第一話 雲外鏡の怪


 十一月になり、東京の街を行き交う人々も羽織や頭巾姿が増えてきた。昼間の日差しはまだ暖かいが、日が暮れると唐突に冷え込むのだ。朝晩には、冷たい風を避けようと、首をすくめ背中を丸めて歩く人の姿も多かった。けれど今日、浅草の鷲神社は、そんな寒さなど吹き飛ばしてしまうほどの熱気に包まれている。昼間だということもあり、綿入れの着物では少し暑いくらいだ。

 今日は酉の日。正月を迎えるための最初の祭といわれる酉の市の日である。十六歳にして初めてこの祭へやってきた井上香澄は、あまりのにぎわいに頬を紅潮させ、きんちゃく袋をぎゅっと胸に抱きしめた。

 酉の市とは、日本武尊を祀る神社や鷲妙見大菩薩を祀る寺に、十一月の酉の日に立つ市だ。今年は十一月一日の一の酉に始まり、十二日おきに三の酉まである。今日は十三日、二の酉の日だった。

 鷲神社は開運や商売繁盛にご利益のある天日鷲命を祀る神社なのだが、日本武尊が東征の戦勝を祈り、また戦に勝利した帰路、武具の熊手を奉納してお礼参りをした日が十一月の酉の日であったという故事から、その日を例祭日と定め、日本武尊を併せて祀るようになったという。とはいえ、参拝客のどれくらいがいわれを気にしているのかはわからない。

 どこからこんなにも集まってきたのかと思うほどの人波は、息をするのも苦しいくらいだ。江戸の人の祭好きは、時代が明治になろうとも、西洋の文化が流れ込んでこようとも、そう簡単に変わったりはしないようだ。血が騒ぐ、というのだろうか。

「にぎわってますね」

「さすがに酉の市となるとな」

 香澄の言葉に応じたのは、隣を歩く内藤久馬だ。娯楽記事を中心に掲載する小新聞を発行している日陽新聞社の記者で、香澄の同僚である。まだ和の装いが主流の中で、黒茶色の三つ揃えに、同色の山高帽をかぶっている。けれど、すれ違う女性が吸い寄せられるように彼に目を向けるのは、めずらしい洋装のためではなく、彼の整った顔立ちとすらりとした体躯のせいだろう。しかし彼はそんなまなざしを気にもとめない。

 十人並みを自負する香澄は、うらやましいような腹立たしいような、なんとも複雑な気持ちになる。人目を引く彼の隣が場違いのようにも思えた。

 彼との出会いは半年前。まだ春のこと。久馬が香澄の幼馴染である桜野にかかわる記事を書いたことがきっかけだった。それから彼が人助けのために、真実だけでなく、怪異を織り交ぜた嘘の記事を書いていることを知った。

 結果、香澄は彼に興味を持ち、その人助けに協力したいと申し出たのだった。一緒に新聞社で働いているのは、外出する理由を家族に誤魔化さなくてもいいようにするためである。だからどんなに場違いだと感じようとも、彼と共に行動することが多いのは仕方がないので、慣れるしかなかった。

 久馬は行きかう人より頭ひとつ分背が高く、そうなれば当然歩く速さも違う。香澄を気遣ってかゆっくり歩いてはくれているが、それでも気を抜くと人波に流されてはぐれてしまいそうだ。

 懸命に久馬を追いかけていた香澄の手が、温かいものに包まれる。

「おい、はぐれるなよ」

「ひゃあ……っ!」

 大きく硬い手に手を握られて、香澄は思わず妙な悲鳴をあげた。

「ひゃあ、ってなんだ。ひゃあって。失礼な奴だな」

「び、吃驚しただけです」

 驚いたけれど、香澄は彼の手をふり払わなかった。

 男性と手を繋ぐなど、幼いころ兄にされたことくらいしかない。久馬の手に触れたことはある。なんなら握ったことだってあるが、こんな往来ではさすがになかった。

 嫁入り前の娘としては、家族でもない男と手をつないで歩くなんて、言語道断である。でも……。

 久馬は単純にはぐれないように気を遣ってくれただけなのだろうが、ちょっと特別扱いされているような気がしなくもない。別にそれが嬉しいわけではないけれど。

「おまえは子どもみたいに迷子になりそうな気がする」

「いくらなんでも大丈夫ですよ。はぐれたら鳥居の所で待ち合わせにしましょう」

「ったく、面倒くせえな」

 言いながら久馬は香澄の手を離した。少しだけ残念な気がしたが、香澄はすぐに気を取り直した。

 無事本殿に参拝し、露店の並ぶ参道へ向かう。香澄はただ久馬を見失わないように、その背中を見つめて歩くばかりだ。少しでも目を離したらはぐれてしまいそうな人混みで、他に目を向ける余裕などない。

 何度かこの地を訪れているらしい久馬の足取りに迷いはなかった。

「久馬さんは毎年来ているんですか?」

「江戸のころからよく来ていた」

「それも修行ですか?」

「そうだ」

 久馬は奉行所の与力だった父の跡を継ぐために学んでいたと聞いている。情報収集をするために盛り場通いもしていたらしいのだが……。

「そんなこと言って、本当は楽しんでいたんでしょ?」

「そうでもない。正直なところ、役目だから仕方ないと思っていた」

 めずらしくも久馬は、真面目な声で答えた。

 久馬の過去を知る人たちは口々に、彼は遊び人であったと言う。久馬も『修行だった』とは言うものの、盛り場に足を運んでいたことを否定したことはない。けれどいつもならばもっと、茶化してくる相手にあわせて、呆れたように応じるのに。

「侍が町人の祭に行くなんて、野暮なことだと思っていたころもあったからな」

「え? そうなんですか?」

 香澄は思わず目をまたたかせる。

 彼は、女である香澄が男の職場で働くことも、同僚とはいえ男の隣を歩くことも気にしない。それなのに、そんなささいなことを気にしていたころがあったとは思わなかった。

 ――いや、当時の武士にとっては、ささいなことではなかったのかもしれないが。

 久馬の言う『祭』とは、神輿をかついだり、縁起物を買ったりというもののことだ。にぎやかに騒ぐのは町人の祭で、武士が楽しむものではなかったのだ。騒いだり喧嘩をすることまで含めて祭と考えていた町の人たちの中に二本差しが混ざるのは、野暮なことだと考えられていた。

「もしかして実は私のこと、『女が男の職場で働くなんて!』って思ってるとか?」

「今は思っていない」

「じゃあ昔なら思ったってことですか?」

「まあな」

 あっさりと認めた久馬に、香澄はむうと膨れる。今と昔では、彼の考えはいくらか違うようだ。

「昔は案外、真面目だったんですね」

「案外ってなんだ。本当に失礼な奴だな」

 今の久馬から真面目な姿が想像できないのは、日頃から怠けている彼が悪い。だが、昔の久馬が本当に真面目だったというのであれば、盛り場で遊ぶのは今ほど上手くなかったのではないだろうか。

 香澄はぽんと手を打った。

「あ、わかった! 侍だ町人だなんて言って、ただいきに遊べなくて悔しかったんでしょ?」

「どうしてそうなる」

「だってほら、真面目な人って、遊びに不器用じゃないですか」

「ふん」

 久馬は鼻を鳴らしただけで応じなかった。否定されなかったので、おおよそ正解なのだろう。真面目だっただけではなく、そこに少年らしい視野の狭さが加わっていたのに違いない。

