衝撃を受けようと朝は来る。好もうが好むまいが夜は明ける。

 結局俺はあれからしばらく寝付けなかった。ビールの力を借りてようやく寝付いた頃には、もう夜が明けていたと思う。さっき観てしまったものに夢で足を取られるんじゃないかと怖かったのかもしれない。あの映像は、そのくらい衝撃的だった。

 幸いなことに夢は見なかった。澱みに引きずられるような眠りから俺を覚ましたのは、当然のことながら隣で眠りこけていた男の手だった。

「起きろ!」

「痛っ!」

 丸まった俺の背を容赦なく叩きながら、嗄井戸が喚く。電子機器ならぶち壊れてそうな強さのそれで、ご立腹具合が察せられた。

「ちょっと! 結局朝じゃないか! 君はいつもこうだ!」

 俺の気持ちなんか欠片も知らないのだろう。呑気なもんだ。自分の寝起きは悪い癖に、たまにこうして先に目が覚めるとこうなのが本当にずるい。反省してくれ。

「いや、お前が勝手に寝たんだろ……。言っとくけど、お前だって結構寝落ち率高いからな?」

「それなのにちゃっかりお酒は飲んでるじゃないか! 僕を放っておいて一人で酒盛りとか……というか僕が買ってきて欲しかったのはハーゲンダッツ! 奈緒崎くんのことだから売り切れってことにして安く済ませたんだろ!」

「んなことないって。マジで半径二百メートル以内のコンビニ全部回ったけど見つかんなかったんだよ」

「ここから一番近いコンビニでも四百メートルはあるんだけど」

 不服そうな顔の嗄井戸を流しながら、会話を続ける。大丈夫。普段通りだ。嗄井戸に何かを悟らせるような態度は取っていない。こいつがどれだけ賢かったとしても、この態度だけで何かを察するのは難しいだろう。

「で、観たの?」

 その時、不意に嗄井戸がそう言った。打って変わった空気になったソファーの上で、嗄井戸がまっすぐにこちらを見据えている。まさか、もう気が付いてるのか? あれに? 一拍だけ間を置いて、俺の方も言葉を返した。

「……は? 何を」

「この文脈なんだから『ストーカー』に決まってるだろ? どうだった?」

 嗄井戸の声が普段より低く響いたのが恐ろしかった。嗄井戸は純粋に映画そのものの話をしているのだろう。その裏に隠されたスナッフフィルムなんか想定していない。嗄井戸はあのとき眠っていた。俺が何を見つけたかなんか知らないでいてくれたはずなのだ。

「いや、お前が寝てんのに一人で観る気しねえよ」

「……だったら尚更起こしてくれればよかったのに」

 起こせるわけねえだろ、と心の中で呟く。別に特別スプラッタが苦手なわけじゃない。それでも、花村のときといい、今回のスナッフフィルムといい、そこに息づく現実には身震いがする。

 目の当たりにしているものが作り物の映像じゃないということが、どういうわけだかわかってしまう恐怖。

 スクリーンの中の見知らぬ男が味わった苦痛が、視覚を通して脳髄に流れ込んでくる感覚。追体験という言葉では足りないほどの生々しさ。……話だけしか聞いていなかった、本物の殺人の様子をフィルムに収めたという悪趣味な代物、〝スナッフフィルム〟が与えてきた衝撃。

 嗄井戸がこれを、それも肉親のものを見たのかと思うとぞっとする。何が『現実よりも凄惨な映像が観られた』だ。あれは、そういう次元の話じゃない。存在すらしちゃいけない類のものだ。

「……ちょっと、奈緒崎くんまた何かやらかした? 正直に言ってくれるなら、今なら怒らないよ。僕だって鬼じゃないんだし」

「それ世の中で一番信用出来ない言葉だろ」

 北添さんの一件のとき、嗄井戸は何枚も部屋にある『ストーカー』を、いつダブらせたのかわからないと言っていた。『ストーカー』に限らず、この部屋には同じDVDが何枚もある。家主の記憶に無いDVDに、隠されていたスナッフフィルム。ということは十中八九、これらのDVDを持ち込んだのは、嗄井戸が巻き込まれた事件の犯人だろう。

 誘拐事件はまだ終わっていないのだ。

 目下、俺のやるべきことは、この『ストーカー』を嗄井戸から遠ざけることだった。ケースを素早く取り上げて、子犬のように懐に抱く。

「なあ、これ借りていい?」

「え? 別にいいけど……君さあ、僕からDVD借りる割にちゃんと観ないでしょ? だったら最初からここで観ればいいのに……」

「そんなのわかんないだろ。何事も可能性を大切にしていこうな」

「そういう良い感じの言葉でまとめようとするのやめて」

 俺は不服そうな嗄井戸を宥めながら、手に持つことすら躊躇われるような悪意を抱いて、どうにか笑う。

「それじゃあ、時間も時間だし、俺ちょっと出るわ」

「せめてビールの缶くらいは片してけよ!」

 俺は物凄く真っ当なことを言う嗄井戸からも、数時間前に見たものからも逃げ出して、銀塩荘の古びた階段を駆け下りた。物置状態の部屋に飛び込み、手に持ったDVDを空っぽの冷蔵庫に放り込む。その勢いでシャワーまで浴びた。

