藤沢①


 ずっと幼い頃、海で砂の城を作ったことがある。

 自信を持てる出来映えだった。それは永遠に堅牢であるとさえ思えた。

 でも目を離して遊んでいる間に、いつの間にか城は崩れ去っていた。

 波も砂も、待ってはくれない。



「かゆかゆ」

 背を丸めて、覗き込むようにしながら足を掻いている。その垂れた長い黒髪が、扇風機の風に揺れる。のれんを手で退けるような動きをぼんやりと眺めていて、なんでそちらに扇風機が向いているのかと今頃、首を傾げた。

 そこまで頭が働いていないのもきっと、夏の暑さのせいなのだろう。

 室内でじっとしていても、ふと少し身体を動かせば立ちこめる熱気を意識する。建物の壁で、窓で、カーテンで日差しを防いでも、気温はまるで和らいでいる様子がない。夏は細かい熱の粒となって空間を埋めるようだった。

 団地の六階、昔は物置に使っていた小さな空間。わたし独りでも持て余すようなことはなく、高校生にもなればやや手狭にさえ思えるその部屋に、息づかいは二つ。

 わたしの部屋の押し入れには魔女が住んでいた。

 許可したわけでもないのに、なし崩しに居着いてしまった。魔女と言っても特に魔法が使えるわけではない。不思議な赤い実を取り込んで、人よりずっと長生きしているというだけだ。

 赤い三角帽子が魔女らしさの要素の大半を占めていた。服は真っ黒いローブではなく、普通にシャツを着ている。着古して襟が伸びているのか、斜めに寄って、右肩が出ていた。

「昨日も掻いてなかった?」

「増えたのよ」

 見たくもない足の裏を見せつけてくる。魔女の白い足に、赤い跡が二つ重なるようにあった。押し入れの中で蚊とよろしくやっているみたいだ。

「あなたって、血は流れてるの?」

 魔女は得体の知れない赤い実の力で、死んではその度に生き返ってきた。本人曰く、何度も、何回も。

 そうして蘇った人間の末路をわたしは見届けているので、疑問も浮かぶ。

「さぁどうなのかしら。指を切れば赤い液体が流れるけれど、それが本当に血なのかは確かめたことないわね。ただの水に色がついているだけかもしれない」

 話してから見せつけるように人差し指をくわえた。歯で先端を擦り、裂傷を作る。

 その傷を見せびらかすようにわたしに向けた。

 ぎざぎざの傷口から、微かな赤い液体が滲む。

「ほらね?」

「ふぅん」

 一瞥して、すぐに読みかけの本に向き直る。どこから再開すればいいのかぱっと見つからなくて結局、ページの頭から読み直す羽目になる。読書とお喋りは混じらない。

「ほらほら」

「垂らして汚さないでよ」

「痛いのに」

「見せてなんて言ってないわ」

 言葉短く突っぱねる。大した理由もなく出ていく様子のない居候のせいで落ち着いて本も読めない。ただわたし自身、腰を据えて本を読んでいていいのか、そんな場合なのかという焦燥のようなものはあった。

 今年の夏休みは始まりから色々とあって、それらはすべて終わったと言っていいはずなのに、なんだろう、わたしはなんというか、スッキリとしていないのだった。

 静かになったので横目で様子を窺うと、魔女は切り傷を撫でていた。斜めにかぶった魔女の帽子が、目もとに影を作る。

 その陰影に染まる瞳もまた、赤みを帯びる。

「絆創膏巻いたら?」

「へーきへーき。痛いのは慣れている、と思うの」

「なにそれ」

 魔女がへらへらと笑う。肩を揺らすと魔女帽が後ろへと滑って床に落ちた。

「色んな死に方をしてきたみたいだから。刀で背中を斬られたとか、頭をかち割られたとか、燃やされたとか。ああ、あと自動車に轢かれたこともあったわ、多分」

 死因を指折り数える。聞いていて気持ちのいいものではない。取り分け、交通事故には暗いものしか浮かばない。わたしの妹は、車に轢かれて死んだからだ。

「しかし死んだ後も、その反骨精神は健在だったのさ」

「なんの話よ」

「まぁどれも死ぬほど痛かったと思うのよ。それを思えばこれくらい平気じゃない?」

「聞かれても……分からないわ」

 人を殺したことはあっても、殺されたことはない。

 それよりも、気になることがあった。

「昔のことは覚えてないんじゃなかったの?」

 本人曰く、千二百年以上は生きているので昔のことなんて記憶にないとのことだった。そうでもないと生きていけないと言っていた割に、明確に語るものである。

「あー、まぁ」

 魔女が首筋を掻く。

「昔観た映画くらいの感覚よ。まぁ山暮らし長くて、映画ってほとんど観たことないけど」

「……そう」

 魔女の発言なんて鵜呑みにしない方がいいのかもしれない。

「ところであなた、暗くない?」

 魔女がまた足裏を掻きながら言う。

「暗い?」

「夏休みってもっと嬉しいものじゃないの?」

 ばんじゃい、と寝転がったまま両足を上げる。指摘されて、今までの夏休みはどうだっただろうと振り返る。起伏がなく、淡々と夏の暑さをやり過ごしている自分しか思い浮かばない。

