プロローグ


 ノックをしても返事はなかった。少し時間をおいてもう一度ためらいがちにノックをするが結果は一緒だ。しかし誰もいないわけではない。中から気配はする。ただこちらを無視しているだけだ。

 染谷静子はあきらめたようにため息をつくと、ドアの前に夕食の載ったトレイを置いた。

「ここに置いておくからちゃんと食べてね。今日はあなたの大好きなマリネを作ったから。食べ終わったらいつものようにドアの前に置いておいて」

 トレイを置いてドアの前から立ち去ろうとした静子は、途中で一度だけ振り返った。ドアが開く気配はない。

「ねえ、葉瑠ちゃん。一度でいいからお母さんに顔を見せて」

 返事はない。こぼれそうになった涙をぬぐうと今度こそ階段を降りる。

 一階の居間には夫の宗佑が夕食食べないで待っていた。

「どうだった? 葉瑠はでてきたか?」

 静子は首を左右に振る。

「……そうか」

「もう二ヶ月もあの子の顔を見てない」

 それもチラッと顔を見ただけで、ひきこもり始めてから半年になる。

 明るい普通の子だったのに、二月の終わりから突然、何かに怯えるような様子を見せ始めた。最初は体調が悪いと言っていたが、半月もしないうちに部屋から出ないようになってしまった。最初はしかったり励ましたりしてみたが、何をしても無駄で、無理やり入ろうとしたら内側からカギをかけられ、重い家具を置かれてしまった。

 それ以来、ずっと部屋に閉じこもったままだ。

「まあ、いつかは出てくるだろう」

「いつかって……」

 夫の無責任な物言いが腹立たしかった。あなたがそんなふうだからと言いたかったが自制した。

 学校に相談してみたり友達に話を聞いたりしたが、原因はわからない。いじめられていた様子はなく、担任から家庭の問題ではと言われたことが未だに尾をひいている。原因がわからないのは自分も同じだ。どうしてなのか、いまだに思い当たるふしはなかった。

「このままだと高校受験も危ういな」

 悠長なことを言っている夫は腹立たしいばかりだ。

「風呂やトイレは俺たちが働きに出かけているときにすませてるんだろ? 何日か出かけないで張り込んでみたらどうだ?」

 以前それをやって部屋から異臭がしたことをもう忘れたのだろうか。あのこは自分たちがいる間は絶対に外に出ない。

「ねえ、やっぱり外の人にお願いしてみない?」

 ひきこもった子供を立ち直らせる支援団体はいくつかある。

「ダメだと言ったのを忘れたのか。そんな恥ずかしい真似はやめろ」

 もちろん覚えている。まったく納得のできない理由も含めてだ。自分の娘よりメンツのほうが大事なのだろうか。この期に及んで。

 脳裏をよぎるのは離婚の二文字だが、その場合葉瑠がどうなるかと考えると、やはり踏み切れるものではない。

 そのとき突然、二階から大きな物音がした。

「なんだ?」

 宗佑は天井を怪訝そうに見る。

「葉瑠に何かあったんじゃ」

「何か落としただけだろう」

「倒れているかもしれないじゃない!」

 悲鳴が聞こえたのはそのときだ。

「やめて! 助けて、助けて!」

 同時に争うような物音が聞こえてきた。



「何があった。開けなさい」

「葉瑠ちゃん、お願い。ここを開けて」

 二人でドアを叩いても、中から何も反応は返ってこなかった。先ほどまでの騒ぎが嘘であるかのように、中は不気味に静まりかえっている。

「外を見てくる」

 夫が駆け出し、戻ってくるのを待つ間も、静子はドアを叩き続けた。

「雨戸は閉まったままだ」

 夫の言葉にとりあえず安堵する。雨戸が閉まっていたなら外から暴漢が入ったという可能性はない。しかしさっきの音と悲鳴はただごとではなかった。

 娘はひきこもってから、ずっと静かだった。暴れたりするようなことは一切なく、こんな大きい物音がしたのは初めてのことだ。

「しかたない。ドアを破って入るぞ」

 夫が何度かドアに体当たりをするのを静子は祈るような気持ちで見ていた。

 ――お願いだから無事でいて。

 ドアは数度の体当たりで音を上げ、思ったより簡単に開いた。

「入るわよ、葉瑠」

「大丈夫か?」

 部屋の明かりをつけると葉瑠は部屋の隅でうずくまっていた。

 二ヶ月ぶりに見る娘の姿。その顔は真っ青で体は震えていて、とても無事な様子には見えない。

「これは、どういうことだ。この部屋はどうなっている?」

 葉瑠にばかり気をとられていた静子は、夫の声で初めて室内の異常に気づいた。

 薄暗くてよくわからなかったが、よく見ると部屋の中はメチャクチャだった。家具は倒れ小物類は床に散らばっている。それだけではない。部屋の壁や床、天井、家具には切り裂かれたような三本の傷がいくつもあった。まるで大きな爪を持つ猛獣が暴れたような惨状だ。

「大丈夫よ。もう大丈夫。ねえ、いったい何があったの?」

 部屋の隅で震えている葉瑠を抱きしめて静子は優しく問いかける。

「……化け物が」

 葉瑠は震えながら、ようやく言葉を絞り出した。

「化け物?」

 予想外の言葉に静子は驚く。

「化け物が出たの!」

 葉瑠の腕にも、爪痕のような傷が三本刻まれていた。

 事務所のドアを開けると、むわっとした生ぬるい空気が頬に押し寄せてきて、ユウキはうんざりする。

「なんだよ。エアコンきいてないの?」

 文句を言いながら事務所に入ると、湊と沙耶がテーブルをはさんで向かい合っているのが見えた。

 湊はソファにふんぞりかえって足を組むといういつもの態度で、対照的に沙耶は緊張した面持ちで前屈みにテーブルをじっと見ている。

「ねえ、この部屋暑くない? エアコンきいてないよ」

「昨日ぶっ壊れた。ゴミ捨て場から拾ってきたわりにはもったほうだな」

 窓にはめ込むタイプのエアコンはかなり年季が入っていた。ユウキも沙耶もこの事務所でしかその形のエアコンを見たことがない。いままで稼働していたほうが不思議だったが、とうとう壊れたらしい。