 身体を清めたら気分が幾分か落ち着いたので、俺は冷蔵庫を開けてもう一度DVDと向き合う。ひんやりとしたそれから禍々しさが失われた様子は無い。冷蔵庫に浄化作用はないのだ。

 さて、どうするか。

 とはいっても、俺に選択肢がそうあるはずもない。嗄井戸が頼れない案件な以上、頼れる人間なんてそういない。

 ブォーンと鳴く冷蔵庫を閉め、俺は矢端束に連絡をする。冷蔵庫の中に閉じ込められた代物について、最初に語るべき相手が束しか思いつかなかったからだ。

 このときまで俺は、この判断が何より正しいと思っていた。矢端束は俺よりずっとクールな女子高生で、俺より嗄井戸のことを知っていて、奴の一番の理解者であると思い込んでいたからだ。想像力に欠けていた。

 例えばそれが束にとってどういう意味を持つかということを、俺は欠片も想像しなかったのだ。


「……というわけで、嗄井戸の部屋からヤバいものが見つかったんだけど……」

「なるほどね? 話はわかったよ」

 待ち合わせにトロワ・シャンブルを指定し、落ち着かない気持ちで束の到着を待った。本当は女子高生相手にする話じゃないのかもしれないが、背に腹は代えられない。

 束は俺が話し終わるまで一言も喋らなかった。言葉を発したのは、全てを話し終わった後である。不自然なまでに相槌が排斥された会話だった。

「奈緒崎くん。それ、高久くんにもう言った?」

 たっぷりと間を置いて、束がそう尋ねた。

「え? いや、まだ言ってないっていうか……。そもそも言うのが正しいのかもわかんねえし」

「そうだよね。……奈緒崎くんならそうなるよね」

 珍しく歯切れの悪い言い方だった。こんな言い方は不本意だが、何だか束らしくない。荒園さんの事件の後ともまた違う違和感がそこにはあった。

「だって、普通に怖過ぎないか? 言えないだろ。あいつには」

「……そうだね」

「嗄井戸だってまだ完全に立ち直ったわけじゃないだろうに、家にあんなもんがあるって知ったら嫌過ぎるだろ。なんつーかこれ、完全に何かの脅しだよな……。てことは、犯人が今でも嗄井戸を監視してるってことじゃん?」

「監視、監視かぁ……」

「……悪趣味な話だけどな。嗄井戸がそれに気付かないのを見て笑ってたのかもしれないし、あとは……お前もいつか同じ目に遭わせてやるってメッセージかもしれないし。何にせよ、今でも犯人はあいつのことを諦めてないってわけで……」

 こんなことをやるような奴の考えがわかるはずもないが、恐らくはそういうことだろう。これ自体が何かしらの意思表示で攻撃なのだ。いつかの悪意がまだ息づいている。俺の部屋の冷蔵庫に隔離したくらいでは消せないようなものが。

「だから、どうにかあいつに知られないように、手を打たないと――……束?」

 鈴を転がすような笑い声に気が付いたのはそのときだった。

 店内に流れる綺麗なBGMに合わせて、上品な笑い声が聞こえる。突然差し込まれたその声は、さっきまで張りつめた表情を浮かべていたはずの束から発せられていた。

 束は笑っていた。

「奈緒崎くん」

 そして、さっきとは打って変わった優雅な微笑で言う。

「それ、本気で言ってるの?」

「…………え?」

「ううん。そもそも奈緒崎くんは例の事件のこと全然知らないんだもんね。高久くんとお姉さんが誘拐されて、高久くんだけが生き残った事件のこと。英知大学生誘拐殺人事件。うん、そうだよね。ぼんやりした概要で判断しろっていうのも難しいよ。だから、ここは束ちゃんが簡単に簡潔に、事件の概要を纏めてあげちゃう」

 フリーエージェントの美学を謳い上げるときと同じような口調で、束がびしっと人差し指を立てる。事件の概要。俺がぼんやりとした把握しかしていなかった事件の概要? 俺が何か言う前に、束の口が開く。予め台本でも用意されていたみたいに!

「事の始まりは去年の春、誘拐事件が起きた。被害者は英知大学に通う女子大生嗄井戸叶さんと、その弟である嗄井戸高久くん。不幸な二人はそのまま都内の薄汚れた廃ビルに監禁された。そこから先は知ってるよね?」

「………………姉さんの方が殺された」

 俺の返答に満足したように、束が頷く。

「そうだね。事件の発覚は誘拐からしばらく経ってから。廃ビル近くにある公衆電話から、高久くんが通報したの。程なくして警察が到着して、高久くんは保護されたけど……。お姉さんはもう殺されていた。それも酷い有様で。挙句の果てに、犯行現場のビルには火が点けられていて半焼。有力な証拠は何一つ出てこなかったってわけ」