「別に。楽しいことなんてないもの」

「侘しいやつね」

「それに、人を殺して明るいなんてどうかと思う」

「それもそうね」

 魔女はあっさりと頷く。

「でも今思うと、どうせならあの場でもう一度殺してしまった方が賢明だったわ」

 赤い実によって生き返った人間は、殺しても死体が残らない。

 身が植物となり、花となり、咲き乱れて散っていく。

 死体が消えるなら、殺しても誰かが罪に問うこともない。

「わたしは、賢くなかったわね」

「ばかーん」

 人が真面目に反省しているところに、魔女が茶化してくる。

 魔女が垂らしていた髪を掻き上げて、扇風機の前へ本格的に陣取る。

「邪魔」

「あなたって素直じゃないわね」

「今とても素直に口にしたつもりなのだけど」

「そう? それならあなたは、人として大事なものが欠けているわ」

「そうなの?」

「うーん、多分そうじゃない?」

 どうかな? と尋ね返される。長命な割に、魔女は真理の一つも掴んでいないみたいだ。まぁ、昔のことはみんな忘れてしまっているらしいので長生きなんて大した積み重ねはないのかもしれない。

 そもそも人として大事なものなんて、正解に辿り着いている人間はいるんだろうか。

「逆に、満たされている人間ってどういうものなの?」

「人に迷惑をかけないで、人のために機能しているんじゃないかしら」

「それは素晴らしいわね。今のところ、そんな人に出会えたことがないけれど」

「ふ」

 なにか言いたげに微笑む魔女を無視して、学習机に頬杖をつく。

 魔女がどこからか拾ってきた風鈴の音が、うるさい。屋外ではなく、魔女が手にして鳴らしているからだ。りんりん重なるその音を聞いていると、頭の中まで一緒にぐらぐらと上下するようだった。居候なのに、なんの遠慮もない。

 八年ほど前、わたしを含めた六人はこの魔女と出会った。

 その結果、それぞれが赤い木の実を貰い、わたしを除いた五人は命を一つ分増やして……次々に、死んでいっては生き返った。それもただ蘇るわけではなく、死の際に強く願ったことを叶えるという特典もある。それはかなり無茶な範囲でも実現してしまう。他人に生まれ変わりたいとか、誰にも認識されない存在になってしまうとか、個人を構成するような記憶を消してしまうとか……やりたい放題だ。

 ただその望んだ人生も、数年後にはまた尽きてしまうのだけど。

 とりあえず、あの時に実を貰った六人はわたしを除いて一度は死んでいる。わたしが殺した相手もいる。死んでもいないし、実を口にもしていないのはわたしだけだ。

 わたしは……魔女が胡散臭いと思ったから食べるふりだけした。

 この魔女もそろそろ死にそうなはずなのに、なかなか死ぬ様子がない。

「個人差というか、その時々の適性みたいなものがあるのよ。実を食べてから十年保つ時もあれば、七年くらいで倒れることもあった。今回は長いのかもしれない」

「ふぅん……」

 同時期に亡くなった腰越君と江ノ島君は、ほぼ同じ時間帯に限界を迎えていた。どちらも実に対しての適性は同じくらいだったのだろうか。案外、仲良しだったのかも。

 二人がドングリの背比べをしている様を想像する。

 江ノ島君は、罪から逃れようと別人になった者。腰越君に苛められていて、我慢が利かなくなって殺して、その罪を知られるのが嫌で腰越君自身に生まれ変わった。

 見た目も記憶も、そっくり奪い取って。

 まぁそんな江ノ島君を殺したのはわたしなのだけど。

 腰越君は、生きていたみたいだけどなにを願ったかは分からない。

 話し込む前にまた死んでしまった。

「願いといえば」

 顔を上げて魔女を見る。

「あなたは、生き返る時になにを願ったの?」

 八年前、この魔女の復活に手を貸したのはわたしだ。その時、魔女は虫の息だったように思う。なにか考えている余裕はあったのだろうか? 魔女らしくある? いやまさかと思う。なにしろ、死にかけている時からその赤い帽子は傍らにあったのだ。

「んー……さぁー」

 魔女が左右にゆっくり、頭を傾ける。

「そういえば、なにを願ったのか……叶っているのかも分からないし」

 本人も把握できていないらしい。

「謎ね」

 魔女はさして気にする風でもない。長々生きていると、紐が緩むように大体のことを間延びして捉えるようになるのだろうか。響かないというか、たわむというか。

 それはそれで、心に余裕を保つことができるのかもしれない。

 戯れる風鈴の音に混じり、別の鈴が鳴る。

「電話よん」

 足を振って指図してくる。その横着さに不愉快を覚えながら部屋を出た。どうせ塾の勧誘とかセールスの電話とかそんな内容だろう。日中はそんなのばかりだ。

 この間は駅前に宝石店を作ったなどと話し出したので、『よかったね』と祝って電話を切ってやった。魔女はいつか、電話を携帯するような生活が始まると予言していたけれどこんな電話がどこにいてもかかってくるなんて、とても耐えられない。

