グランドスカイ | メディアワークス文庫 1PAGE

第一章 オリンピックドタキャンコーチ、現る。



 人生の転機に音があるとしたら、至のそれはピチンという微かなものだった。自分を中学校の教室につなぎとめていた、か細い糸が切れる音。

 夏休み直前、至は不登校になった。

 以来、空が高くなって秋になり、やがて空気が澄んで冬になるまで、日がな一日部屋にこもり、窓の外から空を眺めて暮らした。教室と違って、その態度を怒る教師も、自分を異端児扱いする生徒達もいない。ときどき家の外が恋しくなったが、そのストレスも戦闘機のパイロットになるテレビゲームで十分に解消できた。

 ある、風の強い夜のことだった。

「至、ごはんよ」

 いつものようにキッチンから母親の美代子の呼ぶ声が聞こえ、静かに階段を降りた。

 不登校になった当初は脅したりなだめたりと忙しかった美代子も、元来がのんきな性格なのか、一ヶ月もすると長い休みが始まったのだと割り切ったようで、冬にはいつもの大らかな美代子に戻っていた。

 少女趣味が高じて息子に無理矢理バレエを習わせた母親である。至が不登校になっても明るさを崩さなかったのは、どこか世間ズレした性格のおかげなのかもしれなかった。

「どう? 今日は山カレーにしたんだけど」

「単にごはんを山の形によそっただけでしょ」

 食卓の上に載っていたのは、ルーの海から見事にそびえ立っている富士山形の白米だ。ご丁寧に頂には日の丸の旗まで飾ってあった。

 美代子が腰に手を当てて、対面式キッチンの向こうから睨みつけてくる。

「彼女ができても、そういう言い方したらすぐに振られるわよ」

「彼女なんてできないよ、家にこもってるんだから」

 一寸の間、美代子は口を継ぐんだが、沈黙を嫌うようにすぐ笑顔をつくった。

「早く食べなさい」

「うん」

 椅子を引いて座り、テレビのリモコンをつけてカレーを食べ始めた。至の舌を気遣ってか味付けは大分マイルドになっていたが、それでも辛党の美代子がつくるカレーは、食べ進めるうちにこめかみに汗の玉が浮いてくる。裏庭で採れたごろごろの野菜達は煮崩れを起こしていて、地元群馬産の榛名豚とともに口の中でほろほろと蕩けていった。

 いつもなら美味いと無邪気に歓声を上げるのだが、あの夜は頬の辺りに美代子の妙な視線を感じてそうはしなかった。

「何?」尋ねると、美代子がぎくしゃくと食器を洗い始めた。

「ううん、今日、ちょっと辛くしすぎたかなと思って」

「いや、いつもと同じだよ」

 その時は聞き流してしまったが、美代子の視線の理由はその後、すぐに判明した。

 父親の尚人が、帰ってくるなり至の腕を乱暴に掴んできたのだ。ちょうど至が居間の椅子に座り、勝ち抜きのお笑い番組を見ている時だった。

「どうしたの!?」

 尋ねても尚人は何も応えず、至をそのまま椅子から引き立たせた。

「痛い、放してよ」

 尚人はかなりの痩せ形だが、やはり大人だ。至が全部の力をかけても敵わない。腕を滅茶苦茶に振り回したが、かえって体力を消耗してしまった。いつもは冷静であまり強いことを言ってこない尚人が、こんな暴挙に出るとは思っていなかっただけに、怒りよりも驚きが先に立った。

「これから外に鳥を見に行く」

「鳥!?」

 思わず美代子に助けを求めたが、ただ心配そうにこちらを見つめているだけだ。その目が先ほどの妙な態度とつながり、このことが予定されていたことをようやく悟った。

 鳥ってなんだよ、冬の夜だぞ。

 気を削がれた一瞬、ひょいと尚人に抱きかかえられて車庫まで運ばれ、無理矢理に車の中に押し込まれた。

 運転席から助手席にロックをかけられ、エンジン音が鳴る。

「来れば後悔はさせない。すごい鳥なんだ」

 尚人の懇願するような声に、この行動に出るまでの苦悩が凝縮されているようだった。

 運転席からの視線が、胸に突き刺さってくる。さっきまで強く掴まれていた腕の一部が、じりじりと痛みはじめた。

「夜に鳥が飛んだって見えないでしょ?」

 抵抗をやめ、ダッシュボードの蓋を開けたり閉めたりしながら、至は口を尖らせた。

「見えるんだよ。くっきりな」

「――意味、わかんないし」

 謎めいた問答のあとに、スタッドレスタイヤの4WDが車庫から滑り出した。ヘッドライトの明かりに雪道がほの白く浮かび上がる。無言の車内にラジオの音だけが響き、粉雪が花火のように散り広がってフロントガラスにぶつかってきた。

 カーブを曲がりきると、正面に幼い頃から見慣れている天神岳が佇んでいた。スキー場のナイターの明かりが斜面に沿って点々と光を放っている。

 美代子とは違い、至の不登校を尚人は一度も責めたことがない。なのに、この暴挙である。その矛盾が、どうしても腑に落ちなかった。もしかして、この夜のためにずっと自分を泳がせて油断させていたんだろうか。

