八月某日 厳かなパイプオルガンの音色に誘われるようにしてチャペルの扉が開いた。純白のドレスに身を包んだ千紗は、その波打つようなトレーンが引き立つよう、いつもよりかなり高め――一三センチヒールの華奢なパンプスでゆっくりと優雅に歩き出す。

 目の前に続くバージンロードに、ステンドグラスから溢れる祝福の光がゆらめく。そのあまりの美しさと透き通るような聖歌隊の声が、緊張に強張る千紗の体を優しく溶かしてくれる。

 ああ、なんて素敵なのかしら……。幼いころから夢見ていた憧れのワンシーンに胸がときめく。ううん、もう憧れなんかじゃない、だって私は彼と――。

 長いようで短い半年間、思えばいろんなことがあった。始まりはお礼のつもりで渡した義理用のチョコレート。五〇〇分の一の奇跡で彼の手に舞い込んだそれは、たくさんの誤解と混乱、そして運命の恋を引き寄せてくれた。

 その極度に厳めしい風貌から、会社では殺し屋だの元組員だの、あらぬ噂を立てられてしまう彼――私自身もあんなに怖がっていたその人と、まさかこんなに素敵な日を迎えられるなんて……!

 一身に注がれる参列者の視線に照れながらもようやく辿り着いた祭壇。その前で待っていたのは白いタキシードに身を包んだ最愛の王子様だ。

 王子と呼ぶには少し生真面目、それにかなりズレている。それでも、千紗が一生を委ねられるのはこの人をおいて他にないと、胸の中の子猫もニャアニャア連打で太鼓判を捺している。

 一八〇センチを優に超える長身の彼――その愛しいコワモテを見上げた千紗は、

 ――あ……れ……?

 違和感に軽く小首をかしげる。

 彼の顔が逆光でよく見えない……。それにウェディングベールのせいかな。いつもはギラギラと主張の激しい特徴的な三白眼が、今日は驚くほど落ち着いて見える。

 ベールの効果ってすごい。あんなにもキレッキレな鋭い眼光をここまで抑え込めちゃうなんて……。こんなに穏やかな目元、まるで別人みたい……って―――――

 よもやの事態に気付いた千紗は、顔にかかっていたベールを自ら捲り上げ――

「あっ、あなた誰……?」

 ベールマジックなどではなく、本当に別人――己の前に立つ見知らぬ花婿の姿に唖然となる。

 なんでこんなことになっちゃったんだろう。事の発端は一ヵ月前に遡って――


第一章 ハッピーエンドのその先で


「しっかしまぁよく続いてるわねぇ、あんたと北風さん。二人の小っ恥ずかしい話聞いてるとゾワゾワしてきちゃって常時引き始めの風邪みたいよもう」

 ある日の仕事終わり、いつものダイニングバーで飲んでいると、聞き役だった恵里子はぶるぶるとその身を震わせ、「マスター、葛根湯をダブルで!」と相変わらずの冗談を言った。毎回飽きもせず北風の話ばかりする千紗に辟易しているようだ。

「ごめんごめん。別に惚気てるつもりはないんだけど、龍生さんのこと話してるとつい夢中になっちゃって……」

 ホワイトデー明けの撲殺未遂事件を乗り越え、北風と本当の意味で両思いになってから早数ヵ月――季節は夏を迎えていた。それなのに千紗の頭は未だ春色、幸せモード全開で、かつては仕事の愚痴がメインだった恵里子との話題は、そのほとんどが北風の話に取って代わっていた。

「あー、もうほんとつまんないわー。孤独な元スナイパーとの道ならぬ恋なら応援のしがいもあるけど、ただ顔が怖いだけのオッサンとの恋バナなんて聞かされてもねー。おまけに重度の潔癖症持ちとか意味わかんないし!」

 愛する君のために組織滅ぼしましたーみたいな顔してるくせに、実際はただ雑菌駆除してるだけでしょ、紛らわしいったらありゃしない! 不満そうにこぼした恵里子はさらに続けて、

「あんたにはなんやかんやで誰もが羨むすんごいイイ男つかまえてほしかったんだけどねー、あたしとしては」

「えー、龍生さん、すっごくイイ人だよ? あんなに素敵な人、他にはいないと思うけどなー。まぁ見かけはちょっと個性的で、取っつきにくい雰囲気あるけど……」

「どこがちょっとよ、歩く核抑止力みたいな男じゃない。会社のみんな、あんたたちのこと羨むどころか事件性感じちゃってるわよ? あの巻物だって黒い噂の種になってるみたいだし」

「あー、あれねぇ……。私としてはよかれと思って話したんだけどなぁ……」

 巻物というのは何かの比喩や俗称ではなく、そのものズバリ巻物――忍者愛用のアレだ。日本の伝統文化を尊ぶ北風が千紗のためにわざわざ手作りしてくれたサプライズ誕生日プレゼント――なのだけど、二人の交際を聞きつけた後輩にその話をしたところ、何をどう取り違えたのか、〈付き合わずんば命あらず〉と血文字で記された脅迫状……というか脅迫巻物で迫られてしまったために、千紗は泣く泣く北風と一緒にいるんだ、などという事実無根のおかしな噂が広がってしまった。

「北風さんって彼女にどんなものプレゼントするんですか? なんて興味津々で聞いてきたから、正直に答えただけなんだけどなぁ。彼のちょっとズレてるけど文学的なところを知ってもらえれば、殺し屋的なイメージが少しは薄れると思ったのに。私たちが本当に思い合ってるんだってこと、なかなか信じてもらえないのよね……」

 ため息をついた千紗は、グラスに入ったジンジャーエールをストローでぐるぐるとかき混ぜる。北風とのことは、何かとこんがらがって上手く伝わらない。初カレとの一件で恋愛には消極的だった千紗にとって、こんなにも夢中になれる恋は久々すぎるほどに久し振りなのだ。もういい大人だし、社内恋愛でもあるから節度は守らなきゃ、とは思うけれど、それでも少しは誰かに祝福してほしかった。

 だけど現実は、早くいい相手を見つけろとお節介気味な心配をしていた綿貫課長ですら『三春君、働きすぎて判断力が落ちてますわー、危険な恋が楽しいのはドラマの中だけですけんねー、現実は法令遵守でお願いしますわー、親が泣きますわー』なんて別の意味で心配してくる始末だ。

 恋愛方面にはなぜか鋭い後輩、桃原だけは二人の両思いを察したようだけど、『先輩ってああいうコワモテがタイプだから今まで独身だったんですねぇー。あそこまでの物件、なかなかありませんもんねー、そりゃ行き遅れちゃうわけだぁー』と、失礼かつ変な方向に納得してしまっていた。

「龍生さん、自分から主張するタイプの人じゃないし、私以外には基本無口だから特に弁解もしないのよね。そのせいか余計におかしな噂が広まっちゃって……」

「北風さん、言動もいちいちズレてるし、顔以外も疑惑の宝庫だものねー」

「彼が本当は怖い人じゃないんだってこと、みんなにもわかってほしいのになぁ……」

 嘆息をもらした千紗は、「あ、でも……」と顔を上げて、

「彼の本当の良さを知っちゃったら、会社の女の子たちみんな恋に落ちちゃわないかな? 社内でライバル続出なんてことになったらちょっと困っちゃうかも……」

「ないない、それは絶対ないから!」

 ぶんぶんと首を振って力強く否定した恵里子は、「まっ、さすがに結婚まで行けば二人の仲が本物だってみんな信じるでしょ」とカクテルに口を付ける。

「そうだ! 披露宴の入場曲、『ゴッドファーザー』のテーマにしてよ。和装なら『仁義なき戦い』ね」

「ちょっ、なんでそんな余計に誤解されそうな選曲しなきゃいけないのよ!」

 目一杯反論しつつも、「それに……」と顔色を曇らせた千紗は、

「そんなにすぐ結婚ってことにはならないわ。彼にその気がないみたいなの……」

「なによ、ラブラブなんじゃないの? 結局受け取ったんでしょ、あの指輪」

 それはそうだけど、と俯いた千紗は、ブラウスの中に隠れていたネックレスを取り出す。チェーンに通してあるのは、北風からもらった母親の形見――一粒ダイヤのエンゲージリングだ。ホワイトデーのあの日、北風はこの指輪を前にプロポーズしてくれた。これからの人生を、共に歩んでは頂けませんか、と――。

 義理チョコならぬ事故チョコを渡してしまった当初は、北風の鋭すぎる眼光や黒い噂を恐れ、気持ちもないのに付き合うフリをしていた千紗だが、交換日記やデートを重ねるうちに、いつしか本気で恋に落ちていた。だからプロポーズ自体はとても嬉しいことだったのだけど、指輪に込められた北風と彼の母親の純粋な思いを知った千紗は、事故チョコの真相を明かせず、不誠実な対応をしていた嘘つきな自分は彼にふさわしくないと、一度はその申し出を断っていた。

 だがその後の鈍器騒動で無事誤解は解け、北風と本当の意味で両思いになれた千紗は、晴れてこの指輪を受け取ることができた――のだけど、

「婚約中って感じが全くしないのよ。この数ヵ月、会話の中に結婚の『け』の字も出てこないっていうか……。いつごろまでには結婚したいですねー、なんて話が出てもよさそうなものなのに……」

 そう言って唇と肩をすぼめると、怪訝そうに眉を寄せた恵里子は、

「あんたたちさぁ、ちゃんと進展してんの?」

「してるよ? そりゃ結婚の話こそ進んでないけど、お互い下の名前で呼び合う仲にはなったし! 龍生さん、千紗さんって!」

「はぁ? ようやく下の名前でって、あんたたち今まで何やってたのよ」

「普通にデートしてたけど? 動物園に行ったり美術館に行ったり。さすがに平日は忙しいからなかなか時間とれないけど、この前は会社の昼休みに公園ランチしちゃったんだから! お弁当作り合って交換したの! 遠足みたいで楽しかったなぁー」

