序曲

 目を開け、顔を上げる。

 降り注ぐ光の強さに息が詰まる。

 舞台を照らし出すスポットライト。その下に立つ椿は、灰色のドレスに身を包んでいた。同じ舞台にいるのは、ピアノ伴奏をする幼馴染のかなみだけだ。だがそのかなみも今は、背後で見えない。椿は一人、光の下に縫い止められている。

 細い体全てを振り絞るようにして、彼女が歌っているのは華やかなアリアだ。

 遠くへ響かせようとする声。

 それを受け取るホールの客席はほぼ満席で、しんと静まり返っている。

 だが客たちは椿の歌に聞き入っているわけではない。冷ややかに、平静に値踏みをしている。前の出場者たちと比べて、声の響きはどうか、伸びはどうか、発音は、リズムは、節回しは――そんな多くのことを。

 椿は微笑みを作りながら、右手を胸に当てた。

(……くるしい)

 声が出ない。緊張して硬くなっているというのもあるだろう。

 だがそれ以上に、根本的な声量が足りないのだ。いつからかずっとそうだった。

 とは言え、今日のコンクールは失敗するわけにはいかない。音大に入学して半年、そろそろ前に進まなければ。夢を叶えるためにもひたすら前に進むしかないのだ。

 ただ――椿はうっすらと嫌な予感を覚える。

 それは、この舞台に上がる以前から感じていたものだ。

 いつのまにか彼女の背後にあるもの。ずっとついてくる何か。

 それが何か振り返って確かめたいと思う。それ以上に確かめてはよくないとも。

(けど今は、それどころじゃ――)

 歌わなければならない。顔を上げ、胸を開いて。

 椿は強張りそうな口角を意思の力だけで上げる。喉の渇きを覚えながら、必死に自身を踏み留まらせた。スポットライトが暑い。額に汗が浮く。

(あと、少し)

 幸い伴奏ピアニストのかなみは幼稚園からの幼馴染だ。お互いの癖も何もよくわかっている。そして何より、かなみには確かな実力も華もある。

 軽やかなピアノの音に支えられて椿は息を継いだ。すぐに次の難所にさしかかる。

 気を緩められるところはどこにもない。そしてそれは、大学に入ってからの毎日と同じだ。緊張と失敗の繰り返し。悩みながらレッスンと練習を往復するばかりで、楽しいことなど何もなかった。いつも一人で気を張り続けていたのだ。

 先の見えない道を、闇雲に進み続けるだけの毎日。

 同じ道を行く者はいない。皆、似ていても少しずつ違う、肝心な時にはいつも自分だけだ。今こうして一人、ライトの下に立っているように。

 芯にまで沁みる孤独。ふっと湧き出す不安に、だが椿は汗ばむ両拳を握った。

 ――自分はもともと、歌うためだけにここまで来たのだ。

 美しく、どこまでも遠くへ届くように。

 それが全ての歌に通ずる命題だ。自分の体はそのための楽器に過ぎない。だから、今は余計な心など要らない。

(ここまで来れば、あとはカデンツァを――)

 歌手の見せ場とも言える、技巧的なラスト。

 だがそこをほんのわずか意識した次の瞬間……声に掠れが混ざった。

 舌がもつれそうになる。響きが消える。

 嫌な予感がすぐ背後に迫る。その正体を、椿はとっくに知っている。一度振り返ってしまえば、それが全てを変質させてしまうだろうことも。

 だがだとしても、踏み留まらなければならない。歌いきらなければ。そう望んでここまで来たのだ。自らの全てを振り絞って……光溢れる舞台に、いつか届くように。


 ――こんな声で?


「…………ぁ」

 予感が、追いつく。

 顔を上げた椿に、強い照明の光が突き刺さった。

 視界が焼かれる。何も見えない。見えていたものさえ光の中に掻き消えた。

 声が出ない。ただピアノの音だけが響き続ける。

 歌えない。――壊れてしまった。


 彼女は照明の下で立ち尽くす。

 ざわめく客席。伴奏のピアノがやむ。

 そして椿は虚ろな瞳でライトを見上げると、一人舞台の上に崩れ落ちた。


一幕一場


 ――光り輝く舞台の上には、全てがあった。

 それは椿の記憶の中でもっとも輝いている、夢のような時間だ。

 中学に上がったばかりの彼女は母親に連れられて、オペラホールに来ていた。

 席は一階の後方。正面だが、ステージまではひどく遠い。だが肝心の舞台から伝わってくる熱は、広い空間の隅々までを浸して眩暈がするほどだった。

 すり鉢状のホールは、照明の当たる一部分を除いて薄暗く、客席はしんと静まり返っている。まるで自分以外の全てが、舞台を縁取る闇の一部となってしまったかのようだ。ついた溜息さえまたたく間に吸い取られて音も出ない。

