帝都フォークロア・コレクターズ | メディアワークス文庫 1PAGE




 我々の不思議の園は荒れました。一筋の径は雑草におおわれて、もはやプロムナードに適しなくなりました。

(柳田国男「熊谷弥惣左衛門の話」より)



 人はこれを英国風にFolkloreなどと呼んでいる。一部にはこれを民俗学と唱える者もあるが、はたして学であるか否かは実はまだ裁決せられていない。今後の成績によってたぶん「学」といいうるだろうと思うだけである。

(柳田国男「明治大正史 世相篇」より)






「『――大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといへり』……はい、そこまで」

 試験官の女性の制止の声に、元カフェ店員の白木静は鉛筆を持つ右手を止めた。左手の帳面サイズの下敷きには何枚かの原稿用紙が金具で留められ、女性が朗読していた民話らしき文章が――手元の本には「遠野物語」と題されている――「はい、そこまで」の直前の部分まで記録されている。

 急いで書いていたので崩れている字もあるにはあったが、決して読めなくはないはずだ。自分で自分を励ますのと同時に、試験官の女性が「見せてください」と手を出したので、静は原稿用紙を下敷きごと渡し、今度こそ上手くいきますように、と願った。今度こそ職が見つかりますように。

 事の起こりは十日前。静の勤め先であり住み込み先の文芸カフェ「赤インキ」のマスターが、いきなり当面の閉店を告げたのだ。昨夏の台風の暴風雨や浸水で傷んだ内装を直すついでに、カフェスペースを全面的に改装するから、とのことだった。改装するのは一階のカフェまわりだけだから二階の下宿を出ていく必要はないというのは助かったが、問題は改装期間中の食い扶持であった。カフェが閉まっていても家賃は発生するし、生活費だって必要だ。

 時は大正六年、西暦で言うと一九一七年の秋。既に自動車や電話や映画が珍しいものではなくなり、鉄道網が全国を覆い、女性の社会進出や参政権獲得が声高に叫ばれるエネルギッシュな時代である。三年前に欧州に端を発した世界大戦や、露西亜で進行中の革命運動など、世界的にはきな臭い話題もあるにはあったが、とりあえず、この帝都・東京は発展と繁栄を続けている。少なくとも帝都市民にはそう見えている。

 で、それにつれて働き口もどんどん増えているのだが、だからといって仕事が余っているわけではないということを、静は身をもって知った。「子供を働かせていると思われたくないんだよ」「せめてもうちょっと女らしい美人なら」「欲しいのは男手なんだよなあ」……。方々で聞かされた言葉が、思い出したくもないのに蘇る。技術や経験が足りないと言われれば納得もするが、童顔なのも背が低いのも女子であることも好きで選んだ属性ではない。ままならない悔しさを抱えて帰路についていた時、神田川の袂であの張り紙を見かけたのだ。

 曰く、「『彼誰会』、読ミ書キ堪能ナル人求ム。就労期間不定期(短期)、日当二円、要採用試験。志望者ハ毎週金曜日午後七時ニ銀座『炉端亭』迄」。

 必要最低限以下の説明だな、というのが静の受けた第一印象だった。「彼誰会」がどういう団体なのか、何の仕事を求めているのか、これだけではさっぱり分からない。相当怪しい求人だったが、それを補ってなお「日当二円」は魅力的だった。一般的な仕事の倍……には届かないけれど、一・五倍くらいの額である。「短期」でそれだけ稼げるのなら多少怪しくてもお釣りがくる。条件らしきものは「読ミ書キ堪能ナル人求ム」のみ。幼少以来の家庭教育と、文芸カフェという勤め先のおかげで、読み書きは一応心得ている。この際駄目元で申し込んでみてもいいのでは。

 というわけで本日、静は銀座の「炉端亭」を訪れていた。ガラが悪そうだったり胡散臭い場所だったりしたら逃げ帰ろうと思っていたが、炉端亭はガラが悪いどころか、目抜き通りにそびえる一流高級洋食店であり、しかも試験会場は貸切の個室であった。

 目の前の丸テーブルには染み一つないテーブルクロスが掛けられ、椅子のクッションも敷物もふっかふか。部屋の隅に立つランプには豪奢な笠、飾り窓に掛かったカーテンは上品な赤黒。調度品も照明も壁紙も、静の勤める……ではない、勤めていた、学生や庶民向けのカフェとは何もかも質が違う。テーブルに載っているのは水の入ったグラスと水差しだけだったが、この部屋だと水ですら高級に見える。

 採用試験を受けに来たのは自分一人だけで、試験内容は試験官の読み上げる文章を立ったまま記録するというもの。いずれも予想外だったが、一番驚いたのは、「里魅ロウ子」と名乗った試験官が若い女性で、しかも凜々しい美人であることだった。

 年齢は二十代前半か半ば頃。しなやかで引き締まった長身で、静より頭一・五個分背が高い。女性的な体型を強調するようなぴったりしたハイネックのブラウスとベストを纏い、細身の黒のスカートを穿いている。肩口に届くほどの長さの髪はやわらかに広がり、切れ長の瞳は鋭く、睫毛は長く、小さな唇はうっすらと紅い。

 この若さで試験官を任されるということは、よほど有能な女性に違いない。窓際にもたれかかって静の書き付けた文章に目を通すロウ子を見て、静は立ち尽くしたままそんなことを思い、自分とは大違いだな、とも思った。

 背は低く、頭が大きく、目も大きくて眉が太く、髪は短め。前髪は眉に届くほどの長さで、左右の耳の手前に後れ毛が房となって垂れており、後ろ髪は襟足に合わせて切り揃えられている。実際は十五歳なのだが、童顔と小柄な背丈のおかげで十二歳前後に見られることの方が多いのが、白木静という人間であった。身につけているのは白いブラウスに黒のズボンにサスペンダー。カフェの制服という名の一張羅である。

 なお、店に入って「彼誰会の採用試験を受けに」と伝えたら、いきなりここに連れてこられ、名前を聞かれるなり試験が始まってしまったので、「彼誰会」が何で、どういう職種を募集しているのかは、依然さっぱり分からないままだ。試験内容からすると速記者でも探しているのだろうかと推測していると、ロウ子がふと思い出したように顔を上げて言った。

「ああ、すみません。座っていいですよ」

「は、はい!」

 上ずった声が出てしまい、静は赤面した。赤い顔を隠すように慌てて着席すると、ロウ子はテーブルの傍らに立ち、静に視線を向けて口を開いた。

「大変結構です。字は読みやすく書けています。勤め先のカフェの休業期間中だけ働きたいという希望も問題ありません」

「あ、ありがとうございます! じゃあ採用していただけ――」

「しかし、白木様は少々……その、小さいですね」

 静が期待に顔を上げるのと同時に、ロウ子が眉根を寄せてぼそりと言った。一応言葉を選んでくれたようだが、それでも静を口ごもらせるには充分だった。体格の貧弱さ、幼さについては、言われるまでもなく自覚している。

「……業務の詳細については、採用してからでないと申し上げられないのですが、この仕事、体力があるに越したことはないのです。貴方が女性だから、男性ならば、という話ではありませんが、自分の身は自分で守れることが望ましい。貴方の速記の技量は優秀ですが、《先生》は未来のある少女を危険な目に遭わせることを望まれません」

「せんせい?」

「この仕事の依頼主であり、出資者にあたるお方です。私はその方の私設秘書であり、『彼誰会』は《先生》が私費で運営しておられる組織です。これ以上は、関係者にしかお伝えしていませんが、貴方の安全のためにも今回は――えっ?」

