座敷童子の代理人6 | メディアワークス文庫 1PAGE

プロローグ


 ホースの先を指でつまんで水を撒いた途端、中庭のアジサイから初夏の匂いが立ち上り、宙には小さな虹が生まれた。

 日に日に上昇していく気温を肌で感じ取れるようになってきたこの頃。まだ六月になったばかりだというのに、これでは先が思いやられる。気が付けば作務衣の内側はじっとりと汗ばんでおり、労働後の心は清涼感を求めてやまなかった。

 ここは岩手県遠野市にあるひなびた旅館、迷家荘。

 四方を北上高地の山々に囲まれ、盆地特有の気候を持つこの辺りでは、季節による寒暖の差が激しく、四季の移り変わりが色分けされたようにはっきりしている。ようするに寒い時期はとことん寒く、暑い時期は嫌になるほど暑いのだ。

 中庭の掃除を終えた俺――緒方司貴は、旅館の勝手口でサンダルを脱いで事務所の戸に手を掛けた。

 確か、冷蔵庫に牛乳があったはず。渇いた喉にごきゅっと流し込もうと歩を進めたところで、奥のテレビに釘付けになっている誰かの背中を見つけた。

 浅葱色の調理服を着たガタイのいい中年男性が、大きな肩を縮めながらメモ用紙を構え、食い入るようにワイドショーを見ているようだ。一体、何が彼をああまで惹き付けているのか。

「お疲れ様です」と声を掛けてみる。「何か面白いニュースでもあったんですか?」

「あ、緒方さん。お疲れ様です」

 返事をしてくれたのは、手前のデスクで出納簿をつけていた可憐な女性だ。

 東北美人という言葉を体現したような透明感のある白い肌に、黒目がちな大きな瞳と桃色の柔らかそうな唇。一点の曇りもない純真無垢な笑顔。

 鮮やかな桜色の着物に身を包み、艶やかな黒髪を後頭部で団子状にまとめた彼女は、この迷家荘の若女将だ。現世に舞い降りた和装の天使こと、白沢和紗さんである。

 彼女は俺と視線を合わせると、はにかんだように口元を緩める。

「ニュースじゃないですよ。今話題の、陰陽人生相談ってやつです。お父さんったら最近これにハマってて」

「陰陽――人生相談?」

 何だろう。物凄く胡散臭そうな言葉の響きだ。そう考えていると、「最近ってことはないだろう」とテレビの前の男性が振り返らずに呟いた。

 支配人兼板長であり、和紗さんの父親でもある白沢絃六さんは、にわか扱いされたことが不服とばかりにこう続ける。

「おれはな、〝久我兄弟〟がテレビに出始めた頃から応援してるんだ。本だって買って熟読してるし……。ほら、その辺に置いてあるだろ?」

 と、彼は背を向けたまま指をさす。書類棚の上に設置された簡素なマガジンラックの中に、それらしき本の背表紙が見えた。

 促されるままに、本を手にとってみる。表紙の中央に写る青年の服装は、白い着物に浅葱色の袴。その隣には、同じく神職の礼装を纏う少女が並び立っていた。

 本の帯には、〝現代に蘇る安倍晴明――久我流陰陽道の神髄を見よ!〟などと威勢のいい文句が躍っている。

 うーむ、実に怪しい。見るからに怪しいぞ。

 しかし絃六さんがファンだというなら仕方がない。あまり否定的な意見を口にするのも躊躇われたので、もう少し詳細を訊ねてみることにする。

「で、今してるのは何の話なんです? 見たところワイドショーの一コーナーみたいですけど」

「ええ。今週からレギュラー化したんですって。今は〝金縛り〟の話みたいですね。この相談者の方が最近よく金縛りに遭うそうで」

 テレビ画面には本の表紙と同じ、涼やかな美青年の姿が映し出されていた。そして対面のソファーに腰掛けた中年女性は、しきりに肩を揉みほぐすようにしながら喋っている。

 金縛りとは、睡眠時に肉体は眠っているのに意識だけが覚醒している状態のことだ。疲れているときに起きやすいとされているが、何らかの心霊現象と結びつけて考えられたりもする。

「――はん。馬鹿馬鹿しいね」

 と、そこへ。事務所の戸を開けてずかずか入ってきた闖入者がいた。

 赤い着物に身を包んだ、外見年齢にして十歳くらいに見える少年である。

 掌に収まるぐらいに小さな顔に、くっきりと高く整った鼻筋。端正な顔立ちながら、無造作に伸びた髪が顔の左半分を覆い隠しているのが印象的だ。それがかえって右目を宝石のごとく輝かせ、彼の持つミステリアスな雰囲気を助長していた。

 彼はこちらに目もくれず、冷蔵庫の中身を物色しながら口を開く。

「金縛りは、医学的には睡眠麻痺と呼ばれる睡眠障害の一つだ。人間は寝ている間にノンレム睡眠とレム睡眠を交互に繰り返すんだけど、ストレス等が原因でこのリズムが崩れてしまう場合がある。そして睡眠リズムが崩れると、脳は活動しているのに体は休眠状態のままなんてことにもなりうる。これが睡眠麻痺だ。つまり金縛りは心霊現象なんかじゃなく、ただの生理現象。要は陰陽師の出る幕じゃないってこと」

「はいはい。今日も絶好調だな蘊蓄妖怪」

 牛乳をコップに注ぎながら流暢に雑学を披露する彼に、思わず溜息をついてしまう俺。見た目は子供のようだが、中身は全くの別物だ。彼こそはこの旅館の守り神にして俺の優秀な相棒、座敷童子なのである。

「――あ、座敷童子様ですか?」

 勘の良い和紗さんが冷蔵庫に目を向ける。俺の視線と言葉から、事務所内に童子が入ってきたことを察したようだ。

 妖怪は普通の人間には見えないし、その声も聞こえない。もちろん和紗さんや絃六さんにもだ。だから俺は童子の言葉を代弁することにする。

「座敷童子が、金縛りは単なる生理現象だから陰陽師の出る幕じゃない、とか言ってますね」

「ふふ、そうですか」

 苦笑する和紗さんを気にしてか、童子が「言っておくけど」と補足を加える。

「金縛りのメカニズムは既に科学的に解明されている。再現性のある実験を繰り返して検証されたところによると、金縛りになりやすい人はナルコレプシーの疑いがあるとされているから、陰陽師じゃなく医者に診てもらうべきだと思うよ」

『――ナルコレプシーの疑いがありますので、一度医師の診断をあおいで頂いて』

 童子が言ったまさにそのとき、テレビの向こう側の陰陽師青年がほぼ同じ台詞を口にしていた。

 絃六さんが、どうだ、と言わんばかりに振り向く。童子との会話は聞こえていないはずだが、陰陽師が批判されていることには気付いていたらしい。

「ふうん」

 少しだけ興味を引かれたように童子が鼻を鳴らした。そして、絃六さんのすぐ背後まで歩み寄り、椅子の背もたれに手をかけてテレビを覗き込む。

「で……。何かインテリアの話が始まったようだけど」

「ああ。そうだな」と肯定を返す。

 陰陽師青年が言うには、金縛りは生理現象かもしれないが、そういった不運を引き寄せている原因は家のインテリアにあるそうだ。

「なるほどなるほど」

 絃六さんは至極真面目な表情で何度もうなずく。

「北東の方角は〝鬼門〟にあたるから、水回りがあるのは本来よくない、と。うちの旅館で言うと、ちょうど露天風呂の方向だ。運気を上げるには、盛り塩か観葉植物を置くか、邪気を祓う水晶や鏡……。一番良いのは動物を象った像らしいが、何か適当なものはなかったかな」

「天狗のお面、とかはロビーにありますけど」

 訊ねられてそう答えると、

「できれば狛犬みたいに一対のものがいいらしいんだが……。この際、河童様の銅像でも置いてみるか」

「ちょっと、お父さん」

「やめましょう、支配人」

 和紗さんと俺が同時に否定を返す。

 うちの旅館――迷家荘の露天風呂は、百パーセント源泉掛け流しの天然温泉である。この温泉を目当てに遠方から訪れるお客さんもいるほど、人と妖怪を問わず大人気の癒しスポットなのだ。

 野趣溢れる岩造りの湯殿の傍には涼やかにせせらぐ渓流があり、四季を通じて雅な風情を楽しめる自慢の風呂だ。そこへ河童像なんて、さすがにミスマッチとしか思えない。せっかくの景観がB級ホラーテイストを帯びてしまうだろう。

 というか、像など置かなくとも、あそこには四六時中入り浸っている河童がいるし、狛犬っぽい妖狐と化狸も毎日岩盤浴している。だから必要ないのではと思う。

「……むむ。また二人して」

 素気なく提案を却下された絃六さんは、彫りの深い顔を歪めて複雑な表情を見せる。

「最近、ますます仲良くなった気がするが、気のせいか? 今も息ぴったりだったし、ときどき視線で通じ合ったりしてるみたいだし……」

「そ、そんなことないと思うけど」

「え、ええ。普段通りですよね、別に」

 内心慌てつつも平静を装う俺たち。

 実はこの春、俺と和紗さんの関係には、少しばかり良い変化があったりもしたのだが、それはまだ二人だけの秘密だったりする。

「ならいいが……。じゃあ何か小物だけでも! 脱衣所の隅っこでいいからよ!」

「ま、まあ、そのくらいならいいと思いますが」

 絃六さんの勢いに押されてつい同調してしまう俺。和紗さんも反論する気を削がれたようで、諦めたように微笑むばかりだ。

 しかし絃六さんにも困ったものだと思う。立派な体格やその強面からは想像できないほどに、内面は繊細で傷つきやすく、信心深くて情け深い。メディアの影響も受けやすく、おまけにミーハーときた。

 まあテレビの取り上げ方を見る限り、件の陰陽師青年が人気を博しているのも確かなようであるが。番組内でもかなりの尺を割かれているようだし、俺が知らなかっただけで世間での認知度は高そうだ。

 ただし、ちょっと引っ掛かることもある。

「見ている限り、陰陽人生相談が話題になっているというより、この久我凪人さんに人気が集まってるだけのような気がするんですが……。まあ、俳優顔負けってくらいイケメンですし。それにこの子だって――」

 言いながら先程の本をもう一度手に取る。

「この隣に写ってる子も、アイドルみたいに可愛いですよね」

 表紙を飾る青年は、テレビ画面よりも少しだけ若い顔立ちをしていた。短めに揃えた黒髪が清潔感とストイックさを漂わせており、容姿だけでタレント活動ができそうなほどの美形だ。ワイドショーの顔として通用するのも納得である。

 隣に立つ少女も、まだ幼さを残した丸顔ながら、ハーフのようにめりはりの利いた目鼻立ち。こちらはふわりとした栗色の長髪を首の後ろで結わえて肩から流しており、スカートを穿いて握手会でもしようものなら長蛇の列ができそうな美少女だ。陰陽道に全く興味のない層でもファンにしてしまいそうだから凄い。

「……は? あの、緒方さん?」

 和紗さんがやや厳しい目つきになりながら、俺の顔を覗き込んでくる。

 おっと、まずかったかなと一瞬考える。彼女の目の前で、別の異性への関心を示したりするのはやはりマナー違反だっただろうか。

「いや、別にですね」と慌てて弁解を口にする。「可愛いってのは、あくまで一般論での話ですよ? 俺にとってはもちろん――」

「緒方さん。その子、男の子ですよ?」

 小首を傾げながら言う和紗さんの様子に、すぐさま己の過ちに気付いた。

 もう一度、本の表紙を注視する。

 ――嘘だろ? これで男の子?