 代わりに響くのは、艶やかに束ねられたオーケストラの音色だ。一分の狂いもなく研がれた音は、観客を飲みこんで劇場の端まで広がっていった。

 そんなうねりの中、椿は両拳を握りしめ、食い入るように舞台に見入っている。

 他のものは何も見えない。身じろぎした拍子に、ハンカチを落としたことにさえ気づかなかった。

 隣に座っていた見知らぬ少年が、身を屈めてそれを拾ってくれる。だがハンカチを差し出そうとした彼は、舞台を見つめたままの椿に苦笑すると、それを膝に置いた。


 彼女はただ、中央で歌う花嫁だけを見つめている。

 目を引くのは円形に広がる長いヴェールだ。白いドレスは大輪の花のようで、照明の下で眩い光を放っている。

 結婚式の場面なのだろう。花束を抱えた花嫁は、幸福そうに微笑んで歌っていた。

 ころころと、磨かれた珠が転がっていくような声。

 その一粒一粒が、奇跡のように美しい。端々から溢れる歓びに、椿の小さな胸も熱くなった。目が潤み、涙が零れる。


 ――美しいもの、幸せなものに触れているのに、なぜ泣きたくなるのだろう。


 子供の椿に、まだその理由はわからない。声もなく泣く彼女に、隣の少年が気づいて目を瞠った。椿はただ、高らかに歌う花嫁を見つめる。


 いつか自分も、あんな風に歌うことができたなら。

 椿はそっと、熱を持つ自分の喉に触れる。

 それは、どんなにか――


 けれど全てはもはや……叶わなかった夢だ。



 掌で触れた喉は、まるで錆びついた弦のように固く強張っていた。

 もっとも、それは椿だけが感じる錯覚なのかもしれない。隣を行くクラスメートが、表情を曇らせた彼女に声をかける。

「どうしたの、羽鳥さん」

「あ、ううん。なんでもないです。ちょっと緊張して……」

 ぎこちなく答えると、相手はあっさり納得したようだった。

 同じ女子大の新入生同士である彼女たちは、駅の階段を降りながら、見えてきたキャンパスに歓声を上げる。歴史を感じる他大の正門前は、人が溢れて学園祭のように賑やかだ。先頭の一人が、並び立つ看板を指差した。

「どこのサークルから見に行く?」

「まず球技系かな。マネージャーじゃなくて自分がプレイできるところ」

「私はダンスやりたいな」

 次々挙がる候補は、これから彼女たちが大学生活でやってみたいと思っている活動の数々だ。だが挙げられた中に、クラシック音楽に関するものは一つもない。環境が変わるとこうまで違うのだと驚きつつ――椿は、今の自分を振り返る。


 あの日、自分の命運をかけたと思ったコンクールで、彼女は無残な失敗をした。

 最後まで歌いきれなかっただけではない。舞台の上で倒れたのだ。演奏者としてありえない失態だ。

 けれど打ちのめされた彼女に振りかかったものは……それだけではなかった。

 椿は無意識のうちに、また冷たい喉に触れる。

 そこはまるで、自分の体の一部ではないようだ。あのコンクール以来、何ヶ月も歌っていないからそんな風に思うのかもしれない。こんなに長く歌わないことは今まで一度もなかった。

 だが歌おうとしても、椿はもう歌えない。

 だから彼女は……自ら選んで音大を辞めたのだ。

 そうして声楽の道をドロップアウトした椿は、普通の大学に入り直し、今こうして、一般的な新入生の生活を送っている。


「あ、あの、本当にこの中に入るの? ……って」

 色とりどりの看板やビラを配る上級生たち。正門前の騒々しい光景に圧倒されていた椿は、周囲を見回して唖然とした。

 いつの間にか、一緒に来たはずのクラスメートたちが一人も残っていない。彼女があまりの賑わいに気を取られているうちに、それぞれの目的とするサークルに行ってしまったのだ。

 早々に知らない大学で一人になってしまった椿は、がっくりとうなだれる。

「せっかく勇気を出して来たのに……」

 音大時代は練習に明け暮れて、同級生からの誘いは断ってばかりだったのだ。その断り方もひどく不器用で、当然の結果として一人になってしまった。だから新しい環境では今度こそと思っていた。

 今日、椿が誘われたのは、この大学で開かれるという「新勧日」だ。各サークルが新入生を勧誘するために、それぞれの教室を借りて勧誘活動を行うというイベントで、サークルによっては他大学の学生も入部することができる。椿は「みんな仲がいいインカレテニスサークルです!」と書かれた看板をじっと見つめた。