 嗄井戸の言葉を借りるなら、姉さんの方は『人の形を保てていなかった』わけだ。それを知らずに嗄井戸はどうにかして外部に助けを求めた。自分も姉さんも揃って助かると信じて、必死に望みを繋いだのだろう。

「実はね、そのビルでは犯人らしき男が一人、転落死していたんだ。どう考えても複数犯の犯行だったから、警察は犯行グループの仲間割れを疑い、死んだ男は残りの犯人に殺されたのだと考えた。けれど、そのビルで死んだ男は前科持ちのケチな小悪党でしかなくて、そこからは何も辿れなかった! こうなってくると、もう手がかりは一人生き残った高久くんくらいしかなかったの」

「……嗄井戸が、唯一の証人……」

「でも、警察から事情を尋ねられた高久くんはまともに喋れる状態じゃなかったんだよね。何が原因かはわからないけど、彼も火傷をしてたし、心神はまるで喪失状態。悲しいことに、これで最後の希望も潰えちゃった。だから、警察は極めて少ない材料で事件の推理をするしかなかった。火傷を負って、一人逃げ出した高久くんと、燃えたビル、死んだ共犯者でね」

「………………それは」

「結局事件は未だに解決していない。高久くんは今も引きこもっているし、状況の改善も捜査の進展も全く見られない。はてさて、スペシャル悲しい事件だったわけだね。けど、膠着状態のこの事件に、とある転機が訪れた」

「転機?」

「そんなの、奈緒崎くんに決まってるでしょ? 奈緒崎くんが来てから、取り巻く状況は変わったんだ。密室だったあの部屋を開けて、高久くんの生活に入り込んだ。流石の束ちゃんもびっくりしちゃったよ。実をいうと、私の方も期待してたんだ。奈緒崎くんがこの状況を変えてくれるんじゃないかって。そうして奈緒崎くんはこうして、重要なものを見つけてくれた。おめでとう奈緒崎くん! 奈緒崎くんが見つけたスナッフフィルムは、久方ぶりの有力な手掛かりだよ」

「そうだったのか……」

「そうだよ! ね、凄いと思わない?」

 久方ぶりの有力な手掛かり。だとすれば束の反応も無理はない。進展の無かった事件にいきなり新しい展開が飛び込んできたんだから、食いつくに決まってる。

 そこでふと思った。そもそもどうして束は嗄井戸の事件の進展にこんなに興味を示しているんだろうか? そりゃあ他ならぬ嗄井戸のことだし、気にならないはずはない。ただ、単にそれだけとは思えなかった。

「というか……詳しいんだな? あれ、もしかして束の兄貴がその事件の担当だった……とか?」

「ううん。でも惜しい! その事件を担当したのはね、お兄ちゃんじゃなくてお父さん。お父さんの方も刑事だったんだよね。高久くんの取り調べを行った結果、彼を無罪放免した張本人。周りの人がどれだけ言っても、お父さんだけは高久くんを庇い続けたの」

「……へえ、じゃあ、あいつが追及されなかったのって、束の父親のお陰なのか」

「そうみたいだね。でも、その所為で、お父さん警察には居づらくなっちゃったみたい。それで結局、辞職することになっちゃった」

 辞職。何かが引っ掛かる。話の方向性がさっぱり見えない。それなのに束は、ずっと前から用意されていた台詞を諳んじるように淡々と話を進めていく。

「でも、私の方は、その選択はどうなんだろうって思ってたんだよね」

「……どういう意味だ?」

 束が一呼吸置いてから、口を開く。

「そうまでして、高久くんを庇う必要あるのかなって思ってた」

「笑えないぞ、それ」

 俺も淡々と返す。そうでないと、何かまずい方向に転びそうだったからだ。このままだと話は砂のように流れて、どうにもならないところまで行ってしまうだろう。食い止めなくちゃいけない。けれど、追い縋る手を振り払うように束が笑った。

「進展が、無かったんだよ。今まで」

「でもさ、今回見つかったものでまた何かわかるんじゃないか? ほら、このスナッフだって犯人が送ってきたものだろうし、だったら何かしら痕跡が残ってるはずだろ? ていうか、嗄井戸も嗄井戸だよな。……あいつ宅配便とかだとすぐ開けるし」

「ねえ、奈緒崎くん。それ、本気で言ってるの?」

 束の表情はいよいよ普段と変わらなかった。俺のふざけた言動を諫めるときと少しも変わらない、キュートな女子高生の微笑である。けれど、それが故に恐ろしかった。陳腐な例えだと思う。けれど、俺は矢端束という人間に、今初めて出会ったような気すらしていた。

「……本気って、」

「誘拐されたのは二人、一人は凄惨に殺された。一人は生きて帰された。誘拐されていたはずの高久くんは、監禁されていたはずの彼は、何故か一人生き残ったんだよ。そうして事件は迷宮入り。かつての被害者は不自然なほど過剰に引きこもるようになって、彼の部屋は閉ざされた。そんな彼の部屋で、巧妙に隠された嗜好用のスナッフフィルムが見つかった。……ねえ、高久くんが負った火傷の原因、一体何だったんだろうね?」