 当たり前のことだが、久馬にだって少年時代はあり、そのころの彼が、今の彼と違っていてもなんら不思議はない。人は成長し、変わるものだ。香澄が腹立たしいばかりだった久馬と、こうして嫌味の応酬ばかりでない会話ができるようになったように。

「でも、真面目な久馬さんなんて、本当に思い浮かびません。遊び人だったんじゃないんですか?」

「俺が遊び人と思われているのは、そういう相手が気に入らなくて、つい悪ぶった態度をとっていたせいだろうな」

「あ、そのひねくれてる感じは思い浮かびます」

「おまえな」

 久馬は拗ねたようにそっぽを向いた。

「いつも弥太郎が、剣術も学問も俺のほうがあいつより優秀だったって言っているだろうが。何も片手間でいい成績をとっていたわけじゃない。ついでに遊びも完璧にしたいと思っていただけだ」

 弥太郎というのは久馬の同僚である記者だ。久馬よりいくつか年下で童顔の青年は、彼と同じ剣術道場に通っていたらしい。少年時代からの知り合いのため、弥太郎は何かにつけて久馬の過去の悪行――もとい、素行を、香澄に教えてくれるのだ。

 十代の久馬だけでも想像できないが、それがさらに真面目だと言うのだから、もはや別人である。当時は袴姿に髷を結っていただろうし、その姿はまったく思い浮かばない。

 小首をかしげて考え込む香澄を久馬が急かす。

「ほら、さっさと熊手を買って帰るぞ。遠方から来る参拝客も多い分、厄介な輩がいてもおかしくない。うかれた奴らに絡まれたら面倒だ」

「はい」

 今日は勤め先である日陽新聞社の社長に熊手の購入を頼まれてここまでやってきたのだ。正確に言えば、頼まれたのは久馬であり、香澄は好奇心で彼についてきただけだが。

 熊手は酉の市名物である、福をかき集めるために縁起物で装飾された華やかなものだ。多くは注連縄に四手、おかめに米俵が取りつけられている。開運や福を願う熊手を手にした人々は皆笑顔で、それを見ているだけでも、なんだかいいことがありそうな気になれた。

 露店に並ぶ大小さまざまな熊手に目を向けて、香澄は小首をかしげる。

「どんな熊手を買うのか決まってるんですか?」

「……まあ、適当なのでいいんじゃないか」

 久馬のまなざしはいかにも面倒くさそうで、ひとかけらのやる気も見られない。そもそも怠け者の彼に商売繁盛の縁起物を選ばせること自体が間違っている。

「もう。それじゃ駄目ですよ。記事の種をいっぱい掻き集めてもらうんでしょう?」

「そんなに集めたら忙しくなるだろうが」

「…………」

 呆れてものも言えない香澄に、久馬は別の露店へ顎をしゃくる。

「さっさと切山椒でも買って帰ろう」

 切山椒もまた酉の市の縁起物で、もち米に砂糖と山椒の粉を混ぜて作った菓子だ。

 久馬に任せておいては、日陽新聞社の繁盛は望めそうにない。ここは一緒に来た自分がしっかりしなくては。

 香澄は拳を握って宣言する。

「値切りましょう」

「おい」

「だって、『まけた』『買った』が酉の市の醍醐味なんでしょう?」

「それはまあ、そうなんだが」

 酉の市の熊手のいわれに日本武尊の東征勝利が関わっているところからきた駄洒落だが、勝負の勝った負けたにかけて値切るのがいきな買い方なのだと聞いたことがあった。値切った分を祝儀として店側に渡すのが江戸っ子の買い方らしい。

 香澄は昨年の酉の市で久馬が買ってきたという熊手の大きさを思いだしながら、並べられたものに目を向ける。

「えっと、編集室にある今の熊手はあれくらいの大きさだから……」

 この熊手、前年よりも小さいものを買っては、運気が落ちると言われている。せめて同じ大きさのものを買うのがいいらしい。年々大きく高価なものを買ってもらえるようにと商売上手な店主が言いだしたのかもしれないが、縁起物にだし惜しみをしているようでは、たしかに商売は繁盛しそうにない。

 露店に並んだ数々の熊手の中から、目の合った一本を香澄は指さした。

「あれ。可愛いから、あの招き猫のにしましょう」

「何言ってる。あっちのおかめだろ。おまえにそっく……いてっ!」

 香澄は久馬の足を思いっ切り踏みつけた。

「誰がなんですって?」

「おまえな! この靴、いくらすると思ってるんだ!」

 舶来物の革靴は高級品だ。彼の給料から考えるとかなり奮発したことがうかがえる。

 だが、それとこれとは話が違う。いくら久馬の靴が高かろうと、それを踏まれるようなことを言った彼が悪い。

 ぷいっと久馬から顔を背けて香澄が熊手選びを再開すると、店主がにやにやしながら話しかけてきた。

「仲がいいねえ」

 丸顔の好々爺は、こっそりと久馬に耳打ちする。

「嫁さんには負けておくのが夫婦円満の秘訣だぜ」

「嫁じゃありません!」

 全然内緒話になっていない耳打ちの内容に、香澄は思わず反論した。熱くなった頬を両手で押さえる。香澄の剣幕に驚いたのか目を真ん丸にした店主は、声をたてて笑いながら、香澄が初めに指さした招き猫が飾られた熊手を抜いて差しだした。

「ほら、こいつだろ? いいところの縁談を招いてくれるように願っとくよ」

「それは……」

 つい先月、香澄は見合いをしたばかりだったりする。相手は文部省に勤める兄の同僚だった。幸いにも相手のほうから断ってくれたのだが、その理由は、現在隣にいる久馬が香澄の想い人だと勘違いされたためだった。久馬が香澄のために縁談相手の誤解を招いてくれたのだから、想い人が彼という部分は全力で否定したかったが、残念ながらできなかった。

 とにかく体力も精神力も消耗したので、しばらく縁談は遠慮したい。

 ちらりと横目で見た久馬は、縁談と聞いても顔色ひとつ変えていない。ふたたび香澄に縁談が舞い込んだりしたら、次もまた助けてくれるだろうか。

 だいたい、嫁にいけば新聞社を辞めなければならなくなる。そうしたら久馬に協力することもできなくなってしまうのだ。だから彼は香澄の縁談の邪魔をしてくれた。それだけのことだ。残念ながら、香澄に対して特別な感情があったからというわけではない。

 ――残念? 残念ではないけれど。

 いや、そもそも、招き猫が招く縁談が香澄のものとは限らない。久馬だって妻帯していておかしくない年齢である。彼に縁談がくることだってあるかもしれない。そうしたら久馬は、それを受けるのだろうか?

