桃花の家の隣には、陰陽師の安倍晴明が住んでいる。

 場所は京都市左京区、真如堂という寺院が建つ丘のふもと。

 一見普通の古い二階家だが、庭には冥府へ通じる井戸がある。この井戸を通って、晴明は京都のあちこちや、現在仕えている閻魔大王の下へ行くのだという。

 玄関の引き戸を開ければ、板の間に本や棚や観葉植物、そして大きな天体望遠鏡が所狭しと置かれている。

 夏になったらこの望遠鏡を借りて天の川を見たいと桃花は思うのだが、まだ晴明に頼む勇気が出ない。

 学校の勉強を教えてもらうかわりに現世の案内人になると約束して、一ヶ月余り。

 晴明には子どもと言われてしまうが、桃花は桃花なりに距離感をはかっているのであった。


「晴明さーん」

 ちゃぶ台の上の問題集を閉じて、縁側へ声をかける。座布団に座り直すと、麻のフレアスカートがさらさらと鳴った。

 晴明は桃花のいる板の間を振り返らず、新緑の庭を見ている。青々とした楓が揺れ、燕がすいすいと横切っていく。家の中にいるのがもったいないような、五月晴れの土曜日だ。

「試験勉強は終わったのか」

 晴明は琥珀色の髪と瞳を持つ青年の姿で、いつもスーツを着ている。表向き「休暇中の研究者」なのだから、もうちょっと着崩してもいいんじゃないかなと桃花は思う。

「数学は終わったから、企画書を見てください」

「企画書?」

 振り向いた晴明の白い顔を見て、桃花は稲荷社を守る白狐を連想する。

 憂鬱そうな表情はいつものことなので、もう慣れた。けれど、しっかりした鼻筋に反して唇の線が柔らかいところは、まだまだ見飽きない。黙っていればこの人はかっこいい、といつも思う。

「陰陽道を世のため人のために役立てる企画書です。晴明さんから見ても良い案だったら、わたしに陰陽術を教えてほしいんです」

「試験勉強が最優先だ」

 にべもなく晴明は言った。確かに、高校最初の中間テストは数日後に迫っているので、桃花も反論する気はない。

「受験のなかった中学と比べて、高校は群英の中に放りこまれたようだろう」

「ぐんえい?」

「優れた者たちの群れ。唐の五言古詩に『四座群英を列ぬ』とある」

 晴明は手帳に何か書きこむと、その頁をきれいに破り取った。風に運ばれるような動きで浮遊してきた紙片には、「四座列群英」とある。

「返り点の打ち方は分かるか?」

 桃花は漢文の授業を思い出した。初歩的な返り点の打ち方は、テストの範囲内だ。

「ええと、『英』の左下に『一』、『列』の左下に『二』です」

「正解だ」

「やった」

 紙類が勝手に漂ってくる点については、桃花はもう驚かない。この家では慣れた眺めである。

「だが、周囲には同じような学力を持つ少年少女が何百人といるわけだ」

「うっ」

 桃花の通う高校は市内で一、二を争うほどの偏差値ではないが、二十番以内には確実に入る。

「同じって言うか、できる子はめちゃくちゃできるっぽいです。家族や親戚が学者や芸術家、っていう子たちや、帰国子女もいて。なんか負けそう……ううん、もう負けてるかも」

