――ねえ、秀。

 階段を駆け上がった先、扉を開けると、七月の蒼穹がそこにあった。その真っ青なパノラマを背に、屋上の縁に立った彼女は言った。蜂蜜のように、甘い声で。

 ――私と心中しない?

 僕はあのとき、彼女になんと答えるべきだったのだろう。一緒に飛んでやるべきだったのか。それとも何か、言える言葉があったのだろうか。

 なにも言えなかった。それはつまり、僕はなにもできなかったということだ。なにもしてやれなかった。彼女の素顔を知っているつもりで、僕はやっぱり彼女のなにもわかってはいなかった。なんの救いも与えてやれず、思いとどまらせることもできず、止める間もなく彼女は屋上の向こう側へ落ちていった。

 伸ばした手は空を切り、彼女の髪の先が指先を掠めて、消えていった。

 何かが潰れる、音がした。



 女子高生のカーディガンについて、ある女子生徒と話をしたことがある。

「なんで女子って、夏でもカーディガン着てるんだろう」

「クーラー対策、日焼け対策、お洒落に個性。色々万能なんだよ、カーディガンは。ただ、ウチの場合はまたちょっと意味合いが違うかなあ」

 ウチの学校の女子の序列はだいたいカーディガンでわかるんだよ、と彼女は自分も女子のくせ他人事のように言っていた。

「まずカーディガンを着てるかどうか。そしてカーディガンを着てるなら、その色を見るの」

 彼女の言わんとすることはすぐにわかった。

 言われてみれば、クラスでも目立つ女子はだいたい色とりどりのカーディガンに身を包んで、教室の中でお祭りのカラーひよこみたいにピカピカしている。彼女たちにとって、カーディガンはステータスなのだ。クラスの他の子と被らない色を見つけて、それを自分だけのカラーとして所有し、ぴよぴよと主張している。

「人気の色を着てる女の子は地位が高いの。ピンクとかね。でもそういう色は高倍率だから、なんとなくクラスの中心になる女の子がそれを着て、他の子は近いけどちょっと地味な色で我慢したりしてるんだよ」

 かく言う彼女もカーディガン組だった。いつも白の、体型より一回り大きいのかだぼっとしたカーディガンをパーカーのように羽織っていた。あれが地位の証明になるというのだから、女子の社会の複雑さは、男子社会からも外れている僕には想像も及ばない。もっとも、彼女は確かに、白が似合う少女ではあった。

 へえ、と僕は言った。

「おもしろいね。じゃあ僕もピンクのカーディガン着てきたら仲間に入れてもらえるのかな」

 盛大に皮肉を言ったつもりだったが、彼女は笑っただけだった。

「あはは。いいよ、入れてあげるよ」

 それが僕が飯山直佳と初めて交わした会話で、最後の会話になるはずだった。

 彼女は目立つ生徒だった。わかりやすくクラスの上流階層だった。髪の毛は薄い栗色で、いつもポニーテールにしていた。色白の肌に似合う紺のセーラースカートは、標準より少し丈を上げて、ほんのちょっと〝フツウ〟に抗っていた。話せばよく笑い、口を閉じればよく動き、真面目だが固すぎず、時として調子には乗っても絶対に一線は踏み外さない。そういう意味で、彼女は確かに〝白〟っぽかった。同時に紛れもなくカーディガン組でもあった。

 二度目に彼女と話をしたのはそれから半年以上後の、高校二年の七月一日のことになる。

 東棟三階の隅っこに、誰も使っていない空き教室が一つある。元々は視聴覚室だったらしいのだが、西棟新校舎の完成と同時に使われなくなり、現在では完全に物置と化している校内の小さな吹き溜まりだ。スピーカーやマイクに始まり、パソコンやオーディオ機器、無駄に三つある掃除用具入れに大量の机と椅子――とにかく使われないものが山と積まれている。壊れているのか鍵がかからず、いつでも入れるその場所を、僕は昼休みの喧騒から避難する小さなシェルターとして利用していた。昼休みになるとお弁当を持って教室を出て、空き教室へ入り窓際の一番端の席に座って音楽を聴きながらお昼を食べる。オーディオ機器がまだ生きていることに気づいたので、それにお気に入りのCDを入れてイヤホンを繋いでいた。だいたいはピアノ楽曲だ。

