『序章 新たな生活』

「いよいよ俺たちも高校生か」

「そうだな。野暮ったい学ラン着なくて済んで、清々するぜ」

 天野良治の呟きに、悪友の三井雅也が笑いながら答える。中学時代と同じように、二人並んで自転車を走らせ、学校へ向かう最中だ。

 中学生から高校生になっても、変わらない朝の始まり。違うことと言えば、制服が学生服からブレザーになったくらいだろう。それでも、高校生になった――というだけで、新たな生活が始まりそうな気がして胸がそわそわしてくる。

 通学路には、自分たちと同じ格好をした男女が真っ直ぐ同じ方向に進んでいた。それは学校に近づくたびに増えていき、やがて校門前は大混雑となっていった。

「ん?」

 ――ふと、良治は人の波の中に、ぴょこんと長い棒のような物が突き出ているのを見つけた。布に包まれたその棒は、持っている人間の身長が低いためか、良治の位置からだと棒だけが歩いているように見える。

 剣道の竹刀――にしては短い。薙刀――にしては細い。……なんだろうか?

「良治! あれ見ろよ!」

 隣の雅也に尋ねようとしたが、それよりも早く彼は校門奥の校庭を指さした。見ると、そこにはサッカーユニフォームを着て走る生徒たちがいる。

「ここのサッカー部、朝練あるんだな」

「え? あ、ああ。そうみたいだな」

「良治はどうする? サッカー続けんの?」

「まぁ、たぶん。野球部で坊主は嫌だし、バスケやるほど身長もないし」

「だよなー。それ以外で花形部活って言ったらサッカーしかないよな」

 そんなことを話していると、いつの間にか先ほどの棒は見えなくなっていた。

(……あれ、何だったんだろう?)

 気になったが、強い春風が吹いた拍子に忘れてしまった。春風は、桜の花びらを空に向かって舞い上げる。その軌跡を目で追うと、西の空にはまだ、弓型の三日月がぼんやりと浮かんでいるところだった。


『第一章 八百年後の邂逅』


「母さん……あのさ……」

「あらおかえり。どうしたの?」

「あー……いや、なんでもない……」

「そう? それじゃ帰ってきたとこ悪いけど、叔父さんの所まで配達してくれる?」

 高校の入学式を終えて早々、天野良治は母からそんなお使いを言い渡された。店内で昼食を取る客は疎らだが、母はカウンター越しの厨房で忙しく動き回っている。良治は真新しい制服を脱ぐ暇もなく、「満天食堂」と印字された弁当箱を受け取ると、店の前に止めた自転車に跨った。

「……はぁ。スパイク新調したいなんて言い出せないなぁ……」

 そんなことをぼやきつつ、自宅の食堂がある商店街を抜け、山の麓を目指す。住宅地を通り過ぎ、リンゴ畑が目立つ田舎道を進むと、やがて目的地の神社へとたどり着いた。

 色あせた鳥居を潜るが、参拝客は誰もいない。玉砂利が敷き詰められた参道の先に社があり、その右手側には神楽殿、左手側に社務所と倉庫がある。そして、社務所に併設された倉の前に、一人のくたびれた男が座り込んでいた。

