――桜をいとおしむ日本人は数多いけれど、最初に見た桜の光景を脳裏に焼きつけている人間は、この国にどのくらいいるのだろう。

 僕は、憶えている。そして、死ぬまで決して忘れないと思う。

 だって、それは君にはじめて出逢えた場所でもあるのだから。

 眠る君に語りかけるために、僕は、僕たちの記憶の糸の最初を辿る。

 でも……本当のところ、どこを「最初」と呼べばいいのかは、よく分からない。

 君が僕に出逢ったのは、あの時がはじめてじゃないから。

「……ねぇ、ママ、うたがきこえるよ」

 桜の花弁がついた薄緑色のカーディガンの裾を引いて訴えると、おしゃべりに夢中になっていた母は、僕を見下ろして小さく首を傾げた。その耳元で真珠のピアスが揺れたことまで、鮮明に憶えている。

「あら。みんな、なにか聞こえる?」

「さあ?」「ゆうちゃんは、耳がいいのね」……現代風に言うなら『ママ友』とでも称するべき母の仲間たちは、一瞬だけ僕の言葉につき合ってくれたが、すぐにまた先程からの話の続きに興じていく。面白くないし意味も分からない大人の言葉が、ずけずけと降り注ぐ。

 漠然とした孤独感。幼稚園児だって、心のない人形じゃないのに。

「ねぇ、ママ」「大事な話をしてるから、あとでね」

 母親が冷たい人間だったとは決して思っていない。愛情深く育ててくれたし、僕も心から彼女を慕っていた。が、この瞬間の僕は、ずっと大事に握りしめていた母の手から、突如振りほどかれて、あてどもない中空に放り出されたような気がした。

 草地に敷かれた縞模様のレジャーシートの上で、五歳だった僕は、小さく膝を震わせる。

 どうして、そんなこというの。

 だって、あんなにも、きれいなうたがきこえているのに。

 それより、だいじなことなんて、どこにもないよ。


 さくら さくら

 やよいの空は 見わたすかぎり


 当時住んでいたのは、日本海に面した千里町という小さな町だった。漁業を営む人々が多く、人口は数万人ほど。他県に引っ越した今となると、町名を言っただけでは周囲の誰にも分かってもらえない田舎だ。

 幼少期を過ごした土地に、僕は、たいした思い入れを持っていない。

 だけど、桜の名所である千里自然公園だけは、全国に自慢したっていいのではないかと思う。「山笑う」という春の季語がふさわしく思えるほど、山々の麓から中腹へと広がっていくソメイヨシノの群生は見事だった。

 張りつめていた冬の厳しさから、ついに解き放たれたことを、世界が祝福するかのような――一斉の開花。

 懐かしく、狂おしく、この世のものとも思えない桜の花々が、果てしない饗宴のように視界を埋め尽くす。

 子ども心にも、その光景は、どこか泣きたくなるほど壮麗だった。

 ――そして。

 歌が、聴こえた。

 やわらかで、温かく、透明な女性の歌声。

 散りはじめている桜の花弁とともに。

 歌そのものが風であり、陽光であるかのように。

 幼稚園の先生がオルガンで歌ってくれる声なんかとは、比べ物にならない。

 ……母親たちのおしゃべりはとめどなく、連れられて来たほかの子どもたちは当時の僕よりもずっと小さくて、話を聞いてくれる相手が誰もいなかった。お弁当もお菓子もとっくに食べ終えていて、退屈だったというのもある。

 だが、僕が一人でその場を離れる決意をしたのは、結局、母親べったりだった幼稚園児にとっての、はじめての反抗心あってのことだったのかもしれない。

 よいしょ、と靴を履いて立ち上がる。この上なく勇敢な心持ちだったが、おそらく客観的に見たら、とてとて、という足取りで、僕は単身桜の海へと踏み出した。


 かすみか 雲か 匂いぞいずる


 桜の枝は天井のように重なり合い、その隙間で陽が夢のように揺れる。

 誰のものか知れぬ歌声は、僕をすっぽりと包み込む。

 歩を進めるごとに、いつしか母親のことを忘れていた。物心ついた頃から臆病だったくせに、この時、恐怖心は微塵も湧かなかった。戻れなくなったらどうしようかとも考えなかった。

 どこまでも、気がふれそうなほどの桜、桜、桜。子ども一人など、たやすく呑み込むように。生と死の境目が薄れて、その奥へと手招きされているかのように。

 導かれるように、僕は走った。駆けっこは得意ではなかったが、ちっとも苦しくならなかった。

 やがて、僕は奇妙なことに気づく。周囲に舞っている桜の花弁に、なぜか、透明なものが混じっていること。最初は少しずつ、だんだん進むほど、その数を増して。

 幽霊みたいな桜の花だ、と思ったが、それでも怖くならなかった。

 そして不意に、無限にすら思えた桜の天井が途切れて、僕は光で目が眩み、壁にぶちあたったように立ちすくんだ。


 パステルカラー。

 目が慣れるにつれ、幕がひらいたかのように眼前に広がった光景を、今の僕の語彙で表現するならば、この一言に尽きる。

 春風になぶられる、生まれたての草に覆われた丘。

 淡い水色の空。背後の山々から、のんきに流れてくる雲。

 そして、陽に透ける、透明な桜の花弁。

 見たことのない風景なのに、なぜか、やっと帰ってこられた場所のようでもあった。

 丘の中央にどっしりと立つ、満開の桜の巨木は、幹までも半分透き通っていた。不思議な姿だったが、ほかのどの桜よりも遙かに長い年月を生き抜いてきた、格の違う存在であることは、当時の僕にも容易に察することができた。

 その桜から散る無数の花弁が、まるで宙を踊る音符のようにも見える。

 それほど自然に、彼女はこの光景と一体化して歌っていた。

 肩まで伸ばした、薄い色素の髪が、春の陽ざしを一心に受けて光を放っている。

 ひらひらした薄桃色のワンピースの肩から、のびやかに、白い腕を空へと向けて、

 まるで歌うことが、自由であることの同義語であるように。


 いざや いざや 見にゆかん


 ――不思議な桜の咲く丘をステージとし、眼下の桜の群れを満場の観客として、豊かに空間を支配しつくした歌の余韻も、僕がぽかんと立ちつくしているうちに、やがて空気へと溶けていった。

 小鳥のさえずりや蜂の羽音が、やっと耳に入ってくる。

「…………」

 夢中で駆けてきてしまったけれど、歌声の主を見つけてどうしようということは、まったく頭になかった。僕は丘の下から、無言でその女性を見上げる。

 ……と。

 歌い終えた彼女が、その視界に、まっすぐ僕をとらえた。

 僕は、悪いことをした場面を見つけられたような気まずさをおぼえたが、なぜか、女性はぱっと顔を明るくさせた。

「佐野くん?」

(……え?)

