はじめから何もかもおかしかった。

 大学生活がはじまる直前の春休みのこと。

 その日、巡森翠は天下一能天気な顔で商店街を歩いていた。

 引っ越しが済んだのは、つい一日前。安房国の田舎町から下総南部の船橋市へ、進学を機に越してきた。自転車で大学まで七分、最寄り駅までは一五分のアパートを新居とし、新生活に胸を躍らせると同時に気を引き締めてもいた。はじめてのひとり暮らし。何もかもが自由とはいえ決して堕落することなく、おはようからおやすみまで、清潔で美しく健やかな毎日を送ろうと心に決めていた。

 そんな彼女がスーパーで一番安い洗剤と漂白剤を買い、ビニール袋を提げ、特に理由のない微笑みを浮かべ、無防備なフォームで商店街を歩いているとき、男は現れたのだった。

 道の先から猛烈な勢いでその男は走ってきた。すぐ後ろには自転車を立ち漕ぎするもうひとりの男がいる。両者ともに凄まじい速度だ。自転車に乗った男は怒鳴り声を上げている。どうやら前の男を追いかけているらしい。そう分かったとき、やっと彼らの容姿がはっきりと見えてきて、巡森は驚いた。

 追われている男は見慣れた制服に身を包んでいる。

「お巡りさんだ……」

 それを追いかける大柄の男は薄い褐色の肌をしており、鼻は高く、顎から頬までが短い髭に覆われている。

「インド人だ……」

 何事だろう。

 日本の商店街で、日本の警察官が、インド人に追いかけられている。

 世にも奇妙な光景だ。何がどうなって現状に至ったのか、事の次第にまるで見当がつかない。

 昼下がりの商店街を行き交う誰もが彼らふたりに視線を注ぎながら、決して関わり合いになるまいと道を空けている。

 やがて警察官は、呆気に取られる巡森の目前にまで接近してきた。慌てて道の端に身を側めようとする巡森だったが、その必要はなかった。警察官は突如直角に曲がり、焼鳥屋と古ぼけた化粧品店のあいだに入っていったのだ。

 息を呑む巡森の前に、続いて自転車に乗ったインド人がやって来て急ブレーキをかける。彼は荒く呼吸しながら、身を乗り出すようにして建物のあいだを覗き込んだ。そして大きな溜息をついた。

 なんとなくの好奇心から巡森も首を傾けて覗いてみるが、ふたつの店のあいだに警察官の姿は見当たらない。ただでさえ真っ直ぐに歩くこともできないような隙間にガスや電気のメーター、エアコンの室外機などが設置してあるので容易に進入できそうにない。男は一体どこへ消えたのだろう……。

 インド人はとてもやり切れないといった顔で何事か叫んだあと、さらに「ふざけんなよ!」と明瞭な日本語でも声を上げた。

 悲しみと憤りを露わにする彼から、このまま何事もなかったかのように離れるのも気が引けて、巡森は「あの――」と尋ねてみた。

「何があったんですか」

「くいにげダヨ!」

「食い逃げ?」

「あのオトコの人、ワタシの店、食べたよ。でもおカネはらいません」

 大きな身体に似合わぬ甲高い声で彼は訴える。下がり切った口角が憐れを誘った。

「大丈夫、ですか」

 なんと励ましていいか分からず、そんな空疎な言葉を口にする。

「大丈夫ナイヨ」

 彼は自転車の向きを直しながら、先程までとは比較にならないほど小さな声でそう呟き、今しがた爆走してきた道を引き返していく。詳しい事情は分からないが、その丸まった背中に巡森は同情を禁じ得なかった。わりと簡単に同情を禁じ得なくなるのが巡森翠の良いところでもあり、本人にその自覚はないが、危ういところでもある。

 それにしても――。

 警察官が食い逃げとは、これは只事じゃない。

 しかも制服を着ていたのだから勤務中だろう。とても信じがたい話だ。本当ならば一大不祥事に違いない。

 巡森はこの街の治安に俄然、不安を覚えて唇をギュッと結びながら、帰宅するべく再び歩き出そうとしたが、目の前の化粧品店からさっきの警察官が出てきたので足を止め、「あっ」と自分でも気づかぬうちに、無遠慮に、人差し指を向けた。

 男は辺りを見回して追っ手がいないのを認めたあと、巡森の存在に気づいて、フンと鼻に詰まったナッツ類を吹き飛ばすかのような息を吐くと、被っていた制帽を脱ぎながら近づいてきて、ピンと伸びた巡森の人差し指にそれを引っかけた。

 そして何も言わずに去ろうとする。

「――え? あの……えっ、なんですかこれ」

 しばし呆気に取られたあとで巡森が慌てて声を上げると、男は振り向いた。

「帽子が邪魔だなあと思いはじめた頃にちょうど指を突き出されたら、引っかけるのが人情ってもんだろ」

 さも当然といった語り口だ。しかし「もんだろ」と言われても……、その主張は巡森にとって知らない国の小さな村の奇妙な風習に等しく、どこがどう「人情」なのかまったく理解不能で、返す言葉に窮した。