「おー、良治。配達ご苦労さん」

 くたびれた男は良治に気が付くと、読んでいた雑誌を下ろし、タバコを咥えたまま手を上げる。白い作務衣を着ていなかったら、ホームレスに間違われるかもしれない。

「悪かったなぁ、入学式いけなくて。お母さんの代わりに行こうと思ったんだが、忙しくてなぁ」

「そう言うならもう少し忙しそうにしててくれよ」

 良治は配達の弁当を渡しつつ、彼が地べたに置いたギャンブル情報誌に侮蔑の視線を送る。

「いやマジで忙しかったんだって。……まさか入学式と新台入れ替えが重なるとはな」

「仕事じゃないのかよ!」

「ちゃんと仕事もしてたっての。お祓い三件も受けたんだから」

 そう言って叔父は「ほら」と倉の中を指す。そこには御祈祷道具に交じって何だかよくわからない品物がごろごろと転がっていた。

「お祓い代、全部パチンコで溶かしてたら世話ないけどな」

「……なんで負けたってわかる?」

「一番安いのり弁。勝ったら焼肉弁当頼むでしょ?」

 良治はひょいとのり弁が入った包みを掲げて見せる。

「……ちっ、あーそうですよ。もうすっからかんだよ」

「のり弁300円。ツケはナシで」

 そう言うと叔父は作務衣のポケットをまさぐり、一枚の紙きれを取り出した。それを「ほれ」と手渡してくる。

「……なにこれ?」

「おみくじ。一回300円だからこれで頼む」

「ダメに決まってるだろ!」

 叔父はやれやれとため息をつくと、「よっこらしょ」と立ち上がった。

「しょーがねーなぁ。ちょっと小銭取ってくるから待ってな」

 そう言って歩き出した叔父だが、ふと「あ」と思い出したように振り返った。

「その辺のもん、触るなよ。……俺の手に負えないものもあるからな」

 叔父は倉の入口にある小汚い品々を指さす。

「触んないって。だいたい、オカルトとか信じてないし」

「お前、神主の甥っ子なのにホントそういうの信じないよな」

 叔父はため息をつきつつ歩きだす。……小銭を取ってくると言ったが、彼の足の向かう先は賽銭箱だ。罰当たりにもほどがある。

「神主があれじゃあ、これの信憑性も低いな」

 叔父の背中を見送り、良治は手元のおみくじに目を落とす。試しに糊付けされたそれを開いてみると、なんとも禍々しい「凶」の文字が姿を現した。

「……信じてないけど、気分悪いな」

 願望叶い難し。健康悪し。仕事捗らず、恋愛実らず。縁は逃れ難し。出産は良し。受験も良し。待ち人も思いがけず来る。見事に自分に関係ないことばかりが良かった。

「コレって木に結ぶといいんだっけ? 悪いんだっけ? ……まぁいいか」

 良治はおみくじを丸めると、ゴミ箱に向けて指で弾いた。だが、それはゴミ箱の縁に当たって床に転がる。良治は面倒くさそうに再び丸めたおみくじを拾い上げようとした……が。

「……信じちゃいないけど、さすがに気味悪いな」

 ふとおみくじが転がった先にある「手に負えないもの」とやらが目に留まり、思わず顔をしかめる。そこには片目の落ちた日本人形や、無数の光の玉が写り込んだ写真や、お札が貼られたビデオテープなんかも入っていた。

「…………ん?」

 ふとその時、おみくじの傍にキラリと光るものが落ちていた。

「なんだこれ……昔の鏡?」

 大きさは掌で包めるほど。平べったい丸状の鉄だ。表面は鈍色でつるつるしている。鉄の周りには、細かな飾り彫りがされていた。

「なんか……綺麗だな……」

 それは鈍色なのにも拘らず、妙に光を放つ。良治の手は、知らず知らずの内にその鏡に向かって伸びていた。

 そして、その鏡を手に取った瞬間――

『――必ず、帰ってきてくだされ――』

「え?」

 突然、女性の声が聞こえた。驚いて振り返ったが、周囲には誰もいない。

 空耳か――と思ったが。

『――ああ、必ず生きて帰ると約束しよう――』

 今度は男の声が聞こえた。同時に――ザザザ、ザザザという波のような音も聞こえ始める。

「どこから聞こえて……あっ」

 左右を見回し、気が付いた。

 水音は、自分が手に持った鏡から聞こえている。

 見れば、さっきより鏡の輝きが増していた。

 しかし、そこに映っているのは鏡を覗き込んでいる自分の顔ではなく、どこかの海原の光景だ。

「なんだこれ……うぅっ!」

 鏡に映る海を見ていたら、急に船酔いでもしたような嘔気がこみ上げてきた。とっさに鏡を落として口元を押さえるが、胃が締め上げられるような苦しさが襲い掛かってくる。

 俺の手に負えないものもあるから――という叔父の言葉を思い出す。コレがその「手に負えないもの」だったのかもしれない。

「お、叔父さ……」

 助けを呼ぼうとしたが、嘔気の所為で声が出ない。良治はおぼつかない足取りで叔父の元を目指す。しかし、ふいに気が遠くなり、良治は崩れるようにその場に倒れ込んだ。

『八百年……長かったぞ』

 再び、先ほどの男の声が聞こえた。今度は、傍で、はっきりと。

『ようやく、会うことが出来たな』

 朦朧とする意識の中で、良治の目が確かに捉える。

 甲冑姿の男が、倒れ込んだ自分を覗き込んでいるのを。



「いやぁ、すみません義姉さん。少しからかいすぎたようで……」

「いいんですよ。それにしても、あの子はもっと図太いと思っていたのですが……」

「良治は意外と怪談とか苦手なんですか?」

「ホラー映画なんか普通に見てますけどねぇ」

 夢うつつな頭に、遠くからそんな声が流れ込んでくる。うっすら目を開けると、見慣れた自分のベッドからの風景が飛び込んできた。

「あれ……俺……?」

 寝起きの頭で、何がどうなったのかを思い出そうとする。

(倉で鏡を見つけて、それから急に気分が悪くなって……)

 そこから先は覚えていなかった。しかし、着の身着のまま自分のベッドで寝ていたのを見る限り、どうやら叔父が家まで運んでくれたらしい。確かにあの時は急に気分が悪くなったのだが、今は何ともなかった。

(なんだったんだ、あれ……)

 良治はゆっくりと上体を起こした。その時、ふとポケットに固い物が入っている感触がする。手を入れてみると、それは倉で見つけた鏡だった。

「これ、いつの間に……」

『おい』

「え?」

 誰もいないはずの部屋から声が聞こえ、良治は顔を上げた。

『お主、弓は射てるか?』

 そして、その姿を見て息を詰まらせる。

 ベッドサイドにいたのは、現代には似つかわしくない甲冑を着こんだ男だった。やや面長の顔に、細く高い鼻。切れ長の目つきに薄い唇。男であることは間違いないのにゾッとするような中性的な美しさを持っている。

