて「I love You.」を「愛してる」以外の、独特な表現で訳した。有名かつロマンチックな「秘密の和訳」として語り継がれている。

「漱石は一体、何と訳したでしょうか?」

 知っている生徒は、さすがにいなそうだった。

「帰ったら、お母さんやお父さんに聞いてみてください。それでもわからなければ、ネットで調べてもいいです。あ、それと……」

 僕からの宿題は、もう一つあった。

「みんなだったら『I love You.』という愛の告白を、どんな言葉で訳しますか。何でもOKです。漱石の答えを参考にして次回までに考えてきてください。面白い答えを考えてきた人には、今度のテストの答えを教えます。嘘ですけど」

 生徒たちが笑ってくれる。それに被さるように、チャイムが鳴り響く。

 生徒たちは、さっそく前後左右の友人らと考えを出し合った。教室の中が、知的な話題でもって活気づく。

 僕は授業道具を左脇に抱え、右手で黒板消しを握った。

「あの、横森先生」

 女子生徒の一人が、僕のところにやってきた。前髪短めの女の子。手入れのほどこされてない自然な眉は、楽しみを待つようにやや上がり気味だ。

「あ、もう行っちゃうんですか?」

 僕の手元を見て、女子生徒の眉が下がった。

「ううん。行かないよ」

 抱えていた授業道具も、握っていた黒板消しも元の位置に戻し、安心させるように僕は言った。

「よかった」女の子は安堵の表情を浮かべる。

 その直後、教壇の上に誰かが乗ったのが、わずかな振動でわかった。ふり向くと、女子生徒の牧瀬明日香が、黒板消しを握っていた。屈託のない笑みは、僕に「黒板は私に任せてください」と言ってるみたいだった。

 ありがと。目で訴える僕。ここは牧瀬の優しさに甘えるとして、前に向き直る。

「どうしたの、授業の質問?」

 聞いてみたところ、

「先生って」

 急に、もじもじし始める女の子。

「……結婚してる?」

「結婚!」

 僕は軽く叫ぶ。

「してないしてない。先生なんかが、できるはずない」

「こんなに、かっこいいのに?」

 彼女は、ほんのりと頬を赤くしていた。

「かっこよくないよ」

 僕が言うと、女の子の背後から、彼女の友達が三人も出てきた。全員、女の子。そのうちの一人が、頬を赤らめている彼女に向かって、

「ちゃんと言えた? 先生に、あいらぶゆー」

「やめてー」

 まわりの友達が笑う。

 僕も笑った。

 時間講師の僕は、授業さえ終われば、帰る。学校側的にも、授業後の僕はすでに用済みだ。教室に残って、生徒たちと話すのは好きだけど、それを他の正規教員の先生に見られたりするのはきまり悪かった。

 だから、チャイムが鳴るなり荷物をまとめ、黒板をきれいにし、そそくさと教室から出ようと思うのだけど、なんだかんだ生徒たち(多くは女子)に捕まるのが常で。でも、それが何だかうれしくて。

 女子生徒たちは、ふざけてなのか本気なのか、僕のことをイケメン呼ばわりする。僕は自分のことをかっこいいと思ったことがない。

「いやいやいや」クラスのご意見番的女子生徒が渋い顔して言う。「うちの男子なんかの一〇〇倍はかっこいいですから。もっと自信持ちましょ、先生」

 中学生の男の子と比較される二七歳男子の僕。

「あ、ありがとうございます」

 また、笑われた。僕もつられて笑った。

 笑いながら、牧瀬を目で追った。僕の代わりに黒板を消し終え、自分の席へ戻る。窓際の席だった。座ると、牧瀬は文庫本を開いた。

 彼女の顔から笑みが失せる。その理由に気づいた僕は、もう笑えなかった。

「あ、ごめん。ちょっといいかな」

 手を合わせて、自分を取り囲む女の子たちにそう言い、教壇を降りる。そのまま牧瀬の席へと向かう。

 牧瀬は読書をしていたが、本当はすぐにでもこの場から逃げ出したいはずだった。牧瀬の席の斜め前に立った瞬間、僕は胸が締めつけられた。

 内巻きのきれいな黒髪に、小さな白い何かが、いくつも付いていた。よく見ると、消しゴムのカスとはっきりわかる。また一つ、小さな消しカスが飛んできて、牧瀬の頭のつむじあたりに乗っかった。心ない笑い声が響く。