 つらつらと弱音を吐いてみたが、晴明は観葉植物のあたりに目をやっていて、無関心そのものだ。

「無視しないでくださいよー」

「とにかく、陰陽術よりも勉強が優先だ。中間試験で良い成績が取れなければ、ご両親に申し訳が立たない。月謝も受け取っているからな」

「うう、正論」

「数学が苦手ならせめて平均点は目指すように」

 企画書の内容も聞かずに、晴明はまた背中を向けてしまう。

「もー」

 桃花は問題集とルーズリーフを持って縁側へ行き、隣に座った。

「牛車から解放された黒牛のようだな」

 妙なものに喩えられるのは、いつものことだ。怒ればふぐ、驚けば転んだ舞妓。

「『もー』は牛の鳴き声じゃないです、晴明さんへのブーイングです。それに、どうしていきなり牛車が出てくるんですか?」

「どんな牛でも、牛車につながれて人に使役されるのは重労働だからな。解放感のあまり鳴く時もある」

 この説明でいいか、とでも言いたげに晴明が桃花を見る。からかっておきながらさほど楽しくなさそうなのが、少し癪だ。

「牛車に使われる牛は賢くて強いぞ。文武両道だ」

「牛が学校教育受けてるみたいな言い方やめてください。だいたい、牛に喩えられて喜ぶ女の子なんていません」

「ほう、今の時代はそうなのか」

 晴明が意味ありげに微笑み、午後の庭に視線を戻す。

 いつの間にか植木が増えて、真っ白いリラの花が咲きはじめている。花が円錐形に集まった姿は、ソフトクリームを思わせた。

「あのー、晴明さん」

「うむ」

「平安時代の女の子は、牛に喩えられると喜ぶんですか?」

「中には、そんな娘もいたな」

「いたんですかっ? どういう状況でっ?」

「さあ、どうだろうな」

「晴明さん……」

 桃花は、晴明の体を荷物のごとく庭へ放り投げる自分を妄想した。

「わたしをからかって遊んでますよねっ?」

「そう怒るな」

「怒るのやめますからこれ見てください。テスト範囲内の数学の文章問題」

 ルーズリーフに書き連ねた数式と、赤ペンによる「ここが大事!」という添え書きを見せられて、晴明が「ふむ」とうなずく。

「どうですか? 教科書の説明を見ながら、問題集を解きました。全問正解です」

「そうか。後で、何も見ずに全問正解するように」

「厳しい!」

「厳しくはない。見たところ、要点は頭に入っているようだ」

「えっ。ふっふっふ」

 嬉しくなってにやけながらルーズリーフを見直していると、晴明が立ち上がって和室を抜け、奥の台所へ向かった。

「休憩ですかー?」

「今朝、茜が茶菓子を持ってきた。もうすぐ五時だが食べられるか?」

「いただきますっ。晩御飯は八時ってお母さん言ってたから大丈夫」

 台所へ行くと、テーブルの上に和菓子屋の紙袋が置かれていた。西陣でかんざし屋を営む晴明の部下が、近所で買ってきてくれたらしい。

「桃花。前掛けを売っている店を知らないか」

 ――晴明さん、エプロンのこと前掛けって言うんだ。

 晴明はヤカンをコンロにかけている。スーツで台所に立つ姿は妙に微笑を誘う。

「雑貨屋さんか、高いのなら百貨店かな。学校の帰りに買ってきましょうか?」

「ありがたい。高くない方で頼む」

「はーい。ちゃぶ台拭いときますね」

 流し台で手を洗おうと、ポンプ式の容器に手を伸ばす。押すと、ハンドソープにしては大量の泡が出てきた。

 緑の葉が描かれた容器をよく見れば「ボディソープ 桃の葉エキス配合」とある。

「晴明さん。これ、どうしたんですか」

「間違って買った。大して差はあるまい」

 こういうささやかな知識を習得すべく、晴明は現世での休暇を命じられたらしいのだ。冥府の官庁の一つ、閻魔庁から出て人間に混じって暮らせと。 

「茜には何も言われなかったぞ。朝食を作ってくれたが」

 桃花はステンレスの籠を見た。二人分の茶碗や角皿や小鉢が伏せられている。

「茜さん、そこまでしてあげてるなんて……!」

 閻魔庁第十四位だという美しい着物姿の冥官を思い、桃花は同情した。同じ京都市内とはいえ、遠い西陣から茶菓子を届けに来て朝食を作り、食器洗いまで済ませていくとは。

「閻魔庁の冥官になったら、上官のご飯まで作らないといけないんですか?」

「そういうわけではないが、家で料理をする生活も知っておくべきだ、という意見が閻魔庁で出た」

「で、茜さんが出張料理人をしてくれたんですね」

 閻魔庁の冥官となって不思議な術を操れるのはうらやましいが、実際の仕事内容は大変な気がする。

「きっと茜さんも、指摘しづらかったんですよ。晴明さんが上官だから」

「そういえば茜は、台所に立った時『まあいいか』とつぶやいていた。これのことだったか」

 晴明は納得顔で、缶から茶葉をすくって急須に入れている。部下に間違いを見られて、恥ずかしくはないのだろうか。もしや、恋愛感情が皆無だから問題ないのか。

「このブランドはいろんなボディケア用品を出してるけど、容器のデザインがみんなそっくりなんですよ」

「詳しいな」

「コスメショップに置いてあるし、ネットの化粧品ランキングにも載ってますもん」

「化粧か。使いようによっては呪詛になるから気をつけろ」

 晴明が真面目な口調で言い、桃花は「呪詛なんかしません」と断言した。

「とにかく、紛らわしいけど気をつけないと。ボディソープは、ほら、ちょっと香りが強いですもん」

「うむ。桃の葉の香りだ」

「ハンドソープなら殺菌成分が入ってるから、台所向きですよ」

 綿菓子のようにたっぷりした泡で両手を洗いながら桃花が教えると、晴明は水道の栓をひねって水を出してくれた。

「あ、ありがとうございます」

 泡を洗い流していると、木立の激しくざわめく音が耳に届いた。

「風が強くなってきたな」

 晴明はガスの火を切り、庭へ顔を向けた。

「縦石、横石。窓を閉めてくれ」

 かすかに「はい」「ただいま」と声が響き、大きな掃き出し窓がガタガタと閉まっていく。庭石となっている式神夫婦の仕事であった。

「建て付けが良くないようだ」

「晴明さん。そういう時は、ロウソクを敷居にこすりつけると滑りが良くなるんですよ。お母さんがやってました」

「ほう」

 晴明が納得した風に返事をする。どこか危なっかしい手つきで急須に湯を注ぐのを、桃花はハラハラしながら見守った。



 桃花がルーズリーフに手書きした企画書を一目見て、晴明は首を左右に振った。

「応用範囲が狭すぎるぞ、桃花」

「いいじゃないですか。クッキーもケーブルも大事ですもん」

 すげなくちゃぶ台に置かれてしまった企画書を、桃花は取り上げた。

 企画書のタイトルは「鼠から守れ! クッキーとケーブル」。

 真ん中にでかでかと、丸まった猫が描かれている。江戸時代に歌川国芳が描いた絵の模写だ。

「美術部で先生に教わった鼠よけの猫絵です。晴明さんなら知ってますよね?」

「ああ。まじないの絵だな。国芳だけでなく無名の絵師も描いた」

 本物そっくりの猫の絵を見れば、鼠が逃げるはず――という発想で生まれたのが猫絵だ。もちろん現在は技術が発達し、鼠が忌避する薬品や超音波、家屋の隙間の補修などで対策がなされているらしい。

「ちゃんと効果のある猫絵を陰陽術で生み出せたらエコだと思うんです。電気も要らないし環境破壊もありません」

 桃花のプレゼンを、晴明は緑茶を飲みながら聞いている。

「現代でも鼠の害はひどいらしいんですよ。外国のお菓子工場でクッキーがかじられて全部廃棄処分になっちゃったり、ネット関係でも大事なサーバーにつながってるケーブルをかじられたり」