『聞こえているじゃろう? お主、弓は射てるのかと聞いておろう?』

 現実的に考えれば、頭のおかしなコスプレ男が部屋に入り込んだ危ない状況――と思うだろう。

 しかし、目の前にいる男の身体は透けており、向こう側が見えているのだ。

 ――幽霊。

「うおぁっ!」

 良治は悲鳴を上げると、守り鏡を放り投げて、幽霊の男から逃げるように飛びのいた。壁にペタリと背中を預け、瞳を上下左右に彷徨わせる。そんな良治の姿を見て、幽霊の男は愉快そうに笑んだ。彼が一歩近づこうとすれば、良治はますます壁に背中を押し付ける。

「良治、起きたの?」

 その時、良治の悲鳴を聞きつけて母と叔父が部屋のドアを開けた。そしてその位置は、幽霊の男のすぐ目の前だ。

「か、母さん! お、落ち武者の幽霊が! そ、そこに!」

「……はぁ?」

 良治は上ずった声で叫ぶものの、幽霊の男の傍にいる母は首を傾げている。

「アンタ、なに寝ぼけてんの?」

「いやぁ悪いな。ちょっとおどかしすぎたな。あの倉に変なものはないから安心しろって」

「見えて……ないのか?」

 二人とも、まるで良治の言葉を信じていない。

『無駄じゃ』

 ふと、幽霊の男が呆れたように言う。

『お主の母君は儂のことなどちっとも見えんよ。そこの神主も同じじゃ。母君はともかく、その神主はとんだ生臭じゃのう』

 幽霊の男はカカカと笑う。自分しか見えていない。誰にも信じてもらえない。そのことが、より一層良治の恐怖を掻き立てる。

「……ま、寝ぼけるくらい元気なら良かったわ。あと三十分ほどで夕飯にするからね」

「それじゃあ良治も起きたし、俺ももう帰るよ」

「ちょ、ちょっと!」

 良治は手を伸ばすが、二人は部屋を出て行ってしまった。

 残されたのは、自分と、この得体の知れない幽霊のみ。

『これでようやく落ち着いて話せるのう』

 幽霊の男が、ニヤリと笑う。

「な、なんだよ……!」

 良治は精一杯虚勢を張って睨み返す。だが、その声も足も震えていた。

「お、俺を呪い殺そうってのか!? ふ、ふざけんなよ! 塩ぶっかけるぞ!」

『何を一人で勇んでおる。誰もそんなこと言っとらんじゃろう』

 幽霊の男は呆れたように息を吐くと、その場に胡坐をかき、頬杖をついた。

「じゃ、じゃあ何するつもりだよ?」

『言うたであろう? 話がしたいだけじゃ』

「だ、誰がお前みたいな得体の知れないモンと話なんかするか!」

 良治が叫ぶと、幽霊の男は「おっ」と何か気づいたように目を丸くした。

『それもそうじゃな。まだ名乗ってもおらなんだ』

 幽霊の男は膝に両手をあて、まっすぐ良治を見つめる。

『那須家二代目当主――那須与一じゃ』

 那須与一――聞いたことある気がしたが、思い出せないし、思い出そうとする余裕もない。

『お主の名は――』

「い、言うか! 幽霊になんか――」

『天野良治じゃな? 姓は家の前に掲げてあったし、名は散々呼ばれていたからのう』

 幽霊に名を呼ばれた――自分は相手のことを何も知らないのに、向こうは知っている。その言いようのない恐怖感に、良治の顔が青ざめた。

『のう良治や。そんなに怯えるではない。見ての通り甲冑は着ておるが、儂は刀も弓も持っておらぬ』

 幽霊の男――与一はそう言って両手を広げて見せる。しかし武器を持っていなくとも、存在そのものが恐怖なのだ。だが、少なくとも無害アピールをされたことで少しは良治の顔色が元に戻る。再び、虚勢を張って睨むこともできた。

「……話って、なんだよ」

『おっ、ようやくその気になってくれたか』

 与一は嬉しそうな笑みを浮かべる。精悍な顔つきに似合わぬ、屈託のない笑みだ。

『さて、なにから話したものか。……なにせ守り鏡に宿ってから、数百年ぶりの会話じゃ。話したいこと、聞きたいことは星の数ほどあるというのに、どれから言うたら良いものかわからぬな。――カカカ! 儂のことが見えぬ者ばかりで、人と話ができたら何を言おうかなんぞ考えておらんかったわ!』

 何が面白いのか、与一は笑いながら膝を叩く。

『のう良治や。お主こそ儂に聞いてみたいことはないか?』

「……はぁ?」

 どうも頓珍漢な会話だ。しかし与一は話ができるだけで楽しいのか、首を傾げながら「のう、ないのか?」「なんでも答えるぞ?」とウキウキしている。

「……なんで、俺だけ見えるんだよ? 俺、霊感とかないぞ?」

『さぁのう? 恐らく波長が合ったのじゃろうな。これまで守り鏡に宿りながら、多くの人の手を渡ってきたが、儂が見える者はおらなんだ。神職の者は多少儂の気配に気づくこともあったがのう。……お主の叔父以外は』

