「残高が三十万円を切っちゃった……」

 結衣は預金通帳を見てため息をついた。

 東京での一人暮らしは、郊外とはいえ想像以上に経済的に厳しいものだった。

 何より固定費である家賃七万円が痛い。狭い1Kだが防犯面を考慮し、駅近のオートロック付きの物件にしたため、これが最低ラインだ。

 それなりに貯金もあったのだが、郷里の友達の結婚式など予想外の出費もあり、一気に蓄えが目減りした。

 もちろん、実家に頼ることもできなくはないが、そんなに逼迫しているのなら帰ってきて地元で就職しろと言われるのはわかっている。

 図書館司書になりたくて、わざわざ上京したのだ。二年やそこらで実家に帰りたくはない。

 だが、司書を巡る就職状況は、おそらく最も就職先が多い東京でも厳しかった。

 司書の仕事はあるにはある。東京は大学も多いし、さまざまな専門図書館もある。

 だが、そのほとんどが非正規での募集なのが問題だった。

 図書館自体が基本的に無料で利用できる非採算部門であること、また必要な人員が限られており、図書館が増える見込みがほぼないこと。

 それゆえ、新規で正職員を募集することがあまりない。

 正規職員は昔から勤めている年配の人間でほぼ占められており、そこから新たに必要な人を採る場合は、安く便利に使えるバイトや派遣社員が大多数となる。

 現在派遣で働いている大学図書館での時給は千二百円。フルタイムの仕事だが、週休二日、八時間働いて月に二十万円前後。そこから年金や保険が引かれて、手取りは生活費に全部消えて貯金もできない。

 病気や怪我でもしようものなら、一気に詰んでしまう状況だ。

 もうすぐ年度末で半年契約の更新日だが、更新したところで正職員になるわけでも時給が上がるわけでもない。

 将来性のない仕事にずっと就いていていいのかと常に考えてしまう。

「……やっぱり正社員の仕事を探すかな」

 司書の仕事ではなく、別の仕事ならば正社員の道がないわけではない。

 夢か現実のどちらをとるかと悶々としたまま月日は過ぎ、とうとう更新日が迫ってきてしまった。

 結衣はため息をついて通帳を閉じると立ち上がった。先ほどからお腹が空腹を激しく訴えていた。

 節約も兼ねてごはんは基本的に自炊をしている。結衣は作り置きのごはんを温め直し、一人で手を合わせた。

「いただきます」

 一人での食事はあっという間に終わってしまう。

 洗い物を済ませて風呂の給湯ボタンを押すと、結衣はパソコンを立ち上げた。

 風呂に湯を張っている間、求職サイト巡りをする。夜の日課になっている作業だ。

 司書の正職員の仕事――無駄だと思いつつも、検索する。

「えっ!?」

 一件ヒット、の文字に結衣は目を疑った。


 図書係募集。個人宅の書庫でのお仕事です。


 その一文が目に飛び込んでくる。

「個人宅……!」

 結衣は驚いた。様々な司書の求人案件を見てきたが、初めて目にする仕事だ。

 詳細を知りたくて、慌ててクリックする。

 そして、現れた条件を見て、更に驚愕した。

「えっ……基本給が三十万?」

 司書の給与としては破格の金額だ。

 結衣は募集要項を食い入るように見つめた。


 業務内容……個人宅の図書係。蔵書の整理、目録作り、お客様への対応など。

 勤務地……東京都T市。JRT駅から徒歩十分ほど。

 基本給三十万円(昇給、ボーナスあり)。福利厚生あり(厚生年金、健康保険)。交通費実費支給。

 勤務時間、午後四時~午後十二時まで(七時間勤務、一時間休憩)。

 週休二日(曜日応相談)。

 年齢、性別不問。

 図書館司書資格、図書館勤務経験者優遇。

 若干名募集。

 特に優秀な方に関しては、勤務体系など応相談。


「……」

 何度読み返しても、信じられないような厚遇だ。

 滅多にない正社員での募集。そして高額な基本給。ボーナスまである。

 福利厚生もあって、週休二日。

 まずお目にかかることはできない求人案件だ。

 結衣は胸がドキドキしてきた。

 自分は図書館司書資格はもちろん、実務経験もある。今は大学図書館で働いているが、大学生のときは地元の公共図書館でアルバイトをしていた。

 司書有資格者のうち、実務経験のある者はたった数%ほどという数字をどこかで見たことがある。

 応募は殺到するだろうが希望はあった。

 ただ、唯一引っかかるところがあるとすれば、勤務時間だった。

 最近は公共図書館や大学図書館も夜遅くまで開館するところが増えているものの、夜の十二時までの勤務はまずない。

 帰宅時間のことを考えると、近隣の人間か車を持っている人ではないと厳しそうだ。

 ただ、そこもラッキーなことに、T駅は結衣の住んでいる駅の隣だった。

 十二時半くらいまでは電車も動いているし、最悪、歩いても帰ることができる距離だ。自転車を購入して通勤してもいい。

 これは自分にぴったりの仕事ではないだろうか?