 ――それはちょっと、なんか……。

「何を百面相してるんだ?」

 久馬に声をかけられて、香澄は飛びあがって驚いた。

「きゅ、久馬さんにも縁談がくるかもしれないとか、そしたらどうするんだろうなーとか、なんでか複雑だなーとか、考えたりしてませんよ!」

 あまりに焦って、ついつい正直にすべて話してしまった。慌てて口を押さえても手遅れである。

 久馬がひょいと眉をあげた。

「俺に縁談がきたら、困ることでもあるのか?」

「あ、ありません! むしろ早くお嫁さんをもらったらどうなんですか!?」

 力一杯否定する香澄に、久馬はわずかに口の端を持ちあげる。そんな二人を見ていた店主が大げさなしぐさで額をたたいた。

「こりゃ、まいった! 負けたよ! 持っていきな!」

「えっ? 何がですか?」

 わけがわからないままに熊手を押しつけられ、香澄は目をまたたく。一体店主は何に負けたと言っているのだろうか。意味がわからない。しかし久馬は驚くこともなく、財布から紙幣を取りだした。

「代金です。釣りはいりませんよ」

「ありがとよ! 仲よくな!」

「はい?」

 店主の考えが理解できないまま首をかしげる香澄の手から、久馬は熊手を取りあげた。肩に担ぐようにして歩きだした彼の後を、香澄は慌てて追いかける。

「な、なんだったんでしょうか?」

「悪いことを言われたわけじゃないから、気にするな」

「そうですけど……」

 わからないことは気になるではないか。うむむと考え込んでいた香澄だったが、人混みの隙間に見知った男を見つけて声をあげた。

「艶煙さん!」

「よう、艶煙」

「これは、久馬さんに香澄さん」

 参拝客の間から現れたのは、長い黒髪をひとつにくくった、妙な色気をまとわせる男だ。裾に不気味な髑髏が染め抜かれた黒い袷に、黒無地の長羽織を羽織っている。一見地味に見える羽織だが、きっと羽裏の意匠は奇抜な妖怪の画なのだろう。

 妖怪好きの彼は、怪異物ばかり演じる芝居小屋、縁魔座の役者である芝浦艶煙だ。久馬と共に人助けをする仲間である。

 彼は香澄たちの前まで歩み寄ってくると、袖口で口元を押さえてしなをつくった。

「二人そろって酉の市とは、仲のよいことですねえ」

 意味ありげに笑う艶煙に、香澄はきっぱりと告げる。

「いえ。社長に頼まれたからです」

「なんだよ。おまえが『行ったことがないから行きたい』とか言って、勝手について来たんだろうが」

 久馬の反論が正しいが、自分が久馬と一緒に祭に行きたがったと思われるのはなんだかいやだ。――というか、恥ずかしい。

 なので話を変えることにする。

「聞いてくださいよ、艶煙さん。久馬さんったら、この熊手の飾り、私に似てるからおかめにしろって言ったんですよ」

「はは。久馬さんは香澄さんのことが可愛くて仕方がないんですよ」

「どういうことですか?」

「男というのは、気になる娘に意地悪をしたくなる困った生き物なのです」

 艶煙は声をひそめて言ったが、その言葉は久馬の耳にもしっかり届いていたようだ。

「ただの嫌がらせだ」

「そうですよ。久馬さんは単に性格が悪いだけです」

 彼は本当に、香澄に対してはいつも意地が悪いのだ。それなのに艶煙はくすくす笑うばかり。

「本当に仲のよいことです」

 艶煙の言葉に唇を尖らせた香澄だったが、彼が熊手を持っていないことに気づいて問いかける。

「艶煙さんは熊手を買いに来たんじゃないんですか?」

「おまえ、そんな。酉の市といえば吉原で……」

 久馬が呆れたようにつぶやき、艶煙は細い目をなお一層細くして笑った。そういえば艶煙からは、甘いおしろいの匂いが香る。その意味に気がついて、香澄は慌てて久馬の言葉を遮った。

「わかりました! もういいです!」

 鷲神社の東には吉原遊郭がある。女を買うのが酉の市にやってくる男たちの楽しみのひとつだと聞いたことがあった。どうやら艶煙はお楽しみの帰りらしい。

 熱くなった頬を押さえ、香澄は話題を変えようとあたりを見渡した。そうだ、切山椒を買わなければ。

「久馬さん、切山椒って……」

 久馬に問いかけようとした香澄だったが、同時に、

「縁さんじゃありませんか?」

 と、声をかけてきた男に口を閉じた。声の主は、商人らしく品のよい羽織姿の見知らぬ青年だった。久馬や艶煙よりいくらか若そうで、まだ二十五歳になるかならないかくらいだろう。手に熊手を持っているところをみると、酉の市にやってきた客のようだ。

 香澄はぱちぱちと目をまたたく。

 縁とは誰のことだろうか。人違いかもしれない。知らぬ名前に香澄はきょとんとしたが、その呼びかけに、

「はい、そうですが」

 と応じる声があった。

 ――艶煙だ。

 青年は艶煙をまっすぐに見て、懐かしそうに目を細めた。

「大黒屋の丁稚だった藤吉です。十年以上前のことで、お忘れかもしれませんが」

「藤吉さん? こりゃ、ずいぶんと立派になられて」

 ぽかんと見あげる香澄のことなど置いてけぼりにして、彼らの会話は続く。

「ありがとうございます。今は宮下藤治郎と名乗っております」

「そうですか」

 細い目をめずらしく見開いて、艶煙は藤治郎に手を伸ばし彼の腕に触れた。わずかに申し訳なさそうに眉がさがる。

「その節はずいぶんとご迷惑をおかけしました」

「何を言っているんですか。今の私があるのは、すべて縁さんのおかげです。本当に、感謝しています」

「いえ、もったいないお言葉です」

 どうやら藤治郎は、かつて艶煙に助けられたことがあるようだ。しかし艶煙は、彼の感謝の言葉に首を左右にふっている。なんだか、艶煙らしくない。けれど再会を喜ぶ彼らに何があったのか訊くのは野暮だと思い、香澄は口を挟むのを我慢した。

「今は何をなさっているんです?」

「浅草で唐物屋丸美屋を営んでおります。洋品も扱っておりますから、近くにお寄りの際はぜひお越しください」

 艶煙の問いかけに答えた藤治郎は、後半は久馬に顔を向けて言った。

 唐物屋とは舶来物を売る店だ。元々は長崎で仕入れた舶来の陶磁器や絵画などを扱い、金持ち相手に高級品を商っていたらしい。しかし次第に小間物なども取り扱うようになり、昨今では庶民が気軽にのぞける店になった。洋装の久馬などは、彼の店の客にはもってこいなのだろう。