 普段ならそのささやかな平穏を乱すものは、五時間目開始五分前に鳴る予鈴のチャイムだけのはずだった。がらがらっ、と立てつけの悪い引き戸が開いたかと思うと、一人の女子生徒が顔を覗かせた。

 自分以外にもこの場所を縄張りにしている風変わりな生徒がいること自体はあまり驚きではなかった。今までもその形跡はあったし、そもそも教室は僕の私物じゃない。

 驚いたのは、その風変わりな生徒が飯山直佳だったということだ。

 七月になりたての校舎はすでに半袖の生徒が目立つようになっていたが、着ていることがステータスのカーディガン組が暑さごときにめげるはずもなく、今日も彼女は白いカーディガンを羽織っていた。しかし、カーディガン組は普通、昼休みにこんな場所には現れない。教室や、渡り廊下や、中庭で、きゃっきゃとランチタイムに忙しいはずの時間だ。彼女の登場は、とても矛盾していた。小さなポーチを手にしていたが、お昼ご飯が入っている様子もない。

「あれ、内村くん」

 飯山が僕に気づいた。

「……どうも」

 嫌いなプチトマトを意を決して口に運びかけていた僕は、仕方なく返事をする。

「なんでこんなとこにいるの?」

「お昼ご飯を食べてる」

「見ればわかるよ。なんでここで食べてるの?」

「教室が嫌いなんだ」

 隠すようなことでもないので正直に言うと、飯山がうなずいた。

「それも知ってる」

「そう。じゃあ何が訊きたいのかな」

「なんで幽霊教室なのかなって思って。場所なら他にもいくらでもあるのに」

 旧視聴覚室のことを幽霊教室と呼ぶのは女子だけだ。男子の大半は信じていない。要するに〝出る〟という噂があるのだが、僕も信じていなかった。

「幽霊教室だからこそ、だよ。ここ人が来ないから。あとオーディオが使える」

 僕は古ぼけたオーディオ機器を指差した。

「なるほど。お邪魔でしたか」

 飯山は困ったように頭をかいた。

「どうしようかな……」

 飯山がぽつりとつぶやいたので、僕はまだ半分残っているお弁当箱の蓋を閉じた。わざわざ人気のない旧視聴覚室を選んで入ってきたのだから、あまり人に言いたくないことを考えているのは想像に易い。

「ここ使いなよ。僕はもう食べ終わるから出ていく」

 立ち上がってそう言うと、飯山が目を見張った。

「え? でもまだ昼休み長いよ」

「飯山さんの言う通り、他にも場所はあるから」

 正直に言うとそんなに行く当てはなかったが、別に教室に戻ったっていい。どっちにしても、この場所を飯山が定期的に使っているのなら今後も出くわす可能性があるということだ。別の場所を探さなければならない。

 飯山がすっきりしなさそうな顔で立ち尽くしているので、僕はその横をすり抜けてドアに手をかけた。

「あっ」

 背後で飯山の声がした。かと思うと、何かがカタタタタタッと立て続けに音を立てて床に散らばる音がした。振り返ると、飯山がやってしまった、と言いたげな顔で天井を仰いでいる。足元にはなにやら大量の――USBメモリ?

