序章


 大勢の神々の住まう天界、高天原。

 高天原では神々といえど、日々の生活は人間と大差ない。

 そこに昔、二柱の神が共に暮らしていた。

 まだ幼い神を年若い神が世話する日々で、年若い神にとっては心配事が絶えない。

 その日も幼い神は傷をこさえて帰ってきた。

「何でもないよ。転んだだけさ」

 まだ幼かった大黒は首を振った。

「そんなわけないでしょう?」

 身を屈め、大黒の頬に触れたのは白い肌の女神だ。

「大丈夫だってば、弁天……痛っ!」

「……正直に言って、大己貴」

 弁天と呼ばれた女神の声が少し固くなる。大黒は弁天を見上げた。弁天の深く潤んだ瞳を目にして、すぐ顔を逸らす。

「……八十神たちと喧嘩になった……」

「まあ……あなたが喧嘩するなんて」

「だって、あいつらは大勢で寄ってたかってウサギを馬鹿にして虐めてたんだ」

 呟く大黒の肩に、弁天はそっと手を重ねた。

「それが許せなかったの?」

「神様は弱い者を救ってあげる。それが正しいことでしょ?」

 顔を上げた大黒、その目はまっすぐだ。

「……そうね、それはとても大切なこと」

「でしょう!? なのに、あいつらは困っているウサギを助けないで、逆に酷いことを……」

「でも、そのためにあなたが怪我をしたら、私は悲しいわ」

「……弁天、そんな目をしないで」

「あなたが正しいことのために危ない目に遭って私を悲しませる。それは正しいことだと思う?」

「……じゃあ、ウサギを助けなければ良かったっていうの?」

「……難しい問題だけど、大己貴は『福』って何だと思う?」

「福?」

「そう、私みたいな福の神がいつも考え願っている、その福って何だと思う?」

「……幸せってことでしょ?」

「そうね。皆が幸せになること、誰も悲しい思いをしないこと」

「……で、でも、皆を幸せにするって……そんなのできっこないよ」

「どうして?」

「……その、皆……皆は同じじゃないもの」

 大黒は考えを絞り出すように声を出す。

「ええ、確かに皆それぞれ違う顔や声、考えや性格を持っているものね」

「そうでしょ? 好きな物も違うんだから、お菓子を貰っても幸せになる人とそうじゃない人がでてくる」

「お菓子を貰って困る人が居るの?」

「……えーと、その人は虫歯なのかも」

「じゃあ、大己貴はお菓子を貰っても不幸な人がいたとして、放っておく?」

「そ、そうは言わないけど……でも、俺が言いたいのは皆には色んな違いがあるんだから皆を幸せにはできないってこと」

 そう言って、大黒は指を折り始める。

「例えば、優しい人、意地悪な人、豊かな人、貧しい人、何でも知ってる人、何にも知らない人……」

 それから、ぼそりと付け加えた。

「……親が居る人、居ない人」

 弁天が息を呑む。

「大己貴、あなた……」

 大黒は弁天の顔を見て、激しく頭を振った。

「いや、俺には弁天がいるから!」

「……私が至らない所為で寂しい思いをさせてしまっているのね」

「寂しくなんか無いよ!」

「もしかして、だから喧嘩を……?」

「違うってば! ウサギを虐めるあいつらを止めたかった、ただそれだけ!」

「でも、喧嘩ではないやり方があったかもしれないわね」

「無理だよ。あいつらは俺の言うことなんか聞かないんだ」

「……そう。なぜ八十神たちは大己貴の言うことを聞いてくれないのかしら」

「意地悪だからだよ」

「そうね。八十神たちの中にはきっと意地悪な神も居る」

「そうさ!」

「でも、八十神たちだって皆同じじゃない。意地悪じゃない八十神だって居るかもよ?」

「……そんなのが居たら、ウサギを虐めるのを止めてたはずだ」

「なのに、止めなかった。優しい人でも酷いことや悪いことをしてしまうのよ」

「そんなのおかしいよ! なんていうか……正しくない!」

「一度でも過ちを犯した者は正しくないのだとしたら、この世に正しい者など誰も居ないわ」