 しばらく二人とも、狭い車内で無言のままだった。周囲にルーフキャリアを載せた車が増えはじめ、街並を抜けてしばらく走ると、車がU字の斜面を繰り返し登りだす。

「もしかして群北スキー場?」

「ああ」答える尚人は、まだ緊張を漂わせながらも少しだけ口元を綻ばせた。

 群北スキー場は、その雪質がいいことと、ビギナーから上級者まで楽しめる豊富なコースが用意されていることで、全国からスキーやスノーボード客が訪れる県随一のスキー場だ。

 至もこの山間の街育ちだから、学校のスキー教室や遊びで何度かは訪れたことがある。

 だがなぜ、父親が自分をそこへ連れていこうとしているのか。これまでナイターで来たことはあったが、一度も鳥なんて見たことはなかった。

 スキー場の駐車場に車が入った頃には、その疑問が強い興味に変わり、至は自分がここ半年、ずっと引きこもっていたことをほとんど忘れかけていた。

 ご丁寧に予め車に積んであったダウンジャケットにマフラー、いつの間にか用意されていた今の足のサイズにぴったりの真新しいスノトレを履いて車を降りた。

 大人しく従う至を見て尚人も安心したのか、ナイターの明かりで薄白くなっている空に向かい、大きく腕を広げて伸びをしている。

「雪の山道なんて運転するの、久しぶりで緊張したよ」

「鳥なんて、どこにも飛んでないじゃん」

「もうすぐ見えるよ」

 尚人が振り返って笑った。

 外の世界だ。

 冷たい空気が露出している毛穴中から入り込み、身体の芯にちりちりと触れる。空を仰ぐと、澄んだ空気の向こうで星明かりが瞬いていた。

 あれほど頑なに外出を避けていたのに、三ヶ月ぶりの外気は懐広く、両手を広げるようにして至を迎えてくれた。

 ――至君って、気持ち悪いよ。

 意識が緩んだ隙を突いて、夏のはじめ、早すぎる氷柱のように自分を刺した言葉が甦ってくる。慌てて深呼吸を繰り返し、先に歩き出した尚人を追った。

 とにかく今は、その面白いとかいう鳥を見てやる。

 心臓が不自然なほど速く打った。それを予感と呼ぶほどの経験が、至にはまだない。

 夜気で頬を赤く染め、鼓動につき動かされるようにしてゲレンデへと一歩を踏み出した。

 尚人が至を連れて行ったのは、第四ゲレンデだった。

「スキージャンプ台?」

「そうだ」尚人が満足げに頷く。

 一般のスキーヤーやスノーボーダーが滑るのは第一ゲレンデと第二ゲレンデだから、その奥の第三、第四ゲレンデまで足を延ばしたことはなかった。存在は知っていたが、スキージャンプ台をまじまじと見上げたのもあの夜が初めてのことだ。

 煌々と照るナイターの明かりに浮き上がる巨大なカーブ。その先端は、宙に向かって唐突に途切れている。

 斜面のかなり上に設置されたバーには、誰かが腰掛けていた。尚人が黙って見上げているのに倣って、至もそうする。何となく注目せずにはいられない存在感が、その人物にはあった。男の人だ。そう直感する。

 彼が立ち上がった。ゴーグルにヘルメット、ストックは持っていないのが遠目にもわかる。

「あんなに上から、滑って飛ぶの!?」

「ああ、すごいだろう」

 尚人が愉快そうに応えたのと同時に、彼が勢いよく滑り出した。速い。街中を走る車よりも、至がふざけて直滑降で滑り降りる時よりも速く、一気に加速していく。

 危ない!

 とっさに思った。台の先は何もない。流れてくるのが水だったら、雪面へと真っ逆さまに落ち、飛沫を上げて砕け散るだろう。だが、彼は飛んだ。

 一秒、二秒、三秒――スキー板をV字に広げる独特のポーズ。ハの字に広げた左右の腕でバランスを取っているのだろうか。空気を裂いて、彼がどこまでも飛ぶ。実際には台を飛び出した瞬間から落下しつづけているのだろうが、目の前で繰り広げられたジャンプには、飛翔という表現がぴったりだった。

 ほんとに、鳥がいた。

 なんて気持ちよさそうに飛ぶのだろうと思った。自分が今までやってきた戦闘機パイロットのゲームが、所詮ちゃちなお遊びなのだとがつんと思い知らされる。

 ひらりと舞い降りるように、ようやく彼が着地した。ジャンプした地点はかなり遠かったのに、着地点は尚人や至が立っている場所の目と鼻の先だった。

 彼がゴーグルを外す。笑って、額を拭っている。

 気がつくと、至の全身が細かく震えていた。頭の中で、見たばかりの光景が何度も繰り返され、その度に自分でも触れたことのないような胸の奥が揺さぶられた。

「至もやってみるか」

 惚けたように彼を見ていた至に、尚人がそっと尋ねた。それともあれは、自分が自分に尋ねる声だったのか。

「うん」

 心はすでに鳥になって、地平を見下ろしながら飛んでいた。


「母さん、早くしてよ」

「はいはい。学校に行く時も、そのくらい張りきってくれるといいんだけどね」

 美代子の嫌味は聞こえなかったふりをして、至は助手席に飛び乗った。

 久しぶりに登校した帰りだ。身体全体にへどろがこびりついてしまった気がして、早く飛びたくて仕方がなかった。

 最低一週間に一度は学校へ通うこと。それが、群北スキージャンプクラブに通わせる代わりに両親から提示された条件だった。だから仕方がなく月曜日に登校し、誰とも口をきかず、ひたすら放課後を待ちわびながら時間を過ごして帰ってくる。