 さすがの湊も暑さに汗をたらしている。扇風機も動いているが、生ぬるい空気をかき回しているだけで、たいして役に立っていないようだった。

 ユウキが隣にきても、沙耶は真剣な表情でじっとテーブルを見つめたままだ。沙耶だけは汗一つかかず、しゃんと座っていた。湊の暑苦しさはもちろん、自分自身と比べても沙耶は涼やかだ。なんで汗をかかないのだろう。毛穴一つ見えない白いすべすべの頬を盗み見て、ユウキはドキドキしながらも不思議に思う。暑い中歩いてきた自分はきっと汗臭いだろうに、沙耶からはいい匂いしかしてこない。

「で、二人はなにしてるの?」

 テーブルの上には五つの封筒が並べられていた。沙耶が見ているのはどうやらその封筒のようだ。どれも真新しい茶封筒で見た目の違いはない。

「なにこれ? 依頼かなにか?」

「そうです」

 沙耶は硬い声で答える。

「先生が珍しく依頼を受けてくれると言ってるんです」

 ここ数週間、湊は仕事をしていない。理由は暑いからだが、冬なら寒いから、春秋なら快適な気温だからという理由で仕事をしないのはいつものことだ。

 ということは、ここに来るようになってから、もう季節が一巡りしたんだなとのんびり考えていたユウキだが、真面目な沙耶はまた違う感慨を抱いているのだろう。

 なんとか湊を真人間にしようと今日もがんばっている。

「おっさんが受ける仕事なのに、どうして沙耶おねえちゃんが封筒を見てうなってるの?」

「先生の選んだ事件はどれもしょうもないものばかりで。それはもう本当にしょうもないものばかりで、仕事をしていないのと一緒なんです」

 よほどひどい案件を選んだのだろう。そんな案件や依頼書を孝元や理彩子が持ってくるとは思えない。湊がどこからか引っ張り出してきたのか、あるいは孝元や理彩子も連日の暑さで朦朧としてしまい、うっかりそんな依頼書を交ぜてしまったか。

「そんなハズレが三つ。でもアタリも一つ入ってるはずなんです」

「ああ、そういうことか。つまり沙耶おねえちゃんが選んだ封筒の依頼を受けるっておっさんは言ってるんだね。ハズレが三つにアタリが一つ……あれ、でも封筒は五通あるよ?」

「一つは大ハズレなんです。どう見てもただの不衛生な部屋で害虫が大量発生しただけの、本当にどうしようもない依頼です。どこからどう見ても怪異のしわざじゃありません。誰もいないのにゴミ袋がカサカサ鳴るなんて、心霊現象でもなんでもありません」

「そりゃゴキブリだね。おっさんもそんな嫌がらせやめなよ。沙耶おねえちゃん、ゴキブリ大嫌いなの知ってて」

「ゴキブリだって決まったわけじゃないだろうが」

 沙耶は穴があくほどじっと封筒を見ている。そんなくだらない提案、乗らなければいいのにと思うのだが、きまじめな沙耶は湊に仕事をさせるきっかけになるならばと乗ってしまったのだろう。

「先生に、先生にまともな仕事をさせるんです」

 思い詰めたように言う沙耶の向かいでは、当の本人がそろそろ飽きたとでも言いたげに大きなあくびをしている。

「なあ、さっさと選んでくれないか?」

「もう少し、もう少しだけ待ってください。何か見えてきそうです」

 見えてきそうってなにが見えてきそうなのだろう。御蔭神道に透視術でもあっただろうか。もしあるなら湊がまっさきに教えろと言ってきそうだ。もちろん目的は仕事でなく、ギャンブルに活かすためだが。

「どんなに見たってわからないぞ。もうさっさと決めてしまえよ。もうこれでいいだろう」

 湊が無造作に手を伸ばした封筒をあわてて沙耶は押さえる。

「わかりました、これは、ハズレですね」

 沙耶はどうだという顔で湊を見る。湊の行動を疑うのは正しい。沙耶がここに通うようになって成長した証だ。しかしそれではまだ三十点だ。

「逆にアタリかもしれないよ。沙耶おねえちゃんがそう考えることを見越して、わざと手を伸ばしたんだ。そしてハズレを引いてショックを受けてる沙耶おねえちゃんに向かってこう言うんだ。あーあ、せっかくアタリを教えてやったのに。人を疑うからそうなるんだってね」

 沙耶は絶望的な顔で嘆く。

「そんなあ……。じゃあやっぱりこれがアタリなんですか」

 禁煙一週間目の愛煙家が葛藤しながらたばこの箱に向かって手を伸ばすように、沙耶は震える手を封筒に伸ばす。

「でも逆にそう思わせて、やっぱりハズレだったって可能性もあるけど」

 伸ばした手がぴたりと止まった。

「ユウキ君、いったいどっちなの……?」

「迷うだけ無駄だよ」

 ユウキは五つの封筒を手に取ると、一度束ねてから適当にシャッフルして扇状に広げてみせる。

「はい、これでおっさんも中身がどれなのかわからない。おっさんの言葉なんかに惑わされずに、一つ適当に選んじゃえばいいよ。ポーカーやババ抜きと同じ。相手が札を知ってる心理戦で、素直な沙耶おねえちゃんが百戦錬磨のおっさんに勝てるわけないんだから」

 露骨な舌打ちの音がする。

「せっかくアホがうだうだ悩んでる姿を見て暑さを忘れようとしてるのに、おまえはどうして人の娯楽を奪うんだ」

「そんな真夏の生ゴミみたいにろくでもない娯楽、さっさと捨てちゃってよ」

「じゃ、じゃあこれで……」

 多少迷いは吹っ切れたのか、沙耶はそのうちの一通を選んだ。中から一枚の紙を取り出し広げてみている。

「や、やった! アタリです!」

 沙耶が満面の笑みで依頼書を高々とかかげた。まるで合格通知を受けとった受験生のようだ。

「おい、アタリだと? ふざけるな」

「へえ、ホントに入ってたんだ」

 ユウキは少しだけ驚く。本当にアタリが入っているとは思わなかった。湊のことだからてっきり全部ハズレに入れ替えていると思っていた。もし沙耶がハズレを引いたら中身を全部あらためてアタリがないことを非難し、依頼を受けさせようというのがユウキの思惑だった。