 こういうことで叱るのは慣れていなかった。とはいえ、覚悟を決める。そうして、声をまさに発しようとしたとき。

 ……飛んできたのだ。今度は、消しカスではなく、まさかの女の子。斜め後ろあたりから飛んできた彼女は、僕の前に立つや、問題の女子勢を鋭く睨みつけた。殺気のようなものすら感じられた。

 意外だった。

 彼女、汲川早苗は、クラスでいちばんの文化系女子。黒髪は両耳に掛けて、丸メガネまでしている。こんなに、たくましい女の子だとは思わなかった。

 一触即発、そんな空気があたりに充満していく。すぐに換気が必要だった。僕は汲川の前に割り込み、仲裁に入った。

 大人の僕が間に入ることで、いくらか空気は改善された。どっちが悪いとかそういうことは言わなかった。僕は彼女たちの事情を何一つ知らない。

 汲川は牧瀬の髪に触れ、消しカスを払い落としていく。

「ありがと」

 牧瀬が文庫本から顔を上げる。

「動かないで」

 厳しく言うわりに、汲川の手つきは優しかった。


「横森さん」

 と、教室を出たところで、呼び止められる。

 数学の冴木先生が、壁に背中を預けるようにして、立っていた。彼は僕よりも三つ歳下の、正規教員だった。

 冴木先生は、僕のことを「横森先生」とは呼ばない。

「あ、すいません」

 僕は反射的に謝ってしまう。

「休み時間だからって長居してしまいました。次の授業、数学でしたよね」

「いや、そういうことじゃないんですよ」

 冴木先生は、銀縁のメガネの似合う知的な顔立ちをしていた。でも、それが冷たい表情と取れなくもなかった。

「あんまり勝手なこと、しないでほしいんですよ」

「勝手なこと?」

「さっきの。生徒同士のトラブル。横森さん、間入りましたよね」

「はい」

「それのことですよ」

 あのままだったら完全にケンカになっていた。大人が介入するという行為は、あの場で必要不可欠だった。そう僕は説いた。

 すると冴木先生、

「いや、ここ僕のクラスなんで」

 などと言う。何だか、刺々しい言い方だった。

「横森さん。生徒から人気あるのはいいと思いますけど、ちょっと出過ぎかと。僕のクラスの生徒たちの揉め事は、担任である僕が、何とかしますよ」

 チャイムが鳴る。

「失礼します」

 冴木先生はそう言って、教室の中へ。

 何も考えないようにして、歩き始める僕。

 廊下ですれ違った先生方は、みな、僕に「お疲れさまでした」と声を掛けた。その言葉に押されるようにして僕は玄関まで流れ着いた。

 外が、明るかった。

 不覚にも、ちょっと考えてしまった。

 冴木先生の「いや、ここ僕のクラスなんで」という言葉。あの言葉には、それ以上の意味が込められていた。それは、担任としてクラスを持つことのできない、僕に対する皮肉。

 べつに、いい。

 クラスが持てなくたって。

 僕はもっと、この場所にいたいだけだった。

 もっと生徒たちに、この世にはいろんな言葉や物語があることを、教えたかった。

 そのために教員になったのに、僕は今から帰ろうとしていた。僕はそんな自分が、信じられなかった。情けなくって、恥ずかしかった。

 何も考えたくない。

 何も。

 考えないでいることだけが、僕を痛みから遠ざけてくれた。

 あの屋上が、すでに恋しかった。何も考えないでいることを許してくれる、あの優しい屋上が。

 気がつくと、夜を待っている。


 SNSの「オーパス」って、どんな意味だろ。

 思って、調べてみた。

 言葉や声には、魂が宿っている。なんてことない人の「つぶやき」も、魂であり、一つの独立した「作品」なのだ。ラテン語で「作品」を意味する「オーパス」には、そんな主張が込められていた。

 初めて知った。

 一つ一つの〈つぶやき〉が作品だなんて、大げさな。そんな意識だったら、簡単につぶやけなくなる。

 とはいえ、一方で「真」だと思った。

 僕たちは何でもかんでも〈つぶやき〉にする。そうやって、好き勝手に発信するから、何だか気づかないうちに大事なものまで、一緒に垂れ流してしまっているような気がする。ちょうど、スクランブル交差点で、不特定多数の見知らぬ誰かと体が擦れるときのような、妙な喪失感に似ている。