「でも、でも……どうしてそんな優しい人が過ちを犯してしまうのさ。もともと優しくないからでしょ」

「それは、きっと……アヤカシが囁いたから」

「アヤカシ……? ってなに?」

「心の弱さから生まれる怪物よ。アヤカシに取り憑かれたものは心を一層歪められて、酷いことをしでかしてしまうの」

「八十神たちは神の癖に、そんなアヤカシに負けてしまうような奴らなの?」

「ええ。神でさえアヤカシに屈してしまうのだから、人間なんてもっと容易い」

「人間たちも?」

「そうよ。人間たちの住む葦原の中つ国には高天原よりももっとたくさんのアヤカシが居て諍いや悲しみを増やしているの」

「それは……余程ひどいことになっているんだろうね」

「国もなく、大地は荒れ果て、心荒んだ荒ぶる神々や人々同士が暴れ回っているわ」

 弁天は大黒の目線に合わせるべく腰を落とす。

「大己貴、あなたはきっとアヤカシを祓う力を持っている」

「俺に……? どうして?」

「あなたには正しいことを目指す心があるから。でも、それだけじゃ足りない」

「……そうだね。俺にはウサギの虐めを止めるだけの力も無かった」

 弁天は首を振った。

「力よりも……もっと学びなさい。人のことを、弱い者のことを」

 力のこもった瞳で大黒を見る。

「あなたにならできる。それはあなたの役目でもあるの。人間たちを救ってあげて」

「俺が人間たちを……? でも、力もない俺なんかにできるとは……」

「神様はね、弱い者に幸せを与えて救ってあげられるから神様なんだよ。あなたは立派な神様でしょう? 大己貴」

 後に、成長して『大黒天』と呼ばれることになる大己貴は人間たちの住む地、葦原の中つ国の国造りに大いに貢献した。その中つ国は天照大神に譲られ、今は人間が治めている。

 大黒はその功績を認められ、福の神の一柱、七福神となった。そのことを最も喜んだのは同じく七福神の一柱でもある弁天だったという。



第一話 因幡の白ウサギ


 天界に住まう神々の中でも、七福神は特に人々と関わりがある。

 彼らは人間に幸福をもたらすことを旨とする福の神であり、人々の夢の中を宝船で巡るのは周知の事実だ。

 であるから、良くも悪くも人間に影響を与え、また影響も受けてしまう。

 例えば、七福神の一柱である大黒は、人々に福をもたらそうと張り切りすぎて自分の財を使い切り、それでも困っている人を見捨てられず、借金してまで人々を救った。

 なんという美談。

 さすが福の神、とても優しい。

 ただ、借金の相手が悪かった。素戔嗚という、天界でも高位の三貴神の一柱でありながら、荒ぶる神でもある困った神だ。

 さて、その後に起こったのは、七福神の一柱が荒ぶる神につきまとわれるという異例の事態。

「大黒、大黒よ! 借りた金を返さんのは泥棒と同じぞ? ああ、そうか! これはしたり! 七福神とは泥棒の集まりであったか!」

 素戔嗚は大黒のみならず、七福神まで当てこすって催促する。どうも素戔嗚、その天邪鬼な性格から、もとより福の神全般に難癖つけたくて仕方ないようだった。

「素戔嗚よ、七福神とは人を幸せにするのが仕事だ。泥棒とは言いすぎじゃないか」

 大黒がそう抗議しても、素戔嗚はどこ吹く風。

「おお、そうか! なら俺のことも幸せにしてもらえるのだろうな?」

 そうして素戔嗚、七福神たちに一々つきまとっては俺を幸せにしろだの金を返してもらえば幸せになれるだの鬱陶しいことこの上なかった。

 これには仲間の七福神たちも辟易せざるを得ない。彼らは大黒のためにあちこちから金を工面して借金を立て替えてやった。

 美しき友情。

 だが、大黒はその後、七福神たちからめちゃくちゃ説教されたものだ。特に武神として名高い厳格な神、毘沙門天は怖い顔。

「身の丈を考えろ! まったくお前という奴は!」

「いや、けれど、七福神として目の前で困っている人がいたら何を差し置いても助けたいと思うだろ? 俺が少々借金することで幸せになれる人が居た。それだけのことじゃないか」