 あの叔父のことだ。曰くつきと知ったらとっとと売り払っていたに違いない。

「じゃあ……なんで、化けて出てきたんだよ?」

「それは、未練がある故に現世に留まった……と自分では思っておるがの」

 与一がベッドの上に転がった鏡を指さす。

「未練……って?」

「儂の未練は、弓じゃ」

 そう言って与一は弓を引く真似をして見せる。

「弓……?」

『そうじゃ。名人だ何だと言われておきながら、朝廷の追手に襲われ命を落とした』

 与一は目を細め、じっと自分の両手を見つめた。その時に気が付いたのだが、この男は左右で腕の長さが違う。右腕に比べ、左腕が拳一つ分は長い。

『儂は弓を極められんかった。それが悔しゅうて悔しゅうて、未練となったのじゃ』

「そ、そうなのか……」

 幽霊の身の上話を聞くなんて、不思議な気分である。同時に、自分の中から恐怖心が少しだけ消えるのを感じた。彼は幽霊であるが恨みつらみはなく、おどろおどろしい雰囲気も持っていない。あるのは、細められた瞳に宿る憂いだけだ。

『のう、良治や』

「な、なんだよ?」

 ふと与一が憂いを帯びた瞳で、こちらを真っ直ぐに見つめる。

『こうして話ができるのも何かの縁じゃ』

 嫌な予感がする。

『どうか、儂の未練を晴らす手伝いをしてくれんか?』

「はぁっ!?」

 予想していた言葉が来たが、実際に来ると良治は思わず声を上げてしまった。

「なんでそうなるんだよ! 嫌に決まってるだろ!」

『まぁまぁ、そう言うでない』

 与一愛想良く笑いながら手を伸ばしてくる。良治は「触んな!」と枕を振り回すが、そんな攻撃は彼の手をすり抜けるばかりだ。

『なんじゃ。嫌われておるのう。せっかく会うたというのに寂しいではないか』

「当たり前だろ! 誰が好き好んで幽霊といたいと思うんだよ!」

 良治が言うと、与一は「なるほど」とポンと手を叩く。

『確かに、戦のあとは討ち死にした者が夢枕に立つのではないかと冷や冷やしたものじゃ。言われてみれば気味が悪いのう』

「そういうこと! だから――」

『それはそれ、これはこれじゃ』

 与一は再び愛想よく笑い、まるで招き猫のように手を招く。

『こうして何百年して儂のことが見える人間と会えたのじゃ。もしかしたら、これは天啓なのかもしれん』

 与一は守り鏡を撫でながら、真っ直ぐにこちらを見る。

『儂の姿が見えるということは、もしやお主には弓の才があるのかもしれん』

「そんなの冗談じゃ――」

 言いかけて、ふと、守り鏡の傍に紙屑が転がっているのを見つけた。

 それは、叔父から貰ったおみくじだ。

 その中の一項目――「縁 逃れ難し」が目に入る。

「あぁ……本当になっちまった……」

 力なく、良治は項垂れるのだった。



 那須与一。

 平安時代末期の武将。弓の名手であり、源氏軍に従軍。弓の鍛錬のしすぎで、左右の腕の長さが変わってしまったと言われている。

 屋島の戦いで、扇の的を射抜いた逸話が有名。

 ――スマホで「那須与一」のことをざっと調べたところわかったのは、以上のようなことだった。調べてみると、扇の的を射抜いた話は古典か何かの教科書で読んだことがあるような気がする。

 こんなことを調べたのは他でもない。朝起きてみたら、夢だった――と思いたかったのだが、希望に反して那須与一の幽霊が枕元にご健在だったからだ。

 良治はいよいよ自分の頭を疑った。しかし、話を聞いてみれば与一は屋島の戦いに携わった武将の名をいくつも上げてきたのである。調べてみると、確かにその通りだった。良治が知らないことまで知っているとなれば、これは自分の妄想ではない。

 ……それからもう一つ、わかったことがあった。

(それにしても信じられないな。そんな有名な武将が俺に取り憑くなんて)

『うむ、儂の武功が後世まで伝わっているとは嬉しいぞ』

 良治が開店前の店のカウンター席で朝食を食べながらぼんやり思うと、それに対して与一が返事をしてくる。どうやら、彼とは頭の中でやり取りができるようだった。

(あ。でも、なんかお前って実在した人物かどうか怪しいって話だぜ?)

『なんと!? うぅむ……歴史に名を残すとはかくも難しきことかな……』

 カウンターの脇に立つ与一は、顎に手をあて首をひねる。彼から話を聞き、彼が実在したことを証明すれば有名になれるのでは……と良治は思ったが、情報源が幽霊では信じてもらえないだろうと諦めた。

(あーあ……どうやったら成仏してくれるんだろうなぁ)

『またそれを言う……冷たいのう良治は』

(お前は成仏したくないの?)

『そうじゃな……数百年の孤独の中で成仏も願ったが、それは叶わなんだ。やはり儂は弓を極めねばならん』

(弓ねぇ……いまいち興味ないんだけど)

『のう、良治は弓を射たんのか?』

 そう問われ、良治は「ないない」と手を振る。

(まさか、触ったこともないって)

『今この国に戦はないのか……。そうか……平和な時代になったのじゃなぁ』

 与一は目を細めると、ホッとしたような……でも少し悲しそうに息を吐く。

(……一応、戦いじゃなくて競技としての弓はあるけど……やったことないな)

『ほう? 何故じゃ?』

 与一は首をひねる。

(何故って……あんまり面白くなさそうだし、サッカーとかバスケとかのほうが格好いいし……)

『弓は無粋か? 自分の思い通りに矢を飛ばす感覚を知れば病みつきになると思うがのう。……ああ、儂は今にも射ちたくてたまらんぞ』

 与一はわなわなと拳を握ったり開いたりを繰り返す。未練が残って幽霊になるくらいだ……よほど弓が好きに違いない。……だが、取り憑かれた良治は弓にも触ったことがない人間。彼が満足するのは不可能にも思える。

(……そういえば)

 ふと、良治は思いつく。

(もしかしたらさ、この鏡割ったら成仏できるんじゃない?)