「アッソウ、ヨカッタネ」

 死んだ魚のような目になった恵里子は、「てかあたしが聞いてるのはそういうことじゃないのよ、ぶっちゃけ夜の方はどうかって話よ」と勢いよくカウンターを叩く。

「撲殺未遂のとき、どさくさに紛れてキスはしたんでしょ? その先はどうなのよ。前に彼とならそーゆーのもオッケーだって言ってたじゃない。自然な流れならって」

「そそっ、そんなこと大きな声で蒸し返さないでよ恥ずかしい……」

 ストレートすぎる追及に真っ赤になった千紗は声のトーンを落としながらも、

「いい流れはあったのよ? 自然にそーゆー雰囲気になったっていうか……」

 そう、確かにいい流れではあったのだ。あれは本当の意味で彼と付き合い始めてから二ヵ月――五月の終わりごろだったろうか。初夏とは思えぬほどに気温が上がる中、指輪とともにもらった鈍器――もといオジギソウが想像を絶するほどの勢いで急成長してしまった。元気がいいのはなによりだけど、これ以上陣地を広げられると洗濯物を干せなくなっちゃう、どうしよう――。そんな千紗の悩みに応えた北風が、ある土曜の昼下がり、自宅までオジギソウの手入れに来てくれることになった。

 実のところ、北風が千紗の家に来るのはそれが初めてだった。無事にオジギソウの剪定が終わり、お礼にと千紗が手料理を振る舞ったその夜のこと。テレビで流れていた洋画を彼となんとなく見ていたら、いきなり赤面必至なラブシーン(ケンカ中のカップルが森で遭難からの突然の抱擁、そしてなぜか都合良く出現した小屋でまさかの大わらわ!)が始まってしまった。一瞬気まずくなったものの、なんとなく互いを意識した千紗たちはいわゆるイイ感じになり、『あ、あの……』と硬くぎこちない、だけどどこか面映ゆそうな表情で北風は、

『いま私が千紗さんに触れることは可でしょうか否でしょうか……?』

 そんな律儀な彼らしい問いかけに、『かっ、可でございます……よ?』と照れながらもおかしな返答をした千紗を、北風はふわりと優しく抱き締めてくれた。それから『千紗さん……!』『龍生さん……!』と互いの名を呼び合った二人は何度か小鳥のようなキスをして、そのうちに自然な流れで北風の手が千紗に触れたとき、

『やだ、だ……め……』

 そんな甘い吐息をもらしながらも、いよいよ私たち、恋の中学校卒業なのね……? 嬉し恥ずかしい気分に千紗が頬を染めた次の瞬間――

『失礼、今日は私のために格別な晩餐をご用意頂き、まことにありがとうございました。それでは!』

 そう言い残した北風は、何事もなかったかのようにあっさり帰ってしまったのだ。

「嘘でしょ? そこまでいっといてそんなことってある?」

 千紗の話を聞いた恵里子が、信じられない、と何度も瞬く。

「私もそう思った。ここまできて突然帰還なんてありえないでしょって。だけどもしかしたら……北風さん、私の盛り上がりに欠ける胸を見て盛り上がりきれなかったのかも……。ちょうどその辺りに手が触れたときだったし、元カレにも言われたことあるのよね、胸が小さいのが私の難点だって……」

 やっぱり男の人ってそういうの気にするのかなぁ、と横目で恵里子をチラリ。ゴージャスな巻き髪の下に隠れる……と思いきや全くもって隠れていない、髪型同様にゴージャスな胸に羨望のため息をつく。――と、「中身があんたならたとえ男だったとしても構わない――なんて鳥肌日記よこしてきた男よ? そんなつまんないこと気にするわけないでしょ」と笑い飛ばした恵里子は、

「彼もうアラフォーだし、ナニがアレだったんじゃない? 手料理にマムシの粉でも混ぜとけばよかったのに。やっぱりさぁ、いいスッポン鍋屋、紹介しようか?」

「そ、そういうことじゃないと思うけど……。でっ、でも一応教えてもらっていいかな、万が一ってこともあるし……!」

 念のために、とスッポン鍋の名店リストをスマホに送ってもらった千紗は、

「だけどもし仮にそれが原因だとしても、それ以来全然そーゆー雰囲気にならないっていうのも変じゃない? 未遂くらいには陥ってもいいと思うんだけど……。あれからだって、龍生さんが家に来る機会自体はあったのよ? だけど、あの日みたいに熱烈モードになることはなくて……」

 一回目の剪定終了後もオジギソウはめげずに成長を続けていたため、北風は定期的に手入れに来てくれていた。だけど本当にそれだけ。剪定後、千紗の手料理を楽しんだ彼は、少しの談笑ののち、極めて健全かつ颯爽と帰路につく。報酬が夕ご飯な出張園芸屋さん状態だ。

 あの夜の熱い流れよもう一度――と、胸焼けしそうなほどに甘ーいデートムービーを借りてきたり、濃いめのチークで色っぽく火照った頬を演出してみたり、それとなくそーゆー雰囲気を醸し出そうと試行錯誤はしてみたのだけど、そのどれもが空振りに終わってしまっている。

「この間なんて、胸がないなりにもセクシーに攻めてみようと思って背中のザックリ開いたワンピ着てみたの。なのに龍生さんったら、『森にでも行かれたんですか? 背後の生地が見事に破れてしまっている……! きっと木の枝にでも引っ掛けてしまったのでしょう、さあさあこれをどうぞ』なんて、ソファにあったブランケットで隠しにきたんだから。あれこそがほんとのありがた迷惑だわ!」

 こっちなんて、いざってときのために例のカバー的なものまで準備してるっていうのに……! 思い出して口を尖らせる千紗に、「ちょっ、マジでウケるんですけど! ただのオッサンじゃつまんないと思ってたけど、そこまでズレてんならアリだわアリ!」と恵里子が吹き出す。

「他人事だと思って楽しまないでよ、こっちは本気で悩んでるんだから」

 もう、とため息をついた千紗は、慎ましやかな胸元に光るエンゲージリングに視線を落とす。こうしてネックレスとして持ち歩いているのは、千紗の指には少し大きいからだ。折を見てサイズを調整、本来の居場所で輝かせてあげたいという思いはあるが、結婚の話が宙に浮いてしまっている現状ではなかなか実現しづらい。

 結婚ともなると、さすがにそーゆーことの相性は大事になってくるだろう。もしかしたら自分にそーゆー方面での魅力が欠けているせいで、北風があのプロポーズを白紙に戻したがっているのでは――そんな不安から、結局指輪はネックレスに通したまま。向こうにはもうその気がないのに、これ見よがしにサイズ修正なんて情けないことはできない。

「私ばっかり期待しちゃってバカみたい。見かけ倒しで実はお子ちゃまな私とは、次のステップには進めないのかなぁ、龍生さん……」

「なによ、それでもラブラブではあるんでしょ? そーゆーこと抜きにしてもさ」

「うん……ちゃんと愛は感じるよ? 私のこといつも女神だとか大げさなくらい褒め称えてくれるし、大切にされてるなって思う。まぁたまにケンカしたりもするけど」

「ケンカって、あんたたちが?」

「そりゃケンカくらいするわよ」

 ついこの前も、どっちがより相手のことが好きかで言い合いになったばかりだ。

「私が龍生さんを思う気持ちの方が大きいに決まってるのに、彼ってば自分の方がその数億倍も私のこと愛してるなんて言うのよ?」

 私の方が絶対龍生さんのこと好きなのに! と子どもっぽく頬を膨らませる千紗に、「ケンカだなんて言うから何かと思えば……」と呆れたように笑った恵里子は、

「あーもう、あんたたちの惚気ゲンカ聞かされてたら鳥肌立ちすぎて点字みたいになっちゃったじゃないよ、この腕だけで何か伝えられそうよ、『バカップルの片割れはこちらです』とか!」

「ちょっ、だから惚気じゃないんだってば!」

「はいはい、ごちそうさま。ついでに今日のお会計もあんた持ちでよろしく!」

 そう言ってパンと両手を合わせた恵里子は、「その調子なら大丈夫よ、遅かれ早かれ間違いなく結ばれるわ、あんたと北風さん」と、からかう風でもなく、穏やかな笑みを浮かべる。――が、その横顔がなぜだか寂しげに見えて、恵里子、ひょっとして何かあった……? と、千紗の胸がざわめく。

 大学時代からの長い付き合いである恵里子は、交友関係が太平洋よりも広いのだけど、それでも時折、今のような物悲しい表情を浮かべることがある。敵を威嚇するかのようにシュッと長く伸びた睫毛の下で輝く彼女の双眸は、息を呑むほどに妖艶でミステリアスで、そして同時になんともいえない儚さを秘めている。

 千紗と出会うずっと以前から、何か大きな翳りのようなものを抱えてきたらしい恵里子は、過去に何があったのか、その胸を苛んでいるものの正体がなんなのか、決して口にしようとはしなかった。それは千紗を信頼していないのではなく、余計な心配をかけまいとしているからなのは、これまでの付き合いからなんとなくわかる。

 だけど近ごろは、ふとした瞬間に何か思い詰めたような顔を覗かせることもあって、なんだか心配になってしまうのだ。急に姿を消して、そのままふっといなくなってしまいそうなその危うさに、何か力になれればいいのに、とは思うけれど、それでも彼女の心を無理にこじ開けるようなことはできなくて――

「恵里子さ、もしかして元気なかったりする……?」

 核心を突けない曖昧な問いかけに、「そう?」と小首をかしげながら、長めの前髪を掻き上げる恵里子。その瞳の奥がほんの少し揺らいだ。

「もし、もしだけどね、何か話したいことがあったらいつでも言ってね。私じゃ何の力にもなれないかもしれないけど、それでも話を聞くくらいはできるから」

 ……って立ち入りすぎたかな。過度な詮索を嫌がる恵里子だ、こんな押しつけがましい親切発言、しない方がよかったのかもしれない。

「ごめん、こんなベタな友情ごっこみたいな台詞、また鳥肌立っちゃうよね?」

「うん、立ちすぎてまた大根下ろせそうよ、下ろし器の恵里子って二つ名が付いたらどうしてくれんのよもう」

 困ったように両腕をさすった恵里子は、都会の夕暮れみたいにとびきり美しく、だけどどこか儚げに笑った。

「でも嫌じゃないよ。あんたのそういうとこ、嫌いじゃない」



「ふぅむ、ついに半年、か――」

 七月末日。就寝の支度を調えた龍生が、自宅リビングの壁掛けカレンダーをめくりながら唸る。明日から始まる新しい月――八月を飾るのは眩しいほどのひまわり畑だ。ああ、この太陽のごとき美しさ、まるで千紗さんのよう……いや、彼女の方がより鮮烈に素敵だ、すまんなひまわりたちよ……!