 言葉や声には魂が宿っている、か。たしかにそうかも。

 魂は、そう簡単に燃やすもんじゃない。心を込めて燃やすもの。一つひとつの〈つぶやき〉も、それくらいの意識で発信したい。

 夜空を見上げた。

 明るいものが浮かんでいた。静かに燃えているようにも見えた。今夜も、夜光アドバルーンは、夜を生きる人々の〈つぶやき〉を掻き集めていた。

 僕はオーパスを開く。

 マイアカウントは私用と仕事用と二つ。仕事用の方にログインした。ユーザー名は「バルーン先生」。アイコンの画像は夜光アドバルーン。紹介文には〈つぶやき〉を夜布へ転送させる方法なども記載している。

 バルーン先生は、声徒たちから人気があった。

 僕がバルーン先生として〈つぶやき〉を発信するなり《あ、バルーン先生だ》《今夜もよろしく》といった反応が現れることも珍しくない。

 とはいえ僕はあくまで監視員。勤務中のほとんどの時間を、夜光アドバルーンの監視に充てている。つぶやくのはたまにでいい。

 気球から夜布へと目線を移す。

 電光文字が、ぱっ、ぱっ、と切り替わっていた。テンポは崩れない。独特のリズムだが今では妙に落ち着く。心音に重なるのだ。

 夜空に光る〈つぶやき〉を僕は眺めた。

――飲みたい気分

――DVD返さなきゃ。

――渋谷なう。

――恋ダンス踊れなくなってる…。

――社畜なう。

――俺も飲みたい気分。

――ハチ公前にいます。母

――これからツタヤ前でラップバトルします!

――飲みたい

――YO! YO!

――渋谷まじで人大杉漣

――オーパス最近重たいよ。何とかしてほしいわ

――明日学校サボります。いいですか?

――ハチ公前の母やいかに

――いいよ

――だめ

――夜パフェ

――人に聞くなよ。

――母です。娘と会えました。

 こうして、誰かの〈つぶやき〉に耳を澄ませているだけで、僕は満たされる。冴木先生に言われた言葉とか、嫌なこと、すべて忘れられる。

 一瞬、目を疑った。

――夜が怖い人もいるんです。

 そんな見覚えのある〈つぶやき〉が、また夜布に表示されたような気がしたのだが、気がしただけで、幻だった。

 昨夜のことが思い出される。「渋谷区計画停電」が発表され、声徒たちが停電の話題で盛り上がって、僕ことバルーン先生も流れに乗っかるようにして、

――大停電の夜も、きっと楽しい。

 と、つぶやいた直後のこと。話の流れに水を差すような例の〈つぶやき〉が、夜布を揺らしたのだ。

 夜布には〈つぶやき〉が表示されるだけで、誰の〈つぶやき〉かは、オーパスで確認しないとわからない。僕は、あの『夜が怖い人もいるんです。』という言葉を目にしたとき、何か心に刺さって、少し呆然とした。一瞬、どんな人がつぶやいたのか確認してみようかとも思った。でも、わざわざ検索したりするのは、違う気がして。結局、あの「夜嫌いな誰かさん」は正体不明のままだった。

 どんな理由で夜が怖いのかは存じ上げませんが、あの流れを止めてまでもつぶやくことだったんでしょうか。僕は、そう問いただしたい。そして、言いたい。あなたは夜を知らないだけなんだと思います。夜は怖くなんかありません。夜は、明るくて、美しいものです。

――今日は花金。夜空に乾杯♪

 満を持して、バルーン先生はつぶやいた。片手にグラスを持って。

――かんぱーい。

――まだ仕事だっつの!

――乾杯。

 声徒たちも、そうつぶやいて、グラスを持ってくれる。バルーン先生のグラスに、彼らのグラスが当たって、音が鳴る。

 まだ出会ってもいない誰かと、この夜空の下で繋がる。そんなことが、できてしまうのだ。幸せを感じなくもなかった。が、こんな擬似的な繋がりに幸せを感じてしまう僕は、ことごとく孤独な人間だった。

――夜々しい、どんな意味?