 慰めようとしていたロウ子が唐突に息を呑み、そして静にいきなり顔を近付けた。

「ひゃっ?」

 静の声が裏返り、その体がびくんと固まる。カフェの客にからかわれたことくらいはあるが、こんな風に美人に至近距離からまじまじ見つめられたのは初めてだ。と、ロウ子は静の顔に――どうやら左右の耳に――視線を向け、興味深げに唸った。

「白木様。貴方は、左右の耳朶に穴のような凹みがあるのですね」

「じだ? ああ、耳たぶのことですか? はい、生まれつき凹んでいるんです……。別に、耳飾りを付けたとか、穴を開けたわけじゃないんですけど」

「なら――ならば、もしかして、五指の第一関節だけが曲げられますか?」

「えっ? ええ、はい。こんな風に――って、どうしてそのことを?」

 ロウ子の真剣な眼差しに釣り込まれてうなずき、実際にやってみせた後、静は思わず問い返していた。指の先だけを曲げられるというのは、静が唯一持つ、そして心底役に立たない特技である。珍しいといえば珍しい技能だが、特に役に立たない上に地味なので、人に見せたところで、へー、と言われるのが関の山だ。

「物心付いた頃からできたんですけど……でも、これが一体?」

 指の第一関節を曲げたり伸ばしたりしながら、静がおずおず問いかける。だがロウ子はそれには答えず、真面目な面持ちのまま背を伸ばし、「《先生》に相談して参ります。少々お待ちください」と告げ、面接用の個室を後にした。

 閉まった戸の向こうでロウ子の足音が響き、すぐ隣の部屋の戸が開く音、「失礼します」とロウ子が告げる声が聞こえる。どうやら《先生》とやらは隣の部屋にいるようだ。興味を引かれた静は、テーブル上のグラスの水を飲み干し、空にしたグラスを壁に付けて耳を当ててみた。

「……希少な事例で……手元で観察を……」

「……ふむ……ならば……」

「……技能面でも問題は……多少の危険は……」

「……なるほど……」

 ロウ子らしき女性の声と男性の相槌とが交互に耳に届く。さすが高級店だけあって壁が分厚いのだろう、具体的に何を話しているのかはさっぱり分からない。分かったことと言えば《先生》が壮年の男性らしいということくらいだが、漏れ聞こえる言葉は妙に不穏で、静はふと不安を覚えた。

 もしかして、いや、もしかしなくても、この仕事は危ないのではないかしら。自分は今、当面の生活費欲しさに、何かとんでもないところに首だか足だかを突っ込もうとしているのではないだろうか。雇い主が姿を見せず名乗らない時点で怪しいし……。

 などと考えているうちに、壁越しに「失礼します」の声とドアの開閉音が響く。ロウ子が隣の部屋を出たようだ。静は慌てて席に戻り、グラスをテーブルに戻して腕を組んだ。ドアが開き、ロウ子が再び姿を見せる。

「お待たせしました。採用とのことです」

「まず詳し――えっ?」

 高給の仕事にありつけるという嬉しさと安堵と、そして捨てきれない不安感と。相反する感情がないまぜになり、それはもう間抜けな声が出る。そのおかしな反応を見て、こいつはほんとに大丈夫なのかと訝ったのか、ロウ子は一瞬眉をひそめたが、すぐに平静な表情に戻った。

「おめでとうございます。今後ともよろしくお願いいたします、白木静様。では名前と連絡先をここへ」

「あ。はい。白木静、住所は神田の……と。それで、ええと、里魅ロウ子様」

「ロウ子で結構ですよ。これからは同僚ですから。何でしょうか?」

「その……彼誰会ってのは何で、どういう仕事なんですか?」

 言われるがままに連絡先を書きながら、静はようやくその質問を――本来なら一番初めに確認しておくべき問いを――口にした。採用された以上、それを聞いてもいいはずなのだ。と、ロウ子は静を見返し、よく通る声できっぱりと告げた。

「百年使える妖怪事典を作るのです」

「え。よ……妖怪……ですか?」

 気が付くと静の口から間抜けな声が漏れていた。

 仮にも試験官相手にこの反応はまずいと分かってはいたが、困惑するのは止められなかった。このご時世に「妖怪」って? 本気ですかと静はロウ子に目で尋ねたが、連絡先を受け取ったロウ子は大真面目な顔で続けた。

「はい、妖怪です。具体的には、調査地へ赴き、その地に伝承されている妖怪の情報について、学術的な聞き取り調査を行っていただきます。学問の分野で言うとFolkloreですね」

「ふぉ、ふぉーくろあ?」

「民間の人々の習慣や伝承などを探求する学問のことです。本邦では新しい分野なので、まだ訳語が定まっていないのです。《先生》は『民俗学』と呼んでおられますが、その他、俚伝学、俗説学、土俗学、民間伝承学などとも呼ばれており」

「あの、すみません。学問の名前はともかく、確認したいんですけど……要するに、『妖怪』を調べるんですよね? で、妖怪って……お化けのことですよね?」

「その通りです。『もののけ』、『百鬼夜行』などとも言いますね。どういった妖怪が、どの地域に、どう伝えられているのか。その実態を調べ、収集するのが、私設の妖怪調査隊、『彼誰会』の目的です。研究対象とするために、そして日本初の、末永く使える妖怪事典の編纂のために……。いわゆるお化けの他にも、説明のつかない不思議な現象や不思議な能力なども収集対象となります」

 再度きっぱり告げるロウ子である。その顔立ちと声は依然凜々しいものではあったが、見惚れたり憧れたりする余裕は静にはなかった。

 別段妖怪が嫌いなわけではない。子供の頃はそんな話を聞かせてもらうのが好きだったし、古典的な怪談を扱った現代の小説、例えば小泉八雲の「怪談」や夏目漱石の「夢十夜」などは楽しく読んだし、泉鏡花の幻想文学は大好きだ。ついでに言うと、人と話すのは嫌いではないので、聞き取り調査への抵抗もない。

 だが、妖怪を真面目に調べろと言われると、困惑するのも無理はなかった。迷信の横行していた江戸時代ならいざしらず、今は大正の六年である。日本中に鉄道が走って電灯が灯り、電話網が整備された、科学と文明の時代である。基本的に文学しか読まない静でも、東洋大学の井上円了博士が次々にその手の迷信を打破し、人気を博したことくらいは知っていた。

 古いもの。馬鹿馬鹿しいもの。価値のないもの。ありえないもの。無知な人々が信じるもの……。今日の妖怪への一般的な評価は、せいぜいそんなところだろうし、静の持つ印象だって同様だ。なのに、そんなものを、私費を投じて調べさせる? それに一体何の意味があるのか、静にはさっぱり分からなかった。

「妖怪のことを古臭くて無意味な迷信と思われているようですね。そんなものを調べて何になるのだ、と」

「ええまあ……って、すみません! 今のは」

「構いませんよ。そう反応されるのが当然です。……しかし、これは決して無駄な仕事ではないのです。この調査は、学術的にのみならず、我が国にとって極めて重要なものなのですから」

 ロウ子が意味ありげな言葉を口にする。国にとって重要? 静はその意味を問おうとしたが、ロウ子は既に話題を移していた。

「妖怪の記録を収集し、知見を深めることの意義については、仕事の中で『彼誰会』の同僚の方が聞かせてくださることでしょう。幸い、次の調査は明日からです」

「明日?」

「はい。朝八時に東京駅の北口に来てください。そこで同僚と合流していただき、調査先へ向かっていただきます。行き先などはそこで説明いたします。切符や必要な物品はこちらで用意しますが、身の回りの物は自分で準備を。これは支度金です」