 混乱した。

 もちろん、自分のフルネームが「さの ゆうき」だという認識はあったが、当時は苗字で呼ばれるのに慣れていなかった。それ以前に、なぜ見ず知らずの他人が自分の名前を知っているのかという話だが。

 うまく返事もできないうちに、彼女は両腕を翼のように広げて、わーっと僕の傍へと駆け下りてきた。春風になびく繊細な髪が、とてもきれいだった。あっという間に、僕は彼女に抱え上げられた。

「佐野くんだよね。うわぁ、ちっちゃい。可愛い」

 彼女のほっそりとした腕にも、軽々と空中を振り回される僕の身体。状況はさっぱり掴めなかったが、勢いに押されて、僕はこくこくと頷いた。

 頷いたとたんに、今度はしっかりと胸に抱きしめられた。

 温かくて、ふんわりと甘い匂いがして、嫌な気持ちにはならなかったが、やっぱり戸惑った。やがて、透明な雫がぽたぽたと降って来たから、なおさらに。

 おそるおそる顔を上げると、女性の顎を伝う水滴が光っているのが見えた。

「ごめんなさい。ごめんなさいね」

 大人が嗚咽しているのを目にするのは、不思議な気分だった。

「最後まであなたを信じてあげられなくて、ごめんね……」


「ゆうちゃん! どこへ行っていたの!!」

 桜の樹々のあいだをふらふらと戻っていると、真っ青になった母親が取り乱しながら走って来ていた。僕は思いがけない出来事の余韻で茫然自失状態だったが、やっぱり心配してくれた母の姿に安堵をおぼえて、その胸へと飛び込んだ。

 しらないおねえさんにだっこされるより、ママのほうが、ずっとうれしい。

 ……まあ、五歳児だったからね。

「ゆうちゃん、見つかった?」と遠くから尋ねてくるママ友に、母は肯定の声を返し、僕には「ひとりで離れたりしちゃ、ダメよ」と小声で叱った。

 僕も小声で謝りながら、母親の腕の中で、さっきの女性との別れ際の言葉を思い出していた。

 ――佐野悠希くん。今は分からないだろうけど、憶えておいて。

 ――あなたは、また、ここに来るよ。春になり、桜が咲く時に。わたしはいつも、この桜の許にいるから。

 ――あなたの未来を、教えてあげるから。

 やがて四季が巡り、また春が訪れて、僕は小学校一年生になった。でも、件の自然公園には足を向けなかったし、桜の花を見かけても目を背けた。母親から桜を見に行こうと誘われても、かたくなに首を横に振った。

 やはり僕は、根っからの臆病者なのだ。あの時は、彼女の歌で魔法にかけられたように奥へ奥へと踏み込んでしまったけど、あとから冷静に考えると怖かった。まるで、心や身体を操られてしまっていたようで。

 彼女の言葉の意味は、五歳だった僕にはよく掴めなかった。

 残されたイメージは、ただ、どこまでも続く狂気のような桜、桜。

 またあの地を訪れたら、今度は二度と帰れないような気がした。僕はつとめて、パステルカラーの記憶を心の奥へと押し込めた。

 ……ふたたび、あの『桜の歌姫』のことを思い出したのは、さらに、その二年後。

 三年生になって、間もない頃だ。


 僕は、すくすくと勉強が苦手な少年に育っていた。自分なりには背が伸びたけど、クラスでは身長の低い方から二番目だった。

 新学年になってはじまったばかりの社会の授業で、いきなり、自分たちの町の歴史を調べるという課題が与えられた。新しいクラスでの仲間意識を育てようという担任の意図もあったのだと思う。班ごとにテーマを決めて、図書室で資料を読んだり周囲の大人に質問したりして、最後に調べたことをまとめて発表する、という流れだった。

 僕の属した班も、机を寄せ合って話し合った。そしてテーマに選んだのは、千里自然公園だった。

 班長だった少女が一人で盛り上がって、次の日曜日、現地に取材に行こうと言い出し、僕たちメンバーは「え~っ」と不平を漏らした。よその班でも、休日をつぶすまでのことはやっていなそうだったし。

「いいじゃない、ついでに、みんなでお花見しようよ」

 班長は澄まして、そう提案した。結局、真の目的はそこだったのかもしれない。テーマを最初に挙げたのも彼女だったし。地方のニュースで、この週末はまだ花見ができそうだって予報していたし。

 でも桜の見頃は過ぎているわけで、すでにもう花見をしてきた者もいる。やる気のない空気が場にただよった。

 僕もとっさに、みんなと同調するように不満を零していた。

 だが、僕が反対した本当の理由は、そんなことではなかった。

 心の底で、ざわざわする感情がある。ずっと封じてきた記憶が、押しとどめられなくなり、顕現しようとしているように。

(……怖い? 何が? 桜が……?)

 隠したつもりでも、無意識のうちに動揺があらわれていたのだろう。

「佐野くん?」

 今では名前を覚えていない班長の少女が、いぶかしげな声を出す。

(佐野くん?)

 その声が、遠い記憶に重なった。

 三年しか経っていなかったのに遠い記憶と言うのも、おかしいかもしれない。でも、子ども時代の三年は、主観的にはかなり長い年月だったような気がする。

 この瞬間まで本当に忘れていたということは、幼かった僕は、かなり本気であの女性にまつわる記憶を消したかったのだろう。

 だけど、僕だって成長していた。

 ざわざわする心の底には、単純に恐ろしさだけがあるのではなく、昔にはなかった高揚も含まれていた。胸がきゅっとなるような……多分それは、好奇心。だって、


 ――あなたの未来を、教えてあげるから。


 そんな科白が脳裏によみがえっていた。僕はやっと、女性に告げられた言葉の特異さに気がついた。ちょうどその瞬間、

「四班さん、テーマは決まりましたか?」

 頭上から声が降って来て、僕はあやうく、驚きのあまり叫んでしまうところだった。担任の教師が各班の進捗状況を確かめて回っていただけだったのだが。

「はい! 先生」いちはやく、班長が張りきって挙手した。「次の日曜日に、みんなで取材に行くことになりました!」

 まだ決定事項にはなっていなかった筈なのに。

 でも、僕たちが異議を訴えるよりも早く、担任――ベテランのおばさん教師――は、ぱっと顔面に喜色を浮かべ、わざとらしく胸の前で両手を合わせた。

「あら、熱心じゃないの。ほかの班のみなさん、聞いて。四班さんは日曜日にみんなで取材に行くって言ってるわよお」

 えー、という消極的な声が教室のあちこちで上がる。もう引っ込みがつかないムードになってしまった。

 班長の少女が、こっそりと舌を出したのが見えた。



 ――そして、日曜日。

 僕たち四班は、集合場所として約束した小学校の裏門へと足を運ぶこととなった。

 快晴で、絶好の花見日和だったが、楽しそうなのは班長だけだった。メンバーのうち、旭山という少年はまだ露骨に文句を並べていた。もう一人いた少女も、おとなしかったのでなにも口には出さなかったものの、暗くて硬い表情をしていた憶えがある。

 僕としても、班長の強引な決め方への抗議の気持ちもあったし、表面上はやはり、うべなわないような顔をしていたつもりだ。

 でも、どこかで、この事態を歓迎している自分がいた。もしかしたら、一人では恐怖心の方が勝ってしまって、桜の樹々を目の前にしたら足がすくんでしまったかもしれない。

 小学校から千里自然公園までは、子どもの足でも、それほど遠い距離ではなかった。最初は私語を交わしながらダラダラと歩いていたメンバーたちも、町の建築物の合間から桜の色が見えて来ると、だんだんと無口になり、足を速めはじめた。