 と、さらにつぶやく僕だった。

 こんなふうに大喜利のお題っぽいのを出せば、盛り上がるのを知っていた。的中。すぐさま夜布は熱のこもった回答を次々と映し続けた。

――夜度が百%の状態

――逆に朝

――岡村靖幸の『カルアミルク』を聴くこと。

――今。

――答えはあなたの心の中に……。

 孤独なのは、僕だけじゃない。そう〈つぶやき〉の光る布を見ていると、思う。みんな、やっぱりちょっとは孤独で、誰かと繋がれる場所を探してる。夜光アドバルーンは、誰かと誰かが束の間、繋がることのできる場だった。

 平和だな、なんて思いながら。

 僕は完全に油断していた。


――夜は孤独な馬鹿が増えるんですね。


 壊れる平和。

 夜布は火がつき燃えるように荒れ始める。

――馬鹿言われた……。

――褒め言葉だな。

――何なん?

――あ?

――バカはお前じゃねーの?

 何とか軌道修正しなくてはと思った。でも、いい言葉が見つからない。こうしている間も夜布は燃えている。

――とりあえず、また乾杯!(笑)

 と、応急処置のつもりで放った〈つぶやき〉のおかげで、夜布の炎上は徐々に、徐々に収まっていった。ほっとした。

 今度ばかりは迷わず動いた僕だった。

 検索窓をタップ。文字パネルを引き出し「夜は孤独な馬鹿が増えるんですね。」と打ち込み、検索。すぐさま僕らの平和を壊した犯人がヒットした。

 ユーザー名は「きのした」だった。

 そのまま「きのした」のタイムラインをスクロールする。……予感は当たった。一個の〈つぶやき〉が僕の目に留まった。


――夜が怖い人もいるんです。


 同一人物だったのだ。

 空気を読むことも知らない、そして挑発的。どうせ、ろくでもない男なのだろう。と思って「きのした」の小さなアイコンをよく見たら、そこに写っていたのは、手と風船だった。左手で赤い風船の紐を持っていた。

 手、だけでは、男とも女とも判断がつかなかった。

 しかし、確実にわかったことがある。それは、平和の壊し方を知っているような手ではないということ。

 感覚的に言うとしたら、「きのした」の手は光に愛されていた。みずみずしいほどの白さのうちに、光が集約し、月明かりのように冴えていた。

 この手が平和を壊すような〈つぶやき〉を飛ばしたのだとしたら、それはきっと、何かの不運なのだ。月が陰るように、手に闇が差したに違いない。

 いつの間にか、この左手の主を、僕は心配していた。

 心に闇が巣食うとき、人にそれを相談したり打ち明けたりすることのできない、そんな孤独な人なのではないか。と、想像してしまうのは、教師としての性ではなく、僕も孤独な人間の一人だからだ。