「やってしまったー」

 飯山は実際そう呻きながらしゃがみこみ、口の開いたポーチにUSBを拾い始めた。あのポーチにUSBが入っていたらしい。口が開いているのに気づかずひっくり返してしまったのだろうか。

 一瞬迷ったが、僕はドアにかけていた手をひっこめ、彼女の前にしゃがみ込んだ。手近なUSBを何個か拾って、黙って渡す。すべて同じ規格の、小さな白色のUSBだった。一つ一つに手書きのラベルが貼られ、名前が書かれていた。見覚えがある名前が多い。僕はすぐにそれがクラスメイトの名前だと気がついたが、何も言わなかった。彼女は受け取りながら僕の顔を不思議そうに見た。

「……ありがと」

「別に、これくらい」

 なぜそんなに大量のUSBを持ち歩いているのだろう、と思ったし、クラスメイトの名前が書かれたUSBの中身は気になった。人付き合いに消極的で、他人と関わらない僕だが、他人に興味がないわけではない。ただ、知らない方がいいことの方が、大概世の中には多いということを、僕はよく知っている。

「……やっぱり私、出てくよ。内村くん、まだお弁当食べ終わってなかったでしょ」

 飯山が言って、素早く立ち上がった。僕が何かを言う前に教室の扉に手をかけ、さっと出ていってしまった。

 傷つけたかもしれない。心を読まれたとは思わないが、弁当の中身は見抜かれていたらしい。

「……今さらだ」

 自分で言い聞かせるようにつぶやいて、僕も教室を出ようとした。

 つま先に何か当たる感触がして、こつん、と音がした。蹴飛ばした何かが床の上を滑って、壁に当たった音だった。しゃがみ込んで見てみると、それはさっき拾ったのと同じ、白く小さなUSBメモリだった。飯山の持ち物だろう。

 しばらく考えて、僕はそれをポケットに入れた。


 うちの学校には〝オープンスクール係〟というものがある。中学生向けに開催されるオープンスクールにおいて、教員の手伝いや来校者向けの受付、案内などを担当する係だ。在校生と触れ合うことで校風を感じてもらう意図があるそうだが、三年生は受験で忙しく、一年生はこの時期まだ高校生活に馴染み切っていない。ゆえにこの係は二年生のみに割り当てられていて、夏季休暇や大型連休、冬休みなど、年に何回かまとまった日数を取って実施されるイベントのたび、各クラスから男女一人ずつが招集されることになっていた。僕を含め誰もが、できることなら避けたいと願ってやまない面倒な仕事だ。

「夏休みのオープンスクールの係決めるぞー」

 その日の放課後のホームルームで担任の永井がそう言うと、案の定クラスには微妙にめんどくさそうな気配が漂った。永井はこの反応を予想していたのか慣れているのか、黒板の端っこに小さく「オープンスクール係」と書いて二つ枠を作る。

「立候補するやつは今日明日で名前書いとけー。誰も書いてなかったら明日の放課後のホームルームでくじ引きするからなー」

「えー」とお約束のようにブーイングが上がるのを僕はぼんやり聞いていた。立候補するつもりは毛頭ない。くじ引きではずれを引く確率は男女合わせて四十人のこのクラスでは五パーセントほどだ。僕がオープンスクール係になる可能性はほぼない。

 そうか、もう夏休みなのか、という淡泊な感慨だけがあった。

 窓の外、東棟越しに見える世界には、まだ梅雨の明けないモノクロームの空がどんよりと裾野を広げていた。雨が好きな僕は、梅雨も好きだった。なにもかも音を吸い込んでしまうような、しんしんと降る梅雨時の雨。暑いのや、うるさいのは嫌いだ。今年の夏も、あまり家からは出ないのだろう。


 ホームルームの後、当番になっていた物理室の掃除から戻ってくると、黒板になにやら小さく人だかりができていた。女子のカーディガン組だ。

「夏休みにオープンスクール係とかまじないよねー」

「まあねー。でもウチ結構進学校だからこういうのきちんとしてるよね。あたしも中三のとき来たよ、ここのオープンスクール」

「まっじめ。そんときの二年どうだった?」

「いやー、笑えるくらい無愛想。でもそりゃそうだわって今なら納得」

「どうせなら先生も愛想良さそうなの選んじゃえばいいのにねー。どうせ教師命令だったら逆らえないんだしさ」

「じゃあ、マナやればいいじゃん」

「いや中坊の相手とかまじ勘弁」

 笑い声に釣られて僕は一瞬彼女たちの方へ視線をやった。一際高い声で笑っているボルドーレッドのカーディガンの女子が、片柳真奈だ。そのカーディガンの色は、たぶんこのクラスでは一番色が濃く、一番地位が高いのだろう。その隣の横川由美は、ピンク色のカーディガンを着ている。彼女も目立つ女子で、この二人を中心に三組のカーディガン組は徒党を組んでいる。