「テニス……かあ」

 中学校の頃やった授業では、ボールが外のフェンスを飛び越えてばかりだった。最終的には「ホームラン王」とあだ名がつけられ、「お願いだから全力でラケットを振らないで」と先生に懇願されたのだ。こんな前歴を知られたら入部を断られそうだが、テニス以外にもサークルは山ほどあるだろう。

 今まで歌中心の生活を送ってきたせいか、何に手をつけていいのかまったくわからない。友達を作りたいのもそうだが、音楽以外の何かを探さなければ、とも思う。

 椿は空っぽな自分の胸を見下ろす。

「よし……行ってみる」

 意を決して、彼女は人波に揉まれながら正門の中に入る。人の密集しているところを避けながら、見知らぬ大学構内を歩き出した。

「一号館で上映やってまーす! ぜひ見に来てください!」

「来週末は新勧コンパでバーベキューやるよー!」

 あちこちから聞こえる声と次々手渡されるビラ。人の多さとその活気に、つい気圧されてしまう。共学とあって男子学生も多い。女子大のクラスメートたちが誘い合って行こうと言っていたのは、このせいだろうか。

 ビラの地図と構内を見比べている椿に、愛想のよい女子学生が話しかけてくる。

「どこに行きますか? 文学に興味はありませんか?」

「すみません、文学はあまり……」

 正直に答えると、相手はしょんぼりした顔になる。椿はあわてて言い繕った。

「あの、まだ何をやりたいかわからないんです。色々見て回ろうかなって」

「あ、そうなんだ。じゃあ興味出たら寄ってみて!」

 渡されたビラに、椿は礼を言おうとする。だがその時には既に、相手は別の新入生を呼び止めていた。

 どうにも精力的なテンポについていけない。これが一般的な大学生だというなら、椿はまだ大学生見習いだろう。

「とりあえず前進で……」

 広い構内は、石畳を敷かれた並木道があちこちに枝分かれしている。その左右にそびえる建物は、新旧もデザインも様々だ。歴史ある大学だけあって、それぞれ建てられた年代と用途が違うのだろう。文化財にもなりそうな煉瓦作りの建物から、現代的な白い講義棟まで。だが今日は、その多くがサークル勧誘に開放されているようだ。

 椿はかけられる声に頭を下げながら右往左往する。途中から明らかに人を避けて歩くようになったのは、単に人酔いしてしまったからだ。

「つ、つかれた」

 そろそろ帰りたいが、正門がどちらにあるかわからない。椿は地図を探して、人通りも少なくなった辺りを見回す。

 ――そこでぴたりと、動きを止めた。

「オーケストラ……の生演奏?」

 彼女は並木道の向こうを振り返る。

 勧誘で騒がしい空気の中、微かに聞こえてくるのはオーケストラの音だ。

 軽やかに、楽しそうに聞こえてくる曲。小編成で演奏されているらしいその音に引かれて、椿は歩き出した。近づくごとに音の響きが、粒の揃った輪郭が、はっきりしてくる。

「これ……モーツァルトのフィガロだ」

 演奏されているのは、天才と呼ばれた作曲家、モーツァルトの人気作「フィガロの結婚」の序曲だ。クラシックを聞き慣れない人間でも、有名過ぎて一度くらいは聞いたことがあるだろう。喜劇の始まりを告げる軽快な曲に惹かれて、椿はいつのまにか速足になった。抜け道のような小道を過ぎ、白壁の講義棟の裏に出る。

「ここかな?」

 どこに入り口があるのかわからないが、さすがに手近な窓から入ってはまずい。

 壁沿いに椿は歩き出した。音がわずかに遠ざかり、代わりに勧誘の声が大きくなる。棟の入り口では他の建物と同じように、何人もの学生がビラ配りをしていた。

 そのうちの一人が気づいて、椿に声をかける。

「合唱やってます! 歌に興味はありませんか?」

「歌……は」

 反射的に、喉に手を当てる。そこにはだが、固い感触があるだけだ。

「……すみません。歌はちょっと……苦手で」

「そっかー残念。でも、色んなサークルあるから見ていって!」

 建物の中からは、人のざわめきに混ざっていくつかの音楽が聞こえてくる。その音に、椿は幾許かの緊張を覚えた。音大時代の苦い記憶が脳裏をよぎる。

 ――それでも、あのモーツァルトを思い出すと、不思議と胸が軽くなった。

 椿は自分の背を押すように小さく頷くと、中へ足を踏み入れる。


 建物内部は、外以上に学園祭のような賑やかさだ。

 それぞれの教室が各サークルに振り分けられているのだろう。廊下にはビラを持った勧誘の学生が何人もいて、行き交う新入生に声をかけている。それで興味を持てば教室に入って説明を聞くという仕組みだ。中にはあらかじめ目的のサークルがあったのか、ビラに書かれた教室番号を見ながら一直線に教室に向かう新入生もいる。