 初めてスキージャンプを間近で見たあの夜から、もう半年以上が経った。背は五センチ伸び、身体のバランスが崩れるたびに感覚を掴み直して飛ぶ日々だ。

「今日よね、新しいコーチがいらっしゃるのって」

 ハンドルを切りながら美代子が尋ねてきた。

「うん。瀬戸コーチが言うにはすごい人なんだって。別に僕は瀬戸コーチがいればいいんだけど」

「でもコーチも六十歳を越えていらっしゃるしね。中尾コーチと二人だけで二十人も面倒を見るのは大変なんじゃないかしら」

 肩をすくめると、美代子は「その仕草、やめなさい」と眉をひそめた。生意気に見えるからと、至がこの仕草をする度に注意してくる。

 いつもは少し苛々とするが、今日はそれも気にならなかった。

 窓の外では、木々の葉が緑のグラデーションを織り成し、後方へと流れていく。

 今日はついに、ノーマルヒルのジャンプ台から、この緑が全盛の山の景色を見下ろすことになるのだ。正直、教室の椅子に座っているのが、いつも以上にじれったくて仕方がなかった。

 スキージャンプの練習は、手作りの小山や高さ五十センチほどの小さな台を飛ぶことから始め、徐々にステップアップして、テレビで見るようなノーマルヒルやラージヒルへと辿り着く。

 至も去年、小学校低学年の子供達に混じって、ひな鳥のようなジャンプ訓練から始め、何とか第三ゲレンデにあるスモールヒル、ミディアムヒルを飛んで、今回ようやく第四ゲレンデにあるノーマルヒルからのジャンプを許された。これが飛べると、ジュニアだけでなく、大人達に混じって一般の大会にも出場可能だ。スタート地点と着地点の標高差は約一○七メートル。昨日の練習でスターティングバーに腰掛けてみたら、下方はジオラマのように小さく感じられた。

 駐車場に到着すると、至はさっさと車から降り、トランクからスポーツバックを取り出した。スキー板はクラブが管理しているから毎回持ち歩くことはない。

「やっぱり今日は母さんもいようか?」

「いいよ。気になってかえって危ない」

「――無事に飛べたらすぐに連絡しなさいよ」

「うん」

 返事をしながら勢いよくバックドアを閉じ、駐車場の向こうに聳えて見えるノーマルヒルのジャンプ台を見上げた。隣に並んでいるのはラージヒルで、標高差は一三八メートルにもなる。

 知らない人も多いが、夏の間もスキージャンプ競技は行われている。群北スキージャンプクラブが練習するジャンプ台は、夏冬兼用のセラミック製レールを採用しており、ランディングバーンとよばれる着地斜面は白い雪ではなく緑の人工芝だ。

 雪の季節もいいが、頬の肉を炙るような日射しの中、重く湿った風に支えられるようにして飛ぶサマージャンプも嫌いではない。

 同じクラブの子供達の姿もちらほらと見えたが、もつれるようにふざけ合いながら進む彼らとは距離を置いて、至は一人、ジャンプ台を擁するスキー場へと向かった。飛ばない日は麓にある市のスポーツセンターでバランス感覚や瞬発力を磨くトレーニングをするが、今日はジャンプ練習を行う日だから直接山に集合し、人工芝の上でアップを行ったあとに飛ぶ。

 ちょうど至がクラブハウス前に到着した時点で、群北スキージャンプクラブの面々が全員揃った。人数はそう多くはないが、それでも小学生十名、中学生五名、高校生三名の合計十八名が在籍している。

「おお、至、来たか」

 のんびりとした声は振り返るまでもなく瀬戸コーチだ。

「ちわあっす」

 至に話しかけてくるのは、瀬戸を除けばもう一人の中尾コーチと高校二年生の三名ほか同じ中学の上級生くらい。コーチ二人でカバーできない分、室内トレーニングの時など上級生が下級生の練習を手伝うことも多いためだ。

「全員集まってるかあ?」

「はい」

 あちこちで返事が響いた。

 新しいコーチ、来てるかな。

 視線を左右に巡らせてみたが、それらしい人物は見当たらない。

「まだ、いないな」

 至の隣でつまらなそうに呟いたのは高校二年の航一だ。今シーズンは調子を崩しているものの、その実力は折り紙付きでクラブ初の強化指定選手入りも期待されている。ストイックでどこか近づき難い雰囲気を漂わせているが、なぜか至は彼に気に入られたらしく、何かと向こうから構ってくる。

「コーチの顔、知ってるの?」

「いいや。でも会ったことないやつが現れたら、多分そいつがコーチだろ?」

「どんなコーチなんだろう」

「さあな。中途半端なやつなら、いないほうがましだけど――もうすぐわかるだろ」

 他のメンバー達も新コーチが気になるらしくそわそわと視線を泳がせている。皆の様子を察したのか、瀬戸が口を開いた。

「ミーティングを始めるまえに、みんなが気になっている新コーチを紹介することにしようか。上馬隼人コーチだ。おおいコーチ、出てきてくれるか?」

 瀬戸が、クラブハウスの出入口に視線をやった。皆の視線が束になり、瀬戸と同じ方に向けられる。すっと痩せた長身の男が入り口付近に現れた。締まった体つきに感情のよく制御された知的な顔立ち。だが微かに上がった口元にはユーモアのようなものが漂っている。現役のアスリートと言われても信じてしまいそうな風貌だった。