『そ、それはダメじゃ!』

 良治がテーブルに置いた守り鏡をコンコンと指で叩くと、与一が慌てたように両手を振る。

『その守り鏡は、儂の故郷にある那須温泉神社に祀られていたありがたい品じゃ! 割るだなんてとんでもない!』

(そうなのか。それじゃあ割ったらバチ当たりそうだな……)

 これまでオカルトなんて信じていなかったが、昨日の出来事のせいですっかり信じる側になってしまった。その原因となった与一は、良治が守り鏡を割らなかったことにホッと胸を撫で下ろしている。

(っていうか、なんでそんな大事なものお前が持ってるんだよ?)

『ん? ああ、それは儂が戦から無事に帰って来られるようにと、ある人物が預けてくれたのじゃ』

(ふーん)

 ふとその時、良治は昨日のことを思い出した。

 守り鏡を手にした時、良治は与一の声を聞いた。

 同時に、与一ではない声も聞こえた。あれは…………

(その人って……女の人?)

 与一が目を見開き、こちらを見下ろした。

『……なぜそう思う?』

(……いや、何となく)

 与一のただならぬ雰囲気に、思わず誤魔化してしまった。与一は何度か首を縦に振ると、小さく鼻から息を吐く。

『……お主の言う通り、那須温泉神社の巫女から預かったものじゃ』

 与一が目を細め、遠くを見つめる。

『妙な巫女での……女のくせに弓射ちが好きじゃった。神職故に鳥や獣は射てぬから、紙に円を描いたものを射っておった。戦に出ればそこらの武将よりも腕が立ったろうに、「人は射てぬ。的の真ん中に当てるのが楽しい」と言っておったわ』

 与一は背中を震わせ、くくくと小さく笑う。

(……もしかして、恋人?)

 そう尋ねると、与一はビクッと肩を動かす。

『まさか。巫女じゃぞ? 恋仲になれるわけがなかろう。……何を言うておる』

 なれるわけがない――ということは、諦めたのだろう。

 そして、諦めたということは……諦める前があったということだ。

 良治は先ほど守り鏡を指でつついた部分を拭くように撫で、制服の内ポケットにしまう。

『その守り鏡を返す約束は……果たせなかったがな』

(約束……ね)

 良治は頬杖をつき、目を伏せる。

(……あれ?)

 ふと、良治は気づく。

 調べた歴史によると、与一は扇の的を射抜いて戦いに勝ったはずだ。ならば、いつでも守り鏡は返せたはずだ。

 なのに返せなかったということは……。

 良治が顔を上げると、与一と目が合った。

 彼は、悲し気に微笑む。

『扇の的を射抜いて戦に勝ったのは良かったが、敵の残党の腹の虫が収まらなくてな。故郷が襲われた。……戦の世では、よくある話じゃ』

(……もしかして、お前の未練って……)

 良治は言いかけたが、与一は首を横に振る。

『言うたであろう。戦の世では……よくある話なのじゃ』

 その言葉もまた、諦めだった。

 だが、その諦めにたどり着くまで、何年、何十年……何百年費やしたのだろう。

(与一……)

 良治が声をかけた――その瞬間。

「良治! アンタいつまで食べてるの!」

 厨房から顔を出した母の怒声が響き渡った。

「え? ――やっべぇっ!」

 時間を見ると、とっくに登校時間となっている。

『良治や、慌ててどうしたのじゃ?』

(あとあと! 学校に行きがてら説明するから!)

『学校とは――』

(あーもう! 全部後でっ!)

 良治は脳内で叫びながら朝食を掻き込み、家を飛び出した。



 良治が入学した「霞高校」は、満天食堂から自転車で三十分ほどの場所にある。四月も半ばで暖かくなったが、校門奥の桜は散ってしまっていた。それでも新しい季節に相応しく、昇降口に吸い込まれる生徒の中では真新しい制服が目立っている。

 良治もその中に交じり校内に入るが、周囲の初々しい新入生とは違い、彼の顔は非常に疲れていた。

 その原因はもちろん、良治の傍らに浮かぶ那須与一の霊の仕業である。

 平安時代を生きた与一にとって現代は異国よりも奇妙な世界であり、車、ビル、人、何を見ても「あれは何じゃ」「これは何じゃ」と口やかましく質問してくるのだ。三十分の通学中ずっと脳内に興奮した声が聞こえてきたので、頭痛すらしてしまっている。

『おお! 皆同じ衣を来ておる! 何じゃ! 現代の流行りか!』

(ただの制服だって……お前ずっと歴史の移り変わりを見てたんじゃないのかよ?)

