俳句とお弁当。

 この二つは一見何の関わりもないものに思えるけれど、共通点がある。

 それはどちらも人の心に寄り添ってくれるということ。

 辛い時にはその人をなぐさめるように、楽しい時にはその人を祝うかのように、そっと傍らに在ってくれる。

 そして、その二つを同時に満たしてくれるお店がある。

 心に寄り添った、美しい俳句と美味しいお弁当でおもてなしをしてくれるお店が、ある。

 そこは東京深川の中心部。細い路地の奥にある小さな弁当処。

 名前を――『芭蕉庵』という。



 水路沿いに立つ桜並木がきれいだった。

 四月上旬、日曜日の昼間。

 石島橋の上から見える深緑色をした水路は隅田川の支流で、その水面にはたくさんの花弁が降り注いでいる。ぷかぷかと水上を埋め尽くすように浮かんでいる桜色の絨毯を見て、僅かな胸の痛みを覚えると同時に、何だか桜でんぶみたいだな、と佳奈は思った。

 橋のすぐ近くの門前仲町駅前を抜けて、永代通りを渡った先にあるのは深川仲町通り商店街だ。昭和四十年から五十年以上続く老舗商店街で、昔ながらの下町の趣を色濃く残している。青果店、金物屋、本屋、喫茶店、洋服店。どれもどこか懐かしい雰囲気で、見ているだけで何となくだが心が落ち着くような心地になってくる。

 商店街を出てさらにもう少し北に進むと、深川公園と深川不動尊が見えてくる。

 この辺りは深川の中心地だ。

 江東区の西側――森下、清澄白河、門前仲町周辺を指して、深川という。かつてこの周辺にあった旧深川区の名残なのだという。

 三崎佳奈がこの深川に引っ越してきて、そろそろ三週間が経とうとしていた。

 以前に住んでいた池袋と比べると会社から少し離れてしまったものの、昔ながらの落ち着いた雰囲気のこの町が、佳奈は気に入っていた。望まない引っ越しだったけれど、それだけは救いだ。少なくともここに来る前よりは心は遥かに穏やかだった。とはいっても、いまだに不眠と食欲不振は続いているのだけれど。

 白い陽光に包まれる街並みを眺めながら、新しく自宅となったワンルームマンションへの道を歩いていく。

 深川は下町ということもあって、時間がゆっくり流れているようだった。近くに緑があるせいなのか、鳥の鳴き声が聞こえてくる。クックドゥードゥードゥー、クックドゥードゥードゥー。これは何ていう鳥なんだろう。思わず立ち止まって耳を澄ませてしまう。子どもの頃に、田舎でよく聞いていた気がする鳴き声だ。後で調べてみよう。

 思えば、こんなことを考えたことはこれまであまりなかった。

 ここのところいつもせかせかと気ばかり急いていて、だれかの顔色ばかりをうかがっていたような気がする。いつだって周りの空気ばかり気にして落ち着く暇もなくて……って、よくないな。せっかく引っ越しをして心機一転しようと思ったんだから、暗くなるようなことはなるべく考えないようにしないと。

(いけないいけない)

 頭を振って、落ちこみかけた気持ちを奮い立たせる。

 深呼吸をして、意識して力強く足を動かし始めた。買ったばかりのグレージュ色のスプリングコートの裾といっしょに、セミロングの髪の毛も揺れる。

 この辺りからなら、マンションまで十分足らずで着くはずだ。

 ただ越してきたばかりということもあり、まだ周辺の道には不慣れであって……

「あれ、ここ、どこだったっけ……?」

 気が付いたら、辺りの風景が知らないものに変わっていた。

 浅草や神田などとは異なり、深川は木造住宅の多いいわゆる下町の風情ではないのだが、大通りを一本外れると細い道が多くて迷いやすい。油断するとすぐに迷子になってしまう。