「ユミこそやれば。内点上がるらしいよ」

「やだよ。ってかその時期の予定もう埋まってるし」

「はっや。くじ引きで当たったらどうすんの!」

「こんなかの誰かに代わってもらう」

「絶対やだし!」

「ナオに代わってもらえば。こういうの上手そうじゃん」

「ああ、ナオね。いいかもね。っていうか最初から名前書いとけばいいじゃん?」

「こらこら」

 こつこつこつ、と黒板にチョークを走らせる音がした。再びチラリと目をやると、飯山直佳、と名前が書かれていた。白いカーディガンの少女はその場にはいない。

「そしたら男子は……」

 そのままぼーっと黒板の方を見ていた僕は、席を見てクラスの男子リストでも思い出そうとしたのか、振り向いた片柳とちょうど目が合ってしまった。

「あれ、いたの内村」

「……いたよ」

 いたので、仕方なく答える。

「内村はどうよ、オープンスクール係」

「冗談でしょ」

 突き放すように言うと、何がおもしろいのか片柳はまたげらげら笑った。

「だよね。内村は絶対やらなそうだよね」

「どうも」

 僕はせいぜい愛想の悪そうな笑みをにこっと浮かべる。中学生相手に作り笑いを浮かべて校内案内なんて冗談じゃない。その点で僕と片柳は、同じ意見を共有している。

 片柳は男子の誰がオープンスクール係に向いているのか、クラスを見渡しながら考えているようだった。黒板にまだ飯山の名前が残っているのをちらっと見てから、僕は教室を後にした。


 それの存在を思い出したのは、家に帰ってからだった。

「あ」

 家の鍵を取り出そうと制服のポケットに手を突っ込んで、指先に触れる馴染みのない感触に間抜けな声が漏れる。すっかり忘れていた。ポケットから出てきたのは、家の鍵ともう一つ、白い小さなUSBメモリ。

 旧視聴覚室で拾った、飯山の落とし物だ。

 後で渡そうと思っていて、すっかり忘れてしまっていた。飯山はメモリが一つ無くなっていることに気がついただろうか。放課後特に声をかけられたりはしなかったが。

 ……明日渡せばいいか。

 たかだかUSB一つ、一日ないくらいで困るようなものでもないだろう。

 考えながらなにげなくUSBをひっくり返した僕だったが――ラベルを見て硬直した。USBを持ち上げて目を細め、穴が空くほどそれを見つめる。

 他のUSBと同じように、そのUSBにもラベルが貼られていた。しかし、そのラベルに書かれているのは、名前ではなかった。

 少し角の剥がれたそのラベルには英語でこう書かれていた。

“suicaide memory”

「スーサイドメモリー……自殺記憶?」

 自室に籠もってノートパソコンの電源を入れる。制服から着替え、USBメモリをポケットから出す。何度見てもそこには二つの英単語が並んでいる。立ち上がったデスクトップ画面のローディング表示を見つめながら、僕は一瞬迷った。

 最終的には何かが罪悪感を押し殺した。それが何なのかを僕は知っていたが、それもついでに押し殺した。

 USBをポートに差しこむと、青い光が何度かちかっちかっと点滅して、エクスプローラーが自動で起動する。中身はフォルダが一つとファイルが一つ入っているだけだった。フォルダには〝七月のテロメア〟と不思議な名前がついている。クリックするとパスワードを要求された。当然僕にはわからない。ファイルの方はシンプルなテキストファイルだった。タイトルは無題。容量は微々たるもので、更新日時はつい最近になっている。