「……何言ってるんだ?」

「わかってるくせに、言わせたいの?」

 その通り、言わんとしていることならわかる。バイアスがかかっていた脳内が綺麗に整理されて、束の導き出した結論を迎え入れようとしている。けれど、最もシンプルなその結論は、俺には到底受け入れられないものだった。言われるまで考えもしなかったことだ。俺が拒否するより早く、束が静かに言う。

「ここまで証拠が揃ってるのに、どうして奈緒崎くんは嗄井戸高久が犯人だって思わないのかな?」

 ようやく理解した。キュートでスマートなフリーエージェントの本当の目的は、きっとここにあったのだ。

「凄惨な誘拐事件の第一容疑者をみすみす見逃した所為で、お父さんは警察をやめなくちゃいけなくなっちゃったんだよ。……シット・ハップンズ! でも、そうまでして庇った高久くんは、本当に無実だったのかな?」

「そんなの――」

「わからないよね? わからないはずだよ! だから、私は会いに行ったんだ」

 それが、フリーエージェントの始まりだった。

 束は監視していたのだ。呪われた誘拐事件の第一容疑者を、すぐ傍で見続けていた。父親が矜持と引き換えに冤罪から救った男のことを、彼女自身が見定めていたのだろう。それに気付いた瞬間、全身に寒気が走った。

 憎しみだってあったはずだ。自分の父親を失脚させ、巻き込み事故で家庭を壊した相手の傍に居続けた気分はどんなものだったのだろう。あの部屋にいる束は、いつだってビジネスライクで…………どうしようもなくハードボイルドだった。

「時に奈緒崎くん。刑事の生涯賃金っていくらだと思う?」

 何も言えないでいる俺に対し、束がそう尋ねてきた。

「いきなり何だよ……一億……とか……」

「ぶっぶー、役職にもよるけど、正解は平均三億円。お父さんが警察を辞めて失ったものは沢山あるけど、一番わかりやすい指標はこれになるかな? ほら、お父さんの人生とか、名誉とか、家庭内の幸せとか……そういうのって、お金に換算出来ないでしょ?」

 束が細い指先で小さく『×』を形作る。そして、出来上がった十字架をそのまま唇に当てた。重なった指の隙間から、いつかの言葉が溢れ出す。

「取り返しのつかないことなんてないよ。殆どない」

 それは、同じ喫茶店で束が言った言葉だった。あの日、俺のことを確かに勇気づけたあの言葉だ。一字一句変わらないそれが、今度は全く違う意味合いで響く。

「だから、私は全てを取り返す。お父さんがこれから貰うはずだったお金も、これから受けるはずだった栄光も、全部私が取り戻す。取り返しのつかないことなんて殆どないって、私が証明してみせる」

「束」

「それこそあの事件の犯人になら、その人生を懸けて貰おうかな。劇場型幽霊消失事件のとき、悪ーい教師に踏み躙られた井伏さんの復讐を果たすときに、日比谷先輩も言ってたでしょ? 奪われたものは何かで埋めなくちゃ」

 話し終えた束は、冷めた珈琲を一口飲むと、赤い舌をちろりと覗かせた。内容が内容じゃなければ、拍手の一つでも送っていたかもしれない。少なくとも、ここは矢端束の格好の見せ場だったはずだ。何せ彼女の行動原理の全てがそこにある。復讐。シンプルでわかりやすい二字熟語!

 外側から概要を知ったことで、何となく一連の全てを把握出来た。同じシチュエーションで同じ苦しみを味わったはずなのに、どうして嗄井戸の方だけ切り捨てられてしまったのか。家族からの没交渉、誰も訪れない密室の謎。

 嗄井戸高久のお友達である俺には見えていなかっただけで、あいつはそもそもそういうフィールドに立たせて貰えていなかったのだ。

 考えれば考えるほど、それは凄絶な孤独だ。あの暗い部屋は嗄井戸の意思だけで閉じられていたわけじゃない。もっと他の、見えない部分で抑えつけられていたのだ。

「事件のことを知ってから、私は出来る限りのことをしたんだ。興信所に依頼して、高久くんの住所まで調べて……。そして私はすぐさま銀塩荘に行ったんだ。さてはて問題の高久くんはどんな人なのかな? ……それをこの目で確かめたかったから。見た目は知ってたし、あのときの私は、事件の話を聞いただけで、高久くんの全てを知った気でいたんだ。だから、インターホンを鳴らしたとき、自分が驚くなんて思ってなかったんだ。実際に見てから驚いちゃったよ」

「…………何で」

「出てきた高久くんは、髪の色が変わってたから」

 束は静かに続ける。

「全てを知った高久くんは、そうなっちゃったんだなって咄嗟に理解しちゃったよ。殆どあり得ないことなのにね。生気なんか全く無くて、この人は一体どんな生活をしてるんだろうって思った。……食べるものも食べず、ろくに眠れてすらいなかったのに、部屋では、往年の名作『ロッキー』が流れてて。え、今の状況をまさか減量と掛けていらっしゃる? とか思っちゃったよね。……何もせず外に出ず、映画を観続けるなんて怖いよ」