「効き目のある猫絵を量産して、各企業に売りこむわけだな」

「そうです」 

 にこっと笑った桃花に、晴明は白けた視線を寄越してくる。

「どうやって信じてもらう気だ。鼠に陰陽術が効くと」

「えっ……。えっと、本物の鼠が猫絵を避けるところを動画に撮って、偉い人たちに見てもらいます」

 ふふ、と晴明は笑う。

「何か仕掛けがあると思われるのが関の山だ。いや、そもそも『偉い人』とやらが時間を取ってくれると思うのが甘い」

「う、ぐぐ」

「仮に信じてもらえたとして、猫絵を量産できるのか?」

「頑張って一日十枚、とか?」

「桃花の想定する企業は京都御苑いくつ分の地所がある? 支社や営業所も面倒を見られるか? 古い家にも鼠は入るが、一般家庭からの注文は捌ききれるか?」

 矢継ぎ早な質問に、桃花はのけぞった。

「きゅ、急にサラリーマンぽい攻め方をするのは卑怯です」

「卑怯なものか。見通しがなさすぎる」

 晴明が追及の手をゆるめたので、桃花は茶菓子を口に運んだ。おとしぶみといって、白い餡を葉っぱを模した練り切りでくるんだ初夏の生菓子だ。

「この家も結構古いですよね。どうやって鼠を防いでるんですか?」

「猫絵だ。白い猫の絵が二階に貼ってある」

「晴明さんも作ってたんですね! それ、作れるようになりたいです」

 桃花が言ったとたん、上の方から「ニャオ」と猫の鳴き声が響いた。

「えっ? 今のってまさか」

「二階の猫絵が鳴いている。噂されているのが分かったんだな」

「うちのミオが紛れこんできたんじゃ……」

「鳴き声が違うだろう」

「ニャオ」

 桃花の疑問に答えるように、また同じ鳴き声がした。桃花の家で飼っている三毛猫のミオよりも声が若干低い。

「ほんとだ。でも晴明さん、ミオの鳴き声を覚えてるなんて。可愛いと思ってくれてるんですね」

「……桃花の目の付け所は悪くないが」

 晴明が話題を変えたので、照れ隠しかな、と桃花は思った。

「今の人間は今のやり方で、鼠の害を防がねばならない。考えてもみろ。術者にしか作れない猫絵が流布して、普通の駆除技術が発展しないと困るだろう」

「そっか……。猫絵の場合、術者がどこかへ行ったり猫絵作りをやめたら大変だけど、超音波を出す道具や駆除剤は、一度作り方が分かっちゃえばあっちこっちで作れますもんね」

「うむ。術者になるには素質が要るが、科学技術ならば誰にでも再現が可能だ。公衆衛生の領域では科学が勝利しなくてはな」

 思慮深げに晴明が言い、桃花は仰向けに寝転がって脱力した。

「何をしている。人の家の座布団で寝るな」

 注意されてむくりと起きる。

「力が抜けちゃったんです。科学や公衆衛生のことは考えられるのに、なんでエプロン売ってる所は知らないんですか」

「本に書かれていないからだ。本に書いてあれば難しくはない」

 本棚から文庫本が抜け落ちて、桃花の方へ浮遊してくる。

 掴まえてタイトルを見ると、『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏 科学がわかる哲学入門』とある。表紙イラストが可愛らしい雰囲気だ。

「もしかして漫画ですか?」

 気軽に開いてみると、戯曲形式であった。桃花の知らない学術用語をいくつも使って、学者と学生が科学の定義について対話している。

「難しいじゃないですか」

「桃花なら、二年生になれば読める」

「そうなればいいですけど」

 桃花は文庫本をちゃぶ台に置くと、晴明の正面に回って正座した。

「晴明さん。猫絵を描くのは諦めました」

「それが良かろう」

「かわりにお願いしたいことがあります」

「何だ」

「友だちの家に、鼠が出るみたいなんです。駆除会社の人を呼ぶらしいですけど、もしそれでどうにもならなかったら、追い払ってもらえませんか」

「だから猫絵と言ったのか。どこの娘だ?」

「大津市の里奈ちゃん……引っ越してくる前、ずっと仲良しだった子です。これ手紙」

 バッグから出した白い封筒を、晴明に見せる。それにしても「仲良しだった」という過去形は、胸に何かがつっかえる感じだ。

「高校生活は順調みたいで良かったんですけど、お家の窓の外でキィキィ、トントンって音がするって。家の人に話したら、『たぶん鼠だから駆除の人を呼ぶ』って話になって……晴明さん?」