 下駄箱の上の電話を取る。自分から誰かにかけたことはほとんどない。

「もしもし、藤沢ですけど」

 どうせろくでもない相手だろうと思って語気を強める。

 けれど知った声で名前を呼ばれたのですぐに態度を改めた。

「あ、母さん」

 働きに出ている母からだった。

『…………………………………』

 母からの次の言葉がない。あれ、とつい受話器を振る。振ってどうする。

「なに?」

 聞いてみたけど、返事は遅かった。

『やっぱり、いるじゃない』

 深々、溜息を吐かれてしまう。息の具合から失望ではなく、安堵が伝わる。

 こっちとしては一体なんのことか、とついていけない。

「どうかしたの?」

『いやね』と前置きして、息を整えた母が話し出す。

『あんたが海に流されて消えたって電話があったのよ』

「……はぁ?」

『いやそんなはずないって思って電話したら、普通に出るんだもの。なんなのよね』

 母の声は弾むけれど、わたしは沈む。硬く、頭の上を塗り固められるように。

「海に流された……変な表現」

『いいのよ細かいことは。それよりあんた、海に行ったの?』

「……今日?」

 数日前なら確かに海には行っている。

『今日』

「家から出てないわ」

 部活にも参加しないで魔女と適当に話していた。母に返答しつつ、頭が動く。

 虫を這わせるように。

 わたしが消えた。

 言葉も情報も不足している。

 なぜそうなったのか。

 事態は予想がつかない。でも、『わたし』の部分にだけ心当たりがあった。

「なにがなんだか分からないわ」

 嘘をついた。

『こっちもよ。人違いかな?』

「かもしれない」

 違ってはいるだろうと思った。

『まぁ人違いでもいいことではないんだけどね。でもうん、えぇと……安心したわ』

「……それは……けっこうね」

 どう言えばいいのか、上手く言葉を拾うことができなかった。

 それから二、三ほど言葉を交わして受話器を置く。電話が終わり、無音に熱が蠢く。

 団地の六階には蝉の鳴き声も届かない。

 部屋に戻ることにした。

「おかえり」

 魔女は帽子を回して遊んでいた。しかも掲げた足で。

 思い入れは特にないようだ。

「なんだったの?」

「わたしが海に消えて行方不明になったそうよ」

「え、ほんとうかい?」

 驚きが白々しかった。にやーっとしている。

「じゃあ目の前にいるあなたは、実は幽霊?」

「それも悪くない考えね」

 時々、自分を薄く感じる。

 姉でなくなった時から、わたしは死んでいるのかもしれない。

「冗談はさておき、わたしのそっくりさん……一人いるわね」

 まったく同じ顔の人間が、一人。そういう風に生まれ変わることを願ったのが、いる。わたしが残していた実を食べて、自殺して『わたし』になった人間がいる。七里がわたしを好き好き大好き(語弊あり)なので、わたしになりたいと願ったのだ。

 もう二度と会うことがないよう祈っていて、それは確かに達成されたかもしれないけれど、なんだか厄介ごとの予感を残してくれたものだ。

 わたしそのものの顔を持つ女は、名前を稲村という。

 かつての天才で、今はその残骸でつぎはぎになった女子高生だ。

 一度目はわたしが殺した。二度目は自殺した。三度目は……まだ不明。

 わたしの家には当たり前だけどわたしがいて、顔が同じでも成り代わることはできない。七里を連れて遠くへ離れる予定だったはずなのだけど、まだ同じ町内にいるとは思わなかった。まぁ、遠くに行くなんて気軽に言うけど大変なのは分かる。

「状況が不透明だけど、稲村が海に消えたってこと……なんでしょうね」

「なんでかしらね」

 こっちが知りたい。関係があるとすれば、行動を共にしていたであろう七里。

 方々に連絡をしたのも、七里だろうか。

「七里はどうなったのかしら」

「同じく海にどぼん?」

「どうだろう……母さんの話しぶりだとわたしだけみたいだし」

「それなら事情を説明した後に、家に帰されたんじゃない?」

 私みたいに、と魔女が力強く自分を指差す。

 いつここが魔女の家になったのか。

「記憶もないのに、帰る家って感覚はあるのかしら」

 七里は高校の同級生で、同じ部活動で、わたしが殺して、もの凄く嫌われている相手だ。赤い実を食べていたから生き返ったのだけど、なにを思ったか生前の記憶を失うことを望んだらしい。彼女は死人が歩き回ることには否定的だった。それ故の、抵抗なのかもしれない。

「記憶の有無なんて関係ないもの。家は帰るところよ」

 含蓄でもありそうな言い回しだけど、深い意味はないのだろうと思った。

 この魔女は話しているとそういうものが非常に多い。

「もう二度と関わらないでいてほしかったのに」

「世の中思い通りにいかないものよ」

 逃げられないこともあるわ、と魔女が呟く。忠言のつもりだろうか。

 黙っていると、目の端で魔女が帽子をかぶるのが見えた。

「その七里さんに会いに行ってみれば?」

 魔女の提案に顔を上げる。

「どうして?」

「あなたが巻き込んで殺したんだもの。責任取るべきでしょう」

「あなた、わたしたちを巻き込んでなにか責任取ってる?」

 まるで説得力がない。呆れると、魔女が「ははは」と目を泳がせた。

「あなた、私に責任なんか取ってほしい性格じゃないでしょう?」

「……そうね」

 責任なんて、取りたければ自分で取るものだ。だから魔女の指摘は正しい。

 しかしすんなり理解されているというのも、どこか癪に障る。

「でも会いに行くと言ってもね……」

 そもそも、七里がこんなことに巻き込まれているのもすべてわたしのせいだ。そこには確かに責任があるのかもしれないけれど、出会えばきっと、またややこしいことが始まる。それは七里をより辛い目に遭わせることだってあり得た。

「それに」

「それに?」

 どこにかかる『それに』なのか、魔女は問わない。

 心が読めるわけでもあるまいに。

「あの子、わたしのことだって当然知らないのよ。記憶がないんだもの、当たり前ね。そんなやつに会いに来られても困るでしょう」

 七里の視点で想像してみれば、海に消えたはずのわたしがまたやってきてこんにちはとご挨拶する形になる。稲村がどんな説明をしたかまでは分からないけれど、さぞ混乱するだろう。そしてその謎を逐一語るということは、七里にことの経緯を明かすということでもある。お前は死んだし、少し経てばまた死ぬのだと。