「だいたいなんで夏休みの季節に働かなくちゃならないんだ」

「おっさん、いつから学生になったの?」

「俺も夏休みが欲しい」

「先生は年がら年中休んでるじゃないですか。たまには働きましょう」

 依頼書を持った沙耶はうきうきした様子だ。

「で、どんな依頼なの?」

「怪異に何度も襲われている女の子の事件です。女の子も部屋も傷だらけだそうです」

「うわあ、つまらなそう」

 その手の依頼は総本山にも御蔭神道にも毎日腐るほど舞い込んでくるだろう。

「ほら、天才少年殿もこう言ってる」

「ユウキ君? 先生みたいな基準でものを言っちゃダメ」

「うん、まあ困ってる人がいるなら助けないとね」

「おい、そこのマセガキ。いいこと教えてやる。親切な男ってのは、女に利用されることはあっても惚れられることはないぞ」

「先生はどうしてそういうことばっかり言うんですか」

 沙耶と湊が言い争うのを聞きながら、ユウキは依頼書を見る。

 ――まあ、これなら僕と沙耶おねえちゃんですぐに終わらせられるかな。おっさんじゃないと解決できない怪異事件が家庭内でそう簡単に起こるわけないしね。

 と、このときユウキはそう思っていた。



 染谷葉瑠の視界に入るのは、小学生四年生のときにあたえられ五年間使い続けてきた自室だ。

 ベッドに勉強机、クローゼット、本棚といったごくごく一般的な家具の他に、お気に入りのテーマパークのキャラクターのぬいぐるみがたくさんあった。

 しかしいまは一変している。

 ベッドは引き裂かれ中の綿が飛び出し、ガラス製のテーブルは割れ、クローゼットは開いていて、中に入っていた衣類やハンガーはそこら中に散らばっていた。そして床や天井には三本線の深い溝がいくつも刻まれていた。まるで巨大な獣の爪痕だ。

 お気に入りだったぬいぐるみも無残に切り裂かれている。

 葉瑠は真っ青な顔で部屋中をゆっくりと見回す。どこかに何かが隠れているのを恐れているかのようなしぐさだった。

「……怖い」

 つぶやいたらますます恐怖感が襲ってきた。

 あれからほとんど眠れていない。

 ベッドサイドにある小さな鏡に自分の姿が映っている。ひどく憔悴した自分の顔は、よけいに恐怖感を強くさせた。

「葉瑠、来てくださったわ。開けるわよ?」

 ドアの外から母親の声がして、坊主の格好をした初老の男性が入ってきた。威厳のあるたたずまいで、白い立派なあごひげをたくわえている。

 ――この人なら化け物をなんとかしてくれるかもしれない。

 部屋の扉を開けるのは嫌だったが、化け物はもっと怖い。藁にもすがる思いだった。

「君が染谷葉瑠さんだね」

 葉瑠はすがるような気持ちでうなずく。深い皺に埋もれた険しい眼差しを向けられ、体は萎縮してしまうが、それでも葉瑠は精一杯答えた。

「そ、そうです」

 恥ずかしくなるくらい声がうわずっている。

「怪異が現れたのはいつかね?」

「怪異? あ、あの化け物のことなら、一昨日……です」

 こうして他人と話すのはいつ以来だろう。

「一昨日?」

 坊主は怪訝な顔をする。

「それは本当かね」

「本当です」

「母親からもそう聞いている。……では、私は必要ないな」

 坊主は難しい顔をするときびすを返し、部屋を出ていこうとする。

「待ってください。どこに行くんですか?」

「君の嘘に付き合うつもりはない」

「嘘? 私は嘘なんて……」

 ついていません、と葉瑠が言う前に強い反論が返ってきた。

「この部屋には怪異の気配が微塵もない。怪異が現れたというのは嘘だ」

 葉瑠の言い分は一切聞かず、バカバカしいと怒って、それ以上話し合う余地はないとばかりに坊主はさっさと部屋を出てしまった。

 あわてて追いかける母親の声が、とても遠くに聞こえた。



 あれから何回、恐ろしい化け物が現れただろうか。

 何人の怪異専門家と呼ばれる人たちが訪れただろうか。

 そして皆、一様に同じことを言って去っていく。

 曰く、嘘つきめ。曰く、怪異など現れていない。曰く、病院で診てもらったほうがいい。誰一人として葉瑠の言葉を信じ、まともに耳を傾けてくれる人はいなかった。

 今日もまた御蔭神道から来たという三十代半ばの男性が激高した。

「いい加減にしたまえ」

 宗栄と名乗る御蔭神道の神官は、いままで来た人たちと同じように嘘だと断定し怒って背を向けてしまった。

 ――怖い化け物はいるのに。でも、もういいや。このままでもいいや。

 言葉にすればよけい相手を怒らせるだけだと学んでしまったので、今はもう遠ざかる背に祈ることしかできない。

 宗栄が帰ろうとするタイミングでまた人がやってきた。

 ――なんだろう、この人。

 軽薄そうな二十代後半の青年を見て、葉瑠は不思議な気持ちになった。

 よれよれのTシャツに黒のデニムというラフな格好の若者は、渋谷や池袋にいくらでもいる普通の青年で、とても化け物を祓うような人間には見えない。

「おまえは……」

 知り合いなのだろうか。部屋から出て行こうとしていた神官、宗栄は驚いた様子であとから入ってきた青年を見た。しかし好意的な態度とは言いがたく、知り合いだとしても仲がいいわけではなさそうだ。