「ええと、こっちがこの道だから……」

 スマホのマップを頼りに右往左往してみるも、見知った道にはなかなか辿り着けない。

 ああ、もう、情けない。

 帰宅することさえまともにできないのか、自分は。

 再び少しばかり落ちこみ気味な気分になりながら、たどたどしい足取りで道を進んでいく。

 と、そこで気付いた。

「……?」

 いい匂いがした。

 炊き込みご飯のような何かの煮物のような、得も言われぬような香り。

 何の匂いだろう。気になって、思わず足が匂いのする方へと向いてしまう。そういえば今日は朝から諸手続きのために区役所に行っていたためろくに食事もとっていなかった。最後に食べたのは朝食代わりのブロック型のサプリメントだ。

 匂いを辿っていくと、やがてその発生源と覚しき場所が見えてきた。

 それは住宅街の中にある、一軒の建物だった。

 外観は何てことのない普通の家屋で、一見ただの民家のようにも見える。だけど間違いなく匂いのもとはここだ。近づいてみると、小さな看板があった。

「弁当処……『芭蕉庵』?」

 変わった名前だが、弁当屋さんなのだろうか。よく見てみれば看板の下にはメニューのようなものも書いてある。

 ちょうどいいタイミングで、お腹がぐうと鳴った。

 考えてみれば、こんな風に明確に食欲を感じたのは久しぶりな気がする。

「お弁当屋さん、かあ……」

 昼食は今日も適当にコンビニで何かを買って済まそうと思っていたけれど、お弁当を買って帰るのもいいかもしれない。あるいはイートインのようなものがあれば、この場で食べていくという選択肢もありだ。

 とはいえ入りづらい。

 看板には『お気軽にお入りください』と書いてはあるけれど、目の前の店構えには一見さんには厳しそうな空気がプンプンと漂っている。

(でも、気になる……)

 この匂いだ。ダシを濃縮したような、それでいてどこか海を感じさせるような、魅力的な匂い。それが佳奈の食欲をダイレクトに刺激してくる。

 曇りガラスの扉から中の様子が窺えないものかと覗きこんでいると、ふいに目の前の引き戸がガラリと開かれた。

「!」

 びっくりして思わず声を上げそうになる。

 中から出てきたのは、中年の男性だった。

「ん、あんたも参加者かい?」

 佳奈を見ると、いきなりそんなことを言ってきた。参加者?

「え? いえ、私は……」

「ああ、初めてなのか。いいから遠慮すんなって。ほら、そんなとこに突っ立ってないで入んな入んな」

「あっ……」

 半ば強引に引き戸の向こうへと引き込まれた。



 入ってみると、店の中はちょっとした会議室ほどの広さだった。外から見た感じよりは意外と広い。入口からすぐの左手側に木製のカウンターがあって、その奥には厨房のようなものが見える。周りの壁にはメニューが貼り出されていた。焼き鮭弁当や唐揚げ弁当、海苔弁当などの定番メニューの中に、白河の関弁当、最上川弁当、殺生石弁当などの文字が見える。あれは何だろう? 正面奥にテーブルと椅子があるのは、イートインの設備だろうか。

 そして店の中には、数人の男女がいた。歳も性別も雰囲気もてんでバラバラだ。さっき男性が参加者と言っていたけれど、何か催しでもあるのだろうか。

「よお、みんな、この姉ちゃん、初参加らしいんだ。仲良くしてやってくれ」

 佳奈を店内に引き入れた角刈りの男性がそう声を上げた。

「あら、そうなの? 清さんが連れてきたものだから、またどこかのスナックのお姉ちゃんかと思っちゃったじゃない」

 明るい声で返してきたのは、奥のテーブルでお茶を飲んでいた恰幅のいい中年の女性だ。いかにも話し好きな近所のおばちゃんといった様子で、興味深そうに佳奈のことをジロジロと見てくる。

「いらっしゃい、『芭蕉庵』にようこそ。あなた、どうしてここに入ろうと思ったのかしら? だれかの紹介? それとも道を歩いていて気になった、ってことはないわよねぇ?」

「あ、ええと……」

「普通、今どきの若い人はこんな何だか分からないお店に入ろうなんて思わないものねぇ。あ、でも逆にそういうのがいいのかしら。うちの娘も最近はレトロな喫茶店とかが流行ってるだとか言っていたし」