「そうであっても、だ! あの素戔嗚から借りることはないだろう!」

 毘沙門天は歯軋りする。

「あいつは高天原で大暴れするような奴だぞ! この前だって水牛の神の角を叩き折っている!」

「あれは水牛神が酔って暴れていたのを取り押さえたのだと聞いたぞ。立派なものじゃないか」

「その水牛神に酒を勧めてへべれけにした挙げ句暴れさせたのは、そもそもあいつなのにか!」

「……あの方は酒に関しては気前の良いところがあって、振る舞い酒が好きなんだ。酒が好きだからな、飲むのも飲ませるのも」

「その気前の良さが借金にも発揮されればよかったのにな! まったく、なんでわざわざあいつから金を借りたんだ!」

「素戔嗚には昔、中つ国の国造りで剣なんかを貸してもらったことがあるんだ。今回も貸してくれると言うから……」

「国造りに剣を……まさか、草薙剣か!?」

 急に目を輝かせた毘沙門天、身を乗り出した。

「お前、草薙剣を手にしたことがあるのか!? あの名刀……!」

「い、いや、そんな剣ではなかったが……」

「……なんだ、つまらん……」

 毘沙門天はあからさまに肩を落とす。それから、口をへの字にした。

「……とにかく、お前の所為で、皆、金を返す代わりに厄介ごとを頼まれたりもしたんだぞ」

「何を頼まれたんだ?」

「地上に増えている、やっかいなアヤカシたちを祓えとか、地上の酒を買ってこいとか、使い走りだ!」

「地上の酒?」

「唐突に思いついたようで、八岐大蛇すら酔わせたくらい強いのが飲みたいと駄々をこねだしてな」

「八岐大蛇の!? あの七回絞って造る酒、八塩祈之酒か! まさか、お前も飲んだのか!?」

「いや、強力な缶チューハイや辛口の酒を適当に見繕って買っていっただけだが」

「……なんだ、そうか……」

 大黒はあからさまに肩を落とした。それから、顎に手を当て、思案顔。

「あの方は……七福神を顎で使うのが楽しいんだろうな」

「お前が行けばいいのに、俺が行くことになったんだぞ?」

 大黒は首を振った。

「でも俺は夢の中ならともかく、地上には直接降りるわけにはいかないから」

「いつもそう言うけどな! お前、地上に行けないわけじゃないだろう!」

「天界に国を譲ったときに定められたことだ」

「お前は地上に降りてはいけないという天照大神との約束か? そんなもの、地上ももう人間の物になっているのに、守る必要があるのか?」

「定められたことは守るのが正しい」

「弁天や布袋はよく降りているのに、お前はそういう所が融通が利かんな!」

「弁天か……」

 大黒は遠い目をした。

「なんだ?」

「いや、あいつだって融通が利かないことはあったぞ。俺が幼い頃、弁天は一つの芋を半分に折り分ける際必ず大きい方を俺にくれたんだが、あるとき、芋が丁度真っ二つに割れてしまってな。弁天はきっちりそれらの長さを測って、それで僅か爪の先分大きい方を俺にくれたよ」