 驚く静にロウ子が歩み寄り、いつの間に用意していたのか、支度金の入った封筒を差し出す。静がそれを受け取ると、ロウ子はドアを開け、一礼した。

「では、明日よろしくお願いします。私はこの後切符の手配などがありますので」

「は、はい……。お手数をお掛けします」

 ロウ子に促されるままに退室する静。流されてしまったなあと反省したのは、軽やかに階段を下りきった後だった。せめて《先生》の名前くらいは聞いておきたかったけれど……。内心でぼやきつつ洋食店を出ようとすると、店主らしき中年男性がにこやかに声を掛けてきた。

「閣下にはいつもご贔屓いただきまして、誠にありがとうございます。今後ともお引き立てのほどを、よろしくお願いいたします」

「え? いえ、どういたしまして? 『閣下』って、あの、個室の《先生》ですか?」

「他にどなたがいらっしゃるのです?」

「で、ですよね。というか、あの方ってどなたです?」

「……は?」

 静の問いに店主が面食らって目を瞬く。まずい質問だったかと静は慌てたが、幸い店主は冗談と理解してくれたようで、「またまた」と笑い、驚くべきことを口にした。

「どなたも何も。貴族院の書記官長殿ではありませんか」

「きぞくいんっ?」

 裏返った静の声が静謐な店内に響き渡った。ウエイターや客の険しい視線に、静は慌てて頭を下げ、改めて店主に向き直って声をひそめた。

「き――貴族院って、それってあの、国の、議会の……あの貴族院ですか?」

「ええ。衆議院ではない方の貴族院です」

「で、ですよね……? しかも書記官長って、確か、一番偉い人ですよね……?」

「もちろんです。色々と学問も修めておられる、それはもう偉い方でございますよ。閣下は、毎週金曜は決まって私設の秘書様と一緒に当店を訪れ、夕食を召し上がってくださるのです。大事な方との会合や面接にも使っていただきまして、私どもとしてはありがたい限りで……。では、どうか今後ともご贔屓に」

 笑みを浮かべた店主が深々と頭を下げる。静は、どうも、とだけ言って店を出ると、街灯に照らされた石畳の道を歩きながら考えた。いかにも上流階級な出で立ちの男女が行き交う夜の銀座は、この時間でも明るいので歩きやすい。

 今の店主の口ぶりには、嘘や冗談を言っている気配はまるでなかった。話の内容は信じていいのだろうが……それにしたって、まさか貴族院の書記官長とは! 書記官長と言ったら、国を動かす官僚の中でも最上位の存在であり、全ての文書を閲覧できる立場のはずだ。そんな、見ようと思えば何でも見られる大物が、あからさまに無意味なお化けの調査に私費を投じたりするだろうか?

 するわけない! 静は心の中で言い切った。

 おそらく妖怪事典云々というのはあくまで建前であり、その裏には何らかの真意が――静程度には想像もできない深慮遠謀が隠されているに違いない。「彼誰会」なる組織も、実際は国の秘密機関か諜報組織という可能性もある。と言うかそうとしか思えない。私費で運営しているというのが本当だとしても、妖怪の調査以外の目的は絶対にあるはずだ。そこまで考えて身震いした後、静は受け取ったばかりの支度金の封筒、そして給料に思いを馳せ、溜息を吐いた。


◇◇◇


 東海道本線の起点である東京駅は、大正三年に開業したばかりの新しい駅である。南北に二つのドームを担いだ赤レンガ製の巨大な建物は、帝都東京の玄関口の顔として市民に広く親しまれ、また、広く利用されていた。ここでは帝都に出てくる者と出ていく者、そしてそれらを迎える者達が常に行き交っており、朝から晩まで喧騒が絶えることはない。

 上京してきて初めてこの光景を見た時は、駅の規模にも驚いたけど、それより人の数に感動したっけ。あと、待ち人達の燻らせる煙草の煙と吸い殻の多さにも。

 一年と少し前のことを回想しながら、静は待ち合わせ場所である北口で足を止め、己の姿を再度見た。いつものブラウスの上に明るい茶色のブレザーを重ね、同じ色のハンチングを被り、肩には平べったい鞄を掛けている。ブラウスと鞄以外はいずれも昨夜に支度金で買った質流れ品だ。

 昨日の別れ際のロウ子の言葉からすると、ロウ子以外の同僚も来るらしい。視界には依然数えきれない老若男女が映っていたが、ロウ子の姿は見当たらず、同僚らしき者も同じくだ。

「ロウ子さん、時間に遅れるような人には見えなかったけど……」

「待たせた。白木静君だな」

 唐突に、低い声が静の後ろから投げかけられた。え? 名前を呼ばれた静が反射的に振り向くと、黒のマントに詰め襟学生服姿の若者が立っていた。

 年の頃は二十歳かその少し前。まっすぐ通った鼻筋と狭い眉間はいかにも生真面目そうで、そして端麗であった。西洋人の血が入っているようで、しなやかに引き締まった体躯は日本人離れした長身かつ頭身で、肌は白く、学帽の下の短い髪は銀色だ。両手には白い手袋を着け、子供一人は入れそうな大きなトランクを提げている。

「人違いなら申し訳ないので、確認させてほしいのだが……君は、昨日里魅女史の面接を受け、彼誰会に採用された白木静君ではないのか?」

 もともと狭い眉間を寄せながら、マントの若者が静を見下ろし問いかける。はきはきした早口で告げられた言葉に、静は目を瞬いた。里魅女史、彼誰会、それに自分の名前まで知っているということは、この人が同僚?

「はい。白木静は、わたしですけど」

「そうか、良かった。俺は石神射理也だ。射理也と呼んでくれ。髪や肌の色で誤解されがちだが、君と同じ日本人だ。よろしく頼む」

 流暢な日本語による事務的な挨拶とともに、石神射理也と名乗った若者が手袋を着けた右手を差し出す。静がおずおずと手を握ると、射理也は怪訝そうに目を細めた。

「君は……女子だな?」

「え? まあ、見ての通り女ですけど……。ロウ子さんから聞かれてませんでした?」

「かの女史から聞いていたのは、君の年恰好だけだ。……ああ、そうか、女子か」

 射理也がさらにいっそう眉根を寄せて溜息を吐き、視線を逸らす。あからさまに示された拒否感に、静は少し戸惑い、そして納得した。

 硬派な軍人や役人には、女性が仕事をすること自体を好ましく思わない人もまだまだ多いが、この同僚もどうやらその手合いらしい。慣れてはいるけど苦手なタイプだ。静が不安を押し殺しながら「よろしくお願いします」と頭を下げると、射理也はぞんざいにうなずき、大時計を見上げた。

「聞きたいことも色々あろうが、続きは列車の中だ。急がないと汽車が出てしまう」

「分かりました……って、え? ロウ子さんは来られないんですか?」

「里魅女史? 彼女は《先生》の私設秘書故、基本的に東京を離れることはない。同行者はもう一人いて、君の先輩にあたる男だが――」

 苦虫を噛み潰したような顔をする射理也。「もう一人」とは仲が悪いようだ。

「そいつは、わけあって遅れていてな。下宿に迎えに行ったら不在だったので、切符を置き、伝言を残してきた。道中のどこかで、こちらに追いついてもらう手はずになっている。さあ急ぐぞ。早めに乗り場に入っておきたい」