「まじかよ」

 航一の声が震えていた。航一だけではなく、他のメンバーの中にも「上馬隼人って、まさか同一人物!?」などと興奮している子供達がいた。

「有名な人なの?」

「しぃ!」

 航一にたしなめられて、至も口を閉じて前方を見た。

 上馬がゆっくりと皆の前に移動した。背筋をすっと伸ばし、一人一人の顔を順番に見つめている。その視線が至にも注がれ、全身をくまなくスキャンされているようで、落ち着かない気分になった。

 端から端まで子供達を見渡し終わると、ようやく新コーチが口を開いた。

「上馬隼人だ。ご存知の通り、オリンピックドタキャン選手だが、多分、ここにいる誰より飛べる。これから一人一人の限界をいっしょに超えていきたいと思ってる。目標は各大会での上位入賞。以上」

 どよめきが起きた。オリンピック、限界を超える、目標、上位入賞。群馬の山奥に集った弱小クラブの面々には、航一を除けばあまりにも縁がなさそうな言葉ばかりだ。

 しかも、オリンピックドタキャン選手ってなんだ?

 まだ興奮してざわついている子供達を、瀬戸がいつもの地蔵スマイルで見回しながら手を叩いた。

「さあさあ、取りあえず今日は上馬コーチにみんなのジャンプを見てもらおうか。アップが終わったら、ビブの番号順に飛んでもらう。黄色いビブをもらったらノーマルを、赤いビブをもらったらミディアムを、青いのをもらったらスモールを飛ぶように。赤と青は第三ゲレンデで最初に飛ぶぞ」

 至の高揚していた気分は、新コーチの声を聞いた直後から急速に萎えていった。

 隣の航一がすっと手を挙げる。

「どうした、航一」

「俺達が滑る前に、誰よりも跳べるっていうなら、まずはコーチのジャンプが見たいんすけど」

 ざわめきが一瞬で止んだ。空中で上馬と航一の視線がぶつかりあっている。

 ふっと上馬が口元を緩め、頷いた。

「いいだろう。俺が一番に飛び、みんなはその後につづいてもらう」

 皆が再びざわめく。

 よくやるよ、航一さん――。

 さぞ挑発的な顔つきをしているだろうと至がそっと航一を盗み見ると、意外にも興奮を抑えきれないように頬を紅潮させていた。

「航一さん?」

「あの人のジャンプ、ちゃんと見とけ」

 早口で告げると、航一はさっさとストレッチをはじめてしまった。

 上馬コーチに向かってあんな言い方をしたくせに、ちゃんと見とけなんて――。

 緊迫したムードを引き摺ったまま、アップがはじまった。上馬は腕を組んで、じっとみんなの様子を観察している。

「中尾コーチ、あの人なんか怖いよ」

 クラブ最年少で小学校二年の慧子が、中尾の袖を掴んで放さなくなった。

「あの人じゃない、上馬コーチと呼びなさい。ああいうのは怖いんじゃなくて、かっこいいっていうんだよ」

 まだ二十代でどこか学生っぽい雰囲気の抜けない中尾は、コーチでもあり兄のような存在でもある。丸っこい目をやたらと光らせて、大好きなアイドルでも見るように瀬戸と話しはじめた上馬を見やった。

「なんでいきなり、新コーチがやってきたんすか? それも上馬隼人って、よくOKしてもらえましたね」

 上体を捻ってストレッチしながら航一が尋ねると、中尾が頭を掻いた。

「う~ん、まあ、そのうち瀬戸コーチから詳しい説明があると思うよ。瀬戸コーチが上馬コーチの恩師で、小三から中学までジャンプを教えてたって話だ」

「じゃあ、あの人はこのスキークラブ出身なの?」

「いや、ここはできてまだ十年だろ。その前は、もっと小さなグループ活動みたいな感じだったって聞いてるけど」

 慧子が、あの人に子供の頃があったなんて信じられないという目で上馬を見つめた。

 瀬戸との会話を終えたのか、上馬は再び、皆のアップ風景をじっと見つめている。

「さ、航一も至も、少し走ってこい」

「うっす」

 他の皆も、走ったり、ストレッチを行ったり、股関節や肩甲骨周りをほぐしたりしていたが、上馬の目を意識してか、いつもよりかなり静かだ。

 クラブの空気が悪くなった、と至は思った。急に足枷をつけられたようで、下半身が重い。股関節をぐるりと回しながら歩く動作に力が上手く入らず、腕もいつものようにしなやかに回らなかった。

「おおい、至、シミュレーションやるぞお」

 中尾に呼ばれて、人工芝の脇に駆け寄った。

 シミュレーションとは、ジャンプを仮想的に行う練習のことだ。踏切台に見立てたビール瓶のカゴの上で助走のフォームや踏み切りの感覚をおさらいし、実際に踏み切ってコーチに上体を支えてもらいながら空中でのフォームをイメージする。

 台に両足の裏全体をしっかりとつけ、身体を小さく屈ませて助走シーンを思い描く。実際はビール瓶の上にいるのだが、至の脳内では今、アプローチと呼ばれるジャンプ台の助走斜面を滑り落ちているところだった。長く急なアプローチを滑降していくと、やがてカンテとも呼ばれる踏切台が見えてくる。

 今だ!