 椿もまた、いくつものサークルに声をかけられながら、廊下を奥へ進んでいった。

「ここは音楽サークルばっかりの棟なんだ……」

 手渡されるビラは、いずれもオーケストラや合唱、バンドや吹奏楽など音楽サークルばかりだ。サークルも数百あるとあって、ある程度系統立てて場所分けされているらしい。あちこちの教室から聞こえてくる演奏音は、録音された公演のものだ。

「でも、あれは確かに生演奏だった」

 モーツァルトはもう聞こえない。室内のざわめきに紛れてしまっているのか、それとも終わってしまったのか。前者であればいいと願いながら、椿は足早に辺りを覗いていった。

 そして廊下の突き当たりに大教室のドアを見つける。

 ドアには張り紙で「演奏中につき開放厳禁・ご自由にお入りください」と書かれていた。その横にある立て看板には、タイムスケジュールが書かれている。察するにこの大教室では各サークルが交代でデモンストレーションをしているのだろう。

「ここだ……」

 気が急いた椿は、今の時間のサークル名を見ずに、ドアを押し開いた。


 ――その瞬間、音楽の波が押し寄せる。

 軽妙で心地のよいモーツァルト。せせらぎのように心地よく流れる音は、だがよく聞けば一音一音丁寧に磨かれている。確かな練度を下地にしながら、それを誇示することなく軽やかに仕上げている演奏に、椿は息を飲んだ。


 ステージになっているのは、階段状の大教室の壇上だ。

 そこには、半円状に全部で十二人の管弦奏者と指揮者、そして楽器を持たない二人の女性が立っている。ロングの髪にワンピースの美女と、それとは対照的にショートカットにジーパンの小柄な少女。彼女たちは、管弦奏者たちの前に指揮者と向かい合うようにして並んでいた。

「あれは……」

 椿はその立ち位置ですぐ、彼女たちの役割を悟る。

 曲はさっきと同じ、モーツァルトのフィガロ。そしてこれは――

 ロングの美女が口を開く。張りのある、よく通る歌声。すぐに続いて同じ旋律をもう一人の少女が歌い出す。

 二人の女性は、澄ました表情から一変して、険悪にお互いを冷ややかに見つめ合った。交代に歌われるイタリア語のやりとりは、どう見ても嫌味たっぷりの口論だ。腕組みをした一人に、もう一人がやんわり背後を指し示す。「出ていけ」というジェスチャーに、相手は見えぬよう舌を出した。

 その演技で観客にも何が起きているかは伝わるのだろう。コミカルな演技と軽妙な音楽に、くすくすと笑いが上がった。

 生き生きと動き回る二人と、彼女たちを取り巻くオーケストラ。パイプ椅子に腰かけた十二人の演奏者は、ある者は微笑んで、ある者は体でリズムを取りながら、いずれも楽しげに己のパートを刻んでいる。自由に弾むそれらの音は、だが巧みに一本の美しい帯として織られていった。心浮き立つ快い音楽に、たちまち教室内の空気が弾んでいく。椿はぽつりと呟いた。

「これ……オペラだ」


 それは、モーツァルトが愛と情熱を注いだ芸術だ。

 音楽と、演劇を一つの舞台に作り上げるもの。

 総合芸術とも呼ばれる、人の生み出す粋の一つ。


 椿は奏でられる光景に呆然と見入る。脳裏に、かつて見た華やかな舞台が蘇った。

 次々と入れ替わり立ち替わる登場人物たち。彼らが切々と歌う歌、どこまでも世界を広げていくオーケストラ。飲まれるようにして夢中になった子供の頃と同じく、椿は美しく転がる歌と舞台を見つめる。

 目前の演奏は、歌手も奏者も私服でありながら、不思議と昔見た舞台を連想させた。思わず身を乗り出しかけた椿は、ふと――指揮を振っている青年に気づく。

 黒いシャツを着た後ろ姿。

 背は椿より頭二つ分は高いだろう。広い背中はすっと伸びて、挙げられた両手が繊細に、そして時に大胆に演奏を導いている。

 静かな、だが確かな存在感。

 白い指揮棒はこの場の演奏全てを統制し、更には自由にさせている。今まで彼に意識が及ばなかったのは、彼が他の奏者たちの魅力を充分に引き出し、自分は裏方のように振る舞っていたからだ。