 すると男は迷惑そうに顔を曇らせて、厳しい口調で問い詰めてきた。

「帽子を預かる気がないなら、なんで指を向けた。どういう了見だ」

 巡森は畏縮した。怒られたような気がして、「それは、あ、あな、あぬたが――」と頭も唇も上手く働かなくなった。

「なんだか怪しいやつだな」

 訝しげな眼差しが巡森の身体を刺す。

 巡森もまた首を縮めながら、警戒心たっぷりの上目遣いで男を見返した。

 まともな人間でないことはすぐに分かる。細身で手足が長くモデルみたいな体型をしているが、片脚に体重を偏らせ、首も少し傾け、ポケットに手を突っ込んだその立ち姿にはピンとしたところがひとつもない。本来は端整な顔立ちをしているのかもしれないがなぜかまったくそう感じられず、唇の端がわずかに持ち上がっているのに笑顔から最も遠い表情に見える。不敵、だが、どこか魂の欠けたような顔だ。およそ警察官として市民を守ろうという気があるとは思われない。むしろあらゆる市民の人生を万遍なく小馬鹿にしていそうだ。帽子を取った頭はちょっと珍しいくらいもじゃもじゃで、控え目に言って雀の巣、やや誇張して言えば雷雲の切れ端。眉間には三日三晩不眠を貫いた者にのみ許される深い皺が刻まれており、頬は世にも不健康な色をしていて今にも毒液が滲み出てきそうだ。ただ瞳だけが、狡い大人の嘘を暴き立てて物置に閉じ込められた少年のように、ひどく繊細な光を宿している。

「何もないのか」

 男はポケットから手を抜いて腕組みをし、視線を周囲にさまよわせながら話した。

「これといった理由もなく通りすがりの他人を指差したってのか」

「それは、えっと……」

「それが楽しいなら変わった趣味だ」

「違います」

「楽しみでもなくやってるなら尚更ヤバい。病院行け」

「そうじゃなくてッ」

「まあいいさ。用はないんだろ? だったら――」

 男は組んでいた腕を解き、巡森の手から帽子を奪うと「サヨナラだ」と告げながら頭に載せた。

「ちょっと待ってください」

「いや、待たない。俺は待たないんだ」

 踵を返し、離れていく。

 巡森は束の間、逡巡した。この食い逃げ容疑者を追いかけるべきかどうか。そうして結局、正義感からではなく、家路の方向がそちらという理由に押されて、早足で彼の斜め後ろについた。

「あなた、食い逃げしたんですか。お巡りさんなのに」

「俺のどこをどう見て警官だと判断してんだ」

 彼は驚くほど滑舌がよかった。低い声音で早口で、あまつさえ巡森に背を向けて話しているのに言葉の輪郭がとても明瞭だ。

「どこっていうか丸ごとです。上から下まで」

「そうか。そういうことなら、お前には失望した」

「初対面ですよね」

「俺が何を食べたと思う」

「え。いや。分かりま――」

「当てずっぽうでいい。何か言ってみろ」

「カレー、とか、ですか」

「なるほど。まあまあ――」

 男は片手を顔の横でひらひらと動かした。まるで蠅を払うみたいに。

「寒気がするほど間違ってるわけだが」

「普通に間違ってるでいいでしょ」

「なんでカレーだと思ったんだ。――いや、答えなくていい。どうせやつがインド人だからとか、そんな程度の考えだろう」

「それは、まあ……違うと言ったら嘘になりますけど」

「その安直さは絶望に値する、あるいは絶望のエレメントを内包している」

「なんでそこまで言われなきゃいけないんですか」

「残念ながら俺が食い逃げしたのはエスカロップだ」

 え、えすか……っぷ? 知らない料理名が出てきたので巡森は軽く咳払いし、聞こえなかったことにした。

「全然残念じゃないけど、やっぱり食い逃げしたんですね」

「騒ぐな」

 商店街を抜け、大学前の通りに出た所で男は振り向いて、「一番大事なことを教えてやるよ」と告げながら巡森の額に人差し指を突き立てた。

「うわっ。なんっ、急になんですか」

「やつはインド人じゃない。ネパール人だ」

 一番大事かどうかはともかく衝撃の事実ではあった。

「一体どこをどう見てやつをインド人と決めつけた。衣服、肌の色、唇の厚さ、鼻の形、髭――どれをとっても特定し得ないと思うが」

 たしかにそうだ。どうして最初から決めつけていたのだろう。改めて考えてみると自分にもわけが分からなかった。

「おっしゃる通り、まったく根拠のない決めつけでした」

「同じように俺が警察官っていうのも勝手な決めつけだ」

「それは全然同じじゃないです」

 本当はもう分かっている。いい加減、この男から離れるべきなのだ。頭の中の最も冷静な部分は、ずいぶん前から警告を発し続けている。これ以上、この男と話してはならないと。これ以上話すとストレスで病気になると。だがその警告を受け取りながらも結局、巡森は男の後ろについて歩き出してしまう。なぜなら進む方向が一緒だからだ。大学や病院の前を通り過ぎて段々と人通りも少なくなり、住宅街に入っていくが、男の進む道は巡森の帰路と一致していた。一体どこまで――。