 どんな目的で訪れたとしても、あの特別な花の持つ、不変の魅力が損なわれるわけではない。

 花見客もまだまだやって来ている。見頃は過ぎたとはいえ、今日は日曜日だし。この田舎町にとって、桜の開花そのものが年に一度の大イベントなのだ。

 ましてや僕にとっては三年ぶりに踏み込む領域である。

 桜は散りはじめていたが、非現実的なほど儚げな花の色に、やはり息を呑まずにはいられなかった。

「……えっとね」一人だけ、いかにも取材らしく、ノートや筆記用具や録音機器なんかを準備してきた班長は、公園の入り口に来ると、リーダーらしく仕切りはじめた。「先生が教えてくれたの。管理事務局ってとこに行ったら、この公園にくわしいおじさんがいるらしいよ。髪むすんでて、いつも黒いジャージ着てるんだってさ。その人が、この公園の管理人なんだって」

「あー、俺その人知ってるかも」後ろを歩いていた旭山が、ひょいと手を挙げた。「この辺では有名だよ。桜を見ながら、一人でずーっとしゃべってるらしいし」

「桜が友だちなんじゃない?」班長が噴き出しながら言った。黙っていたもう一人の少女も、その言葉でほんの少し、頬を緩ませる。

「あと、この公園に住んでるって、みんな噂してる。一年中朝昼晩、ずっとウロウロしてるからさ。とにかく、変なおっさんらしいよ」

「まさかぁ。先生が話を聞きに行きなさいって教えてくれたんだから、変な人じゃないと思うんだけど」

「ふふふ、そうとも限らないなぁ」

「わあっ!」期せずして全員の驚きの声が揃った。

 花見客が捨てたゴミを拾って歩いていたのだろう。話の通りの黒いジャージと、軍手をつけた作業員らしい中年男が、大きなゴミ袋を引きずりながら、ぽりぽりと頭を掻いていた。

「俺、この公園に住んでるって、そんな噂立ってんの?」

「いや、あの、その、」本人に突然出現されて、変なおっさん呼ばわりしていた旭山は、舌が回らなくなっていた。が、その男の人はまったく気にしていないようだ。

「ってか、別に間違ってないし。ここに住んでるってのも、俺が変なおっさんっていうのもな。はははっ」

 確かに、変わった大人だった。散髪が面倒なのか髪は長く伸び、後ろで束ねられている。その髪にも白いものが混じっていて、笑うと目じりに皺が寄るのに、不思議と年齢を重ねた雰囲気を持っていなかった。まばらに無精ひげも伸びているが、不潔な感じはない。言動も、時折、外見に似つかわしくないほど若々しく感じられる。

 妙な存在感があるせいか、周囲の花見客たちが、ちらちらと彼に不審げな視線を送りながら通り過ぎていく。

「君たち、そこの小学校の子たちだよね。もしかして、大島先生のクラス?」

「あ、はい!」班長が代表して、急いで頷いた。そういえば、あのベテランおばさん教師は大島という名前だった。

「昔っから、その先生、俺のこと使ってくれるんだよね。生徒の自由研究のためにさ。ま、俺としては嬉しい話なんだけど、よくこんな怪しい男を小学生に紹介できるって思うよ」「おじさん、自分で言うなって!」さっきまで舌が回らなくなっていた旭山が、ノリよくツッコんだ。「おっさん」が「おじさん」には訂正されたものの、すっかり気安い様子になっている。

 旭山だけではなかった。最初は引いていたくせに、いつしか僕たちは、突然現れた中年男と対等のようにやり取りしながら、彼の案内のままに、桜の天井の下を歩きはじめた。まあ、実際におじさんとしゃべっていたのはほとんど、班長と旭山の二人だけだったけれど。


 班長のせいで、今日は無理やり参加させられたということを、僕たちはすっかり忘れてしまった。自然公園の奇妙な管理人は、それほど楽しい時間を提供してくれた。

「ここに住んでいる」というのが本当か嘘かは分からないが、彼が千里自然公園の隅々まで熟知していることは間違いなかった。町に面している日本海を、桜とともに望める絶景スポットを紹介してくれたし、千里町の山々に桜が沢山植えられた由来も教えてくれた。ドラマティックに熱をこめた語り口だったので、僕たちもつい引き込まれて耳を傾けた。

 おとなしい少女の足が遅くて、沢山歩けなかったため、取材のペースはゆっくりしたものだった。それでも、小学生の取材としては成果は充分すぎるほどだった。

 一方、おじさんの話を聞いているうちに、僕の胸にはだんだん、ほかのみんなとは違う疑問が生じてきた。

 絶景スポットを教えてもらったけど、もちろん、あの半透明な桜の巨木には案内されていない。「透き通った桜」なんて口に出したら、班長たちに馬鹿にされそうだけど……あの桜が本当にあるなら、おじさんは正体を知っているに違いない。

 訊いてみたくてウズウズする気持ちと、確かめるのが怖い気持ちが、胸のうちでせめぎ合った。

 そんなものあるわけないじゃないかと、一蹴されることが恐ろしかった。僕は、あの不思議な桜の記憶におびえていたんだから、逆に桜が実在していないことを不安がるというのも矛盾しているが。

 質問を口にできないまま、いつしか陽が傾きはじめていた。そろそろ帰らなければならない。最後は全員で、おじさんのゴミ拾いの手伝いまでした。やはり言い出しっぺは班長だったが、今度は誰も文句を言わなかった。

「ありがとうございました!」

 お別れの時間。僕たちがお礼を言うと、おじさんは「いやいや、こちらこそ」と首を横に振った。そして不意に彼は、それまであまり見せなかった真面目な顔つきになった。

「……俺は、ここの桜の由来を、沢山の人たちに知ってほしいって思ってる。だからみんな、研究発表、頼むよ。

 分からないことがあったら、また来てくれ。俺はいつでも、ここにいるからさ」

 たかだか小学生のクラスでの研究発表に、なにを高望みしているんだとも思うが、その時の僕たちは、全員真剣に「はい」と答えた。

 一方、おじさんの、その最後の言葉で――僕の決意は固まった。

 公園を出て、ほかのメンバーと「明日、また学校でね」と手を振って別れ、みんなの姿が見えなくなったのを確かめてから。

 僕はUターンし、桜の中に舞い戻り、管理人の姿を捜した。


 花見客の多くが家路についたせいか、公園には人影が少なくなっていた。おじさんの姿も、もうどこにも見えなくなっている。

 僕は、少し焦った。

 ゆっくり歩いていたとは言え、半日かけて案内してもらったから、公園内がどれだけ広いのか分かっていた。下手に歩き回ったら、おじさんを見つけるより先に、自分が道に迷ってしまうかもしれない。

 時間も遅くなりそうだし、今日はあきらめるべきだろうか。でも、今帰ったら、せっかく湧いた勇気も立ち消えてしまいそうな気がした。進退を決められないまま、僕はその場に立ち尽くす。