 有り得ない。こんなに体の線が細くて頼りなくて、なのに凜とした野菊のような雰囲気を漂わせるこの子が、まさか男の子だなんて――

「……いや、本当に、世の中は不思議なことばかりですね」

 久々に衝撃を受けた俺は、思わず目を閉じて首を振った。妖怪が実在していることなんてごく普通に思えてくる。そんな感慨をしみじみ抱いていると、

「――あーあ興醒めだね。こいつ最後まで言わなかったよ。金縛りに対する一番簡単な予防法について」

 童子が呆れたように肩を竦め、カップを洗い物受けに置いた。どうやらまだテレビを見ていたようだ。

「金縛りの予防法? そんなものあるのか?」

「あるよ。さっき再現性のある実験も行われてるって言っただろう。その実験結果や、金縛り体験者の証言を集めてみると、金縛りになりやすい条件が浮き彫りになってくるわけだ。その中で代表的なのが、仰向けに寝る、ということさ」

「仰向け……。じゃあ横向きに寝たり、うつ伏せに寝たりすれば?」

「そう。たったそれだけのことで、高確率で金縛りは防ぐことができる。なのに安倍晴明の再来とやらは、それを相談者に伝えなかった。しょうもないインテリアの話に終始してね。その一事だけでわかるというものさ。こいつはただの詐欺師だよ」

 何の感情も籠もらない声で言い捨てて、童子は事務所を出て行った。

 そのせいで困り顔になった俺の後ろから、絃六さんが「座敷童子様が何か仰ってるのかい?」と訊ねてくる。

 陰陽師青年の熱狂的ファンである彼に、そのまま伝えては夢を壊してしまいそうだ。なるべく当たり障りのない言葉を選び、「金縛りは仰向けに寝なければ防げるそうですよ」と伝えておくことにした。

 うちの座敷童子は聡明で頼りになるやつだ。ただし毒舌が玉に瑕だったりもする。あれで性格が良ければ言うことなしなのだが、残念ながら天然のド畜生なので、功績の割に称賛されることが少ない。みんな素直に褒めたくないのである。

 それでもまあ、幾多の事件を共に解決してきた相棒だ。口には出さずとも俺は彼を信頼していた。

 童子の言うことなら間違いないだろう、とそのときの俺は思っていた。



 ――がしかし。座敷童子への俺の信頼は、その日の夜には粉々に砕け散った。

 童子の嘘つきめ。何が『仰向けに寝なければいい』だ。ふざけやがって。

 心の中でただ非難を繰り返す。何故なら、今の俺にはただ念じることしかできないからだ。口を開くことも、声を発することもできず、それどころか身じろぎ一つできない。

 そう。つまりは金縛りである。

 原因はストレスだと童子は言っていたが、心当たりはない。現状、旅館は閑散期にあり、本日の宿泊予約はゼロ。植木の水やりと掃除と電話番しかすることがなかったため、肉体的な疲労はないはずだ。ならば一体、何が原因だというのか。

 目は開いていた。布団の端が見えるので、確かに横向きに寝ている。だが脇腹から下の辺りに重みを感じる。誰かに押さえつけられているように息苦しい。こうなると何らかの心霊現象だとしか考えられないが……。

 視線をせわしなく周囲に巡らすも、暗闇の中には見慣れた部屋の輪郭が浮かぶだけ。物音一つしなかった。

 焦りと恐怖が心を支配し始めた。意識がはっきりしているのに体の自由が利かないというのは、こんなにも不安になるものなのか。

 例えば今、何者かの襲撃を受けたなら、一切抵抗できずされるがままとなるだろう。その場面を想像するだけで、冷たい悪寒が全身を撫で回す感覚がした。

 どうにかできないだろうか。早く何とかしなければ。

 体に思い切り力をこめるが、やはり指一本動かせなかった。鼻先までコンクリートに塗り込められたかのように重く、自分の心臓の音だけがやたらうるさい。

 ただ、闇に目が慣れたのか、視界だけはややはっきりとしてきた。それと同時に、わずかに首を動かせるようになったことに気付く。これでもう少し周囲を見回すことができるはずだ。

 と、そうして辺りを観察しているうちに、気が付いた。

「…………っ」

 いや、本当は最初から見えていたのかもしれない。見えていながらも認識することを避けていたのだ。俺の横腹の上に乗っかった、黒い靄のようなものを。

 恐らく脳が拒否していたのだろう。こんな自衛の手段も存在しない状態で、それを脅威と判断することを本能的に避けていた。正気ではいられなくなるからだ。

 だから認識してはいけなかった。頭の中に警鐘が鳴り響くが、もう遅い。

 見てはいけないものを、俺は見てしまったのだ。

「――む、む、む」

 横腹の上に〝考える人〟のポーズで腰かけたそいつは、重苦しいトーンで断続的に唸り声を上げていた。

 彼が全身に着込んでいるのは戦国時代の鎧のようなもの。黒塗りのそれは全体的にボロボロで、ところどころ歪んだり紐の結び目がほつれたりしている。

 枯れ柳のような長い髪が、両肩から垂れ下がっているのも不気味の一言。頭頂部はつるりとそり上げられているが、あれは恐らく月代というものだろう。

 さらに左腕の付け根には深々と矢が刺さっており、傷口は鮮血で真っ赤に染まっている。また、返り血と思われる赤茶けた染みも衣服に散見された。

 その、どこからどう見ても落ち武者としか思えない男性は、暗闇の中でもぽっかりと浮かぶほどに青白い顔貌を歪めながら、ただただ絶句する俺をよそにぼそりと恨み節を呟いたのである。


「ああっ、無念――! 実に無念でござるぅ――」



第一話 武士の本懐


 見つめる俺の視線に気付いたのか――いや、それを待っていたのか、横腹の上に腰掛けたその武士は、こほん、とわざとらしい咳払いを放った。

「ふむ。目覚めたようでござるな。だが怯えずともよい。拙者は鱒沢左馬助と申す者なり。遠野に危機が迫っておるゆえ、貴殿の助勢を乞いに参った」

「――――」

 答えようにも金縛りは継続中。全く声が出せなかった。

 かろうじて目線が動かせるようになったとはいえ、喉の弁が接着剤で塞がれたかのごとく動かない。全身を包むのは重金属のような冷たい恐怖。相手の落ち武者然とした薄気味の悪い姿も、俺を狂躁させることに一役買っている。

 しかし、何故だろう。俺の精神はそこで踏み留まった。

 妖怪の聖地たる遠野で、現世と常世の狭間に立つ迷家荘で番頭を務めてきた経験からだろうか。相手が人外の物の怪だとわかった途端、混乱は緩やかに薄れ、理不尽だという思いの方が強くなってきた。

 だってそうだろう。助勢を乞いに来たと言いながら、金縛りにして一方的に語りかけてくるのは失礼ではないか。上から目線の物言いも腹が立つ。

 何とか一矢、報いることはできないか。頭に血が昇ってくるのを感じつつ、渾身の力で首を持ち上げようとしていると、何とかわずかに頭が枕を離れた。

「ちょ、ちょっと」

 振り子の要領で可動域を拡張しつつ、喉の奥をこじ開けるように一言。

「どいて、下さい」

「ん? それは無理でござるな」

「どうして、ですか」

「いや、実はな。こう見えて拙者、満身創痍でな」

 武士は首を回しながらこきこきと音を立てた。

「特に肩が凝って凝って……。何かこう、異物感すらあるのよ。肩に何か刺さってる感じ……って、これ」

 腕の付け根に刺さった矢の尾羽を撫でて、はっとした顔をする。

「うわぁ! 矢ぁめっちゃ刺さってる! 異物感どころじゃなかったわ!」

「いや、そういうのいいんで」

 何てわざとらしい小芝居だろうか。本人は小粋な落ち武者ジョークのつもりかもしれないが、そんなものに付き合う気分ではない。ふざけやがって。

「とにかくどいてもらえません? このままじゃ息苦しくて事情も訊けませんし」

「仕方ないでござるなぁ。この体勢が一番回復に適してるでござるのに」

 落ち武者はいそいそと膝立ちになり、「よっこらせ」と息を吐きながら布団の隅に腰を下ろした。

「これでよいか」

「ええ」

 ようやく重みから解放された俺も上体を起こす。

「で、何の用件なんです? わざわざ部屋に忍び込んできて」

 にわかに冷静さを取り戻していく俺。落ち武者の亡霊だか何だか知らないが、こちとら妖怪変化の類は見飽きているのだ。

 ついでにちらりと部屋を見回してみた。同居している河童や妖狐、化狸の姿はない。どこかへ出払っているようだ。

 頼みの綱は、押し入れで寝ているだろう座敷童子だけだが、あいつは頭脳労働専門。もしも荒事になるようなら頼りにはならない。正直腹は立っているが、あまり相手を刺激しないようにしなければと思っていると、