 マシンガンのように話しかけてきて止まらない。

 どうしようか困っていると、横から声が飛んできた。

「ほらほら池上さん。お嬢さんが困ってらっしゃる。そのへんにしておあげなさい」

 助け船を出してくれたのは、白髪交じりの男の人だった。柔和そうな表情で、池上さんと呼ばれた女性を制止してくれる。

 あとはもう一人、制服を着た高校生らしき男子が無言で佳奈の方をじっと見つめていた。

「ええと、それであなたは参加者なのですかな?」

 白髪の男性がそう尋ねてくる。

「あ、すみません、私、そうじゃなくて……。その、区役所からの帰り道にたまたまこの辺りを歩いていたらここを見付けて。何のお店なんだろうって気になって見ていたら、中に入れられただけなんです……」

 佳奈のその返答に、中年女性がため息を吐いた。

「あらやだ、また清さんが早とちりしたの? もう、いやねぇ」

「え、そうなのかい? いや、店の前で入りたそうにしてたもんだったからてっきりそうじゃねぇかと思って……」

 角刈りの男性がしょんぼりと肩を落とす。

 それを見ていると、何だか佳奈が悪いことをしたような気分になってきた。

「あ、いえ、私もまぎらわしかったですし……」

「そ、そうかい? そう言ってもらえると……」

「はい。あ、それじゃあ、私はこれで……」

 そう場を濁して、出ていこうとした時だった。

 中年女性が、いいことを思い付いたという顔で手を打った。

「そうだ! どうせだから、あなたも参加していったらどう?」

「え?」

「そうよそうよぉ、ここのところあんまり参加者が増えなくて盛り上がらなかったもの。しかも今回の行き先は『おくのほそ道』の始まりの場所だし、ちょうどいいタイミングじゃない。それがいいわぁ」

 それがいいわ、と言われても。

 何だか勝手に話が進んでしまっているような気がする。

 というかそもそもこれが何の会だかも、ここが何の店なのかもよく分からないのに、返事のしようがない。

「ああ、それはですな――」

 佳奈の表情から察したのか、白髪の男性が説明してくれようとして、

「おっと、いらっしゃったようですね。だったら芭蕉さんから説明していただいた方がいいでしょう」

 視線を右方に遣る。

 つられて佳奈もその先を見ると、そこにはカウンターの奥から出てくる人影があった。

「あ……」

 和服姿の男性だった。

 歳は二十代後半くらいだろうか。濡れているかのような艶っぽい黒髪に、切れ長の目が見え隠れしている。まるで俳優みたいに整った顔立ち。線は細いのだけれど華奢という印象はなく、まるで大きくて美しい鳥みたいだ。その優美で雅やかといっていいたたずまいに、佳奈は思わずため息を漏らしてしまった。

「こんにちは、お待たせしてしまってすみません。仕込みに少し時間がかかってしまって……あれ、そちらは新しい参加者の方ですか?」

「え、あ、いえ」

 佳奈を見て男性がそう言う。

 ふいに話を振られて、佳奈は慌てて他のお客さんの顔を見た。

「芭蕉さん、こちらのお嬢ちゃん、清さんの勘違いで入ってきちゃったみたいなのよぉ」

「う、すまねぇ。それで今、西条さんがここの説明をしてたところなんだけどよぉ」

「どうせなら芭蕉さんから説明してもらった方がいいのではないかと思って。お願いできますかな?」

 他の三人が事情を説明してくれる。

「ああ、そういうことなんですね」

 それを聞いた男の人が納得したようにうなずいた。芭蕉さん、というのがこの人の名前なのだろうか。ずいぶんと変わっている。

 男の人が優しい笑みを浮かべながら佳奈の方を向いた。

「はじめまして。僕は芭蕉といいます。芭蕉、というのは渾名なのですが、みなさんに恐れ多くもそう呼んでもらっているので、よろしければそうお呼びください。少し前から、このお店で働かせてもらっています」

「はあ……」

「それで、このお店の説明でしたよね」

「あ、はい」

 肝心なのはそこだ。

 看板にそう書いてあったからおそらくお弁当屋さんなのだろうけれど、そこから先がさっぱり分からない。

 首を傾ける佳奈に、すると和装の男性はにっこりと笑ってこう答えた。

「――ここは弁当屋です。ただし、松尾芭蕉と俳句を愛する人たちが集う」



 松尾芭蕉。

 名前くらいは、佳奈も聞いたことがあった。確か有名な俳人で、『おくのほそ道』とかを残していたはずだ。中学生くらいの時に国語の教科書で読んだことがあったと思う。とはいえ知っていることといえばそれくらいだった。