 三春の可憐な姿を思い浮かべた龍生は、役目を終えた七月のページ(こちらも彼女の美しさには負けるが、それでも壮麗な七夕の星空写真だ)をシュパっと勢いよく破りながらも、「ああ、マイエンジェルとの交際が始まった彼のバレンタイン月からついに半年が――!」と、再度感嘆の声をもらす。

 これはそろそろ結婚の話を進めてもよい頃合いではなかろうか。カレンダーに姿勢良く向き合った龍生が、ふむ、と厳かに頷くと、

「えー、もうしばらくは様子見た方がいいと思うけどなー。焦りは禁物、下手すると嫌われちゃうよー、龍生ー」

 ソファに俯せに寝転んでいた莉衣奈がスマホをいじりながら横槍を入れてきた。ファッション情報でもチェックしているのだろうか、「あっ、このサンダル可愛いー!」などと、先ほどからその視線はスマホ画面に釘付けだ。

「こら、そんなところでだらだらしている暇があるならその上をさっさと片付けなさい。そこの雑誌もゲームもDVDも、一週間前から置きっぱなしじゃないか」

 いったい何度言わせれば気が済むんだと、ものぐさな妹に散らかされたローテーブルを見やる。が、「後でやるよー、後でー!」と、信憑性ゼロな決め台詞で受け流した彼女は話を戻して、

「だいたい半年っていうけど、正式なお付き合いが始まったのはホワイトデー明けでしょー? 正確にはまだ交際五ヵ月――なのにもう結婚とか三春さんドン引きだって。わかってる? 彼女、龍生のこと好きになってからまだ日が浅いんだからね?」

「それはもう承知の上だ。お前にも散々釘を刺されてしまったしな――」

 そう、あれはホワイトデー明けの、三春と本当の意味で付き合い始めたころのことだ。浮きに浮かれ、ヘリウムガスのフル充填されたバルーンのごとく地に足のついていなかった龍生はすぐにでも三春と結婚したいと、向こう一年分の大安をリストアップしてしまうほどの意気込みだった。が、妹に言われてしまったのだ。

『盛り上がってるとこ悪いんだけどさー、チョコくれた段階では三春さん、龍生のこと全然好きじゃなかったんだよ? 運悪く恋に落ちちゃったのだってほんの最近のことみたいだし、それがいきなり結婚だなんて早すぎて引くよー!』

 こら、運悪く恋に落ちたとはなんだ失敬な! さりげなく兄を侮辱する妹に反論しつつも、確かに莉衣奈の意見も一理あるな、と当時の龍生は冷静に考え直した。

 思えばホワイトデーに水族館デートをしたあの日、三春にプロポーズまがいのことをしてしまったが、あれは彼女が『バレンタイン以前から自分を好いていてくれた』という前提あってのことだ。よもやあの告白チョコが事故物件だったとは露知らず、勘違いしたまま愚行に走ってしまったにすぎない。己の方はもう何年も三春に首ったけだったが、彼女の方はそうではなかったのだ。

 人間万事塞翁が馬――結果的には相思相愛の仲に発展したこともあり、ぬぉぉ、討ち死にしたはずのプロポーズに起死回生の好機ありだ! と不覚にもうきうきバルーン化してしまったが、莉衣奈の指摘通り、三春はまだ己に好意を抱いて間もない状態。そんな彼女を慮るなら結婚など時期尚早だ。あのプロポーズは一旦保留とするのが妥当だろう。

 龍生としては今すぐ、コンマ一秒も待てないほどには三春と結婚したい。そのくらい強く深く彼女のことを愛している。が、その思いをそのまま押しつけるのは愛ではなくただのエゴだ。せめてあのバレンタインの奇跡から半年ほどは結婚の話を先延ばしにしよう――そう思い直した。

 その半年がようやく過ぎようとしている。今こそ封印されし結婚話を復活させるときだ――! そんな伝説の聖剣を手にした勇者のごとき気迫を漲らせていたところに、「えー、もうしばらくは様子見た方がいいと思うけどなー」と莉衣奈がスマホをいじりながらも再び水をさしてきたのだった。

「前にも言ったけど、三春さんが龍生に対して感じてる『好き』は龍生の気持ちと意味的にはイコールだけど質量的にはイーブンじゃないの。一騒動あった中、運悪く生じた奇跡――廃棄物から取り出されたレアメタル級の、誤差みたいな量の『好き』なんだから。龍生が思ってるほどは三春さん、まだ龍生のこと好きじゃないよきっと」

「そ、そうなの……か……? もう半年近くも付き合ってきたから、そろそろ結婚話も解禁かと思っていたのだが……」

「だめだめ、早い早い! それにあんなハイスペ美女が詐欺的な目論見もなしに龍生と付き合おうだなんて、やっぱり納得できないっていうか、正気の沙汰とは思えないんだよね。三春さん仕事忙しいみたいだし、ただ血迷ってるだけなんじゃないの?」

 実の兄をサラリと愚弄してきた莉衣奈は「ひょっとして恋の吊り橋理論だったりして!」とスマホを操作していた手を止め、龍生の顔を見上げる。

「よく言うじゃん、極度の緊張状態をともにした相手とは恋に落ちやすいってやつ!」

「はて、千紗さんとそのような恐ろしげな体験をした覚えはないのだが……」

「そういうことは鏡見てから言ってよ。龍生の場合、その存在自体が極度に恐ろしげなんだよ? 今思えば三春さん、初デートで観覧車とか怖すぎだったと思うんだよね。だって実際は好きでもない、しかも著しく凶悪顔の男と狭い密室で揺られてたわけでしょ? 吊り橋なんて目じゃないくらいのハラハラだったんじゃないかなー」

「なっ、するとあれか……? 千紗さんはその際のドキドキを恋と勘違いしてしまったと、そういうわけなのか……?」

 驚愕の新事実に体を戦慄かせる龍生。「うん、その可能性は高いと思うよ」と大仰に頷いた莉衣奈は、

「たとえ勘違いでもドキドキが持続してるうちはいいけど、さすがに一生は続かないでしょ? 美人は三日で飽きるって言うけど、コワモテも三年くらいすれば耐性がつくと思うんだよね」

「なんと、千紗さんの恋は余命三年であったか……! 私の方は三年どころか永遠に彼女と生きていきたいというのに……!」

「このままどうにか誤魔化して結婚まで進んだとしても、ある日突然吊り橋の魔法が解けてお離婚なんて事態になったら龍生、ショック死待ったなしでしょー?」

「ああ、その可能性は限りなく高い」

「だからこそ焦りは禁物だよ。正直なとこ、二人はどこまで進んでるの?」

「どこまで……? そうだな、かなり順当に進んでいる。ついに互いを下の名前で呼び合う仲にまで進展したしな」

 実はついこの間まで彼女のことを以前と同じく名字で呼んでいたのだ。交際当初から『千紗さん!』と情熱を込めて語り掛けたい――そんな衝動に駆られることはあったのだが、照れのせいか上手く言い出せず、『ちっ、ちちち……』と図らずもキザな舌打ちを披露するに終わった。その後も飽くなき挑戦は続いたが、結局いつも噛み噛み――『ちっ、ちちちち……ちっ、ちちちちち……』と、もはや舌打ちでもない、小鳥の囀り状態だった。

 これでは『龍生』ではなく『雀生』だ、語呂が悪すぎる……! そもそもいくら付き合っているとはいえ、許可もなく突然下の名前で呼び掛けるなど失礼では――? 親しき仲にも礼儀ありという言葉もあるし……ううぬ。

 そんな苦悩に頭を抱えていたとき、三春が言ったのだ。『あのう、そろそろ下の名前で呼んでくれてもいいんじゃないですか』と――。

『そそっ、そのような恋人気取りな行為、ほほっ、本当によろしいのですか――?』

 願ってもない、だが畏れ多すぎる提案に三白眼を白黒させていると、

『恋人気取りじゃなくて恋人なんですけど? 北風さ……龍生さんは私の彼なんだってこと、もう少し自覚してくれなきゃ困ります』

 龍生のことをさりげなく下の名で呼び直した三春は拗ねたようにそう言って、『これからはちゃんと千紗って呼んでくださいね』と少し面映ゆそうに微笑んだ。

 そんなお願いをされてしまっては呼ばぬわけにはいかない。いや、是非呼ばせてほしい――! 照れと迷いをかなぐり捨てた龍生はそれ以降、彼女のことを『千紗さん』と呼んでいる。

「どうだ、すごいだろう。互いを下の名前で呼び合う――早くも夫婦一歩手前だ。もちろん呼び方の変化だけじゃないぞ? 先日はなんと弁当を作り合ったりもしたのだ。おおっと、莉衣奈には少し刺激が強すぎる話だったかな、ふはははは」

 甘い記憶に頬をにやつかせていると、「ちょっと待って何その距離感! 到底事後とは思えないんだけど……!」と、ただでさえ丸い目をさらに丸くした莉衣奈は、

「まっ、まさか龍生と三春さん、まだ一線を越えてなかったりする……? わわっ、龍生ってば今度こそついに枯れちゃったの――?」

 兄のあらぬところに視線を移した莉衣奈が「そっかー、もうアラフォーだもんねー」と哀れんだように首を振る。こら、何を考えているんだ、やめなさい!