 晴明は桃花の持っている封筒を凝視して、黙っている。

「何かあるんですか?」

 手に持った封筒と、晴明を見比べる。

「その手紙は、東から届いたのだな? 東山山麓の向こう側から」

「たぶんそうですよー。大津中央郵便局の消印が押してあります」

 東山山麓の東側が、滋賀県大津市だ。西側が京都市で、おおざっぱに言えば峠付近が県境にあたる。

「封筒に瘴気が残っている。ごく薄いもので心配は要らないが」

「しょうき?」

「病や災いをもたらす毒気のことだ。逢坂の関の結界が弱まっているのかもしれん」

 言うが早いか、晴明は立ち上がった。 

「え、晴明さん。逢坂の関って? 百人一首の歌に出てくる……?」

「そうだ。京都府と滋賀県の境界。二つの坂が出会う峠」

「近くじゃないですか! わたしも行きます! 里奈ちゃんの身に何か……」

 病、災い。晴明の言った不吉な言葉が頭をよぎる。

「慌てるな。その娘や家族から、緊急の連絡はあったか?」

「ないですけど、でも」

「さっきの問題集を忘れるな。今度は何も見ずに全問正解、だったな」

「はい……」

 しょげた声で返事をすると、晴明は軽く桃花の肩に手を置いた。

「置いては行かない。桃花が問題を解いている間、私も準備しておく」 

 晴明は胸ポケットから人の形をした紙片を出すと、宙に放った。

 ひらひらと舞い落ちる途中で、水干を着た十歳ほどの少年になる。

 晴明が操る式神の一人、双葉だ。

「いかなる御用」

 双葉は時代がかった言葉で晴明に聞いた。

「逢坂の関が危うい。平安京サル会議の猿たちに伝えろ。私は呪符を用意してから桃花とともにそちらへ向かう」

「御意」

「もう一つ。桃花の友人の家を見てくること。本人からの手紙では、鼠らしき物音がするという話だ」

「御意」

「桃花、さっきの封筒を見せてやってくれ」

「お願いします、双葉君。ここに書いてあるのが、友だちの名前と住所」

「そのあたりなら、分かり申す。ご安心めされ。ももかどの」

 無表情ではあったが、双葉は力強い口調で言った。

「双葉。翼ある者になれ」

 晴明が呼びかけながら窓を開け、双葉が水干の袖をひるがえして走り寄る。タン、と板の間を蹴った姿が一羽の鷹になり、曇り空へ飛んでいく。

「気をつけてね、双葉君」

 桃花が声をかけると、鷹は応えるように宙でくるりと輪を描いた。



 里奈を案じる気持ちを頭の隅へ追いやりつつ問題集に取り組んだ結果、桃花は一問だけ間違えた。覚えたはずの公式を間違えていたのだった。

「晴明さん。一問不正解です」

 隣の和室に声をかけると、晴明が本と和綴じの帳面を持って出てきた。

「惜しい。平常心が必要だな」

「呪符の準備をしてたんですか?」

「ああ。今間違えた問題を明日復習するなら、作り方を教えるが」

「やります!」

「良い返事だ」

 晴明の持ってきた本の表紙には、赤い鶏頭の花が大きく描かれていた。文字通り鶏のとさかに似た花だ。

 本のタイトルは『若冲の「花」』。

 江戸時代の京都に生きた絵師、伊藤若冲が描いた花々を解説した本のようだ。

 帯には「伊藤若冲、享年85。画家人生の最後に描いた167枚の大作 信行寺『花卉天井画』ついに出版」とある。

「この鶏頭、若冲が描いたんですか? 木の板に描いたのなんて初めて見ました」

「信行寺の天井画は良いものだぞ。格子状になった天井板の一枚一枚に、花が一種類ずつ描かれている。牡丹、梅、菊、蓮……全部で百種類以上だ」

「すごい。天井が花でいっぱいじゃないですか」

「正方形の板に円を描き、外側は群青色に塗り、内側には花を描く。すべてこの形式で統一されている。一種の呪符だな」

 晴明が本を開いてみせた。

 濃い群青色で囲まれた円の中に、紅梅の梢が描かれている。別の頁をめくってゆけば同様の形式で牡丹があり、向日葵があり、朝顔があった。どれも多かれ少なかれ絵の具が剥落してはいるが、正方形に描かれた円の中にしっくりと収まっている。