 水を差すのは遠慮したかったが、どうしてもひとつだけ知りたいことがあり、香澄はちょいちょいと艶煙の腕をつつく。

「あの、艶煙さん」

「なんですか?」

「縁さんって?」

「あたしの本名です。芝浦縁というのがあたしの名前ですよ」

 彼は役者なのだから、本名と芸名があってもなんら不思議はない。それ以前に、子どもに艶煙なんて名前をつけたのだとしたら、ずいぶん変わった親だと言わざるを得ない。

「藤吉さん――いや、藤治郎さんでしたね」

 呼び間違えた名前を訂正し、艶煙は久馬と香澄を手のひらで示す。

「こちらは与力の内藤様のご子息の、内藤久馬さんです。そしてこちらは久馬さんの同僚の、井上香澄さん」

「どうも」

「はじめまして」

 それぞれ頭をさげて挨拶すると、藤治郎は懐かしそうに目を細めて久馬を見た。

「お父上の内藤様には大変お世話になりました。内藤様はお元気ですか?」

「父は戊辰の役のころに亡くなりました」

 久馬の父は戦に巻き込まれた母子をかばって亡くなったと聞いたことがあった。久馬は以前それを、父らしいと話していた。

 藤治郎が申し訳なさそうに頭をさげる。

「――そうでしたか。何も存ぜず、失礼をいたしました」

「いいえ。あなたがこうして元気に暮らしているだけで、父は喜ぶでしょう。そういう人でしたから」

「ありがとうございます」

 久馬が父親のことを尊敬していたのを、彼が父を語る言葉の端々から感じる。けれど彼は父のようになりたいとも、なれるとも、思っていないようだった。

「少し脇に避けましょうか」

 人混みの中でいつまでも立ち止まっているわけにいかず、艶煙にうながされて香澄たちは参道から離れた。道端に寄った艶煙は、落ち着いたところで懐かしそうに話し始める。

「藤治郎さんに出会ったのは、まだ久馬さんと知り合う前でしたよ。今の香澄さんくらいの年で、縁魔座から離れて一人で盛り場ををふらふらしていたころです」

 香澄は同年代の艶煙を想像しようとした。しかし思い浮かぶのは現在の三十路手前の艶煙だ。彼が盛り場をふらふらしている姿。それは……。

「今とあまり変わらない気がします」

 芝居をしている間はともかく、それ以外はそれほど変わっていないのではないだろうか。

 失礼なことを考えていると、艶煙は大げさに両手を広げ、首を左右にふった。

「そんなことはありません。そのころのあたしは、そりゃもう可愛らしくて、姐さんたちにちやほやしてもらったものです」

「…………」

 疑いのまなざしで艶煙を見る香澄に、久馬が呆れたように口をはさむ。

「それが本当なんだ。化粧なしで女に間違えられるくらいには」

 藤治郎も笑いをこらえているような表情で付け加える。

「私が縁さんを姉と間違えたことが、そもそもの出会いでしたからね」

「そんなに……!」

 今も顔立ちは整っているので、幼いころはさぞや可愛らしかったろうとは思う。だが少女に間違えられるほどであったとは。

「艶煙さんは生まれたときから艶煙さんかと思ってました」

「いやだなあ。それじゃあ、まるで妖怪じゃないですか」

 香澄はじっと艶煙の顔を見つめた。細い目はいつも笑っているように見え、まるで狐のお面のようだ。しかも妖怪好きの変わり者。今日の今日まで彼に子ども時代があったことなど想像したこともなかった。

 彼はいうなれば……。

「……『艶煙さん』っていう妖怪かと」

「せめて煙々羅くらいにしてください」

 聞いたことのない名前が出てきて、香澄は首をかしげる。

「煙々羅?」

「煙の妖怪さ」

 教えてくれたのは久馬だ。香澄は艶煙を見あげた。

 今でこそ煙管をくわえていないが、彼は煙草が吸える場所であればいつでもどこでも煙を吐いている。

「それってそのまま艶煙さんじゃないですか」

「おっと、気づかれてしまいましたか」

 ぴしゃりと額を叩いた艶煙に、藤治郎が笑った。

「縁さんは相変わらずですね」

「ええ、まあ、今も変わらず、身儘気儘にやっておりますよ」

 艶煙はのほほんと応じたが、藤治郎の表情はわずかに曇った。少しだけ迷うような間をおいて、香澄と久馬の表情をうかがい、それからあらためて口を開く。

「今でもまだ……あの男を探しているんですか?」

 香澄にはまったく意味のわからない問いかけだったが、久馬は不思議そうな表情をしていなかった。顔に出ていないだけかもしれないけれど。

 艶煙は肩をすくめて答える。

「片手間ですけれどね」

 艶煙が誰を探しているのか、香澄には知らされないまま話は続く。

「そうだ。再会早々にこんな話をして申し訳ないのですが、また相談に乗っていただけませんか?」

「またと言っても、あたしはお役に立つどころか、ろくなことをしませんでしたが、それでもよければ。何か困りごとでも?」

「私のことではないのですが……」

 そう言いかけ、

「いえ、私も困っているんです」

 藤治郎は溜息交じりにそう言い直した。



 込み入った話をするのに立ち話もどうかと、香澄たちは藤治郎の店に移動することになった。

 藤治郎の店である丸美屋は、浅草寺から隅田川へ向かう東参道にあった。船で参拝する客が多く通るので、商売をしやすい立地だろう。今も店先で二人の壮年の男性客が、浅草参りの土産物を選んでいるのか、商品を見ている。

 小商いの店らしく二階建ての建物を見あげ、艶煙が感嘆の声をあげた。

「ああ、これはまた、よい店を買いましたね」

「そうなんです。店を探していたときに、運よく、空きが出たと教えてもらって。先のことなど考えずに有り金をはたいて買ってしまいました」

「思い切りましたねえ」

「今から考えれば、恐ろしいことですよ」

 そんなことを話しながら店に入ると、番台に座っている中年の女性が藤治郎に目を向けた。

「おや、丸美屋さん。おかえり」

「ただいま帰りました、おときさん。留守番をお願いしてすみません」

「いいわよいいわよ、気にしないで。ご近所じゃないの」

 彼女は明るく声を立てて笑うと、藤治郎が手にした熊手を見る。

「いい熊手が買えたみたいだね」

「はい、おかげさまで」

 どうやら店で雇っている女性ではなく、ご近所さんに留守を任せていたらしい。

 客が小物を選んで支払いをしている間、香澄も店に並ぶ商品を見ることにした。見慣れない草花の描かれた椀、銀色で不思議な曲線を描く細長い急須のようなもの。硝子の燭台もあり、見ているだけで心が躍る。中でも鮮やかな色で薔薇の花が描かれた皿に目を引かれた。

「このお皿、素敵ですね」

「それは英吉利で製造されたものです。こちらにはお嬢さんの好みそうな小物もございますよ」

 藤治郎に誘われて、木箱に並べられた装飾品に目を向ける。石の使われた首飾りや髪飾り、腕輪や指輪がキラキラと光っていた。

「この辺りは紅玉や翠玉です。こちらは硝子を使っています。このハンカチーフはお手頃で人気ですよ」

「どれも可愛いです」

 髪飾りならば、かんざしのようにつけることもできる。鮮やかな花の刺繍が美しいハンカチーフも、手巾の代わりに持ち歩いたらお洒落だろう。縁にレェスがあしらわれているのも可愛らしい。新聞社で働いて貯めたお金で買えなくもない値段だが、決して安くはない。恐る恐る手にとってはみたものの、値段を見て悩んでいる香澄の隣で、艶煙がくすりと笑った。

「気に入ったんですか?」

「はい。でもちょっと……」

 普段使いもできなくはないが、値段を見ると汚すのが怖くて使えない。箪笥の肥やしにするくらいなら、もっと使ってくれる人に買われたほうが、このハンカチーフも幸せだろう。

「久馬さんに買ってもらえばいいじゃないですか」

「どうして俺が買ってやらないといけないんだ。兄貴にねだれ、兄貴に」

 面倒くさそうに応じた久馬に香澄は唇をとがらせる。久馬に買ってもらう気などまったくなかったが、はっきり拒否されるのは何故だか腹が立つ。

「兄様なら、横浜へお仕事で行かれたときに、綺麗なレェスをお土産にくださいましたよ」

「久馬さん、出遅れてますよ」

「だから、どうして俺が」

 香澄に贈りものなどする気は欠片もないとばかりに応じる久馬へ、藤治郎は髪飾りを手にして話す。

「参拝の帰りに妻や娘に土産をと買っていかれる方も多いです」

「せっかく浅草まで来たのだから、ちょいと高いものを買ったり食べたりしたくなる気持ちもわかりますね」

「ありがたいことです」

 艶煙の言葉にうなずいた藤治郎は、ついと視線を外へ向けた。その先にあるのは甘味処のようだ。さげられた暖簾には小川屋と屋号が染め抜かれている。見える範囲の縁台に客の姿はなく、前掛けをした男が一人、座っているだけだ。

「あちらの甘味処は小川屋さんというのですが……」

 言いにくそうに濁した藤治郎の言葉を継いだのは、番台の女性だった。

「今日もまた小川屋さんは、客に丸美屋さんの悪口を言ってましたよ。そのせいで客に逃げられてるんだから、呆れちまうね。せっかく甘いものを食べていい気分になったって、悪口なんか聞かされたら嫌になっちまう。おみっちゃんが可哀相だよ」