 不意に、前方で人の気配がした。顔を上げると、女性が一人、樹々の奥から歩いて来るのが見えた。一瞬、透き通った桜の許にいたあの人ではないかと驚いたが、そうではなかった。

 彼女と年頃は同じくらいに思えたものの、まったくの別人だ。今では顔も思い出せないけど……意志が強そうな黒目がちの瞳と、腰に届くほど長い髪が印象に残っている。

 見知らぬその人に目が吸い寄せられたのは、着物姿なのが珍しかったのと、なぜか顔立ちが班長に似ていたせいだ。もしかして班長のお姉さんではないか、と当時の僕が考えたぐらいには。

 視線を感じたらしく、歩いて来た女性もこちらに顔を向ける。

「あらっ」

 目が合った次の瞬間、彼女は明らかにびっくりしたような声を出したが、なぜかは分からない。僕は動揺して、思わず数歩後ずさる。

 女の人は、長い髪をかきあげて、苦笑交じりに声をかけて来た。

「別に、怖がらなくていいのよ、坊や。なにも取って食ったりはしないわ」

 そんなことを言われて、余計怖くなったが。白っぽい着物のせいか、別の世界の住人であるような気がしたし。……と、

「ここに、誰かを捜しに来たのかしら?」

 いきなり図星をさされて、僕は仰天した。心を読まれたのかと思ったのだ。

 口の中がからからに渇いていたが、蚊の鳴くような声で、公園のおじさんをさがしてます、と答えた。

 すると、彼女は「なーんだ、『縁』の相手じゃなくて、マーくんを捜してるのか」と気が抜けたような顔をした。

 僕は、きょとんとしてしまう。

 女の人は、あのおじさんの知り合いみたいだ。でも、おじさんよりだいぶ年下なのに、マーくんなんて呼んだら失礼じゃないのかな? そう疑問に思ったが、もちろん口に出すことはできない。

「マーくんだったら、さっきあの辺でゴミ拾いしてたわよ」

 ちょっと投げやりな仕草で、女の人は自分のやって来た道を指さした。僕は、口の中でもごもごとお礼を言って、逃げるようにその方向へ走り出した。


 変わった女の人だったけど、教えてくれたことは本当だった。しばらく走ると、まだ一人で黙々とゴミ拾いを続けているおじさんの姿を見つけることができた。

「…………すごい量だよね」

 声をかけるより前に、まずゴミに対する感想を零してしまった。パンパンに膨らんだ黒いゴミ袋が積みあがっていた。中身がどんなものかは、さっきまで作業を手伝っていたから、よく知っている。弁当のプラスチック容器や、お菓子の包装紙、紙コップやペットボトル。中の飲食物が残されたまま放置されていたものもある。

「まったく。きれいな景色を楽しみに来たくせに、その景色を自分たちが汚していることにも気づかない連中が、後を絶たないからな。困るよなー」おじさんは、大袈裟な仕草で両手を広げつつ、溜息をついた。そして僕の姿を見て、「まだ、なにか質問があったかな? ほかの子ならともかく、君が戻ってくるとは思わなかった」と、瞳に不思議そうな色を灯した。

 そう思われても仕方ない。今日の取材は面白かったけれど、勉強自体は嫌いだから、僕は課題に関する質問は一切していなかった。人見知りだから、知らない大人と話すのは不得手だし。

 だから、すごく緊張していた。それでも、訊かなければならないと思った。

 管理人は外見によらず、濃やかな人物だった。僕のそんな様子に気づくと、目線を合わせるように腰をかがめ、深く「うん」と頷いた。どんな話でも真面目に聞く、という意思表示に見えた。僕は、少し安心して、やっと口火を切ることができた。

「あの、僕、子どもの時、」

 今思えば、小学三年生だった僕が「子どもの時」なんて言い出したら、普通の大人なら失笑してしまうのではないだろうか。だが、おじさんは眉ひとつ動かさなかった。頷き、無言で続きを促してくれた。

「ここで、透きとおった……」口にしてから、子どもながらに、そんなものは現実にはあり得ないのではないかと疑わしくなってきた。あの時は、夢でも見ていたのかもしれない。でも、あの女性の歌声も、抱きしめてきた彼女の身体が温かかったことも、鮮明に思い出せる。僕は目をぎゅっとつぶって、最後まで言い切った。「透きとおった桜を見たんだ。本当なんだ。……ここに、そんな桜って、ある……の?」

 言い終えて、やはり後悔しながら、おそるおそる目を開けた。

 管理人のおじさんは、表情を変えることなく、じっと僕の顔を見ていた。

 僕を頭のおかしいガキだと疑ったわけではないことは、すぐに分かった。

「……ああ、」彼は少しの間を置いて、破顔した。それは先ほどまでの、小学生に相対するための笑顔ではなく、まるで一人前の大人へ共感と親近感を示すような、自然で穏やかな微笑みだった。

「そうか、君も『縁』を持っているんだ」

「えにし……?」

 おじさんのことを「マーくん」と呼んでいた、さっきの女の人も、そんな単語を口にしていた気がする。

「トキノサクラを通じた特別な人とのつながりを、俺たちはそう呼んでる」

「……トキノサクラ?」

 知らない単語が次々出てくる。『俺たち』とは、さっきの女の人も含まれているのだろうか。いろいろと分からないことだらけだったが、

「それなら、とにかく早く行かなくちゃな」

 おじさんは、くるりと背を向けた。

「……トキノサクラは、桜の咲いている今しか現れないからさ」


 そして僕は、管理人のおじさんの後について、少しずつ夕色に染まっていく桜の道を歩いた。五歳の時は、歌声に導かれたから迷わず駆けていけたのだ。案内人がいなければ、どこを通るべきなのかも思い出せず、散りゆく桜の樹々の中で踏み迷うしかなかったかもしれない。

 歩きながら詳しいことを説明してくれたらいいのに、おじさんはずっと無言だった。それが不安ではあったが、僕もなにも訊けなかった。桜の花弁が絨毯のように広がった地面で、影法師が長くなっていく。

 やがて彼は足を止めた。前方を見ると、桜の天井が途切れている。夕陽のせいなのか、それ以外の原因があるのか、その向こうのオレンジの光は、いっそう不思議に明るいように見えた。

「ここからは」おじさんが振り返った。「君が一人で行かないとな。俺は、邪魔しちゃいけない。一分一秒が大事なんだから」

「……帰って来れなくなったり、しない?」

 僕は思わず、ずっと不安に思っていたことを正直に吐露した。唐突な問いだったが、おじさんは静かに首を振った。

「トキノサクラの許で出逢う相手は、君にとって大切な人なんだ。たとえ、まだ君が出逢っていない相手だとしても。そして、君のことを大切に想っている相手でもある筈だ。そんな人間が、君を困らせるようなことをするわけがないだろう?」