 読めないフォルダはひとまず放っておいて、僕はロックのかかっていないテキストファイルの方を震える指でクリックした。


 遺書


 これは遺言です。

 私は死にます。自殺します。

 生きることに、疲れました。

 というより、今まで私は生きていたのでしょうか。

 わからなくなりました。ずっとわからないのです。自分が生きている今日が本当に今日なのか、覚えている昨日は本当に昨日なのか、待っている明日は本当に明日なのか、ずっとズレを感じるのです。

 もう疲れました。

 誰のせいということもありません。私はただ、一人ぼっちで、勝手に自分自身に絶望して、死にます。父のせいでも、母のせいでも、友だちのせいでもありません。私のせいです。すべて、私の責任です。

 死後のことは両親と先生に任せます。先立つ不幸をお許しください。


 僕はUSBをパソコンから引き抜いた。

「……どうして」

 その日は久しぶりに、眠れなかった。



 翌日は雨だった。

 ビニール傘を差して学校へ行くと、教室の黒板にはまだ飯山の名前が残っていた。片柳たちは消さなかったらしい。黒板消しに目がいくが、教室にはすでに何人かクラスメイトがいる。僕はおとなしく自分の席に座った。

 飯山が登校してきたのは予鈴が鳴った直後だった。今日も白いカーディガンを羽織っていた。彼女は黒板に書かれた自分の名前を見て、一瞬動きを止める。片柳たちはしれっとしていた。悪ふざけのつもりなのだろう。飯山は片柳とも普段仲良くしている。

 僕は「もー、これ書いたの誰ー?」と飯山が言い出すのを待った。たぶん、片柳たちも待っていた。

 飯山は何も言わなかった。

 ただトスン、と自分の席に座って、そのまま鞄からノートや筆箱を机にしまい始めた。

 ちょうどチャイムが鳴って、永井が教室に入ってきた。さっそく黒板に目を止めて、意外そうにそこに名前が書かれた女子生徒の方を見やった。

「お、飯山は立候補か?」

 飯山は、ただうなずいただけだった。

 僕は片柳を振り返る。彼女も目を白黒させていた。どうやら飯山は、自分で書いてもいないオープンスクール係を引き受けるつもりらしい。なんだかんだとずっと同じクラスなので僕は飯山のことをそれなりに知っているつもりだったが、まったくもって予想外の展開だった。


「ナオ、なんでなにも言わなかったのよ」

「え?」

 ホームルームが終わった後、授業までの数分で片柳たちが詰め寄っていた。事情を知る僕は密かに耳を澄ませる。

「あれ、あたしたちが書いたんだよ? 悪戯でさ。それをなんで、真に受けちゃって」

 片柳の言葉を聞いてから飯山が口を開くまで、妙な間があった。

「――ああいや、もともと立候補しよっかなーって思ってたんだよ。でも朝来たらすでに自分の名前書いてあったから、あれっ、昨日書いて帰ったっけ? ってなって」

 飯山の答えが、なぜか僕にはひどく薄っぺらく聞こえた。

「ならないでしょ、普通!」

 片柳は気づかなかったようで、飯山の頭をぱしっと叩いている。飯山はへらへらと笑っている。

 僕はポケットの中で小さなUSBメモリを握りしめた。


 ――私は死にます。自殺します。


 昨日あんなものを見たせいか、飯山のすべてが奇妙に空っぽで、抜け殻のように感じた。その笑みも、いつも通りの明るい立ち振る舞いも。

 その後、飯山は普通に授業を受けていた。今の僕の席は教室の左後方。飯山はちょうど教室の中ほどに座っていて、僕の位置からは彼女の様子がよく見える。真剣にノートを取る横顔。たまに髪をかき上げる仕草。結び目を気にしているのか、ポニーテールをしょっちゅういじっている。

 自殺。

 それは、飯山直佳を知る人間には連想しづらいワードだろう。

 彼女は去年の文化祭が終わった頃、ふらりと一年三組へやってきた。転校生というわけではない。もともとこの学校の生徒だが、一学期はずっと学校を休んでいたのだ。学校行事が終わった直後のクラスというのは妙な連帯感が生まれていて、半年近くブランクのある人間にはさぞかし立ち入りづらかろうと周囲も微妙に気を遣っていたのだが、彼女はそんな気遣いがばかばかしくなるくらいあっという間にクラスに溶け込んだ。それはもう、見事に。四月からクラスにいるはずの僕の方が、部外者だと思われてもおかしくないほどに。僕には――誰にも言いはしなかったが――高校浪人という引け目もあったが、彼女と比するならそんなものは言い訳にもならなかった。