 だが、一度その技に目を留めれば、彼の指揮の非凡さがよくわかる。丁寧に、そして軽やかに、時に相反しそうになるものを一つの音楽として織り上げるだけの技量。

 それでいて彼に導かれる演奏者たちは、窮屈な型に嵌められるわけでもない。女性二人が生き生きと歌えるのも、きっとその指揮を信頼しているからだ。

「……すごい」

 彼の視線を追えば、歌手はもちろん、奏者全員に目を配っているのがわかる。そうして皆のささやかな動きも見逃さぬように、曲をコントロールしているのだ。

 その安心感に、椿は静かな息を吐き出す。


 ――彼を見ていると、うっすらと胸が熱くなる。


 この熱が、どんな感情の生み出すものかはわからない。

 椿は指揮者の青年をじっと見つめた。指揮の拍子に横顔が見えて、思わず鼓動が跳ね上がる。

 年は椿より少し上だろうか。切れ長の目に綺麗な鼻筋の彼は、総合して整った顔立ちをしている。だが気難しげな厳しい表情の方が、見る人間にはよほど印象的だろう。

 モーツァルトのリズムを狂いなく刻んでいる彼の姿は、軽やかな曲調とは別にとてもストイックだ。椿は真剣な横顔から目を離せないまま息を止める。


 聞こえてくる音楽。見えているのは奏者たちだけだ。

 他の全てが意識から消え失せる。吸いこまれるように、椿は集中していく。

 彼女はそのまま誘われるようにして――ふらりと一歩階段を下りた。


 だが次の瞬間、突然の拍手が教室内に鳴り響く。

 曲が終わったのだ。思わず飛び上がる椿をよそに、指揮者の青年が振り返った。

「今のが同じフィガロの『喧嘩の二重唱』です。一人の男を巡って、年の離れた二人の女が嫌味の応酬をする曲ですね。……とは言え、今の演奏では二人とも三年生が演じていますが」

 指揮者の紹介に、ロングヘアーの美女が笑顔でひらひらと手を振った。一方隣ではもう一人の少女が深く頭を下げている。服装のせいか身長のせいか二人は同学年には見えないし、片方はどう見ても中高校生なのだが、三年というからには椿よりも年上なのだろう。

 椅子に座っていたオーケストラの面々も立ち上がり、礼をする。再び拍手が上がる中、指揮者の青年は締めくくった。

「というわけで、これでデモ演奏はおしまいです。興味があったら公開練習もやってるのでよろしく」

 指揮棒を下ろしても彼は愛想のないままだ。

 だがそれを補うように、すぐにビラを持って部員の何人かが階段を上がってくる。椿はその時になって初めて、自分が通路の真ん中に立ったままだと思い出した。あわてて横に避けようとして――バランスを崩す。

「あ、え……っ!」

「おっと、危ない」

 おかしな姿勢のまま転びそうになった椿を、すぐ傍に座っていた男子学生が受け止めてくれる。椿はあわてて起き上がると頭を下げた。

「ご、ごめんなさい。不注意でした」

「気にしなくていいっすよ。女の子は軽いんだし」

「軽くはないんです……結構筋肉あるし……すみません」

 それを聞いて噴き出す彼は、見るからに社交的な空気の持ち主だ。茶色く染めた髪に明るい水色のリネンシャツ、すらっと長い足は、甘めの顔立ちと相まって女子に人気があるだろう。

 一方の椿は、グレーのシャツに黒のフレアスカートという地味な服装だ。顔も身長も人並みで、目を引くところはどこもない。唯一、人と違っていたのは、腰まで届く長い髪だったが――歌をやめた時に、もう不要だと思って肩までに切ってしまった。

 椿は困惑して、未だ慣れないセミロングの髪に触れる。どことなく人慣れしていない空気が伝わったのか、彼は快活に笑って隣の席を勧めた。

「オレと同じ新入生? 見学ですか?」

「そうです。あ、でも他の大学から来たんですけど」

「ああ、そういう人多いよね。オレもいくつか回ったけど、このサークルは特に珍しいし、他大から来るのもわかる」

「珍しい……ですか」

 言われてみれば、椿はまだこのサークルが何のサークルか知らない。ただ彼らの演奏していた曲からすると、普通のオーケストラや合唱団ではなく――


「オペラに興味はありますか?」


 突然、通路から声をかけられ、椿はまた転びそうになった。

 発声の基礎がある人間特有の、よく通る響き。

 あわてて振り返った彼女は、そこにさっき歌っていた美女を見とめる。

「あ……マルチェリーナ、さん」

「おー! フィガロ知ってるんだ? そうそう、わたしが歌ってたのがマルチェリーナ。ひょっとして、オペラ詳しい人?」

「詳しいってわけじゃ」

 反射的に言い淀む椿に、マルチェリーナはピンク色のチラシを差し出す。

「というわけで東都大オペラです。オペラの自主公演をやってるんだ。よろしく」

「……本当に、オペラなんですか」


 クラシック音楽の一分野であり、四百年以上の歴史を持つオペラ。

 それは、言ってしまえば生演奏による音楽劇だ。オーケストラを伴奏として、舞台に立つ者たちが歌で演技を進める。一舞台が三時間、時には四時間を超えるオペラは、演奏自体の大変さに加え、舞台作りも大仕事だ。やることの多彩さを考えれば、学生サークルとしては確かに異例だろう。「珍しい」と言われるのも無理はない。