「松尾芭蕉は、一六四四年に生まれ一六九四年に亡くなったとされる、江戸時代前期の俳諧師です。近松門左衛門や井原西鶴と並び、元禄の三大作家とも言われています」

 和装の男性――芭蕉さんが言った。

「本名は松尾忠右衛門宗房といい、現在の三重県である伊賀国の生まれです。俳句のもとである俳諧の芸術的完成者であり、生涯における数度の旅を通して蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる日本史上最高の俳諧師の一人です。紀行には『野ざらし紀行』、『笈の小文』、『更科紀行』、『おくのほそ道』、日記には『嵯峨日記』などがあります。一説では忍者であったとも言われていて、実は服部半蔵と同一人物ではなかったかという伝説まで存在していて……」

「は、はあ」

 そんなに熱く語られても佳奈にはそのすごさがよく分からない。というかどう反応していいのかも困ってしまう。

 佳奈の視線に気付いたのか芭蕉さんがはっとした顔になった。

「ああ、申し訳ありません、喋りすぎてしまいました。つい興奮してしまって……」

「だめよぉ。芭蕉さんは芭蕉のこととなると夢中になっちゃうから。付き合ってたら平気で一日中喋り続けてるんだから」

「え、そんなことは……」

「むしろいつまでも喋ってるのは池上のおばさんの方だろ」

 角刈りの清さんがそう突っ込むものの、中年の女性――池上さんは止まらない。

「この芭蕉さんはね、変わり者なのよぉ」

 池上さんが笑いながら言った。

「こんなに若くてハンサムで才能もあるっていうのに、こんなぱっとしないお店で働いてくれているんだから。おかげで私たちは毎日美味しいお弁当を食べられるからラッキーだけどねぇ。それだけじゃなくて毎月何回か、『芭蕉の足跡を辿る会』っていうのを主催してくれているの。都内にある芭蕉の史跡を巡ったり、朗読会をしたり、時には『おくのほそ道』の舞台となっている東北の方にまで旅行をしたり、活動は様々よ。でも何といっても、活動の度に毎回出てくる、その場所にちなんだ特製のお弁当が絶品なのよぉ。この前のなんて、もう牛肉がとろけるみたいで……」

 結局、池上さんがほとんど説明してくれるかたちだった。

 要するに――ここは『芭蕉庵』という名前のお弁当屋さんらしい。

 この芭蕉さんと呼ばれる和服の男性が、お弁当を作っている。

 そして月に何回か、『芭蕉の足跡を辿る会』なるものが催されているようだ。さっきからここの人たちがこぞって口にしていた会というのは、おそらくそれのことを指しているのだろう。

 言ってみれば地域サークルみたいなものなのだろうか。

 ただ話の中に出てくるお弁当というのが気になった。それはもしかして、佳奈をこのお店に惹き付け、さっきから店内にも漂っているこの何ともいえない食欲をそそる匂いにも関係があるのだろうか。

 と――そこでお腹がぐぅぅと鳴った。

 店内に響き渡るほどの大きな音。

 ちょ、ちょっと、やだ、こんな時に……

 思わず赤面してしまう佳奈に、芭蕉さんが苦笑した。

 そして「ちょっとお待ちください」と一度カウンターの奥に引っ込むと、小皿を手に戻ってきた。

「ひとまずこれでしのいでください」

 そう言って出されたのは、蕗の煮物だった。

 煮込まれて薄緑色をした蕗が、控えめな照明の下で見事な照りを輝かせながら、淡い黄金色のダシに浸かっている。いっしょにふっくらとしたきつね色の油揚げが添えられていた。