「どこまでついて来る気なんだ」

「べ、別に、ついて行ってるわけじゃありませんよ。私の家もこっちの方なんです」

「出来の悪い嘘だな。やる気あんのか」

「ありますよ! ……え? ありませんよ! 嘘じゃないですよ!」

「騒ぐなよ」

 男が再び振り返る。

 巡森はまた額に指を突き立てられると思って咄嗟に身を後ろへ反らせる。ところが男が突き出したのは人差し指ではなく拳銃だった。腰のホルスターから抜き取られた回転式の銃が、グッと巡森の眼前に掲げられた。

「今度こそサヨナラだ」

「ちょ、ちょっと、待っ――」

「俺は待たないんだ」

 人差し指の腹が引き金にかかる。しかし男はそこで「いや」と呟いた。

「先に礼を言っておこうか」

「れい……?」

「近い未来の話だ。ラーメンを奢ってくれただろ。感謝してるぜ」

 なんのことか分からなかった。未来の話と言っておきながら「くれた」と過去形なのもおかしい。有効な命乞いのためのヒントが男の言葉の中に隠されているかもしれない、そう巡森は思うが、ラーメンを奢る未来になどまったく心当たりがない。

 混乱する巡森に銃口を向けたまま男は一瞬だけ目を瞑り、遠くの音に耳を澄ませるように難しい顔をしたあと、「多分その日は雨だ」と再び未来を口にする。

「傘は大事にしておくといい」

 それから咳払いするほどの何気なさで発砲した。



 死んだ。

 ああ、死んだ。

 おはようからおやすみまで清潔で美しく健やかな毎日がこれからはじまるはずだったのに、永遠のオヤスミ。

 巡森は両手で額を押さえながら我が身の不幸を託って「はーあ」と嘆息し、自分の口から漏れたその音を聞いて死んでいないことに気がついた。

 額から両手を離すと男の姿は消えていた。前後左右見回してもどこにもいない。月極駐車場、薄緑色の外壁のアパート、それらに挟まれた空き地にも人影はない。

「なんだったんだ……」

 あの男は、一体――。

 それなりに言葉を交わしたはずなのに結局その素性について何も分からなかった。

 空き地では猫があくびをしている。雑草がぴよんぴよんと生えた敷地の真ん中で、サバトラ柄の身体を丸めながら目を細めている。遠くから救急車のサイレンが聞こえ、前に向き直ったとき、巡森は足元に妙なものが落ちているのを見つけた。

 肌色の小さな物体だ。人間の指先のような太さと長さと形をしている――というよりそれは人間の指先だった。ギョッとしながら屈んで注意深く見てみると、ようやくゴム製の作り物であることが分かった。大人の人差し指の第一関節から先を模したオモチャだ。こんなものはさっきまで落ちていなかった気がする。巡森はそのニセ指を拾い上げて掌に載せる。そして反対の手で額を擦った。銃で撃たれ、死にはしなかったものの、微かな痛みが皮膚に残っている。このニセ指を額に撃たれた、ということだろうか。

 まったく気味の悪いオモチャだ。これを撃った彼はどこに消えたのだろう。分からないことばかりだ。どんな理由で自分が撃たれなければならなかったのか。彼は本当に警察官ではないのか。それではなぜあんな恰好をしていたのか。エスカロップとは何か。いや、それはどうでもいい。「ラーメンを奢る」「その日は雨」「傘を大事に」という謎の予言もまた、どうでもいいこと、なのか――?

 何も分からない。けど、考えない方がいい。忘れた方がいい。そんな気がする。ふと横目で見た先にサバトラ柄の猫はもういない。

 巡森は改めて指のオモチャを眺め、

「気持ち悪い」

 そう呟きながらも、仕方なく、鞄の内ポケットにそっと落とした。



 夕闇が街を覆いはじめる。

 入学から数日が経ち、謎の食い逃げ男のことなど忘れて溌剌とした気持ちでいたある日、大学を出てアパートまで自転車で走っていた巡森は、その短い帰路の途中で急ブレーキをかけた。

 キッと鋭い音が薄暮の住宅街に響き渡る。

 そこは男に額を撃たれたのと、ちょうど同じポイントだった。すぐ脇に空き地があって、猫があくびをしていた場所だ。だが今はまるで様子が違う。目の前の光景に巡森はポカンと口を開ける。

 店が建っているのだ。

 今朝、大学へ向かう際にも同じ道を通った。その時点でまだここは空き地だったはずだ。少なくとも工事などをしていた記憶はない。

 にもかかわらず、雑草がぴよんぴよんと生えていたはずの地面が今ではアスファルト舗装されている。その上に建物が建ち、しっかりと外装が施されて看板に明かりまで入っている。店が完成している。

 建物は一般的なコンビニよりもやや小さい。入り口上部に掲げられた看板はネオンサインで「もんすたぁ♡」とピンク色に光っている。

 自転車に跨がったまま巡森は顎先に指を添えて考える。

 いくらなんでも、たった半日で更地に店が完成するなどあり得ない。

 この不可思議な状況をつぶさに観察した上で、清澄なる思考を巡らせたとき、立ち得る仮説は三つある。

 一、店舗がまるごと天から降ってきた。

 二、店舗がまるごと地から湧いてきた。

 三、私が場所を間違えている。

 ここからさらにもう一歩だけ冷静になると、たちまち一と二の仮説が天地へ還る。したがって巡森の勘違い、この店と今朝通りかかった空き地とは別の場所であるというのが唯一有力な説となる。換言すれば、それ以外に説明がつかない。