「ま、待ってくださいよ……! 足の長さが違うんですから! というかあの、行くって結局どこに行くんです? わたし、まだ何も聞かされていないんですが……」

 歩調を速める射理也の後を追いながら、静が慌てて問いかける。だが、声が雑踏にかき消されて届かなかったのか、あるいはよほど女嫌いなのか、射理也が振り向くことはなく、結局、静は行き先も分からないまま改札をくぐることになったのだった。


◇◇◇


 がたんごとんという振動と、気まずい沈黙とが延々と続く。

 向かい合わせの四人掛けの席を取れて良かったと思ったけれど、これなら別の席に座った方がましだったかも。静は内心で吐露し、向かいの席に目をやった。

 正面の席では、トランクを傍らに置いた射理也が長い足を組み、持参した洋書を開いている。カバーに記されているのは静には読めない流麗な横文字だ。射理也は本を読む時は眼鏡を掛ける習慣なのか、すっと通った鼻梁の上には、胸ポケットから取り出した小さな眼鏡が乗っかっていた。レンズ越しに見える射理也の瞳に蒼が少し混じっていることに静は気付き、「そんなことより」と自分を諭した。

 駅での慌ただしい自己紹介からしばらく経ったのに、まだ仕事の内容も行き先も期間も射理也の素性も……要するに何も聞けていないのだ。それでなくても、ずっと黙ったままというのは居心地が悪い。何か話しかけるきっかけはないものか。射理也を見据えた静が会話の糸口を必死に探していると、その視線に感づいたのか、マント姿の青年は手元の頁から顔を上げ、不機嫌そうに尋ねた。

「どうかしたのか」

「えっ? いや、えーと、その、石神さんは……」

「俺のことなら射理也でいいと言ったろう」

「いえ、それは気が引けるのでさん付けで呼ばせてもらいますが……ええと、射理也さんは――そう、本! 本はよく読まれるんですか?」

「嗜む程度だがな。君も読むのか?」

「え、ええ、はい! 幻想文学の泉鏡花先生や夏目漱石先生、最近だと芥川龍之介先生も……。射理也さんは何を?」

「あいにく俺は文学は読まない。専ら実用書――兵法や戦略の手引き書や、記録文の類だ。後は、《先生》に教えていただいた歴史書なども」

「《先生》と言うのは、あの貴族院の――」

「しっ」

「え?」

「《先生》には敵も多いのだ。《先生》の目的はあくまで学術的なものだが、公的な身分にあるお方が私費で調査員を動かしておられるという事実は、誤解を招きかねない。かのお方の具体的な情報を公言するのは慎むように」

「なっ、なるほど……。分かりました」

 鋭い目つきと厳しい声で注意され、静は身を強張らせた。気を付けます、と重ねて言い足し、おっかなびっくり話を戻す。射理也は早く話を切り上げたいようで、どんどん眉間が狭くなっていたが、もう少しだけ付き合ってください。

「それで、射理也さんは、実用書や、《先生》から教えてもらった本を読まれると」

「ああ。残念ながら君と読書の趣味は合わないようだな。今読んでいるのは、欧州で刊行された、大戦の現況についての報告と記録だ。昨今に実用化を見た新兵器、戦車や毒瓦斯などについて記されている」

「せんしゃやどくがす……?」

「戦車とは戦の車と書く。俺も現物は見たことがないが、武装を固めた鋼鉄の車だ。毒瓦斯も読んで字の如し、毒性を帯びた人工の気体のこと。こういった新たな兵器の一般化が進む今、各国が兵器開発競争に鎬を削る様を客観的に報告している」

「……難しそうですね」

 素直な感想が静の口からぼそりと漏れた。静は本好きとはいっても小説や創作専門であり、それ以外の本、特に軍事関係については完全に門外漢なので気の利いたことを言いようがない。だが、完全に会話が途切れ、射理也がまた本に戻ってしまう前に最低限聞くべきことは聞かなければ。

「射理也さん、お尋ねしたいことがあるんですが――『彼誰会』の仕事の内容って」

「妖怪伝承についての聞き取り調査だ。《先生》の示された地域に赴き、現地に伝わる怪しきものの言い伝えを聞いて集めて記録する。ちなみに『彼誰会』の名はカワタレドキに由来して《先生》が付けられた」

「かわたれどき、というのは……」

「昼から夜へと移り変わる時間帯、要するに夕方の古い呼び名だ。語源は『彼は誰』、即ち、見知らぬ人物への誰何と警戒と言われている。怪しいものはこの時間帯に現れることから、また、方々を訪ねては問いかけて回る調査員の姿を『彼誰』の名に重ねられ、この名を付けられたのだと聞いている」

 手元の本の頁に指を挟んだまま、そして静と目を合わせないまま、射理也が淡々と回答する。低く響く射理也の声は聞き取りやすかったけれど、静はすっきりしない顔で相槌を打つことしかできなかった。知りたいのはそんなことではないのだが、聞いても教えてもらえるとは思えない。

「す、すみません、最後にもう一つだけ。今からどこに行くんです?」

「四国の徳島のとある山村だ」

「遠っ!」

 思わず大きな声が出てしまう。じゃあどのあたりを想定していたんだと聞かれると、具体的なことは考えていなかったのだが、それにしたって四国は遠い。本州から出たことのない静にしてみれば、四国には夏目漱石の「坊っちゃん」の舞台という印象しかないし、しかもあれは愛媛なので、徳島のことはさっぱりだ。だが射理也は驚く様子もなく、ただ「ああ、遠いな」と相槌を打つのみだった。

「寝られるなら寝ておくといい。先は長いぞ」

 あっさりと告げた射理也は、手元の本を開いて読書を再開してしまう。静は「はい」と力なくうなずき、やっぱりこの仕事早まったかなあ、とぼんやり思った。


◇◇◇


 その後、汽車を何度か乗り換え、船で四国に渡り、さらにバスに揺られ、さらにさらに山道を歩くこと小一時間。調査地である山村が見えてきたのは、東京を出た日の翌日の午後、四つ目の峠を越えた頃であった。移動に丸二日近くを費やしたことになる。あれが目的地だ、と下り坂の先の村を示した後、射理也は傍らの静を見下ろした。

「随分疲れているな。少し休んでから村に入るとするか」

「すみません……」

 歩き疲れた静が道端の木陰の岩に腰を下ろし、襟を緩めて帽子を取る。程よく冷たい秋口の山風が、火照った体に染み入っていく。ふう、と一息を吐いた後、静は射理也を見上げて尋ねた。

「もう一人の同僚の方、結局合流されないままでしたね」

「ああ。あの馬鹿め……。今回は二人で調査するしかなさそうだ。申し訳ない」

「え? いえ、射理也さんが謝られることでは……」

 律儀に頭を下げる射理也に驚いた後、静は改めて道の先の村へと目を向けた。

 山を背負い、森と棚田に囲まれた小さな村である。二十軒弱の建物はいずれも木造で、屋根は茅葺か板葺きばかり、小さな窓には筵が掛かっている。足元はもちろん舗装されておらず、電線や電柱は影も形も見当たらない。鍬や鋤を手にした村民は皆、粗末な着物姿で、洋風なものと言えば、井戸の近くで奥さん連中と談笑している着流し姿の男の襟巻と帽子くらいだ。洋服姿は珍しいのだろう、峠の上から村を見下ろす二人連れに――つまり射理也と静に――訝しむような目を向けている者もいる。