「あ、ええと……」

「どうぞ、召し上がってください」

「い、いただきます」

 少し迷ったものの美味しそうな小鉢の誘惑に抗えず、両手を合わせて、添えられていた漆塗りの箸で蕗を口に運ぶ。

 よく煮込まれた蕗は、柔らかくほろりと口の中で溶けるようにほぐれた。

「優しい味……」

 思わずため息が出た。

 春の息吹を感じさせるような蕗の香ばしい風味とダシの旨みが、滋味を求めていたお腹にじんわりと染みこんでくるかのようだった。

「蕗の煮物って、苦くてちょっと苦手だったのに……」

 小さい頃にお母さんが作ってくれたことがあったけれど、正直あまり好きにはなれなかった。

 だけどこの蕗の煮物はその時のものとはぜんぜん違う。

「アク抜きをしない蕗には、独特のえぐみがありますから」

 芭蕉さんが言った。

「うまくアク抜きをするためには、まずはまな板の上で、蕗の束一つにつき大さじ山盛り一杯の塩でこすり合わせます。これを板ずりといいます。板ずりを終えたら、塩がついたままの蕗を茹でます。茹で時間は細い先端の部分で三分、太い根本の部分で五分ほどが目安です。茹で上がったら順に氷水にさらしていきます。そして最後に皮を剥くことで、えぐみはだいぶ軽減されますよ。また油揚げをいっしょに煮込むのも効果的です。油揚げの風味がえぐみを消してくれるんです」

「そうなんですね……」

 言われてみれば、お母さんはそんなことをしていなかったような気がする。ただお湯で茹でて大ざっぱに味つけをするだけ。そういう細かいことは適当な人なので、自己流でやっていたのだろう。とはいえそんな少しの手間でここまで味が変わるのは、驚きだった。

「それで、どうでしょうか。よかったらあなたも『芭蕉の足跡を辿る会』に参加してみてはいかがですか?」

 穏やかな笑みを浮かべながら芭蕉さんがそう誘いの言葉をかけてくる。

「それは、でも」

「決めきれないようでしたらお試しでも結構です。一度参加してみて、合わないようでしたらこれっきりでも構いません。とにかく、今日だけでも加わってみませんか? きっとあなたにとって、そうした方がいいと思います」

「……?」

 口調は穏やかだけれど割と押しの強い感じだった。

「でも、そんな大がかりな会だと、その、先立つものが……」

 ここ最近は引っ越しやその他のもろもろで色々と物入りだったため、正直余裕はない。

 すると芭蕉さんはこう言った。

「それは心配いりません。お代はいただきませんから」

「え?」

「ですが代わりに、一句詠んでもらいます」

「一句……?」

「はい」

 芭蕉さんが優しい表情でうなずく。

「俳句でも、短歌でも、川柳でも、何でも構いません。みなさんの前でその日感じたことを表現した一句を詠んでもらいます。それがお代がわりです」

 それは……なかなかにハードルが高いのではなかろうか。

 自慢じゃないが、佳奈にはそういった創作的なセンスは皆無だった。

 だけど……正直、『芭蕉の足跡を辿る会』には惹かれるものがあった。

 さっき食べた蕗の煮物は素晴らしく美味しかった。それはもう頬が落ちるんじゃないかというくらいに。だとすれば、この後に出てくるという今日のお弁当――おそらくは佳奈をこの店に引き付けたこの匂いのもとなのだろう――も相当に期待できそうだ。

 喉の奥がごくりと鳴った。

「――わ、分かりました」

 気付けば佳奈はそう答えていた。

 食欲に負けたと思うと悔しかったけれど、ここまできて件の匂いの正体を確かめずに帰るなんて、できるはずもなかった。

「ではよろしくお願いしますね」

 芭蕉さんがにっこりと笑う。

「おう、よろしくな、姉ちゃん」

「お仲間が増えてくれて嬉しいわぁ」

「よろしくお願いいたします」

「……よろしく」

 他の人たちもにこやかにそう話しかけてきてくれて、佳奈は慌てて挨拶を返した。

「さ、それじゃあ行きましょうか」

 芭蕉さんの言葉に、皆が立ち上がり一斉に店の入り口へと動き出す。

「行く?」

 って、どこに?