「何じゃ何じゃ。もう慣れたのか。つまらんのう」

 武士はこれ見よがしに溜息をつく。

「もう少しこう、恐れ戦いたりできんの? ほれ、拙者、どう見ても落ち武者でござろう? 怨霊チックではござらん?」

「いや、チックとか言われても……。とりあえず痛そうだなとしか。矢が刺さってる部分とか特に」

「ふむ。しかし心配には及ばん。これはファッションでござるゆえ」

「は?」聞き捨てならない単語が聞こえた。

「実は本当に突き刺さっているわけではなく、そういう小道具でござる。何かキャラ付けっていうの? そういうの大事だって聞いたもんだから」

「誰ですか、そんなこと吹き込んだやつ」

「河童殿でござる。今夜お伺いすると申し上げたところ、正装で来るように、と」

「あの緑の怪生物……」

 あいつもグルか。知っててこの人を部屋に呼んだのか。となると今頃は、俺の慌てふためく様子を想像してほくそ笑んでいるかもしれない。

「――それで、本題でござるが」

 落ち武者が何やらキリッとした顔つきになるが、

「ええ、はいはい」

 もうぞんざいな対応でいいや、と俺は白い目をする。

「遠野に危機が迫っておる」

 落ち武者は胡座をかいたまま前屈みになり、凄むような低い声で言った。

 が、今さら遅い。失われた緊張感はそう容易くは戻らない。

「ふーん。危機ですか。具体的にはどういった感じの?」

「うむ。具体的に言うとな、拙者は先日、闇討ちを受けたのでござる」

「闇討ち、ですか」

「……ん? おぬし今、こう思わなかったか? 闇討ちって言うけど、もうとっくに討ち取られてるじゃん、と」

「思ってません。話を進めて下さい」

「何じゃ何じゃ! つまらんやつでござる。もう少し会話を楽しもうぞ!」

 真っ白に血の気の失せた顔色のまま、武士はお茶目に唇を尖らせ、

「拙者はこう見えて、古より遠野の守護を司る〝御霊〟でござるぞ? その拙者にな、問答無用で襲いかかってきた輩がおるのよ」

「なら相手は妖怪ですよね。遠野外の妖怪ってことですか?」

 御霊とは『霊魂』の尊敬語であり、神や貴人の霊を呼ぶ際に使う言葉だ。少なくとも自称するものではないと思うので、そこには触れないことにした。

 ちなみに同じ漢字で〝ごりょう〟と読む場合は、恨みを残して死んだ霊や祟り神のことを示す言葉になる。どちらかと言えばこの人はそっち寄りだと思う。

 まあ些事はともかく。遠野の守護者を自称する者を襲ったのなら、遠野妖怪の仕業ではないはず。そう推察したのだが、

「いいや。姿は見えんかった」

「は? でもさっき襲われたって」

「その通り。刃は交えども姿は見えず。あれこそ音に聞く、隠形法というものでござろう。つまり拙者を襲ったのは呪術を操る存在。陰陽師であるとしか思えぬ」

 ――陰陽師。

 不意に、昼に見たワイドショーの映像が頭を過ぎる。

 実にタイムリーな話題であり、運命的な符合を感じるものの、状況から考えて関連性は恐らくないだろう。

「侮れぬ相手でござる」

 しばし考え込んだ俺を見て深刻性が伝わったと思ったのか、落ち武者はうんうんと深くうなずきながら、

「かなりの使い手と見たが、恐らく彼奴は斥候でござろう。放っておけば集団で押し寄せてくるやもしれぬ。すぐそこまで陰陽師の魔の手が迫っているかもしれんのだ。事態は一刻を争う。それはわかってもらえたでござるな?」

「魔の手、はどちらかと言えば妖怪側な気が……。まあ相手が陰陽師かどうかはともかくとして、襲撃者から負った傷を癒すために来た、ということでいいですか」

「然り。話が早くて助かるでござる」

 いいや、かなり回りくどかったと思う。ようやく話の全容が掴めてきた。

 以前に童子が言っていたことだが、俺は常人よりもかなり精気が多い体質らしい。この精気というものは、妖怪や幽霊にとっての必須エネルギーだ。落ち武者はそれを吸って傷の治療を行っていたに違いない。そして急激に精気を吸われたことで、俺は金縛り状態に陥ってしまったわけだ。

 謎が解け、少し心に余裕が生まれた。そこで改めて武士の全体像を確認してみると、なるほど本人が正装と言うだけあって、これ以上ないくらい完璧な落ち武者姿である。ざんばら髪に無数の刀傷。ごっそり削げた頬は血の気が失せて青白く、唇は真紫だ。

 遠野にやってきて以来、妖怪とは数え切れないくらい出会ってきた。でもこういういかにもな幽霊には出くわしていなかったな、と今さらながら考える。

 しかし、それはともかくだ。

「あのう」

「何でござろう」

「そろそろ帰ってもらえませんか。眠いので」

 正直、付き合っていられない。忘れていた怒りの感情までがぶり返してきた。

 河童に事前承諾を得たとはいえ、さすがに失礼ではないか。闇討ちされたか何だか知らないが、こっちだって寝込みを襲われたのだ。怒る権利はあるはずだ。

「あいや、待たれい」

 武士は手甲に包まれた腕をこちらへ伸ばし、手の平を広げて見せる。

「無礼は平に謝罪しよう。が、それもこれも貴殿に事態の性急さを知ってもらわんがため。どうか遠野の危機を救うため、共に立って欲しいのでござる!」

「はいはい。話の続きはまた明日聞きますよ。必要なら大妖怪の方々にも紹介しますけど、今日はもう店じまいなんで」

 そう言って俺は布団に寝転んだ。睡眠不足は接客業の大敵。いくら閑散期とはいえ、明日は宿泊予約も入っている。彼に吸われた精力も取り戻さねばならない。

 闇討ちをしてきた相手が陰陽師なのかどうか――眉唾ものだと思うが、対策を練るにしても俺だけでは埒があかない。河童や妖狐や座敷童子、必要なら他の大妖怪にも相談しよう。とはいえ全ては明日以降の話である。そう説明すると、

「む。仕方ないでござるな」

 と、落ち武者は俺の隣に寝そべる。

「おやすみ」

「いやいやいや! おやすみじゃないんで!」

 耳元で囁かれた声に怖気が走り、思わず飛び起きてしまう。

「気味が悪い! 何で隣で寝るんですか! 帰って下さいよ!」

「はは、心配めさるな。迷惑はかけぬ。こう見えても寝相は良い方なのでな」

「寝相とかじゃないですよ! 落ち武者と添い寝なんて絶対無理! というかシーツに血がべっとり――」

「とっくに乾いておるから平気だ。……何、拙者に衆道趣味はござらん。男と同衾しても嬉しくも何ともない。しかし明日の夜にもまた襲撃を受けんとも限らんのでな。少しでも体力を回復せねばと……最大限の譲歩はしているでござる」

「ぐぐぐ」

 どうしても帰らないつもりか。

「ならせめてあっちを向いて下さいよ! 少しでも離れて!」

 言って、落ち武者に背を向けながら体を横たえる。

「了解でござる」

 武士の方も背中を向けて寝転び、しばらく待っていると暢気に寝息を立て始めた。

 しかしこちらは眠れない。精気を吸われ続けているせいか、体にはぐったりと疲労感が堆積していた。なのに怒りで目が𠖱えてしまったらしい。

 武士の寝息がやがていびきに変わるのを聞きつつ、目蓋を開けたり閉じたり繰り返しながら、俺は朝までの長い時間を過ごすはめになったのだった。



「――陰陽師、ねえ」

 怪訝そうな童子の声に、いつの間にか眠りに落ちていた俺は目を覚ました。

 窓の外で小鳥が鳴いている。青く柔らかな陽光が枕元に差し込んでいるところを見ると、もう朝になってしまったのか。

 条件反射的に床の間に視線を向けると、時計の針は午前六時前を指していた。そろそろ起床の時間だが、いつになく体が重いことに気付く。

 疲労のせいもあるが、物理的に押さえつけられている感の方が強い。その原因にはすぐに思い至った。

 見ると、例の落ち武者が俺の腹の上で胡座をかいているのだ。道理で息苦しかったはずだ。夜討ち朝駆けとはこのことか。

「――童子殿! その淡白な反応は何でござるか! 遠野の一大事でござるよ!?」

「そうは言われてもねえ」

 壁を背もたれにした童子は、頭の後ろで両手を組んだ姿勢で「うーん」と唸った。

 どういう状況かは容易に想像がつく。朝になって押し入れから出てきた座敷童子に、落ち武者は昨夜と同じ説明をしたに違いない。

 だが温度差は歴然。たまらず落ち武者は声を荒らげる。

「情けない! 迷家荘の守り神たる座敷童子が、そんなことでどうするでござるか!陰陽師といえば我らあやかしにとっては天敵。そんな悠長な――」

「だからさ、そこに認識の違いがあるわけだ。決定的にね」

 呆れたように鼻息を吹きながら、童子は応じる。

「いいかい? 陰陽師が妖怪退治をしていたなんて話は、ほぼ創作の産物なんだよ。彼らの本分はあくまで天体観測や自然観測。暦や時刻の作成を行うだけの役人に過ぎなかったんだ。そりゃ呪いや祈祷の領分にも足を突っ込んでた時代もあるけど、そんな昔でさえ実際に妖怪の相手をしたのは武士や仏法僧。陰陽師はせいぜい占いで妖怪の手口や居場所を看破しただけだよ」

「し、しかしでござるな。現に結界が……! 闇討ちが!」

「結界は経年劣化ってこともあるだろ? それについては既に河童が知らせに行ってくれてるそうだし、修復を待てばいい。闇討ちは知らないよ。あんた誰かから恨みでも買ってない?」

「……恨み、と言われると、心当たりがないではないでござるが」

 そこで急速に、花が萎れるように勢いをなくす落ち武者。

「いや、拙者のことはどうでもいいでござる。それより万一の事態に備え――」

「だから河童には動いてもらってる。あとは大妖怪たちの判断を待つしかない」

 まだ食い下がろうとする落ち武者だったが、童子は首を横に振るばかり。

 落ち武者も遠野のことを思って行動したのだろうが、残念ながら童子の方が正論だ。〝安倍晴明〟に代表される陰陽師の逸話のほとんどは、実は後世の創作なのだ。

 少し可哀想にも思えてきたが、これまでの経緯を考えると「別にいいか」とも思う。許可も得ず人の腹の上に座るような人には、お灸が必要だ。

 それに、俺にも番頭としての仕事がある。体を捻って落ち武者の尻の下から脱出することにした。彼は「ぬおっ」と小さく声を上げたが、そもそも許可して載せていたわけではないので謝罪する義理はない。

「おはよう童子。仕事に行ってくる」

「いってらっしゃい」

 童子と短く言葉を交わして『迷家荘』と刺繍された半纏に袖を通す。早く顔を洗って玄関の掃除をしなければならない。

 その前に布団を上げておかなければと振り返り、すぐに気付いた。

 シーツの上に、血糊がべったりとついている。

「……血は乾いてるって、言ってましたよね?」

 湧き上がる怒りを抑えつつ落ち武者を見ると、彼はさっと顔をそらして口笛を吹くように唇を尖らせた。おのれ白々しい。

 というか、匂いからしてこれ絵の具じゃないか。落ち武者ファッションの一環に違いない。なんて傍迷惑な……。

 だが文句を言っていても時間は待ってくれない。速やかに処理して仕事に向かわねばならないのだ。溜息が出る。

 憤りを込めた視線で一睨みすると、彼は口元をへの字に曲げながら「すまぬ」と頭を垂れた。ざんばら髪と白い月代が侘びしい。悪気はないところが余計に性質が悪いと思える。

 責めても時間の無駄なので、今のうちになんとかしようと部屋を出た。

 騒ぎになることを恐れ、旅館の洗面所でシーツを手洗いすることにしたが、しかしそこで運悪く、通りかかった和紗さんに見つかってしまった。

 やがて館内に響き渡る、絹を裂くような悲鳴。

 声を聞きつけた絃六さんや大女将までもが、「どうした? 何があった」と心配して詰めかけてきた。

 その後の事情説明と、お騒がせしたことへの謝罪に多大な時間が浪費されたことは言うまでもない。

 ああ、お客さんがいなくて本当に良かった……。



 それから数日の間は、何事もなく緩やかに時間が過ぎた。

 落ち武者は二日に一度のペースでやってくるが、彼の風体にも金縛りにもすぐに慣れてしまった。

 ただ、陰陽師の襲撃とやらも初日以降はないらしく、それでも精気を補充する正当性を声高に訴える彼に、眉唾だという想いだけが日々強くなっていった。

 遠野の危機なんてデタラメ。本当は襲撃者などいないのではないか。口にはしないがそう疑っていた矢先のこと、小さな事件が起こった。事務所で電話番をしていた俺のところへ、飛び込みの電話があったのである。