 はやる気持ちをおさえ、結衣は自分の情報を入力してエントリーした。



「やった!」

 朝ごはん後にパソコンを立ち上げた結衣は声を上げた。

 返事は思いのほか早く、翌朝には求職サイトを通してのメールが来ていた。

 そこには、『面接をするので、拙宅に足をお運びください』との言葉があった。

 雇い主は『境井宗司』となっている。

 どうやら、書類選考は通過したらしい。

 あとは面接だ。きちんと仕事をする意欲があることを伝えたい。

 結衣は久しぶりにクローゼットから、紺のスーツを取り出した。

 特に服装の指定はなかったが、第一印象は大事だ。

 念のため、境井宗司の名前を検索してみた。

「へえ、さかい観光グループの御曹司なんだ……」

 さかい観光グループとは、メインのホテル業の他にもアミューズメントやリフォーム業など幅広く事業を広げている企業グループだ。

 二十五年前に急成長を遂げ、一気に事業が拡大したと書かれていた。

 本家は東京郊外のT市となっている。

 つまり、有名企業グループの本家のお屋敷が職場になるということだろうか。

 裕福な家だろうから、立派な書庫をあつらえようと思えば可能だろう。

 事業の一つなのか、それとも本愛好者がいるのかわからないが、雇い主の素性がわかってほっとした。

 破格の条件もこれで納得だ。大企業の本家であれば、司書の一人や二人雇うくらいの余裕があるだろう。

 うまく採用されれば、生活も安定する。

 珍しい条件に若干不安を感じてはいたが、自分には他に選ぶ道はないのだ。

 思いがけないこのチャンス。絶対につかみたい。

 その後のやりとりはスムーズに進み、面接日があっさり決定し、二日後の仕事終わりに結衣は指定された家に向かった。

 夕暮れどきのT駅は人が多く、活気があった。

 T駅は駅回りが再開発されており、真新しいショッピングモールやデパート、大型家電店などのビルに囲まれている。

 だが、賑わっているのは駅回りだけで、五分も歩くとゆったりした住宅街や公園が広がって、急にのどかな雰囲気になる。

 喧噪も聞こえなくなり、だいぶ落ち着いた雰囲気になってきたとき、結衣は足を止めた。

 住所からすると、もうすぐ家が見えるはずだ。

「ええっと、この大通りを一本中に入って……」

 角を曲がった結衣は、思わず足を止めた。

 目の前に石塀が現れ、それがずっと奥まで続いている。

「えっ、これって……」

 何かの施設だろうか、と思うほどの長い石塀だ。

「まさか……」

 石塀の奥には高くそびえたつ木々が森のように連なり、更にその奥にレンガ造りの三階建ての邸宅が見えてきた。

「……」

 企業グループの本家と知って、薄々豪邸だろうと予感はしていた。

 住所はこの辺りだし、そもそも司書を高給で雇うほどの書庫がある個人宅。

 だが、実際に見る境井宅はその想像をはるかに越える大邸宅だった。

 歩き続けると、ようやく石塀の先に門が見えた。

 御影石らしき黒っぽい表札には『境井』の文字がある。

 やはりここで間違いないようだ。

 斜め上から自分を見下ろしているのは、防犯カメラだろう。

 家の門というにはあまりも大きい、見上げるような木の門扉がそびえ立つ。

 圧倒されながら、結衣はインターホンのボタンを押した。

「はい」

 女性の声だった。奥様かお手伝いの女性だろうか。

「図書係の面接に参りました、藤森結衣と申します」

「お入りください」

 そう言うや否や、見上げるような門扉が観音開きにゆっくり開いていく。

 門扉が開くと、屋敷までの道が結衣の目の前に広がった。

 そこは、美しい春の庭が広がっていた。

 紫色の花をつけているのはペチュニアだろうか。白い花びらに黄色の芯花のマーガレット、淡紅色の小花が咲き誇っている高木は海棠だろう。ざっと見ただけでも、数え切れないほどの花々がずらりと並んでいる。そして上を見上げれば、もう蕾が膨らんだ桜。

 飛び石のようにレンガが置かれた小径は、可愛い白い小花で埋められている。

 春の訪れを感じさせる花と木に囲まれて、まるで森の中を通っているようだ。

 年季を感じさせるレンガの質感といい、よく育っている草花といい、古さは感じさせるものの荒れ果てた雰囲気はまったくなかった。

 むしろ、厳かささえ感じる。

 ゆっくりレンガの道を踏みしめて進んでいた結衣の目の前で、屋敷のドアが開いた。

「あ……」

 中から出てきたのは、大学生くらいのすらっとした青年だった。

 ブリーチでもしているのか、髪が雪のように真っ白だった。

 服装もカジュアルなシャツにジーンズという服装なので、歴史ある屋敷には不釣り合いに見える。

 まさか、彼が雇い主の境井宗司なのだろうか?

「ようこそ、境井邸へ」

 思ったより、澄んだ感じのいい声だった。結衣は慌てて頭を下げた。

「あ、どうも初めまして藤森です」

 黒い大きな目がいたずらっ子のように、興味深げに自分を見つめる。

 不躾ともいえるほどの凝視に、結衣は少々気まずい気分になった。

 観察されてる……。

 こちらは選考される側なので仕方がないとはいえ、ますます緊張してしまう。

 結衣のワンルームと同じくらいの大きさの広々した三和土で靴を脱ぎ、用意されたスリッパを履いて大理石の床を歩く。

 玄関ホールからして、想像以上に贅を尽くした造りだ。

 吹き抜けの天井からつり下げられた豪奢なクリスタルシャンデリアを、口を開けて見上げてしまう。

 廊下に飾られた絵画、壺はどれをとっても、一目でいいものとわかる。

 結衣は圧倒されながら、白髪の青年の後をついていった。

 青年は一階の一番奥にあるドアを開けた。

「ここが書斎」

 白髪の青年の後に続いて、結衣は書斎に入った。

「わあ……」

 思わず感嘆の声がもれる。

 そんな結衣を見て白髪の青年が微笑したが、結衣はまったく気づかず夢中で室内を見渡していた。

 上部が半円を描く大きいアール窓からは夕陽が惜しみなく差し込み、書斎の中はやわらかな光に照らされていた。

 凝ったヘリンボーン張りのフローリングの上には、鮮やかな紋様が描かれた絨毯が敷かれている。

 書斎の真ん中に置かれたテーブルとソファは焦げ茶色で、見るからに重厚さを感じさせた。

 そして、何より部屋の壁にはめこむように置かれた書棚に目を奪われた。

 洋書も交ざった書棚は様々なくすんだ色合いの背表紙が並んでいる。

 どういう並べ方をしているのだろう?