 唖然とする椿の後ろから、茶髪の青年が口を挟んできた。

「オペラってあれですよね。『オペラ座の怪人』とか」

「違うよー。『オペラ座の怪人』はオペラじゃないの」

「オペラなのに?」

「オペラ座はフランスにある劇場の名前。『オペラ座の怪人』はガストン・ルルーが書いた小説のタイトルで、舞台化されてたりもするけどミュージカルなの」

「ミュージカルってオペラじゃ」

「違うよ。オペラはクラシックだから。録音伴奏だったりするミュージカルと違って、オーケストラの生演奏だし、歌もマイクを通さない。歌手も踊らないしね」

 よくある誤解だが、ばさばさ否定していく彼女の切れ味は小気味がいい。

 一方椿はそれを聞きながら、渡されたチラシをじっと見つめていた。『東都大オペラ・部員募集中!』と書かれたそれには、おおまかな活動内容と募集部門が書かれている。椿は裏返したところにある募集要綱を読み上げた。

「オーケストラと歌と、舞台製作と……」

「――まあ、ほとんど全部だな。全部自分たちでやってるから常に人が足りない」

「え?」

 割りこんできた男の声に、椿は顔を上げる。

 まず見えたのは黒いシャツだ。皺のない手入れの行き届いた服は、ステージ上の礼服を連想させる。椿はそのまま恐る恐る視線を上げた。

「あ……」

 近くで見ると、彼は予想よりもずっと端整な顔立ちをしていた。

 鋭さを感じさせる双眸に、高く通った鼻梁。品のある造作は自然に人の目を引く。

 ただ彼の帯びる雰囲気は、微塵の甘さもないものだ。指揮者の青年は、舞台にいた時から変わらぬ気難しげな表情で、椿を見下ろしていた。

 普通の新入生ならつい後ずさりしたくなる硬質の空気。

 だが椿は、それ自体に萎縮はしなかった。

 音大生だった彼女にとって、指導者が厳しく近寄りがたいのは珍しいことでもない。だから彼女は、青年がすぐ前にいることに驚いただけだ。

 彼は、椿を見返して軽く目を瞠る。驚いたようなその表情に、心当たりのない彼女は首を傾げた。

「あの?」

 その時、マルチェリーナが振り返る。

「クロさん、こっちの女の子はオペラ詳しいっぽいよ」

「楽器志望か?」

 自分に向けられた問いに、椿はあわてて顔の前で手を振った。

「あ……いえ、管弦楽の経験はないんです」

「なら歌か」

「歌……」

 歌えるのか、という単純な確認。

 だがそれだけの問いに喉が詰まる。最後に見たライトの光が脳裏にちらついて、椿の体はたちまち冷えていった。

 きつく目を閉じると、彼女はゆっくりと息を吐き出す。

「歌は……歌えません」

 そう口にした途端、苦いものが胸に広がった。喪失感と罪悪感。それ以上に自分を半分失くしてしまったかのような虚脱が椿の中に溜まっていく。

 だがそれはとっくに通り過ぎたはずの痛みだ。そうでなければいけない。今更、改めて向き合うようなものであってはならないのだ。

 指揮者の青年は、彼女を見て怪訝そうな顔になった。椿はぎこちない笑顔を作って目を開ける。

「なので、すみません。……あの、でも、すごく素敵なモーツァルトでした!」

 椿は言いながらあわてて立ち上がる。

 あの演奏は、確かに素晴らしかったのだ。だから音を探してここまで来られた。音楽を聞いて走り出してしまうなんてずいぶん久しぶりだ。椿は不器用に言葉を探す。

「音が自然に心に入ってきて……皆さん楽しそうでわくわくしました。あの、公演とかあったら、またぜひ聞きに行きたいです」

 勢いのまま感想を口にした椿は、緊張の反動で息をつく。

 だが、言えてよかった。言葉にするのは得意ではないが、彼にはできるだけ伝えたかったのだ。

 指揮者の青年は率直な賛辞に目を丸くする。その表情を見た椿は少しだけ自分の言葉を後悔した。門外漢の新入生が、分を弁えないことを言ったと思ったのだ。

「すみません……ありがとうございました」

 彼女は会釈をすると、そそくさと青年の脇をすり抜けようとした。

 だがそこに、声がかかる。

「ずいぶんおかしなことを言うんだな」

「え……」

 椿は思わず足を止める。振り返った彼女を、青年は真っ直ぐに見つめた。

「歌えるか歌えないかなんて、歌いたいか違うかじゃないのか?」


 ――歌いたいか、違うか。