 そう、飯山はクラスに溶け込んでいる。学年が二年に上がっても、それは変わらない。新しいクラスでもあっという間に新しい人間関係を構築するそのスピードは、確かに何色にも染まる〝白〟っぽさがある。

 成績優秀。

 運動も得意。

 人間関係も良好で、教師からの信頼も厚い。

 生徒会なんかにも勧誘されていたようだが、彼女は委員会と部活動には所属しなかった。代わりに放課後はよく、カーディガン組で集まって楽しそうにおしゃべりをしていた。

 半年のブランクが嘘のように、彼女は白いカーディガンを翻して高校生活を謳歌していた。

 ――遺書。自殺。生きるのに疲れた。

 それは、飯山直佳には結びつけづらいワードだ。


 一日過ぎてしまったせいで、USBが返しづらい。

 そうでなくともあのラベルのせいで渡しづらかったし、直渡しはしたくなかった。かといってこっそり机に置いていくのもだめだ。中身を見てしまった後ろめたさはこっちの方が出ている気がするし、飯山は僕だと気づくだろう。そうすると結局、口止めされたりなんだりで彼女と話さなくてはいけなくなる気がする。これでは直渡しとそう変わらない。

 結論として、旧視聴覚室に置いてきてしまうのがよいと僕は考えた。

 さっさと手放してしまいたいのは山々だが、ゴミ箱に捨てるのはさすがに気が咎める。だから、そもそも拾わなかったことにするのだ。あそこは生徒が寄り付かない場所だ。置いていったところで再び拾われる心配も少ない。飯山があの場所を頻繁に使っているなら、そのうち見つけるかもしれない。すでに探してしまった後だとまずいが、昨日の今日なら飯山はまだメモリの紛失に気づいていない可能性が高かった。

 四限に思いついたので、昼休みに置いてこようと思ったが、先生に頼まれてノートを職員室へ運んだので少し出遅れた。一度教室へ戻ると飯山がいなかった。まさか、と思いつつ僕は急ぎ足に三階へ向かう。

 幽霊教室の扉は締まっていた。立てつけが悪いので開けると絶対に音が鳴るが、僕は音を鳴らさずに開ける方法を知っていた。少しだけ、持ち上げるように開けるのだ。

 わずかにできた隙間から覗き込むと、悪い予感が当たっていた。飯山が机の上に座り込んで、例のポーチを漁っている。まずい。メモリを探しているのか……? 右手の中で握りしめたメモリが、手汗で滑る。

 息を潜めてそのまま見ていると、飯山はふいに手を上げた。持っていたのはUSBではなかった。遠目にも、僕はそれが錠剤のPTPシートだとわかった。

 飯山はそれをぷちぷちといくつか押し出して、嫌そうな顔をしながら一気に飲み込んだ。

 それから再びポーチに手を入れて、ごそごそと何かを探すようにかき回し、

「……あれ、ない?」

 心臓がドキンと跳ねた。ポケットに突っ込んだままの右手の中でメモリが踊る。

「あれっ。うそっ」

 飯山が慌てたようにポーチを引っ掻き回し始めたところで、僕はそそくさと旧視聴覚室から離れた。

 飯山は昨日のことに思い至るだろう。あの場所で、一度ポーチの中身をぶちまけたこと。そうしたら彼女はきっと、旧視聴覚室中を探して回る。だが、メモリは見つからない。それは僕が持っているからだ。