 べた足でしっかりとジャンプ台を蹴ると同時に、すぐ目の前で構えている中尾に身を預け、飛びのフォームをつくった。サッツと呼ばれる踏み切り動作のおさらいである。飛行の安定度は、アプローチと踏み切りまでの動作でほぼ決定すると言っても過言ではない。

 着地すると、一連の動きを動画に撮っていた瀬戸の脇へ駆け寄って、すぐに今のフォームをチェックした。

「どうした? ちょっとケツが前に倒れすぎだぞ。緊張してるのか?」

「いえ――」

「ただの練習だ。いつもみたいに楽しく飛んでこい」

 コーチのこの一声があると、いつもならすっと気持ちが落ち着く。だが、今日は気持ちがどこか沈んだまま、身体といっしょにちぢこまっているようだった。

 もう夕方だが、日はまだ十分に強い。

 空はすっきりと青く、湿度は高め。こういう日は、空気抵抗も少なく、重みのある向かい風がしっかりと体を支えてくれるから飛びやすい。

 飛ぶには絶好のコンディションなのに、どうしてこんな気分なんだろう。

 アップが終わるとそれぞれがジャンプ用のワンピースに着替え、ブレーキングゾーン周辺で待機した。新コーチのジャンプを見学するためである。

 ジャンプ台から飛び出した選手達は、着地したあと、このブレーキングゾーンでスキーを停止する。上馬は一体、どんな表情でここに辿り着くのだろう。

「どのくらい飛べるのかな」「ドタキャンしてから、鳴かず飛ばずだったんだろう?」「でも全盛期の動画とかすげえよな」

 皆が思い思いに話し合うなか、ついに上馬がジャンプ台の上、スタートゲートに姿を現した。助走路を左右に横切って渡されているスターティングバーに腰掛け、じっと動かずにいる。通常は踏切台の脇辺りに設置されているコーチングボックスにコーチが立ち、選手にスタートのゴーサインを出すのだが、上馬には誰もつかないようだ。

「すげえ、なんか迫力ある」

「うん。風を読んでるのかな」

 皆、一心に斜面の上を眺めていた。至のすぐ隣では、航一が無言で控えている。

「ねえ、オリンピックドタキャン選手ってなんなの?」

 尋ねた至の声に、航一が強面を崩して軽くずっこけてみせた。

「おまえ、ほんとに知らないのか? まあ、十年前はまだ幼稚園児か。あの人、バンクーバーの冬季五輪で、本番一時間前にドタキャンしたんだよ。それで、ドタキャン上馬ってスポーツ新聞に見出しまで載った」

「怪我?」

「ああ。アイスバーンで蹴躓いて転び方が悪かったらしい。でも、試合会場を抜け出して女に会いに行く途中だったとか噂があってさ、それでかなり叩かれた――っと、飛ぶぞ」

 航一が瞳を輝かせて、斜面を見上げた。

 群北スキー場の中でも最大のラージヒルのジャンプ台である。

 生ぬるい向かい風が、至の頬を撫でて斜面をさあっと這い上がっていく。

 上馬が静かに滑り出すと、夏の名残の蝉時雨がいっそう激しく降り注いできた。



 ほぼ垂直といっていい滑走台を、繊細にバランスを取りながらごうごうと滑り落ちる。時速は体感で八十五キロくらいだろうか。思考を風に流し、感覚だけを研ぎ澄ましながら、上馬は頭の芯にぴりっとした刺激を感じた。

 行ける。

 ふくらはぎの筋肉を柔らかくしならせ、近づいてきた踏切台を、蹴る!

 スキー板のソールがセラミックレールを擦る音がシャッと途切れ、瞬間、視界が一段高くなった。

 体全体が、空に抱かれる。

 助走の姿勢から流れるように板をV字に開き、前傾の飛行体勢を取った。

 前へ、前へ。地上から解き放たれ、不思議な静寂に包まれながら空中を進んでいく。

 一秒、二秒、まだいける――。

 風音さえも意識から遠ざかると、まるで思念だけの存在になったように空の藍と溶け合った。質の悪い女みたいに、空は上馬のぜんぶを吸い込んでいく。

 ああ、この瞬間だと上馬は思う。俺は、この一体感に囚われたのだと。

 本能のままに、スネと板の角度、手の位置、身体の傾き、尻の位置を一ミリ、いや、ゼロコンマ一ミリ単位で調整し、揚力を最大限に引き出して飛ぶ、飛びつづける。

 もっと先へ、遙か先へ。

 やがて、ランディングバーンが近づいてきた。

 K点を超え、着地は、降り立つ水鳥のように。

 両手を広げ、片膝を深く曲げた状態で両脚を前後に開く。テレマークと呼ばれる、着地の衝撃を体全体で受け止めるためのポーズだ。試合でこのポーズが取れなければ減点の対象にもなる。

 教科書のようなテレマークが決まり、テンションが緩むと、一気に地上の音が耳の奥になだれ込んできた。緩やかになった風が紅潮した頬に心地いい。

「すげえ、フォームきれい」「やべえじゃん」

 ソプラノの歓声が上馬を迎えた。中学生や、数人の高校生達も、先ほどの構えるような姿勢を解き、目を輝かせている。

 リラックスしてスキーが進むに任せ、ブレーキングゾーンで緩やかにパラレル停止した。呼吸に意識が戻ってくると、意外と粗く乱れている。

 さすがに、予定外のジャンプはきついな。

 苦笑いを押し込んで、ゴーグルを上げた。

「コーチ、まじでオリンピック選手だったんだ」「ねえ、もう一回飛んで見せて」

「だめだ。次は君たちの番だ」

 子供達は、色分けされたビブを身につけながら興奮して騒いでいる。

 群北スキージャンプクラブ。そのコーチをやってみないかという話が、かつての恩師から舞い込んできたのはつい先月のことだった。

 選手としての道を外れてからは、体育大学に入学し、学生としてスポーツ科学を学んできた。北海道の小さな町で子供達を指導し、コーチングの技術も、自分なりにバージョンアップさせてきたという自負もある。だが、選手としてのルーツであるこのスキー場に戻ってくることは、もう二度とないだろうと思っていた。