 単純な言葉だ。だが単純な答えが返せるとは限らない。まるで自分の弱さを見抜かれたようで、椿はびくりと体を震わせた。答えを探して視線をさまよわせる。

「……それは、あの……」

「あ、オレ興味あります。見学とかありますか?」

 ひょいと上げられた手に視線が集まる。椿は後ろの青年を振り返って、ほっと息をついた。マルチェリーナがチラシを手渡しながら、一点を指し示す。

「ここ、合唱は火曜日と土曜日に練習があるから、十分前に正門に集合してね」

「了解っす。ちなみにオレ、音楽ってまったくやったことないんですけど」

「教えるから大丈夫。楽譜も読めるに越したことないけど、読めないなら読めないでもいいよー」

「おー、そりゃ安心。じゃあ次の練習、見学に行きますんで」

 彼は立ち上がりながら、ぽんと椿の肩を叩いた。ドアを指すその手は「外に出よう」という意味だろう。椿はうろたえながらも彼に従った。

 帰っていく二人に、マルチェリーナがひらひらと手を振る。

「聴いてくれてありがと。またいつでも来てね」

 その隣では指揮者の男がじっと椿を見つめていた。



 構内をずいぶん歩き回ったと思ったが、正門までは百メートルもなかった。

 椿の話を聞いて、門まで案内してくれた茶髪の青年は苦笑する。

「あ、迷子になってたんだ? そっか、別の大学から来たって言ってたもんね」

「助かりました。ありがとうございます」

 正門を前に、椿は丁寧に頭を下げる。あの後、大教室を出てすぐに「帰る? 他にも見てく?」と聞かれたので「そろそろ帰りたい」と言ったところ、彼は門まで送ってきてくれたのだ。

 椿は口ごもりながらも、もう一つの御礼を口にする。

「あの……さっきも、ありがとうございました」

 ――歌いたくないのか、と聞かれて答えに窮した。

 指揮者の青年にとっては、他意のない言葉だったろう。でも「歌えなくなった」椿にとって、それは確かに痛いところを突いたのだ。

 見学者の彼は、そんな彼女に気づいて教室から連れ出してくれたのだろう。礼を言うと、彼は笑って頭を掻く。

「いや、ちょっと恐そうな先輩に見えたからさ。勧誘されるの苦手って子もいるし」

「恐そう……でした?」

 ――確かに愛想はなかったが、恐いとは思わなかった。強いて言うなら「厳しい人」というくらいだ。それは、彼の指揮からの連想かもしれない。

 椿の反応に青年は目を丸くしたが、すぐに破顔するとビラを差し出した。

「ならさ、オレさっきのオペラサークルに興味があるんだけど、よかったら一緒に見学行ってみない?」

「え? でも私、歌は……」

「ほら、歌じゃなくても色々募集してるみたいだし。なんかあの劇とか音楽とか、ちょっと面白そうだったろ? こんなに色々あれば、できるのあるんじゃない?」

 示されたビラに書かれているのは、オーケストラや合唱、舞台製作を始めとした様々な募集人員だ。これだけ並んでいるということは、本当にオペラ公演を行うサークルなのだろう。だが歌以外になにかと言われても、椿にオーケストラに参加できるような楽器の経験はない。もちろん舞台製作もしたことがない。残るのは――

「ピアノ、くらいなら……」

 ビラに書かれている「合唱の練習ピアニストも募集しています」という一文。

 そして、元々椿が初めて音楽に触れたのはピアノだ。幼稚園から習い始めて、幼馴染のかなみとずっと一緒の教室に通っていた。途中で声楽に転向したため、あくまで趣味程度の腕前だが、弾けると言えば弾ける。

 おずおずと口にした返事に、青年は感心の声を上げた。

「すげー! ピアノ? かっこいいじゃん! あ、じゃあこの練習ピアニスト見学ってことでどう? 都合悪くなったら仕方ないけど。オレ、クラシック音楽って全然わからないからさ。わかる子についてきてもらえたら安心なんだよね」

 困ったような彼の笑顔は他意のないものだ。椿はその打診に逡巡する。

 ――歌は歌えない。

 だが、全てだった歌から離れた代わりに、今は新しい環境にいるのだ。

 そして今度は……ごく普通に友達を作ったり、皆でご飯を食べに行ったり、他愛もない穏やかな日々を送れればいいと思っていた。普通の学生には当たり前のことが、椿にとっては密かな憧れでもあったのだ。