「だから、嗄井戸の世話を請け負ったのか?」

「情が湧いたわけじゃないよ。見定める為。高久くんが、現実に打ちひしがれた被害者なのか、それとも狡猾な犯人なのかを見極める為。だから、そんな私ともあろうお人が、同情で世話を焼いてる、なんて死んでも思われたくないんだよ」

 そうじゃないだろ、と思う。絶対に認めたりしないだろうが、束は本当に嗄井戸のことを案じていたはずだ。この店で嗄井戸に友達が出来たことを喜んでいた束のことを思い出す。あの日の束は、疑わしい仇としてじゃなく、同じ事件に人生を狂わされた相手として、嗄井戸のことを本気で慮っていた。

 でも言わない。目の前の女子高生が淡々と語る決意に、そんな口は絶対に挟めない。真実が明らかになっていない状態で、束の今までを崩すわけにはいかなかった。

「私も嫌いなんだ。延々と過去パートに入って話が進まないやつ。束ちゃんの話はおしまい。おしまーい。聞いてくれて、ご愁傷様ね、奈緒崎くん………………いい子の束ちゃんじゃなくて、本当にごめんね」

 長い沈黙の後、束がそう言った。

「なあ、束」

「それで、奈緒崎くんはどう思ってるの?」

「どうって」

「さて、私の話を聞いて、高久くんのこと、通報する勇気はある? 正直、証拠はあがってるんだし? 奈緒崎くんの一声で、事件がバシッと解決するかもよ? それこそ名探偵みたいに」

「俺は探偵じゃない」

 責任だけを引き受けた単なる代理人だ。

「告発なんか出来ないし、お前にもさせたくない」

 俺ははっきりとそう答える。束はそれこそ警察へのダイレクトな窓口だ。今の話を少しの憶測と共に警察に伝えれば、結果は想像するに難くない。けれど、束がそうしないだろうという確信もあった。本気でやるつもりなら、束は俺に質問なんかしないだろう。

「……へえ、あくまで奈緒崎くんは高久くんの味方ってわけ?」

「……束だってそうじゃないのか」

「私は中立」

「……そうか」

「……でもね、私だって信じたいよ。クールでハードボイルドなフリーエージェント、それだけの束ちゃんでいたいけど、信じたい」

 さっきとはうって変わって、揺れた声色だった。フリーエージェントらしからぬ声だった。まるで、単なる嗄井戸の友達であるかのような声だ。

「奈緒崎くんは高久くんのこと信じてるんだよね?」

「ああ」

「それでも、もしもとっても万が一、スペシャル最悪な結末で、……高久くんが犯人だったらどうするの?」

 俺は密かに息を呑む。本当は考えたくもない話だ。そういう可能性を全て排して物語を進めたい。けれどこの問いで、束は俺を試している。これに真面目に答えなければ、嗄井戸はおろか束のことだって救えないだろう。そう、多分束だって苦しいのだ。信じたいし、信じられないし、憎いし愛しい。ハードボイルドの奥に隠れた複雑な煩悶。そこから束を助けたい。

 ややあって、俺は答える。

「それはそのとき考える」

「……うん、それでこそ奈緒崎くん」

「ちょっと呆れてるだろ」

「そんなことないよ」

 束がそう言って笑う。一応俺は俺なりに真面目だし必死なのだ。

 あの嗄井戸が犯人だなんて馬鹿げた話だと思う。その馬鹿げた話に直面せざるを得なくなってしまったときに、向き合う覚悟だけはある。

「だから、その為にも何かしたいんだよ。警察はあいつを疑ってる、本人には絶対出来ない。だったら、俺がやるしかないだろ」

「でも、具体的にどうするの?」

「うーん……何かヒントになるもんがあればいいんだけどな……。あの『ストーカー』のDVDに何か残ってないかな、とか。というかそうだ、あいつってお姉さんと一緒に誘拐されたんだよな。てことは、スナッフフィルム自体に何か手がかりとか……」

「手がかりね……でも、正直画質が荒過ぎるし、事件のあった廃ビル自体は特定されてる。新しい証拠なんかが出てくるとは思えないけど」

「それでも、一度観ておきたいんだ。……っつっても、どうするかな……」

「それについては心配ないよ。ネットで観られるから。検索すれば」

「……なんて?」

「〝スナッフフィルム 本物〟〝real snuff〟〝英知大学誘拐殺人事件 本物〟……とかね」

 束に悪気はない。そういった検索ワードの一つ一つは、今まで積み重ねられてきたものだ。それが本物であることを知っている人間なんてそういない。それこそ当事者くらいだ。

 世の中の大半の人間は、その不幸がフィクションであるかどうかすらわからない。

「それじゃあ、私行くね。……ちょっと、一人で考えたいんだ」

「来てくれてありがとな」

 束は小さく頷くと、そのまま立ち上がった。そのまま行かせてしまいたくなくて、思わずその手を掴む。束が、小さく息を呑んだ。

「あと、これだけは言っておきたいんだけどさ」

「どうしたの?」

「束はいい子だろ」

「……奈緒崎くん? なんでそんな」

「いや、別に悪い子でもいいんだけどな。それで嫌いになったりとかしないし」

「……あは、何それ」

 束は小さく笑って俺の言葉を流す。でも、これだけは絶対に伝えておかなくちゃいけない言葉だった。誰かが否定してやらなくちゃいけないし、差し当たってそれが出来るのは俺だけだったからだ。