 クラブハウスへと移動し、汗をタオルで拭いていると、瀬戸が少年時代に見ていたのと同じ地蔵顔で入ってきた。

「相変わらず気持ちよさそうに飛ぶなあ」

「今はあれが精一杯ですよ」

「いいや、大したもんだよ」

 瀬戸が、じっと上馬の目を覗き込むようにした。何となく子供時代に戻ったような気分になり、上馬は目を逸らしながら尋ねる。

「――ところでコーチ、例の話、子供達には本当に知らせなくていいんですか」

「まあ、遠からず知らせることになるとは思うが、まだ自由に飛んでいていいんじゃないか」

「でも、子供達の問題でもあるでしょう」

 コーチとしての瀬戸は、ひたすら自由に飛ばせてくれた。それこそ、上馬が少年の頃も、父母達の揉め事や運営に関するスキー場との煩雑なルールの取り決めなど、トラブルは種々あったらしいのだが、当時の上馬達には一切その影響を感じさせず、ひたすら飛ぶことに専念させてくれた。

 だからこそ、今ここにこのクラブがあるのだろうし、子供達があんな風に邪気もなく笑っていられるのだろうとも思う。だが、事は重大である。

 知って飛ぶのか、知らずに飛ぶのか。

 そのどちらが、子供達を後押しするのかは、上馬も判断しきれないでいる。

「さあ、みんなが飛ぶぞ。まずはスモールヒルからだ。見てやってくれ」

「例の、今日がノーマルヒルのデビューだという子はどの子です?」

「髪にひどい寝癖がついてたやつだよ。ジャンプを始めてまだ一年にも満たないが、ちょっと目を瞠るぞ」

「ああ、あの」

 細めの骨格、痩せた体。アップを見たが、柔らかさも十分だ。やけに黒目の大きな少年だった。瞳の底で、繊細さと機敏さが手をつないで光っているような――おそらく体の反応はいいが、ああいう子は機敏さの副作用としてメンタル面で脆いタイプが多い。

「コーチ、準備できました」

 高校生の一人、廉がクラブハウスまで呼びに来た。

「行こう」

 上馬の背を、瀬戸が押す。

 いよいよ、だな。

 一歩踏み出した時、上馬は、とてつもない急斜面を上るような錯覚に囚われた。



 ノーマルヒルのジャンプ台、そのスターティングバーの脇に控えながら、至は気持ちを整えきれずにいた。沈んだままの気分が、今日は飛びたくないと胸の奥底から訴えだしたのである。実際、そばに控えている中尾にこぼしてもみた。

「僕、今日、飛ばなきゃダメですか? 別に今まで通り、中尾コーチと瀬戸コーチに見てもらえればそれでいいし。ノーマルヒル、初めてだし」

「なんだよ、あんなに飛びたがってたのに――あ、おまえあれか? びびってるのか?」

 中尾のからかい口調に気持ちがささくれ立つ。

「おまえなあ。元オリンピアンに見てもらえるなんて、こんなチャンス、滅多にないんだぞ。ジャンプの盛んな北海道や長野の有名クラブならともかく、ここは群馬の弱小クラブなんだからな」

 順番を待ちながら、至は口を尖らせた。斜面を這うような微風が吹き上げてきて、グローブの中に収った手の平がじわりと汗ばんでくる。

「次だな。さあ、いいジャンプ見せてこいよ」

 その声に、ますます気持ちが荒れた。

 いいジャンプ? 見せる? そんなことのために飛ぶんじゃない。

 みんなと足並みを揃え、誰かの顔色を窺って生活する。閉じ込められた鬱憤が渦巻く場所で、自分の立ち位置を探る無数の目。そんな地上世界から自由になるためのジャンプで、誰かのジャッジを受けたくなんてない。

 そこまで考えてようやく至は、さっき上馬が語った、目標は各大会での上位入賞、という言葉に感じた違和感の正体を突き止めた。

 僕は、入賞なんてどうでもいい。自分だけのために飛ぶ。自由になるために飛ぶんだ。

 頭の中ではすっと筋の通った自分なりの考えを、しかし至はうまく言葉にして口にだすことができない。

 黙っている間に、中尾はコーチングボックスへと下っていってしまった。そこから風の状態を見て、至達にゴーサインを出すのである。選手達がジャンプする様子を動画に撮り、あとで選手たちにアドバイスするのもコーチ達の仕事だ。

 憮然とした表情を崩さないまま、至は遠くの地面を睨みつけた。汗はますます染みだし、おさまる気配がない。

「オライ!」

 中尾が声をかけ、腕を勢いよく振り下げた。既に西へ傾いている太陽が空を照らし、ちかちかと目を刺してくる。遮光性の高いゴーグルを下ろしたのに、なぜか刺激が強くなった。

 ランディングバーンの向こうに、腕組みをしてこちらを見上げている新コーチの姿が小さく見える。表情などわからないはずなのに、猛禽類のようにこちらに鋭い視線を向けているのが伝わってくる。