 まるで明治時代……いや、江戸時代を思わせる前近代的な風景は、静にとっては新鮮で、そして意外なものだった。

「まだ日本にこんな場所もあったんですねえ……」

 素直な感想が自然と漏れる。静の生家のあった地域も田舎ではあったが、それでも鉄道も電気も通っていたし、洋服を着ている者も多かった。なので日本中がもうとっくにそんな感じなのだと思い込んでいたけれど、どうやらそうでもなかったようだ。と、山を眺めていた射理也が、小さく首を縦に振った。

「そう言いたくなる気持ちも分かる。世界大戦が続いている時代の光景とは思い難いからな。だが、本邦の地方にはまだこうした昔ながらの生活様式が残存しているんだ。そして、それらは今、加速度的に失われつつある」

 まっすぐな眼差しを山々に向けながら、マントに制帽の若者は自身に語って聞かせるように言葉を重ねる。珍しく饒舌だけど、それだけ思い入れのあることを話しているのかな。そう静は思い、黙って耳を傾けた。

「……無論、市井の人々の暮らしが改善されるのは喜ばしいことだ。だがそれは、近代以前の習俗を記録し収集する機会がもうほとんど残されていないということをも意味している。特に、妖怪や怪異に関する知識は凄まじい勢いで失われている。《先生》はそのことに椎葉村の調査で気付かれ、性急な調査の必要性を悟られた。不思議の園は今や荒れ、雑草に覆われつつある。今、できるだけ調べておくしかないのだ、と……。かくして我々彼誰会が結成され、《先生》の指示のもと、調査に赴くことになったのだ」

「だったら、二、三人をちまちま派遣するより、大勢で日本中を調べて回った方がいいような……。《先生》は偉いお役人さんなんだから、お役所で全国一斉調査した方が手っ取り早くないですか? というか、《先生》の身分があれば、どんな本でも記録でも読めるわけですよね。なのにわざわざ調べさせるんですか?」

「妖怪は書き記された文献の中だけでなく、市井の人々――いわゆる『常民』の世間話や噂の中にも根付いている。《先生》が集めようとされているのはそちらなのだ。そして、役所の公式な調査となると、人々はどうしても委縮してしまって素のままの情報を集めることが難しくなるし、《先生》は公私の混同を望まれない方だ。人員不足は確かに否めないが、零と一とは全く違う。今のうちに少しでも調査を進めておけば、きっと《先生》達、ひいては後世の研究者の役に立つ」

「なるほど。そういう建前なんですね」

「――『建前』?」

「だって……その、そうなんでしょう? もうそろそろ教えていただけませんか? 調査の名目は分かりましたけど、本当は何が目的なんです?」

「本当の目的……? 君は何を言っているのだ? 我々が派遣されたのは、あくまであの村での聞き取り調査の――むっ?」

 怪訝な顔で村を眺めた射理也が、ふいに目を瞬いた。二重まぶたの下の目がきゅっと細まり、眉の間に皺が寄る。どうしたんですかと静が問うより先に、その険しい視線の先で、奥さん連中と話し込んでいた着流しに襟巻の男が「おーう!」と大きく手を振った。どうやら射理也の知り合いのようだ。

「射理也さん、あの方は」

「……先ほど話に出たろう。後から追いつくはずだった『同僚』だ」

「えっ? あ、あの人が? どうして先に村にいるんです?」

「俺にも分からん。本人に聞け」

 厳しい声で言い放つ射理也。着流しの男は、話し相手の女性達と別れ、射理也達のもとへ坂道を駆け上がってくる……かと思いきや、それはもうのんびりと、あろうことか休憩を挟みながら歩み寄ってきた。

「やあやあやあ。遅かったじゃないの、射理也の旦那」

 軽い口調とともに近づいてきたのは、射理也と同じくらいの年齢の、いかにも軽薄そうな男であった。花浅葱色とでも言うのか、緑がかった藍色の着流しを纏い、帯は淡い桃色。帯と同じ色の襟巻を首に巻き、女物らしき鍔広のソフト帽を被っている。このご時世、袴姿ならまだしも、この男のような着流しというのはあまり見かけないが、それにしたって適当そうな人だな……というのが静の受けた第一印象であった。

 背は高いのだが、なよっとした細身な上に猫背気味なので威圧感はまるでない。顔立ちはそれなりに整っているのに、垂れさがった眉やへらへらとした笑みのおかげでどうにも胡散臭く見えてしまう。帯の端はだらんと垂れており、履いているのは薄くなった雪駄で、襟巻は擦り切れている。

 となると相当だらしない人なのかと思いきや、男性にしては長い髪は丁寧に撫でつけられているし、髭はきちんと剃ってあり、着こなしや立ち居振る舞いにも妙な余裕というか風格があって、香水らしき香りまで漂っている。これはこれでこういうお洒落なのだろうか。訝る静の傍らで、射理也が男に問いかける。

「なぜ先回りできたのだ? 俺達より後に東京を出たはずだろう。そもそも、どうして昨日の朝に家にいなかった? 迎えに行くと伝えておいたろうに……」

「質問が多いねえ。いやね、ロウ子姉さんから支度金貰って飲みに行ったら、なんだかんだで朝帰りになっちまってさ。帰ってきたら切符が置いてあったもんで、お前さん達の次の列車に飛び乗ったわけ。切符を金に換えなかっただけ偉いでしょ」

「支度金で飲みに行った時点で論外だ。それで?」

「相変わらず手厳しいことで……。阿波の港に着いて、ここからはバスかねえ、面倒だねえと思ってたら、たまたま車の兵隊さんと知り合ってね。その兵隊さん、この山に向かうって言ったもんで、こりゃありがたい、地獄に仏だってんで、あたし自慢の口車で頼み込んで、後ろに乗せてもらってきたわけ。そっちがバスを待ったりえっちらおっちら山を歩いたりしてる間に追い越したんだろうね」

「兵隊さん? この山に軍人さんが何の用事があるんです? 基地もないのに」

「それはあたしも知らないよ……って、お前さん、見ない顔だね」

 静が思わず口にした疑問に着流しの男が即答し、その後、男はようやく静に向き直った。男の細い顎を細い指が撫で、ほほーう、と嬉しそうな声が漏れる。

「もしや、お前さんが伝言にあった新入りかい?」

「は、はい! 白木静です。よろしくお願いいたします」

「これはこれはお元気なことで。あたしは淡游、多津宮淡游と申します」

 淡游と名乗った男はそう言うなり跪き、静の手をそっと取った。人好きのする笑みがその顔に浮かび、男の割には柔らかい指が、慈しむように静の手を撫でる。

「女の子が来るとは聞いてなかったし、ずいぶん可愛らしい新人さんなもんで驚いちまったが、組むことになったのも何かのご縁。まあ一つ、今後ともよろしくね。ちなみにお年はお幾つで?」

「じゅ、十五歳ですが……」

「じゅうご? もっとお若いかと思ったけど、あたしらとそれほど変わんないわけだ。あたしは十九で射理也の旦那は十八だから。しかし、射理也との二人旅、大変だったでしょ。相当の気苦労があったんじゃないかい? こいつ、ろくすっぽ喋んないし愛想もないから」

「確かに、こんなに笑わない人は初めて見――って、そんなことないですよ!」

「隠さなくても大丈夫だよ。ここからはあたしも一緒だから、楽しく気楽にやりましょう。つうか射理也! 新人が女の子だなんて初耳だよ? 早めに教えてくれてれば、あたしはちゃんと最初から合流してたのに。いけず!」