「だってそれ以外ないじゃん、いい年した大人が付き合って五ヵ月でまだ健全交際なんてさー。もしかしてまた『嫁入り前の娘さんに手を出すなど言語道断!』とか父親モード入っちゃってる? 私言ったよねー、あんまり手を出さないのも失礼だよって」

「いや、それが……その……」

 こんな話を妹にするのはいかがなものか……。一度は躊躇した龍生だったが、「えー、なになに気になる! 教えてくれないと押し入れの奥に湿ったパン放置して疑似マリモ育てるよ?」という莉衣奈のおぞましすぎる脅しに、「そっ、それがどうやら彼女は接吻以上のことを望んでないようでな……」と重たい口を開く。

 いくらお前は父親か! と言われても、龍生としてはやはり、そういうことは男としてのケジメをつけてから――結婚してからの方がよいのではと考えていた。それほどに三春のことを大切にしたいと願っていた。だがもし莉衣奈の言うように、本当に彼女がそれを望んでいるのならば、男としてはもちろんやぶさかではない。

 そして、そんなやぶさかではない事態はある日突然発生した。あれは三春の自宅へオジギソウの手入れに行ったときのことだ。無事剪定を終え、そのお礼にと彼女の手料理をご馳走になったその夜、偶然流れていた少々過激な映画に触発された龍生は、なんだか三春に求められているような気がしたのだ。どちらからともなく甘い口づけを交わした二人はその後――

「なーんだ、まだかと思ったらちゃっかりやっちゃってんじゃん!」

 心配して損したー、と話の腰を折ってスマホいじりを再開する莉衣奈に、「こら、そんな明け透けな言い方はやめなさい」と注意しつつも、「それにただの未遂だ」と龍生は悔恨に満ちた表情を浮かべる。

 刺激の強い映画に惑わされ、三春に接吻以上のものを求められていると勘違いしてしまったが、実際はそうではなかったらしい。勢い余って彼女の体に手が触れた龍生を三春は拒絶したのだ。

 女神のように優しい彼女だ。龍生の暴挙にも決して強い口調になることはなかった。が、それでも怒りに紅潮した顔で、『やだ、だ……め……』と、一文に『やだ』と『だめ』二つの否定語を織り交ぜながら、控えめな語調で、だがしかし確実に拒否の意向を示してきたのだった。

「えー、彼氏を部屋に上げといてそんな生殺しアリ? まぁ三春さん美人だしいろいろ経験値高そうだし、アラフォーなのにビギナー丸出しな龍生のがっつき加減に引いちゃったのかもねー」

「ううぬ……そもそもは女性の家に長居してしまったこと自体が間違いだったのだ」

 破廉恥な映画に流され、理性を失いかけていた己を思い出した龍生は、自分の愚かさにぶるぶると拳を震わせる。

 女神のように懐の深い三春は、あの夜の失態を口に出して咎めてくるようなことは決してしなかった。が、あの日以来、時折落ち込んだような暗い表情を見せることがあり、信頼していた相手が獣化しかけたことへのショックは多分にあったのだろう。

「千紗さんの嫌がることはするまい、そう誓ったはずなのだがな……」

 龍生にはあの事故チョコを本命と勘違いして暴走――三春を振り回してしまった前科がある。結果として畏れ多くも両思いにはなれたが、莉衣奈の言うように、己と三春の『好き』はイーブンではないのだ。以前のような身勝手な行動で彼女を困らせることだけは避けたい――そう思った龍生は、正式な交際開始以来、自分本位な判断をしていないか不安で、何をするにしても細心の注意を払ってきた。

 デートの際も、行き先や食事場所に始まり、休憩を入れるタイミングや除菌スプレーをする間隔など、事前に細かいプランを作成して提出、数多ある候補案の中から、彼女の評価が最も高かった案を採用した。彼女の望まないことをして嫌われたくない、その一心だった。結婚話を無理に進めないのも、気安く彼女を下の名前で呼べなかったのもそうだ。

「あの夜も一応、自分では確認したつもりだったのだ。彼女に触れてもよいか事前に口頭で了承を得た……つもりだった」

「えー、じゃあもしかしてそれ以来一度も手を出してないってこと? その後三春さんの家に行ったりはしなかったの?」

「いや、オジギソウの件があるのでな、不躾ながらも彼女の部屋に上がること自体は何度もあった。が、やはり一度失った信頼を取り戻すのは簡単ではないらしい」

「え、なにそれどういうこと?」

「心優しい千紗さんは、あの夜のことを口に出して咎めることはなかった。が、試されている感はあってな……」

 彼女の家に行くと、いつも必ずと言っていいほどに既視感を覚えるのだ。オジギソウの剪定後振る舞われるお礼の手料理、そしてその後流れる破廉恥な表現を含む映画と、それによって引き起こされる邪な思いのパンデミック――もしやタイムリープでも起きているのか、今何周目だ――? と思わず確認してしまいたくなるほどのデジャヴだったが、どれも紛れもない現実――同じ世界線上の出来事だった。

「恐らくは私が信頼に足る男かチェックしているのだろう。千紗さんは、あの日と同じシチュエーションに陥っても私が自制心を保っていられるか試しているのだ」

 その証拠に、家を訪れるたびに映画の過激さと彼女の色香は着実に増加、試験の難易度はエベレスト級にまで上がってきている。枯れかけとはいえ龍生も男、正直限界だ。が、彼女を傷付けるようなことはもう二度としたくない――そう必死に己を律する龍生は、今のところどうにか試練を乗り越えられている。

 このまま順調に信頼を回復していけば、交際半年(正確には五ヵ月)記念として宙に浮いていた結婚話を持ち出しても、好意的に受け止めてもらえるのではなかろうか――そう思い込んでいたが、ここにきて吊り橋理論なる新たな問題が浮上してきた。

「千紗さんの私に対するドキドキが余命三年の勘違いだったとは……」

 これは忌々しき事態だと頭を抱える龍生に、まだファッション情報をチェックしているのだろうか、「あー、やっぱりこれ可愛いなぁー」とスマホ片手に吐息をもらした莉衣奈は、「そうだ!」とその大きな瞳を輝かせて、

「ねぇ、三春さんの恋の余命が延びるように協力してあげよっか、お兄ちゃん」

 突如飛び出した『お兄ちゃん』呼ばわりに、龍生の背中がゾワリとなる。そう、普段は兄を呼び捨てにする彼女がこう言うときはいつも――。身構える龍生に、莉衣奈は手にしていたスマホ画面を「はいこれ」と向け、満面の笑みを浮かべた。

「成功報酬はこのミッシェル・ロザリーのサンダルでいいよ、お兄ちゃん!」


 ううぬ、これはやはり早まってしまったのではないか――?

 莉衣奈と恋の延命作戦部隊を組んだ……というか組まされた翌々日の日曜、北風家のリビングには非日常空間が広がっていた。ダイニングテーブルを挟んだ向こう側に、なななんと女神が降臨しているのだ。

「すみません千紗さん、急にデートの行き先を変更、このような下界にお呼び立てしてしまって……」

「いいんです、図書館ならまたいつでも行けますし。それに嬉しかったです、龍生さんの家にお呼ばれなんて初めてで。その……そんなに見られるとなんだか緊張してきちゃいますけど……」

 ぽっと頬を赤らめた三春が、面映ゆそうに視線をそらした。付き合いたての彼女が彼氏の部屋(一人暮らし)に初めてやってきた――そんな照れくさくも初々しい場面に誤認してしまいそうだが、そのような甘い雰囲気では決してない。というのも、今三春の向かいに座って彼女をガン見しているのは龍生ではなく、莉衣奈なのだ。いったいどこから出してきたのか、キツネ目のように吊り上がった所謂ザマス眼鏡をかけた彼女は、そのフレームをくいっと上げながら、

「――で、どうなのかしらウチの龍生ちゃんは。そちらと上手く馴染めてますの?」

「は、はぁ……。最初は慣れないこともあって口数も少なく、かなり緊張していたようですが、最近ではお天気以外の話も楽しそうにしてくれるようになって……まだまだ硬い部分はありますが、こちらの方でも誠心誠意サポートさせて頂きますのでどうぞご安心くださいっ!」

 ――ななな、なんだこの保護者面談のような会話はっ! 私はクラスに打ち解けられずに悩む恥ずかしがりの生徒かっ……!

 三春と莉衣奈、二人の家庭訪問感溢れるやり取りにいたたまれなくなった龍生は、いったいどういうつもりだ、と隣に座る莉衣奈を肘で小突く。

「だってウチの龍生ちゃんとお付き合いしてるのがどんな人かちゃんと確かめなきゃでしょー? 前にバイトで会ったときはあんまり話せなかったし、パパとママの分まで妹の私が厳しーくチェックしますからねっ!」

 覚悟しなさいよっ、と再びザマス眼鏡のフレームを上げる莉衣奈。だからそれはなんなんだ、お前はコンタクト派だろう! ぬぉっ、しかもレンズを指で触ったな、指紋だらけじゃないかっ!