 ジャンル別? 作家別? それとも入手順だろうか。

 ざっと千冊はありそうな本を、結衣はうっとりと眺めた。

「初めまして。藤森結衣さん?」

 声をかけられ、結衣ははっと我に返った。

 隣を見ると、いつの間にか銀縁の眼鏡をかけた背の高い男性が立っていた。

 どこか甘い整った顔立ちをした三十歳くらいの男性は、上品そうに微笑んでいる。

 体のラインにフィットした、おそらくはオーダーメイドのスーツがよく似合っていた。服の着こなしが堂に入っており、明らかに上流階級の香りがする。

「この家の書庫を任されております、境井宗司です」

「は、初めまして!」

 結衣は慌てて頭を下げた。恥ずかしさと焦りで顔が赤くなるのがわかる。

 なんてこと。就職の面接に来ているというのに、部屋に見とれてしまうなんて。

 あまりにも素晴らしい書斎に心を奪われてしまった。

 後悔しても始まらない。頑張るしかない。

「どうぞ、そちらに腰をかけてください」

 シックな革張りのソファを勧められ、結衣は落ち着かない気分で浅く腰かける。

 座り心地に感嘆する余裕はなく、結衣は平静さを保とうと深呼吸した。

 こんな素敵な場所で働けるのであれば最高だ。でも、それには面接を突破しなければならない。

 特殊な場所での特殊な仕事――いったい、相手は何を気にし、何を求めているのだろう。

 結衣はじっと宗司の顔を見つめた。

「経歴は一通り、確認させていただきました。司書資格もお持ちですし、公共図書館や大学図書館での勤務経験もあるそうで、申し分ありませんね」

 やわらかい口調でそう言われ、結衣はほっとした。

「求人情報にもあったかと思いますが、仕事は図書係として、書庫の運営、管理をしていただくことになります。私の祖父が残した蔵書を扱っていただきます」

「おじいさまの……」

 結衣が思わず書斎をぐるりと見回すと、宗司が笑みを浮かべた。

「この書斎の本は、半分くらいが僕の本なんですよ。実際に管理していただくのは、地下にある書庫になります」

「地下に書庫ですか……」

 結衣は驚いた。

 すっかりこの部屋の蔵書管理だと思っていたのだが、まさか地下に書庫があるとは。

「正確な冊数はわからないのですが、ざっと三万冊ほどあると思います」

「三万冊……!」

 公共図書館のちょっとした分館並みの蔵書数だ。

 確かに管理するのであれば、プロの手がほしくなるだろう。

「祖父は本が大好きでしてね。亡くなった今も、その遺志を孫である僕が受け継いでいるわけです」

 そのとき、結衣は奥の壁にドアがあるのに気づいた。

 どちらかといえば安っぽい造りのシンプルな木のドアだ。

 優雅で重厚な調度品を揃えている書斎で、そのドアだけやけに浮いて見える。

「あの……その奥のドアから書庫に行けるんですか?」

 結衣がそう尋ねた瞬間、部屋の空気がはっきり変わった。

 宗司と彼のそばに立っている白髪の青年の目が明らかに輝き、二人の口元に笑みが浮かんでいる。

 なんだかやたら嬉しそうに見える。

 だが、なぜ彼らがそんなに喜んでいるのか結衣はまったく理解できず、呆然と二人を見つめた。

 宗司がすっと立ち上がった。

「……そうです。そのドアから地下の書庫に行けます。見てみますか?」

「え? はいぜひ」

 二人の奇妙な反応に戸惑いながらも、地下にある書庫への興味が抑えられない。

 結衣も立ち上がった。

「では、どうぞ」

 宗司と白髪の青年が進む後に続く。

 木のドアを開けると、薄暗い狭い空間があり、コンクリートでできた階段があるのが見えた。

「暗いですから、足もとに気をつけてください」

「はい」

 人が一人やっと通れる狭い階段の脇に円形の小さいライトスタンドが置かれているので、ステップはちゃんと見える。

 小さい丸いライトを目印に階段を下りていくと、なぜか提灯がずらりと並べられた夜の参道を歩いているような不思議な気分になった。

 少し酩酊感を感じ、結衣は軽く深呼吸をした。

「さあ、どうぞ」

 先に下りた宗司が室内のライトをつけ、一気に視界が明るくなった。

「わあ……」

 地下には想像以上の広大な空間が広がっていた。

 茶色の板張りの床に置かれた、木製の本棚がずらりと並べられている。

 結衣はすっかり嬉しくなってしまった。本に囲まれるだけで、気分が高揚してくる。

 どんな本が置かれているのだろう?