 目の前の女子高生を助けてやりたい、とエゴ満載の思いが見える前に、掴んでいた手を放した。助けたいと思うなら動かなくちゃいけない。それも、出来るだけ早く。


 自分の部屋に戻って、束に言われた通りの検索ワードを入力すると、探していたものはすぐに引っ掛かった。それどころか、様々なところに転載されたそれは、選ぶことすら出来るだけのバリエーションがあった。選ぶのすら嫌だったので、適当なものをクリックする。

 映像自体はどれも短いものだった。十分にも満たない荒い映像。

 足を椅子に縛られた女性が映っている。徐々にカメラが寄って、彼女の顔がクローズアップされる。

『……時計、外してもいいですか。これだけは壊したくないんです』

 高畑教授の部屋に飾ってあった写真と同じ女性が――叶さんが、ざらついた映像の中でそう尋ねた。荒い映像に反して、彼女の声は綺麗に響く。それが動画の導入だった。カメラが少しだけ向きを変えて、彼女の手首を映す。細い手首から三角形の文字盤をしたお洒落な腕時計が抜き取られた。画面外から現れた覆面の男がそれを回収する。どうやら、撮影者の方はカメラの方に集中しているらしい。

 恐怖に強張ってはいるものの、彼女はあくまで冷静だった。荒い映像であっても、その凛とした佇まいがわかる。まるで死を覚悟した野生動物のようだ。これから殺されていく彼女の顔に、少しずつカメラが寄っていく。

 その間、叶さんは、カメラを目に焼き付けるように一心に目を向けていた。少しも目を逸らさない。画面越しに射竦められているような錯覚を覚える。

 カメラがゆっくりと引いて行って、全身を映すような画面になる。画像の荒さもさることながら、ところどころにモザイクが掛かっていて、肝心なところはよく見えない。その〝編集〟に尚更嫌な気分になった。これを作品として作った人間の意図がわかってしまう。

 少し間を置いて、画面の端から覆面の男が入ってくる。手に握られているのは大振りの鋸だった。

 そこから先は語るべきところもない。おぞましい映像がおぞましく続いていくだけだ。目を逸らしたくなったが、意地でもそうしなかった。何せ、画面の中の彼女は頑なに目を逸らさなかったんだから。勘弁してくれ、と小さく呟く。嗄井戸がこれを見てしまったときのことを、俺は欠片も想像したくない。

 これで痛みを共有出来たとは思わない。これは別種の痛みだし、別の怒りだ。俺が勝手に抱いたものだ。ともあれ、明確な怒りは人の行動を規定する。

 俺は第二の人物にコンタクトを取ることを決めた。俺や束と同じくらい、嗄井戸のことを慮ってくれる人間に。


「久しぶりですね、奈緒崎くん。単位の方はどうですか」

「……まあ、単位の方はそこそこです。ていうか、俺ドイツ語以外はそこまで成績悪くないんで……」

「それ、ドイツ文学科としては致命的なんじゃないでしょうか」

「そこなんですよね、本当に」

 十二月になったというのに、高畑教授は夏と殆ど変わらない風体をしていた。そのまま何千年でも同じ格好でいそうなところが恐ろしい。この人が派手な変化を見せるところが想像出来なかった。

 電話で事情を説明したときの応対も平然としたものだった。俺が見つけたものの話をしても、これからやろうとしていることの話をしても、ただ黙って聞いているだけ。返ってきたのは一言、『わかりました。それでは三日後の午後一時に、私の部屋で』だけである。まるで、成績の悪い生徒を仕方なく呼びつけるみたいな口調だった。一瞬、何を話していたのかわからなくなったくらいだ。

 けれど、少ない言葉数の中で、教授は教授なりに思うところがあったのだろう。何が必要なのかを正確に把握した上で、教授は策を講じてくれた。それが、今日の呼び出しだった。

「まあ、事情はわかりましたし、君のやりたいことも理解しました。奈緒崎くん。君のそういう類の行動力は美点ですよ」

「……それ本当ですか?」

「私も教育者の端くれですから。褒められるところは褒めますよ。どんな人間にもそれぞれの美点があるものです。そう思いませんか、菱崖くん」

「そうですね、教授。そのたった一つの美点のお陰で、僕も今日こうして教授にお呼び立て頂けたんですから」

 一言でいえば、牧歌的な声だった。耳に心地よい綺麗な声だ。

 呼び出された教授室には、俺の予期しないもう一人の人間が鎮座していた。

 応接用のソファーに優雅に腰掛けているその男には見覚えがある。柔和な笑顔と長めの癖毛、纏う雰囲気がまるで大きな草食動物だ。職業を当てろと言われれば、うっかり保育士と答えたくなるような男。