 ――サークルを巡っていれば、そんな友人と出会えるかもしれない。

 元々そのために新勧日を訪れたのだ。クラシック音楽のサークルだからといって無理に避けなくてもいいはずだ。椿自身が演奏者の道から転落してしまっただけで……決して音楽を嫌いになったわけではないのだから。

 彼女は短い間に決心すると、顔を上げる。

「わかりました。あの……私でよかったら」

「お、助かるよ。じゃあこれオレの連絡先。あ、今更だけど清河直樹っていうんだ」

「羽鳥椿です。連絡先は、えーと……」

「いつでもいいよ。オレのアドレスにメールしといて」

 清河の名刺を手にもたつく椿へ、彼は笑う。

「あとこれもどうぞ。オレはもう読んだし」

 差し出されたのは「東都大オペラ」と書かれた新勧パンフレットだ。反射的に受け取った椿に、清河は手を振った。

「じゃ、また来週の火曜日に」

「あ、はい! また!」

 構内へと戻っていく清河の後ろ姿は、いかにも洗練された大学生のものだ。自分とはあまりにも違う対人スキルに、椿は感動さえ覚えた。

「すごい……見習いたい」

 同じ新入生と言っても、大学を入り直した椿は清河より年上だ。理想を言うならもう少し大人らしい振る舞いができるようになりたい。

 椿は渡された名刺を大事に財布へとしまった。念のため周りを見回したが、やはりクラスメートの姿はない。彼女は仕方なく一人で駅へ向かう。

「それにしても、フィガロか……昔歌ったな」

 今日見た二重唱は、聞いている方まで気分が浮き立つようだった。

 モーツァルトのオペラは、多くが人間臭く、コミカルで、人を惹きつける魅力を持っている。昔、椿がレッスンで歌ったフィガロのアリアもそうだ。

 少年が恋に憧れ歌う歌――『恋とはどんなものかしら』

 CMやBGMにもよく使われる名曲だ。その冒頭のフレーズを、澄んで真っ直ぐな声で歌えるように散々練習を重ねた。

 駅の改札を通りホームに出た椿は、きょろきょろと周囲を見回す。周囲は平日昼間とあってほとんど人がいない。彼女は誰もいないことを確認すると、すっと右足を後ろに引いた。

 深く、体の奥底にまで息を吸いこむ。それはもはや骨身に染みついたプロセスだ。椿は体の中に留めた息に、そっと音と響きを乗せようとする。

 本気で歌うわけではない。ただの鼻歌だ。

 だが――

「……ぁ」

 掠れた息だけが、ひゅうと喉から漏れ出す。

 視界が一瞬で真白く焼かれた。あの日のライトが蘇り――椿は反射的に歯を食いしばる。震える両手で喉を押さえた。

「……ぁっ、……あ、……あー」

 跳ね上がった鼓動を必死に落ち着かせる。

 固くなる喉に、椿は歌ではなく息を送った。

 閉じた目に涙が滲む。何度も深呼吸して、ようやく過去の光を振り落とす。

 数分後、上がってしまった息をようやくついて、椿は肩を落とした。

「……やっぱり、私は……」

 ――あのコンクール以来、椿は歌えなくなった。

 声は出せる。普通に話すこともできる。だが、少しでも歌を意識すると声が出ないのだ。まるで、自分の喉が氷塊にでもなったように。

 体には異常はない。心因性のものだと病院では言われたし、自分でもそうなのだと思う。コンクール後の一時期は、自分の部屋から出ることもできなかったのだ。カーテンを閉めた暗い部屋で、何も考えられずただ膝を抱えていた。

 音大を辞めたのも「こんな自分では、もう何もできない」と思ったからで……あんなに望んでいた歌の道にもかかわらず、自分がその答えを出したことに、椿はさほど驚かなかったように思う。

「歌いたいって、ずっと思ってたのに……」

 ――あの日見た舞台の、花嫁のように。


 だが、夢に向かって歩き続けていたはずの椿は、全てを失ってここにいる。

 何もかもが両手から零れ落ちてしまったのだ。

 飲みこんだはずの現実。それでも思い出すと苦いものがこみ上げる。

 椿は潤んでしまった目を乱暴に手の甲でこすった。最後に聞いたかなみの声が、残響を伴って蘇る。


『自分から諦めるなんて! 私たちから音楽を取って、他に何が残るっていうの!?』


「……何もなかったよ、かなみ」

 閉じこもっていた部屋からは出られても、今の椿はただの空っぽだ。世間知らずで、人間付き合いもろくにできない。目的のない空回りを続けているようなものだ。

 それでも、生きていかなければならないなら。

「何もないから……探さないと」

 それが今の精一杯だ。椿は薄いパンフレットを抱きしめる。

 吐く息はひどく乾いて、何の響きも生まなかった。