 放っておけなかった。

「そんなに夜が、怖いですか?」

 勢いで僕は「きのした」にメッセージを送ってみた。すると、すぐに「既読」がついた。僕は息を呑んだ。数秒後、返事が届いた。

『そんなに夜が、怖いです。』


 私用のアカウントを使っているから、「きのした」とのやりとりで、会社に迷惑がかかることはないだろう。

 僕は「きのした」への次なるメッセージを考え、それを綴った。

「どうして夜が怖いんですか?」

 返信は早い。

『怖いものは怖いので』

 聞かれたことにしか答えないスタンスなのだな、と思った。文章は簡潔、というよりも、ぶっきらぼう。

 僕より少し、若いぐらいの男だろうな。

「怖いからといって、夜に浮かれてる人たちを馬鹿にするのは、違うと思います」

 急に、返事が来なくなる。

 僕はメッセージを二つ、立て続けに送った。

「僕、実は「バルーン先生」と知り合いなんです」

「言ってました、彼。あなたのつぶやきのせいで、平和が壊される、って」

 すぐに「既読」はつくのだ。

 それでも返事はない。

「つぶやくな、とは言いません」

 そして、僕は、単刀直入に訴えるのだった。

「平和を壊さないでください」

 待てど、メッセージは返ってこない。

 もしかしたら、長文で、挑戦的な言葉を並べ立てているのかもしれない。僕は身構えた。身構えてしまっていたからこそ、

『ごめんなさい』

 その素直な言葉には、拍子抜けしてしまったのである。

『自分が馬鹿だったんだと思います』

 ふと思った。

 もしかして、彼は誰かに、はっきりと真摯に、そう言われるのを待っていたのではないだろうか。

「あの、「きのした」さん」

『はい』

 呼びかけてから、いろんな言葉を打っては、消した。ありがとうございますとか、すいませんとか。結局、僕が送ったのは、

「大丈夫ですか?」

 だった。

 そんな言葉でも掛けてあげないと、何だか気が済まなかった。彼は、やはり平和を壊すような人ではなかったのだ。

『大丈夫じゃないです』

 という、その一文字一文字が、ふるえてるような気がする。打った手も、指先も、ふるえていたのだろう。

『こんなふうに心配してくれる人、いるんだ』

 思った通りだ。彼は孤独な人間なのだ。

「大丈夫じゃないんですか」

 僕はそんな言葉しか送れなかった。

『心配しないでください』

『大丈夫だから』

 そうやって、強がってしまう気持ちもすごくわかるのだ。

「僕にできることはありますか?」

 一応、手を差し出した。

 ところが「きのした」からの返事はそれっきり。

 人に甘えることもできない、孤独な人間なのだろうと思った。自分の分身みたいに思えて、何だか、じれったかった。

 僕はアプリを閉じた。


 夏目漱石による「I love You.」のロマンチックな訳し方に、生徒たちが沸く。賛否両論渦巻き、あまりに盛り上がりすぎて、隣のクラスから「うるさい」とクレームが入ったほどだ。

 生徒たちには、オリジナルの訳も発表してもらった。どれも面白かった。でも、漱石先生を越えるような人はいなかった。

 僕は「きのした」のことなど、すっかり忘れていた。それが、職員用玄関で靴を履き替えているときに、なぜか、ふと思い出した。学校の門を出たところでスマホを取り出し、オーパスを開く。

 すると、「きのした」から新しいメッセージが来ていた。

『よかったら、話し相手になってくれませんか?』

 昨夜から、悩みに悩んで、ようやくこの言葉を送るに至ったのだとしたら、彼は僕以上に孤独と生きづらさを抱えている。

 断る理由はないような気がした。

「よろこんで」

 と、僕は送った。


 僕たちは「木下さん」「横森さん」と呼び合った。

 会ったこともない、会うつもりもない、そんな人との会話は、僕を開放的な気分にさせた。平気で自分の職業なんかを、口にしてしまうことができた。

『学校の先生なんですね』

「そうそう」

 彼は僕のことを「横森さん」から「先生」と呼び変えた。

「木下さんは普段、何を?」

『学生です』

『大学生』

 タイムラインを遡ってみる。すると「夜が怖い人もいるんです。」の前に「ライブ楽しかった~」という〈つぶやき〉があるのを知った。

「ライブはよく行くんですか?」

『行きます』

『バンドが好きなんです』

 聞けば、好きなバンドはすごくマイナーだった。僕もマイナーなバンドが好きだった。まさか音楽の話で盛り上がるとは。

 僕たちが、ざっくばらんにいろんな話をすることができたのは、ひとえに、どうせ会わないんだから、という前提があったからだった。会わないからこそ、僕は、深夜ラジオにハガキを送っていた過去や、渋谷の地下劇場で、売れていない若手芸人のネタを見るのが好きだということなども、話すことができた。それらの趣味は、現実で顔を合わせる人には、言ったことがなかった。

 彼は彼で、きっと誰にも言ってこなかったようなことを、教えてくれていた。オーパスのアイコンにも写っているが、風船好きだということ。肺活量がなくて風船を膨らませるのが大変だということ。痩せすぎて親から「もやし」と呼ばれていること。もやしが食べられないこと。