 飛び込みとは、事前予約なしで当日いきなり宿泊させてほしいと要請を受けることなのだが、迷家荘では余程のことがない限り受け付けることにしていた。

 というのも、はっきり言って遠野は田舎町だ。旅館の数は多くはないし、それぞれ点在している。二十四時間営業のネットカフェやカプセルホテルの類はないし、宿がとれなければ野宿するより他はない。そういった事情を踏まえると、飛び込みを無下に断ることはできないのである。

 受付時刻によっては夕食を用意することが不可能なのでお断りするしかない場合もあるのだが、幸いにも先方は素泊まりのプランをご所望だった。ならば電話番の俺が独断で受け付けても特に問題はないと思った。

 だが、後に事態は急変する。

 その飛び込み客が旅館を訪れた夕方のことだ。出迎えのために玄関で待ち構えていた俺は、茅葺き門をくぐってこちらに向かってくる青年の容姿に、既視感を抱いたのである。

「――予約をした久我です」

 柔和に自己紹介をしたのは、白いワイシャツにベージュのスラックスを合わせた、落ち着いた身なりの青年だった。

 しかしどことなくオーラがある。欧米の血を感じさせるようなくっきりとした目鼻立ちといい、飾り気のない短めの黒髪が不思議と上品に見えることといい、巷ではあまり見ないタイプの美青年だ。さすがに見間違えるはずもない。

「い、いらっしゃいませ! すぐにお部屋に御案内を――」

 声を上擦らせたのは、玄関で頭を下げた和紗さんだ。若女将の職務に徹しようとしているようだが、どう見ても冷静ではない。

 そうなのだ。目の前にいる青年は紛れもなく、連日メディアを賑わせている話題の陰陽師なのである。

「お荷物をお持ちします。あ、下足場に脱がれたお履き物はそのままで」

 俺がしっかりしなくてはと、荷物を預かって玄関へと戻ることにする。

 その際にも、落ち武者の訴えが頭を過ぎった。偶然と呼ぶにはあまりにタイミングが良すぎる気がするが……。いや駄目だ。今の俺はここの番頭なのだ。雑念は捨て、誠意をもって接客に努めよう。

 和やかに声をかける和紗さんに先んじて廊下を進み、そして青年を牡丹の間に通すと、いつものように二人で施設の説明を行った。

 彼は素泊まりなので食事の時間は訊ねなくていい。備品の置き場所とお風呂の場所、ルームサービスとチェックアウトについて確認していく。

 抑揚豊かに朗らかに語り続ける和紗さん。宿泊客に何千回と繰り返してきた口上はさすがに澱みない。そして最後に「何かご不明な点などは」と俺が訊ねると、青年陰陽師――久我凪人がにっこりと微笑んだ。

「ありません。が、遠野を訪れるのは初めてのことなので、できれば土地に明るい方に話を伺いたいんですけど」

「はい。わたしでよろしければ」

 和紗さんは笑顔で快諾し、こう訊ねる。

「遠野には観光で来られたんですか?」

「いえ、その」

 凪人は何かを口籠もりながら頬を綻ばせ、

「変に思われるかもしれませんが、ここへ来たのは仕事なんです。実はこう見えて、自分は陰陽師をしていて――」

「変だなんて! 全然ですよ!」

 食い気味に、ちょっと腰を浮かせて和紗さんは答えた。

 どうやら彼のファンは絃六さんだけではなかったようだ。事務所に本が常備されていた時点で気付くべきだった。

 普段から子供のように好奇心旺盛な彼女の瞳が、一段と輝きを増したように見える。今までは若女将の立場上、全てのお客さんに公平であるべきという信念から発言を控えていたに違いないが、そのタガも外れかかっているようだ。

「もちろん存じ上げてます! いつもワイドショーなどでお見かけしていて」

「ああ、そうなんですか。それは話が早くて助かります」

 凪人はほっとしたように、爽やかな笑顔を辺りに振りまくようにし、

「昨日までは花巻の旅館に逗留していたんですけど、いつの間にかバレちゃったみたいで……。本当はもう少し泊まる予定だったんですが、出待ちとかされて旅館の迷惑になりそうだったんで、急遽こっちに来たんです」

「なるほど! それは大変でしたね」

「そんなわけなんで、ここに宿泊することは秘密にして頂けると助かります。自分も出歩く際には変装しますので」

「わかりました! お任せ下さい!」

 勢いよく答える和紗さん。ただ、これでも信念との板挟みでかなり自制した態度をとっているようだ。何だか微笑ましい。

 それに凪人の方も、テレビで見るよりも表情が軟らかく、親しみやすい物腰である。外見通りなら、俺よりも少々年下のようだが……。

 ちょうど会話の切れ目が見えたので、訊ねてみることにする。

「先程仕事と仰いましたが、テレビの撮影で?」

「いえ、今回は違いますよ。最近、メディアによく露出するようになって、全国津々浦々から相談や応援のお便りを頂くようになったんです。それで撮影以外にも、出張人生相談のようなことをしていまして」

「そうなんですか……。何だか、凄いですね」

 少しコメントに困り、そんなふうに言ってしまう。童子が詐欺師だと一蹴したせいか、人生相談のあとで怪しげな壷を勧める凪人の姿を想像してしまったが、

「いえいえ。凄くなんてありませんよ」

 あくまで邪気のない笑みで彼は答える。

「自分にできることなんて、たかが知れてます。……けれど、この現代でも陰陽師が必要とされているんだと思うと嬉しくて。この活動を始めたときには、陰陽道なんてとっくに廃れたものだと馬鹿にされていたものですから」

「そんなことないですよ!」と和紗さん。

「あはは。みなさんにもそう言って頂けるものですから、つい調子に乗ってしまってね。明日からも何件か尋ねてみる予定なんです」

「素晴らしいです!」

 もはや関心を隠すことなく声に出した若女将は、続けて訊ねる。

「ということは、相談者の方は遠野にお住まいなんですか?」

「はは、その通り。まあ陰陽師のところにくる相談事なんて、大昔から一つしかありませんけどね」

「と、言われますと?」

「ずばり」

 青年はにっと口端を上げ、細目がちの眼から一瞬、鋭い眼光を見せた。

「妖怪退治です」

「――――えっ?」

 不意打ちだった。

 和紗さんの笑顔が、一瞬張り付いたように停止する。

「退……治、ですか」

「ええ。遠野は妖怪の郷などと呼ばれているそうですね。そのせいか怪奇現象の目撃談も群を抜いて多い。つい最近でも、夜中に道路を練り歩く百鬼夜行を目撃したとか、映画の撮影現場でポルターガイスト現象が起きたとか、UFO騒ぎがあったとか……。女将さんはそんな噂をご存じですか?」

「え、ええと、ご存じのような、そうでもないような」

 顔を引き攣らせて苦笑する和紗さん。

 何故ならその噂の中心となっているのは他でもないこの迷家荘なのだ。それを知っていてカマをかけているとすれば侮れないが……。

 そもそもこの人、迷家荘が〝座敷童子の棲まう宿〟などと呼ばれていることを承知で泊まりにきたのだろうか。

 それとも、座敷童子は文献によっては神族に分類されることもあるので例外ということだろうか。いまいち彼のスタンスがわからないので、しばし俺も口を噤んでいるしかなかった。

 部屋の中に一拍の静寂がぽとりと落ちた、そのとき――

「かっかっか。冗談きついぜ、おい」

 凪人の背後に忍び寄ってきた小さな人影が、彼の肩をぽんと叩いた。

「……ん?」

 彼は一度振り向き、肩を手で払うようにしたが、すぐに何事もなかったようにこちらに向き直り、

「どんな些細な噂話でもいいんです。何かご存じなら教えて頂けませんか?」

 再び話の続きに戻った。自身の背後に立つ、緑の怪生物には何の注意も払わずに、である。

「ほらな!」

 何やら勝ち誇ったように河童が言う。

「なーんも見えてねえじゃねえか。これで妖怪退治するとか片腹痛いぜ。ほれ、やってみろよ。ほれ」

 水掻きのある手でぺしぺし叩きながら、けらけらと笑い声まで上げ始めた。

 全身ゴムのようにつるりとした緑色。頭には白磁の皿とワカメ髪。背中には大きな甲羅を背負ったこの河童は、迷家荘にとっては一番の常連客である。

 妖怪の姿は普通の人間には見えない。厳密に言えば、眼球には映るのだが脳が認識を拒んでしまうそうだ。

 妖怪を見ることができるのは限られた人間のみだ。自身が元妖怪だった人、先祖が妖怪だった人、視覚に何らかの異常があって脳への情報伝達が正常に行われていない人など。

 時期的、地形的条件によっては瞬間的に人に妖怪を見せることは可能ではあるものの、やはり大半の人間には妖怪は見えないのである。

「むむむ。こりゃハズレでござるかな」

 河童の後に続いてやってきたのは落ち武者だ。

 腰を屈めて凪人の顔を覗き込み、息が頬にかかるほどの距離でじっくり検分するも、やはり全く気付いた様子はない。平然と和紗さんと言葉を交わし続けていた。

「うーむ……。いよいよ陰陽師が乗り込んできたかと身構えておったが、とんだ取り越し苦労でござったな。先日の禍々しい気配とはまるで別物でござる」

 呟いて肩を竦め、首を横に振る。

 確かにそうだ。陰陽師という身分にしろこのタイミングにしろ、彼にとっては怪しいことこの上ないのだろうが、そもそも妖怪が見えていないのでは仕方がない。

 久我凪人は無害。そう判断するしかない。少なくとも迷家荘を訪れる妖怪たちに害が及ぶことはないだろう。少々胸を撫で下ろす。

「あのう。差し支えなければ教えていただきたいんですが」

 最後に、確認のために口を挟んでみた。

「妖怪退治と仰いましたけど……どんなふうにするんです? やっぱりお札を使ったりとか、式神を召喚したりとか」

「そういうのは物語の中だけでの話ですよ」

 凪人は軽やかに笑い、あっさり否定した。

「誤解させたならすみません。妖怪退治っていうのは言葉の綾でね。世の中には怪奇現象に不安を覚えている方がたくさんいます。金縛りとか、心霊写真とか、ポルターガイストとかにね。そういった方々の相談を聞いて、怪異の仕業でないことを証明し、彼らの不安を拭い去るのが自分の妖怪退治なんです。そのために陰陽師なんて肩書きを名乗っている次第で」

「わかります。陰陽人生相談はいつもわかりやすいですし、科学的ですし」

 和紗さんが深く同意する。そういえば先日も金縛りについてナルコレプシーの初期症状だと語っていた。

 つまり彼は退魔師ではなく、カウンセラー。彼の言う妖怪退治とは、怪異を自然現象で説明することで否定し、依頼者の不安を払拭する。それが本義なのだろう。

 やはり無害だ。それどころか立派な心意気だとすら思う。

 ならばここからは、一般のお客さんに接するように番頭仕事に徹するべきだろう。そう心に決めつつ会話の成り行きを見守っていると、やがて飽きたように河童と落ち武者は退室していった。