「…………?」

「ほら、時間がもったいない。行った、行った」

 おじさんは後ずさりしてきて、大きな手で僕の背中を軽く押した。

 戸惑いつつも、僕は足を前に進めた。一分一秒が大事。……意味は分からなくても、その言葉には妙な説得力をおぼえた。

 桜の枝の下を抜け、その向こうの光に身を投じた。


 パステルカラーの景色は、記憶にあった通りだった。

 今はやわらかな茜色に染まっていたけれど。

 おじさんが『トキノサクラ』と呼んでいた、半透明な桜の巨木も、まばゆい夕陽に染まっている。まるでオレンジ色の絵本を見ているみたいだ。

 そして彼女は、やはりそこにいた。

 トキノサクラの太い根元に寄りかかり、うとうとと眠っているようだった。昔会った時と同じワンピースを身に着けている。

 僕は歩み寄った。長く伸びた影が彼女にかぶさる。

 はじめて、まじまじと女性の顔を見た。色素の薄い髪に縁どられた、卵形の輪郭。すんなり通っている鼻筋。若干、童顔のお姉さんだった。無表情であってもまるで微笑んでいるように見えるのは、口角がきゅっと上がっているせいだ。

 きれいな女の人だとは思ったが、特別な人、と言われても、まったくピンとこない。

(将来およめさんになる人とか……?)

 一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに打ち消した。単純に、年上すぎると思って。

「……僕の未来を知ってるって、本当?」

 思わず、声に出して尋ねていた。小声のつもりだったが、その言葉で、彼女は薄く目をひらいた。

 そして、ピントが合っていないような瞳で、ぼんやり僕を見た。

「あれ……佐野くん……?」やはり一目で分かってくれたが、「さっきまで、あんなにちっちゃかったのに……」と意味不明なことをつぶやいている。まだ寝ぼけているのかと、当時は思った。

「ね、本当なの?」

 お姉さんは誰なの、とか、ほかに訊くべきことはあったかもしれない。でも、僕は一番気になっていた疑問を確かめずにはいられなかった。

「本当よ。あなたが三年生になってから、ここにまた来てくれることだって、わたしはちゃんと知ってたんだから」

 彼女は真顔で答えた。でも、そんなことを今告げられても、彼女が僕の未来を知っている証明にはならない。小学校の名札をつけていたから、学年は見れば分かるし。

 次になにを訊くべきか、言葉がまとまらないうちに、「ああ、素敵な夕陽だわ」と彼女は立ち上がった。そして、茜色の空に向かい、あの時のように軽やかに歌いはじめた。


 夕焼小焼で 日が暮れて

 山のお寺の 鐘がなる

 お手々つないで みな帰ろう

 からすといっしょに 帰りましょう


 彼女が歌うと、世界中が息をひそめるかのように、それ以外の音が聞こえなくなる。

 ほっそりとした身体なのに、どこからこんな声量が出るのだろう。せつなく影を帯びた地平線近くの雲まで、彼女の歌声は届いているのではないだろうか。

「……そうよね。この歌の通りだ。もう帰らなきゃ」彼女は、はっとしたように声を上げた。そして「佐野くん、まだ小学生なんでしょ。暗くなってきたから、子どもはもう、おうちに帰らなくちゃ駄目」お説教するかのように断言してから、「……さみしいけどね」と、急に気弱な様子で微笑み、つけ加えた。

 大切な人、という、おじさんの言葉がよみがえった。

 小学生男子にその言葉の機微を実感しろと言われても、荷の重い話だ。

 しかし、詳しく訊くことはできなかった。確かにもう帰らなければならない時刻だ。これ以上遅くなったら、母親に怒られてしまう。

「……分かった。帰るよ」僕は素直に答えた。そして、「桜が咲いているあいだは、お姉さんはここにいるんだよね?」と確かめた。

 トキノサクラ、というのが、この半分透き通った桜の名前なら……おじさんは、桜が咲いている今しか現れないと言っていた。それなら、桜が散るまでは、この女性にも会えるのではないかと思ったから。

「お姉さんか。佐野くんにそう呼ばれるなんてなぁ。うん。わたしは、ここにいる」彼女は弾んで頷いてから、苦笑した。「でも、次に会えるのは、あなたが四年生になってからだから」

「そんなことないよ。明日、学校が終わってから、また来るから」

 小学校からそれほど遠くないし、授業が終わってからでも立ち寄ることはできるだろう。そう主張したが、彼女は頷かなかった。

「……わたしは佐野くんに逢いたいけど、佐野くんは、今の生活を大事にしてね。小学校時代を過ごせるのだって、今しかないんだから」そんなことを言われても、来るつもりだった。この不思議な桜も、彼女の存在も、夢じゃなかったと分かった今、もっと詳しく真相を知りたい。もう怖さよりも好奇心の方がすっかり勝っていた。

「じゃあ、また明日!」と言い残して、僕は丘を下りはじめたが、彼女も主張を曲げず、「佐野くん。来年は忘れずに、算数の教科書を持って来てね!」と叫んだ。

 ……算数の教科書?

 それはまったく場違いな要求に思えた。なぜ、そんなものが花見に必要なんだろう。勉強はどれも嫌いだが、その中でも算数は、もっとも苦手な科目だ。僕は顔をしかめたが、明日また理由を尋ねればいいと思って、そのまま帰途についた。


 結論を言えば、彼女の言う通りになった。

 実りの多かった取材の成果で、ますますやる気を出した班長が、次の日から放課後にも、発表のための準備をしようと言い出したのだ。しかも、ほかのメンバーも、その提案を受け入れた。おじさんの「研究発表、頼むよ」という言葉が、みんなの耳に残っていたのかもしれない。

 僕一人が、作業の手伝いを抜けることもできなかった。

 結果、僕たちの班の発表は、クラスでも随一の出来となり、大島先生にもずいぶん褒められた。貢献度が低かった僕だって、評価されると誇らしかった。

 それが終わってからも、トキノサクラの許へは行かなかった。

 旭山が、放課後遊ぼうと僕を誘ってくれるようになったから。いつのまにか班長も、もう一人のおとなしい少女と親しくなっていた。無口で、ふわっとした印象だったこと以外、その少女についてはなにも憶えていないが。……大島先生が、新しいクラスのメンバーに連帯意識を持たせるため、班ごとに課題を与えたのだとしたら、僕たちの班に関しては、その目的は見事に叶えられたことになる。

 そして。僕は結局、歌姫の不思議な言葉に惹かれてはいても、自分の将来を知りたいとは、それほど真剣に考えていなかったのだろう。

 時間は無限のループのように続き、将来という言葉に実感が湧かなかった。両親から言われるように、勉強が嫌いでも高校に行き、大学に行き、やがては父のような平凡な会社員になるんだろうと、ただ漠然とイメージしていた。大人になるのは、つまらなそうだった。それなら、今は遊んでおかなければ、もったいないじゃないか。

 桜なら来年も咲く。あの人には来年会えばいい。あたらしい友達ができたことで、僕はあっさりと、そう考え直した。

 旭山は僕とはまったく違うタイプの少年だったけど、一緒にいると楽しかった。あちこち遊びに連れ回してくれて、僕の狭い世界を広げてくれたし。それに、彼のおかげで人見知りの僕にも友達が増えた。