「ほうほう、これが怪異が現れた部屋ねえ」

 青年は物珍しそうにニヤニヤと笑いながら部屋の中を見回した。

「なぜおまえのような人間がここにいる。いや、こんな嘘だらけの依頼はおまえのような人間にこそふさわしいな。インチキの零能者風情が」

 嘘だらけ。その言葉が葉瑠の胸に突き刺さる。

 しかし言われた当人の青年は、宗栄の揶揄をまったく意に介さず、部屋を見て回っていた。

「へえ、けっこう深いな。壁にこれだけ跡をつけられる怪異はなんだろうな。ところで、毎回俺を罵る言葉が同じで、いい加減飽きてきたんだが。台詞がワンパターンなのは雑魚の証明だぞ」

 壁の爪痕を指でさわりながら、嘲りなどどこ吹く風だ。

「き、きさま!」

 怒りで顔を真っ赤にした宗栄は、いまにも青年に飛びかかりそうに見えた。

 そこに二人の人間が追いかけるように部屋の中に入ってくる。

「おっさん、勝手に先に行かないでよ」

「せめて家の人にちゃんと挨拶してからあがってください」

 口ぶりからどうやら青年の連れらしいが、その顔ぶれは意外なものだった。

 一人は自分より幾分年上らしい少女。もう一人は小学生とおぼしき少年だ。二人は部屋に入るなり青年に対して文句を言っていたが、自分の姿に気づくと頭を下げて自己紹介を始める。

「染谷葉瑠さんですね。はじめまして、山神沙耶と申します。あなたのお母様から怪異の出没についての調査と解決を依頼されてやって参りました」

「赤羽ユウキです。こう見えても強い法力持ってるから安心してね」

 少女――沙耶は優しい口調で、少年――ユウキは利発そうな態度でそれぞれ挨拶をしてくる。

「で、あちらにいますのが、たぶんまだ自己紹介もしていないと思うのですけれど、九条湊と言います。そうは見えないかもしれませんが怪異退治のエキスパートなんですよ。先生、ほら、ちゃんとあいさつしてください」

 優秀と紹介された九条湊という青年は、あいさつどころかあとから入ってきた二人を追っ払うしぐさをした。

「おまえらなにしにきたんだ。狭い部屋がさらに狭くなるだろうが」

 ベッドや机や本棚が置かれた六畳の部屋に五人も人がいると、そのうち三人が子供だとしてもかなり手狭だ。

「つうか暑いわ。炎天下から逃れてやっとクーラーのきいた家に入れたんだ。これ以上むさ苦しくするな」

「私はもう帰る。零能者風情はともかく、連れの二人には理由はもうわかっているようだな」

 宗栄は、部屋の中でしきりに首をかしげている沙耶とユウキを見て言った。

「たしかに。ちょっとおかしくない?」

 疑問を呈したのはユウキだ。

「ユウキ君もそう思う? 私も家に入ったときあれって思ったの」

 沙耶が同意する。

 葉瑠はひざをぎゅっと抱きしめた。これからまた一連のやりとりが行われるのだろう。

 怪異なんていない、この娘が嘘をついている、自作自演だと責められたあと、怒って帰る霊能者に、おろおろ声をかける母親。

「怪異の気配、まったくしないんだよね」

 うなずき合う子供二人に、宗栄は我が意を得たりとばかりに話しかける。

「そうだろう。そうであろう。零能者風情にはわからないかもしれないが、そこの童二人が言っているのは間違っていない。おまえ達も無駄足だったな。虚言癖のある娘の戯言だった。すべては嘘だ」

「嘘じゃ……」

 否定しようとした声は、宗栄のひと睨みに屈して途切れてしまった。

「なあユウキ。おまえなら何日くらい前までなら、怪異が現れたかどうかの気配がわかる?」

 湊は興味なさそうに耳の穴をほじくりながら問いかける。

「そうだね。これだけはっきりと暴れた痕跡を残す怪異なら、実体もはっきりしていて体も大きいと思うんだよね。そういう怪異の気配は残りやすい。僕なら二週間くらいまでなら気配の痕跡がわかると思う」

「依頼書によると現れたのは一昨日です。ユウキ君なら見逃すこともないと思います」

「つまり怪異の気配はないってことで確定でいいんだな」

「だからそう言っているだろうが」

 宗栄はややいらだった口調だ。

「そうか、じゃあもうやることは決まっているな」

 葉瑠は絶望的な気持ちになる。このあとの言葉は聞くまでもない。彼らもまた嘘と決めつけて帰ってしまうのだろう。

「調査開始ですね」

「まず何から始めようか」

「……え?」

 葉瑠は驚いて顔を上げた。

「待て、待て待て待て! いままできさま達は何を話していた。怪異は出現していない、この娘の狂言だと確認したばかりではないか」

 驚いたのは葉瑠だけではない。宗栄も同じように驚き動揺しているようだった。

「そんなことは確認してないよ。僕たちが言ったのは怪異の気配がないってことだけだよ」

「そうですね。怪異の気配はないです」

「だったら調査の必要などどこにもないだろう」

 湊がやれやれと大げさなゼスチャーで肩をすくめる。相手を煽っているようにしか見えない。

「怪異の気配がないイコール怪異は出現しなかったって、どんだけ短絡思考なんだ。怪異の気配がないからといって怪異が出なかった証拠にはならない。いかがわしい店に行ったからといってやましいことをしているとは限らない」