「あなた、私の名前知ってる?」

 腕組みした魔女が、やや唐突にわたしに問う。

「マイネームイズ」

 英語の発音はたどたどしかった。

「知らないわ」

「じゃあ生まれ故郷は?」

「なんの話?」

 うん、と魔女は頷く。

「あなたは私のことをなにも知らない。でも成り立つものはあるわ」

「…………………………………」

 魔女は、なにか前向きなことを言っているようだった。

 でもわたしは少し間を取って、考えて、首を傾げた。

「……ある?」

 魔女との間になにか成り立っているだろうか。

「あるってことにしとこうよ」

 提案されてしまう。あることにしないとお互いの話が進まない気がした。

「じゃあ、あるってことで」

 電源でも入れるような感覚で魔女との確かなる繋がりを作るのだった。

「よしよし」

 魔女は満足げだけど、こんなのでいいのだろうか。

「このままなにもかも見て見ぬふりはできるけれど、それじゃあスッキリさっぱりとはいかないでしょ?」

「それは……あるかもしれない」

 多くのものが失われて、それでもなにかが終わっていない感覚を残す夏。

 七里が無関係とは、言い切れない。

「会いに行った方が良いと思う。お年寄りの助言は意外とバカにならないものよ」

 確かに、この魔女以上の老齢は他にいないだろう。

「ちなみに名前なんだけど、今はないのよ」

 その場に横になり、長い髪を散らばらせた魔女が言う。

「たくさん名乗ってたくさん捨ててきた。でも生き返ってからの名前はまだないの」

 寝転んだまま、目玉だけがわたしに向く。瞳も髪も、ほんのわずかに赤い。

「そうなの」

「ので名前募集中よ」

「太郎」

「いいわねぇ」

「せめて花子にしなさいよ」

 それから魔女はそのまま、人の布団の上で昼寝を始めた。

 蹴飛ばして退かそうかと思ったけれど、近寄ると花の香りが強まったので、なんとなく止めた。魔女は強い花の匂いを纏う。最近のわたしは、そればかり嗅いでいる。

 側で覗く魔女の寝顔に、千年の歳月は感じられなかった。



 事態とはなんであるか、関与するものなのか、解決とはなにを指すのか。

 一つも分からないまま、翌日、わたしは七里の家の前まで来ていた。

 太陽を背負っているように背中が熱い。伸ばした髪が端から焼けていそうだ。事件が起きた翌日に訪ねて不躾ではないかという危惧はあるけれど、今動かないと、目を瞑ってしまう気がした。そうすればきっと、わたしは行動を一切起こさなくなるだろう。それはそれでありで、でもありよりないのが上だから、多分今ここにいる。

 隣の家をぼぅっと、瞼に乗った熱と共に見上げる。

 あれが稲村の家だろうか。こちらはこちらで騒ぎになっていそうだけど、わたしまでそうした情報は届いていない。死んだはずの娘が生き返り、そしてまた行方不明となった親の心境はいかなるものだろうか。それこそ、悪夢を見ているようかもしれない。

 それらほとんどがわたしに起因するというのだから、まさに諸悪の根源。

 そしておかしなもので、魔女に関わった人間で肉体的に普通なのは今やわたしだけなのだ。わたしだけが死んでいない。ただ、殺しているだけだ。

 それでいて、当たり前のように生きている。

 昨日は帰ってきた両親から心配された。警察の人も一緒に来たので内心、驚いた。一応人殺しだけどそちらには言及されず、逮捕もされなかった。いくつか聞かれたけれど、海に行っていないのだから一切の繋がりは出てこない。

 海に消えたわたし(仮)も見つかっていないので、見間違いもあり得るとのことだった。

『あなた後ろ姿が昆布っぽいし、アリね』

 なにがアリなのだ魔女よ。

 ちなみに部屋に居候する魔女にはついぞ気づかず去って行った。

 警察は民事不介入だ。民事か?

 呼び鈴を押す。呼び鈴の表面は熱くなくて、押してもどこかスカスカとしていた。

 ややあって、扉と影が動く。

 か細い声に見合う体型の女性が、扉の隙間から姿を見せる。確認もしないで開けるなんて不用心な。目が合うと、すぐにわたしに気づいたようだった。

「あら、お久しぶり」

「……どうも」

 七里の母親とは面識があった。子供の頃の行事とか、部活動での送迎等で何度か顔を合わせたことがある。頭を下げると、どうぞと手招きを頂戴する。ので、近寄る。

 七里の母は枯れた枝のように頼りない印象を一見して与える。腕も足も首も細い。細くて、脆そうだ。浮き出た血管のせいだろうか。その中で七里に似ていると思ったのは唇の形だった。きっと、唇に触れたら同じ感触がする。

「うちに来たのは初めて……よね?」

「はい。部長が部活に出てこないから、様子を見に来ました」

 大嘘を述べる。そうなの、と七里の母の目が泳いで落ち着かない。

「えぇっと」

 娘のことについてなにをどう話すか迷っているのが感じられた。話してもらわなくても大体の状況は把握できているけれど、逆にそれを伝える方法がないのでただ待つ。

 奥を覗くと、世に満ちる明かりからはぐれた薄暗い廊下が真っ直ぐ延びていた。

 七里の母は、口もとに指を添えながらわたしを見ている。値踏みするように。

 やがて、「いいか」と一言置いて、話し出す。

「実はうちの子、何日か帰ってきてなかったの」

「えっ」

 知ってる。いつからわたしは、こんなに平然と嘘と同居できるようになったのか。

 こんなわたしの無事を喜んでくれる両親に、少しだけ申し訳なさを覚える。

「それで昨日、やっと帰ってきたら部屋でぼぅっとしているのよ。話も続かないし、大丈夫かって聞くと平気とは言うんだけど……」

「はぁ」

「事情を聞いてもどうも要領は得ないし、ぎこちないし……」

 お話だったら、よよよとすすり泣きそうな調子で嘆く。そりゃあ、そうだろうと心の中で相づちを打ちながら靴を脱いだ。七里の靴の隣に揃えてから、なんとなくしまったと感じた。

「お邪魔します」

「はい」

「少し顔だけ見て……」

 すぐに帰りますと言外に語ると、いいのよと七里の母が首を振った。

「友達が来てくれたら、あの子も少し落ち着くかも」

「とも」

「うちの子、けっこうあなたのこと話してたから」

「……わたし?」

 稲村じゃなくて?