「子供の頃の話だろうが」

「そのくせ、俺がもたもた食べてると、その様子を実に物欲しげに見てたりしたな」

 やはり、七福神などの人々に触れる機会が多い神は、どこか人間に影響され人間臭くなるというか俗っぽくなってしまうものなのかもしれない。

 というわけで、その名の出た七福神が一柱、弁天が次のようなことを言い出したのは、やはり人間の影響だろうか。



「私、七福神を辞めます」

 その画像の人物は、愁いに満ちた眼差しで溜息一つ。そんな仕草一つ一つに一々色気がある。

 それに見とれていた神たちは、ほ~、と溜息を吐いてから発言内容を理解して、

「……なにぃっ!?」と驚いた。

「しきたりとか前例とか……そんなもので雁字搦めの今の天界のやり方って、私とは合わないっていうか……」

 そう言って苦笑する。それは眉を八の字にした微笑だが、それでも見る者の心を(特に男神の心を)揺さぶる笑顔だ。白い肌はきめ細かく、輝くよう。その羽衣から覗く手足はすらりとしているのに、羽衣越しにうっすら透けて見える胸や腰は肉感的なその女神。

「人間界で私に何ができるのか、もっとできることがあるんじゃないか……うん、そうね、本当の福を見つけてきたいから。……結局、今の私たちでは何もできていないから、人々の不幸は尽きていないのかもしれないけれど……」

 そう言って、肩を落とす。

『福』って何だと思う? 昔、そう尋ねてきた弁天のことが思い出されて、大黒の目から不意に涙が零れ落ちる。あんなに福のことを考え、人の幸せに尽力してきた弁天がこんなにも福がわからなくて悩んでいたなんて……! あんなに頑張ってたのに……七福神を辞めてしまうというのか。弁天の報われなかった頑張りに、大黒は胸が詰まったのだ。

 そして、心配だ。急にこんなことを言い出して……思い詰めて、何か取り返しのつかないことをしでかしてしまうんじゃないか、と。

 その神、黒い着物を羽織った若い男、いや、少年のようにも見える大黒は、声も嗚咽もなく涙だけを零していた。

 その大黒の脇で、惚けたように弁天の画像を見つめていた白皙の美丈夫が異変に気付いた。

「おい、どうした!? ……泣いてるのか?」

 毘沙門天の問いに、大黒は頭を振って顔を背ける。

「……泣いてない!」

「……お前にとっては姉のような存在だったからな、衝撃も大きかろう」

「私が思いますに、大黒殿はそのような理由で涙を見せたのではないのでは、と」

 口髭を生やしたスマートなたたずまいの神が言う。

「じゃあ、なんで泣いているんだ、こいつは」

「泣いてないと言ってる!」

「弁天殿が身内同然だから衝撃を受けたのではなく、七福神の一柱でさえ福に迷うという悲しさに涙しているのかと」

 その神、福禄寿は口髭を撫でながら言った。

「私も、彼女の悲痛さに胸が痛くなります」

 と、沈黙して考え込んでいた弁天の画像に動きがあった。強ばった笑みを浮かべたのだ。

「……とにかく、私、しばらくこっちで暮らすつもり。きっと楽しいわ。みんなとはしばらくお別れになるけど、心配しないでね。じゃ、ばいばーい」

 少々わざとらしく元気に手を振って見せた。

 そして、置き手紙から起ち上がった立体女神像が消える。沈黙が降りた。……間。福禄寿が肘でもって毘沙門天を二、三度突く。毘沙門天、目を見開いて、ああ! と一言。それから、