 目を瞬かせる佳奈に、芭蕉さんが優しげに笑ってこう言った。

「はい。本日のお弁当を召し上がっていただく前に、まずはこの深川に点在する芭蕉の史跡を巡っていただくことになっています。その後に、みなさんに一句披露していただきながら本日のスポットにちなんだお弁当をご用意いたします」

 そういえばそんなことを言っていたような気がする。

 この期に及んでまだおあずけなんて生殺しもいいところだったけれど、それがルールというのならば仕方がない。幸い、蕗の煮物のおかげでお腹は少しだけ落ち着いていたし。

 こうして、深川巡りに参加することになった。



 深川というのは、不思議な町だ。

 最寄りに門前仲町、清澄白河、森下の駅があることから、駅前にはたくさんの車や人が行き交う大通りがあり、チェーン店なども多く存在する。だけど大通りから少し道を外れれば、どこか落ち着く懐かしい眺めがそこかしこに存在する。目に入ってくるのは小さなお社や緑豊かな公園、味のある居酒屋や銭湯など。近代化された街並みの中に、昔ながらの風景が複雑に混在した町だった。

「この辺りって、入り組んだ路地が多いですよね。よく迷っちゃって……」

 佳奈が周囲を眺めながらそう口にすると、芭蕉さんが笑った。

「似たような雰囲気の小径が多いですからね。地元の人でも間違えることがあります。三崎さんはまだ越してきて間もないでしょうから、仕方がないと思います」

「そうなんですよ。どれも同じ道に見えてしまって……」

 ……って、あれ?

 私、最近引っ越してきたばかりのこと、言ったっけ……?

 思い返してみるも、その覚えはない。

 不思議に思って佳奈がそのことを尋ねてみると、芭蕉さんは少しだけすまなそうな顔になって言った。

「申し訳ありません。失礼ながら推察させてもらいました。お店に来られた時、三崎さんはこの辺りの地理に不慣れのご様子でした。観光に来られていた風でもないので、おそらくはたまたま迷いこんでしまったのだと考えました。そのことから、この辺りに住んではいるがまだあまり馴染みのない方なのだろう、と。それに今日は区役所に行ってきた帰りだとうかがいました。特別に日曜窓口を実施している区役所にわざわざ足を運ぶということは、きっと急ぎのご用事があったのでしょう。転入届けの手続きなどを行ってきたのではありませんか?」

 驚いた、全部当たってる。

 確かに芭蕉さんの言っていた行動を、佳奈は取っていた。

 でもたったそれだけのことから佳奈が引っ越してきたばかりだということを言い当てるなんて、すごい観察眼だと思う。

 感心しながら歩いていると、最初の目的地に辿り着いた。

 芭蕉さんが立ち止まったのは、門前仲町駅前の大通りを北に進んだ先にある小さな小屋のような場所だった。仙台堀川にかかる海辺橋手前の歩道脇の僅かなスペースに建てられていて、小さな縁側に座る芭蕉の像が置かれている。

「ここは『採荼庵跡』といいます」

 芭蕉さんが言った。

「芭蕉が『おくのほそ道』へと旅立った際の、出発の地だと言われています。芭蕉の門人、杉山杉風の別宅だったところで、芭蕉が奥の細道の旅に出る前に住んでいた建物跡です。ここから出発した芭蕉は船を下りた先の千住で〝行く春や鳥啼魚の目は泪〟という句を詠んだと言われています」

「〝行く春や鳥啼魚の目は泪〟……」

「もうすぐ春が行ってしまう中で旅立ちを決めた芭蕉が、〝鳥が切なげに鳴き魚の目が涙に潤んでいるのは、春と私、どちらの別れを惜しんでいるのか〟、と問いかけている句です。親しい人たちとの別れを寂しがって詠んだのでしょうね」

『採荼庵跡』にはあまり人はおらず、大通りのすぐ真横だというのにどうしてか落ち着いた雰囲気があった。芭蕉の旅立ちへの惜別の感情がこの場所に染みついているのだろうか。そしてここでも桜の花が満開だった。仙台堀川沿いの道を埋め尽くすように、ピンク色の花弁が音もなくひらひらと降り注いでいる。