 しかしながら注意深く周囲を見回すほどに、今朝通った、そして男に撃たれたのと同じ地点であるという不都合な確信が深まった。両隣に月極駐車場と薄緑色の外壁のアパート、裏手に雑木林で向かいには小さな蜂蜜屋。

 これはもはや一八歳の巡森の手に余る謎であり、そもそも巡森が取り掛かる必要のない謎だ。しかし彼女は自転車から降り、通りに面した大きなガラス窓から店の中の様子を窺った。

 店内には照明が点いている。だが明かりは紫煙のように天井近くを漂うばかりで、全体は湖に沈められたみたいに薄暗い。人ひとりが通れるだけのあいだを空けて大きな棚が幾つも並んでいるせいかもしれない。棚に陳列されているのはDVDソフトのようだ。はっきりとは見えないが、様々な字体のタイトルが細長い背ラベルに記されている。ソフトの販売、あるいはレンタルをしている店だろうか。

 巡森は、いつの間にか鼻息で白く曇らせるほど窓ガラスに近づいていたことにハッとして二歩下がった。その瞬間、自らが曇らせたガラスの向こう、棚と棚のあいだを人影がよぎった。見えたのはわずかの間だ。それでも巡森にはあの男だと分かった。ついさっきまで男の存在など忘れていたのに、なぜかそのように直感した。相手はこちらに気づいたろうか。覗き見をしていた身なので出て来られると挨拶に困る。それにあの男のことだから、また特殊な責め方をしてくるに違いない。巡森は慌てて踵を返し、自転車に跨がった。そうしてペダルを踏み込む前に、もう一度建物に目をやる。

「もんすたぁ♡」

 そう象られたネオン管が放つピンクの光のいかがわしさたるや並大抵ではない。その明かりは巡森の胸の底に不安の影を作る。あの男は単なる客か。それともまさか、この店の主人なのか……。後者であるという濃厚な予感が夕風に紛れて漂ってくるので巡森の表情は自然と渋くなる。もし本当に後者なら、自らの新居のすぐ近くにあの正体不明の男が根城を築いたことになる。

 不吉だ。

 なるべく近づかないようにしよう。

 あの男はこちらの顔など覚えていないかもしれないが、それでも再会は避けるべきだ。関わってはならない。具体的な脅威性については何も分からないまま、巡森の本能は告げていた。ゆゆしき事態だ、と――。

 明日からは大学への行き帰りにも違う道を使うことにしよう。そう考えながら店から離れようとしたとき、ふと入り口脇の貼り紙に気がついた。

 一体どんな筆で書いたのか、まるで紙面を汚すことを目的としたような、恐ろしく乱雑な、毛羽立った赤茶色の字で、

「アルバイト募集中」

 そう書かれていた。



 清く。正しく。なるべく美しく。

 巡森翠は優しい大人達に囲まれて健やかに、朗らかに、のびのびと、人並みに馬鹿馬鹿しく無為に子供時代を過ごし、ちょっとした挫折やそれなりに重大な喪失を経験し、その結果として困った人を放っておけない、見なかったことにできない、心根の真っ直ぐな人間に成長した。

 東に病気の友あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってエコバッグを持ってやり、南の死にそうな人とか、北の喧嘩とか訴訟のことなんかは露知らず、あくまで目の届く範囲において、友や家族や見ず知らずの他人に進んで手を差し伸べた。

 何か特別な心掛けがあってそうするのではなかった。自分の一日も他人の一日も穏やかに流れるように少しだけ関わり合うことは、巡森にとって大儀ではないのだ。

 ある風の強い日曜に巡森は傘を買うため出かけることにした。引っ越しの際に実家から持ってくるのを忘れたので、困る前に用意しておこうと考えたのだ。

 最寄り駅から京成線に揺られて一〇分程度で船橋競馬場駅、そこから無料送迎バスに乗ればすぐに「ららぽーと」へ到着する。

 快晴の日曜ともあって大型ショッピングモール内は大変な混雑ぶりである。しばらくぶらついたあとで巡森はある雑貨屋に入った。

 小さな店の壁には竹林が描かれ、天井からは異国の魔除けアイテムのようなものが吊るされており、どの棚にもびっしりと商品が詰め込まれている。入ってすぐの所に伊達眼鏡とサングラスの回転式ディスプレイスタンドがあって、日曜なのに制服姿の女子高校生三人組が次々に顔にかけては笑い合っている。

 商品に袖を引っかけないよう注意しながら店の奥に進んでいくと、火焔土器のような傘立てに幾本かの傘が挿さっているのを見つけた。犬、蛙、猫、鶏、馬、人など様々な動物の足跡が色鮮やかに印された傘を巡森は気に入って、レジカウンターに持っていった。