「また負けたとか、むかつくとか」

「ははは」

 予想から一歩も外れていなかった。それは、わたしの知っている七里だ。

 少なくともあの頃、七里はわたしを敵だと認識していた。

 今はその目にどう映るのだろう。

 通りかかる際に居間を覗くと、ピアノが見えた。七里もピアノを弾くのだろうか。思えば七里について知っていることは多くない。そんな人間を殺したのだ。

 たくさん知っていれば、殺さないという道も模索できたのだろうか。

 ……無理か。そもそも七里に近づいた理由が、殺害に繋がるのだから。

「二階の奥の部屋にいるから」

「はい」

 階段前で七里の母に会釈してから上る。段差を踏みしめる足は重い。

 上って、会って、どうなる?

 壁から染みるような蝉の鳴き声に苛まれながら、疑問と躊躇は膨らむばかりだ。

 階段を上がりきって、短く狭い廊下を歩く。廊下の脇には小さな段ボール箱がいくつか置かれていた。覗いてみると、小学校で使うような絵の具セットや習字鞄が入っていた。七里のものだろうか。自分の記憶と重なり、思い出を覗くような気分になる。

 濁った水溜まりに景色が映り込むような、そんな心境だった。

 微かな回顧に浸ってから、言われたとおりに奥の部屋の前に立つ。木製の板が二つ。スライド式の扉だった。どちらをずらして入っていけばいいのか。

 ノックする。音に硬質さはなく、反響する。

「どうぞ」

 何日ぶりかに過ぎないのに、何年ぶりにも思える声がした。

 一度も訪れたことがないけれど、見舞いとはこんな湿った気持ちになるのだろうか。

 扉を開ける。立て付けが悪いのか途中で引っかかり、少し苦労した。

 もしかすると、緊張による腕の縮みもあったかもしれない。

 小さく渦を巻くような廊下の熱と、部屋の中は地続きの温度だった。

 七里はベッドの端に腰かけていた。そして、部屋の入り口を正面より見つめていた。

 灯りもつけない部屋で背筋が伸びて、姿勢だけが良い。置物のようだ。学校に来るときと違い、髪を下ろしている。部屋着らしくシャツと短パンで、胸にはサングラスをかけた鮫のイラストが笑っている。黄色い液体をストローですすって、勝ち気な笑顔だ。小学生が着るようなシャツだと感じる。

 それと部屋の隅にエアコンを見つけて、いいなと思った。

「こんにちは」

 なにはともあれ挨拶する。七里は睨めつけるように目を細める。

 わたしの知っている表情に似ていて、あれ、と警戒する。

「あなたって、何人いるの?」

 挨拶代わりに尋ねてきたのはそんなことだった。

「一人よ。こんな性格の悪いの、何人もいたら町が嫌になるもの」

 扉を閉じるか迷った。こんなに暑いのに、と思う。でも廊下から光が入り込むと、会話の具合も変わってしまうというか、踏み込めなくなりそうで、扉を閉めた。

 エアコンをつける気はないのだろうか。

 つけよう。

「なんで制服なの?」

 今が夏休みであることくらいは知っているらしい。

 七里が足を抱くように上げて、膝を顎の支えにする。

「趣味」

「趣味で制服着るの、はー」

 七里が膝に添えた顎をかくかくと揺らす。幼げに映る仕草だった。以前なら、わたしと一緒にいる間は絶対に見せない隙だろう。やっぱり、外見以外は別人みたいだ。

 記憶とは、その人のすべてなのかもしれない。

「香水かな?」

 七里の鼻があちらこちらに動く。

「あなたが来たら、花の香りがする」

「花……ああ。気にしないで、花の香りって素敵でしょう?」

「なんか言葉が軽い……」

 同じ部屋で暮らす魔女のそれが、わたしにも染みついているようだ。同じく蘇った死人である七里からも香りがしそうなものだけど、部屋内にそうしたものは充満していない。赤い実を大量に取り込んだ魔女の纏うものが格別、強いのかもしれない。

「あなたも藤沢さんでいいの?」

 七里にさん付けされるなんて、薄気味悪いなと笑いそうになる。

「今言ったけど、わたしはわたし。一人だけ」

 わたしは、今の自分が嫌いだ。だからそんなやつは一人でいい。

 いっそ一人でなくてもいいと、眠る直前に時々思う。

「ふぅん……双子?」

「違うってば。質問はもういい?」

「まだ聞きたいことが山ほどある」

 七里の足の親指が擦れ合う。

「それは、時間がかかりそうね」

 ちらりと天井近くを見る。

「エアコンつけないの?」

「いいわ」

 いくない。

「身体が冷えると不安が増すの」

「…………………………………」

 七里が膝を掴んで顔を上げる。

「ああ、暑い時はけっこう平気だから。安心して」

 なにを安心しろというのか。

 そんなものを相手に求めるような間柄かも分からないのに。

「ならいいけど」

「どうぞ」

 七里が藍色のクッションを床に置く。距離が近くなるので嫌だったけれど、勧められたのを断るのもなんなので座った。七里を少し見上げる形になる。

「部活に出てこないから心配した、という名目で来たの」

「部活? 私、なにかやってるの?」

 そういうのも覚えていないのか。

「手のひらを見れば分かるわ」

 言われたとおり、七里が自分の手を確かめる。じぃっと、薄暗がりで見つめたまま。

「指の付け根にタコがある」

「竹刀ダコ」

「竹刀なら、剣道部か」

 七里が何度か指を開閉する。それを見ていた目が波打つ。

「なんで自分に、こんなに分からないことばかりなのかも分からないの」

 七里が心境を吐露する。こちらも、七里がどの程度まで記憶をなくしているのか把握できていない。この様子だと大規模なのは間違いなかった。

 根底から、自分にまつわるものすべてだろうか。

 出し殻、という言葉が浮かぶ。

「分からないことが多いのは当たり前よ」

 そうなるように自分で望んだのだから。

 七里が目を細める。籠もりきりの熱で室内の蒸し暑さに身体が絞られるようなのだけど、七里は汗も浮かべていない。メンタル的なものに起因するのか、それとも死人故の在り方か。