『儂は守り鏡から遠くは離れられん。鏡はずっと倉やら箱やらに仕舞われておったからのう……あまり外は見ておらんのじゃ』

(そ、そうなのか……)

 そう聞いてしまっては、良治も「うるさい」と怒る気になんてなれない。

(でもなぁ……こりゃ学校の中でも頭の中で騒がれるんだろうな……)

 その良治の予想は当たっていた。

 女子生徒のスカートを見れば――『女子があんなに肌を出して歩くとは……はしたないのう』と呆れる。

 お爺ちゃん先生を見れば――『齢六十じゃと!? あの者は仙人か!』と興奮する。

 外国から来た英会話の先生を見た時などは――『金色の髪に青い目!? お、鬼か!? 良治や! 弓を探せ! 食われるぞ!』とパニックになる始末。

 そんなこんなで、放課後には疲れ果ててしまった。高校になったらちょっとくらい真面目に勉強しよう――なんてことも多少は考えていたが、彼のおかげで授業はさっぱり頭に入ってこない。

『いやぁ、愉快愉快! よもや我が国がこうも変わるとはのう! 儂が生きた時代にはなかったものばかりじゃ!』

 良治と裏腹に、一日「現代観光」をした与一はご満悦である。良治は恨み言や嫌味を言う気力もなく、「よかったな……」と疲れたため息を漏らすだけだ。

『良治や。あとは何をするのじゃ?』

(放課後は部活見学するんだよ)

 荷物を入れたリュックを背負った良治は、猫背気味に教室を後にする。今日から、各部活動の体験入部が始まることになっていた。廊下には新入部員を獲得しようと先輩らがうろついているし、クラスメイトの面々も数人で固まって校庭や体育館へと動き始めている。

『ぶかつ、とは――』

(運動とか芸術とか、好きなことを学ぶ集まりのこと)

 聞かれるだろうと予想していたことに食い気味で答える。さすがに一日中頭の中で質問攻めにされれば嫌でも対応できるようになるというものだ。

『ほうほう。良治は何を学ぶのじゃ? 読み書きはもうできるのだろう? 和歌か?』

(俺は中学の時からサッカー部だよ)

『さっかあ?』

(あれだよ)

 昇降口を出たところで、良治は校庭を顎で指した。そこではジャージ姿の生徒たちがボールを蹴っている。脇には自分と同じ一年生らしい生徒が早くも集まっていた。目を凝らして見れば、中学での試合で見た顔がちらほらいる。

『なるほど。さっかーとは蹴鞠のことか。儂も覚えがあるぞ』

(え? マジで?)

 蹴鞠とサッカーじゃ別物だが、それでも初めて与一との共通点を見つけられたような気がした。しかし彼の表情は懐かしむようなものではなく、何となく苦みばしっている。

『貴族と仲良うなるために覚えたのじゃ。武勲立てたのはいいが、位が上がるとそういう交流も必要でのう。身体を動かすのは好きじゃが、貴族の相手は疲れる』

(接待ゴルフみたいなものか)

『ごるふはわからぬが……そう、接待じゃ。お主のように好きなら楽しめたろうに』

(え? あー、うん、好き……ねぇ……)

 与一に代わり、今度は良治が苦笑いをする。

『なんじゃ、好かぬのか?』

(いや、好きか嫌いかで言ったら好きだけどさ……)

 首を傾げる与一に向かって、良治は肩を竦めて見せる。

(俺は別に真面目な部員じゃないよ。霞高校だって別に強豪じゃないし)

『なら何故やるのじゃ?』

(んー……女子にモテたいから……?)

 思わず苦笑いを浮かべてしまう。……そう、もともと中学でサッカー部に入ったのは、マネージャーが可愛かったからとか、試合で活躍すればキャーキャー言われると思ったからとか、その程度の理由だ。

 案の定、与一は豪快に笑った。

『阿呆じゃのう! 蹴鞠で女子の心が掴めるものか!』

(いや、わかってるよ)

『女子の心を掴むには和歌じゃ和歌! 良い歌を詠めば返事をくれるぞ!』

(いや、今時それは――なくはないか。モテたくてギター始めるやつもいるし)

 案外、男の阿呆さ加減は、平安も現代も変わりないのかもしれない――と思った。そう考えると、この平安幽霊にも妙な親近感が湧く。

 この男も……もしかしたら、那須神社の巫女に四苦八苦して和歌を詠んだことがあるのかもしれない。

(まっ、とにかく見ててみろよ。蹴鞠よりは激しくて楽しいと思うぜ)

 そう言いつつ、良治はグラウンドに向かって足を進める。あとは簡単だ。適当な先輩に「見学したいです」って言えばいい。経験者とかレギュラーだったとか言えば歓迎してくれるはずだ。

 しかし。

『…………良治や』

 振り返ると、与一が校庭に続く道の真ん中でぼうっと立っていた。

(おい。何してんだよ?)

 良治は声をかけるが、彼の視線はこちらではなく、校庭の隅へと向けられている。

『あれは道場ではないのか……?』

(なに?)