「相変わらずよく喋る男だな……。早めに教えられるわけがないだろう。静君が彼誰会に採用されたのは一昨日、出発の前夜だ」

 心底呆れた顔の射理也が憮然と告げる。生真面目で堅い射理也は調子のいい淡游とは折り合いが悪いようで、目を合わせようともしない。淡游はそれを咎めるでもなく、「なるほどね」と笑顔で納得し、静をまじまじと見た。

「しかし静ちゃん、よくもまあ採用されたねえ。この仕事、期間が短い割に儲かるから、求人始めた頃は結構志望者も多かったのよ。書き取りが得意な書生なんかがゾロゾロ受けに来た。でも、何だか難しい採用基準があるみたいで、全部撥ねられちゃったんだよね。だから最近は申し込みも全然なくって、こりゃあ新人は来ないのかと諦めてたんだけど……まさかお前さんみたいな子がねえ。何か特技でもあるのかい?」

「い、いえ、特に……。わたしもよく分からないんですが、ロウ子さんが耳たぶの凹みを見て驚いて……で、指の第一関節が曲がるって言ったら、じゃあ採用だと」

「何だい、そりゃ」

「わたしにも全然……。それはそうと、ええと、淡游さん」

「はいはい何でしょう」

「あの……そろそろ手を放していただけませんか……?」

 言い損ねていたことをようやく静は口にした。挨拶の握手にしては長過ぎるし、そもそも手を撫で続ける挨拶なんて聞いたことがない。不安と不信を隠すことなく見つめてやると、淡游はわざとらしく目を丸くし、大袈裟に飛びのいて立ち上がった。

「おお! これは失敬!」

「い、いえ……」

 大きな溜息を吐く静。堅物で女を軽んじる射理也も苦手だが、淡游のような軽薄で調子のいい男も、これはこれで苦手だ。悩む静を淡游は嬉しそうに再度眺め、射理也に向き直った。並んで立つと射理也の方が少し背が高いので、視線を上げる形になる。

「調査の話は村の衆に通しておいたよ。どう? 有能でしょ、あたし」

「……ああ、助かる。さて、それでは仕事を始めよう」

 もっと誉めてほしそうな淡游を無視し、射理也が言い放つ。「仕事」というその言葉に、静の背が思わず伸びた。ごくりと深く息を呑み、静は射理也を見上げて問うた。

「し、仕事って、何をするんですか……?」

「行政区の首長や住職、神主のような地区の代表者に挨拶して調査の趣旨を説明し、しかる後、村を回って住民に妖怪の話を聞く。ああ、これが君の道具だ」

 射理也がトランクから鉛筆と手帳、それにカメラを取り出して渡す。後ろ暗さのまるでない道具類を受け取りながら、静は、だから、そういうことを聞きたいわけではないんですが、と思った。

 かくして始まった調査は、射理也の言った通りの手順で進められた。

 まず射理也が村の代表者を訪ねて挨拶し――淡游が事前に調査の意図を説明しておいたおかげで、円滑に話は進んだ――その後、家々を回ったり、農作業中の人を呼び止めたりして、妖怪にまつわるような怪しい話を知っているか尋ねる。挨拶と説明はいかにも真面目な学生然とした射理也が行い、実際の聞き出し作業は調子が良くて舌の回る淡游の担当で、得られた情報を記録するのは静の役目だ。

 射理也と淡游は、仲こそ悪いが調査には慣れているようで、手際は良かった。村民達は多少警戒してはいたものの話は聞き取りやすく、それも静にとってはありがたかった。おかげできちんと書き取れた、と静は自負していた。身構えてしまっていたけれど、これくらいなら簡単だ。

 そうしてひとまず十人ほどに話を聞いた後、一同は淡游の提案で軽く休憩を取ることになった。棚田の土手に座った淡游が帯に挟んでいた扇子を広げ、その隣に静が腰を下ろす。

「淡游さん、話すの上手いんですね……。あんな気難しそうなお爺さんとでもすぐ話し込めるなんて、わたし、絶対無理ですよ」

「へへ、ありがとね。そこはほら、昔取った杵柄ってやつで……」

 説明してやってくれよと言いたげに淡游は射理也を見たが、学生服にマントの相棒は直立姿勢で静の書き取った記録を確認中だ。難しい顔で手帳を眺める横顔を見上げた後、淡游はやれやれと苦笑して自分で続けた。

「あたし、元噺家なんだよ。いや、二つ目に上がる前に止めちまったんで、噺家くずれって言うべきかしら。ああ、ハナシカっても鹿の一種じゃないよ? いわゆる落語家、高座に上がって着物で喋る職業のことを一般的にそう呼び」

「いや、そこまで説明してもらわなくても噺家で分かります。ところで、淡游さんが元噺家さんなら、射理也さんは」

「ああ、こいつは、陸軍士官学校中退のニセ書生」

「人聞きの悪いことを言うな。確かに、故あって軍人の道を諦めて士官学校を中退し、その後に入り直した大学にもあまり通えてはいないが、俺は決してニセではない」

 淡游のふざけた説明に、射理也が手帳を見つつ切り返す。なるほど、この厳しく真面目な雰囲気は士官学校で培ったものか。静が納得しつつ感心していると、淡游が嬉しそうな顔を静に向けた。

「感心と言えば、静ちゃんも大したもんだよ。ありがたいことこの上ない」

「わたしが? 何も大したことしてませんけど」

「してますとも。今までの調査だと、あたしか射理也のどっちかが話を聞いて、残ってる方が書き取りをしてたんだけどね? これがなかなか難しい。射理也の野郎は几帳面に書き過ぎるきらいがあって、あたしはどんどん話を進めるもんだから、なかなか記録が追い付かないし、あたしはあたしで読み書きが大の苦手だからね。だから静ちゃんが来てくれて助かってるってわけですよ」

「そう言ってもらえると嬉しいですけど……でもあんまりないですよね、妖怪の話」

「それは確かに」

 静のこぼした言葉に、淡游が短く同意した。何せ、現時点で得られた成果と言えば、山向こうの誰かが狸に化かされたと聞いたことがあるとか、嘘を吐く子供は山の狼に食べられてしまうとか、ありふれている上にふわふわしている話が二つ三つだけ。しかも語り手は相当の年寄りで話の中身も要領を得ないものだった。あの《先生》がどれだけのお金持ちだか知らないが、三人をわざわざ四国の山奥まで派遣しておいてこれでは、支出と成果が釣り合っていないのではなかろうか。

「村の人達も、あんまり協力的じゃないですし……」

「そりゃ仕方ないよ。村の連中にしてみれば、あたしらは所詮、横文字でいうところのStrangerだからね」

 ぼやいた静の肩を淡游が叩いて苦笑する。「ストレンヂャア」? 聞き慣れない言葉に静が首を傾げると、淡游は「好きな言葉なんだよね」と笑って言った。

「よそ者。見かけない者。ふらりと通り過ぎて去っていき、二度と帰ってこない者……。そんなような意味だよ。この手の輩は地域ごとに別の名前で呼ばれてて、シレンモンやボウチだとか、お化けみたいな名前が付いてるところもある……だったかな。要は、人の往来の少ない村ほど知らない奴への警戒は厳しくなるから、手持ちのネタを全部教えてくれるとも限らないってことを言いたいわけですよ」