 店員が値札を切り離すあいだ何気なく首を回すと、棚と柱のあいだから老齢の男の姿が見えた。色彩豊かな店の中で、古く汚れたジャケットを羽織った彼の姿は違和感を生んだ。逆立った白髪は水蒸気のように儚げだ。彼は棚に並んだ帽子を頭に載せては戻すのを繰り返している。巡森が買い物を終えて店から出たとき、老人の後ろ姿があり、彼の頭には雑貨屋の商品である虹色のニット帽が載っていた。

 あっ、と思うと同時に駆け出していた。

「帽子、被ったまんまですよ」

 老人に追いついて、自分の頭を指差しながら教えた。巡森には、そのことを教えたいという以外の余計な感情はなかった。口元には人懐こい笑みを、目元には適度な敬意を湛えていた。しかし老人は巡森の顔に一瞥もくれなかった。彼は乱暴な手つきで帽子を脱ぎ取ると巡森の肩口にほうった。舌打ちをし、驚くほど敵愾心の籠もった目で巡森の胸元を睨みつけると踵を返して、不機嫌を撒くように肩を揺すって去った。

 恥、だったのだろうか。

 遠のく背中をしばし呆然と眺めたあと、巡森は足元のニット帽を拾い上げた。

 気まぐれに被ってみただけの、こんな派手な帽子を、気づかず店外にまで持ち出してしまったことが恥ずかしかったから、あんなに機嫌を悪くしたのだろうか――。

 店に帽子を戻してから屋外に出ると、風はいっそう強く、空の低い所をびゅんびゅんと雲が流れていた。歩き出した巡森のすぐそばで、七台の自転車が風に負けて将棋倒しになる。これもまた放っておけず、自転車置き場のサイドパネルに傘をかけて、端の一台から順番に立てていき、やっとの思いで七台すべてを元通りにして離れようとしたとき背中から声がした。

「なにあいつ」「パクろうとしてたんじゃない?」

 振り返ると、話しているのは中学生くらいの男子達だった。巡森が七台目の自転車から手を離したところのみを目にして、そう疑ったのだろう。

 引き返して弁明したい思いもないではない。だが今はそれがひどく億劫だった。

 先刻の老人の件もあり、さすがに少し落ち込んだ。

 巡森はこれまで、良かれと思って取った行動で、かえって怒られたり気まずい思いをしたりという経験がなかった。ほとんどの場合、喜ばれてきた。ときには褒められもした。それはきっと彼女が常に他人の顔色を窺うことなく行動に移るからだった。巡森の笑顔には魂胆もなければ方向性もない。カーテンを開けたら陽が差し込むのに似た、最初からそこにあったような感じが人を安心させる。

 それが今日ばかりは少し違った。

『パクろうとしてたんじゃない?』

 帰りの電車に揺られながら、少年の声が耳に蘇る。それと同時に、ある可能性に思い至った。

 あの老人は帽子を盗もうとしていたのではないか。

 巡森は自分の頭に浮かんだその考えに不意打ちを受けたような心地がした。

 無論、憶測の域に留まる話ではある。しかしその憶測は、帽子を投げつけられたときよりも深く気持ちを沈ませる。

 さらに悪いことは続くもので、自宅近くの京成大久保駅のホームに降りたとき、巡森は自分の手に傘がないことに気がついた。車内に忘れてきたのだろうか。……分からない。とにかく、冴えない今日の唯一の収穫物すら手から失せたのだ。

 自販機でミルクティーを買ってホームのベンチに腰かけた。近くに人がいないことを確認してから「はぁ」と掠れた声を吐き出す。

 もう今日は何もしない。このミルクティーを飲み終わったら駅員さんに忘れ物のことを伝えて早足で帰宅、そして家から一歩も出ない何もしない誰にも会わない。そう心に誓った。

 ホームに隣接した踏切の警報機が鳴る。遮断機が下りる。

 目の前をひとりの青年が通り過ぎた。巡森は視線を落としていたので、彼の靴紐がほどけてしまっていることにすぐに気がついた。

 いつもなら声をかける。あの。靴紐、ほどけてますよ。当たり前のように言うだろう。けれども今はそれができない。もしまた裏目に出たら、と思うと行動に移れない。巡森はすっかり臆病になっていた。

 青年はほどけた靴紐に気づいたらしく屈み込んだ。その後ろから歩いてくる女はスマートフォンを弄っている。女の左脚が青年の肩にぶつかった。青年は屈んだ体勢のまま倒れていき、靴紐にかけた指が抜けないせいで頭から線路上に転落していった。

 巡森の手からミルクティーの缶が落ちて音を立て、ぶつかった女が「誰か――」と声を上げるのと同時に、電車の接近表示器が点灯する。

 巡森は即座に立ち上がってホームの縁から下を覗き込み、青年がいまだ上体を起こしていないのを認めると迷わず飛び降りた。上手く着地できずバラストに膝を打ちつけて出血したが痛みを覚えるほどの余裕はない。レールに突いた手に振動を感じ、横目で見た先にはもう電車が迫っていた。