 家にいる魔女は、汗をかいていただろうか。いつも花の香りに包まれていて、嗅ぎ分けられない。

「そういえば、あなたを遠くに見たことがあった気がするけど……あれは見間違いじゃなかったのかな」

 海でのことだろう。七里が死んで生き返った時、確かにわたしと稲村は同じ砂浜にいた。

「あなた、私のことに詳しそうね。そうでなきゃここに来ないか」

「そうね。今のあなたよりは知っていると思う」

 慎ましい唇を一瞥する。七里がその視線に気づく前に、質問した。

「わたしのそっくりさんからはなにを教えてもらったの?」

「なにって、なんだろなぁ……名前とかは聞いたけど」

 七里が小首を傾げる。要領を得ない反応だった。扱いが軽いように思える。

 稲村とは三日ほど行動を共にしていた……はずなのだけど、そうでもないのか。死んでから今までいったい、なにをしていたのか。聞けば、また踏み込むことになりそうで躊躇する。わたしと七里がまた関わって、生まれるものは前向きではなさそうで。

 とりあえず、真っ先に教えておかないといけないことがある。

 それは、なぜ七里が記憶を失い、わたしがここにいるかを物語る始まり。

 顔を上げる。

 改まった態度に、七里が、目を丸くした。

「あなたは、わたしが殺したのよ」

 声が熱の膜に包まれて、濁るのを感じた。

 わたしたちの間で停滞する空気が、微かに振動する。

「殺した?」

「ええ」

 七里は身体の芯から冷えていないだろうか。

「あなたはわたしが大嫌いだった。殺したいほどに嫌っていた。だから殺し合って、わたしが生き残ったの」

 その胸を一突きにした感触は、既に指先から消えてしまっていた。

 七里は急に立ち上がり、その場で回る。それから腕や足を突き出して、飛び跳ねる。

 なんだそれは。

 葬儀で棺の蓋を蹴り飛ばした稲村を彷彿とさせる。

 動きの止まった七里が上腕二頭筋を示すように腕を曲げる。

「私ってばかーなーり生きてるけど、誰かと間違えてない?」

 ああそういう、と行動の意味を理解する。確かに活発な死人だ。

「生きてないわ。心臓、動いてないでしょう?」

 他の生き返った連中もそうだった。恐らく、魔女も同じだ。

 七里は指摘されて、胸に手を当てる。そして、目を落として息を止める。

 呼吸も遮って、音を拾おうとしているみたいだった。

「ほんとだ」

 七里が顔を上げて、目を丸くする。表情が柔和に変わり、険しいものもなく。

 わたしの知る七里とはまるで別物だった。

 躍動するほどに、彼女の死を意識せざるを得ない。

「死んだ私がどうして動いているの?」

「魔女が蘇らせたのよ」

「魔女? あなた?」

「あんなのと一緒にされるなんて、心外ね」

 向こうも似たようなことを思っているだろうけど。

「とにかくあなたは蘇った。……だから死ぬ前の記憶がないのよ」

 細部を省略して起きたことだけを伝える。なぜそこに至ったかまで説明すると、生前の七里が嫌がりそうな気がした。死んだ人間の霊魂やらを信じているわけではないけれど、人は亡霊に取り憑かれている。頭の中に、過去や思い出という幽霊がいるのだ。

 七里が座り直して、やや前屈みになる。足に肘を突いて、両手で顔を支える。

 そのまま、値踏みするようにわたしを見つめてくる。

「衝撃的なことを、淡々と話すわね」

 指が沈み込み、頬が上がり、七里が面白顔になる。そちらはそちらで十分落ち着いているように見える。驚きすぎて反応に困っているのかもしれない。

「わたしが死んだわけじゃないから、慌てる必要もないし」

 殺した側がそんなことを言えば怒るだろうか。試すように言う。

 七里はさして反応せず、顔が面白いままわたしを眺めていた。

「本当に別人ね。見た目はそっくりなのに」

 稲村と比較した感想らしい。それは、こっちも同様の意見だ。

 七里はそのままベッドに後ろ向きに倒れる。腕を大きく伸ばして、腹部が上下する。心臓は動いていないのに呼吸はちゃんとしているようだ。

 その呼吸が一際、溜めを伴って放たれる。

「じゃあ私は、生まれたんだ」

 びぃんと、七里の手足が伸びきった。

「生まれたてならなにも知らないな……うん、そういうことかぁ」

 七里は独り言をぶつぶつと漏らす。倒れ込んで壁の方に顔が向いているから聞き取りづらい。ただ、そうかそうかという呟きみたいなものが聞こえたので、納得はしたようだ。……よくするな。心臓が止まっていなければ、信じたか定かではない。