「おみっちゃん?」

 香澄が問うと、藤治郎が答えた。

「おみつさんは、小川屋さんの娘さんです」

「おっ母さんが亡くなられたうえに、お父つぁんがあんなじゃねえ」

 呆れたように溜息をつく女性に、藤治郎は困ったようにほほえむ。

「おときさん、留守番ありがとうございました」

「またいつでも言っておくれ。嫌がらせに負けちゃ駄目だよ」

「ありがとうございます」

 おときは番台から立ちあがると、ばしばしと藤治郎の背中を叩いて店を出ていった。

 客足が途切れたところで、藤治郎は香澄たちに売り場の奥に続く居間へあがるようにすすめた。そこからならば道行く人が見え、客が来たらすぐにわかる。

 居間にあがった久馬と艶煙は、待ってましたとばかりに煙草盆を引き寄せて、それぞれ紙巻き煙草と煙管に火をつけた。香澄たちの前に座った藤治郎は、ふたたび溜息をついて店の外へ目を向ける。

「相談とは、あの小川屋さんのことなのです」

 行き交う人々の向こうには、丸美屋と同じく二階建ての小店が並んでいる。その内の一軒。丸美屋のほぼ向かいにあるのが小川屋だ。縁台に座って店番をしているのは五十代くらいの男性だが、髪は真っ白で、表情は暗い。しかも表を歩く人々へ恨めしげな目を向けており、近づいていった客も彼を見てそそくさと店の前を素通りしてしまう。

「今、店番をしておられるのが小川屋さんのご主人の長兵衛さんです。私がここに店を開いたときにはまだおかみさんも元気でいらしたのですが、昨年亡くなりました」

 小川屋の状況を聞いた艶煙が、煙を吐きながら藤治郎に先を促す。

「お困りごとについて、くわしく伺っても?」

「小川屋さんのご主人のことなのです」

「悪口を言われることでしょうか?」

「ええ、まあ、それもありますが。私が店を開いたころは、慣れない私のことを気にかけてくれるような親切でやさしい人だったのです。それがおかみさんが亡くなられてから元気がなくなったばかりか……」

「藤治郎さんに嫌がらせをするようになった、ですか」

 うつむいた藤治郎は、詰まった言葉を続けた艶煙にうなずいた。

「まるで人が変わってしまったんです。おそらく一番大変なのは私ではなく娘のおみつさんでしょう。おかみさんが亡くなってから懸命に暖簾を守っていますが、このままでは遠からず立ちゆかなくなってしまいます。小川屋さんとおかみさんには世話になったので、とても放っておけなくて」

「そうですか」

「おせっかい、なのかもしれませんが」

 そう言って小川屋へ目を向けた藤治郎の表情は、暗く、哀しげだった。

「思えばおかみさんが亡くなってから、小川屋さんの心はゆっくり蝕まれていったのでしょう。もっと早く気づいていれば、話を聞いたり、お医者に診せたりすることもできたのかもしれません。しかし気づいたころには、甘味処の商売もうまくいかなくなっていました。小川屋さんは、私が来てから悪いことが起こるようになったと思っているようなのです。悪いことはすべて丸美屋のせいだと、私を責めるようになり、とても手を貸すことができないのです」

 妻を亡くして、その哀しみに仕事が手につかなくなったのであれば、それは仕方のないことかもしれない。それくらい妻のことを大切にしていた、本当にやさしい人だったのだろうと思うこともできる。けれど自分の不幸を他人のせいにするのはいただけない。

「そんなの、八つ当たりじゃないですか」

 思わず口をはさんだ香澄に、自嘲するように藤治郎は苦笑を浮かべた。

「そうかもしれません。ですが、おまえが疫病神を連れてきたと言われると……」

 疫病神とは穏やかではない。

「何かあったんですか?」

 香澄が問うと、彼はまぶたを伏せる。

「私は幼いころに両親を亡くし、姉もまた。遠い親類さえ……」

 天涯孤独であると告白した彼は言葉を途切れさせ、顔をあげた。

「ですから、あながち間違ってはいないのではないかと思ってしまうんです。もし本当に自分のせいならば、店を畳んででも小川屋さんたち親子を助けなければならないと――」

「そんなこと……」

 否定しかけて言葉に詰まった香澄へ、煙草を口元から離して久馬が問いかける。

「どうした?」

「……丸美屋さんが疫病神を連れてきたなんて私は思いません。でも、丸美屋さんのこれまでの不幸が疫病神のせいだったとしたら、疫病神がいなくなればこの先は悪いことはないってことなのかなって」

「それは一理ある。だが疫病神なんてものは存在しない。いるとすればそれは、不幸を嘆く人の心の中だ」

 そう言った久馬はちらりと外へ目を向けた。視線の先にいるのは小川屋の主人、長兵衛だ。同じように長兵衛を見た艶煙が同意するようにひとつうなずく。

「とにかく、藤治郎さんの不運は藤治郎さんのもので、小川屋さんの不運はやはり小川屋さんのものでしょう」

 そう結論づけた艶煙は、とんとんと煙管の灰を落としながら藤治郎に問いかける。

「それで、藤治郎さんは小川屋さんをどうしたいのですか?」

「どう、というか……」

「例えば手を貸せない藤治郎さんの代わりに、医者に連れていって欲しいとか、ゆっくり休むように説得して欲しいとか」

 視線を畳に落とした藤治郎は迷うような間をおいて、ぽつりとつぶやく。

「私は、以前のようなやさしく親切な小川屋さんに戻って欲しいのです。そのために何が必要なのか、私にもわからないのですが」

 それが簡単なことではないことを彼も理解しているようで、その口調にはそんな頼み事に対する迷いのようなものがにじんでいる。いっそ仕返しをするならば容易だろうに。

「おかみさんが亡くなる前に戻ることができないのはわかっています。でも、私が商売を始めるときに手助けしてくれた小川屋さんを、今度は私が助けたいのです」

 艶煙は腕を組み、話を反芻するためか目を閉じた。久馬はその隣で顎を撫でている。

 しばらくして艶煙が口を開いた。

「小川屋さんの人が変わってしまった原因は、おかみさんが亡くなったことでしょう。心が弱っているのであれば、必要なのは傷を癒やすことです。今はそれができずに、哀しみや辛さを藤治郎さんへの恨みに変えて、それを心の糧に生きているのかもしれません」

「哀しみを受け容れるために休んでくださいって説得して済む話じゃないですよね?」

 すっかり状況はこじれてしまっている。休養を勧めたところで、それもまた藤治郎のせいで休まなければならなくなったと言いだしかねない。

 香澄がそんなことを考えていると、久馬がひとつうなずいた。

「とにかく、小川屋さんとやらがどんな状況なのか、一度確認する必要があるな」

 そして翌日、香澄は久馬と共に小川屋を訪ねることになった。



「父様、訊いてもいいですか?」

 その日、家に帰った香澄は、夕餉を終えた父に問いかけた。

「なんだい?」

「あの、答えにくいことでしたら、答えてくださらなくてもいいんですけれど……」

 許可は得たものの、訊き辛い内容なので、恐る恐る続ける。

「母様が亡くなったときのことです」

「急にどうしたんだ?」

「おかみさんを亡くされて、人が変わってしまった方の話を聞いたので……」

 妻を亡くしてから、すっかり性格が変わってしまったという長兵衛の話を聞き、香澄が思い浮かべたのは父のことだった。父もかつて妻を亡くしている。そのとき父がどんな気持ちだったのか訊ねたことはこれまでなかった。なんとなく訊いてはいけないような、訊くべきではないことのような、そんなふうに思っていたのだ。