 青年の胴に腕をかけて力を込める。

 その途端、ひどく冷たい確信が巡森の胸の内を埋め尽くした。

 ホームには必死の形相で声を飛ばす者達がいる。しかしどんな言葉も耳に入ってこなかった。どよめきの最中で聞くことができたのは唯一、

「間に合わない」

 という自らの声だった。



 病院の自動ドアから外へ出てすぐに足を止めた。頭が思うように働かず、ロータリーや駐車場を眺めながら抜け殻のように立ち尽くした。

 電車の非常警笛が身体中の骨に染み込んで消えない。

 あのとき、やはり巡森の力で青年の身体を引きずることは叶わなかった。すんでの所で青年が目を覚まして身を翻し、ふたりとも後ろに転んだことで正面からの衝突は免れたが、彼の右脚は車輪により轢断された。総身を震わせるような非常警笛が響く中、枕木が赤黒く濡れていく様をはっきりと見た。

 巡森の方は掌や膝に擦り傷を負った程度で、念のために病院まで運ばれたが検査や治療はすぐに済んだ。それから警察官に事情を訊かれ、詳細はまた後日ということで住所や電話番号を伝えて、今日のところは帰宅することになった。青年は駅近くにある中央公園の野球場からヘリコプターで救命救急センターに搬送されたという。

 ロータリーをあてどなくさまよっていた視線は、しばらくしてある一点に引き寄せられた。

 正門からの緩やかな勾配を歩いてくる人がいる。堂々と車道の中央を歩き、ロータリーを斜めに突っ切り、灌木の隙間を抜けて正面玄関に近づいてくる。

 商店街で出会った、あの蓬髪の男だ。

 警察の制服ではなく漆黒のフォーマルスーツを着ている。ネクタイも柄のない黒色だ。男は目を合わせることもなく巡森の真横までやって来ると、同じようにバス乗り場の方を向いて、

「どんな感じだ」

 出し抜けに言った。

「私に話してますか」

「霊感はない。電話もしていない。そして俺は自分の声が届く範囲にいる人間にしか話しかけない」

「今日はお巡りさんの恰好じゃないんですね。それは……、喪服ですか」

「仕事のときはこうだ」

「仕事って……?」

「死神さ。嘘さ」

「一秒で後悔する冗談言わないでください」

 どうしても声に活力が籠もらなかった。

「色々あって今はあんまり、お喋りできるような気分じゃないですから」

「だから俺の質問に答えないわけか」

「それは質問の意図が分からないからです」

 へえ、と男は興味なさそうに応じてから、長時間のデスクワークによる疲れをほぐすみたいに首を回しつつ、

「事故の一部始終、見てたぜ」

 昨晩放送していたラジオ番組について語るほどの気安さで言った。

「え?」

「それなりに無鉄砲だった。でもそんなお前の行動によって人ひとりの命が救われたんだ。それについてどんなふうに感じてる? ――ってことを訊いたつもりの質問だったんだが、文脈から酌み取れなかったか」

「文脈も何も開口一番だったじゃないですか。それより今、いの――」

 呼吸のタイミングを誤って言葉が途切れる。横に立つ男の顔を窺いながら改めて、おそるおそる尋ねた。

「今、命が救われたって言いましたか」

「言ってない」

「一秒でバレる嘘つかないでください。言いましたよ。あの人、助かったんですか」

「瀬古正輝」

 男は静かにだが力強く言う。

「お前がいなければ即死していた男の名だ」

 不意に真横から強い風が吹いた。

「右脚の膝から下は失われたが人生は続く」

 男の言葉は遥か高みから降る槍のように一方的だ。

 また非常警笛が巡森の脳裡に響く。右脚を呑み込んでいく車輪も、摩擦により熱せられた血の臭いも、すべて今ここにあるかのように感じ取れる。

「満足してるか」と男は問う。「お前の行動がやつに未来を与えたんだ」

「そんなこと聞いてどうするんですか」

「どうするのか……か。それは俺のみぞ知ることだな」

「だから訊いてるんです。あなたは、あの人とどういう御関係ですか」

「やつとは事故の直前まで一緒にいた。バイトの面接でな」

 男はそう言ってから「ちなみに不採用だ」と不要な情報をつけ加えた。

「バイトってDVD屋さんですか」

「まあ、そうだ」

 言い当てられたことに驚く様子もない。巡森はさり気なく男の顔を眺める。横顔の線は凜々しいが、全体的にはやはり、あらゆるものを少しずつ馬鹿にしているみたいな表情だ。

 何が目的なのか、男の質問にはどんな意図があるのか、皆目分からない。ただ答えは巡森の中ではっきりしていた。満足など――。

「満足なんて……」

 自らの行動を誇ることも、結果を喜ぶことも、できるわけがなかった。

「してませんよ」

 青年の命に別状がないと聞いたところで「よかった」とは少しも思えない。片脚を失ったけれど最悪の事態だけは免れた――そういう考え方もあるのかもしれない。だが巡森にとっては青年が亡くなるのも最悪だし、片脚を失うのも最悪なのだ。