 ……あいつは元気だろうか。きっと、今でも沢山の友達に囲まれていて、僕のことはすっかり忘れているだろうな。

 次の春、僕はもう四年生に進級したのに、古びた三年生の算数の教科書を片手に、トキノサクラを訪れた。

 僕の知らない童謡を歌っていたお姉さんは、僕の姿を見て「あれっ」と首を傾げた。

「佐野くん。また、ちょっと背が伸びたかな?」

「ちょっとは伸びたけどさ……」つい、不満を零してしまった。あたらしいクラスでは、僕が一番背が低かったので。

 身長を気にしていることを悟ったのだろう。彼女は慌ててフォローするように「この先もっと伸びるから大丈夫だよ。まあ、確かに高校生になっても佐野くん、男の子にしては小柄だったけど……」と早口で言う。フォローになっていなかった。予言が当たるか分からないが、もうちょっと希望の持てることを告げてほしい。

「でも、本当はあまり背が伸びてほしくないかもな」さらに嬉しくないことを、彼女は口にする。少し悲しそうな顔で、ぽんぽんと僕の頭を叩きながら。「それって、佐野くんに逢える残り時間が、どんどん少なくなるってことだもん」

 まだ事情をちっとも説明してもらっていないのに、こんなに気安くされる理由が分からない。その上、僕のコンプレックスにまで言及されたから、少し苛ついてしまったのかもしれない。

「お姉さんは毎年ちっとも変わらないね。いつも同じ服着てる」

 棘のある声音で、指摘をしてしまった。彼女の着ているワンピースは、また去年と同じ薄桃色だったし。

「ああ、それはそうだよ」お姉さんは、自分のひらひらした衣服を一瞥したが、まったく気にしていない様子だ。「だって、わたしと佐野くんでは、時間の流れ方が違うもん」

 仮に、僕の将来を知っているというのが事実なら、このお姉さんは、本当に僕とは違う時間の流れにいるのかもしれない。でも、それはどういう仕組みによるものなのか。将来、彼女はどういう形で僕と知り合うのか。……確かめたいことは沢山あったが、あまり知らない大人と話すのに慣れていない小学生男子に、それらの疑問を順序立てて整理し、質問することは難しすぎた。僕にできたのは、むすっとしながら「意味分かんない」と返すことくらいだった。

「わたし、嫌われちゃったかな」お姉さんは、ちょっとおどけて首を傾けたが、「でも、教科書は持ってきてくれたんだね」と、僕が手にしているものを指さした。

 僕は、しぶしぶ頷いた。「……本当は持ってきたくなかった」

 でも、おじさんに言われたから。


 前の年、管理人のおじさんに案内されて、トキノサクラの許を訪れた日……もう暗くなりはじめていたから、おじさんと話す時間は残っていなかった。

 だから、僕は後日、あらためて公園の管理事務局を訪ねた。前に来た時に、場所は分かっていた。トキノサクラから近いところに、ぽつんと小さく立っていたので。

 青いドアをおそるおそるひらくと、眼鏡をかけて書類整理をしていたおじさんは、仕事の手を止めて、嬉しそうに僕を迎えた。

「やぁ、来てくれたんだ。たしか、佐野君だったよね。

 いや、お見それしたよ。君の大切な相手が、桜の歌姫だったとはね」

 事務局にはほかに誰もいなかったからか、彼はすぐに核心に切り込んだ。……そうだった、彼女のことを『桜の歌姫』と呼びはじめたのは、おじさんだった。

「大切な相手って言われても……あの人、だれ? 知ってるの?」

「いや、俺は知らないよ。君が将来出逢う筈の女性だってこと以外は。本人からも、事情はなにも聞いてないし。……でも、歌姫って呼ぶのがピッタリじゃないか。歌声は素晴らしいし、おまけに美人だし。いいなぁ~君は、どんなかたちでかは分からないけど、いつか、あんな女性と想い合える仲になれるなんてさ」小学生男子相手に、真剣に羨ましがっている壮年の男。でも彼はすぐに、微量の哀しさを声音に宿らせた。「まあ……『縁』を持っているということは、よほどの事情があるんだろうから。こんな言い方をしたら、将来の君に対して失礼だな。すまなかった」

「失礼とか言われても……」大人にそんな謝られ方をしたことがなかったので、僕はどう反応したらいいか分からなかった。「本当に、あの人と僕が?」

「『縁』を持たない人間には、トキノサクラも、その許の住人も見ることはできないんだよ。声だって聞こえない」管理人は、淡く微笑んだ。「もし歌声がみんなに聴こえてたら、とっくに町中で有名になってるだろ、彼女。あれだけの声量なんだから」

 確かに、それはそうだ。五歳の時、あの女性の歌声は母親たちには聴こえていなかったことを思い出す。

「けど……」僕は、渋面をしていたと思う。「あの女の人、変なこと言うんだ。来年、算数の教科書を持ってこいって」

「算数の教科書?」おじさんは一瞬、狐につままれたような顔をしたが、すぐに快活に笑い出した。「はははっ、それが将来の二人の出逢いに必要になるってことは、君、もしかして算数が苦手なのかい?」

「……!?」

「いや、貴重な二人の逢瀬にわざわざ算数の授業をやるっていうなら、よっぽど大事なことなんだろ。歌姫の忠告に従った方がいいよ、後悔しないようになっ」

 ぽんと背中を叩かれ、僕は、がっくりと肩を落とした。


 旭山と下校している時、クラスに好きな女子がいるとこっそり教えてもらったことがあった。お前にも好きな奴がいるか教えろよ、と問い詰められたが、僕はまだ、そうした気持ちが、どういうものなのか分からなかった。

 だから、「大切な人」という言葉の意味が理解できないのだろうと思っていた。

 あの頃は男同士で時間を過ごす方が楽しかったし、正直、桜の歌姫よりも、管理人のおじさんの方がずっと信頼が置けた。本当に変な大人だった。『縁』を持っていると分かってからは、小学生の僕をほとんど子ども扱いしていなかったし。

 おじさんに勧められていなかったら、算数の課外授業なんて受けに来なかった。

「佐野くん、もう四年生なんだから……これ、去年の教科書だよね?」

「……去年の授業も、途中で分かんなくなったから」真新しい教科書は、触れもせずに家に置いてきてしまった。

「OK」ふふ、と桜の歌姫は笑ったようだった。「わたしね、もちろん音楽も好きなんだけど、本当は小学校の先生になりたかったんだ。だから、ほかならぬ佐野くんに、その機会をもらえて嬉しい。算数って懐かしいなあ。さぁて、どのあたりから教えてあげたらいいのかな?」