 耐えられなくなった龍生は「ああもう貸しなさいっ!」と莉衣奈から眼鏡を奪取、「私の妹ともあろう者がこんな汚染された状態の眼鏡をかけるなどっ!」とポケットから出した除菌クロスでピカピカに磨き上げる。

「すみません千紗さん、女神をご招待するにあたって失礼のないよう、年の瀬以上の気合いで大掃除したつもりだったのですが、まさか当日になってこのような汚染眼鏡が出てくるとは思わず……。不快な思いをさせていたら申し訳ない……!」

「いえ、大丈夫です、レンズの汚れなんて全然気付きませんでしたし……。それより、妹さんの……莉衣奈ちゃんからのお話というのは……?」

「それが、その……大した話ではないと思うのですが……なあ莉衣奈」

 とりあえずは恋の残量を知りたいから三春さんに会わせて――。そう言って彼女を家に連れてくるよう指示してきたのは莉衣奈なのだ。このタイミングで妹に引き合わせるなど、いかにも嫁に来いと変なプレッシャーを与えているようで、恋の吊り橋トリックを聞いてしまった龍生としては、早まってしまったのではないかと胸が痛む。が、事の発端である莉衣奈は余裕の表情で、

「龍生、ケーキ買ってきたんでしょ? 早く出しなよ、三春さん食べたいって!」

 はっ、そうだった! 思い出した龍生は冷蔵庫に向かうと、ケーキの入った箱を取り出してテーブルへと戻る。これまでの人生、彼女はおろか友人すら家に呼んだことのない(というかどちらもいなかった)龍生に、客人をもてなすならケーキが鉄板だよと莉衣奈が教えてくれたのだ。すみません段取りが悪くて、と三春に頭を下げる龍生の手からケーキの入った箱を引ったくった莉衣奈は、

「わーい、おっきーい! 龍生ってばホール買いしたんだー……って何これ!」

 わくわく顔から一転、箱を開けた莉衣奈が渋面を作る。

「何って、ケーキだろ? 三六〇度どの角度から見ても紛うことなきケーキだ」

「えー、やだよこんなの、思ってたのと全然違ーう! 今日は美味しいケーキが食べられると思ってお昼セーブしてたのにー!」

 ぶーっと、不満そうに口を尖らせた莉衣奈は、「ねぇ見てよ、大人な彼女を迎えるってのにこれひどくない?」と三春にケーキの箱を向ける。

「わぁ可愛い……! 子どものころを思い出しますね!」

「でしょうね、これ子ども用の誕生日ケーキだからね、デコレーションにウサちゃんクマちゃん乗っちゃってるからね、見た目重視で味とか二の次のやつだからね」

「いっ、いけなかったか? ヒーロー大集合ケーキよりは、メルヘン動物の森ケーキの方が千紗さんらしくて良いと思ったんだが……はっ、もしや第三の選択肢、働く乗り物ケーキが正解だったのか――?」

「いやそうじゃないから。てか何このチョコプレート〈祝 千紗さんご訪問〉って!」

「なっ、お前だって好きだったろうこういうの。動物さんいっぱいのやつにお祝いメッセージ書いてほしいって、よくねだってきてた……よな?」

「それいつの話ー? こんな子ども騙しのじゃなくて、もっと大人っぽいのがあったでしょー? キャラクターじゃなくてフルーツのいっぱい乗ったタルトとかさぁ」

「それはケーキではなくタルトだろう。私の中でケーキといえば当然これだったんだがな……」

 甘い物が苦手な龍生が普段ケーキを買うことはまずない。が、莉衣奈がまだ小さかったころ、誕生日のお祝い用に購入したことは何度もあって、その際のイメージが未だに残っていた。

「すみません、千紗さんには少し……いや、かなり子どもっぽかったようですね。過去の記憶を手掛かりにこんなものまで用意してしまって、まったく私ときたら……」

 箱の隅に入っていたロウソクの袋を隠すように取り出した龍生に、「いえ、嬉しいです、なんだか童心に返ったような気がして……!」と瞳を輝かせた三春は、

「それ、何本立てましょうか?」

「いやしかし、よく考えたら今日は誰の誕生日でもありませんし、年の数だけ並べるというのもおかしな話ですよね」

「じゃあ六本にしませんか? 私たちが正式に付き合い始めてから五ヵ月の五本に、北風家初訪問記念の一本を加えて六!」

「なるほど、いいですね! バレンタインに私たちの運命が動き始めてから六ヵ月記念の六とも重なります!」

「龍生さん……!」

「千紗さん……!」

「はいはいはーい、勝手に二人の世界に入らないでー! 私を忘れないでザマスー!」

 ゴホンとわざとらしく咳をした莉衣奈が、浄化済みの眼鏡をかけて、

「龍生ちゃん、ケーキだけじゃなくて飲み物も出してちょうだい、莉衣奈ちゃん喉渇いてきたわ」

 おかしい。千紗さんをもてなすはずが、すっかり妹にパシリにされている……。だが千紗さんにも飲み物は必要……というかタイミング的にはもっと早く出すべきだったのでは――? 気付いた龍生は「しばしお待ちを!」と三春に声を掛けキッチンに急行、やかんを火に掛ける。

 普段人を家に招くことがないせいか、我ながら段取りが悪すぎる……。はぁ、と嘆息しつつもガスレンジの前で湯が沸くのを待っていると、キッチンカウンターを挟んだ向こう側では小姑気取りの莉衣奈が、「さぁて、飲み物がくるまで三春さんの査定といきましょうか。北風家の長男にふさわしい相手かどうかチェックするザマスよ?」と威圧モードになる。

 こら、千紗さんに余計なプレッシャーを与えるな! これでは恋の延命どころか死期が早まってしまうっ! カウンター越しに慌てて止めに入ろうとした龍生だったが、当の三春は嫌な顔一つせず、「そういえばこれお土産です、甘さ控えめなので龍生さんとどうぞ」と紙袋からリボンの掛かった包みを取り出す。

「なによ、お菓子でご機嫌取りってわけ? それこそ子ども騙しな戦法ザマスねー」

 そう言いつつもちゃっかり受け取った莉衣奈は、「わー、オレオカールトンホテルのクッキー詰め合わせだー! これ一度食べてみたかったんだよねー!」と、高級ホテルのロゴ入り包装紙をビリビリに破って箱を開けると、

「さっすがオレオカールトン! 奥深い繊細なお味でほっぺた落ちてきちゃうよー!」

 兄の買ってきた子ども用ケーキそっちのけで、さっそくクッキーをむさぼり始める。相変わらず現金な野生児だ。

「気に入ってもらえてよかったぁ」

 ほっとしたように破顔する三春に、「安心するのはまだ早いんじゃない? いくら高級とはいえ、お菓子くらいじゃ買収されないザマスよっ!」と、莉衣奈はだらしなく緩んだ頬をキュッと引き上げる。

「言っておきますけどウチ、壺も水晶も絵画もいりませんからねっ!」

「あっ、そういえばこれも……!」

 莉衣奈の不躾すぎる発言は気にも止めずに、何かを思い出したらしい三春は先ほどのとは別の、やたらパンパンに膨らんだ紙袋を手にすると、

「壺でも水晶でも絵画でもなくて悪いんだけど、これ、もしよかったらもらってくれないかな? 私のお古なんだけど……」

「わぁー可愛いー! しかもたくさんあるーっ!」

 紙袋に入っていたのはかつて三春が愛用していたと思しき洋服の数々だった。彼女らしい清楚で愛らしい意匠のスカートやワンピースに莉衣奈が歓喜の声を上げる。

「えっ、これ全部私にくれるのっ? 古着買い取りませんか、有名ブランドの数量限定品なのでプレミアがついて若干お高いですけどね商法とかじゃなくタダで?」

「それはもちろん。デザイン的に私はもう着られないんだけど、まだ全然綺麗だし可愛いし、なんだか捨てられなくて取っておいたものなの。大学生の莉衣奈ちゃんになら似合うと思うし、気に入ったものがあったら使ってくれると嬉しい」

「やーん、千紗お姉様大好きー!」

 祈るように手を組んだ莉衣奈が猫なで声で体をくねらせる。我が妹ながらなんてチョロいんだ……。龍生が苦笑していると、ザマス眼鏡を外してすっかりフランクモードになった莉衣奈は三春に向かって、

「――で、なんだって龍生なんかと付き合おうと思ったのー? 最初は事故だったって聞いたけど、その後どんな血迷い過程が?」

 唐突な質問に「えっと、その……」とたじろいだ三春は恥ずかしそうに俯くと、

「べ、別に血迷ってるわけじゃないのよ? 確かに最初はいろいろ誤解しちゃってたけど、今はもう、その……すっかり龍生さんに夢中だしっ!」

「うぇー、なにそれやっぱり血迷ってんじゃん! だってあの顔だよ? 常識的に考えて夢中になりようがないでしょ、ほらよく見て!」

 くるりとキッチン側を向いた莉衣奈が龍生の強面にぴしっと人差し指を向ける。こら、人を指で差すのはやめなさい失礼だぞ。や、失礼なのはそれだけではないが……。

「もしかして千紗さん、バレンタインあたりにヤバい風邪とか引いちゃったんじゃない? 高熱で正常な判断ができなくなったまま、ずるずるとこじらせ続けて今日まできちゃったとか?」

 いくらなんでもそれはこじらせすぎだろう。もはや風邪ではなく大病の領域だ。心の中でツッコんでいると、「そう言われてみれば……」とまさかの賛同をした三春は、

「ある意味病気かもしれない……。恋の病っていう世界で一番幸せな病気!」

 そう言っておどけたように笑った。可憐だ……! 思わず頬を緩ませる龍生だったが、「うわー、千紗さんってば働きすぎて脳細胞死んじゃったんだねー、バイトで見かけたときも超絶忙しそうだったもんねー」と三春に憐憫の眼差しを向けた莉衣奈は、