 和やかな空気はその後も乱れることなく、俺も和紗さんもにこやかにその部屋を後にしたのである。



「――うん。やっぱ詐欺師だったみたいだね」

 午後十一時。全ての仕事を終えて自室に戻るなり、赤い着物の少年が待ち構えていたように喋りかけてきた。

「インチキ陰陽師はもう寝たのかい」という彼の問いに「多分な」と返しつつ、一応苦言を呈しておくことにする。

「オブラートに包んだ言い方を考えろ。お客さんのことなんだから」

「何言ってんのさ。陰陽師の定義を知ってるかい? あれって役職名なんだよ。つまり警察官とか消防士とかと同じってわけ。国の認可を受けた役所に所属していなければ陰陽師を名乗ることはできない。あんただって知ってるはずだろ」

「……まあな。その程度の知識はあるけど」

 妖怪小説家でもある俺の頭には、少なからず陰陽師に関する知識があった。

 童子の言う通り、陰陽師は昔、公務員のようなものだったのだ。

「いいかい?」と童子は続ける。「陰陽師が滅びたのは明治維新のときだ。公的機関である陰陽寮は解体され、以降は陰陽師を名乗ることは法で禁止された。つまり現代日本には陰陽師は存在しない。はい証明終了」

「でもさ、民間陰陽師みたいな人もいたんだろう?」

「らしいね。でも無免許医みたいなもんで、取り締まりの対象となって消えていったそうだよ。ヤブ医者って言葉の語源もそこからきてるって説があるくらいでね。野で巫術を使う怪しげな医者のことを、野巫医者って呼んだとかね」

 童子の言う通り、陰陽師にはそういった側面がある。医学の及ばない難病に対し、祈祷やお祓いで治療が可能だと嘯く輩も過去にはいたと聞く。

 だが陰陽師の本分は、実はそこではない。

「陰陽寮が廃止された原因って、太陽暦なんだっけ?」

「そうそう」童子が機嫌良さそうにうなずく。「明治以前まで日本では太陰暦を使っていた。そして当時の陰陽師の主な業務と言えば、暦の作成だったわけだ。でも欧米文化を取り入れるにあたり太陽暦に切り替えることが決定し、六曜などの暦注は迷信であるとされ暦に書くことを禁止された。大安とか友引とかいうあれね」

「そっか……。太陰暦って三年に一度、十三ヶ月の年があるんだよな」

「そう。うるう月ね。三年で一ヶ月もずれる暦を使っていれば、そりゃ夏が早く来たり冬が明けなかったりもする。文明開化をうたう政府にとっては過去の因習そのものだっただろうね。だから当時の政府の布告にもこんな文言があるんだ。旧暦は、〝人知の開達を妨るもの〟だとね」

「そりゃ酷いな」

 時代によっては最先端の学問だったはずだが、最後は政府によって潰されたわけだ。天動説と地動説の争いに似ている。

「ともかくさ」

 一通り蘊蓄を喋り終えて満足したのか、座敷童子はややすっきりした顔をしつつ、

「時代錯誤の自称陰陽師が、妖怪も見えないくせに妖怪退治をするという。こんな話を聞いて興味を惹かれないはずがないだろ。是非とも明日はご同道させていただきたいもんだね!」

「おいおい。相変わらず趣味が悪いな」

 とはいえ、俺も興味がないわけではなかった。

 まあ別段、向こうにとっても害はないはずなので、俺一人が知らない振りを決め込めば済む話だと思うが……。

「相談は終わったかい?」

 そこでぱたんとドアが開き、全身をほんのり朱に染めた河童が部屋に入ってきた。肩には化狸の空太を乗せ、隣には同じく湯上がりの落ち武者もいる。

「うん。明日することが決まったよ」

 童子が彼らに声をかける。

「例のインチキ陰陽師が妖怪退治に乗り出すそうだから、見物しに行こう!」

「お、いいねえ! 面白そうだ!」

 童子の提案にすぐさま河童は悪乗りし、

「現代の陰陽師がどんなもんか、おいらたちで評価してやろうじゃねえか」

「うんうん。いい暇つぶしになりそうだ。もちろん佐馬助も行くだろ? 陰陽師がどうとかって言い出したのはあんたなんだしさ」

「ぬぬ……。とはいえあやつは刺客とは無関係。拙者は些事に構っている暇はないのでござるが」

 落ち武者は一度そう言って難色を示したが、

「まあ他に手掛かりもないでござる。それに、あやつに妖怪が見えておらんとはいえ、仲間がいないとも限らん。用心するに越したことはないでござるか」

「そうこなくっちゃね。空太も行くだろ?」

「きゅうん!」

 万年冬毛の子狸――空太が稲穂のような尻尾を振って応える。

 みんな完全に乗り気のようだ。こいつら暇を持て余しやがって。

「俺は仕事だから行けないぞ」

「だろうね」

 当然、童子はその答えを予想していたようだ。

「でもあんたも気にはなるだろ? だから偵察してきてやるよ」

「見物だけならいいけど、余計なことはするなよ?」

「余計なことって何さ」

「ポルターガイストとか、写真にオーブ写したりとか、おまえたちなら余裕でできるだろ? そういう余計な演出はいらないからな。あとで騒ぎになるから」

「しないしない」

 童子は意地の悪そうな薄笑いを浮かべ、

「大丈夫。信用してよ。本当に詐欺紛いの行為があれば、ちょっとした天罰が下るかもしれないけど」

「それをやめろって言ってんだ!」

 やはり心配だ。軽く頭痛がしてきて、額を手の平で押さえてしまう。

 童子がこんなふうに乗り気なときは大抵、何かろくでもないことが起きる前兆なのだ。とはいえ、ここまで盛り上がってしまったら止めることもできない。

 せめて何か抑止力はないか。そう考えて、

「あ、そうだ。ちゃんと妖狐も誘えよ?」

「えー……」

 堅物の妖狐を同行させることに難色を示す童子。だが、この反応を見るとますます妖狐先生の引率は必須だと思えた。

「いや、いい。俺の方で声をかけておくからな。お目付役として同行してもらう」

「んー……。ま、いいけどさ。今回は本当に見てるだけのつもりだし」

 今回は、と言ったかこいつ。

 少々引っ掛かるが、妖狐が一緒なら滅多なことは起きないだろうし、落ち武者の言う刺客のこともやはり気になる。

 現状では青年陰陽師は無関係のように思えるが、不思議な符合の一致が単なる偶然と思えないのも事実。用心しておくに越したことはない。

 まあ全ては明日だ。そろそろ寝るか、と部屋の隅に畳んであった布団に手を伸ばす。

 すると河童が、「そんじゃおいらは晩酌してくる」と部屋を出て行った。

 空太はちらりと俺の方を見たが、おやつ目当てで河童について行くことにしたようだ。童子は朝が早かったので寝るらしい。欠伸しながら押し入れの戸を引いている。

 ともあれ、今日も無事に一日が終わったな。そう思っていると、

「では、おやすみでござるぅ」

 当たり前のように布団に入ってきた落ち武者のせいで、甘受しようとしていた眠気が一発で吹き飛んだ。

 いや、本気で勘弁してほしい。掛け布団をはね除けて立ち上がり、押し合いへし合いの末に何とか部屋から追い出した。そして厳重に鍵を閉める。

 が、あの様子では、寝ている間に部屋に忍び込んでくるかもしれない。幽霊相手にシリンダー錠がどれだけの障害になるかわからない。下手をすれば事務所から合い鍵を持ってくるかもしれないし……。

 あの青年陰陽師、本当にお祓いとかできないのだろうか。明日相談してみようかと思いつつ、憤慨しながらも布団に戻って堅く目を閉じた。

 だが無論、その夜も金縛りには遭った。



 六月のこの時期、遠野の日の出は一年で最も早くなる。

 四時過ぎには稜線の向こうに太陽が昇り始め、ゆっくりと街に色彩を振りまいていく様が実に美しい。それは滅多に見られない光景ではあるのだが、残念ながら寝不足のせいで視界がぼやけ、何度も目を擦ってしまう俺だった。

 こんなに早起きしてしまったのには、もちろん理由がある。

 金縛りのためか眠りが浅く、しかもどたどたと部屋を出て行く足音に目が醒めてしまったせいなのだ。

 時刻的に二度寝はできない。ならたまには童子神社の掃除でもしようと思い立ち、群青色の景色の中を旅館の裏手の丘まで歩いてきたわけだが、そこで俺は意外なものを目にした。

 落ち武者と河童が、闘っていた。

 いや、恐らくは模擬戦なのだろう。互いに竹製の棒を手に打ち合っている。しかし彼らの真剣さは、実戦のそれとしか思えなかった。

 河童はああ見えて、遠野でも指折りの実力者らしい。実際に闘っているところを見るのは初めてだが、なるほど動きにただものではないキレがある。その小さな体躯は風を切り裂いて地を走り、水掻きのある手で器用に掴まれた棒で変幻自在の斬撃を繰り出していた。

 その相手をする落ち武者――鱒沢左馬助も大したものだ。いつもの道化の顔もどこへやら、鬼気迫る勢いで掛け声を放ち、鋭い一撃を河童に叩きつける。さらに飛んでくる全ての反撃を受け流し、返す刀で追撃を加えてすらいる。

 ただの人間に過ぎない俺の目には、どちらも恐ろしく速いとしか形容できなかった。

 いや実際、物凄く速い。

「――凄いね。なかなか面白い見世物じゃないか」

 そのとき誰かが声をかけてきて、思わずそちらを振り向いた。

 声の方向は童子神社のご神体である桜の巨木。その野太い枝の一つに腰をかけた、座敷童子だった。

「……ああ。なんか凄いな、二人とも」

 同意しつつ童子の近くに歩み寄っていく。すると彼は、俺を見下ろしながらくすりと笑った。

「河童にあれだけついていけるなんてね。正直見直したよ。あのエセ侍」

「本当だな。でもちょっと真剣過ぎないか。あんな勢いでやり合ってたら、二人とも怪我しかねないんじゃ……」

「わかっててやってるんだろ。……ただあの様子だと、正体不明の刺客がいるってのも、あながち嘘ではないのかもしれないね」

「嘘だと思ってたのか。でもあまり大声で言うなよ」

 声を潜めつつたしなめる。

 とはいえ、実は俺も疑っていた。そもそも第一印象からして良くはなかったからだ。あのおどけた調子で『ハハッ、刺客なんて冗談でござる』と言われても何ら不自然には思わない。むしろしっくりくる。