 嬉々として教科書を広げる彼女。勉強が楽しそうなんて、お姉さんも変な大人だって、この時は思った。

 僕は彼女から目を逸らし、ぼんやりと頭上を見上げた。

 そして、違和感に気づいた。

 この時、公園のほかの桜はまだ開花したばかりだった。でも、トキノサクラはすでに満開だ。すでに透明の花弁が散りはじめている光景は、去年見たものと同じ。

 こうして見上げると、風に乗った花弁は晴れた空を透かして青く見える。輪郭だけが、川の流れのように、天上で無数にキラキラと輝いていた。

 その年から。

 桜が咲いているあいだ中、僕は友達の誘いもすべて断り、不思議な歌姫の許になぜか算数を教えてもらいに行くという、奇妙な現実を受け容れていた。

 おかげで桜前線が北上して来ると、冬が終わることが嬉しい反面、「ああ、今年も算数だ」とうんざりするような気分も湧いて来た。

 ……でも、僕はトキノサクラの許に通うこと自体はやめなかった。

 周りに秘密を持つのが楽しい年頃だったのもある。半透明の桜の存在を、周りの人たちは知らないし、見ることもできないのだと思うと、自分だけが特別に選ばれたような気がして嬉しかった。友達と遊びに行くと母に嘘をつくことには罪悪感があったものの、パステルカラーの丘に向かっていると、自分だけの秘密基地を持てたようで、高揚する気持ちを抑えきれなかった。

 また、実際、彼女の教え方はとてもうまかった。春のはじめに、去年の分からなかった単元の復習と、今年学ばなければならない単元の予習。それを毎年繰り返すことで、授業中ちんぷんかんぷんのままずっと座っていなければならない苦痛な事態も避けられた。

 それに。どうして歌姫が僕のことを大切に想ってくれているのかは分からなくとも、いろいろと僕の話にも耳を傾けてくれたことは嬉しかった。友達関係での悩みごとを相談したこともあるし……取材の時おじさんに教えてもらった、千里自然公園が生まれた由来については、僕が彼女に教えてあげることができた。大人が真剣に「そうだったの」と話を聴いてくれると、やっぱり誇らしくなる。

 おまけに彼女は、算数の合い間に約束通り、僕の未来を教えてくれた。

 未来とは言っても、その多くが、「佐野くんは四年生の運動会のリハーサルで怪我しそうになるから、気をつけて」とか、「五年生になったら、担任の先生が厳しいから、忘れ物しないように今から習慣づけておいた方がいいよ」というような、すぐ先の出来事への忠告だった。そして、確かにすべてが的中した。

 臆病な僕にとって、学校生活のささやかなピンチを乗り切らせてくれる情報は、かなり有益だった。そもそも、将来をつまらないものだと決め込んでいた僕は、あまり自分から遠い未来のことを尋ねようと思わなかったし。

 でも、分数の割り算の問題なんかに四苦八苦しながら、「大人になって、こんな勉強役に立つの?」という疑問が、つい口をついてしまったことがある。だって、両親が分数の計算式を解いているところなんて、見たことがないじゃないか。

 彼女は形のよい眉をひそめ、悲しそうな顔をした。女の人にそんな表情をさせてしまったことが子どもながらにショックで、僕は二の句を継げなくなる。桜の歌姫は、まるで歌っているように抑揚をつけた口調で、こう答えた。

「あなたが大人になってからの仕事に、算数とか、数学が役に立つかは分からないわ。

 ある時点から先のあなたの未来は、わたしには知ることができないの」

 わたしには、という言葉に、彼女はほんの僅か、力を込めていた。

「ただ、あなたに確実に出逢いたいから、わたしはあなたに算数を教えているだけ。歴史とか、暗記中心の科目はまだしも、算数は、概念を理解するプロセスを積み重ねていかないと、あとから勉強し直すのが大変だもの」

「……むずかしくて、よく分かんないよ」

「ごめんね。でも、わたしが勉強を教えてあげられる時間は、長くないから。本当はこんなことをするより、あなたと、違う時間の過ごし方をできたらいいのにね」


 ……うん。

 今なら、分かる。君がそんな本音を零した、その意味について。

 でも、内気である上に、なにも知らなかった僕が、勉強を教わるほかに君とどんな時間の過ごし方をできたのかは、ちょっと思いつけないけどね。


 僕は、歌姫の言葉に神妙に頷くしかできなかった。

 無数の桜が咲き連なる自然公園を擁した田舎町には、今はもう住んでいない。

 小学校を卒業する頃に、会社員である父親の異動が決まり、いくつか県境を越えた先の地方都市へと引っ越さなければならないことを、すでに予言されていた。そうなったら、もう桜が咲いても、気軽に歌姫に会いに来ることができなくなってしまう。

 算数の授業を続ける気が起こらなくなったのか、彼女はすんなりと立ち上がった。

 いつしか日が暮れはじめて、空はもう、茜色から藍色のグラデーション。

 桜の歌姫は、また歌いはじめた。ミュージカルでもあるまいし、普通の人間なら唐突な行為なのに、彼女のそれは、いつも呼吸をするように自然だった。


 春は名のみの 風の寒さや

 谷の鶯 歌は思えど


 夕陽が、トキノサクラと、歌姫の白い肌を同じ色へと染めている。

 彼女の表情は、逆光でよく見えなかった。歌声に一切のよどみはない。でも、なぜか、僕はまた、この女の人が泣いているんじゃないかと思っていた。

 桜の樹々を揺さぶりそうなほどのビブラートに、なぜか心がしめつけられた。


 時にあらずと 声も立てず

 時にあらずと 声も立てず


 君はあの頃、肝心なことはなにひとつ教えてくれなかったよね。

 今の僕なら、分かるよ。

 きっと、君の方には言いたいことが山のようにあったに違いない。……でも、きょとんとしてばかりの小学生の僕に、なにも言える筈がなかっただろう。

 だから……君は、歌ったんだ。

 ほかにはなにも、できなくて。


 僕は当時なにも知らなかった。でも……あの時、誓ったのかもしれない。

 この人の望むことを叶えてあげたいって。

 受け身で言葉に従うのではなく、僕自身の意志で。

 やがて、いつも通りに彼女の予言が当たり、父親の異動が決まった。

 僕は歌姫の住まう町を後にした。旭山や、ほかの友達も大いに別れを惜しんでくれたが、どうしようもないことだった。

 お小遣いで簡単に往復できるような距離ではなかったので、中学生時代には千里に戻ってみることができなかった。

 彼女の方は、当分僕が来ないことをもう知っていたのだろう。僕がどんな風に中学校で悩み、その時どうしたらいいかという策はすでに授けてくれていた。……そして、進路については、引っ越し先の都市の、とある私立高校を受験するようにと強く勧められた。

 はっきり言って、僕の成績では合格するのが難しいレベルの高校だった。しかも、なぜそこへ進学しなければならないか、理由は教えてもらえなかった。ただ、入学したら部活には絶対に入るようにと念を押された。

 小学生の頃からずっと、桜の歌姫の予言に頼りながら学校生活を送っていた僕だ。彼女の導いてくれるレールから外れた生き方をするなんて、もはや考えられなかった。助言さえよく聞いていれば、大きな失敗をして恥ずかしい思いをしたり、必要以上に傷ついたりしなくて済む。それを身に沁みて、経験してきていたから。

 お年玉を貯めておいて、高校生になったら、また歌姫にその先の予言を訊きに行こうと思っていた。ある時点から先のことは分からないそうだけど、まだ、その時がいつだとは示されていない。まだ、お別れが来るとも告げられていない。それなら必ず、また会える筈だ。