「あの、書庫を見てもいいですか?」

「ええ、どうぞ。ぐるっと一周案内しますよ」

 宗司と白髪の青年が歩き出すのに、結衣はわくわくしながらついていった。

 書架の奥に白いカウンターがある。

「ここが図書係の仕事場ですね」

 作業がはかどりそうな、大きく長いカウンターだ。

 その奥には衝立が置かれていて目隠しになっている。

「休憩などはその奥でとれるように、テーブルと椅子が別に用意してあります」

「はい」

 ずらっと並べられた書架を見ていく。奥には閲覧用のテーブルと椅子、そしてソファなどが用意されている。

 どこもかしこも、落ち着いた雰囲気がありとても素敵だ。

 そして、きちんと清掃と空気の入れ換えをしているようで、地下とは思えないほど清潔感と開放感があった。

「あの、これまで図書係っていらしたんですか?」

 書架に並べられた本はラベルなどは貼られていなかったが、思ったよりちゃんとジャンル別に並べられている。

「……以前はいたんですがね。もう二十年ほど不在状態なんです」

「そうなんですか……」

 なぜ二十年もの間放置していたのか少し不思議だったが、そもそも元の持ち主である祖父がいなくなったせいかもしれない。

 書庫の整理に人を雇っても、何の利益にもならないのだから。

「あとは奥にお手洗いと、貴重な本だけを集めた鍵のかかる書棚があります」

 ぐるりと一周すると、宗司がにこりと笑った。

「どうですか?」

「素晴らしいですね。いろんな本があって、整理したくなります」

 本がたくさんあるだけでわくわくする。

 何より、このノスタルジックで落ち着いた雰囲気がいい。

「他に何か気になることはありますか? たとえば帰りが遅い仕事ですが……」

「あ、住まいが隣駅ですので大丈夫です」

「そうですか。ご心配でしたら、帰りは彼に送らせますから遠慮なく」

 宗司が傍らに立っている白髪の青年を見た。

「……」

 そういえば、彼はいったい、何なのだろう?

 当たり前のように宗司のそばにいる青年のことを、結衣は改めて不思議に思った。

 宗司は雇い主ということなのだろうが、明らかにこの青年だけが屋敷で浮いている。

 司書には見えないし、宗司の弟にしてはあまりにも似ていないが……。

「条件などで気に掛かることはありますか?」

「いえ」

 十分すぎるほどの雇用条件だ。

「でしたら、来週から来られますか?」

「え?」

 穏やかな笑みを浮かべている宗司を、結衣は呆然と見た。

 自分は採用されたということだろうか?

「ええ、はい」

 嬉しい。けれど、あまりにあっさり決まってしまって戸惑っている自分もいる。

「では、ここからが本題になります」

 宗司の言葉に、結衣はびくっとした。

 やはり、こんな好条件の仕事が簡単に手に入るはずがない。

 何かあるのだろう。あの求人広告には書かれていなかった重大な懸案事項が。

 この仕事を見たときに感じた不安が、再び鎌首を持ち上げてきた。

 心臓がどくどくと強く打ち始める。

 結衣はごくりと唾を飲み込んだ。

「この書庫は〝ある特殊な利用者のための図書館〟として運営予定です。これからお話しすることは、一切口外しないよう願います。ネットへの書き込みも禁止です。あなたから漏れたとわかった場合、それ相応の対処をさせていただきます」

 淡々とした口調と、真剣な眼差しが怖い。

 先ほどまでのフレンドリーな態度とはまるで違う。

 結衣は心を落ち着け、何を言われても冷静に対処しようと身構えた。

「わかりました。お約束します。絶対に話しません」

 こんな大邸宅での内部での仕事だ。外に漏らしたくない秘密の一つや二つはあるだろう。信用のおける人間かどうかというのも採用に関わる。

 結衣はもともと口は固いほうだし、注目されるためにネットに人の秘密を書き込みたいなどという承認欲求もまるでない。

「ありがとうございます」

 宗司の表情が少しやわらかくなった。

 だが、銀縁眼鏡の奥の目は、まだ冷徹さを秘めたままだ。

「では、まず彼を紹介しましょう。ずっと気になっていたでしょう? すいませんでした。採用する方にしか彼について話せないので」

 白髪の青年がこちらを試すように笑っている。

 書斎まで案内してくれた、謎の青年。

 この屋敷にそぐわない、カジュアルな服装と態度。

 いったい彼は誰なのだろう?

 結衣はドキドキしながら、宗司の言葉を待った。

「彼の名前は風花です」

「風花……?」

 結衣は戸惑った。

 風花とは確か、〝晴天のときに風に舞う雪〟のことだったはずだ。

 綺麗な名前だが、人の名前っぽくはない。

「境井風花さん、ということですか?」

「いえ、違います。彼はただの『風花』です」

 風花と呼ばれた青年がにやりと笑う。

「この名前はご主人がつけてくれたんだ。弾むように庭を駆け回る俺にぴったりだと」

 そう言うやいなや、風花の白い頭に尖った三角形のものが二つ、にょきっと飛び出した。

 ふわふわの白い毛に包まれたそれは、獣の耳そっくりだった。

 え、何……?

 自分の目で見たものが信じられず、結衣は絶句した。

 そんな結衣を、目を細めて楽しげに風花が見つめる。

「俺はもとはご主人に飼われていた白い秋田犬なんだ。寿命が来てもずっとご主人のそばにいたいと願ったせいか、人の形を取れるようになった犬のあやかしだ」

「秋田犬……? あやかし?」

 すべてが現実離れしすぎていて、結衣は目眩がした。

 豪邸の地下にある広大な書庫。

 そこにいる御曹司と秋田犬のあやかしだという青年。

 この人たち、何を言っているんだろう。

 特に宗司は一見まともに見えるだけに、余計に怖くなった。

 妄想癖があるの? わざわざ手品みたいに獣の耳までつけて、私をだまそうとしているとか?