 重い溜息をついたあと、ようやく尻を浮かそうとして初めて、至は愕然とした。まるで尻がくっついてしまったようにバーから持ち上げられないのだ。

 ――楽しく飛んでこいよ。

 のんびりとした瀬戸の声を思い出そうとするのに、雑音に阻まれて全く響いてこない。口の中がからからに乾いていて、ねばっこい唾液が糸を引いた。

 恥ずかしいから誰にも打ち明けたことはないが、至はスターティングバーに座る時、いつも肩甲骨の辺りから大きな翼が生えている自分を思い浮かべることにしている。

 アプローチを滑降する際、両翼は背中の中心でぴったりと合わさり抵抗を避けている。だが踏切台を蹴って飛ぶ瞬間、翼は左右へと見事に広がり、揚力を受けながら羽ばたくのだ。

 今はその翼もたちまち砂色になり、端からさらさらと風に崩されていく。

「無理、飛べない」

 皮肉にも口に出した途端、下半身がすっと軽くなり、立ち上がることができた。

「おおい、大丈夫かあ」

 少し焦ったような中尾の声に、首を振ってみせる。

「すいません、ちょっと気分悪いです!」

 聞こえたかわからないが、やけ気味に叫んでリフトまで移動し、坂の下まで降りた。慌ててあとを追って降りてきた中尾が、スキーを脱いだ至の顔を覗き込む。

「なんだ、具合悪いなら最初から言え。怪我したらどうするんだ」

「すみません――」

「帰ってきたぞ、ジャンプドタキャン選手が」

 メンバーの中からくすくすと忍び笑う声が響いてきたが、抗議する気にもなれなかった。

「すげえ! きれいなサッツ」

 つづいて聞こえてきた声につられ、ジャンプ台を見上げると、航一がちょうど踏切台から飛び出したところだった。

「まだまだ飛ぶぞ」

 さっき至を馬鹿にしたのと同じ声人物が、賞賛の声を上げている。顔を確かめなくても、航一を信者のように慕っている一つ上の充だとわかった。航一が至を目にかけていると勘違いし何かとつっかかってくる面倒な相手だ。

 航一は、いつにも増して流麗な軌跡を描いて空を横切っていく。

「ヒルサイズぎりぎりじゃねえの?」

 これ以上飛べば斜面の傾斜が緩やかになりすぎて着地が危険になる地点、それがヒルサイズである。その地点に軽々と迫る勢いで、航一は飛行しているのだ。

「あっちゃ、ゲート、もっと低い位置に設定したほうが良かったかな」

 隣で中尾が頭を掻いた。

 至の目には、航一の背に翼が見えていた。刻々と変わる風を本能ではなく理論で読み、自分の体を精密に調節する。以前、スポーツ雑誌に取材された際、やってきた記者はメンタルにも天候にも影響をほとんど受けない飛行マシンのようだと航一を評した。

 至のように楽しんで飛べればそれでいいという考えが、航一の中には存在しない。以前、マシンみたいに飛んでいて楽しいのかと尋ねると「飛行機が、今日は楽しいなとか思って飛んでると思うか」と返された。

 思った通りに正確に飛ぶ。それが、おそらく航一の目指すところだし、世間一般でも評価されることなのだ。

 鬱々としている至をよそに、ほかのノーマルヒルを飛ぶメンバー達は次々とジャンプを決めていく。皆の様子をクラブハウスの出入り口へと上がる階段に腰掛けてぼんやりと眺めていると、瀬戸がやってきた。

「どうした。気分が乗らなかったか」

 至の仮病などとっくに見抜いていたらしい。瀬戸は、頷いた至にスポーツドリンクのペットボトルを差し出した。穏やかな顔つきを見ているうちに、固まっていた舌がようやく動きだす。

「ただ楽しく飛ぶんじゃ、ダメなんですか?」

 至の張り詰めた気持ちを一旦ガス抜きするように、瀬戸は自らもビタミンドリンクのプルタブを引いた。プシュウッと間の抜けた音とともに、甘ったるい香料の匂いが広がる。

「もちろん、つまらない思いをして飛ぶより、楽しく飛んだほうがいいに決まってる。だが――楽しいからって、楽なことばかりかと聞かれたらしんどい時もあるがな」

「飛ばずに降りたこと、楽してるって責めてるんですか?」

「いいや。ただ単に俺なりに答えを出しただけだ。至には至の答えがあるだろう。百人いたら百人のジャンパーが、それぞれの理由で飛ぶんだと思うぞ。しかも飛ぶ理由なんてのはその時々で変わる。まあ、風みたいなもんだな」

「そういうの、玉虫色の答えっていうんですよ」

 受け取ったペットボトルの蓋を乱暴に開け喉を鳴らして飲むと、瀬戸がはははと声を上げて笑った。

「難しい言葉を知ってるな。俺だって答えを出してやりたいが、おまえが飛ぶ理由はおまえにしかわからないんだよ。そしてわかるためには、飛ぶしかない」

「つまり、飛べって説得しに来たんですか」

「まあ、できれば飛んだほうがいいとは思うな。至なりの飛ばない理由があるのを俺は知ってる。だが、理解できないやつは多分こう言うぞ。あいつ、ノーマルヒルにびびって飛ばなかったぞってな。そんな誤解をされるのは悔しいだろう?」