「……弁財天め!」

 唸るような声を上げた。

「天界のやり方や七福神のあり方をごちゃごちゃ言ってはいたが、何のことはない! 本音は自分が人間界で遊びたいだけではなのではないのか!?」

 甲冑を身につけた白皙の美丈夫が眉間に盛大な皺を寄せている。先程まで見とれていたのを振り払うかのように、大声を上げた。

「もう弁財天に振り回されるのはごめんだ! あいつ、こっちから首にしてしまえ!」

「穏やかじゃないな、毘沙門天」

 そうとりなしたのは大黒だ。

「……弁天があんなこと言うわけないんだ……。何かの間違いじゃないのか?」

「これ以上無いくらい、はっきりと辞めるといっていただろうが」

「……じゃあ、何か考えがあってのことだ」

「まったく……お前は弁財天に子犬のように懐いてるんだな、大黒?」

「……俺はそんなつもりじゃ……ただ、あいつは色々考えて動いているんじゃないかと……」

「そうだな! 遊んで暮らしたいから七福神の仕事を放棄したい、というのも考え方の一つだろうな!」

 その激しい口ぶりに、黒い着物の若者の声も固くなる。

「……なあ、俺たち七福神、今までなんのかんのうまくやってきたじゃないか。その仲間をいきなり除名しろとか決めつけたりとか、冷たくないか?」

「お前が素戔嗚に金を借りていたと知ったとき、私はこれまでの七福神のやり方ではもううまくいかないと悟ったのだ!」

 きびきびした動きで、美丈夫が黒尽くめの若者を指弾する。

「みんな自分の好き勝手に福を授けすぎている! 何の指針もなく、人々のただ望むままに福を授けていていいはずがない。誰かが私たち七福神の宝船の船頭となって、どんな人間にどの程度の福を授けるのか、統率していかなければ収拾が付かん!」

 指を突きつけられて、黒尽くめの若者である大黒は肩を竦めた。

「まあ、その節は迷惑をかけてすまなかった。どうしても金を用立ててやらねば、あの村に橋は架けられなかったんだ。だが、そのお陰で村人は川向こうの医者にもかかれるようになった。だから、俺はあの時金を借りてまで人を助けたことを間違ってたとは思わない」

「まだ反省してないのか、お前は!」

「まあまあ、今はそういう話じゃないんじゃないかねえ」

 それまで思案げに首を捻っていた青年が口を開く。手にしているのは釣り竿だ。

「七福神の一柱が人間界で暮らすとなったら、最早我々は七福神ではなくなっちゃうんだからさ」

「まったくだ、六福神になってしまうな」

「というか、そうなると宝船が動かせないんだよねえ……」

 青年は無精ひげの伸びた顎をさする。

「七柱揃って初めて宝船は人間の夢の中へと漕ぎ出せる。このままでは年始の初夢への航海ができないし、何より釣りができない。せっかく夢鰹の一本釣りを楽しみにしていたのに……これは由々しき事態ですよ、みんな」

「お前はお前で釣りの心配しかしていないのか、恵比寿!」

「そんなこと言ってもねえ、毘沙門くん。僕は漁の神としての本分を貫いてるだけですよ」

「……何でお前みたいなのが一応七福神のリーダーってことになってるんだ……」

 毘沙門天が頭を抱える。

「ははは、いやあ……ほんと、何でだろうねえ? ま、だからこそ新しい者がリーダーになった方がいいんじゃないかと思ってるんだけどねえ?」

 顎を摩りながら、恵比寿は首を捻ってみせる。

「そういった懐の深さが恵比寿殿のよいところと私は思いますよ」

 福禄寿が真面目な顔で言った。

「毘沙門殿、失礼ながら、あなたは少々頭が固い」

 と、福禄寿は大黒を窺うように見ながら、

「頭が固いままでは、いざ福を授けるときに支障を来すことにもなりかねますまい」

 毘沙門天は、もういい、というように頭を振った。そして、表情を厳しいものに改める。

「……だったら、どうだ? 良さそうな福の神を一人見繕って、そいつを新たな七福神の一員にしてしまうのは?」

 その提案に、大黒が眉を顰めた。

「それじゃあ、弁天はどうなるんだ?」

「知るか。いつまでも人間界で遊び呆けているが良い」

「それは乱暴な話だな。大体、俺たちだけでそんなことを決めて良い訳がない。寿老人も布袋も今この場にいないのに」

 大黒は他の七福神たちの名を挙げて毘沙門天を思い止まらせようとする。

「でも、大黒君。七福神が揃わないのは大問題だよね? だって、このままじゃ釣りが……いや、天界と人間界は実体と影のようなもの。幸福の象徴たる七福神の一角が崩れるということは、人間たちの住む現世にも必ずや良くない影響をもたらすんだよ。たぶん」