「いいえ、それはやましいことをしています」

 沙耶が冷めた表情ですかさず否定した。

「限るね」

 ユウキはもはや面倒くさそうだ。

「状況証拠だけで判断するなという好例を出しただけだろうが」

「たとえが最悪です」

「話が横道にそれるから、よけいなことで言い争うのはやめようよ」

 最年少のユウキが一番しっかりしたことを言っていた。

「くだらない話はいい。なぜだ。なぜ調査をする必要がある!」

「可能性は三つ考えられる。一つ、気配を残さない怪異だった」

「そんなものはいない」

「ところがいるんだな」

「まあ、いるよね」

 なぜかユウキが苦々しい表情をする。

「でもおっさん、この前の怪異事件は本当に特殊な例だから今回は当てはまらないと思うよ」

「そうですね。それにあのときだっていまにして思えばちょっと変だなって思うところはありました。でも今回はまったくと言っていいほど怪異の気配がありません」

「それなら可能性その二だな。ここに現れたのは、怪異じゃなくて両手に刃物を三本ずつ持った殺人鬼だった」

「それはそれで大事件だね」

「怪異ではありませんけど。でも嘘を言っているわけではないですね」

 沙耶は葉瑠に向かってにっこり微笑みかける。突然、感情を向けられてびっくりしたが、少女の微笑みの優しさにむしろ戸惑ってしまった。

「三つ、その娘は嘘を言っている」

「それが正解だ。私は長年、大勢の人間と接してきた。だから嘘を言っている人間と本当のことを言っている人間の区別くらいはつくようになった」

「まあ俺も可能性としては一番高いと思う」

「ではさっさと帰ることだな。ここに怪異などいない」

 帰ろうとする宗栄の背中に湊の声がかかる。

「おいおい、俺は嘘を言っていると言ったが、怪異は現れていないとは言ってないぞ」

「は? いったい何を言っているんだ」

「まったくこれだから頭の固い奴は。怪異は現れた。その娘は嘘を言っている。その両方を成立させる説の一つでも考えようともしないのか。得意満面に嘘を見抜けるなんて、マヌケもいいところだ。大事なのはそこじゃないだろう。どんな嘘をなぜついたのかだろうが」

「ふざけるな。この娘が怪異が現れたという嘘をついた以外に、この状況を説明できるものがあるか」

 叫ぶ宗栄の隣で、ユウキは手のひらをこぶしで叩いて、納得した様子だ。

「ああ、そうか。そういう可能性もあるんだね。嘘を言っているけど怪異は出てるってのはたしかに矛盾しない」

「どうだ。俺の有能な手下どもはもう気づいてるぞ」

 湊は得意げにふんぞりかえっている。

「誰が手下だよ」

「すみません。私もちょっと、その、ええと、わからない……です」

 沙耶は申し訳なさそうに手を上げて、ぼそぼそと喋る。

「たとえばこういう状況だ。まず怪異が現れた。暴れて部屋の惨状はこんなふうになってしまった」

「だから怪異の気配はないと……」

「しかしそこの娘はすぐに親に報告しなかった」

 意外な言葉が宗栄を黙らせる。

「何を言っている。依頼書を見ていないのか。怪異が現れて悲鳴と物音を聞きつけた親が、すぐに二階にかけつけたとあるぞ」

「悲鳴を上げただけだ。物音も自作自演できる。本当に怪異が現れたのは、それより何日も前。怪異が現れたのは昼間。家には娘一人だった。だから誰も気づかなかった。そしてつい先日、依頼書にある日時の時間に娘は悲鳴をあげて暴れて怪異に襲われた演出をした。その娘がついた嘘は怪異が現れたことではない。怪異が現れた日時だ」

「そうか。日数が経てば怪異の気配は消えてしまう。そういうことですね」

 宗栄はしばし呆然としていたが、すぐに気持ちを立て直して指を突きつける。

「なぜそんなことをする必要がある。意味がないだろうが!」

「だから少しは頭を使えよ。すぐに親を呼べない状況なんていくらでもあるだろう。たとえばそうだな、男を連れ込んで親にはとうてい見せられないようなことをしていたとかな」

「違います!」

 葉瑠は即座に否定した。そして思わず大きな声を出してしまったことに驚き、恥ずかしくなって、すぐにまたうつむいてしまう。

「なんだ、おまえ喋れるじゃないか。もしかしたらよくできた人形かと疑い始めたところだったんだ」

「葉瑠さん、先生の言っていたことは間違いないですか? あ、ええと、いかがわしいことをしていたとかそっちのほうではなくて、怪異の現れた日時のほうです」

 葉瑠は黙ったまま顔をそむける。

「聞いたってどうせ答えないぞ。それくらいで答えるならとっくに喋ってるだろ。まあともかく、調査を開始しようじゃないか。そうだな……」

 けだるそうに首の骨を鳴らしながら言う。

「まあ夜までには解決しようか」

「夜までだと!」

「明日までかかったら、またここに来るのが面倒だろうが。かといって昼間のうちに解決してしまったら、暑い中帰らないといけない。夜になって多少涼しくなってきたところで解決すれば、帰るのにいいタイミングだ」

「そ、そんな理由で夜までに解決するというのか。噂にたがわずいい加減な男だ」

「僕もそこには同意するね。解決できるならさっさと解決しようよ。おっさん本当はもう真相に気づいてるんじゃないの?」

「昼間に帰りたくないなら、来た道に喫茶店がありましたから、そこで夜まで涼んでいきましょう」

 湊は誰にも信用されていない。

 ――あれ?

 それとも湊なら解決できると少年少女は思っているということだろうか。

「ああ、そこの頭の固いおやじは帰っていいぞ。そろそろ部屋が蒸し暑くなってきた。あ、いや俺が出よう。下の階でちょっと年増だがなかなか色っぽい人妻に、お茶菓子でもごちそうになろうか」

「ちょっと先生!」

「おまえはここで調査だ。年頃の娘なんだ。部屋を男に物色されるのは嫌だろう。いやあ残念だな」

 湊はユウキの襟首をつかむと、強引に引きずりながら部屋を出て行く。

「なにするんだよ」

「おまえは歳不相応に色気づいてるからダメだ。俺と一緒に色っぽい人妻とお茶をするんだ」

 二人を見送りため息をついた沙耶の目が宗栄と合う。

「ふん……」

 面白くなさそうに鼻を一つ鳴らし、二人を追うように宗栄も出て行った。



「いかがだったでしょうか」

 紅茶とケーキを、宗栄と湊とユウキの三人に出すと、静子はおそるおそる聞いてきた。いままで何度も娘を嘘つき呼ばわりされた母親としては、三人の反応は戦々恐々だろう。

「さてね。もっかのところ調査中でなんとも言えん。あんたの娘は嘘つきかもしれないし、いままで調査しに来た連中が無能揃いなだけかもしれない。まあ五分と五分だな。お、このケーキうまいな。近く? それなら帰りに買って帰ろう。早く解決しないとな」