 待っている間に、汗が滲んだ。額のそれを指で拭ってから、外の空気が恋しくなる。

「教えられるのはそれくらいね」

 立ち上がると、七里も釣られるように起き上がった。

「もう帰るの?」

「ええ」

 伝えるべきことは大体終わった。

「今更だけど、なにしに来たの? 親切で来たわけではないでしょ」

 そういう雰囲気じゃない、と見透かされる。正しいけど、聞かれても困る。

 分からないからこそ来たのだ。

「なにしに行けばいいか、行けば分かると思って来てみたの」

 現地で実習するような感覚に近い。野外学習の時を思い出す。

 あの時、わたしはどのような気まぐれで森の奥になんて向かったのか。

 何年も経てば、昔の自分も他人になっていく。

「なんか、見た目と裏腹にテキトーね」

 わたしは表情が変わりばえしなくて淡々としていると言われる。それは真面目なのか? 感情をしっかり表に出す方が真面目に生きている気がしないでもない。

「で、どうだったの?」

「さっぱりよ」

 告げて、部屋を後にする。すぐに七里が追ってきて足音が賑やかになった。

「お見送りをと」

「いらないわ」

「うん、そういうこと言いそうだと思った」

 七里は初めて、少し笑う。寒いと不安になるのなら、暑くなったのだろうか。

 七里がハ虫類に思えた。

 階段を降りると、七里の母が歩み寄ってきた。下でずっと様子を窺っていたのだろう。七里はおっかないものが近づいてきたように首を縮めて、肩が上がる。

「えっと、友達の見送り」

 ややぎこちない喋り方だった。大抵の子が親に向けるものではない。

「そうなの」

 七里の母もまた態度が硬直している。わたしに目配せして、小さく頭を下げた。廊下の奥の部屋に消えていく。あの人も、わたしがやったことを知れば許さないだろう。

 むしろわたしを許す存在なんて、なにもないように思う。

 しかし、誰が友達か。

 七里は裸足のまま廊下から玄関へと下りる。扉を開いて、覗く光に目もとをしかめた。部活へ向かう時の表情と重なり、少し懐かしいものを見た気になる。

 靴を履いて、七里の開けた扉から外へ出ようとする。

 と、七里が振り向いた。

 改まったようにわたしを見つめてくる。

「どうかした?」

 足を止めたわたしに、七里が、笑う。

「あなたが言うとおり、私は一度死んだんだと思う」

 急になにを悟っているのだろう。訝しんでいると、七里は。

「だって今、あなたのこと嫌いじゃないもの」

 それはいつも振り下ろしてきた彼女の竹刀より、幾分か鋭く。

 そして浅く、わたしのどこかを裂く。

「……そうなの」

「うん。じゃあ、またね」

 扉を開け放った七里がわたしとすれ違い、家の中へと戻っていく。

 玄関先に満ちる逆光のせいで、その時の表情は窺えない。

 振り向かず家を出て、独り昼間の下を歩いた。

 熱が首の裏に積もり、夏の雪を味わうような中で足を進める。ずかずか、真っ直ぐ。団地へ向かっているのかも曖昧になり、耳鳴りが強まる。それでも動き続ける。

 今、わたしは若干冷静ではなかった。

「また、おかしなことを」

 やはり植物生命体になると、血が巡っていないのではないだろうか。

 殺したと告げた相手を嫌いではないなんて、頭が働いていないとしか思えない。

 信号が見えてきたところで、遅れて答える。

「またなんてないわ」

 まがりなりにも生きている人間と、死人が出会うなんてあり得ない。

 頭の固い七里なら、そう考えるはずだ。

 事実、恐らくもうわたしの知る彼女に会うことはない。

 ややこしいなぁ、とわずかに汗の浮かんでいた額を拭い、髪を掻き上げる。

 動きに合わせて露出した耳に、くぐもっていた蝉の合唱が晴れ晴れ、届く。

 去年の夏も蝉は鳴いていた。その前も、もっと前も。

 同じように聞こえるそれは、しかし毎年違う蝉が鳴いていて。

 聞き分けようとしても、まるで分からないのだった。



「おかえり」

 床に転がって海老ぞりしている魔女が挨拶してきた。背中を踏みたくなる姿勢だった。押し入れで寝るためにストレッチに余念のない魔女の横を通って椅子に座る。

 こんな自由に生きているのが家にいて、親も気づかないのだろうか。

 気づかれたら困るのだけど。……困るかな?