「後悔してます」

 正直な思いを口にする。そして沈黙が訪れる。

 ずいぶんと時間が経ってから男は気難しそうに息を吸い込み、

「何を後悔してる」とようやく訊いた。「瀬古を助けるため線路に下りたことか。最良の手段は別にあった、と」

「いえ」

「言いたいことも言えないこんな腐敗した世界に堕とされたことか」

「違います。何言ってんですか」

「もったいぶらずに早く話したらどうなんだ」

「あの人……瀬古さんの、靴紐がほどけてたんです。それが原因でホームから落ちたんです。私は靴紐のこと、気づいてたのに教えませんでした。だから――」

 普段なら必ず声をかけていたのに今日だけはそうしなかった。すぐに声をかけていれば、もしかしたら何か変わっていたかもしれないのに……。だから――、

「あの事故は私のせいでもある、そんな気がして」

 消え入りそうな声で話すと、男が短く息を吐いた。それは抑制された溜息のようでもあったし、鼻で笑ったようにも聞こえた。

「それは違うぜ」

 きっぱりと男は言う。

「『でもある』どころの話じゃない。完全にお前のせいだ」

 かすかに遠雷が聞こえた。

「え……」

 呆気に取られる、とはこのことを言うのだろう。

 きみのせいじゃないよ、そう優しく否定してほしかったわけでは決してない。だがまさかここまでバッサリ斬りつけられるとも予期していなかった。意外すぎて心が痛むこともない。

「お前、名前は? 定岡か?」

「違います、巡森です。勘で名前当てようとしないでください」

「じゃあメグリモリ――ここからが本題なんだが、お前はうちの店で働け」

 淀みのない口調だ。馴染みの店でコーヒーとサンドウィッチを頼むくらいリラックスしている。対する巡森は気持ちの整理がつかないまま次々に話が移っていくので戸惑いながら「え? え?」と発することしかできない。

「お前のせいで瀬古は重傷を負った。だから代わりに俺の店でバイトしろ」

 とんでもなく荒い手捌きで仕立てた筋合いを突きつけてくる。

「え、急にそんな。急に……」

 動揺を隠せなかった。そもそも男はついさっき瀬古を「不採用だ」と言っていたのだから話の辻褄が合わないのだが、巡森はそれを指摘できないどころか気づいてすらいない。

「お前の仕事はDVDレンタルショップの店番」

「ちょっと待ってください」

「俺は待たないって前も言ったろ」

「でもでも、そのDVDって、法律的に問――」

「そして俺の助手だ」

「助手?」

「詳しくはあとで話す。ついてこい」

 そう言って歩き出す。

「待ってください」

「状況は常に変化する。物事はいつもリアルタイムだ。大人の世界に『待った』なんてないってことをいい加減受け入れろ」

「ちょっと何言ってるか分からないですけど。……あなたの、お名前は?」

 六歩進んだ所で男は呆れたように「それが今、重要か?」と振り返った。

 夜空には星が輝いている。しかし、またどこからか雷鳴が響いてくる。

「化野だ」

 もしかするとこの夜はどこか別の世界へと繋がっているのかもしれなかった。

「は……裸足の?」

「化野だ」

 改めて名乗り、彼は前へ向き直る。「早く来い。でなきゃはっきり断れ」

 そして来たときと同様に灌木の隙間を抜け、ロータリーを斜めに突っ切っていく。

 巡森は束の間、逡巡した。胡乱な男を追いかけるべきかどうか。そうして結局、彼のあとには続かなかった。きちんと歩道を通ることにしたのだ。ポケットに手を突っ込んで歩く化野を横目に捉えながら、小走りでバス乗り場を抜け、最後にはほとんど同じタイミングで正門を出た。



 病院は巡森が通う大学に隣接している。したがって彼女の家にも近く、『もんすたぁ♡』はさらに近い。

 化野はひと言も発さないまま、だらしない姿勢で、にもかかわらずかなりの速さで歩いていく。巡森の方からも話しかけることはしなかった。緊張と不安と少しの肌寒さを覚えながら、ひとつ、またひとつと街灯の明かりを越えていく。

『もんすたぁ♡』の前に着くと化野はポケットから、針金で作った粗末なリングにまとめられた鍵の束を取り出した。そのうちから手元を見ることなく選んだ一本の鍵を使ってガラス戸を開け、薄暗い店内に入っていく。通りに面した大きな窓から月明かりが差し込み、セラミックタイルの床を部分的に青白く濡らしている。彼は店の奥へと進み、レジカウンターの内側にある扉を開けて巡森を導いた。

 扉の向こうには埃や黴の臭いと完全な闇があった。化野が壁のスイッチに触れると、槌目模様の金属シェードを被ったふたつの白熱灯が空間を控え目に照らし出す。見えたのは短い土間廊下だ。右側の足元には長式台が設けてあり、そこから上がるとすぐ部屋に続いているらしく障子戸が閉まっている。化野はそちらを目で示して「上がって待ってろ」と言い、自分は廊下を進んで左手の窪んだ空間に消えていった。巡森は式台に腰かけて靴を脱ぎ、揃え、そっと障子を開けた。

 中は畳敷きの六畳間だった。床の間を欠いており左手には押入れがある。現代日本の多くの家庭で見られる、ごく一般的な和室だ。だが畳の部屋ならではの、入るなりホッとするような感じがなかった。

 あるのは圧迫感だ。

 長押に届くほど背の高い木製棚が五つ、室内の壁をほとんど隠すように隙間なく並んでいる。すべての段の端から端までびっしりと収納されているのはクリアケースのようだ。中身はCDかDVDだろうか。