 この部屋で写真を見た、高畑教授の教え子の一人だ。

「……あの、この人は」

「電話では、叶さんの映像をどうにか出来ないか、との話だったので。力になってくれそうな人間を呼び寄せたんですよ。仮にも大学で教鞭を取っている人間をハローワーク代わりにするとは、君は大物になるでしょうね」

「え、いや、そういうわけじゃないんですけど」

「『どうにかなりませんかね?』とだけ言ってくるのはなかなかふてぶてしいじゃありませんか。この半年で、私の扱い方を覚えたようですね」

「……いや、その点については、その……」

「教授、その辺で。いいじゃないですか。どうせ僕もしばらく暇ですし。何かの役に立つのなら、僕としては嬉しくなっちゃうな」

 座っていた優男がそう口を挟んでくる。向かい合わせになったソファーが空いている。奥に位置取る教授を挟んで、柔和な笑みを浮かべる男に向かい合う。ふわふわの髪の毛が軽く揺れた。

「初めまして、僕の名前は菱崖小鳩。菱形の菱に崖っぷちの崖、小さな鳩と書いて菱崖小鳩。どうも、話は高畑教授から聞いているよ」

「あ、はい。奈緒崎です。よろしくお願いします」

「君に会えて嬉しいよ」

 言いながら、菱崖さんがすっと右手を差し出してくる。唐突に挟まれた欧米的なアクションに戸惑って、うっかり左手を出しかけてしまった。こういう咄嗟に弱いから左利きは面倒である。

 けれど、俺がその左手を引っ込めようとした瞬間、強引に菱崖さんの右手が手首を掴んできた。奇妙な形で固定された左手と、菱崖さんを交互に見る。欠片も揺るがない柔和な笑顔。俺も詳しいわけじゃないんだけど、果たして欧米ってこんな感じだっただろうか?

「奈緒くん、左利きなんだね」

 いつの間にか綽名まで決定していたらしい。手首を拘束されながら、俺はどうにか頷く。

「ええ、……まあ」

「あ、ごめんね、海外が長かったからつい手が出ちゃうんだ。まあここは一つ、ハグまで行かなかったことを褒めて欲しい」

 パッと手を放しながら菱崖さんが笑う。あれか。菱崖さんも左利きに憧れるタイプの人種なのか。左利きの人間は賢いとか、左利きの人間は芸術的センスがあるとか、そういう俗説はよく聞くし。物珍しかったのかもしれない。

「……海外に行ってたんですか?」

「うん。僕の職業って何だか知ってるよね?」

「えっと、フィルムアーキビストでしたっけ」

 高畑教授の言葉を思い出しながら答える。確か、映画の保存に関わる職業だったはずだ。

「そう。だから、結構活動が流動的っていうか……、技術を学んだり、あっちの技術の先端を見に行ったり、海外に出ることが多くなるんだよね。一番有名なセルズニック映画保存学校もニューヨークにあるし」

「そうなんですか」

「アラン・レネ監督が来日して『日本では映画を保存しないようです』と語ったのは一九五〇年代のことでね。割と最近だろう? その頃、日本では横流しを防止する為に上映の終わったフィルムを廃棄するっていう慣習があってね。酷いときは飛行機からどぼどぼ海に落としちゃうんだ」

 嗄井戸が聞いたら憤死しそうな話だ。あいつのことだから当然知ってそうな話ではあるけど。

「そういうわけで、この国じゃ映画保存の歴史はまだ浅いんだ。残念なことにね」

 確かに、俺はフィルム・アーカイブっていうものの存在自体を知らなかったくらいだ。まだまだ未発達の部分が多い世界なのかもしれない。

「……菱崖さん、忙しそうなのにいいんですか? 忙しい……ですよね?」

「そんなことないよ。高畑教授から連絡を受けたとき、これは運命だなって思ったんだよね。僕、結構巡り合わせとかそういうの気にする方なんだよね。だから、出来ることはしたい」

「私の知っている中で映画……映像関連に造詣が深いのは菱崖くんだけですから。それに……」

「僕は叶さんと親交があったからね」

 高畑教授が言うより早く、菱崖さんが言った。

「彼女もフィルムアーキビスト志望だったから、色々進路の相談とかには乗ってたんだ。……事件に巻き込まれたって聞いたときは驚いたよ。あっちに行ったら、一緒に学べると思ったのに」

 それを聞いて、俺は一瞬、菱崖さんを巻き込むことに躊躇いを覚えた。嗄井戸のことを見ている以上、距離が近い人間を巻き込む恐怖がどうしてもあるからだ。けれど、俺の煩悶を他所に話は進む。

「実を言うと、僕にとってもあの事件はずっと引っ掛かってるんだ。出来ることがあれば協力したいな」

 何となく束の言葉を思い出した。やらなくちゃいけないことは必ず自分に追いついてくる。菱崖さんにとってもそれは同じなのかもしれない。

「それで、件のDVDは?」

「あ、はい。これです」

 俺は冷蔵庫で冷やしていた『ストーカー』を差し出す。

「ただ、この映像、かなり荒いんですよね……えっと、俺あんま詳しくないんですけど、昔の映画を綺麗にするとか、そういうことが出来るっていうじゃないですか。だから、とりあえず見てもらえないかな、と」