 結衣ははっとなった。

 司書としては破格の好待遇だった求人。あれはもしかして詐欺だった?

 私はおびき寄せられて、のこのこやってきた獲物?

「……私、帰ります!」

 何の目的かわからないが、怖くてたまらない。自分が奥まった屋敷の地下書庫にいるという事実に戦慄する。きっと悲鳴を上げても外まで聞こえないだろう。

 目の前には、妙なことを言う高身長の成人男性が二人。力では絶対にかなわない。

「あ、あの……」

 呼び止めようとする宗司の気配を感じたが、結衣は無視した。

 一刻も早くここをでなければ!

 結衣はバッグをぎゅっと握り、ドアに向かって走ろうとした。

 だが、履き慣れていないスリッパが脱げそうになり、結衣はつんのめった。

「あっ!!」

 結衣は思い切り転んでしまい、バッグが手からふっ飛び転がっていく。

 早く逃げなければという一心で結衣は痛みを堪えて体を起こし、散らばってしまったバッグの中身をかき集めた。

 バッグなど放って逃げた方がいいのか、財布やスマホなどをここに残すほうが危険なのか混乱して判断がつかない。

 宗司がなだめるように声をかけてきているのを感じたが、結衣は右から左に聞き流した。

 そのとき、目の前に風花と呼ばれた白髪の青年がいきなりしゃがみこんできた。

「……!!」

 悲鳴を上げようとした瞬間、目の前にすっと黒い羽根が差し出された。それはバッグから落ちたナギの羽根だった。

「あんた、面白いもの持ってるね」

 風花がニヤリと笑う。

「それ……見えるの?」

「当たり前だよ。だってこれ、あやかしの羽根だろ? こんな漆黒の羽根って言ったら、天狗?」

「ナ、ナギからもらって……」

 母にも誰にも見えなかった羽根を、風花はつかんでいる。結衣は信じられない思いでその光景を見つめた。

「これ、あやかしの羽根なの?」

「そうだよ」

 じゃあ、ナギはあやかしだったってこと? だから、私以外の人は見えなくて――。

 そう考えると確かに腑に落ちるが、やはりあやかしという存在を受け入れられない。

「な、なんで私はあやかしが見えるの?」

「そういう体質なんだろ。異界と相性がいいとか、霊感体質とか。宗司と一緒だな」

 結衣は、おろおろとこちらを見ている宗司に目をやった。

 彼は普通の人間で、なおかつあやかしが見えるってこと?

 風花が面倒くさいとばかりにため息をついた。

「なんだよ、今さら。あんた、書斎のドアを通って書庫に来ただろ?」

「ど、どういう意味……」

「書庫に通ずる書斎のドアは、ある意味〝隠し扉〟なんです」

 宗司がカウンターの近くにある扉をすっと指差す。

「この書庫には、あのドアを使って庭からも入れます。でも敢えてまず書斎に通したのは、テストをするためです」

「テスト……?」

「書斎にある地下に続く隠し扉を、あなたは見ることができた。ですから合格したんです。見えない方はそのまま帰っていただきました」

「あの木のドアですか?」

 豪華絢爛な書斎にそぐわないと感じた、木のドア――あれが隠し扉?