「伊藤若冲って、なんていうか、そのまま着物にできそうな動物や植物を描きますよね。好きです」

「桃の花もある」

 わたしの名前だ、と桃花は思った。 

 頁が勝手にめくられていく。晴明が指さしたのは、白い花を咲かせる桃の小枝だった。梅に似ているが、こちらはすでに細い葉が芽吹いている。

「桃の花を描いてみろ。実際に見た景色を思い出しながら、私の作った形式の中に」

 晴明が帳面を開いた。

 若冲の花卉天井画と同じように、群青色の正方形の中に円形の空白がある。ただし、空白部分にはまだ何も描かれていない。

「筆で描くんですか?」

「いや、普段使っている筆記具がいい。若冲の模写ではなく、自分の思い出の中の桃の花を描く」

 それなら簡単だ。桃の季節はほんの二ヶ月前なのだから。

「今年のひな祭りに、お母さんが生けてた桃ならはっきり思い出せます」

「それでいい。花瓶や背景は描かずにな」

「若冲と同じ形式で、ってことですね」

「そういうことだ」

 桃花は帳面をちゃぶ台に置き、鉛筆をペンケースから出した。芯は軟らかめのBだ。

「若冲の描いた花と逢坂の関って、関係があるんですか?」

「ある。若冲の先祖はもともと近江から逢坂の関を越えて京に来た」

「へえっ。知らなかった」

「そして、若冲の描いた花卉天井画は大部分が左京区の信行寺にあるが、一部は逢坂の関を越えて大津市の義仲寺に寄進された」

「京都から大津へ行ったってことは、わたしとちょうど反対ですね」

「対になる物、縁のある物は陰陽術に使える」

「そう言えば晴明さんの名前も対になってますよね。『晴れ』と『明るい』で……」

 晴れた日に明るい窓辺で咲いていた、白い桃の花を思い出す。

 円の下方からまっすぐに細い枝を描く。

 つぼみを五つ、開いた桃の花を七つ描き加える。

 思い出が、晴明の陰陽術と、伊藤若冲の画術と溶け合っていく。

 十分ほど経って、桃花は鉛筆を置いた。

「できましたよ。桃の花の呪符」

「よし、これで邪気を祓える。効き目は猫絵どころではないぞ」

「え、すごい」

「すぐには使えない。私の設けた形式と、桃花の分身である桃の絵を馴染ませる必要がある。もともと別の存在だからな」

「クッキー生地を寝かせるみたいな話ですね……」

 帳面を晴明に渡した時、掃き出し窓の木枠がカタカタと鳴った。

 縦石と横石が「晴明様、双葉殿がお帰りになりました」「日吉大社のお使いの、飛丸殿もご一緒に」とささやく。

「開けてやってくれ」

 晴明が返事をすると、窓が大きく開いた。湿った強い風が吹きこみ、鷹がゆるやかな坂のような線をえがいて板の間に降りてくる。

「お邪魔いたしまする」

 鷹の背から降りて挨拶したのは、普通の子猿よりもずっと小さな猿だった。名は日吉の飛丸。大津市にある日吉大社の神使であり、京都の鬼門、つまり北東の方角を守る猿たちの一員でもある。

「乗せてくださり、ありがとうぞんじまする。双葉どの」

 飛丸にお辞儀されて、鷹は逞しい頭部を下げた。

「晴明様、それにお嬢。里奈どのの家におりますのは、鼠ではござりませぬ」

「ほう。何だった」

 晴明が伸ばした手のひらへ、飛丸は跳躍した。釈迦の手のひらで暴れる孫悟空のごとく、腕を激しく振る。

「古びた琵琶と太鼓でござった! 一階の屋根の上で、手足の生えた琵琶と太鼓が、自らの体をキィキィ、カリカリと引っ掻いておりましたぞ」

 ――ひっ、怖い。鼠の鳴き声じゃなかったんだ。

 桃花は思わず肩をそびやかした。

「ねえ、里奈ちゃんは? 無事なの?」

「はっ、それが」

 飛丸がぴょんと桃花の方を向く。

「窓から覗かせてもろうたところ、机に本を積んで、勉学に励んでござった。キィキィカリカリの音が大きゅうなると、窓を見て辛そうな顔をしてござった。心が敏感になっておるのか、聞こえてしまうようでござる」

 心が敏感に、と聞いて思い至った。里奈もまた、高校最初の中間テストに臨んでいる時だ。

「早く何とかしてあげたいです、晴明さん。里奈ちゃんもテストが」

「ああ」

 晴明は飛丸をちゃぶ台に下ろした。「楽器か」とつぶやき、胡座をかく。

「桃花。京都と滋賀の間に、最近何か変わった出来事はあったか」

「間、ですか? 京都と滋賀別々じゃなく」

「そうだ。たとえば、琵琶湖から京都へ流れる琵琶湖疏水。たとえば、京都と滋賀を結ぶ道路や線路。大規模な催しや工事のような、珍しい出来事はなかったか?」

 ――晴明さんが、ちょっと難しそうなことをわたしに質問してる! 