 棚は傷だらけだった。見回すと壁や柱にも引っ掻いたような箇所が目立ち、特に押入れの戸は損傷が激しい。畳にもあちこち何かが突き刺さった跡がある。障子紙は近頃張り替えたのだろうが、桟や框には幾つか亀裂が入っている。暴れ牛を一晩閉じ込めていたみたいな有様だ。

 不意に巡森は、無数の眼差しに晒されているような気味の悪さを覚えて唾を飲み込んだ。室内は異様なほど静かで、止まった時間の中に迷い込んだみたいに、空気の流れすらも感じない。

 しばらくすると化野がマグカップをふたつ持って入ってきた。ひとつは把手に指をかけている。もうひとつは掌で底を包むようにして持ち、把手を巡森に向けた。

「飲め。今夜は実はちょっと寒い」

 受け取って覗くと中身は透明で湯気に香りもない。白湯のようだ。カップに手を添えると物凄く熱く、よくこれを平気で握っていたな、と巡森は湯に息を吹きかけながら上目遣いで化野の顔を窺う。

「さて……まず何から話すべきか」

 化野は顎に手を添えて考える素振りを見せた。そして――、

「バケモノレンタルについての話か……。あるいは、この部屋のDVDにバケモノが棲んでるって話か」

 またヘンなことを言い出した。

 どちらも聞きたくない。怪しい四文字を耳にして巡森は即座にそう思う。

 しかし化野は淡々と先を続ける。

「望む者があれば、その人物に適したバケモノを有料で貸し出す。それが俺の仕事だ。表のDVDレンタルショップは、まあ、副業というかカモフラージュというか……飾りというか……冗談というか……」

 ぶつぶつ言いながらマグカップに口を近づけ、突如、巡森に掌を向けた。

「バケモノってなんですか、と――お前は今そんなことを腑抜けた面で訊こうとしただろうが説明するから待て」

 たしかに一字一句違わずそう尋ねようとしたところだったので巡森は大人しくその手に制されざるを得ない。だがそれにしても、さり気なく腑抜けと言われたのには納得が行かなかった。

「バケモノってのは簡単に言えば――」

 化野は呟いて白湯を飲み、淡い湯気を吐く。それから少しのあいだ沈黙した。視線は消えゆく湯気に向けられているようで、その向こうにいる巡森を見ているようでもあり、記憶を参照しているようでもある。やがてまばたきのあとに話が続いた。

「バケモノは人間じゃない。動物でもなく植物でもない。菌でもない。ウイルスでもない。もちろん観念じゃない。信仰やら伝承やらに根拠を持たないし、事象の具現化でもない」

 早口に放たれる言葉すべてが巡森の右耳から左耳に通り抜けていく。

「よ……要するに?」

「バケモノってことだ」

 化野はまた湯をひと口飲み、「超自然的能力を有する」とつけ足す。そして自らの説明に満足したように小さく頷いた。

「まあ、こんなところだ。ないとは思うが一応訊く。質問はあるか」

「なんで質問がないと思ったんですか」

 妥当かつ率直な疑問を引き攣った顔で口にする。それに対して化野は「あぁ?」と片眉を上げた。

 あぁ? はこっちの台詞だ。巡森は心の中でそう叫ばずにいられなかった。バケモノ? DVDに? 超自然的能力? 最初から最後まで彼が何を言っているのかちんぷんかんぷんだ。

「全然分かりません」

「だから、超すごい力を持ったバケモノを困っている人に貸し出すんだよ」

「……ばけもの」

「つまり世のため人のための、とってもスバラシイお仕事」

「……すばらし」

「困っている人を放っておけない、人の不幸に心を痛めるお前にはぴったり」

「……いためる」

「天職」「……てんし」

「神の導き」「……かみ」

「奇跡の采配」「……きせき」

「猪木の再来」「……いのき」

 巡森は必死で理解しようとした。

「……さいらい」

 だが頭が回らなかった。どんな方向に思考を巡らせればいいのかも分からず、怪しすぎる勧誘に対する警戒が強まるばかりで結局、

「お断りします」

 考えがまとまるより先に唇が自動的に動いた。

 しかしその返答を受けても化野は少しばかりも動じなかった。最後には自分の思い通りになると疑わぬ落ち着いた眼差しで「いや、お前は必ず俺のもとで働く」と巡森に教えた。

「条件を提示するから聞け」

「ちょっと待ってください。そんな――」

「いや、待たない。お前がここで働くことを了承するなら、瀬古正輝の失われた脚をもとに戻してやる」

 巡森は息を呑んだ。

 追いかけていたはずの相手に背後から突き飛ばされるような、不条理の不意打ちを受けた心地だった。思考は揺れ、乱れ、行き場を失い、数秒経ってようやく「どうやって」と、かろうじて口にした。

「バケモノは超自然的能力を有する」

 この瞬間だ。

 化野が話す非現実的な事柄の数々は、先程までは無視するか一笑に付せば済む程度だったのが、この言葉を聞いた途端、巡森は自分の足が、膝が、腰が、たちまち彼の提示する世界像に沈んでいくのを目撃した。

「まだ冷めてないだろ。とりあえず飲んだらどうだ」

 化野は巡森が縋るようにして握ったカップに目をやる。

「震えてるぜ」