『道場じゃ! 弓を射つ道場があるぞ!』

 与一が校庭の隅を指さす。そこには、白壁に瓦をしいた建物があった。しかしその外観は古く、塀には汚れが目立ち、屋根は瓦が割れている部分が何か所かある。どう見たって使われていない。

(弓道場ってやつか? でも、この学校に弓道部なんかなかったよな……)

 入学式での部活紹介を思い出す。全部活が体育館の壇上で新入生に紹介したのだ。その中で、「弓道」なんて言葉は一回も出てこなかったはずだ。

『弓道……? 弓ではないのか?』

(いや弓だけど……なんか……的に当てるもんだよ。……あんま詳しくねーけど)

『的? それは鳥か? 獣か?』

(いや、たぶん……なんか丸いやつ)

『丸い……やつ……』

 与一の目の色が変わる。驚愕と郷愁が入り混じったような、そんな瞳の色だ。寒さも知らぬはずの彼の身体が、僅かに震えている。

『あそこに行ってみるぞ良治!』

(お、おい待てって! そこは使われてねぇよ!)

『なら尚更好都合じゃ!』

(ふざけんな! もう体験入部が始まるんだから!)

 良治は叫ぶが、与一は勝手に弓道場を見つめたまま動かない。

「……もう好きにしろよ」

 良治はポケットに両手を突っ込むと、一人でサッカー部の元へと歩こうとする。

(……別に弓道とか興味ないし……)

 そうだ。元々自分はサッカー部に入るつもりだったのだ。――今日一日、一緒にいたり、身の上話を聞いてしまったおかげで妙に親しんでしまったが、そもそも彼は幽霊という得体の知れない存在である。そんな存在に振り回されるなんてゴメンだ。

(……与一! 俺はサッカー部に行くからな!)

 再度声をかけるが、返事はない。

(もう知らないからな!)

 良治はサッカー部に向かって足を進める。

 ――が、ふいに彼が未練を語る時の、憂いを帯びた瞳を思い出してしまった。

「――――ああ、もう!」

 良治は、くるりと弓道場の方に向き直る。

(わかったよ! 行ってやるよ!)



 黒ずんだ木製の引き戸には、これまた黒ずんだ『霞高校 弓道部道場』と書かれたプレートが貼り付けられていた。扉に手をかけてみると、固い感触が伝わってくる。しかし鍵がかかっているわけではなく、ただ単に古いだけのようだ。力を入れると、ガタガタと軋みながらドアが開く。

「……すみませーん……」

 扉から顔を入れて呼びかけるが、返事はない。

 内部の床は板張りで、数メートルの幅を持って奥に伸びている。入って右手の壁には神棚。左手側には屋根がなく、開放的である。そちらの先には白い塀があり、その麓には土が盛られ、円形の的が置かれていた。

 丁度、縁側で庭を見るような造りである。近代的な学校の中で急に日本建築な雰囲気に変わったので、良治は奇妙な感覚を覚えた。

「なんか手入れされてるけど……誰もいないみたいだな」

 上がり框で靴を脱ぎ、板張りの上に立つ。誰もいないことは確かだが、不思議と床に埃は積もっていないようだ。

『良治……あの的を見よ』

 与一が、弓道場の奥にある的を指さす。円形の木枠に紙を貼り、そこに円を描いた弓道の的だ。

『……あの巫女の弓射ちにそっくりの的じゃ』

 与一は目を細め、小さく笑みを浮かべる。

 不思議な話だ。ただ弓射ちが好きだったという巫女が考えた的が、現代でも使われているなんて。もしかしたら、その巫女が弓道の元祖かも……と良治は思ったが、すぐに違うと気づく。

 彼女は、戦渦に巻き込まれたのだ。

『良治! 弓があるぞ!』

 良治は与一の声で我に返った。彼はずかずかと道場内に上がり込み、そして、壁に立てかけられた弓を見て「ほぅ……」と息を漏らした。

『これが現代の弓か……木や竹ではない……何が材料かわからぬが、良い弓じゃ』

 与一は弓を前に、瞳を輝かせている。弓に向かって伸ばした手は小刻みに震えていた。まるで最愛の恋人と再会したように。

『何百年ぶりか……また射てるのか……』

 さっきまで体験入部に行けなかった文句を言おうとしていたが、ここまで感激されてはそんな気も失せてしまった。良治は口先をとがらせ、ポケットに手を突っ込んで押し黙る。

 だが。

『…………そう、か……』

 与一の手が、するりと弓をすり抜けた。良治は目を見開く。……そうだ。彼は幽霊。壁すら通り抜けるのだから、弓に触れるはずがない。

『なんと……ご無体な……』

 与一は俯き、両腕をだらりと下げる。左右で長さの違う腕が揺れた。その指先に、まるで力は入っていない。握りしめるような気力すら、ないのかもしれなかった。

(さすがに……可哀そうだな……)

 良治は、俯く与一から目を背けた。確かに彼には迷惑をかけられっぱなしだったが、これには同情してしまう。何百年も孤独に過ごし、やっと目の前に懐かしい弓があるというのに触れられないなんて……。

 見てられない。

『――――そうじゃっ!』

 だが、突然与一が顔を上げた。その声量に良治がビクリと背中を震わせると、与一がずいっと顔を近づけてくる。

『良治や! お主の身体を貸してくれんか!?』

(はぁ!?)