 嬉しくて小躍りしそうだが、そんな場合ではない。桃花は、最近見聞きした情報を必死で思い返した。

「えーと、琵琶湖疏水って言えば……昔通ってた船便が復活するらしいです。明治時代から昭和の途中まであった、小さい船」

「復活は、遊覧船としてか?」

「そうです。地下鉄のドアにもステッカーが貼ってありました。ふるさと納税をしたら乗れるとか何とか」

「話題になって、金や広告も動いているわけだ。他には?」

「うーんと」

 髪のリボンを弄びながら考える。

「桜や紅葉のシーズンは京都のホテルが混んでて泊まれないから、大津のホテルが人気らしいです。JRなら、十分くらいで行けるって」

「そうか。分かってきた」

 晴明は、ちゃぶ台に座る飛丸とうなずき合う。   

「人の行き来が盛んになったために気が乱れ、結界が揺らぎ、瘴気が生まれる。よくある話だ」

「道路やら線路やら水路で、悪しき気が運ばれておるのでござるな。近江から京へ」

 飛丸は握った拳を動かし、自動車のハンドル操作のまねをした。

「一体、蝉丸は何をしているのだ」

 晴明が苦々しげに言う。飛丸が「おお」と両手を打ち合わせる。

「あの楽器どもは、蝉丸神社のお使いでござろうか。ならばもともと、良き者でござりましょう」

「うむ。瘴気に酔わされたのだろう」

「もうすぐ蝉丸神社は祭りでござる。蝉丸様の守りが手薄になっておるのやも」

 庇うような口調で飛丸が言い、晴明が嘆息する。

「あのう、蝉丸さんて、もしかして、百人一首の和歌の作者ですか」

「ああ。よく知っているな」

「小学校でも中学校でも、百人一首かるたの大会があったから……。行くも帰るも何とかっていう和歌ですよね」

「これを機に覚えなさい」

 晴明が鉛筆を手に取り、楷書で和歌を書き綴る。


 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関


「あ、これです。簡単な言葉ばかりなのにどう訳せばいいか分からなくて、不思議な歌ですよね」

「逢坂の関という土地をひたすら詠い、関所の効き目を強める和歌だ。語順を変えたり言葉を繰り返したりすれば、意味が通りやすくなる」

 晴明は鉛筆をくるくると手で回してから、口を開く。

「……行く者も帰る者も、ここで出会って別れていく。これが逢う坂と書く、逢坂の関。知る者も知らぬ者もいるけれど」

 飛丸が小さな手でパチパチと拍手した。その隣で、いつの間にか少年に戻っていた双葉が一緒に拍手をする。

「まさにまさに。三十一文字で逢坂の関を表すまじない歌の、見事な読み解きでござります」

「元の歌が良いからな。『これやこの』で和歌一首分の結界を切り開き、『も』の繰り返しで結界を強め、『逢坂の関』で締めくくる。術としても完璧だ」

 基準がよく分からないが、晴明がここまで人を褒めるのは珍しい。桃花の胸にも、蝉丸という歌詠みへの尊敬が湧いた。

「蝉丸さんって、琵琶を持って頭巾をかぶったお坊さんなんですよね」

 桃花は百人一首かるたの絵札を思い出して言った。おぼろげな記憶では、目を閉じた初老の僧が描かれていたはずだ。

「盲目の琵琶法師ということになっているようだな。一部で」

 晴明の一言で、絵札のイメージは雲散霧消した。蝉丸とは何者なのか。

「琵琶法師じゃないんですか、ほんとは」

「あれは坂の神、境の神であり、古代の楽人たちの守り神だ」

 晴明が鉛筆で、ルーズリーフに『坂』『境』と書いた。

「坂と境なら、分かります。坂が京都と滋賀の間にある東山山麓で、境は、峠の部分。境界線ですよね」

 双葉と飛丸が、パチパチ、と拍手してくれた。

「ありがと。でも晴明さん、古代の楽人の守り神ってどういうことですか? 楽器を演奏する人なら、山じゃなくて宮廷にいそうじゃないですか」

「今の山とは違う。人が行き来する国境は、京都駅や四条烏丸の交差点のようなものだった」

「あっ。四条烏丸でギターを弾いて歌ってる人、時々います。京都駅も広場や大階段でコンサートをするらしいです」

「うむ。人の多く行き交う場所には芸ある者たちが集う。関所が置かれた大化二年、逢坂山は楽人たちが芸を競う場だったらしい」

「たいか、にねん?」

「西暦で言うと六四六年。飛鳥時代だな」

 ――平城京より前だっ。大化の改新の「大化」だ!

「さて、もう良かろう」

 晴明が立ち上がる。

「飛丸、ご苦労だった。双葉に乗って日吉大社に帰るが良い」

「はっ」

 両袖を舞わせて、双葉が一羽の鷹になる。飛丸は「失礼いたす」と跳び上がり、鷹の背にしがみついた。ガラス戸がガタガタと開き、縦石と横石夫婦が「飛丸どの、おおきに」とささやく。

「またお会いしましょうぞ。じきに今月の平安京サル会議がござる!」

 小猿を乗せた鷹が舞い上がり、暮れはじめた空へ飛んでいく。晴明が命じるまでもなく、掃き出し窓が閉まっていく。

「晴明さん、わたしたちは? この間みたいに、鷹とフクロウになります?」

 若干の期待をこめて聞いたが、晴明は「電車で行く」と無愛想に答えた。

「桃花用の呪符を作るのは少し骨が折れた。車内で寝たい」

「そんなに疲れるのに、わざわざ作ってくれたんですか? 若冲のフォーマット」

 琥珀色の目が、眠そうにまばたきをする。

「鉄は熱いうちに打て、と諺にあるだろう。桃花が友人のために術を使いたい、と思っている時を逃したくなかった」

「嬉しい……」

 ここまで考えてくれたのだから、試験を頑張ろう、とあらためて決意する。

「野菜の旬を逃してはいけない。それと同じ理屈だ」

「や、野菜? まあいいですけど」

 桃花は一旦家に戻り、母親の葉子に「晴明さんと大津の史跡を見てくる」と告げた。

逢坂山の蝉丸神社だ、と言うと、「山やなあ。もうちょい先の浜大津まで行って、鮒ずし買うてきて」と頼まれた。

 ――相変わらず鮒ずし大好きだな、お母さん。

 大阪出身の葉子だが、大津で桃花を産む前後に滋賀県名物の鮒ずしにすっかり惚れこんでしまったらしい。多い日には三食すべてに添えていたという。

 ――待って。じゃあ、晴明さんに初めて会った頃、赤ちゃんだったわたしの体って、ほとんど鮒ずしでできてたの? お母さんのお乳経由で?

 頭部が鮒になった赤ん坊を想像する。ベビー服から出た手足は人間の子と同じでむっちりしている。

 ――いやいや、そんな生き物、いないから。

 晴明に再会して以来、桃花の妄想力は日増しに強くなっているようであった。



 夕闇の住宅街を縫うように列車は進み、やがて低い山々が目立ってくる。隣で腕組みをして目を閉じていた晴明がこっくりこっくりと舟を漕ぎだした頃、列車が小さなホームに止まった。