 けれど、父にもまた辛い時期があったのか、あったのならば、それを知らないままでいてはいけないような気がした。

「そうか。その人もきっと、何も手につかなくなるほどに辛い想いをしているのだろうね」

 気の毒そうに眉を寄せた父を見て、香澄は母が亡くなったときのことを思いだしてみた。

「私はまだ幼くて、母様が亡くなったって事実をよく理解できませんでした。もう会えないのだと言われて、寂しくて、どうして会えないのかわからなくて……」

 泣いたような覚えはある。けれど父や兄がどうだったかは、まったく記憶にない。

「父様も母様が亡くなって、哀しかったですか?」

「もちろんだ」

 父は深くうなずいた。

「哀しかったし、寂しかった。しばらくの間は何も手につかずに、仕事も上の空で、同僚たちにまでずいぶん心配されたものだ」

「そうだったのですか」

 父のまなざしには、もはや哀しさも寂しさもない。いつもの穏やかな目で香澄を見ている。香澄の記憶には、嘆き哀しむ父の姿は残っていないが、当時はやはり落ち込んだのだ。

 すると彼はふっと口元を緩めた。

「おまえに話したことはなかったかもしれないが、私たちは幼馴染でね。私は子どものころからおまえの母のことが好きだった。まあ、なんというか、恋女房だったのだよ」

 父は煙草盆を引き寄せると煙管を手にした。そして煙草を詰めながら口を開く。

「だから、というわけではないが、別れは心の臓をえぐられるほうがましなのではないかと思うくらいに苦しかった。けれど――」

 父は言葉を途切れさせ、懐かしそうに目を細めた。

「主計が言ったんだ。『香澄のことは、母上から頼まれた私が守ります。ですから父上は何も心配しなくて、大丈夫です』とな」

 香澄は兄が以前口にした言葉を思いだす。

 香澄を無事に嫁にだすと、母と約束したのだと。

 母が亡くなったとき、兄はまだ十をいくつか超えただけで、まだ幼いと言える年だったはずだ。それなのに彼は妹のことを――香澄のことを、守ろうとしてくれていたのか。

 煙管に火をつけた父が、細く煙を吐く。

「情けない話だろう? まだ元服もしておらん息子に気を遣われてしまった。だがおかげで思いだしたんだ。私がしっかりしなければ、主計と香澄のことを誰が守るのかと。おまえたちに何かあったら、あの世で妻に顔を合わせることもできないではないかとな。今でも哀しくて寂しいときもある。それでもおまえたちが元気にしているのを見ると、幸せだと思う。おまえたちが立派に育ってくれたから、私はもう、いつでもあの世に行ける。おまえの母に胸を張って会うことができるのだからね」

「……そんな、寂しいことを言わないでください」

 香澄は父の言葉を否定した。母亡き後、母の分まで愛してくれた父には、うんと幸せになって欲しい。まだまだたくさん恩返しをしたい。

「父様にはずっと元気でいてもらわないと。父様は孫やひ孫に囲まれて、大往生じゃないと許しません」

「おやおや。これはまたずいぶんな我が儘を言ってくれるな」

「母様の代わりに我が儘を聞いてくださるのは、父様でしょう?」

 香澄の無茶な願いに、父は愉快そうに笑った。

「そうだな。じゃあ、長生きするように頑張るか」

「はい」

 こくりと香澄はうなずいた。



 藤治郎から相談された翌日、久馬と共に小川屋に向かう道すがら、香澄は昨夜の父とのやりとりを彼に伝えた。

「昨日、父様に、母様が亡くなったときのことを訊ねてみたんです」

「ほう」

 浅草寺の参道は今日もにぎわっている。ここは時期に関係なく、いつでもたくさんの参拝客が訪ねてくるのだ。さすがに酉の市の日に比べれば、ごった返して人波にもまれるというほどではないけれど。

 香澄は軽く相槌を打った久馬へ話し続ける。

「父様も母様が亡くなってしばらくは、何も手につかなかったそうです。でも、私や兄様のために、そんなことではいけないって立ち直ったんだって言われました」

「そうか。親というのも大変だな」

「そうですね」

 自分が生きていくだけではない。子供たちを生かしていくためには、悲嘆にくれてばかりもいられないのだ。

 香澄はこれから行く小川屋の主人のことを考える。

「小川屋の長兵衛さんも娘さんがいらっしゃるのに」

「まあ、娘のおみつさんは自活できないほど幼いわけではないのだから、父親が悲嘆にくれていようが生きてはいけるだろうが」

 たしかに幼い子供ではないので生活はしていける。けれど長兵衛の問題は、いずれは生活の困窮に行きついてしまうだろう。

「その父親が商売の邪魔をするんじゃ困っちゃうじゃないですか。生活が立ちゆかなくなってしまってからじゃ遅いです。それに……」

 香澄の途切れた言葉を、久馬が首をかしげて促す。

「それに?」

「おみつさんだって、何もかも放りだしたくなる日があるんじゃないでしょうか」

 長兵衛が妻を亡くしたということは、おみつだって母を亡くしたのだ。『死』を理解している年齢だからこそ辛いはずだ。

「そうだな」

 ぽつりと同意した久馬が顎をしゃくる。

「ついたぞ」

 小川屋の暖簾には、よく見ると屋号の他に、川とみられる曲線と、ぴょんと跳ねるうさぎの画も染め抜かれている。

 暖簾をくぐった久馬に従い、香澄も店に入る。先客は一組いるだけだった。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ」

 応じたのは香澄と同じ年ごろの少女だ。彼女が噂のおみつだろうか。彼女は一瞬だけ久馬の顔を見たが、すぐに客相手の笑顔を浮かべた。客商売の慣れなのか、多くの参拝客が訪れる店で働く彼女にとって、久馬くらいの顔立ちの男性はそうめずらしくもないのか。

 久馬は縁台に腰かけると、お品書きに目をやる。

「何にする?」

 問われて、香澄はひつとひとつ菓子の名前を確認する。

 あんみつにあんころ餅、うさぎ饅頭……。

「うさぎ饅頭?」

 可愛らしい名前を香澄が繰り返すと、娘が明るく応じる。

「うさぎに見えるように焼き印を押した蒸し饅頭です。お父つぁん直伝の餡を包んで、毎日あたしが蒸しているんですよ。可愛くて女性に評判ですから、おすすめです」

「じゃあ、それにします」

 香澄が注文を決めると、久馬が指を二本立てた。

「うさぎ饅頭と、お茶をふたつ」

「かしこまりました」

 久馬の注文に彼女はぺこりと頭をさげて奥へ消えた。それと入れ違うように出てきたのは盆を持った長兵衛だった。香澄たちより先に来ていた女性二人連れの元へ白い饅頭と茶を運んでいく。

 彼は湯飲みと皿を置くと、「可愛い」と口々に言い合って、さっそく饅頭へ楊枝を刺そうとした女性たちに話しかける。

「お土産はもう買われましたか?」

「いえ。まだです」

「それじゃあ、あの向かいの唐物屋はやめたほうがいいですよ」

「はあ……」

 初めはにこやかに応じた彼女たちだったが、続けられた言葉に眉根を曇らせた。

「あの店の店主には疫病神が憑いてるんです。二親は次々に死に、姉は殺され、ひきとった親類はお縄を頂戴して死罪になったって話でね、関わらないほうが身のためですわ。あそこに店をだしたとき、うちもいろいろ目をかけてやったんですが、女房に死なれる始末でね」