 いよいよ手詰まりだった。メモリは今日この時点で旧視聴覚室に存在しない。これ以降、あの場所にメモリを戻すのは明らかに不自然だ。もはや僕がメモリを手放す術はすべてを正直に話して返すしかないが、それができるくらいならそもそも元の場所に戻そうなどとは考えない。あるいはこれを先生に渡すという手もあるが、教師を経由したところで結局は僕の名前を出されるのだろうから、結果的にはやはり直に渡すのと大して変わらない。間に大人を挟む分だけ話が面倒になりそうでもある。

 結論として僕が取れる手は、持っていない振りをし続けることしかなかった。僕は何も持っていない。何も見ていない。何も知らない。一番楽で、一番卑怯で、一番冷酷な方法。何と言われようとかまわない。僕にとって一番重要なことがそれで達せられる。

 自殺しようとする人間。

 そんな人間に、関わってはいけない。関わったところで、僕ごときにはなにもできやしないのだから。ましてや飯山になど――。

 ……それにしても。

 頭の中をぐるぐると巡る思考とは別に、頭の隅を突っつく疑惑。

 あれは、なんの薬だろう。


 放課後のホームルームまで、当然のように男子の枠は埋まらなかった。女子の枠に書かれた飯山の名前はそのまま残っていた。

「じゃあ宣言通りくじ引きなー。男子集合ー」

 永井が用意してきたくじを男子が順に引いていく。男子二十人。廊下側から引いていくので、窓際に近い僕の順番は後の方だ。

 一本だけのはずれ――もとい、当たりはなかなか引かれなかった。くじ引きの列はどんどん短くなっていき、やがて僕の番がきた。

 小さな箱に手を突っ込み、一番最初に手に触れたくじをつまむ。引っ張り上げると、永井がそれを受け取り開いた。

「おー、当たりだ」

 僕は思わず「げっ」と唸った。

「げっ、とはなんだ。立候補してる飯山に失礼だろ」

 永井の軽いゲンコツを食らい、頭を抱える。

「じゃあ夏のオープンスクール係は飯山と内村に決定!」

 ぱらぱらとまばらな拍手に祝福され、僕はめでたく五パーセントの確率のはずだったオープンスクール係になってしまった。

 掃除の後、教室へ戻ると飯山が黒板の前に立っていた。自分で書いていない自分の名前を見つめて、ぼんやりとしている。一瞬、ポケットの中でメモリを転がしながら返す口実を探してみたが、やはりうまくいかなかった。視線を感じたのか、飯山が振り返って微笑んだ。

「よろしくね、係」

 僕は精一杯嫌そうな顔をした。

「今日はくじ運悪くて」

「げっ、とか言ってたもんね」

「飯山さん、なんで係断らなかったの」

 飯山は黙って肩をすくめた。

「片柳さんたちが悪戯で書いたんだよ、飯山さんの名前」

 朝本人たちが白状していたことを改めて付け加えると、今度はうなずいた。

「別にいいかなって。どうせ誰もやりたがらないし」

 その言い方は、少し投げやりに聞こえる。

「それに、ちょうどいいんじゃない? 帰宅部で暇だし。内村くんも帰宅部だよね」

「そうだけど」

「じゃあどうせ夏休み暇でしょ」

「……僕にだってやることくらいあるよ」

「たとえば?」

 たとえば……そう。

「溜まっているミステリの積本を一気読みする」

「うん、暇だね。まあ座りたまえ」

 飯山は自身も最前列の誰かの席に座りながら、隣の机をぽんぽんと叩いた。突っ立っていると、少し怖い顔になって、もう一度強めに机を叩く。僕は渋々、飯山が叩いた机ではなく、斜め後ろの机に腰掛けた。すると飯山がわざわざ僕の前の席に座り直して、くるり、とこっちを向いた。