「ほう、桜かい。こりゃあきれいなもんだ。一杯やりたいところだねえ」

「やっぱり日本人は桜よねぇ。心が洗われるような気がするわ」

「桜と言えば、風流の代名詞のようなものですからな」

 清さんたちが口々にそう感嘆の声を上げる。

 その言葉の響きを聞いて、佳奈の胸の奥がズキリと鈍く痛んだ。



 さくら、という音を聞くと、お腹の奥にずっしりと重い鉛を飲みこまされたような心地になる。

 この町に引っ越してきてからはずいぶんとマシになったものの、それはいまだに佳奈の胸の内を苛んでいる。忘れようとしてもなかなか忘れられない。

 山下さくらは、五歳下の後輩だった。

 明るくて人懐こくてでも少し気まぐれなところがあって、仔猫みたいな性格だった。同じ部署に女子が少ないということもあって、佳奈はよく彼女の相談に乗ったりもしていた。ランチをいっしょに食べることも多かったし、休日に買い物に出かけることもあった。客観的に見ても、仲の良い先輩と後輩だったと思う。

 そのさくらが結婚をして会社を退職するというのを聞いたのは、ほんの三ヶ月前――今年の一月のことだった。

 そんなことはさくら本人からはぜんぜん聞いていなかったので最初は驚いた。彼女は佳奈に何でも話してくれていると思っていたから。だけどすぐに思い直した。いくら仲の良い間柄であっても隠しておきたいことはあるのだろう。それは思うところがなかったかと訊かれればそうではないとは言えないけれど、仕方のないことだ。そう考えて、お祝いの言葉を贈ろうと準備をしていた。

 だけどそれら全ては、さくらの結婚相手を見た瞬間に、吹き飛んでしまった。

 頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなってしまった。

 さくらの結婚相手。

 それは同じ部署に勤める、佳奈たちの上司でもある正木だった。



 芭蕉さんたちが次に向かったのは、『採荼庵跡』のすぐ近くにある小道だった。

『俳句の散歩道』。

 海辺橋から清澄橋へと延びる川沿いの遊歩道には、『おくのほそ道』の代表的な十八句が書かれた高札のようなものが並んでいることから、そう呼ばれているのだという。

「この中から、お気に入りの一句を見付けるのも楽しいかもしれませんね」

 木製の立て看板に書かれた俳句は、どこかで聞いたことがあるものからまるで耳にしたことのないものまで、様々だった。

「〝野を横に 馬牽むけよほととぎす〟って、どういう意味なんですか?」

「これは〝ホトトギスが野原を横切っている。さあ馬子よ、君が本当に風流を理解するのならばいっしょに鳴き声を聞こう。馬をそちらに向けてくれ〟という解釈ですね。芭蕉が旅の途中で送ってもらった馬子に頼まれて詠んだ句だと言われています」

「へえ……芭蕉、優しいんですね」

「そうですね。馬子が、俳句に興味を持ってくれたのが嬉しかったのだと思います」

「あ、この〝五月雨をあつめて早し最上川〟は聞いたことがあるような気がします」

 芭蕉さんが微笑んだ。

「芭蕉の中でも有名な句ですね。芭蕉が増水した最上川を見て詠んだ句と言われています。〝先月からの五月雨で増水したようだ。たいそう勢いよく流れていく最上川だなあ〟という解釈がされていて……」

 どの句の意味を聞いても、芭蕉さんは正確に説明してくれる。それも俳句初心者の佳奈が聞いてもとても分かりやすいほどに噛み砕いて。本当に俳句に詳しいんだなあ……

 それにしても、と思ってしまう。

 今の状況が不思議だった。こうして松尾芭蕉の俳句を解説してもらいながら、深川の町をのんびりと散歩しているなんて、ほんの少し前までは思いも寄らなかった。

 俳句や松尾芭蕉に興味があるかと訊かれれば、正直そこまででもない。もちろんこうやって史跡を巡るのは楽しいけれど、自分から積極的にやろうとは思わなかっただろう。そもそもここのところは用事がなければ休日に外出しようという気にもならなかった。だけど無心になって俳句を見ていると、少しだけ心が晴れやかになってくるのも事実だった。