「……なるほどね。映像はこれだけ?」

「見つけたのはこれだけです。あとはネットに上がってる叶さんの映像だけで……」

 実を言うと、むしろそっちの方が本命だった。嗄井戸の事件にダイレクトで関わっているそれの方が、関わりが深い分何か手がかりになりそうな気がする。けれど、親交があったというのなら、叶さんのスナッフを観るのすら辛いかもしれない。

 俺の表情で内々の躊躇いを察したのか、菱崖さんが言う。

「ああ、叶さんの方も大丈夫だよ。……こんなことを言うのはあれだけど、僕だって観たことがないわけじゃない」

「そうなんですか……」

「ただ、こちらのスナッフにせよ、叶さんの映像にせよ、荒い映像を鮮明化するのには限界がある」

 表情を曇らせながら菱崖さんが言う。無茶を言っているのは重々承知なので、申し訳ない気持ちになった。俺の方も慌てて返す。

「あ、なんかすいません……俺も思いつきで言ってるだけなので……。ほら、昔の映画が、びっくりするくらい高画質になって上映! みたいなのとかあるじゃないですか。あんな感じでいけないのかなって」

「件の映像に関しては意図的に荒くしている部分もあるみたいだしね。そもそも、昔の映画がどうして高画質で上映出来るのか、奈緒くんわかる?」

 当然ながら俺にはわからない。けれど、素直にそう答えるのも不実な気がして「技術の進歩ですか?」と当たり障りの無い回答をした。

「確かに技術の発展もあるんだけどね。実を言うと、今の技術が凄いっていうより、昔のフィルム自体が凄かったんだよ。二〇〇九年に『紅葉狩』って映画が国の重要文化財に指定されたんだ。映画が文化財に指定されるなんてことはこれが初めてで、そりゃあもう大騒ぎ。一八九九年のものだから、データにするのもかなり骨が折れたんだけどさ、元の可燃性フィルムの劣化は意外にも酷いものじゃなくて、技術者たちが元の素晴らしさを掬い上げられたってわけ。痺れちゃうな」

「なるほど……」

 ということは、そもそも今回の場合と、あの映画の高画質リバイバルじゃ話が違うというわけだ。黎明期のフィルムの強さ。

 常川さんの一件だけしか知らない俺は、ニトレートフィルムを繊細で扱い辛いものだと思ってしまっていたが、デメリットだけじゃないってことなんだろう。

「でも、何箇所か動画を止めて、その静止画を綺麗にデジタルで調整するってやり方なら、何かわかるかもしれない。それで、個人特定に繋がる何かを見つけられたら儲けものだよね」

 フォローするように菱崖さんが言う。手がかりがこれしか無い以上、その言葉に甘えるしかなかった。

「……ありがとうございます。感謝します」

「情に厚いんだね、奈緒くん」

「そうでもないですよ。ただ、出来る範囲で何かしてやれたらって」

「出来る範囲、ね。良い言葉だよ。警察が見つけられなかった新事実……なんてそう簡単に見つかる気はしないけど、何事も試してみる価値はある。ドキドキしちゃうな」

 警察か、と思う。嗄井戸のことを第一容疑者だと考えている警察は、あのスナッフフィルムをどのくらい精査してくれたんだろうか。端から結論が決まっている中で、それにそぐわない証拠なんて目の端にすら留めて貰えなかったかもしれない。

「私の方も期待していますよ。まあ、私が出来ることなんて何もありませんけど」

 暗澹とした空気の中、のんびりとした声で高畑教授が言う。自分の役目は終わったとでも言わんばかりだ。実際に、こうして菱崖さんと引き合わせてくれただけでも、教授の功績は計り知れない。来年こそはちゃんと単位を取ろう。

「あ、そうだ。奈緒くんの電話番号教えてもらえるかな?」

「あ、はい。わかりました」

「じゃあ、これに書いてくれる?」

 そう言って差し出されたのは小さなメモ用紙と高級そうな万年筆だった。文具には詳しくないが、洒落た装飾と程良い重さがいかにも高級っぽい。菱崖さんは案外高給取りなんだろうか。羨ましい。そんな不純なことを考えていた所為か、結構な勢いでインクが滲んだ。高そうなのに、意外と扱い辛い。

「いつ電話してもらっても構わないんで、何かあったらお願いします」

「僕意外と朝型なんだけどいい?」

「大丈夫です」

「オッケー、それじゃあよろしくね」

 ひらりとメモとペンを回収しながら、菱崖さんが笑う。

 その間、高畑教授は一言も喋らなかった。それでいて、細められた目がまるで観察するように俺を見ている。

「期待していますよ、奈緒崎くん」

 果たして、引き合わせた自分の判断が正しかったのかどうか。気まぐれで出した救済措置が、どこに向かうのかを見定めている。