 そんなふうに言葉を交わしていると、彼が夜を恐れている、ということが、何だか信じられなかった。

 正直、夜を怖がる意味がわからなかった。子供じゃないんだから、とすら思った。

 ところが、彼はオーパスで「怖い」などと相変わらずつぶやくのだ。

 フォロワーが極端に少ないから、僕に対する〈つぶやき〉であるような気もしないではなかった。

 まあ、思い返せば、僕も大学生くらいのときはいろんなことで思い悩んだものだ。相談できる相手がいたら、どんなに気が楽になっていたことか。

 僕の方から切り出した。

「どんなふうに夜が怖いの?」

『怖いものは怖いです』

「気を紛らわしたりするのはどうかな?」

『意味ないです』

「好きな音楽を聴くとか」

『もうとっくに聴いてます』

「それでも怖いなら早めに寝るとか」

『先生。メッセージが面倒なら、はっきりとそう言ってください』

「いや、違うって」

 じれったい。でも、それ以上の気分が台頭してくる。

「本当に、何とかしてあげたいからさ」

 救いたい、という気分。

『優しいんですね』

「僕の下の名前、「佑」っていうんだけど、この字には人を「たすける」って意味があるんだよ」

 本当は、そんな美しい動機じゃない。

 誰でもいいから救いたかった。

 教室では、牧瀬への陰湿ないじめが、続いていた。女子生徒、一人すら守ることのできない自分に対する歯痒さ。時間講師という現状に対する葛藤。要するに、今の僕は心が荒んでいて、誰かを救うことで、傷ついた自尊心に薬を塗りたかったのだ。

「僕が克服させてみせる。君の夜に対する恐怖心」

『無理ですよ』

「僕が夜を案内する」

「夜は、木下さんが思ってるようなものじゃないから」

『……どういうもの、なんですか?』

「夜は明るくて美しいんだ」

 僕たちは、そうして、会うことになってしまった。

 自分のことが、とことん嫌いになる。僕は木下さんを救いたいのではない。自分を救いたいだけなのだから。



 渋谷駅前。スクランブル交差点。信号は赤。青になってくれないと困るけど、青になるのが怖いような。でも、それは歩行者と肩がぶつかるからじゃなかった。これから人と待ち合わせるから。人見知りの僕は何だか憂鬱だった。

 まさか自分が、ツタヤ前で誰かを待つことになるとは思わなかった。

 自分と同じように、誰かを待っている人であふれている場所だけど、気のせいか、僕だけが浮いているような感じがした。ここで誰かを待っている人たちは、みんな、ここで誰かを待つことに慣れていた。僕だけが慣れていない感じがした。

 ビルに背を向けて立っていた僕は一旦、背後のガラス張りに全身を映した。白シャツに春物のカーディガンでさっぱり合わせたはずなのに、冴えない国語教師感が拭えないのは、なぜ。まあ、今さら服装は変えようもない。

 諦めて、前を向き直ると、そこに一人の女の子が立っていた。

 スマホよりも大きなタブレットを両手に抱えながら。タブレットは白い光を放っていて、その画面に太い文字で、

『横森先生?』

 と書いてあった。

「あ、はい」

 僕は、いきおい、そう答えた。すると女の子は、専用のペンでタブレットの画面に素早くこう書いた。

『木下咲良です』

 僕は、ぽかんとした。一方で、彼女は文字を消し、こう書き直した。

『こんばんは』

「あ、こんばんは」

 僕は呆気にとられていた。

 それは「きのした」の中身が、男ではなく、女の子だったから。会話にタブレットを使ってきたのもびっくりしたが、まあ、それ以上の驚きがあった。

 咲良は、言葉にせずにはいられないほどの、きれいな女の子だった。

 深く入った二重まぶた、夜を映すように黒々とした瞳、その大きな瞳を支える小ぶりな涙袋。瞬きをするたびに愛らしさが、こぼれる。

 甘く結ばれた口元は、笑みを予感させた。

 肌は白い、色を抜いたように。それとは対照的に、髪の毛は夜気を吸い込んで黒くしっとりしていた。ストレートヘアの髪先が、浮き出た鎖骨を掠めている。

 麻素材と思われる、白のワンピースが体型をぼかしているが、咲良は痩せている。ノースリーブの袖口から、少女独特の丸みを帯びた小さな肩と、ほっそりとした腕が露わになっていた。

「あの」

 と、僕は切り込む。これを聞かないと、先に進めないような気がしたのだ。

「木下さんは、えっと、喋れないんですか?」

 咲良は慣れたようにペンを走らせる。

『実はきのう』

『カラオケで友だちと』

『歌いすぎてのどが』

 苦笑いを浮かべる彼女。

「はあ、そうだったんですね」

 僕が安心したのを見て、咲良も安心したようだった。

「あ、」

 僕は改まった感じで言う。

「横森佑と申します」

 咲良は、僕の真面目さをくすっと笑った。