 だが目前で繰り広げられる河童との鬼気迫る稽古が、その疑惑を払拭していく。

 しばらく見ていると、あのさ、と童子が小声で言った。

「先生は知らないと思うけど、あんまり評判良くないんだよ。あのエセ侍」

「そうなのか……。まあ理由は何となく想像できるけど」

「うん。初めてじゃないらしいんだ。これまでにも何回か、同じように『遠野の危機でござる!』なんて騒ぎ立ててね。大妖怪たちの顰蹙を買ってるそうだよ」

「なるほどな。目に浮かぶよ、その情景が」

「十何年前にも、『遠野全域を呪術結界が覆っている』とか大騒ぎして、その正体は風車が放つ騒音だったらしくてね。なのに一人で突っ走ってさ、風車相手に一騎打ちの名乗りを上げたそうだ」

「どこのドン・キホーテだよ」

 笑い話のように聞こえるが、騒ぎに付き合わされた他の妖怪たちにとっては大迷惑だったのだろう。つまり鱒沢さんの遠野における扱いは現状、狼少年みたいなものだということか。

「そもそもね、鱒沢左馬助自体の風評がね」

 童子はそこで、声のトーンを大きく下げた。

「知ってる? 彼が生前何をしたか」

「いや……。てことはもしかして、歴史に名前が残ってる人なのか?」

「遠野では結構有名人だよ。戦国時代の大悪人だ」

 大悪人、と思わず俺は復唱した。何だか事実を知ってしまうのが恐ろしくなる。

 鱒沢さんのあの姿からして、大往生というわけではないだろう。戦場で無念のまま散ったからこそ、彼の魂は現世に残留しているのだ。

 その想い、怨念の深さを、童子は知っているに違いない。

「教えてくれ」

 成り行きとはいえ、ここまで関わってしまったのだ。多分、俺は知らねばならないのだろう。覚悟を決めて訊ねると、彼は静かに答えた。

「関ヶ原の戦いが勃発した直後のことだ。当時の遠野は、北から南部氏、南から伊達氏という二大大名に狙われていた。けど遠野内でも阿曽沼氏と、その分家である鱒沢氏が対立していてね、抗争になっていたわけだ」

「内部抗争ってことか。侵略の危機にまで」

「だからこそだよ。どっちの大名につくかで争ってたんだ」

 童子は何やらニヒルな表情になり、

「阿曽沼家の当主、広長は伊達寄りだった。だから徳川方の応援のために出兵するよう鱒沢家に命じたんだけど、左馬助は仮病でそれを拒否したんだって」

「仮病って」

 なんかせこいな。鱒沢さんらしくはあるけれど。

「で、広長は怒りつつも出征していったわけだけど、左馬助はその隙に南部利直に取り入り、遠野を献上する約束をしてしまった」

「は? それはちょっとまずいんじゃ……」

 大悪人の片鱗が見えてきたようだ。どうコメントしていいかわからず困っていると、童子は「さらに」と続ける。

「左馬助は広長の留守中に話をまとめ、ほぼ全ての有力者から同意をとりつけ血判状に連判させた。そうして阿曽沼氏から遠野を奪い取ったわけだけど、怒り狂った広長が遠野奪還のために動き、その最初の合戦で左馬助は討ち死にしたそうだ」

「……そうか」

 鱒沢さんの全身の刀傷はそのときのものか。

 でも少し引っ掛かる。童子は『最初の合戦で』と言った。となれば遠野奪還の戦はその後も続いたことになる。なのに鱒沢さんは最初に討ち死にした。まさか先陣を切っていたのか?

「けど奪還は失敗した。江戸時代になって以降は、南部氏が遠野を治めることになったんだ。南部利直は鱒沢家の功績を認めて取り立て、左馬助の息子に娘を嫁がせたりもしたそうだ。……でも後に、その息子も切腹させられている。嫁をぞんざいに扱ったと利直に責められてね」

「まさに悲劇だな」

 鱒沢家は一国一城の主となることもなく、歴史の闇に埋没していったわけだ。

 後世に大悪人と称される理由もわかる。何故ならその後の南部藩と言えば、悪政のショールームなどと呼ばれるほど混迷を極め、通算一三〇回以上もの一揆が頻発する、飢餓と貧困にまみれた土地になったのだから。

 元を正せば、全ての責任は鱒沢左馬助にあると言えなくもない。

 けれど彼が、自己の利欲のために南部氏に取り入ったとも思えなかった。

 たった一週間ほどの付き合いではあるが、鱒沢さんは冗談こそ口にしても嘘や誤魔化しは言っていないのだと思う。打算で動くような人間ではない。

「これは僕の私見だけど」

 童子はそう前置きして、

「さんざん苦悩した末に、その選択をするしかなかったんじゃないかな。二大勢力に脅かされる遠野の生き残りを第一に考えた結果、南部に取り入るべきだと決断したんだよ。後世の人間は何とでも言えるだろうけど、彼は遠野を、守りたかっただけなんじゃないかな」

「……だろうな。俺もそんな気がする」

 汗だくになりながら河童と剣を交える彼の姿が、それを証明している気がした。

 鱒沢さんは、きっと今でも遠野を守っている。その矜恃がなければ、ああも必死にはなれないのではないか。俺にはそう思えた。

「なあ童子。鱒沢さんを襲った刺客の正体って、何だと思う?」

「そうだね。恨みを買ってること自体は間違いないんだけど……」

 童子は口元に拳を当てつつ、しばし思案を巡らすようにした。

 そのときふと気になって、俺は訊ねる。

「そういえば、どこで襲われたのか訊いてなかったな。あの人って普段はどこをねぐらにしてるんだ?」

「どこって……そんなものはないよ」

「え?」

「定住先なんてない。夜ごと遠野中を練り歩いているそうだよ。本人は多分、見回りのつもりなんだろうね。遠野の守護者を自称するくらいだから」

 軽く言った童子だったが、それって結構大変なことなのではないだろうか。

 彼が亡くなってから、もう四百年。その間ずっと彼は、遠野の地を歩いて見回っていたというのか。

 その行為が、どれだけの苦労を伴うものなのかはわからない。ただ尋常でないことだけはわかる。

 四百年、彼は一体どんな気持ちで遠野に住む人々の暮らしを見守ってきたのだろう。自分の行為の結果を眺めていたのだろう。

 だからこそ彼は依代を持たぬ彷徨える魂、幽霊となった。彼の心中を想像するだけで、その事実が俺の胸に重くのしかかってくるようだ。

「……そろそろ戻るよ」

「ああ、お疲れ」

 いつまでも稽古を眺めているわけにもいかない。邪魔をしないよう声はかけぬまま、桜の丘から旅館へと続く石段の方に向かう。

 途中、一度だけ振り返ってみたが、二人の稽古風景から抱く印象は当初とは一変してしまっていた。

 ざんばら髪を振り乱して刃を振るう落ち武者の顔には、悲愴感としか表現できない影が取り憑いており、それから逃れようと必死に藻掻いているようにすら見えた。



 鱒沢さんの過去については一旦忘れよう、と帰路にて俺は考えた。

 後世の人間に過ぎない俺が気に病んでも仕方がないし、仕事を始める前にテンションを下げるのもよくない。

 何よりこんなに気持ちのいい朝に、憂鬱な気分でいるのは勿体ない。

 寝不足で重かった頭もいつの間にかすっきりとしているし、きらめく光が石段に含まれる石英で跳ね、視界を目映く染めていく様は自然の芸術といえた。心の闇が少しずつ晴れていく。

 前向きな気持ちで歩みを進めていると、迷家荘の敷地を縦断する渓流にかけられた小さな架け橋を渡る途中、視界の隅に違和感を覚えた。

 あれは、何だろうか。

 流れの緩やかな川の中央に、オレンジ色の布きれのようなものがぷかりと浮いていたのだ。それがゆっくりと下流に向かって流れ落ちていく。

「――――え。人?」

 自分で口にしておきながら、まさかと考える。

「……っ。嘘だろ! おい!」

 一秒後、俺は背筋にひやりとしたものを感じつつ駆け出していた。

 確かに人の背中のように見えた。川面から出ているのは背中と後頭部。着用しているのはオレンジのTシャツと短パンだろうか。体つきはかなり小柄で、どうやら子供らしい。

 まさか上流で溺れて、ここまで流されてきたのか。だとすれば――

 濡れることなど気にしている場合ではない。焦燥にかられて足から川に飛び込み、腰まで水に浸かりながら近づいていく。

 幸い流れは速くない。手を伸ばせばなんとか届きそうだ。

 そうしてその人物の肩に手をかけようとした、まさにそのとき。

「――あ、おはようございます」

 すっ、と水面に沈んでいた頭部が動き、上体を起こした。

 そして何事もなかったように朝の挨拶をしてきたのだが、口からだばぁと大量の水が零れ落ちるのが見えた。かなり水を飲んでいたのは間違いない。

「あの、君、大丈夫?」

「え? あ、はい。全然平気です。平常運転です」

 長い栗色の髪先から水をぼたぼたと垂らしながら、その隙間から見える青白い顔をふっと緩めて見せる。

 いやいや。どうやら女の子のようだが、平気なわけがない。

「怪我はない? 気分は? こんな朝早く、川で何を?」

「大丈夫、大丈夫です。あの、ぼくは日課の行水をしていただけで……。途中ちょっと気持ちよくなって泳いでたら、多少流されただけで」

 何やら言い訳のように目を泳がせ始めた。

 完全に不審人物だが、怪我がないのは本当のようだ。さりとて入水自殺志願者というふうでもない。

「行水って……。さすがに冷たかったでしょ。風邪ひくよ?」

「問題ありません。こう見えてぼく、すごく丈夫なので」

 言いながら右の袖をまくり、力こぶをつくるジェスチャーをする。いや、全然できていないのだが。

 よく見ると、小刻みに震えているようだ。唇も紫色だし、顔も病的に白い。やっぱり相当体温が下がっているようだ。せめてタオルでもあればいいのだが、と懐を探って俺はハンカチを取り出す。

「すぐ着替えた方がいい。家は近いの? 何なら送っていくから」

 ハンカチでは焼け石に水。顔の周りの水滴を拭いただけでびしょびしょになってしまった。一度館内にタオルを取りに行くか、と思っていると、

「凄いですね」

 大きく輝く瞳が、射抜くように俺の目を見ていた。

「あなた、凄く力のある目をしています。きっとたくさん修行されたんですね」

「え? いや、修行なんて別に」

 思わず、しどろもどろになってしまう。こんなにも真っ直ぐに目を見つめられることなんてそうはない。気恥ずかしさすら込み上げてきた。

 そういえばこの子、どこかで見たような気がする。もしかして知り合いだったのだろうか。水に濡れて髪型は変わっているだろうが、この円らな瞳と長い睫毛はどこかで――。

 それから数秒もかからず俺は気付き、思わず「あっ」と声を漏らす。

 あの本の、表紙だ。

 青年陰陽師、久我凪人の隣に写っていた、アイドルのように可愛い少年。

 絃六さんは確か、凪人の弟だと言っていたはずだ。確か名前は――

「ぼく、久我綾斗といいます。初めまして」

 美少女にしか見えない端正な顔立ちで、彼はにっこりと笑みを向けてきた。

「え、ええ……初めまして。番頭の緒方です。もしかして、お兄さんに会いに来られたんですか?」

 咄嗟に営業モードに切り替える俺。

 すると、そこへ、

「――何やってるんです。そこで」

 訝しげな声が聞こえて振り向くと、旅館の勝手口の前に浴衣姿の凪人が立っていた。

 予想外の展開に狼狽えた俺だったが、別にやましいことはない。落ち着け。

 川を流れていた弟さんを助けて、ハンカチでちょっと顔の辺りを拭いていただけで、何も失礼はなかったはずだ。番頭として間違ったことはしていない。そう自分に言い聞かせながら答える。