「あの扉はあやかし、もしくはあやかしを見られる人間にしか見えないし、もちろん開けることもできません。普通の人には壁にしか見えないんです」

 確かに自分にドアは見えた。だが、やすやすとは信じがたい話だ。

「あなたはあやかしが見られるってことですか……?」

 宗司がこくりと頷く。心なし、誇らしげにも見えた。

「そう。一族のなかでは僕だけが見られます。だから、祖父にこの書庫を託されたんです。自分亡きあとも存続するようにと」

 宗司が懐かしそうに眼鏡の奥の目を細める。祖父との思い出を大事に慈しんでいるのが伝わってきた。

 結衣はまだ混乱して考えがまとまらなかった。

 他の人には見えなかったナギ。でも、彼が空想上の存在には思えなかった。

 彼があやかしだとしたら、筋は通る。実際、自分もナギは幽霊のような存在だったかもしれない、と思ったことはあるのだ。

 だとしたら、目の前のこの風花は本当に……。

「あの、すいません。ずいぶん驚かせてしまったみたいで……。いわゆる霊感のある人だったら、不思議な経験をしているはずなのでわかってもらえると思って……」

 宗司が困ったように言う。

「もう少し、ちゃんとお話しさせてください。書斎に戻ってお茶でもいかがですか? 一息ついたら、考えもまとまるかもしれませんし」

 結衣は迷った。本当はもう家に逃げ帰ってしまいたかった。

 わけのわからないことばかりで疲弊しているし、何より怖い。

 でも、ずっと謎だったナギの存在について知ることができるかもしれない。それに二人は特に自分に危害を加えそうな感じはしない。

「お願いします。ようやく見つけた人材なんです。お話だけでも……!」

 宗司に深く頭を下げられ、結衣は頷いてしまった。

「少しだけなら」



 書斎に戻ると、結衣はソファを勧められた。

 もう、風花の頭に犬の耳はない。どうやら、屋敷の中では人間の振りをしているようだ。

 宗司が備え付けの電話で何やら話すと、すぐにお手伝いらしき年配の女性が入ってきた。

 目の前のテーブルに見事なウェッジウッドのティーセットが並べられていく。お茶請けのクッキーもとてもおいしそうだ。

 だが、結衣にはそれを味わうよりもまず、他にやることがあった。

「あの、すいません」

 一礼して立ち去ろうとしていたお手伝いの女性を結衣は呼び止めた。

「なんでしょう?」

「あのドアって見えます?」

 結衣は自分たちが通ってきた書斎の奥のドアを指差した。

 霊感のある人間にしか見えないというドアだ。

 結衣の真剣な眼差しにたじろぎながらも、女性は指差すほうを見てくれた。

「ドア……? 書斎には奥にドアはないはずですが……」

 困惑したように女性は雇い主である宗司を見る。

 妙な客だと思われるのを覚悟で結衣は立ち上がり、木のドアに触れた。

「このドアです」

「……そこは壁ですけど」

 お手伝いの女性の戸惑いぶりは、とても演技には見えなかった。

「もうよろしいでしょうか?」

「ああ、宮坂さん。ありがとう」

 宗司の言葉に宮坂がそそくさと出ていく。結衣のほうを気味悪そうに一瞥してから。

 扉が閉まると、宗司がにこりと笑う。

「普通の人には見えません。信じていただけました?」

「……」

 あの人はこの屋敷で雇われている。彼女もグルという線は捨てきれない。

「は―――、ほんと疑り深いな、この女は!」

 風花が呆れたというように、両手を大きく広げ空を仰ぐ。

「こら、風花。彼女は慎重で思慮深いだけだよ」

「ああもう面倒くさい!!」

 そういうと、風花がひょいっと立ち上がった。

「見てろ!」

 ふっと風が吹いた――次の瞬間、結衣の目の前に大きい白い犬がいた。

 きりりとこちらを見つめる凜々しい黒い目、ふさふさの純白の体毛、くるりと巻いた尻尾――それは一見秋田犬のように見えて、それより二回りほど大きい。

「信じたか!」

 白い大きな犬が、風花と同じ声で話す。

 そう、目の前の犬は風花だ。それはわかるが脳が認識することを拒む。

「おい、何をぼうっと見てるんだよ! 何とか言えよ!」

 ぐぐぐう―――――――!!

 突然の低い唸り声に、風花がぎょっとしたように体を引く。

 結衣はお腹を押さえてうつむいた。耳まで赤くなっているであろう自分の顔が見なくてもわかる。

 こんなときに、空腹でお腹が鳴るなんて信じられない!

「……なんだよ、やる気か? 俺は強いぞ!」

 腹の音を攻撃の唸り声と勘違いしている風花が吠えてくる。

 すべてを察したらしい宗司が、コホンと小さく咳払いをした。

「風花、人の姿に戻りなさい。まずお茶にしましょう」

「は?」

「どうぞ、召し上がってください」

 優しく微笑んだ宗司が、クッキーの皿を結衣の前にすっと差し出してくれる。

「……いただきます」

 結衣はうつむきながらクッキーに手を伸ばした。

 ぐううううう―――――!

 空気を読まずに腹が鳴り続ける。もう消えてしまいたい。結衣は急いでクッキーを口にした。上等なバターの味わいが広がるが、堪能する余裕はない。

 大食いですぐにお腹がすくこの体質が恨めしい。

 無言でクッキーを口に押し込んでいると、人の姿に戻った風花がじいっと自分を見ているのに気づいた。

 おそるおそる顔を上げると、風花が意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「もしかして、あれ腹の音? おまえ、腹が減ってたの?」