 そう言って、恵比寿は難しい顔で宙を見つめた。

「毘沙門君の提案も、真剣に考慮した方がいいかもしれないねえ」

「待て、待ってくれ! あいつは……あいつは本当にただ消える奴じゃないんだ!」

 大黒は必死に食い下がる。

「皆の幸せをいつも考えてるような奴で、なのにそれを放り出すなんて何かの間違いか冗談、芝居としか思えない!」

「う……っ!?」

 毘沙門天が言葉に詰まり、恵比寿の眉が面白げに上がった。

「いやあ……そんなに弁天くんのことを信じてるなんて……できた若者じゃないか」

 恵比寿はじょりじょりと髭を摩る。

「僕もね、弁天君の福に対する思い入れはよーっく知ってるよ」

「だ、だろう? だから、あいつは七福神を辞めるわけが……」

「でもねえ、大黒くん」

 恵比寿の声が深く、重くなる。

「弁天くんが地上に行っている間、彼女が救うべきだった人たちが今不幸になってるのはわかってる?」

「そ……それ、は……」

「弁天くんが職務を放棄するのなら……一刻も早く別の七福神を見つけないと救える人も救えなくなっちゃうんだよ。悲しいねえ」

「……わかった」

 しばしの沈黙の後に発せられた大黒の声は、静かだがきっぱりしていた。

「何だい? 何か言いたいことでも?」

「要は弁天が戻ればいいんだろう?」

「そんな簡単に……」

 大黒は片手を差し上げて、毘沙門が噛みつこうとしてくるのを制した。

「俺は弁天のことをよく知っている」

「……ほう、じゃあ、今どこに居るかもわかる、と?」

「それはまだわからない。だが、あいつが人々の福に対して、どれだけ思い入れがあるか、ずっと見てきた」

 福って何だと思う? そう問いかけてきた弁天の顔を再び思い浮かべながら、大黒は言った。

「でも、辞めるといっているぞ」

「だからこそ、辞めさせない。あいつが七福神を辞めて幸せになれるとは思えないからな」

「しかしだな!」

 毘沙門天の厳しい表情の前に、大黒は人差し指を突きつけた。

「俺が弁天を見つけ出して連れ帰る。それで文句はないな?」

 大黒の言に、毘沙門天が目を眇める。胡散臭げに、視線を上から下へ、下から上へ。

「お前が? できるのか?」

「当たり前だ。俺くらいになると、この置き手紙を詳しく読み解けば弁天が今どこにいるのか見当はつく」

「そういうことではない」

「じゃあ、何だと言うんだ」

「弁財天は地上にいるんだぞ」

「……そう言っていたな」

「地上に降りないという約束はいいのか? 取り決めを破ってもいい、と?」

「……構わない」

「よく言った。これはもう大黒くんに任せるしかないでしょ、毘沙門くん?」

 恵比寿が口添えしてくる。穏やかな表情だ。

「これまでずっと守ってきた取り決めを破ってまでも捜しに行きたいのだという、大黒くんの思いを汲んで、ねえ?」

「……まあ、いいだろう」

 毘沙門天は矛を収める。恵比寿が大黒に微笑んだ。

「僕だって、家族が姿を消したら自分で捜しに行きたいと思うよ」

「……心遣い、感謝する」

「だが、待つのは少しだけだ」

 毘沙門天はきっぱりと言い放った。

「弁財天が戻ってこないようなら、こちらも動かざるを得ないからな。新しい七福神候補を探すことになる」

「そんな心配は全然必要ない。探すな!」

 大黒は言い捨てるように言うと、その場、七福神たちの祀られた祭壇の間から出て行った。

「……いやあ、若者の相手は骨が折れるねえ」

 恵比寿が首の骨を鳴らしながら、溜息を吐いた。