 丸美屋の悪口をまくしたてる長兵衛に、それを聞く客の表情はこわばり、饅頭を食べる手も進まなくなる。そして最後には手をおろしてしまった。

「お父つぁん!」

 奥から顔をだした娘が、小声で、けれど厳しく父を止める。その隙をみて、女性たちは視線を交わし合うと、銭を縁台へ置いた。

「お嬢ちゃん。お代はここに置いておくよ」

 半分ほども饅頭を残したまま、彼女たちはそそくさと店を出ていってしまった。おみつがそれを力なく見送る。

「ありがとうございました……」

 しょんぼりした彼女は、父の袖をつかんで奥へ引きずっていった。

 黙ってそれをながめていると、香澄たちに声だけが届く。

「なんだい、まったく。人の親切を……」

 まったく悪びれた様子のない長兵衛を、声を殺しておみつがいさめる。

「お父つぁんがあんな話するからよ」

「あたしはね……」

「せっかくお参りに来た人が、疫病神の話なんて聞きたいものですか」

「おまえはおっ母さんが死んだのが哀しくないのかい?」

「哀しいに決まってるじゃない!」

 ひそめていてもわかるほど、彼女の声には哀しみが満ち、まるで悲鳴のようだった。今にも泣き叫ぶのではないかと思うような。

「全部あの疫病神のせいだよ。あの男が来たから、おまえのおっ母さんは……」

「もう、いいから、ここにいて!」

 香澄は久馬と目を合わせ口を開こうとしたが、何を話せばいいのか迷った。ここでひそひそと彼らの話をするわけにもいかない。

 すると久馬が突然、

「おまえ、餡は炊けるのか?」

 と言った。

「え? 餡くらい炊いたこと……」

 ある。と言いかけた香澄だったが、記憶をたどってみると、炊いたことがないことに気づく。

「そういえばないです」

 あまり必要とされなかったのもあるが……。

「だって、ほら。お砂糖だって安くはないですし、そんなに炊くものでもないでしょう?」

「おまえ、餡くらい炊けないと嫁にいけないぞ」

 そんな話は聞いたことがない。香澄はむっつりと唇をとがらせる。

「そんなに餡子にこだわるのは甘党の久馬さんくらいですよ。お米が炊ければお嫁にいけます」

「そんなこと言って、何か作って持ってきたこともないじゃないか。本当に料理できるのか?」

「できますよ! だいたい、なんで久馬さんに作ってあげないといけないんですか」

 そもそもただの同僚に対して、弁当や菓子を作って持っていくなど、普通にあることなのだろうか。意中の相手にならば、気に入られたくてそんなことをするかもしれないが。

 ――作ってあげたっていいけど、別に、久馬さんに褒められたいとか、思わないし。

 気持ちに反して、何を作れば久馬が喜んでくれるだろうかと考えていた香澄の前に、うさぎの耳と目が焼き印で押された白い蒸し饅頭がひとつ載った皿と、湯飲みが置かれた。持ってきたのはおみつだ。