「内村くん」

 まっすぐに見られるのは苦手だ。飯山でなくとも。

「私に何か訊きたいことがあるんじゃない?」

 ぎくり、としたが、かろうじて顔には出さずに済んだ。

 訊きたいこと。

 USBを大量に見たことか。あるいは、例の自殺記憶のことか。はたまた、お昼に覗いていたことに気づかれていた? 普通に考えれば一つ目だろう。

 僕は教室を見渡す。掃除後の教室に、残っている生徒はまばらだった。僕と飯山が話しているのは、オープンスクールの係のことだと思われるはずだった。

「……飯山さんは、ハッカーなの?」

 と、僕は声を潜めて訊ねた。

 飯山が目を真ん丸にして、それから噴き出した。

「えっ、えっ、なんでそうなった」

「いや、USBいっぱい持ってたから。学校からハッキングした生徒のデータとか、持ち歩いてるのかなって思って。個人情報収集するのが趣味なの?」

「なるほどなあ……そうなるか。うん、そう。私ハッカーなの」

「だと思ったよ」

「君の個人情報も色々知ってるよ」

「それは困ったな。どうしたらいい?」

「私がハッカーだってこと、みんなに内緒にしてくれたら言いふらさないであげる」

「わかった」

 もちろん僕は飯山がハッカーでないことをよく知っていたし、それは飯山にも伝わっただろう。要するに線引きだった。僕は話の核心を逸らし、飯山はそれに乗った。あの件はそういうことにしておく。そういう線引きだ。そういうことにしておかないと、僕は飯山に深く関わることになりそうで、それは避けたかった。

「内村くんって、おもしろいね」

 人の気も知らないで、飯山は呑気に言う。

「どこが?」

「うーん、言葉選び?」

「それはどうも」

 飯山には悪いが、僕はおもしろい言葉を選んだわけではない。やっていることは、メモリをポケットに隠しているのと本質的に何も変わらない。

 しかし、飯山はさらに身を乗り出してくる。

「俄然君に興味が湧いてきたな」

 それは困る。

「どうして」

「よく知らないんだもの。昨日今日以外でしゃべったことないし」

 僕は喉の奥で少しだけ疼いたものを無理矢理飲み下した。

「だいぶ前に、しゃべったよ」

「……ごめん。覚えてない」

「いいよ、別に。大したことじゃない」

 飯山に言ったつもりが、どうにも自分に言い聞かせているような気がして、僕は付け加える。

「飯山さんが、学校に来た頃だったかな」

 ……そう。彼女が学校に来た頃だった。

「へえ。意外だな。そんな前のこと、覚えててくれたんだ」

「意外?」

 僕が顔を上げると、飯山の真顔が目の前にあった。

「いや、なんか私、内村くんに嫌われてるのかと思ってたから」

 ぎくりとする。避けているのは、事実だ。

「ほら、昨日とか。あと、二年になったとき最初席前後になったけど、全然目合わせてくれなかったし」

 クラス替えの直後は中学のときのように、最初だけ出席番号順で座らされる。名前が近いので、確かに僕と飯山は席が前後になった。彼女のポニーテールが毎日目の前で揺れるのを、プリントを回すために振り返る彼女の顔を、僕はなるべく見ないようにしていた。

「別に嫌ってはいないよ」

 嫌ってはいない。それも事実だ。

「日陰者の僕には、まぶしいんだよ」

 上手い言い訳は思いつかなかったので、ある程度の事実を述べた。

「私が?」

「そう。僕とは違う人種だ」

「そうかな」

「そうだよ」

「でも嫌ってはいない?」

 そんなふうに確かめられて、僕は仕方なくうなずく。

「ならいいや」

 飯山は嬉しそうに微笑む。その笑みに、僕は胸が痛んだ。彼女にとって、僕に嫌われないことが意味を持つことに、確かに胸が痛んだ。

 その日、僕たちはとても多くの言葉を交わした。ちょっと話して帰るつもりがいつしか時計の長針は一周し、二周しようとしていた。別に時間を忘れていたわけではない。飯山が次々と話を転がすから、席を立つきっかけがつかめなかっただけ……というのはたぶん、また自分に言い聞かせている。

 放課後の教室には僕らしかいなかった。どこかで吹奏楽の練習が聞こえる。軽音楽の練習が聞こえる。いつのまにか雨の止んだグラウンドから、どこかの運動部の掛け声が聞こえる。雨の音がしない。夏の気配がする。

 飯山との会話は、少しだけ雨あがりに似ている気がした。