「夜までではなかったのか?」

「夕方になれば少しはマシになるだろ」

「きさま、まじめに調査するつもりあるのか」

 隣で宗栄がいらだちを隠さないで湊をにらみつけた。反対側に座っているユウキは、我関せずとばかりにケーキを静かに食べている。

「あんたこそ、なんでまだここにいるんだ? あんたはインチキだって思った口なんだから、さっさと帰れ。ケーキの分け前が減るだろうが」

 そう言いながら宗栄の前に出されたケーキを自分の前に持っていく。そんなことで争うのは大人げないと思ったのか、あるいはまったく気にもとめていないのか、宗栄はケーキには頓着せず淡々と語る。

「きさまが怪異はいると言ったのだ。しかも夜までに解決すると大言まで吐きおった。見届けさせてもらおうではないか。夜までに解決できなかったときの顔が見物だな」

 湊はこれみよがしにため息をつく。

「はあ、やだやだ。人間こんなふうには成長したくないな。ライバルの失敗を願うなんて、人間としての度量が小さすぎる。おいユウキ、間違ってもこんな大人にはなるなよ。もう手遅れかもしれないけどな」

「大丈夫だよ。僕はその人みたいにもおっさんみたいにもならないから」

 静子は内心、この人たちにまかせて大丈夫なのだろうかと思っていたが、そんな気持ちはおくびにも出さなかった。

 初めて嘘だと言わず、すぐに帰らなかった人たちなのだ。どんなに怪しげでもいい加減そうでも追い返す選択肢はない。

 気まずい雰囲気に会話も途切れがちだ。

 湊だけがマイペースにお茶のおかわりや世間話をしていた。

 三十分ほどたったところで、沙耶が二階から降りてくる。

「おう、早かったな。ちゃんと調査したのか?」

「よく言うよ。おっさんはここでケーキをごちそうになってただけじゃないか。沙耶おねえちゃん、なにか進展あった? 僕も手伝おうか」

 沙耶は少し疲れた表情で首を左右に振った。

「ううん、大丈夫。壁の傷や荒らされた跡とかをいろいろ調べてみたけど、やっぱり怪異の痕跡はないの」

「へえ、怪異がつけた傷跡には、邪気がけっこう長く残るものなのにね」

「傷跡は、測ってみると大きさが微妙に違っていて、怪異の大きさは一定でないか、もしくは複数いるのかと思われます」

「見りゃわかることだな」

「そうですね。あまり進展はありませんでした。すみません。でも葉瑠さんの話はいろいろ聞けたと思います」

「なんだ、女二人、おしゃべりしてただけか」

「依頼書の資料にもありましたが、葉瑠さんは交通事故に遭ってるんですね。半年ほど前に」

 静子はそのときのことを思い出したのか、暗い表情をした。

「はい。学校に遅刻しそうになって、主人が送っていったんです。そのとき自動車同士の事故で……。一ヶ月ほど入院していました」

「遅刻? ひきこもる前か?」

「え、ええ。娘が部屋に閉じこもるようになったのは、それからなんです」

「車が怖くなったの?」

 両親を交通事故で亡くしているユウキは表情が曇る。

「わかりません。ショックではあったろうと思うのですが、病院ではお見舞いにきてくれた友達と普通にしていましたし……」

「家に帰ってから、何かを怖がるようになったんですか?」

「私もいろいろ考えたんですが、どうしてもこれだという原因が思い当たらないんです。どうして葉瑠があんな急に変わってしまったのか」

 話しながら涙ぐんでしまった静子に、場が静まってしまう。それに気づいた静子は、あわてて涙をぬぐって立ち上がった。

「山神さんのお茶を淹れますね」

 そこで初めて、沙耶は三人がお茶とケーキを食べていることに気づいた。

「私の前にある空の皿はなんですか?」

「この家の風習だよ」

「違うよ。沙耶おねえちゃんの分のケーキ、おっさんが食べちゃったんだよ」

「すみません、ケーキは四つしかなくて」

「あ、どうぞおかまいなく。こちらこそすみません」

 恐縮する静子に、湊が悪いとわかっている沙耶も恐縮してしまう。

「先生、これからどうしますか? 今日中に解決できるって言ったのは、何か考えがあってのことじゃないんですか?」

「おまえなあ。自分がわからないからって丸投げするなよ。それともケーキ食ったこと怒ってるのか?」

「そんなつもりじゃ……」

 二階から大きな悲鳴が聞こえたのはそのときだ。言葉にならない叫び声は、葉瑠のものだった。



 まっさきに動いたのは母親の静子だ。

「葉瑠っ!」

 叫ぶやいなや、あわてて二階へと向かう。途中でテーブルにぶつかりティーカップの中身がこぼれたことにも気づかないほどだ。

 続いて沙耶が立ち上がった。さらにユウキも続くが表情は怪訝なものだった。