「お待たせしました」

「わあ。可愛い」

 愛らしい饅頭に両手を合わせて声をあげた香澄に、盆を胸に抱えたおみつが申し訳なさそうに頭をさげた。

「お騒がせしてすみません」

「いいえ、大丈夫です」

 香澄が首を左右にふると、おみつはほっとしたようにほほえんで、

「ごゆっくり」

 と言いおいて奥へ戻っていった。

「可愛くて食べるのが可哀相です」

 うさぎの顔をながめる香澄の前で、久馬がぱくりと饅頭を口に放り込む。一口で消えた饅頭に、香澄は頬を膨らました。

「少しくらい目で楽しんだらどうなんですか」

「饅頭は見た目じゃない。味だ」

「どうせ甘ければいいんでしょう?」

 文句を言いながら、香澄はうさぎ饅頭に楊枝を入れ、ひとかけ口に運んだ。甘みがほろりと口の中でほどける。

「美味しい」

 こんな餡子を炊けるようになれたら、たしかにいいかもしれない。

 決して久馬のためではないけれど。

 香澄は心の中で言い訳しながら、そんなことを思った。



 小川屋の現状を確認した久馬と香澄は日陽新聞社に戻ると、いつも行く蕎麦屋で艶煙と合流し、見聞きしたことをひととおり報告した。

「なんていうか、小川屋さんは悪いことは全部藤治郎さんのせいだと疑っていないみたいですし、娘のおみつさんは、それがちょっと迷惑そうでした」

「迷惑?」

「おみつさんは一生懸命働いているのに、小川屋さんのせいでお客さんが出ていってしまうんですから、困ってるみたいでしたよ」

「そりゃそうでしょうね」

 煙管をくわえた艶煙と、煙草の煙をくゆらせている久馬が、それぞれ宙を見つめる。小川屋の長兵衛に嫌がらせをやめさせる方法を考えているのだろうか。

「いい方法、思いつきそうですか?」

「そうですねえ……」

 ぷかりと煙を吐いた艶煙は、煙管の灰を吹くと、突然香澄に問いかける。

「香澄さんなら、どうしますか?」

「私なら……ですか?」

 香澄はぐぐっと眉を寄せて、藤治郎から聞いた話と、先ほど見た長兵衛の様子を思いだす。

「全部疫病神のせいにして、疫病神を追いだすとか?」

「おまえ、疫病神も神だぞ。よく追いだすとか言えるな」

「祟られますよね」

「え……っ!」

 久馬の言葉に同調して、艶煙もしかつめらしくうなずいた。

「じゃ、じゃあ、なんのせいにするんですか?」

「そこですよ。仮に疫病神のせいにして追いだすとします。しかしそうすると、藤治郎さんが疫病神を連れてきたという考えが肯定されてしまいます」

「……藤治郎さんのせいってところは変わらないんですね」

 それならばどうすればいいのだろうかと考えたが、いい案は思い浮かばなかった。香澄はあっさりと、答える権利を久馬に譲ることにする。

「方法を考えるのは、久馬さんの役目ですよね」

「諦めが早いな」

「久馬さんに花を持たせようという、私なりの気遣いです」

「物は言いようですねえ」

 艶煙が煙管を弄びながらくすくすと笑った。

「必要なのは、小川屋の気持ちを変えるきっかけだろうな……」

 自分自身に語りかけるようにつぶやいた久馬は、「よし」とうなずいて香澄を見た。

「協力者が必要だ」

「おみつさんですか?」

 小川屋には主人の長兵衛以外には娘のおみつしかいないのだから、おのずとその対象は決まってくる。それはいいのだが。

「そうだ。おみつさんが協力者になってくれるように仕向けてこい」

 思いがけない指示に、香澄はぽかんとして問い返す。

「え? どうやって?」

「そこは自分で考えろ」

 当然、一から十まで久馬が計画するものだと思っていた香澄は目をまたたいた。

「久馬さんが何か方法を考えてくれるんじゃないんですか?」

「おみつさんはおまえと同じ年頃だ。それなら俺や艶煙が間に入るよりも、おまえのほうがいいだろ。協力者になってもらえそうかの判断もおまえに任せる」

「本当に……?」

 それはつまり、香澄のことを信用できる仲間として認めてくれたということだろうか。認められたのであればもちろん嬉しい。しかし失敗することを考えると不安だ。

 けれどせっかくの機会を逃すつもりはなかった。

「頑張ってみます」

「さすが香澄さん。でも困ったときはいつでも相談してくださいね」

「はい」

「あと……」

 艶煙に続いて何か言おうとした久馬をさえぎって香澄は口を開く。

「無茶なことはするな、でしょう?」

 それは香澄自身が彼らに協力し続けるために決めたことだった。

「ああ」

 うなずいた久馬に香澄は笑いかける。

「大丈夫です。きっと久馬さんに『よくやった』って言わせてみせますから」

 いい方法は思いつかないし不安だらけだったが、自分に何ができるのか試すことが、ほんの少しだけ楽しみだった。



 香澄は久馬と訪ねた翌日、まだ前日来たばかりの甘味処の暖簾をくぐった。

「こんにちは」

「いらっしゃいませ。――あれ?」

 にこやかに応じたおみつが軽く首をかしげる。

「昨日もいらっしゃいましたよね? えっと、洋装の素敵な方と」

「はい。えっと、素敵かはともかく、洋装の方と来ました」

 洋装は参拝客の多く訪れる浅草でさほどめずらしくはないかもしれないが、それは目立たないという意味ではないようだ。洋装以前に、久馬自身が目立つのだから。

 香澄は店の入り口から少し離れ、あらためておみつに頭をさげた。

「あの、私、井上香澄といいます。昨日いただいたお饅頭がとても美味しくて、その、こんなことをお願いするのは、本当に失礼だと思うんですけど……」

 もごもごと口ごもりながら、言い訳を並べ立てた香澄は、最後に目的を付け加える。

「餡の炊き方を教えて欲しいんです」

「餡、ですか?」

 おみつがきょとんとして繰り返した。それはそうだろう。餡の炊き方など、母や近所の女性から教わればいいものだ。

 香澄はなんとか違和感なく店に出入りする権利を得ようと、一晩考えた理由をおみつに伝える。

「その、昨日一緒に来た人――久馬さんっていうんですけど、あの人が、餡も炊けないようじゃ嫁にいけないぞって言うんです」

「それは……ないんじゃないですか?」

「ですよね!?」

 やはりおかしいのは久馬のほうだ。餡が炊けないから縁談を断られたなんて話は聞いたことがない。

 だが、今は彼のその世間とずれた甘党の常識を利用するのだ。

「でも甘党の久馬さんには、必須条件らしくって……」

「それってつまり、香澄さんはその久馬さんのところへお嫁にいきたいってことですか?」

「へ……!?」

 言われてみれば、久馬のだしてきた条件のために教えを乞いにきたと聞こえなくもない。いや、むしろ聞こえる。

 香澄は慌てて両手をふった。

「そ、そうじゃなくてですね! ほら、ちょっと悔しいって言うか……!」

 わたわたと焦る香澄にくすりと笑い、おみつは一人も客がおらず、がらりと空いた店内の縁台を香澄に勧める。

「とりあえず、こちらにどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 縁台に腰かけて、香澄はほっと息を吐いた。

 久馬のところに嫁にいきたいのかと訊かれて、つい慌ててしまった。香澄は胸を撫で、心を落ち着けてからあらためて口を開く。

「えっと、久馬さんをぎゃふんと言わせたいのもたしかですけど、こちらのお饅頭の餡子が美味しかったから、ぜひ教えていただきたいなって思ったんです」

「お口にあったようで嬉しいです。うちの餡子は、お父つぁんが若いころ、菓子屋さんで教えてもらったものなんですよ。あたしも大好きなんです」

「そうなんですね」

 父を誇らしげに語るおみつを見て、香澄は嬉しくなると同時に哀しくなった。

 尊敬する父が、客に悪口を吹聴するようになったことを、彼女はどう思っているのだろうかと。

 香澄の隣に座ったおみつが、ちらりと店内に視線を巡らせる。

「このとおりお客もいませんし、あたしでよければお教えしてもいいんですけど」

「本当ですか!?」

 香澄は思わず身を乗りだしたが、おみつは少々浮かない表情をしている。

「ただ、お父つぁんがなんて言うか……」

 溜息をついたおみつは、香澄の隣に腰をおろした。彼女は伸ばした足のつま先に視線を向けて、小さな声でつぶやくように言う。

「先日、見たと思うんですけど、お父つぁん、ちょっと様子がおかしくて」

「あの唐物屋さんのご主人に、疫病神が憑いてるって?」

「そうなんです。藤治郎さんは――あの丸美屋さんのご主人なんですが、苦労されてきたのに、とてもやさしくていい方なんです。お父つぁんが悪口を言っても、『おかみさんを亡くして、気落ちされてるからでしょう。支えてあげてくださいね』って逆に心配してくださって。だからご迷惑をかけていることが心苦しいんです」

 迷惑をかけていることを申し訳ないと思いこそすれ、おみつは藤治郎のことを悪くは思っていないようだった。

 丸美屋の内情は知っているが、香澄は何も知らないふりで問いかける。

「お母様はいつごろ?」

「昨年亡くなったんです」

「そうでしたか。お辛いですね」

「ええ。でも、母が亡くなっても、こうして働いていかないと、生きていけないのに、お父つぁんは……」

 大きく溜息をついたおみつは、はっと顔をあげた。

「やだ。あたしったら、こんな話してごめんなさい」

 ぴょんと立ちあがったおみつが頭をさげるのに、香澄も腰をあげて彼女に倣う。

「いいえ。私こそお邪魔してますから」

 ぺこぺこと頭をさげあっていると、男の声が割り込んできた。

「みつ、お客さんかい?」

「お父つぁん、あのね……」

「こちらのご主人の長兵衛さんですか?」

 香澄はおみつが説明する前に口をはさんだ。怪訝そうな表情で長兵衛がうなずく。

「そうですが」

「あの、今、おみつさんにお願いしていたんですけれど、餡の炊き方を教えてもらえませんでしょうか? 昨日いただいたお饅頭の餡子がとても美味しかったので、どうしても自分で炊けるようになりたいんです」

 長兵衛は香澄の説明に眉を寄せた。

「……うちに食べに来てくれればいいんだがね」

 商売人としては、儲けにならないことを渋るのも当然だ。これは気が進まないが、また久馬の話を持ちだすしかあるまい。

 だが香澄が口を開くより先に、おみつが口添えしてくれる。

「お父つぁん。香澄さん、美味しい餡が炊けないと、お嫁にいけないんだって」

「なんだい、そりゃ」

「お相手がお父つぁんと同じ甘党なんだって。ねえ?」

 同意を求められて、香澄はためらいながらもうなずく。

「あ、その、いえ、はい……」

 もじもじと両手の指を絡める香澄を見て、長兵衛はふんと鼻を鳴らした。

「甘党か、そりゃ仕方がないな」

「でしょ? 教えてあげてもいい? 人助けよ?」

「まあ……」

 少しばかり考える間を置いてから、彼は口を開く。

「いいだろう。商売の邪魔にならんのならな」

 人助けと言われると断れないようだ。やはり根はやさしい人なのだろう。

「ありがとうございます!」

 まさか久馬の甘党がこんなところで役立つ日が来るとは思っていなかった。

 小川屋へ出入りする理由を手に入れた香澄がぺこりと頭をさげて礼を言うと、隣のおみつも一緒に喜んでくれる。

「よかったね、香澄さん。あたしが絶対に、あの素敵な人のところにお嫁にいかせてあげるから!」

「はい! って、え? ええ!?」

 おみつの見当違いな応援に、香澄の声は思わず裏返った。しかし、おかげでこうしてうまく話が進んだのだ。否定したい気持ちをぐっと抑え、香澄は愛想笑いを浮かべて誤魔化した。