 宗司が敢えて触れないでいてくれたことをずけずけ言い出す。

 結衣は目に涙が浮かびそうになり、慌ててうつむいた。

 そのとき、宗司の静かだが力を込めた声がした。

「風花、いい加減にしなさい。面接の邪魔をするなら出ていってもらうよ」

「えっ!!」

 冷ややかな宗司の言葉に、風花が心底驚いたように目を見開く。

「俺抜きで図書係を決めるつもりかよ、宗司。おまえ、俺がどんなにあの書庫を――」

 言いかけた風花が口をつぐむほど、宗司の目は鋭かった。結衣は驚き、涙は引っ込んだ。

「ああ、そうだ。大事な大事なおじいちゃんの書庫を稼働させるために、僕たちは図書係を必死で探している。違うか、風花」

「わ、わかってるけどさ。だってこの女、あやかしのことを信じないし、そんな女に図書係は任せられないだろ」

 風花は先ほどまでの勢いはどこへやら、口を尖らせてしょんぼりとうつむく。

 あやかし――それを信じるなら、確かに私は風花に失礼なことを言っていることになる。

 目の前にいるけど、おまえは存在しないと言っているも同然なのだから。

 結衣は紅茶のカップが三人分あることに気づいた。

「あの、彼はあやかしなんですよね?」

 結衣が口を開いたので、宗司がほっとしたように表情を緩めた。

「風花ですか? ええそうです」

「でも、彼は他の人にも見えるんですか?」

「ええ。あやかしにもいろいろいまして、彼はいわゆる〝強い〟あやかしなので、姿を消すことも見せることもでき、人の姿にも犬の姿にもなれます」

「さっきみたいに」

「ええ。普段は今みたいに普通の人間の振りをしてもらっています。『ちょっと怪しい屋敷の警備員兼僕の手伝い』として僕が採用しました」

 宗司のおどけた口調に、結衣は思わずくすっと笑ってしまった。

 確かに玄関で出迎えてくれた風花を見たとき、屋敷にそぐわない怪しい人だと思ったからだ。

「ようやく、笑ってくれましたね」

 宗司がほっとしたように言った。

「まずは改めて、驚かせてしまってすいませんでした」

 宗司が深々を頭を下げてくる。

「配慮が足りませんでした。いきなりの話で、ずいぶん怖がらせてしまったみたいで」

「ええ。びっくりしてしまって、まだ信じられません……」

 結衣は正直に答えた。

「でも、こんなに見えるくせしてなんで信じないんだ? 異界のものを今まで見たことがないのか?」

 風花が不思議そうに言う。宗司の一喝が効いたようで、先ほどまでの攻撃的な態度はなりを潜めている。

 結衣は考えてみたが、やはりはっきりと普通の人には見えないものと関わったのはナギの件だけだ。

 そうナギ――彼はあやかしだったのだろうか。

「昔、小学生のとき、私にしか見えないナギっていう男の子がいたんです。私は普通に人間の男の子だと思っていたんですけど……」

「ああ。さっきの黒い羽根の持ち主ですか。それはびっくりしたでしょうね」

「ええ。でもそれ以来、不思議なものは見ていません。だから私……あやかしって言われてもしっくりこなくて……」

「そうなんですか」

 宗司がちょっと不思議そうな顔になった。

「私、その子とは本を通じて仲良くなったんです」

「どこで会ったんですか?」

「図書館へ行く道です。公園の前の。声をかけられて、本の話になったらすごく興味を持ってくれて」

「へえ! 祖父と同じですね」

 宗司が嬉しそうに声を上げた。

「え?」

「祖父の宗一郎は狐のあやかしと出会い、本を通じて親しくなり、恋に落ちました」

「本好きのあやかしって多いんですか?」

「いいえ。ほんの一握りです。だから、すごい偶然だなって。祖父は四十代で連れ合いである祖母を亡くしたあと、六十一歳のときに狐のあやかし百香さんとこの家の庭で出会ったんです」

「このお庭で?」

 結衣が不思議そうな顔になったので、宗司が苦笑した。

「そう。この屋敷が建っている敷地は、この世と異界の狭間にある特別な場所なんです。だから、たくさんのあやかしたちが行き来できる」

「異界……神や魔、モノノケのいる世界のことですか?」

「ええ、その通りです。百香さんですが、美しい赤毛の若い女性だったらしいです。風花と同じく人そっくりに化けられて、話すうちに彼女が本に興味を持ちだしたらしいんです。本好きの祖父は喜んで彼女にいろいろ本を薦めたそうです」

「……!」

 急速にナギとの楽しい時間が蘇ってきた。

 確かに宗司が言うように自分たちと似ている――結衣はそう思わずにいられなかった。

「百香さんはすっかり読書にはまり、祖父と毎日のように本について話していたそうです」

 きっと楽しかっただろう。毎日、会うのを待ち焦がれただろう。

 痛いほどよくわかる。

 結衣は自然と宗一郎に自分を重ねてしまった。

「老いらくの恋、というのでしょうかね。祖母を亡くして約二十年、祖父の孤独を彼女が埋めたのかもしれません。とにかく、祖父は百香さんに夢中になった。僕の父などは複雑な思いがあるようですが……」

「そうかもしれませんね……」

 自分の父が、母が亡くなったとはいえ若い女、しかもあやかしに夢中というのは、子どもとしては歓迎すべき事態でははかっただろう。

「とはいえ、僕たち家族はすでに白金で暮らしていましたし、祖父の行動に干渉はしなかったようです。もともと本好きで本を大量に持っていた祖父でしたが、百花さんのこともあって思い切って書庫を造ろうと考えたんです」

「百花さんのために書庫を……」

「ええ。祖父が百香さんと付き合いだしてから会社の業績が急に伸びたこともあって、かなり経済的に潤っていたので誰からも文句は出ませんでした」

「なるほど」

 そういえば、さかい観光グループについて調べたとき、『二十五年前に急成長を遂げた』と書いてあった。それが百香と出会ったタイミングだったのか。

「ただ、急に成功したのは狐のおかげではないかと噂が立ってしまって」

 宗司が苦笑する。

「確かに飛ぶ鳥を落とす勢いで、新しく手がけたホテルや旅館が次々と大成功しましたから驚かれるのも無理はないですが……」

「それは本当に狐のおかげだったんですか?」

「それがはっきりしなくて。タイミング的には確かにそうなんですが、ニーズに応え、丁寧なサービスを提供した祖父の努力が実ったとも言えるので何とも。土地の買収が驚くほどスムーズにいったりと、幸運が重なったのも事実ですが」

「確かに狐は家を富ませるという説もありますよね。狐持ちの家とか」

「そうなんですよ。この家は狭間に建っているせいか、以前から奇妙なものが見えたり、声がしたりすると怪しまれていて。しかも百香さんが祖父の恋人になってからは狐の姿を見かけたとか、犬がやたら吠えるとか怯えるとかで、近隣には完全に『あやかし屋敷』として認識されましたね」

「まあ実際、あやかしがよく現れるから間違ってはいないな」

 風花が面白そうに口を挟む。

「俺もわりとご近所さんに怪しまれているし!」

 自慢げに言う風花に、思わず苦笑してしまう。どうやら彼を怪しく思ったのは、自分だけではないらしい。

「とにかく、祖父は百香さんが自由に本を読めるように書庫を造った。そして、彼女が提案したんです。あやかしにも稀に本好きがいて、読みたがっているものがいる。そういう人に書庫を開放してほしい、と。いわば、あやかしのための図書館ですね」