「そういえば、姉ちゃんはどの辺りに住んでるんだ?」

「あ、『芭蕉庵』からそう遠くないところです。木場寄りの方で……」

「あらぁ、あの辺はいいわよねぇ。オフィス街が近いけど公園はあるし、住んでる人たちはファミリー層が多いから治安もいいし」

「はい、そうなんです」

 芭蕉さんや、他の皆と喋りながら、俳句の散歩道を行ったり来たりしつつゆっくりと見学していく。

「……ん?」

 と、何だか気になる句があった。

 意味は分からない。

 だけどその十七文字に込められた言葉の響きが、どこか胸に引っかかったのだ。

「これは素敵な一句を見付けましたね」

 立ち止まった佳奈に気付いた芭蕉さんが、小さく微笑んだ。

「実はこの句は、今日の会のポイントにもなるものなのです。よければ最後まで覚えておいてください」

「あ、はい」

 俳句の散歩道を抜けて、しばらく歩いた先にはお寺があった。

 広い庭園――清澄庭園というらしい――の脇道を通り過ぎていくと見えてくるお寺で、臨川寺というそうだ。

「ここは芭蕉が、二歳年上の仏頂和尚という人物の人柄に感服し足繁く参禅していた場所です。芭蕉庵と近かったことから、親交を深めていったと言われていて、別名芭蕉寺とも呼ばれています」

 見た目は普通の住宅のようにも見える小さなお寺だったが、芭蕉ゆかりの地というだけあって、堂内には芭蕉の木像が、また境内には芭蕉に関係のある『墨直しの碑』や『芭蕉由緒の碑』などがあった。

「ふむ、外観からは想像もつかないくらいに芭蕉推しの寺ですな」

「そうですね、びっくりしました」

 街の片隅にふとあるこういった小さなお寺にも芭蕉の足跡が残っているのだと、何だか不思議に感じた。



 その後も、いくつか深川の町を巡った。

 本誓寺、萬年橋、芭蕉記念館、芭蕉庵史跡展望庭園。

 中でも芭蕉記念館と芭蕉庵史跡展望庭園は芭蕉の名が冠されていることもあり、色々と面白い見どころが盛りだくさんだった。

「この芭蕉記念館では、常設展示の他に企画展示も催されています。今は『其角と江戸俳壇』をやっているようですね。其角とは、芭蕉に〝草庵に梅桜あり、門人に其角嵐雪あり〟と言わしめた、芭蕉第一の門弟である宝井其角のことです」

「そうなんですね……あ、ジュニア俳句教室も定期的に開かれているんですね」

「ええ、毎月第二土曜日ですね。子どもたちにも俳句の楽しさを伝えることができる、いい試みだと思います」

「姉ちゃんも参加してみたらどうだ? 俳句はまったく素人なんだろ」

 清さんのからかうような声に曖昧な笑みを浮かべながら、芭蕉記念館を回っていく。記念館の常設展示では芭蕉の生涯や時代背景、深川との関係性などが分かりやすく展示されていて、佳奈にとってはどれも新鮮なものだった。

 一時間ほど見学して、そのまま芭蕉記念館から歩いてすぐのところにある芭蕉庵史跡展望庭園へと向かう。

 隅田川に面した遊歩道とちょっとした公園のようなスペースがある場所で、石でできた円筒形の腰かけも並んでいる。庭園の奥に芭蕉像があるのが印象的だった。

「この芭蕉翁像は、回転して向きが変わるんです」

「え、そうなんですか?」

「ええ。ただし閉園後の十七時に回転するので、その瞬間を間近で見ることができないんですけれどね」

 片目をつむってウインクをしながら芭蕉さんが言う。残念。回転するところを少し見てみたかったのに。

 そんなやり取りをしながらの、史跡巡りだった。

 時間にして三時間くらいだろうか。四月にしてはだいぶ暖かな陽気の一日で、歩いていると汗をかくくらいだったけれど、何だか汗といっしょに心の底で澱のようにたまっていた何かが流れ出していくようにも感じられた。

 そういえばこんな風にゆったりとした気分で休日を過ごすことなんて、ここ最近はなかった。

 やっていたことといえば今後どうするかの話し合いと、引っ越しの準備とその後始末と、たまっていた仕事の処理ばかりで、通勤以外ではろくに外出もしていなかった気がする。

 何だか少しだけ身体が軽くなったような気がした。