 それより、まずは目前の受験だった。合格できなければ、きっと歌姫を失望させてしまうだろう。

 母親は、もちろん僕が勉強にやる気を出したことを喜んでくれたし、塾に、教材にと協力を惜しまなかった。一人っ子だから、なおさらに。

 さて、無事に「サクラ咲く」結果を迎えられたか、どうか。

 結論から言えば、僕は運が良かった。

 一部の校舎がレンガ造り風だし、ブレザーの制服はデザイナーの手によるものだし、おしゃれな高校だということは歌姫から聞いていた。僕にとっては、それは別に重要な要素ではなかったが。

 部活に入れとは重々命じられていたので、入学して間もないうちに、新入部員を勧誘している部室棟を訪ねてみた。その周辺で、先輩たちがブースを並べてチラシを配っている。にぎやかな校庭では、透明ではない普通の桜が風に舞っていた。

 ところで一体、どの部活を選んだらいいんだろう。中学生の時はろくに部活動をやっていないし、趣味らしい趣味も持っていない。それに歌姫には、どこに入部すべきだとは指定されていなかった。

 入学前の春休みに、また歌姫の予言を訊きに行けばよかったのかもしれない。だけど、僕は新生活の準備だけではなく、高校の教科の予習にも追われて忙しかった。せっかく入学できたのに、授業についていけなくなるのが不安だった。勉強はやっぱり好きにはなれなかったが、歌姫にがっかりされるのが怖かったから。

 だから、もう部活選びは自分で考えるしかない。

 運動は苦手なので、文化系のクラブを選ぶことは絶対だ。僕の性格上、なるべく地味な活動にしておきたい。演劇部とか合唱部とか、人前に立つようなものは勘弁だ。

 ……そんなつもりだったが。


 なじかは知らねど心わびて

 昔の伝説はそぞろ身にしむ


(これ、「ローレライ」だ)

 誰かさんのおかげで、すぐに歌の名前を思い出せるくらいには、僕は古い童謡や唱歌に詳しくなってしまっていた。

 同時に、激しく混乱した。この歌声は、聴き間違えようのない、桜の歌姫のものじゃないか。なぜ、歌姫の声が、遠く離れたこんなところで聴こえてくるのか。この先の予言が欲しいあまり、ついに幻聴が聞こえるようになってしまったのか。

 ――が、幻聴ではないと、すぐに分かった。僕だけではなく、周囲にいる誰もが手を止め、おしゃべりを止めて、その透き通った響きに聴き入っていたから。


 寥しく暮れゆくラインの流れ

 入日に山々あかく栄ゆる


 彼女の声で夕暮れの情景を歌い上げられると、行ったことのないライン川ではなくて、やはりトキノサクラの許で仰いだ夕焼け空が脳裏によみがえってきてしまう。

 僕は、その場でじっとしてはいられなかった。

 まさに、歌声で海に引き込まれる舟人のような心境で。はじめて歌姫の声を聴き、操られるように桜の海に踏み込んだ、五歳の時のように。

 若干ふらふらとしながら、でも次第に足を速めて、部活棟に入っていった。歌声は、上の階から響いてくる。千里自然公園にずっと足を向けなかった僕なのに、たまらなく苦しいほどの懐かしさがあふれ、高揚感のまま階段を駆け上がった。

 普段は引っ込み思案なくせに、歌声が聴こえてきた部屋の扉を、ノックもせずにひらいてしまった。

 そこは、合唱部の部室だった。びっくりしたのか、室内で佇んでいた少女が、弾けるように振り返る。

 ほかの部員たちは、新入部員の勧誘のために出払っているのだろう。部室にいるのは、彼女一人だった。その姿を目にして、僕は呼吸が止まるかと思った。

「なんで……ここに、いるの?」

 色素の薄い髪で、若干童顔で、口角がきゅっと上がっていて。

 同じ高校の制服を着ているが、そこにいるのは間違いなく、僕がかつて、ずっと桜の時期を一緒に過ごしてきた歌姫だった。

 だけど。

「…………えっ?」僕の顔を見つめ返した少女は、困ったように首を傾げた。明らかに、僕の顔に見覚えがないようだ。「人違いじゃ、ないですか?」

「だって……」僕は、口ごもってしまう。常人には真似のできない美声の持ち主である上に、顔もそっくりなのだ。別人だと思う方がおかしい。

 けれど、名前を呼ぶことはできなかった。僕は、桜の歌姫の本名を知らない。

 いつもトキノサクラの許で二人きりだったし、名前が分からなくても不便はなかった。必要があれば「お姉さん」と呼んでいたが、どうみても同年代の少女に、そんな言葉はかけられない。

 あらためて見れば合唱部の少女は、僕の憶えている桜の歌姫よりは年下だ。彼女はやはり、高校生である。予言された通り、成長しても小柄な僕だったが、彼女は僕より背が低く、童顔の歌姫よりも幼く見えた。

 小学生の時は、大人の年齢なんて判じることができなかったが、今思い出せば、多分歌姫は二十歳ぐらいではなかったか。大人だと思ってきたあの人が、意外に近い世代に感じられることに、僕は驚いた。

 もしかしたら、ここにいる少女は、歌姫の妹か、あるいは親戚かもしれない。そんな考えがよぎり、僕は千里町の名前を出して尋ねてみたが、少女もやはり、僕の生まれた小さな田舎町を知らなかった。

「…………」

 納得はできなかったが、目の前にいる女子生徒が困惑している事実は、どうしようもない。僕は質問をあきらめ、人違いを詫びるほかなかった。

 ちょうどその時、どやどやと、勧誘活動をしていた合唱部員たちが戻ってきた。「あれっ、見学ですか?」「テノールもバスも人数少ないから、男子は大歓迎だよ!」あっと言う間に僕は、先輩たちに囲まれてしまった。みんな笑顔だが、妙な迫力があって怖い。

 確かに大半が女子だ。素人の僕にも、男声が少ないと、合唱として全体のバランスが取りづらくなりそうだとは想像できた。

 でも、僕は見学に来たわけじゃありません、とあわてて断ろうとしたものの、

(……いや、待てよ)すぐに考え直した。

 桜の歌姫は、僕に必ず部活に入るようにと念を押していた。

 ここに入部しないで、一体、ほかのどこへ行くべきだというのか。

 歌姫にそっくりな少女がいることが、よもや偶然とは考えられない。

 思い出せ。公園の管理人のおじさんは、桜の歌姫のことをなんと言っていた?

 ――トキノサクラの許で出逢う相手は、君にとって大切な人なんだ。

 ――たとえ、まだ君が出逢っていない相手だとしても。

 もしも……目の前の少女の数年後の姿が、あのトキノサクラの許の歌姫だったとしたら、今は僕のことを知らなくても、無理はない……?

 にわかには信じ難いが、そんな推論が頭をよぎり、僕は言葉に詰まった。

 そうして、ろくに返事もできなくなっている僕の前に、少々強引な先輩たちが入部届けの書類を持ってきてしまう。歌いたいとは思わなかったが、……僕は、抵抗しなかった。