 至の胸の中で、充がこちらを指を差してせせら笑った。

「あと二人でノーマルヒルの連中は飛び終わる。至がどうするかは任せる。どうしても嫌なら、別に今日じゃなくてもいいぞ」

 言い残すと瀬戸は至のもとを去り、リフトでコーチングボックスへと戻っていった。

 残された二人のうちの一人が、ノーマルヒルから勢いよく飛び立つのが見える。充だ。いつになく前傾のフォームがきれいに決まり、危なげなく着地しようとしている。

 意識しないまま至は立ち上がり、充がランディングバーンを誇らしげに滑っているのを眺めた。握り拳をつくっていたことに気がつき、はっと力を抜く。

 このまま飛びにいったら、瀬戸の言葉にまんまと乗せられたようで癪に障る。だが、飛ばずに充達に後ろ指を差されるのも煩わしい。

 飛ぶ理由は、風のように変わる。瀬戸の言うことが本当だとしたら、今飛ぶ理由は、何なのだろう。

 自分だけのために飛ぶなら、充達のことなんて放っておけばいいだろう?

 頭の片隅で醒めた自分の声が響いた。だが、至はドアへ向かって一歩踏み出していた。勝手に歩を進めていく両脚をイライラとした気分で眺めながら、止めることができなかった。


 再びスターティングバーに腰掛けたものの、至は早くも後悔していた。

 瀬戸にしてやられたのだと心の中で毒気づいたが、今度も飛ばずに立ち去ったら、二重にからかいのネタを提供することになる。

 別に、言いたいやつには言わせておけばいい。元々、人間関係には何の期待もしていないし、学校ではそのスタンスを貫くことができたのに、なぜ自分はああもやすやすとコーチの煽りに乗せられてしまったのだろう。

 全くわからない。楽しくもない。それでも、とにかく今度は飛ぶしかない。

 さっきと同じように腕組みをして待ち構える上馬のほうは見ないようにし、コーチングボックスに立つ瀬戸を見下ろした。

 やわらかく、小さくだ。

 いつも言われる助走のアドバイスが、頭の中に響いてくる。同時に、瀬戸の腕が振り下ろされ、「オイ!」という独特の合図が聞こえてきた。

 ただ風を感じ、空を見つめる。ひゅっと息を吸って尻を浮かし、ゆっくりとアプローチを滑り出した。

 今までのミディアムヒルとは段違いに高い場所からの助走である。ぐんぐんと速度を増すにつれ、辺りの景色が色の帯となり溶け合って流れていく。ミディアムヒルで感じていたスピードをさらに超えて、まだ、まだ、速くなる。怖かった。細胞全体が危険信号を発しているのに、それを上回るスリルと快感がぞくぞくと脳内を駆け巡っていく。

 いいぞ。いつの間にか口角が上がっていた。だが、初めての感覚に気を取られて、目測を誤った。思ったよりずっと早いタイミングでジャンプ台のカーブの底に到達し、ぐっと体が地上へと引っ張られる。

 あっと思いながら踏切台を蹴ったが、足裏の感触が軽かった。

 シャッという鋭い音のあとで、身体がまるごと宙に放り出される。

「蹴り損ねた」

 ヘルメットの中で自分の声がくぐもって響いた。

 それでも、向かい風が両腕を広げて至を迎えてくれた。身を委ねると、解き放たれた喜びが胸に満ちてくる。いつもより、滞空時間が長い、長い、まだ飛んでいる。

 眼前が、空だ。雲が流れ、風が口笛を吹き、木々の葉を鳴らしている。

 空は、なんて自由なんだろう。あるがままなんだろう。

 もっともっと、ここにとどまっていたい。あんな面倒な地上になんて、戻りたくない。

 切ないほどに願いながらも重力に囚われ、加速度的に下降していった。

 やがてずしんと着地したがテレマークを上手く入れられず、上体が左右に大きくぶれる。

 なんとか転倒せずにゆっくりと停止すると、上馬が腕組みを解いて近づいてきた。

 息を整えながらゴーグルを上げる。

 何を言われるのかと身構えていると、上馬はにこりともせずに告げた。

「明日から選抜チームに入ってもらう」

「選抜? 何の、ですか?」

「それは明日説明する。それから、バーに座ったら二度とドタキャンするな」

 ――いや、あなたが言うのは変ですよね。

 やや遅れて思考が追いついたが、もちろん、口に出してはいない。それよりも選抜チームというのは一体何のことなのだろう。

 初めての高さからジャンプをきめた興奮と、自分の預かり知らないところで状況が動いているらしい不安と、見たばかりの空と下手な着地の衝撃と謎の言葉と。

 何もかもがない交ぜになって、どくんどくんと心臓を激しく突き動かす。

 ごつん、と航一が至のヘルメットを後ろから軽く肘で倒した。

「ラストにそこそこのジャンプきめてんじゃねえよ。目立ちたがりが」

「別に目立とうとしたわけじゃ――」

「おまえも言われたんだろ、選抜のこと」

「うん、航一さんも? でも何なの、選抜って」

「わからん。瀬戸コーチに聞いてもかわされた」

 ゴーグルのゴムの部分を指でぐるぐると回しながら、航一がふんと鼻を鳴らす。

 まだ、至の心臓は強く打ち続けている。

 上馬に充が何ごとかを抗議し中尾がそれをなだめていた。他のメンバー達は、それぞれが急なチーム分けの理由を推測して噂し合っている。

 濃いオレンジに染まった上空を鳶が二匹、悠々と旋回し、やがてもう一匹が合流すると、遠くへと飛び去っていった。