「……疲れたわ」

 ただいま、と言いかけたのを有耶無耶にする。

「良いことあった?」

「あなた耳の穴空いてるの?」

 魔女がストレッチを中断して跳ね起きる。電灯の下、一本足でくるくると回り出す。

「身体を伸ばしてると音があまり聞こえなくなるのよ。不思議よね」

「途中から聞こえてたみたいなんだけど」

「おりょ」

 バランスを崩して人の布団の上に倒れ込んだ。しかも退かずに横になる。

「花の匂いがつくから寝転ばないで」

「彼女、元気してた?」

 耳の穴が足りないみたいなので、二つ三つ追加してやりたくなる。

「心臓が動いていない人間を元気というなら」

「そんな些細なことで差別するの? 酷いわ」

「些細かな……」

 普通なら死活問題だ。文字通り。

「分かってはいたけれど、以前の七里とはまるで別人だった。だからわたしが会いに行っても意味はなかった気がする」

「そんなことないわよ」

 魔女が非常に安易に否定してくる。やり取りも知らないのによくそこまで気軽に言えるものだと感心する。

「あなたのことだから、自分が殺したーとか、あんた死んだのよーとか本人に話したんでしょ?」

 なぜ分かる。認める気になれなくて、素直に返事はできない。

「……それなのに今、嫌いじゃないとか言い出すの。早くも頭の中がお花畑なのかも」

 文字通り。

「いいじゃない、いいお友達になれると思うわ」

「あなた友達ってなにか知ってるの?」

「すばらしいものよ」

 魔女は断言する。寝転んだまま、大ざっぱに、力強く。

「利害じゃない結びつきが理由となって自分を突き動かす力になる」

「…………………………………」

「まぁわたしもそのあたりはさっぱり理解できないけど」

「できないのかよ」

 友達いねーし、と付け足す。でもね、とも魔女が言う。

「理解できないからいいんだってことくらいは分かる」

 魔女はまるで、さきほど見た夢でも反芻するように、浮いた調子で語るのだった。

 その言葉には歳月という魔法がかかっているのだろうか。納得しそうになる。

「……わたしは知らないものなんかに背中を押されたくない」

 それでも魔女の言葉に、わたしは抗う。

「だからいつもつんけんしているの?」

「そう見えるんなら、そうなんじゃない?」

「捻くれた物の見方をしていれば賢いなんて幻想は捨てた方がいいわよ」

 魔女のその言葉の調子が思いの外強く、面食らう。

「説教?」

「経験よ」

 魔女が人差し指を立てる。そして、その指を中心にもう一つの手を回す。

「捻くれてると、結論出すのにぐるぐる巡って時間がかかるの。そしてね、それだと間に合わなくなるの。大体のことにね」

「…………………………………」

 魔女の譬え話が、星のように頭の中を瞬いては巡る。

 以前にも、同じ内容を聞いた気がする。

 引っかかるものがあった。でもそれは風に煽られた紙が裏返るくらいの一瞬の気づきで、頭を少し振ったところで失われてしまうのだった。それならきっと、大したことではないのだろう。無理に思い出そうとはしないで、頬杖をついて、ぼぅっとする。

 最近、目まぐるしい。でも起きたことを少し落ち着いて考えれば、案外大したことはない。

 因縁ある旧友たちが死んでいった。

 そして七里が町にいる、というだけで別段なにかが起きるわけでもない。

 わたしが誰かを殺したということも、誰も証明できないし。

 それらに関わらないという意志を持てば、終わっていく出来事ばかりだ。

「ま、少しくらい素直な方がかわいいよってことねん。話し疲れたし、しょろしょろお昼寝します」

 欠伸をこぼしながら、魔女が押し入れに向かう。なにそのかわいこ気取り。

「自由ね、あなた」

「なーんにも持ってないもの」

 はははん、と魔女が軽やかに笑う。確かに身軽な態度だった。

 守るものやこだわるものがないというのも、生き方の一つかもしれない。

 それで自分を保てるというのなら。

 魔女が慣れた挙動で押し入れに収まる。でも襖はきっちり閉じることなく、微かな隙間を残す。そこに魔女の瞳が浮かぶ。真っ黒いそれに所々、赤々しいものが浮かぶ。

「普通に気味悪いのだけど」

「私さぁ、思ったのよね」

 耳に植物でも詰まっている疑いのある魔女は、大体において一方的だ。

 相手との関係や態度なんていうのも、自由たる魔女には些末なのだろうか。

「あの七里ちゃんって子、本当は別のことを願ったんじゃないかって」

「え?」

 魔女の瞳が縦に引き締まり、猫の佇まいを見せる。

「聞きたい?」

「言うなら早く言って」

「あなたと仲良くなること」

 さらりと、わたしの頭にないものを投げかけてくる。

「は?」

「真っ新になって関係をやり直して、仲良くなる。そのために記憶というしがらみを消したのよ」

 そう言った魔女は、その続きになにかを呟いた。でもそちらは聞き取れない。

「なに、それ」

 なんで七里がわたしと仲良くしたいのだ。

 死んでまで果たしたいなんて、いやそんな。

 確かにあのままでは、仲良くなるなんてあり得ない。わたしも七里も素直さなんてものと無縁だ。頑固でもある。一度相手との関係を決めつけたら、その認識を変えることを認められないだろう。それならば、白紙にすればという魔女の考えも……でもそもそも嫌いなのになんで仲良くなりたいなんて思うのか。死人の行動を良しとしない七里が、そうしたものを捨ててまで願いを持つなんて考えづらい。

 わたしがキスしたからか? 関係あるかなあれ。あるのか……。でも魔女の言い分が正しいなんて保証はないから、でも七里は今、わたしを嫌いじゃないとかなんだか寝ぼけたこと言っているし……えぇと、あれ?

 混線してしまう。思考の始まりを見失い、収拾つかない。

「あ、根拠とか一切ないから。おやすみよ」

 言いたいことだけ言い終えたら、すぐに襖を閉じてしまう。

 適当な思いつきを好き放題にばらまいて、人を困惑させるだけのそれはまさしく魔女の振る舞いのようだった。襖でも蹴りに行ってやろうかと足が上がる。

 けれどそういうことじゃないだろうって、踵を床に下ろす。

 なんだいそれは、と鼻を鳴らす。

「ばかばかしい」

 そんな純真なこと、あの七里が求めるわけないじゃないか。

「……多分、いや、きっと」

 正直、言い切れるほど彼女の心を覗いていたわけじゃなくて。

 でも死人に口はなく、正解を聞き出すこともできず。

 わたしはまた、すっきりとしないものを増やすだけなのだった。

「ああ、納得したい……」

 分からないことをこじつけでもいいから理解した気になって、終わらせてしまいたい。不思議に目を瞑り、流れるように毎日を過ごして怠惰に時間を使ってしまいたい。

 だけど、背中を灼く焦燥は安易な解決では到底治まりそうもなかった。

 手つかずの参考書を山積みにされたみたいに、息苦しい。

 解けそうな問題は一つでもないかと参考書をちらちらと見るけれど、嫌になる。

 今年は最悪の夏休みだ。

 やることが多いっていうのが、なにより辛いのだった。



 わたしはこの夏に、やり残していることがある。

 今分かるのはそれだけだ。