「でなきゃ結膜炎で一時的に目が見えにくくなってるんじゃないかな? コワモテがぼやけて疑似イケメンに見えてるとか! ていうか龍生、飲み物まだー?」

 人を散々貶しておきながらちゃっかり催促してくるとは……。なんてやつだと顔を引きつらせる龍生に、どこか困ったように微笑んだ三春は、

「私、龍生さんのこと、ちゃんと好きですから」

 だから、信じてください――そう訴えかけるように、莉衣奈を、そして龍生をまっすぐに見つめた。

 ――僭越ながら、存じております。

 ありがたすぎる彼女の言葉に顔が熱くなる。女神にお出しするのだ、念のためにもう一度磨いておこう。三春に軽く一礼した龍生は、カップとソーサーを綺麗な布巾でピカピカに拭きながらも思う。

 彼女が私のことを『ちゃんと』好きだという身に余る光栄自体は把握している。が、はっきり言って私の方が彼女のことをより『ちゃんと』愛している。同じ『ちゃんと』でも、私の方が彼女の一〇〇億倍『ちゃんと』好きだ。形式上は両思いでも、二人の間にある恋の天秤は私側に傾いてばかりで、均衡などまるで取れていないのだ。

 彼女にこの話をすると『いいえ、私の方がずっとずっと好きですから!』と怒られてしまうために、もう敢えては口にしないが……。

 ――ああ、千紗さんに嫌われるのが怖い。己の思いに比べれば砂粒ほどの『ちゃんと』さえもが、じきに潰えてしまうのではないかと思うと夜も眠れないのだ。

 いつの間にか莉衣奈と談笑を始めていた三春に視線を送ると、彼女の首元にはネックレスに通された一粒ダイヤの指輪が光っていた。

『三春さんが私のことを愛していないのはもうわかっています。それでも、もう一度だけチャンスをください。それで駄目なら、そのときは指輪を返却して頂いて構いませんから』

 そう言って、半ば押し切るように受け取ってもらった母の形見だ。繊細なチェーンで宙ぶらりんになった指輪が、『婚約の件は保留中なんですから、両思いだからって調子に乗らないでくださいね』と物語っているようでつらい。

 もし許されるのならば、あの指輪が彼女の薬指に輝いているところを見たい。が、なぜ指にはめてくれないのですか、などと催促するようなことは聞けない。そんなことをしたらウザい男だと、彼女の保有する微々たる恋心が消し飛んでしまうだろう。

 あああ、圧倒的に経験値が低すぎて片思いの先にある恋の段取りがわからない! 両思いだがイーブンではないこの恋の天秤を釣り合わせるにはどうしたらいいのだ。

 いっそのことさらなる吊り橋効果を狙って、来週のデートは恐ろしげな場所にでも誘ってみるか? そうだ、飢えたライオンがひしめくサバンナで野宿でもすれば、あまりの恐怖にドキドキが大爆発――恋の寿命も延び……いや、だめだ。そんな危険なところに千紗さんを連れてはいけない。そもそも騙し討ちのようなやり口で彼女の愛を獲得しようなどと、いくら切羽詰まっているとはいえ卑怯すぎる、人間失格だ!

 己の浅はかさに嫌気がさしながらも、引き続きカップを磨いていると、

「千紗さんと私、服の好み一緒かもー!」

「わー、嬉しい! そうだ、ミッシェル・ロザリーの新作発表見た?」

「見たー! 秋物のコレクションも超可愛いよねぇー。発売が待ち遠しいなぁー」

 莉衣奈と三春の楽しげな会話が続いている。いかん、早く飲み物を出さねば!

 慌ててコーヒーを淹れた龍生だったが、しまった、本当にこれでよかったのだろうかと不安がよぎる。つい普段通り自分の好きなコーヒーを用意してしまったが、三春の気分には合わなかったかもしれない。

「けどさー、今気になってるのは同じミッシェル・ロザリーでもシューズラインの方なんだよねー。夏物のサンダル、ビビッドなオレンジが奇跡的にキュートなの!」

「それってヒール部分にお花のビジューがついてるやつ? 実は私、オレンジとレッド色違いで買っちゃった。どっちか一方に決められなくて」

「えーっ、いいなぁー! でも確かにレッドの方も可愛くて迷……」

「すみません千紗さん! 貴女に何の断りもなくコーヒーを、それもホットで淹れてしまったのですがよろしかったでしょうか?」

 彼女の意向に反する飲み物など出せない! 焦った龍生は莉衣奈の発言をぶった切って確認を入れる。

「今からでも別の物……紅茶や緑茶に変更可能で……はっ、もしグァバ茶などのハイカラな飲み物をご所望でしたら急ぎ買ってきますが?」

「いえ、コーヒーで大丈夫です」

「ほっ、本当にいいんですか? コーヒーといってもインスタントですよ?」

「えっ、ええ……それで大丈夫ですよ?」

「本当に本当ですか? 私のために最高級のクリスタルマウンテンも用意していないなんて使えない男ね、とか思ったりしてませんか? そうだ、やっぱりグァバ茶買ってきましょうか? 昨日健康番組でやっていたんです、今グァバ茶が熱いと!」

 三春に嫌われたくない――そんな思いが募って執拗に確認してしまう。今日はただでさえケーキの選定、それに飲み物を出すタイミングで失敗しているのだ。これ以上ヘマをして恋の余命を縮めたくはない。彼女を失望させぬよう、細心の注意を払わねば……。そう思って三春の指示を仰ぐが、「いえ、本当に大丈夫ですから」と彼女は優しく微笑むばかりだ。女神すぎる!

「でっ、ではこのままコーヒーの線で進めさせて頂きます! 千紗さんは確か、ミルクを入れる派でしたよね?」

「ええ、お願いします」

「龍生ー、私ドラゴンフルーツのスムージーがいいー! アーモンドミルク割りでー」

「そんなものはない。あっ、こら、つまみ食いはやめなさい、行儀が悪いぞ!」

 まだ切り分けてもいないケーキからイチゴをつまんで頬張る莉衣奈を注意しながらも、龍生の脳裏にはさらなる飲み物問題が浮上する。

 コーヒーに入れるミルクとは、どんな種別のものを如何様にどれほどの量用意すればいいのだ……? 普段ブラックしか飲まないせいで皆目見当もつかない! 莉衣奈の場合は確か、パックの牛乳を計量も加熱もせずにそのまま注いで、『うわー、今日は入れすぎちゃったよー、なんかぬるーい! まっ、いっかー』などと、その都度濃度の異なる甚だ低クオリティなものを生み出していたが、まさかそんな雑な作りの一品を女神にお出しするわけにはいかない。ここは万全を期すべく断りを入れておこう。そう判断した龍生は、「ねぇねぇ、千紗さんって靴のサイズ何センチー?」とおかしな質問を始めた莉衣奈を遮り、

「すみません千紗さん! コーヒーに入れるミルクですが、我が家で愛飲しているヒグマ乳業の低脂肪牛乳『北海道からこんにちは』を使用してもよろしいでしょうか? 量的には一二〇CCのコーヒーに対して三〇CCを予定しているのですが……」

「えっ、ええ……それでお願いします」

「ほっ、本当にいいんですか、低脂肪牛乳……それも特選ではなく無印、お買い得ラインのものです。ああ、こんなことなら同じヒグマ乳業の中でも最高峰と言われる『全道民が泣いた! ヒグマの奇跡』を用意しておけばよかった!」

 ぬおお、失敗した! 不手際が多すぎて千紗さんの恋の熱がまた一度下がってしまう……! 絶望に顔を歪める龍生だったが、「本当に大丈夫ですから、今ある牛乳をお願いします。量も目分量で構いません」と相変わらず女神は優しい。が、その言葉を鵜呑みにしていいのだろうか――?

「……えっと、靴のサイズ、だっけ?」

 一人懊悩する龍生を気にしながらも、三春は莉衣奈の質問に答える。

「そうそう。私は二二なんだけど、千紗さんもサイズ同じならいらない靴とか譲ってもらえちゃうなーなんて思って!」

 こら、どさくさに紛れてたかるのはやめなさい! いつもなら一喝するところだが、飲み物問題に気を取られて上手く切り替えができない。ううぬ、決断を急がねば千紗さんの恋心もコーヒーも冷めてしまうではないか……! 焦る龍生の頭に新たな疑問――砂糖はどうすればよいのか問題が浮かんだ。

「す、すみません、千紗さんはコーヒーに砂糖、お入れになりますよね?」

「えっ、あっ、はい、スプーン一杯くらいでいいんですけど……」

「なるほど。ちなみにスプーン一杯というのは山盛りでしょうか擦り切りでしょうか、目安としては何グラム? すみません、交際相手の使用する砂糖事情も知らないとは、言語道断だと叱責されても仕方ありませんね……。ああ、こんなことなら普段貴女がコーヒーを嗜む際の様式を逐一チェックしておけばよかった! 千紗さんにばかり夢中で、ミルクや砂糖のことは二の次……完全に油断していました」

「い、いえ……逆に必要な量をグラム単位で正確に把握されてても怖いっていうか……。特にこだわりもありませんし、適当にサラサラっと……」

「あああ、優しい嘘ならやめてください! 遠慮はご無用ですから、どうか本音で答えてください! 貴女に必要なミルクと砂糖の種類、それから量を……」

「あーもう、龍生うざーい! 適当でいいって言ってるんだから適当に作っちゃいなよー! ……でさ、千紗さん、足何センチ? 私とシェアできる感じ?」

「そっ、それがね……」

「はっ、やっぱりグァバ茶ですか? グァバグァバしたいご気分なんですね? 他にもご希望ありましたらなんでも言ってください! くっ、空調はいかがですか? 寒かったり暑かったりしませんか? そっ、そうだ、菌! 大気中の菌具合は……」

「あーもう龍生ってばうるさーいっ! 千紗さんとの話全然進まないじゃんもうっ!」

 たまらず声を荒らげた莉衣奈は、

「あっ、千紗さんコーヒーに黒糖入れたいって! 家にあるような加工黒糖じゃなくて、天然のやつ! それも波照間島産のを三粒入れるのがベストだって!」

「なんと! さすがは千紗さん、私の想像を超える独自のこだわりをお持ちだ!」

「えっ、私はそんなこと一言も……! 普通のお砂糖で十分……っていうかむしろ普通のお砂糖でお願いしますっていう……」

「いえいえ遠慮はご無用です! 急ぎ買って参りますのでしばしお待ちを!」

 あああ、これでようやっと女神の真に欲する飲み物をお出しできる……!