「お化けの話を隠すってことですか?」

「今まで行った中には、そういう村もあったよ。まあ、今回は別に隠してるってわけでもなさそうだけど……。迷信を信じる人がどんどこ減っている時代だからね。実際、あたしだって心底馬鹿馬鹿しいと思うし。静ちゃんもそうでしょ?」

「いえ、そこまでは。幻想小説は好きですし、昔、不思議な話をよく聞かせてもらっていましたので」

「あら残念。ともかくこのご時世、田舎に来たらお化けの話がわんさかあるかってえと、そうはいかないわけですよ。一昔前は、お化け話の得意な語り部のお年寄りが必ずいたもんだけどねえ。ともあれ、この調子でもう一踏ん張り……」

「この調子では困るな、白木静君」

 調子よく語る淡游の声に憮然と割り込んだのは射理也だった。え、どうしたんです急に? 静が困惑とともに見上げた先で、渋面の射理也は手帳を開いて続ける。

「君の取った記録を確認させてもらったが――あまり正確ではないな。平たく言えば不正確だ。狸のことを語った老人はこんな話し方ではなかったし、こんなに理路整然ともしていなかった」

「え? ですけど、あのお婆さん、話が全然繋がってなかったので……最初と最後で出てくる人の名前違っちゃってましたし――」

「だから手を入れたと? とんでもない過ちだ。『小説でも書くような心持で当世風の潤色をすることだけは、どうしても御免を蒙りたいものである』。伝説や口碑の収集行為について、《先生》が二年前に『郷土研究』誌に発表された文章だ。分かるか静君。我々は決して読みやすく理解しやすい物語を求めているわけではない。分析と研究の対象として、そのままの伝承、あるがままの語りを集めるのが我々の仕事なのだ。説明しておかなかったこちらも悪いが、そのあたりはしっかりしてもらわないと困る。読みやすく編纂しろと俺が言ったか?」

「す、すみません……」

 射理也の淡々とした説教がまっすぐ静に突き刺さる。射理也は決して声を荒らげたりはしなかったが、論理的で真摯な非難は叱られる身には一層染みる。これくらいなら簡単だなどと思っていた自分に呆れながら、静はいたたまれなさを募らせた。

「まあまあ射理也の旦那、それくらいにしといてやんなよ。静ちゃん今日が初めてなんだしさ。大体、女の子がガミガミ言われてるのを見るのはどうにも苦手だ」

「それはお前の都合だろうが」

 割って入った淡游に射理也が冷たい目を向け、説教はそこでひとまず終わった。すみません、と頭を下げる静に、淡游が「次から気を付ければいいさ」と笑いかける。しゅんとしたままの静としかめっ面の射理也を見回し、噺家くずれは空気を切り替えるように手を叩いて立ち上がった。

「そろそろ再開しましょうか。宿は麓の街にしかないんだから、日が落ち切るまでには山を下りたいし、のんびりしてもいられないし、もう少し収穫だって欲しいしさ」

「は、はい! しかし淡游さん、収穫って具体的には」

「そりゃお前さん、聞いたことのない珍しいお化けの話だよ。そんなもんがそうそう見つかるとは思えないけど――」

「コナキジジや!」

 苦笑交じりの淡游の声に、ふいに幼い声が被さった。静達が思わずそちらを見ると、一同の座っていた棚田の一段上に、丸刈りの少年が立っていた。年の頃は七歳ほど、粗末な着物にわらじ履き、鼻の下には青っ洟の跡。結構な距離を走ってきたのか、息を切らせた男児は静達を見返し、「それにゴギャナキも!」と言い足した。

「コナキジジ? ゴギャナキ? 何だそれは」

「だからお化けの名前だよ! やっと見つけたで! なあ、兄ちゃん達、帝都からお化けの退治に来た偉い先生なんだろ? やっつけてくれるんやろ?」

「何? いや、俺達は話を集めているだけなのだが……」

「子供相手に難しい話したって仕方ないでしょ、旦那。おい坊主、お化けのこと知ってんのかい?」

「坊主とちゃう。貞吉や」

 棚田を駆け下りながら少年が名乗る。静達の前で立ち止まった貞吉は、ふう、と大きく息を吐き、期待に満ちた顔で一同を見回した。「とりあえず話を聞いてみるか」と射理也が淡游に横目を向け、持ったままだった手帳を静に手渡す。慌てて記録の準備をする静の前で、淡游は腰を落として貞吉に視線の高さを合わせて話しかけた。

「あたしは多津宮淡游。こっちの黒いのが射理也で小さいお姉ちゃんが静ちゃんだ。で、貞吉? 今、なんか珍しいお化けの名前言ってたよね。コナキジジだっけ?」

「そうや。コナキジジや。あと、ゴギャナキも。ここいらで原掛山に入るもんは、みんな知っとるで」

「へえ。しかし、あたしらは今まで村で話を聞いてきたんだけど、そんなの全然聞けなかったよ? なあ射理也の旦那」

「先ほどまで話を聞いたのは、いずれも田畑で農作業に従事する者達だったからな。普段から山に入っている人々はまた別の知識を伝えており、この少年が語っているのもそれなのかもしれない。貞吉君、君の言ったそれはどういうお化けなのだ?」

「何だ。帝都から来たってえのに、何も知らんのやなあ! コナキジジは、夜中に山ん中で赤ん坊みてえな声で泣くもんのことや」

「赤ん坊に化けるってことかい?」

「違う。見た目は爺や、いや赤ん坊やとか言う奴もいるけど、ありゃあ山を知らない奴がこしらえた作り話だって祖父ちゃんは言うとった。本当のコナキジジを見たものなんぞ、おらへんのやから……。夜の山を歩いてると、赤ん坊の泣き声がするやろ? 何かと思って近づいて、可哀想にと思って抱き上げると、そしたら体がどんどん重くなって、そのまま、おっ死んじまう。これがコナキジジや」

「へえ! 怖い話があるもんだねえ……。で、もう一つの、ゴギャナキってのは」

「それに似た名前は、江戸時代の随筆で見かけたことがある。夜、人の足にまとわりついて離れず、履物を脱ぎ棄てれば去るという怪異ではなかったか」

「はあ? 何言うてるねん。こいつはそんなん違う。もっと危ないんや」

 射理也の問いかけに、貞吉は青ざめた顔で体をぶるっと震わせた。本気で信じているのだろう、不安げな目が一同を見回し、神妙な声が響く。

「ゴギャナキは、夜の山の中を歩き回る一本足の化け物や。『ゴギャ、ゴギャ』って、でっかい音を出しながら、足を引きずって歩きよる。こいつが出ると地面がぐらぐら揺れるから、遠くにいても分かるねん」

「つまり、地震を引き起こすってこと? じゃあ、そのゴギャナキってのは、よっぽどでかい図体をしてらっしゃるんだね」

「大きさなんぞ知らへんわ。見た者は誰もおらんのやから……」

 声をひそめた貞吉の語りは、訛りも相まって迫力がある。聞いた話をそのまま書き取りながら、静は悪寒が走るのを感じた。興味深げな声を発したのは射理也である。

「具体的な部分もあれば、細部がはっきりしていないところもある……。それもまた妖怪らしい特徴だが……。実に気になるな。そのコナキジジなる妖怪は」

「そっちかい? いや、注目するなら普通ゴギャナキの方でしょうに」

 反論したのは淡游だ。聞かせてくれてありがとね、と貞吉に深いお辞儀をした後、噺家くずれは射理也に向き直って続けた。

「抱き上げると重くなる赤ん坊ってのは、割と定番のお化けでしょうが。夜道で女が赤んぼ抱かせてきて、言われるがまま抱いてやるとずんずん重くなる……なんて話は、江戸の昔からの怪談の定番だよ。静ちゃんも聞いたことくらいはあるでしょ」