「いえ、あの、弟さんを川で見つけて……。風邪をお召しになられてもいけませんので、いま旅館の中へ通そうかと」

「弟……? 綾斗を?」

 すると途端に、凪人の表情が豹変した。

 今までに見たことがないような険しい目つきになって、俺と弟の方を交互に見る。

「綾斗――。勝手に出歩くなと言っただろうが」

「すみません、兄さん」

「部屋に戻って大人しくしていろ。おれが呼ぶまで、今度こそ絶対に外に出るな」

「はい。わかりました」

 感情の見えない無機質な声で少年は答え、俺から体を離すと小走りに旅館の方へ駆けていく。こちらを一度も振り返ることもなく。

 二人の冷たいやりとりに言葉を失った俺は、ただ綾斗の背中を目で追った。

 ややあって、少年が旅館の勝手口に消えていったところを見届けたあたりで、凪人が言葉を続けた。

「……すみませんでした。あいつ、昨晩遅くに来たみたいで……。宿泊料金は二人分で計算しておいてください」

 それだけ言って、彼はバツが悪そうな顔で踵を返した。そして弟の後を追うように勝手口の向こうへ消えていく。

 どうやら陰陽師兄弟の間には、余人が窺い知れぬ大きな溝があるようだ。

 あの本の表紙――兄弟二人が並んで写っていた写真にも微妙な距離感があったが、それは彼らのごくプライベートな問題である。関わるべきではない。

 そうは思いつつ、彼らの間にどんな確執があるのかという疑念は、朝の仕事の間中にもずっと心の中から消えてくれなかった。



「――で、どうしてこんなことになってるんだ?」

 朝からいろいろあってドタバタとした日だったが、その後の業務は何事もなく平穏なものだった。だが午後十一時をまわり、旅館の戸締まりを終えて自室に戻ってみると、畳の上には死屍累々の惨状が展開されていたのである。

 座敷童子に河童、空太に妖狐、ついでに落ち武者の鱒沢さん。五者五様にぐったりと倒れ伏しており、みな精も根も尽き果てた表情である。

 彼らは今日、凪人の仕事現場を覗くのだと張り切っていたはずだが、一体何があったというのだろう。

「どうもこうもないよ」

 開口一番、童子が不満げな声を上げた。

「恐ろしいね……。陰陽師は、僕らの想像を超えてた」

「え」とたちまち興味を惹かれる。「想像を超えてたってどんなふうに?」

「想像を超えて、つまんなかった」

 辟易したように鼻息を吹きつつ、童子は鷹揚に説明を始めた。

 出張人生相談に赴く直前、凪人はまず行水のため風呂場に向かったそうだ。

 そしてたっぷり三十分。入念に水道水をかぶって身を清めたのち、テレビで見た通りの神職の服を着込んで依頼者の元に向かったらしい。到着したのは朝の八時前だという。

「依頼って何だったんだ?」

「呪いの日本人形。髪がときどき伸びるやつ」

 童子は即答し、さらに解説を続けた。

 依頼者は宮守町に住む老婦人で、久我凪人のファンだと自称し、大いに彼の来訪を歓迎したそうだ。

 その家は二世帯住宅で、息子夫婦や孫たちもこぞって彼に握手やサインをねだったらしいのだが、そんな老婦人の相談事とは、「最近、ひな人形の髪が伸びている気がして恐ろしい」というものだった。

「んで、久我凪人は言ったわけだ。『日本人形の髪は、頭皮の部分に二つ折りにして縫いつけられていますので、そういった錯覚が起きやすいんです。どれだけしっかり縫いつけていても、毛髪は湿気を吸って膨張と収縮を繰り返すので、毛穴は次第に緩くなっていきます。その状態で、何かの拍子に髪の毛が引っ張られたりすると、髪が伸びたように見えてしまうんです。とはいえ、元々二つ折りで縫いつけられているので、その片側が伸びただけ。毛量自体は変わっていません。つまりは単なる経年劣化です』ってね」

「……そうなのか?」

「まあ、間違ってはいないね。面白味は全くないけれど」

 呆れたように童子は肩を竦めた。彼が言うのなら本当なのだろう。

 髪が伸びる呪いの人形の正体は、とどのつまり経年劣化……。陰陽師として招かれたのに自然現象だと断言するのは、誠実な対応のように思えるが。

「普通のお悩み相談だったと」

「普通じゃないよ」童子は声を尖らせる。「あいつさ、とにかく話が長いんだ。人形の話だけじゃなく、家庭の悩みや健康の不安なんかにもいちいち相槌を打ってさぁ。息子夫婦ともそれぞれ喋って、孫とも遊んで、昼食までご馳走になってさ」

「いいじゃないか。丸く収まったんなら」

「芸能人とファンの集いだよあれは。だんだん見てるのも馬鹿馬鹿しくなって」

「あのな、童子」

 俺は腕を組んで問いかける。

「いい加減、最初の疑問に答えろよ。だから、どうしておまえらそんなに疲れきってるんだ? 大体、飽きたなら帰ればよかっただろ。最後まで付き合わずにさ」

「それは河童のせい」

 童子は壁際に寝そべっている河童に、じとっとした視線を投げかけた。

 すると河童は「はぁ?」と声を上げ、

「なんでおいらのせいなんだ? おめえらだって了承したじゃねえか!」

「渋々だよ。妖狐や空太だっていたし、すぐに終わると思ってたんだ。あんな大変なことになるだなんて」

「だ、か、ら」

 つい声のボリュームを上げてしまう。

「何があったんだよ! 順序立ててそこを説明しろ!」

「あのさ、午後から別件が入ってるっていうから、そっちに期待したんだよ。そしたら――」

 童子はさらに眉をひそめた。

「午後からの依頼は、迷い猫の捜索だったんだ」

「そりゃまた……」

 陰陽師を頼るような案件だとは到底思えないが……。

 しかしテレビで見たところによると、久我流陰陽道では開運インテリアや縁結びのための最新コーディネート、尋ね人や厄年のお祓いに至るまで何でもござれという感じだった。迷い猫の捜索もその範疇と言われれば、そんな気もする。

「でだ。長ったらしい占いが始まったわけだ」

 童子は気怠げな息を吐く。凪人が行った占いとは、かつて陰陽寮に所属した国家陰陽師たちが得意とした、〝六壬神課〟と呼ばれる占術らしい。

 占おうとした時刻を元に、天文と干支による占いを組み合わせて吉凶を判断するという、西洋占星術のホロスコープにも似た占いの方式である。これはかの安倍晴明が書き残した『占事略決』にも記されている、由緒正しき占術だ。

「『西北西が吉と出ました。その猫の匂いがついた毛布か何かがあれば、西北西方向にある出入口近辺に置いて下さい』ってさ」

「方角はともかくとして、それって一般的な迷い猫対策だよな。もはや占いの結果というより、陰陽師の知恵袋と題した方がいいような」

「ん。まあ、ただねぇ」

 そこで童子は後頭部をかいて、視線を宙に流した。

「占術――易学の知識自体は本物だと思ったよ。そこはあいつを評価できる数少ないポイントだ」

「おまえが人を褒めるなんて珍しいな」

「ああいうのは少し知見があれば、どれだけ勉強しているかわかるんだよ。左馬助もそう思っただろ?」

 不意に横を向いてそう振ると、畳の上に横臥した落ち武者が、「まあ、そうでござるな」と答えた。

「ん? なんで鱒沢さんに訊ねるんだ?」

「だってそうだろ。易学の基礎は、『易経』という古代中国の文献だ。そしてこの本は武士の基礎教養でもあった。〝四書五経〟って言葉を聞いたことない?」

「歴史の授業で習ったな、それ」

 なら『易経』は五経の中に入ってるのか。

「いや、ちょっと待てよ。どうして武士の基礎教養に、占いの本があるんだ?」

「『易経』は占いの本じゃないよ。哲学書みたいなもんだ。人はこう生きるべき、という人生における規範が記されているんだよ」

「哲学書? 待ってくれ、混乱してきた。なんでそれが占いの教本に?」

「占いってのが本来、そういうものだからさ」

 童子はほくそ笑む。いつもの蘊蓄妖怪スマイルだ。

「例えばね、あんたが誰かに人生相談を頼まれたりするだろ。その相手があんたのよく知る相手だったら簡単にアドバイスできるよね? でも、通りかかっただけの全く知らない人だったら?」

「……とりあえず話を聞くな。詳しく」

「そう。その人の性別、生い立ちや学歴、性格や嗜好などなど。知れば知るほど正確に役に立つアドバイスをできるようになるはずだ。でも、あまり知らない人相手に、さらに不特定多数に対して助言を行うのは難しい。だから人間をパターン分けすることが必要になるわけ。ある一定の指標に従って人の傾向を分析し分別し、その傾向を持つ人間全体に適用できるアドバイスを創出する。それが占いの本義ってわけ」

「ああ、なるほど」

 ぽんと俺は手を叩く。

「血液型占いとか、星座占いだってそうだもんな」

「そう。たかだか数パターンの分別しかない占いでも、信じる人はそれなりにいる。ところがあいつの六壬神課は、何千通りもの複雑なパターンを算出することが可能。誰だってその中には自分の傾向を見つけ出すことができるはずだろ?」

「そして易経に従って傾向別のアドバイスをする、それが易学だってことか」

 占いについて、あまり深く考えたことはなかった気がする。

 当たるも八卦、当たらぬも八卦。どこか怪しく信じがたいようなもののように思っていたが、人の傾向分析とそれに従った性格予測にもとづく助言だとすれば信じられる気がする。

 それって標本数にもよるが、基本理念は統計学に通じるのではないだろうか。

「もちろん、人の傾向も性質も時代によって変わる。だから易経が万能というわけではなく、占い師自身が現代に合わせてパターン分けを作り出す必要があるんだ。それがつまり占い師の腕ってことになる。……以前、僕はあの陰陽師のことを詐欺師だと言ったけどね、撤回するよ。陰陽師って言葉が意味する存在は時代によって変わる。中世には最先端の科学者。近世には呪術を操るまじない師。現代では……まあ詐欺師か占い師かってところだからね」