 鋭い三白眼を爛々と輝かせた龍生は、「莉衣奈、少しの間千紗さんの相手を頼む!」と波照間島産天然黒糖探しの旅に出たのだった。



「ほ、ほんとに行っちゃった……」

 必ずや活きの良い天然黒糖を捕まえてきますから――意気揚々とそう宣言した北風が疾風のように家を飛び出した後、リビングに残された千紗は小さく肩をすくめる。

「ほんとバカだよねー。龍生ってば思い込んだらすぐ突っ走っちゃうんだから。あ、どうせならドラゴンフルーツのスムージーも頼めばよかったなー」

 気付いた莉衣奈が、しまったーと無念そうに息をついた。

 ――どうしよう、妹さんと二人きりになっちゃった……。

 洋服の件で少しは打ち解けられたような気もするけど、それでもまだ距離感が掴めずに緊張してしまう。彼の家族に会うなんて生まれて初めての経験だ。鈍器事件の前日、アルバイトに来ていた彼女に会社で話し掛けられたことはある。だから正確に言うと初対面ではないのだけど、あのときは彼女のことを恋敵だと誤認していたから、彼の家族に接しているんだ、なんて意識は全くなかった。

 誤解が解けた際、一度きちんと挨拶しておかなきゃ、とは思っていたのだけど、年度末で忙しかったこともあり、業務に追われてバタバタしているうちに彼女のアルバイト期間が終了、結局大した会話もできずに今日まできてしまっていた。

 龍生さんの彼女にふさわしいかどうかの査定、まだ続いてるのかな……。今日私を呼び出したのって莉衣奈ちゃんなんだよね? いったい何の用だろう。挨拶が遅いわよって、怒ってたりして……?

 なんとなく気まずくなって会話に困ってしまう千紗だったが、

「そうだ! 冷めちゃうし、コーヒー飲んじゃおっか!」

 思い立ってキッチンへ向かった莉衣奈は、北風が用意しかけていたコーヒーに、そいやっ! と豪快に牛乳と砂糖をぶっ込むと、「はい、莉衣奈ちゃん特製コーヒーお待ちーっ!」とテーブルまで持ってきてくれた。

「あ、ケーキも先に食べちゃおっか、龍生どうせ甘いの苦手だしー!」

「うーん、でものけ者にするみたいで悪いし、龍生さんが戻ってくるの待ってからにしようかな。ほら、ロウソクを立てるの楽しみにしてると思うし!」

「うぇー! あれほんとにやる気なの? 千紗さんも物好きだねー。結局のところ千紗さんって…………靴のサイズ何センチ?」

 え、その話、まだ続いてたんだ? 呆気にとられつつも「二三なの」と返すと、

「えー、残念すぎるー! 同じサイズだったらミッシェル・ロザリーのサンダル、飽きたころに貰い受けようと思ったのになぁ……」

 肩を落とした莉衣奈が、「はぁー、やっぱりサンダルは龍生に頑張ってもらうしかないかぁー。でもなぁー、上手くいくかなぁー」と、ぶつぶつよくわからないことを呟く。――と、ふっと閃いたらしい彼女は、

「ねぇ、龍生の子どものころの写真見たくない?」

「見たい! すっごく見たい! あんなに大きな龍生さんが小さかったころの姿なんて全然想像できないしっ!」

 歓声を上げる千紗に、「オッケー! ちょっと待ってね!」と席を立った莉衣奈は、すぐにアルバム数冊を抱えて戻ってくると、

「じゃじゃーん、龍生ってば生まれたときから完成されたコワモテだったんだよー!」

 そう言って彼女がめくったアルバムには、北風が生まれたときの写真だろうか、病院の小さなベッドの上で虚空を見つめる、鋭い三白眼の赤ん坊が写っていた。

「かっ、可愛い……! 赤ちゃんにしては異様に殺気立ってるけどそれでも可愛い! 白目部分のやけに多いハスキー犬の子どもって感じで、ぎゅーって抱き締めたい!」

「えーっ、それ褒めすぎだって、ハスキー犬に失礼だよ。やっぱり千紗さん、長引く結膜炎で目が霞んでるんじゃないかなー?」

「そんなことないって! あ……この方がお母様?」

 やけに威圧感のある赤ん坊を抱いた、聖母のような女性の姿に千紗の目が留まる。凜とした瞳が印象的なその人は、だけどとても柔らかな面差しをしている。かつて北風が千紗のことを母親に似ていると言ってくれたことがあったが、そう言ってもらえるのが申し訳ないくらい綺麗な人だ。

「とっても優しそうな方……」

「優しかったよ。とっても優しかった」

 亡き母を懐かしむように目を細めた莉衣奈は、「あ、こっちはパパ」と別の写真に写る男性を指差す。

「えっ、この方が? ほっ本当に……?」

 思わず確認してしまった。だって意外や意外、北風の父親は控えめに言ってもかなりのハンサム――凜々しめの顔つきではあるが、黒目が大きいせいだろうか、他者を威嚇するようなギラつきはなく、愛嬌のあるまろやかなドーベルマンといった感じだ。なんならご近所でカッコいいと評判の、千紗自身の父に似ているくらいだ。もっとも、いろいろ調子に乗って浮ついたところのある父に比べると、北風の父親の方がはるかに真面目で落ち着いた佇まいをしているけれど。

「パパとママ、美男美女カップルでしょ? 龍生ってば二人の凜としてる部分を異常に尖らせた感じで生まれてきちゃったからねー。眠れる尖らせ遺伝子が頑張りすぎちゃったっていうか、ウチの家系では異例のミュータントコワモテなんだよねー」

 私のときは丸ませ遺伝子が頑張ってくれてよかったー、と兄とは正反対の、まぁるい瞳を閉じてしみじみと頷いた莉衣奈は、「パパはね、顔だけじゃなくて人柄もよかったんだよ?」と誇らしげに微笑む。

「まぁ私が生まれる前に亡くなっちゃったから直接は会ったことないけど、ママたちが言うには無口で無骨で武士っぽい堅さがある人で、だけど誰よりも優しくて子ども思いで……まあそれが仇になっちゃったって部分もあるんだけど――」

 そこまで言って言葉を詰まらせた莉衣奈は、写真に写る父をそっと指で撫でながら、

「パパね、道路に飛び出した子どもを車から庇おうとして事故に遭っちゃったんだって。全然面識のない子だったんだけど、とっさに体が動いちゃったんだろうね。パパの最期を話すとき、ママはいつも寂しそうに、だけどそれでもパパらしいよねって笑ってたなぁ……って千紗さんってばそんな暗い顔しないで、別にしんみりさせたかったわけじゃないしっ!」

 思わず涙目になる千紗を、両手をぶんぶんと振って制した莉衣奈は、

「私、直接は会えなかったけどパパが自分のパパでよかったって自慢に思ってるし、パパの分もママや龍生が一緒にいてくれたから寂しいとか思ったことないし……ほら、楽しい思い出もいっぱーいっ!」

 そう言って脇によけてあった別のアルバムを開いた莉衣奈は、「見て! 悪魔が天使のお世話してる!」と幼き日の己と北風の写真を指差す。

 中学、いや高校時代だろうか、妹とは一五歳差の北風は学ランを着ており、相変わらずの鋭い眼光が不良グループの一味にしか見えない貫禄を醸し出しているのだけど(詰襟をきっちり留めているから団長というよりはインテリな参謀っぽい)、まだ小さな妹にご飯をあげているその姿は、コワモテだけど優しいお兄ちゃん感がありありと伝わってきてほっこりとしてくる。

「改めて見ても全然似てないけど、二人は本当に兄妹なんだねー。今日のやり取りを見てても思ったけど、龍生さん、ちゃんとお兄ちゃんしてる」

「かなりズレてるお兄ちゃんだけどねー。幼稚園のときなんて、忙しいママに代わって龍生がお弁当作ってくれてたんだけど、茶色とか黒とか、渋い色合いのおかずばっかりでちっとも可愛くないの。せめてリンゴはウサギさんにしてほしいってお願いしたら、龍生どうしたと思う?」

「リクエストに応えてくれたんじゃない? 可愛い妹のために……」

「それがさー、今日のお弁当はお前の望み通りウサギさんだぞっていうから楽しみにしてたらさ、木彫りのクマみたいにリアルなウサギ型のリンゴがバーンと入ってたんだよね。しかも剥き損じた赤い皮が流血っぽくなってて、獲物にされかかってたところを命からがら逃げてきた手負いのウサギ感満々、可愛さゼロの野性味溢れる姿に思わず泣いちゃったよー」

 呆れ声を出しながらも莉衣奈がアルバムのページをパラパラとめくっていく。親子遠足やクリスマス会など、数々の行事に保護者代理として参加していた若き日の北風の姿に、やっぱりお兄ちゃんしてるなぁ、と再びほっこりしていると、あれ……?

「龍生さんの写真、やけにブレてるの多くない?」

「あ、気付いちゃった? それねー、近くにいた人に『写真撮ってください!』って頼むんだけど、龍生の顔が厳めしすぎるせいかみんな怖がっちゃって、ブルブル震えながらシャッター押されちゃうんだよねー。そのせいかどの写真もブレブレ。ママがカメラマンのときとか、三脚でタイマー使ったときのはバッチリ撮れてるんだけど、人に頼んだ龍生とのツーショットは必ずと言っていいほど残念な仕上がりになるの」

 当時を思い返した莉衣奈がぶふっと吹き出す。なるほど……。龍生さんってば小さいころからほんと苦労人っていうか、可哀相すぎるんですけど……!