「あ、言われてみると確かに」

「違う。淡游が言っている怪異の場合、主体は子供を抱かせる母親の方だろう。いわゆる産女の怪だ。持ち上げると重くなる正体不明の怪異も、オバリヨンやウバリオンのように類例はある。だが、コナキジジはどちらとも違う。母親不在で赤ん坊だけが――正確には、赤ん坊の声を発する何かだけが、独立して存在しているのだぞ。こんな事例を聞いたことがあるのか、静君?」

「あっ、言われてみると確かに!」

 全く同じ台詞を二度繰り返す静である。馬鹿みたいだなと自分に呆れつつ、静は「ん?」と眉をひそめた。赤ん坊っぽいもの単体で、重くなるお化け? それと似たような話を、どこかで読んだような……? 静が記憶を探っている間に、射理也は貞吉を見下ろして問いかけていた。

「ちなみに、そのコナキジジやゴギャナキが出る場所には何か謂れがあるのか?」

「謂れ? うーん、祖父ちゃんは、明治のご一新の前には、お殿様が練兵場にしてたとか言うてたけど、今は何にもねえ山の中やで。そんなことより、退治を……」

「分かんない子だねえ。あたしらは化け物退治にきたわけじゃないの」

 大体、そんなものがほんとにいるわけがなかろうに。

 そう言外に滲ませながら盛大に呆れてみせる淡游である。口にせずとも思いはしっかり伝わってしまったようで、貞吉ははっと目を見開き、いきなり叫んだ。

「せやったら、もうええわ! 都会もんの役立たず!」

 捨て台詞を残した貞吉が背を向け、村の方へと走り去る。静は引き留めようとしたが、子供とはいえ山に慣れている貞吉の足は速い。ちくしょう、と叫びながら遠ざかっていく小さな背中を見つめた後、静はおろおろと振り返った。

「ど、どうしましょう……?」

「どうしようもないでしょ。あの子が何でそんな化け物退治にこだわるのか知らないけどさ、あたしらは桃太郎でも坂田の金時でもないんだから。ねえ旦那」

「ああ。それより調査を続けよう。山に出入りする村人なら、妖怪の話を色々知っているようだ。そのあたりを聞き取っておきたい」

 行くぞ、と射理也が二人を促す。貞吉のことは気にはなったが、淡游の言うことは正論だし、射理也の主張だって同様だ。静は貞吉を案じつつも手帳を閉じ、山の麓の家々へと向かう射理也に続いた。

 その後しばらく、三人は山仕事を生業とする村民達を訪ねて聞き取り調査を行った。いずれもコナキジジやゴギャナキのことを知っており、しかも語る内容がほぼ等しいことに射理也は驚きを隠さなかった。静がその理由を尋ねると、射理也はすぐそこに迫った山の入口に目をやり、口を開いた。日はいつの間にか山際にかかっており、木々や山の影もずいぶん長くなっている。

「普通、妖怪の聞き取り調査では、得られる情報の個人差が大きい。さも一般的に伝わっているように語られた話が、実際はその家、その個人にしか知られていないということもザラだ。今回のように、複数の聞き取り対象者がほぼ同じ内容を語るというのは、極めて興味深い事例だ」

「確かに、口裏合わせの気配もないのに、あそこにゃゴギャナキもコナキジジも出るって話が聞けたのはあたしも驚いたよ。具体的な場所までほとんど一致してたし、こうなると実際に何かいるのかも――って、旦那? 先に言っとくけど、見に行こうってのは無しだからね」

「なぜ俺の考えが分かった」

「昨日今日の付き合いじゃないんだからそれくらいはね。つうか、やっぱり見に行く腹積もりだったのかい? 冗談じゃないよ。夜の原掛山には絶対に入っちゃなんねえ、行った者は帰ってこねえって話は散々聞いたでしょうが。大体、お化けが出なくたって、夜の山ってだけで充分危険なんだから」

「案ずるな。俺は士官学校で訓練を受けている」

「案ずるよ。あたしは受けてないんだから」

「わ、わたしも受けていないんですが……」

 静はおずおずと淡游に同意した。射理也が真面目で熱心なのは分かったし尊敬もするが、巻き込まれるのは真っ平である。というわけで静は淡游とともに射理也を説き伏せようとしたのだが、そこに杖を突いた老人が一人、慌てふためいて現れた。

「ああ、東京のお人ら! ここにいなすったか! 孫の貞吉を見なかったかい?」

「貞吉? ああ、あの坊主頭のガキ……お坊ちゃんか。あたしらは見てないけど」

「貞吉君、どこか行っちゃったんですか?」

「そうなんだ。ああ、まさか本当に山に行っちまったんじゃあ……! もうじきに暗くなると言うのに……!」

 足が悪いのだろう、杖で体を支えた老人が不安そうに懊悩する。山に行った? 顔を見合わせた静達が事情を尋ねると、貞吉の祖父は溜息を吐き、ぽつぽつと語った。

「あれの親父は腕のいい猟師だったがよ……今年の夏、夜の猟だって山に入って、それっきり帰ってこねえんだ。こりゃあ原掛山に入ったに違えねえ、コナキジジかゴギャナキにやられたに違いねえって話になってよう……。貞吉はそりゃあもう怒ったし、敵を取ってやるんだって唸ったが、相手が化け物じゃどうしようもねえ。村の連中が当てにならねえなら、よその人の手を借りてでも敵を討つ言うて……そんな時、東京から、偉い学士さんが化け物のことを調べにきたって聞いて」

「ちょ、ちょっと待った! 東京から来たって、それ、あたしらのことだよね? つまり……こういうことかい? あたしらがあの子をうっかり期待させちまって、しかも退治に行くわけでもなく侃々諤々やり始めちゃったもんで、がっくり来て」

「やけになって一人で山に行っちゃったわけですか? 大変じゃないですか! 連れ戻さないと! 村の人達にも声を掛けて」

 慌てた静が老人を急かす。だが貞吉の祖父はやるせない顔で首を左右に振り、山際に掛かった太陽を見上げて言った。

「もう日が落ちはる。掟では、村の者は夜のお山には入っちゃならねえと……」

「じゃあわたし達が行きます!」

 老人が言い終わる前に、静はきっぱり即答していた。驚いた射理也と淡游は思わず顔を見合わせ、同時に静に目を向ける。静は二人の同僚をキッと見返し、勢い込んで続けた。

「行きましょう! わたし達なら村の人じゃないから掟も関係ないですし、第一、貞吉君を期待させたのはわたし達じゃないですか!」

「静ちゃん、そういう性格だったのかい? もうちょっと気の弱い子かと思ってたよ。まあ、芯の通った強い子はむしろ好みではあるけれど」

「そ、それはどうも……って、今はわたしの性格のことはいいでしょう! 射理也さんは」

「元々俺は実地調査に前向きだ。妖怪の出る場所を見に行くのに反論する理由があるはずもない」

「ありがとうございます! というわけで淡游さん、二対一ですが」

「静ちゃんは味方だと思ってたのにねえ……。まあ、そういう理由で、しかも女の子に言われちゃ仕方ない」

 射理也と静に見つめられた淡游が溜息とともに首肯し、「そういうことだってさ」と老人に向き直る。その申し出に、貞吉の祖父は感極まってしまったのか、おおおと嗚咽し、深々と頭を下げた。