 宗栄はいまだにのんびりと紅茶を飲んでいる湊に目をやる。

「おまえは行かないのか?」

「大人数でおしかけても邪魔になるだけだろ。俺はここでくつろいでるよ」

 宗栄は鼻で笑う。

「なんだかんだ言っていたが、結局のところおまえもあの娘の言葉は信じていないのだろう」

「とあんたが言うってことは、今も怪異の気配はしなかったんだな」

「そうだ。ここに霊力、法力を使える者が三人もいたというのに、すぐ真上に怪異が現れて気づかないはずがない」

「三人そろってぼんくらぞろいって可能性もあるぜ」

「ふん、おまえのくだらない挑発に乗るものか」

 宗栄は立ち上がると階段へ向かう。

「なんだ、結局あんたも行くのか」

「念のためだ。どうせなにもない」

 宗栄は言い捨てると階段を上っていく。

「みんな律儀だな」

 湊だけが、のんびりと一人くつろいでいた。



「また現れたの! 化け物がまた現れたの!」

 母親の腕に必死にすがりつく葉瑠だが、誰もがとまどった表情を隠せない。みなが顔を見合わせて言いよどんでいる。

「本当に現れたの?」

 疑問を投げかけたのはユウキだ。葉瑠はショックを隠せない顔で、集まった面々をすがるような眼差しで見た。

「お願い、信じて。たったいま現れたの」

「どこにだ? 我々はすぐ下にいたが怪異の気配も、物音も、何も感じなかったし聞こえなかったぞ。聞こえたのはおまえの悲鳴だけだ」

 宗栄は険しい眼差しでじっと葉瑠を見る。長年の修行と怪異との戦いで磨かれた鋭い視線は、中学生の葉瑠を怯えさせるには充分だった。

「ちがう、本当に……いたの」

 葉瑠の声がだんだん小さくなっていく。

「みなさん、葉瑠のことを信じてやってください」

「染谷さん。では一つ聞くが、あなたはなぜ娘の言うことを信じるのだね」

「嘘をつくような子ではないからです。それは私が一番知っています」

「確かに子供のことを一番知っているのは親かもしれないが、同時に一番見えていないのも親なのだ」

「慧眼だねえ、と言うほどたいしたことを言ってるわけでもないか。ウチの子に限ってなんてのたまうのは、定番中の定番。言うほうも、それをディスるほうも、ありきたりすぎてあくびが出るほど退屈だ。太陽は東から昇るのだぞ、なんて重々しく言ったところで、マヌケなだけだ」

 遅れてやってきた湊がそう宗栄を揶揄する。

「で、やっぱり怪異の気配は感じなかったんだな」

 沙耶とユウキは、静子と葉瑠に遠慮しながら小さくうなずいた。

「我々はこのすぐ真下にいた。10メートルと離れていない。なのに怪異が現れて気づかないなんてことはありえない」

 宗栄は苛立ちを隠さず断言する。

「たいした自信だが、まあそれを信じるとしよう。怪異以外の可能性は?」

「我々御蔭神道の人間は充分に鍛錬をつんでいる。察することができるのは怪異の気配だけではない。人の気配もしかり。二階にいた人の気配はそこにいる娘一人だけだ。すべて虚言。嘘だったのだ」

「ふむ、で、どうしてそんな嘘をつく必要があるんだ」

「なんだと?」

 意外な質問だったのか、宗栄の勢いがとまった。

「怪異退治に来た連中は、馬鹿の一つ覚えみたいに怪異の気配は残っていない、痕跡がない、そんな言葉を繰り返していたはずだ。なのにこの状況で怪異が現れただなんて言えば、こいつはますます疑われることになる」

「それもそうですね。いまここで嘘を言う必要はありません」

「ひ、必要か否かは問題ではない。その娘はただ人を騒がせたいだけなのだろう。かまってほしいだけだ。部屋に閉じこもり人との接し方を忘れてしまったに違いない。歪んだ人との対話だ」

「まあ、こんなところに閉じこもっていれば性格の一つもねじ曲がるだろうな」

「おっさんに言われたくないよね」

「先生、それは言いすぎです」

 子供二人に責められても湊は軽く肩をすくめるだけだ。

「ま、それと同じく、怪異ばかり相手にしてちゃ、同じ理屈で性格はねじ曲がるってことだ」

「っな、きさま」

 いきりたつ宗栄を湊は軽く受け流す。

「誰もあんたのことだなんて言ってないんだが。一つ確かめたいことがある。おい、ユウキ。おまえから見てその子に霊力や法力のたぐいはあるか?」

「どうして?」

「もしかしたらここじゃない別の場所の出来事を見て、怪異を見たと騒いでる可能性もある」

「少なくともそういう力は感じないよ。それにおっさんの言うことが正しかったとして、この部屋の惨状はどう説明するの?」

「部屋が荒れてるのは単純に散らかってるだけってのはどうだ。俺も散らかすのは得意だが、誰かさんが勝手に片付けるせいで、最近よく物がなくなる。もしかしたら怪異の仕業か?」