「あなたも十分若者の範囲と存じますが」

 福禄寿が茶を淹れつつ大黒の出て行った方向を見やる。

「彼なら、きっとやってくれますとも」

「さてな、どうなることやら……」

 毘沙門天は腕を組んで呟いた。

 こうして、大黒は七福神の仕事を放棄した弁天を捜しに、人間界に降りることとなったのだった。



 さて、そうと決まれば時間は無駄にできない。一刻も早く弁天を見つけ出さねば、と人間界に降りる準備をしている大黒の元へぶらりと現れた神が居る。

「おーい、ナッチ。聞いたよ~? 人間界に行くんだって? いいないいな、僕も行きたい!」

 その神は子供のように見えた。小さな体をちょこちょこ動かして、大黒の側に寄ってくる。名を少彦名命という。

「ヒコか。……って、なんだその格好は!?」

「どう? 今っぽくしてみたよ? 地上で溶け込めるようにね!」

 黒い着物の大黒に対して、少彦名は明るい黄緑色のパーカーに裾が短いズボンを纏っている。パーカーの背には曲玉がデザインされ、神々しさを醸し出そうとしているらしい。大黒は首を振り振り、言った。

「……ヒコ、俺は地上に遊びに行くわけではないんだが」

「知ってる。弁財天をお捜しするんでしょ?」

「相変わらず、耳聡いな」

「まあね! 僕には優秀な情報伝達ネットワークがあるからね」

「ネズミや蛾といった小さき者たち、か」

「そう、その小さき者たちから、ナッチが弁財天の置き手紙に隠されていた手がかりを読み解いたって聞いたよ。なんでも、たちどころに弁財天の居場所を突き止めたんだって?」

「ああ、そういう趣旨のことは勢いで言ったが、それは嘘だ」

 しれっと大黒は自らのでまかせを告白する。

「そうでも言わないと、毘沙門天が許してくれそうになかったからな」

「やっぱりね! そんなことだろうと思った」

 少彦名は口の片隅だけを上向きに笑う。

「でも、あのナッチが誓いを破るなんて相当なもんだね!」

「それは……」

 大黒は言葉を濁した。が、少彦名の方は気にした風でもない。

「それで良いと思うよ。ていうか、そうじゃないとナッチじゃないよ! だって、ナッチにとって弁財天は大事な家族なんでしょう?」

「ああ」

 大黒は頷いた。

「……俺が八十神たちと争って荒れていた頃から、あいつは俺を信じていてくれた。見捨てずに一緒にいてくれたから、な。そこに意気を感じた、というやつだ」

「じゃあ、早く連れて帰らないとね!」

「ああ、その通りだ。……でも、よく考えると不安になる……俺が連れ戻せなかったらあいつは……」

「なるほど! ところで、僕って捜し物とか得意なんだ!」

「ああ、そうだな。独自の情報伝達ネットワークがあるものな」

「だから、ね?」

「うん?」

「そんな捜し物が得意な少彦名ちゃんが目の前にいますよ?」

「ああ、見た感じ、完全にヒコその者だな。……まさか違うのか?」

「あーもう! 僕を連れてった方が良いよ、ってこと!」

「そうか、そうだな。お前が力を貸してくれるなら心強い。一緒に来てくれるか?」

「二つ返事で腐れ縁だな、一緒に行こう、でいいんだよ」

「そうか。よろしく頼む」

 大黒には昔から少彦名という心強い仲間がいるのだ。

「では、早速天橋立から地上へ向かおう」

 二人は天界から地上へと架かる橋、天橋立に乗りこんだ。しばらく無言で立ち尽くす。そして、しばらくして少彦名が真実を口にした。

「……これ、自動じゃないね」

 二柱はこうして、えっちらおっちら人間界へと降っていった。