「つまり、占い師としては評価できるっていうんだな」

 俺がそう口に出すと、童子は「正解」とうなずく。

 一通り蘊蓄を垂れ流して実に満足げだが、話が完全に横道に逸れていた。

「で、だ。いい加減に教えろよ! なんでおまえらそんなに疲れてんの!?」

「だから河童のせい」

 再び河童の方にじと目を向け、童子は言う。

「その迷い猫、もうこっちで探そうぜって言い出したんだ。その方が早いってさ」

「え?」俺も河童を見る。「じゃあおまえたち、その猫を探して?」

「だって可哀想じゃねえか」

 河童は憤慨したように、横臥したまま答えた。

「子供、泣いてたしよ。妖狐と空太の鼻があれば、すぐに見つかるだろうと思ったんだよ」

「そりゃね、その猫がいなくなったのが昨日今日だったなら、すぐに見つかったと思うわよ」

 苦言を呈するように河童に答えたのは、白銀の毛並みを持つ妖狐だった。

「まさか一月も前だなんて……。周辺から匂いは完全に消えてたし、とはいえ乗りかかった舟だしで、あとにも退けないし」

「で、結局その猫、見つかったのか?」

 たまらず腰を浮かせて俺は訊ねる。いなくなった飼い猫を必死に探す家族の姿が頭に浮かんできて離れない。きっと近所中探し回ったり、ビラを配ったり、新聞に広告を載せたりしたのだろう。そうして経過した一ヶ月の苦悩を考えるとやりきれない気持ちになる。

「くうん」

 空太が俺の方に円らな瞳を向け、否定とも肯定ともつかない鳴き声を上げた。

 童子がそれを翻訳する。

「本当に大変だった。こんな日に限って無駄に晴れててね。炎天下と言っても差し支えない陽気の中、四、五時間は探し続け――」

「苦労話はもういいから! 猫はどうなったんだよ!」

「最終的には、空太が隣町で発見したよ。ほぼ野良化してたけど」

「じゃあ無事に家まで送り届けたんだな?」

「結構暴れて手を焼いたけど、そこは妖狐が説得してくれてね。……で、家に着くと自分の匂いのついた毛布を嗅いで、主人のことも思い出したみたいだ。多少警戒心は残っていたようだけど、あれならすぐに元の飼い猫に戻ると思う」

「なら、良かった」

 ほっ、とたまらず胸を撫で下ろした。

 途中からもう陰陽師のことは忘れていた。飼い猫とはいえ、家族が離ればなれになる程辛いことはない。昨年末に似たような境遇に陥っていた俺には、それが痛いくらいにわかるのだ。

「ありがとうな、河童」

「なんだい、藪から棒に」

 河童は照れ臭そうに笑った。

「よせやい。おいらは特に何もしてねえよ」

「いいや。おまえがお人好しでいてくれて良かった。空太と妖狐もよく見つけてくれたな。ありがとう」

「きゅうん」

 空太は歩み寄ってきて俺の手の甲に頬ずりをし、妖狐は微笑みを浮かべながら小さくうなずいた。

 ああ、本当に。俺の周りが優しいやつらばかりで良かったと心底思う。

 一件落着。そう思っていると、

「……ちょっと待ってよ。何か僕だけ仲間外れじゃない?」

 童子が不満げに声を上げて俺を見た。まあ、こいつもそれなりに頑張ってはいたのだろう。体力のないこいつが戦力になっていたかどうかは不明だが。

 けれど、出会った頃の童子なら、迷い猫なんて放っておけと言ったかもしれない。そういう意味では、随分変わったものだなと思う。

 良い傾向だ。だから一応ねぎらってやることにする。

「わかってるよ。童子もお疲れ様。売店でアイス買ってきてやるよ」

「やった!」

 弾かれたように上体を起こし、無邪気な笑顔を見せる童子。

「お、いいねえ」

 河童や空太も期待に満ちた目を俺に向け、妖狐は素知らぬふりをしながらも尻尾をぶんぶん振っていた。

 どうやら全員分のアイスをおごるはめになったようだが、彼らはそれに見合うだけの労力を支払った。多少のご褒美はいいだろうと思いつつ、財布を手に売店に向かおうとして――

「む。実は拙者も、甘味には目がないでこざる」

 歩きかけた俺の足首を掴み、縋り付くような目つきでこちらを見る落ち武者。

「どうか、どうか武士の情けを」

「いるんですかアイス。武士なのに」

 別にアイスごときの代金を出し渋るつもりはないが、本当に食べたいのだろうか。というか武士がアイスをねだるって。

「もちろんいいですけど、何味がいいんです?」

「それはもうチョコ一択でござる。武士的に」

「何が武士的なんです。なかったでしょ、あなたが生きてた時代には」

「なかったからこそでござる。いや……そう、売店にあればでござるが、久しぶりにチョコミントが食べたいでござるな。今日は暑かったでござるし、すーっとしたいでござる。清涼感っていうの? なんか羽が生えて浮かび上がる感じっていうか」

 そのまま昇天なり成仏なりして下さいよ。チョコミントを食べる落ち武者とか想像するのも嫌ですよ。一周回って正統派ホラーだよ。

 心の中で苦言を呈しつつも俺は黙って足を進め、当初の予定通りに売店へと向かうことにしたのだった。



 深夜、不意に目が醒め、辺りを見回した。

 原因はもうわかっている。体がずっしりと重いからだ。

 横目を向けると、出会った日のように、俺の脇腹の上に『考える人』のポーズで座る鱒沢さんの姿が見えた。顎を頬杖で支えるようにし、何やらアンニュイな表情で吐息をこぼしている。

「あの、今帰ってきたところですか?」

「む……。起こしてしまったでござるか。申し訳ない」

 相変わらず憔悴しきった顔で彼が告げるので、俺はさらに訊ねる。

「見回りに行ってたんですよね。童子に聞きました」

「はは。見回りというほど大したものではない。趣味の散歩でござるよ」

 何やら自嘲気味に笑う落ち武者。らしくないな、と思う。

「その……どうして鱒沢さんは、見回り――散歩を始めたんですか?」

「ん? 別に理由などないでござるが」

 そう前置きし、彼は苦笑交じりに続ける。

「最初はな、自分が死んだことさえ信じられず、戦場を彷徨っておった。そのうちに何十年も時が過ぎ、合戦の跡もすっかりなくなった。で、その頃に思ったのでござる。誰かに訊ねたいと。拙者のやってきたこと、命をかけた闘いの意味について」

「そう……ですか」

「しかしな、緒方殿のような方が特に珍しいだけで、拙者の姿が見える者などおらんかった。だから訊ねることは諦め、答えを遠野の風景に求めるようになった。遠野がこれからどう変わっていくのか。ずっと眺めていれば答えがわかる気がして――」

 彼はそこで一つ、静かに溜息を放った。

「正直に言うと、後悔したでござる。拙者は過ちを犯したのだと、そう思ったこともある。だが目を逸らす気にもなれなかった。元よりただの亡霊でござるゆえ、今さらできることもない。目に映る景色をただ見て、感じて……。それがあまりに切なくて、美しくて、遠野を守りたいと心から願った。それだけなのでござる」

「……立派だと思いますよ。俺は」

 我ながら安っぽい称賛だと思う。鱒沢さんの苦悩の一割だって俺には理解できると思えない。

 けれど俺は、そう言ってあげたかったのだ。彼自身、己が救われてはいけない人間だと思っていることは間違いないからだ。

「ならばしっかり応えねばな。拙者も」

 いつも「へ」の字に曲げている口元が柔和に弛み、彼は微笑を浮かべた。

「済まぬがもう少しだけ緒方殿にも協力願いたい。拙者の力も、大分戻ってきておると思うのだ。しかし勝負となれば一寸の油断が死に直結しないとも限らぬ。できうる限り万全を期しておきたいのよ」

「いいですけど、浪費はやめて下さいよ」

 俺から吸った精気の何割かが、河童との飲み比べに消費されていることは知っているのだ。言外にそれを匂わせると、「おっとヤブヘビでござった」と彼は笑った。

 ふと、柔らかい空気が流れる。出会った頃には、こんな気持ちになれるとは思っていなかった。

 せっかくなので、それからしばらく話をすることにした。彼の知る遠野の姿を訊ねてみたかったのだ。

 酒でも入ったように饒舌になった鱒沢さんは、俺の求めに快く応じ、四百年前の武勇伝を惜しげもなく披露してくれた。

 それが一段落すると、「拙者のとっておきでござる」と前置きをし、彼の知る遠野の絶景スポットを教えてくれた。

 鍋倉山から見る朝焼けだけは、戦国時代からあまり変わらないらしい。変わったのは、赤く染まる町並の影。鍋倉公園の千本桜。

 稲が青く染まる初夏には、何より荒神神社が美しい。田園風景にぽつんと立った小さな社は、周囲の風景と相まって自然と神聖が溶け込んだえも言われぬ景色となる。俺も何度か現地には足を運んだことがあるが、初夏の季節には見たことがなかった。近々行ってみようと思う。

 そんな話をするうちに、やがて窓の外から青い光が室内に差し込んできた。

 小鳥の鳴き声が響くなか、鱒沢さんはゆっくりと腰を上げる。

「さて、稽古の時間でござるな。緒方殿はもう少しゆっくりなさるとよい」

「ええ。お言葉に甘えますよ。見送りはしませんので」

「よいよい。拙者、嬉しかったでござるよ」

 彼は首を横に振りながら言った。

「ここしばらく……拙者は正直、抜け殻でござった。目まぐるしく変わりゆく遠野郷の姿を眺めるばかりで、今さら何もできぬと思った。どうして、いつまでここに留まり続けるのか。何のために現世に残っておるのか、自分でもそれがわからなくなっていた気がするでござる」

 彼の頬には、精気が漲っていることを証明するように、ごくわずかに朱が差していた。かつてはそうだった。しかし今は違う、ということだろう。

 落ち武者はふっと薄い笑みを浮かべ、

「こんな拙者でも、まだ遠野のために闘うことができるのだ。そう考えると……くく、たまらんなぁ」

「鱒沢さん」

「そなたは番頭として、この迷家荘を守るがよい。拙者は微力ながら、遠野を守る刃となろう。河童殿や妖狐殿と共にな」

 言葉の端々から、戦国の世に生きていた人間の覚悟と情熱が伝わってくる。

 平和な時代に生きる俺にはわからない領分かもしれない。しかし何となく共感はできる。だから俺は、彼に笑いかけた。

「危なくなったら怪我する前に逃げて下さいよ? 金縛りくらいは我慢しますけど、添い寝は勘弁なんで」

「まあ善処はするでござるが、いざというときは覚悟めされよ、緒方殿」

「本当にお手柔らかにお願いしますよ」

 それから、少ししんみりとした空気を吹き飛ばすように、落ち武者は豪快な笑い声を上げた。

「もはや一蓮托生でござるよ! 地獄の渡し船には共に乗ろう、な!」

「嫌です」

 きっぱりと拒絶すると、彼は背を向けたままひらひら手を振りながら部屋の外に出て行った。

 枕に頭を戻して目を閉じたが、さっきまでの楽しい会話が脳裏に蘇ってきて、結局二度寝はできなかった。

 そのうちに窓の外に朝日が昇り、俺はまたしても寝不足のまま、仕事に行くことになったのである。