 とんでもない提案に、良治は思わず声を上げる。だが、答えはすぐに出た。

(ダメに決まってるだろ! 幽霊に身体貸すとか、モロ死亡フラグじゃねぇか!)

『そこを何とか! この通り! この通りじゃ!』

(ダメだダメ! 絶対に無理!)

 激しく拒絶するが、それ以上の勢いで与一は迫ってくる。

『必ず返す! 必ずじゃ! 約束する! 男に二言はない!』

(そんなこと言われたって――)

『必ず守る! 信用してくれ!』

(し、信用とか、そういうんじゃなくて……)

『ならばその守り鏡に誓おう! 那須与一の魂を持って誓おう!』

「……っ! わかった! わかったよ! わかったから止めろ!」

 根負けして叫んだ瞬間、与一の表情がぱぁと明るくなった。

「あーもうマジかよ……言っとくけど、少しだぞ。貸すだけだからな? もし俺の身体乗っ取ろうとしたら、あの鏡どこかのお祓い所に送りつけるからな」

『良治や……』

 与一は目を見開く。そして、その場に勢いよく座って胡坐をかいた。身に着けた甲冑の金具がガシャリと鳴る。そして与一は両膝に拳を置き、深々と頭を下げた。

『かたじけない……っ! 感謝するぞ……っ!』

「……いいから早くしろよ、ってやり方知らないけど」

 良治がそっぽを向くと、与一は立ち上がり、肩に触れてきた。触れられた感触はないのに、冷風が当たったような寒気がする。そして次の瞬間、自分の手が自分のものではなくなったような、奇妙な感覚が訪れた。

(なんだこれ……手を掴まれて動かされてるような感じだ……)

 感覚は妙だが、抗おうとすればできそうな気がした。それだけで、とりあえず気味の悪さはずいぶん和らぐ。

(とりあえず……どうすればいいんだ? この弓、弦とか張ってないけど)

『うむ。儂に任せておけ。素材は違えども、やり方は昔とそう変わっておらぬ』

 そう言うと良治の手が弓を掴んだ。そして弓の先を壁に押し付け、思いっきりしならせる。そんなに力を入れたら弓が折れるんじゃ――と思ったが、そうはならず、無事に弦を張って弓の形にすることができた。

(これが弓か……意外と軽いのな)

 二メートルほどの長さだというのに、重量はさほど感じない。弓の下方には「肥後蘇山」という刻印が施されていた。

『うむ……やはり良い弓じゃ。……あとは……これが矢か』

 木を組み合わせた傘立てのようなものに、矢が数本入っていた。それを数本握りしめると、良治の身体は勝手に道場の端へと向かう。その先にあるのは、庭のような開けた空間。その向こうには、立てかけられた円形の的がある。

(……的、遠くないか? 三十メートルくらいあるぞ?)

『何を言う。近すぎるぐらいじゃ。……まぁ、数百年ぶりの肩慣らしには丁度か』

 良治の身体が弓を構えた。矢を番え、弦を引く。なんだか弦が当たりそうで怖く、首は自然と弓から離れた。しかし、弓を持つ手は一切ブレない。

 時間が止まったように感じた。

 弓を構えている時間は、一秒か二秒だろうに。極度の集中は時が凍り付いたように感じる。

 守り鏡を忍ばせた胸が熱い。那須与一の生涯が、一気に胸の中に流れ込んでくるかのようだった。

 静かな神社の御神木に括り付けたられた紙の的。

 矢を引く右手が離れた。

 弦によって弾かれた矢は、風を裂く音を立てて飛ぶ。その軌跡が、まるでスローモーションのように見えた。早く鋭く飛ぶはずの矢が、ゆっくりと的に向かっていく。良治の瞳が、ひたすらその姿を追った。

 既に、命中することは確信している。

 今は、氷のような集中から放たれた矢の行方をじっと見ていたい。

 矢は、まるで吸い込まれるように的の中心に突き刺さる。

 パン――という、風船が割れるような音を立て、的の紙が破れた。

(お前……すごいな)

 いつの間にか息を止めていた良治は、その手ごたえを与一ごしに感じ、思わず息をつく。

(的の中心に当たるのは……気持ちがいいな……これが弓道か)

『……良治……お主……』

 与一が何か言おうとする、

 ――その時だ。

「……すごい……」

 ふと、扉の方から声がした。

 振り返ると、一人の女子生徒がこちらを見て目を丸くしている。

(やばっ、誰か来た!)

 命中の余韻に浸れたのもつかの間、身体が焦りで一気に熱くなる。

「す、すいません! ちょっと好奇心で入っちゃったっていうか――」

 言い訳を考えるが、苦しい。勝手に弓を射ったのだ。ちょっとの好奇心どころではない。

「君……っ!」

 女子生徒が声を上げ、靴を脱ぎ捨てこちらに駆けてくる。

「あ、あの本当すいません! もう勝手なこと――」

 とにかく謝ろうと頭を下げる良治。

 そんな良治の手を、駆け寄ってきた女子生徒がしっかり掴んだ。

「え?」

 良治が顔を上げると、目の前には大きな瞳を輝かせた女子生徒がいた。

「君! 弓道部に入らない!?」