「着きましたよ大谷駅」

 桃花が一度呼びかけただけで晴明は目を開け、しなやかな動きで立ち上がった。

「蝉丸の気配がする。二代目の蝉丸だ」

「二代目? 二人いるんですか?」

「初代蝉丸は逢坂山の神。関所をずっと見守ってきた『これやこの』の和歌の作者でもある。それを琵琶の音に乗せて唄ったのが平安初期の琵琶法師。二代目の蝉丸だ」

「作詞した神様と作曲した人、ものすごーく、年が離れてますね」

「うむ。唄が見事だったので、結界を強めるための二代目として見初められたそうだ」

 誰もいないホームに降り立つと、見覚えのある絵が壁に掲示されていた。

 赤鬼が黒い僧衣をまとい、腹に太鼓を下げている。

 藤の花を肩に背負った娘が、後ろを振り返っている。

 大津絵と呼ばれる、江戸時代に生まれた名物だ。

 大津の土産物として喜ばれた素朴な民画で、特に有名な図案がこの『鬼の寒念仏』と『藤娘』である。

 ――大津絵を見るの久しぶり。京都では全然見ないから。

 山を一つ越えただけの大津市では、駅や商店など様々な場所に大津絵が飾られている。大津絵に詳しいわけではないが、やはり幼い頃から見ていた物は慕わしい。

 無人の改札を出て右に折れると、舗装された上り坂があった。坂の頂上近く、左側に「蝉丸神社」と大きな石柱が立っている。

「坂の神様って言っても、案外ゆるやかな坂なんですね」

 石柱へ歩いていきながら桃花が言うと、晴明は「違う」と首を振った。

「よく見ろ、桃花」

「え? え?」

 石柱の前まで来てみると、壁かと思うほど急な、長い石の階段があった。

「これ、上れるんですか?」

「角度で言えば六十五度くらいだな。右を見てみろ」

「木がたくさん生えてるようにしか……あれ?」

 晴明の指さす方をよく見ると、右に向かって高くなっていく崖があった。舗装されたゆるやかな上り坂は、山の中腹に過ぎなかったのだ。

「蝉丸神社の社殿は、あの小山の頂上にある」

「関所破り、絶対無理そうです」

 イチョウの大木が風にざわめく。いつから生えているものだろう、と思った時、階段の上に人影が立った。

 黒衣と袈裟をはためかせ、両肩まで垂れる頭巾をかぶったその人は、やはり百人一首の絵札に似ていた。

「久しいな、二代目蝉丸」

 晴明が人影を見上げて言う。

「お久しゅう」

 闇に沁みていくような、よく通る男性の声が降ってきた。

「そちらの神使が瘴気にかぶれたぞ。琵琶と太鼓だ」

「なんと。見回りに行かせた者が、二人戻ってこぬと思うたら。ご足労をかけて申し訳ありませぬ」

 二代目と呼ばれた蝉丸の手には、琵琶があった。

 石段を下りてくる足取りはしっかりしているが、両目は閉じられている。琵琶法師はみな盲目であることを、桃花は思い出した。

「もうすぐ祭りがあるそうだな。そのための見回りか」

 晴明の前に立った蝉丸法師は、深々と頭を下げた。年の頃は三十くらいだろうか。

「さようにおざります。現代の楽人や芸人を集めて芸能祭をいたしますので、会場や出演者に災厄が及んでおらぬか、神使たちを見回りに行かせたのです。このようなことになるとは」

 蝉丸法師の肩に手を触れて、晴明は「気にするな」と励ました。

「この娘に聞いたところ、琵琶湖疏水の船便が復活するそうだ。宿を求めて、京からの人の流れも増しているらしい」

 蝉丸法師が瞑目したままこちらを向いた。象牙を彫ったように硬質で、品の良い顔立ちであった。

「現代のおとめごでおざりますな。お初にお目にかかり申す」

「初めまして」

 桃花はお辞儀をした。たとえ本当に目の見えない相手でも、そうしたかった。

「山の神様の蝉丸さんも、ここにおられるんですか?」

 蝉丸法師が苦笑いを浮かべた。

「初代様はこの頃、社殿の奥で寝ておられます。祭りの前に力をためると」

 ――神様も大変みたい。

 冥官も神も、仕事をこなすのは難儀なのかもしれない。高校生活も、さして安楽ではないのだけれど。

「蝉丸法師。神使たちのもとにこの娘を飛ばせてよいか。破邪の呪符を持ってきた」

「わたしの友だちの所にいるんです」

「やや、朋輩に迷惑をかけてしもうたとは。どうぞお頼み申します」

 桃花の行く手を遮るかのように、晴明が左腕を伸ばす。肘のあたりには、一羽のフクロウが止まっていた。

「桃花」

 晴明が呼ぶ。返事をする前に、桃花はフクロウとなってその腕に乗っていた。

「例の呪符だ。落とすなよ」

 空いた手で晴明が差しだしたのは、四つ折りにされたあの桃の花の呪符だった。

 嘴でくわえた時、全身に力がみなぎった気がした。

「行け」

 足場にしていた晴明の腕が持ち上がり、桃花は夜風に翼を広げた。

 体が上昇し、蝉丸神社の急な石段も、小山の上の社殿も次第に小さくなっていく。

 里奈の家はもちろん覚えている。

 もっと北の、かるた大会で有名な近江神宮を越えたあたりだ。そこは、桃花が生まれた土地でもある。

 ――待っててね、里奈ちゃん。それに、琵琶さんと太鼓さん。

 瘴気に中てられたという神使たちに対して、もう恐怖は湧いてこない。

 嘴にくわえているのは、晴明と作った呪符なのだから。

 青葉の香る風が吹く。見下ろせば、街の明かりが少しずつ灯りはじめていた。まるで琵琶湖を縁取るように。



 音だけ聞けば、まるで鼠だ。

 キィキィ、カリカリ。チ、チ、チ。

 琵琶と太鼓が、細い腕で自らの体を引っ搔き、突いている。

 瓦屋根の上で繰り広げられている光景は、さながら百鬼夜行の一部のようだ。

 ――呪符を持ってきましたよ。破邪の呪符ですよ。

 琵琶と太鼓の間に舞い降りる。

 呪符が嘴から離れ、開いていく。

 円の中に描かれた桃の花が、ビシリと音を立てて瓦屋根に貼りついた。

「おお、空気が美味しい」

 ――ん? 

 薄い衣をまとった女性が、琵琶を抱えて深呼吸している。濃いまつ毛がきれいに生えそろって、唇はふっくらとして色っぽい。

 ――あなた、蝉丸神社のお使いですか?

 問うと、嘴からホウホウと鳴き声が漏れた。

「あなたは晴明様のお使いだろうか?」

 話しかけてきたのは、布の冠をかぶった男性だった。胸に太鼓を抱えている。

 ――どうして分かったんです?