「ああもう、タイムスリップして私が撮り直してあげたいっ!」

 ブレブレ写真に秘められた悲しすぎる事情に心を痛めていると、「残念なのは写真の仕上がりだけじゃないけどねー」と苦笑した莉衣奈が「ほらこれ見てよ」と、とある写真を指差す。ブレていないところを見ると北風の母親が撮ったものだろうか、運動会で二人三脚をする父親役の北風と莉衣奈が写っている。ブレてはいないが、なんだか妙な写真だ。というのも北風のハチマキの位置が明らかにおかしい。

「ねぇこのハチマキ、巻くのが下すぎて目隠し状態になってない? 龍生さん、これで前見えてるのかな……?」

「それがさー、『この凶器すぎる目つきが威嚇要素になってしまってはスポーツマンシップに反する! 正々堂々と勝負するにはこの目を隠すしかあるまい!』なんてわざと変な位置に巻いちゃったの。確かに鋭い三白眼は隠れたけど、ガタイのいい大男が目隠し状態だなんて怪しすぎでしょー? 結局みんな畏縮しちゃって、まともな勝負にはならなかったよねー」

 うわー、笑っちゃいけない話なのに龍生さんらしすぎて笑っちゃう……! 堪えきれずに千紗が肩を震わせていると、

「大丈夫だよ、これもう笑うしかない話だから! 龍生ってばコワモテな上にズレてるから騒ぎを起こしてばっかなんだよねー。性格はバカ真面目だし融通きかないし小言多いしウザいしド潔癖だし、なんていうかもう面倒くさすぎる男なんだけど……」

 散々難点を挙げながらも写真の中の北風に柔らかな視線を向けた莉衣奈は、

「それでもね、龍生はいつもママや私のことを――家族のことを第一に考えてくれて、家の手伝いはもちろん、パパのいない私に寂しい思いをさせないようにって、休日はいつも遊びに連れて行ってくれたし、どうせとんでもないオチが待ってるってわかってるのに学校行事には必ず出てくれたの。参観日のときなんて『ヤクザが乗り込んできたぞー』って警察呼ばれちゃって、それでもめげずに翌年は帽子にサングラスにマスクで変装してきて、でもそれがまた怪しくって『誘拐犯がいるんですけど』なんて結局通報されたりして、さすがにもう来ないだろうと思ったその翌年は、『これなら目元も隠れるし、ひょうきんな印象で警察沙汰にはなるまい』ってひょっとこのお面付けてきて、先生から『真面目な授業なんです、親御さんがふざけないでください!』とか怒られちゃって……ほんとバカみたいな男なんだけど、だけどそれでも私にとっては唯一無二の大切な兄なんだよね。だから――――」

 そこまで言ってキュッと口の端を引き結んだ莉衣奈は千紗に向き直ると、

「お願いだから千紗さん、早いうちに龍生と別れてくれないかな?」

「え…………?」

 冗談などではない、本気の声音だ。莉衣奈のまっすぐすぎる視線に射貫かれて、千紗は言葉を失ってしまう。

「え……と……それは……どうして……なのか……な……?」

 動揺しながらも、必死に言葉を紡ぐ。――と、「別にね、千紗さんのこと悪い人だって疑ってるわけじゃないよ?」と前置きした莉衣奈は、

「でもほら、千紗さんってすごくモテそうだし、龍生のこと『たまにはイケメン以外の珍獣と遊んでみるのもいいかなー』的な気まぐれで選んだのかもしれないけど、龍生の方はそうじゃないっていうか、飽きたからって簡単にポイされても困るし、もしそんな中途半端な気持ちでいるなら付き合ってほしくないんだよね」

 それまでとは違う真剣な表情を見せた莉衣奈はさらに続けて、

「今ならさ、千紗さんと別れても龍生、まだなんとか生きていけるっていうか、まあ現時点でもかなりの痛手ではあるから、生気をがっつり吸い取られてジョーズの干物みたいになっちゃうかもしれないけど、それでもどうにか暮らしていけるだろうし、私もどうにかなだめられると思うし……。だけどこれ以上千紗さんと一緒にいたら龍生、もう千紗さんなしじゃ生きていけなくなっちゃう。だから、遊びのつもりなら今すぐ龍生と別れて……って千紗さんってば泣いてる――?」

 さめざめと涙を流す千紗に驚いた莉衣奈は「違うの! 千紗さんの人となりを否定してるわけじゃなくて……!」と弁解しつつも、

「ただ龍生、千紗さんみたいに経験豊富じゃないっていうか、女の人と付き合うのなんて初めてだし、だからもしお別れしたとき冗談抜きで身投げとかしかねないっていうか、ホワイトデー騒動のときなんて出家しようとしたくらいで、だから一時の気の迷いなら他を当たってほしいっていうか……っておかしいな、私、こんなこと言うために千紗さんを呼んでもらったわけじゃないのに……」

 むしろ、無理やりにでも二人の恋愛寿命延ばして可愛いサンダルゲットする予定だったのに……と困惑気味にごにょごにょ呟いた莉衣奈は、

「ととと、とにかくっ、龍生には今まで苦労した分も絶対幸せになってもらわないと困るっていうか、そうじゃなきゃ嫌だっていうか……や、だから泣かないでよ、私が意地悪してるみたいじゃん!」

 いじめてるわけじゃないのよ、泣くのやめてー、と慌てふためく莉衣奈に、「違うの、悲しいわけじゃなくて……」と溢れ出る涙を指で拭った千紗は、

「龍生さん、莉衣奈ちゃんにすっごく愛されてるんだなぁって思ったら、よかったーって嬉しくなっちゃって……。外見のせいで散々な目に遭ってきた彼が、それでもまっすぐいられたのは、莉衣奈ちゃんがいてくれたおかげでもあるんだなって……!」

 安堵したように微笑んだ千紗は、ぴっと姿勢を正して莉衣奈に向き直ると、

「大丈夫、遊びなんかじゃないから。もう後戻りできないほどに彼のことが好きなの」

「そ、そう……? な、ならいいんだけども……」

 千紗の口からサラリと出た愛の言葉に莉衣奈の方が赤面してしまう。その様子に「ごめんね、なんだか照れちゃうよね……」とはにかんだ千紗は、

「でもね、龍生さんのことを思うと、胸の中の子猫がみゃーみゃー幸せそうにはしゃぎだすの。この子がこんなにも懐いてる人は龍生さんの他にはいないわ」

「うえぇ? 正直それはどうかと思うよ? 胸の中に猫とか、千紗さんやっぱり仕事のしすぎで頭がショートしちゃってるんじゃ……」

「やだ、そんなことないわ。龍生さんのおかげで心にゆとりを持てるようになったの。それに伴って子猫のお部屋もスペース拡大、龍生さんの一挙一動にみゃーみゃー思う存分じゃれつけてるんだから!」

「うわー、なにその乙女思考……! や、確かにね、龍生の話聞く限りでは千紗さんってばちょっと頭がお花畑? って思うことあったけど、まさか龍生の妄想フィルターなしでもここまでの威力とは……。三春千紗、恐ろしい子っ……!」

 驚愕した莉衣奈が白目になって口元を覆う。が、「まぁそういうとこも含めて二人はお似合いなのかー」と、すぐに小リスのような愛らしい表情に戻って、

「龍生のこと、よろしくお願いします。龍生と一緒だと旅先の写真とか、自撮り以外ブレブレになっちゃうと思うけど、行く先々で巻き添えの職務質問とか受けちゃうかもだけど、ってかそれ以上にいろいろこじらせちゃってる困った兄ですけど、誠実さと優しさだけは誰にも負けないってこと、妹の私が送料無料・返品不可の一〇〇年保証でお届けするんでっ!」

 そう言って勢いよく頭を下げた莉衣奈は、だけどすぐに顔を上げて、

「いけない、もう一つお願いしとかなきゃいけないんだった……!」

「お願い? もしかしてさっき言ってたサンダルがどうのっていう?」

 他に心当たりがなくて首をかしげると、「や、それは龍生にたかるんで大丈夫!」と元気に否定した莉衣奈は、「ただ……」と視線を落として、

「ときどきで、できる範囲でいいので龍生のこと、甘やかしてあげてくれませんか?龍生って諦めたり我慢することに慣れすぎてるっていうか、パパの分も自分が家族の支えにならなくちゃって子どものころからずっと気を張ってて、家の外でだってあのコワモテが不用意に人を脅かさないようにって、あれでも言動にはすごく気を遣ってて、いつも人の心配ばかりでワガママになれない、甘え下手なとこがあるから……。私が甘やかせたらいいんだけど、『む、さては何かねだるつもりだな?』なんて疑われちゃって素直には受け取ってもらえないし……」

 まぁいつもおねだりばっかりしてるから当然っちゃ当然なんだけど――と、困ったように笑った莉衣奈は、

「龍生が本気で甘えられる人がいるとしたら、それはたぶん千紗さんだけだと思うから、ほんとたまにで、もしなんだったらオリンピックみたいに四年に一度とかでもいいんで、龍生のこと、目一杯甘やかしてやってもらえませんか?」

「り、莉衣奈ちゃん……っ!」

 なんだかんだで兄想いすぎる莉衣奈に、またもやじーんときてしまった千紗がうるうるしていると、なんだか照れくさくなったらしい莉衣奈は、

「つ、ついでに私のことも目一杯甘やかしてくれるとなお良しです……!」

 そう冗談めかして笑うと、「あっ!」と閃いて小悪魔の瞳を瞬かせた。

「今日着てるそのワンピ、飽きたら私に譲ってね、千紗お姉ちゃんっ!」