「そんなわけないでしょ」

 どこまでまじめでどこまでふざけているのか、たまにユウキもわからなくなる。

「物がなくなるといえば、そうだ。俺の携帯はどこに行ったかな。さっきから探してるんだが見当たらない」

 湊はポケットのあちこちを探っているが、出てくるのはいかがわしそうなチラシや、どう見ても水商売の女性の派手な名刺ばかりだ。

「先生……、もっとマシなものは入ってないんですか」

 沙耶は怒る気力もなくうなだれる。

「それよりちょっと電話をかけて俺の携帯を鳴らしてみてくれないか」

「あっはい、待ってください」

 沙耶がさっそくスマホで電話をすると、どこからか着信音が聞こえてきた。

「聞こえてきますけど……」

 沙耶は音の聞こえる方向を見て戸惑う。

「なんであそこから聞こえてくるんだよ」

 ユウキも同じ方向、部屋の反対側にある本棚を見た。

「ああ、そうそう忘れてた。ここに置いたんだった」

 湊は本の陰に隠れるようにして立てかけてあった自分のスマホを拾い上げた。

「どうしてそんなところに忘れるんですか」

「そうだな、どうしてだろうな。おっと、ビデオカメラが録画になったままだ。まいったな、部屋の様子が丸映りだぞ」

「おっさん、それ隠し撮り。普通に犯罪だよ」

「それはちょっと倫理的にどうなんでしょう。仮にも年頃の女の子がいる部屋に隠しカメラって……」

「まあいいじゃないか。これで部屋にどんな怪異が現れたか確認することができる。まあいちおう本人の許可を取っておこう」

 湊はスマホを葉瑠に見せて問いかける。

「ここに、この一時間ばかりのおまえの部屋の様子が映ってる。見てもいいか?」

「何か見られたくないところがあるなら私だけが見ますので安心してください」

 葉瑠は不安そうに視線を泳がせていたが、

「見ても、いいです」

 と消えそうな声で答えた。

「ほう……?」

 宗栄にとっては意外だったのだろう。怪異が出たという嘘がばれるから拒否するものだとばかり思っていた。

「さてと、じゃあ再生するか」

「待ってください。先に私に内容をチェックさせてください」

 警戒する沙耶だが、葉瑠は弱々しくつぶやく。

「ここでじっとうずくまっていただけだから大丈夫」

 湊は沙耶の手からひったくるようにスマホを取ると、止めるまもなく再生ボタンを押した。



 最初に映ったのは湊が本棚の奥にスマホを設置しているところだった。ちょうど葉瑠が話して注目が集まったタイミングに、すばやく本棚に置いて本で隠している。

「このタイミングでやってたんだ」

「手慣れていて嫌ですね」

 子供二人があきれている。

「画像が粗いな」

「録画時間を長くするために解像度を落としてるんだよ。贅沢言うな」

 それから十分ほどは全員の記憶にある通りの映像が流れる。当たり前だが会話や行動は皆の記憶どおりで、やがて沙耶だけを残して男性三人が部屋を出て行く。湊は部屋を出るときユウキの襟首をつかんでひきずりながら、ちゃっかりスマホのカメラに向かってピースサインを出していた。

「こんなくだらないことしてる暇あったら、もうちょっとまじめに調査してよ」

 無様な姿を映像に残されたユウキが文句を言う。

 湊に続いて男性全員が出ていくと、沙耶と葉瑠の二人きりになった。二人ともしばらくなにも話さずなにもせず、たがいの様子を見守っていた。

「おまえらもじもじしすぎだろ。思春期のガキか」

「思春期ですよ!」

 やがて沙耶のほうから一言二言話しかけた。

『部屋の調査をしてもいいですか? 見て欲しくないところがあったら遠慮なく言ってくださいね』

 沙耶の言葉に葉瑠がわずかにうなずいているのがわかる。

 それから沙耶は部屋のあちこちを調べ始めた。壁や家具の爪の跡を見て、部屋中を見て回っている。

「おまえ普通にカメラの前をスルーしてるな」

「しかたないじゃないですか。そこは無事な場所だったんですから」

「おっさんは、沙耶おねえちゃんに見つけられたくないから、わざわざ本棚の無事なところに隠したんでしょ?」

 それから十分ほど、沙耶が部屋中を調べている映像が続いた。

 映像の中の沙耶は天井を見上げていた。

『天井の傷も調べたいので、机にあがっていいですか?』

 やはり葉瑠の動作は最小限で、わずかに頭が上下するだけだ。

 沙耶は映像の中の自分が机に登ろうとしたところで、あわててスマホを取り上げようとする。

「ああ、そこは何も問題ないので飛ばしてください」

「いままでだってなんの問題もない退屈な場面ばかりだったぞ。見せられるこっちの身にもなってみろ」

 湊が渡さずにいると、画面を手で必死に隠そうとした。

「もっと、もっと退屈なんです」

「いいからさっさと手をどけろ」

 手が払いのけられると、画面の中で沙耶が机に登り、背伸びをして天井を調べているところだった。

『あの、足下危ないですよ』

 ほとんど自分から話さない葉瑠が珍しく自発的に喋っている。それだけ沙耶の足下は危うかった。

『大丈夫ですよ。こう見えても運動神経は……きゃっ!』

 見事に足を踏み外した沙耶はそのまま転げ落ちて、頭が豪快にタンスにぶつかった。後頭部を打って、もんどり打って転がっているという珍しい沙耶が見られた。

「ぷっ!」

 笑ったのは宗栄だ。

「いや、その災難だったな」

 咳払いをしてごまかしたが、笑われた事実は消えない。沙耶は顔を真っ赤にしてただただうなだれた。

 結局なんの成果もないまま、沙耶の調査は終わってしまった。

『いったん報告に行きますので』

 沙耶はそう言って部屋を出ていった。

 それからしばらく映像に動きはなかった。停止ボタンが押されたのかと疑いたくなるほど、葉瑠は微動だにしない。

 動きがあったのは、沙耶がいなくなって数分後だ。

 葉瑠は静かに立ち上がると、物音を立てないように忍び足でドアに向かった。慎重に音を立てないようにドアを開けると、顔を出して廊下の様子をうかがっている。

 確認して満足したのか、ドアから離れまた忍び足でベッドまで戻る。部屋の隅に陣取ると、それから息を大きく吸い込んだ。そして精一杯悲鳴を上げる。

 すぐにかけこんできたのは静子だ。部屋の隅で怯えている様子の葉瑠に寄り添うと、体ごと抱きしめて大丈夫となだめている。

 すぐに沙耶とユウキがあとに続いた。二人は部屋を見回している。

『おかしいよ。怪異の気配も現れた様子もない』

 やがて遅れてやってきた宗栄が続き、湊がやってきたのはそれから数分あとのことだった。

 それから先の映像は全員が知っているとおりにことが運んだ。湊に言われて沙耶がスマホをいじっている途中で録画が切れた。電話の着信で録画機能が切れたのだ。

 沙耶とユウキは無言のままだ。

「なんというか嘘の付き方が下手くそな娘だな」

 湊のつぶやきに宗栄は大仰なほど深くうなずいた。

「ようやく得心したか。そうだ。その娘は嘘を言っている。怪異などいない。その映像を見ればあきらかだ」

「ああ、やっと確信できたよ」

 湊は葉瑠を見て言う。

「怪異は現れた」

 誰もがぽかーんとしていた。葉瑠さえも目を見開いて、まじまじと湊を見ている。

「馬鹿な!」

 叫んだのは宗栄だ。

「いまの下手な芝居を見て、なぜまだ怪異が現れたなどと言う? あとに引けなくなったのだろうが、これ以上意地を張り続けても恥の上塗りになるだけだぞ。ここでおとなしく引き下がれば、私も責めはしまい。しかしこれ以上、怪異はいると言うのなら……」

「ああ、そんなご託は時間の無駄だからあとまわしにしてくれ。俺はこれから前代未聞の存在しない怪異がいることについて説明しなくちゃならないんだ」

「存在しない怪異がいる?」

 矛盾した言葉に全員の声が綺麗に揃った。