 男性の手には、桃の花の呪符がある。

「剥がしてみたら、裏に晴明桔梗紋があったので」

 なるほど、小さく五芒星が描かれている。安倍晴明の紋だ。

 ――そうです、お使い。式神じゃなくて高校生ですけど。

 桃花はこくこくとうなずいた。フクロウの体ではうまく首肯できず、お辞儀のような仕草になる。

「わしらは、琵琶の精と太鼓の精。元の姿に戻してくれて礼を言うよ」

「ありがたいねえ」

 琵琶の精が、妖艶に微笑む。

「我々は、むかしむかし逢坂の関に埋められた、楽人たちの楽器。化けて蝉丸様のお使いとなった存在。へんてこな姿になって体が重くなってしまって、心まで変な具合になって、恐ろしかったよう」

 ――もう大丈夫ですよ。蝉丸法師さんが心配してます、待ってますよ。

「おや、呪符が役目を終えたようだ」

 太鼓の精の手の中で、呪符がほろほろと崩れていく。桃の花が散るように。

 ――せっかく作ったのになあ。ま、いいか。

「早う参らねば、蝉丸神社へ」

 太鼓の精が言い、琵琶の精も「蝉丸様と蝉丸様のもとへ」と節をつけて言った。

 ――あっ、わたしは里奈ちゃんが心配なので、少しここで様子を見ていきます。

 窓辺をちらちらと気にする仕草をしてみせる。

「まだお仕事があるのねえ。では、ありがとうねえ」

 羽衣のように、琵琶の精の衣が風に舞う。

 琵琶の精と太鼓の精は手を取り合うと、溶けるように姿を消していった。

 ――カーテンが閉まってるなぁ。物音が聞こえないかしら。 

 と思った途端にカーテンが開いて、桃花は跳び上がりそうになった。

「わ、フクロウ。まだ西の空が赤いくらいなのに、早いなぁ」

 里奈がガラス窓を開けて、こちらに注目している。

 桃花は精一杯普通のフクロウを装おうとして、困った。こういう時、野生のフクロウはどう振る舞うのだろうか。

「おいで、おいで」

 手招きされて、思わず一歩窓辺に近づいた。

「ふふっ」

 里奈が笑った。柔らかい笑みだった。

「駄目じゃない、もっと警戒心持たなきゃ。桃花みたいな子だねー、君」

 ――り、里奈ちゃん……。

 そういえば、素直すぎるだの、だましやすそうだのと言われたことがある。京都人に悪さをされないか心配だ、とも。

 ――あのね、住んでみたら、京都は楽しくて、勉強がちょっと大変で、晴明さんがいて、面白いよ。

 ホウホウ、ホウホウと鳴く桃花を、里奈は不思議そうに見ている。

「里奈、どうしたの?」

 ドアをノックする音と、聞き覚えのある女性の声がした。

「あ、お母さん。入っていいよ。フクロウが来てるの」

「うそっ?」

 小さく声を上げて、里奈の母親が窓辺に出てきた。

 ――わ、お久しぶりです。

 ホウと一声鳴いた桃花に、里奈の母親は「まー、本物」と目を丸くした。

「あのね、鼠の声が急にやんだから窓を開けてみたら、この子がいたの」

 里奈が言うと、母親は「あっりゃあ」と驚きの声を上げた。

「それは、あれよ。このフクロウが、鼠を退治してくれたんじゃない?」

「えっ」

「フクロウは鼠を食べるんだよ。ねえ、フクロウちゃん」

 ――食べてないけど、退治したことに、なるのかなあ。

 桃花が首を傾げていると、里奈の母親も首を傾げた。

「ねえ、里奈。この子全然逃げない」

「私もそう思った」

「ひょっとして、飼われてる子が逃げた? 保護してやらないと」

「大変っ」

 里奈が、いきなり身を乗り出して手を伸ばしてきた。

「こっちおいで! 烏か何かに食べられちゃうから」

 ――ああっ、違うよ里奈ちゃん! 優しいけどそうじゃないよ!

 潮時だ。桃花は翼を広げて舞い上がった。

 晴明の待つ、蝉丸神社へと。

 ――そういえば今回は、飛んでる間に晴明さんの声が聞こえなかったな。最初にフクロウになった時……西陣へ飛んだ時は、飛行機の管制官みたいに色々話しかけてくれたのに。

 寂しくもあり、一人で任務を遂行できたと誇らしくもある。



 蝉丸神社に戻ってみると、境内のベンチに晴明が一人で座っていた。

 ――どうしたんですか、蝉丸法師さんは? 琵琶さん太鼓さんは?

 ベンチの背に舞い降りる。

 晴明は手を伸ばしてきて、桃花の頭を人差し指で一回だけ撫でた。

「ご苦労だった。蝉丸法師も、神使たちも、社殿の中で休んでいる」

 ――じゃあ、晴明さん一人で待ってたんですか……って、あれ?

 気づかなかったが、ベンチに紙袋が置いてある。

 葉子の好きな店の、鮒ずしだ。浜大津まで行かないと売っていないはずの。

「桃花が飛んで行ってすぐ、浜大津まで電車に乗って買ってきた」

 よく見れば、晴明の前髪がやや乱れている。

 ――晴明さん、一人で電車に乗ってお買い物できたんですね。お疲れ様。

 ホウホウ、ホウホウ、と桃花は盛んに鳴いた。

「夕食は八時だと聞いていたからな」

 晴明が桃花の眼前に手をかざす。人間の姿に戻す合図だ。

 いつか、うちの夕食に晴明さんを誘ってみよう――と、桃花は決心した。


第六話・了