「なるほど……そういう成り立ちなんですね。〝ある特殊な利用者〟というのは、あやかし……」

「そうです。百香さんが図書係としてずっと書庫を切り盛りしてくれていたんですが、ある日急にいなくなってしまったんです。それが二十年ほど前。でも、祖父はずっと書庫をそのままにしていた。いつか彼女が戻ってくるかもしれないから、と」

「ああ、それで……」

 二十年もの間、書庫をそのままにしていた理由がわかった。

「でも、彼女は戻ってこなかった……」

「ええ。そして祖父は十年前に亡くなり、僕がこの書庫を引き継ぎ今に至ります」

「おじいさまの遺志を継いでいるんですね……」

 先ほど風花を叱りつけていた言葉が蘇る。

 ――大事な大事なおじいちゃんの書庫。

「ええ。今となっては維持費だけがかかるお荷物のような場所ですが、一族の誰からも反対意見は出ませんでした。験担ぎですね。もし、あの書庫や本を処分してしまったら、事業が大失敗するんじゃないかと皆どこかで恐れているんだと思います」

「なるほど……」

 狐のあやかしと出会ってから栄えた一族。今や当の本人たちがいなくとも、彼らが大事にしていたものを無下にした途端、ツキがなくなる気がして怖いのだろう。

 ならば多少維持費がかかっても、置いておくほうが安心ということらしい。

「それに、さかい観光グループはどんどん事業を拡充していますから、今のところ経費削減のため書庫をなくす必要もないですしね」

「あの、宗司さんは怖くなかったですか? あやかしが見えるなんて……」

 結衣の言葉に、宗司は意外そうな表情になった。

「え? そうですねえ。子どものときはちょっと怖かったですけど、祖父がわかってくれたし、今は風花もいるし」

 ふっと宗司の顔に笑みが浮かんだ。

「それより嬉しかったですね。祖父と同じ世界を共有できて。僕はたくさんいる孫のなかでも、ことさら可愛がってもらいましたし」

 懐かしむような宗司の表情に、彼がいかに祖父を尊敬し、愛していたか伝わってきた。

「ここは特別な場所で、あやかし相手の特別な仕事です。だから、百香さんが戻るのをずっと待っていたんですがね。祖父が亡くなって十年たちましたし、思い切って新しい図書係を募集することにしたんです」

「あやかしが利用者だから、あの時間帯なんですか?」

「ええ、そうです。あやかしが活動しやすいのは逢魔が時の夕方から夜なので」

 宗司が苦笑する。

「正直、あまり期待していなかったんです。図書係としての能力や人柄だけではなく、あやかしを見ることができてコミュニケーションをとれる人材なんてね。しかも口が固く信用できる人が必要でしたから」

「だから……あんなに好条件だったんですね」

 あの奇妙な募集の意味が今、ようやく腑に落ちた。

 特殊な仕事のうえ、選定条件が非常に厳しいためだ。

「そう。とにかく人を集めて、資質のある人を探したかったんです」

 じっと宗司が見つめてくる。

「どうでしょう。あやかし相手の仕事ということで困惑されているのは重々承知していますが、ご検討いただけないでしょうか?」

 結衣はじっと考え込んだ。

 どうやら詐欺ではなかったようだが、思いがけない事態に頭がまだついていかない。

 私はただ、司書の仕事をしたかっただけなのに。

 確かに司書の仕事ではあるけれど、利用者があやかしなんて――想像もつかない。

「……わかりません」

 面接では絶対言ってはいけない言葉だったが、結衣はそう言うしかなかった。

 喉から手が出るほど欲しかった、好条件の司書の仕事。

 でも、あまりに特殊な環境で自分がやれるのか自信がない。

 そもそもあやかし云々とは何なのか理解できない。

 混乱していて、嘘でも『やれます』とは言えなかった。

「そうですよね。つい、焦ってしまって申し訳ありません。こんなに条件にぴったりな人が来てくれるなんて思いもしなくて」

 宗司の言葉は嬉しかった。

 だが、すぐに答えを出せるほど簡単な問題ではない。

 じっと黙ってしまった結衣に、宗司がにこりと笑いかけた。

 相手を安心させるような笑顔だった。

「すぐさま拒否されなくてよかったですよ」

「え?」

「今、考えていただいているんでしょう? 検討の余地があるというのはありがたいことです」

 結衣ははっとした。

 確かにこんな怪しい話、言下に断ってもよかったはずだ。

 だが、条件も含めてすぐに切り捨てるのは惜しいと思っているからこそ、自分は迷っているのだろう。

「何が不安なんだ?」

 いきなり風花に尋ねられ、結衣は驚いて顔を上げた。

 風花がまっすぐ自分を見ている。大きな黒い瞳は純粋な疑問に満ちていて、思わず口ごもってしまった。

「その……だって、あやかしのことをよく知らないし……」

「そんなことか! 俺たちは一人一人全然違う。もちろん、全部把握している奴なんていねえよ。どんどん増えたり減ったりしてるしな!」

「あの、そういうことじゃなくて……」

「じゃあ、なんだ?」

 結衣は遠慮していた一言を思わず口にしてしまった。

「だから! わけのわからないものだから怖いの!」

「ああ、あやかしが怖いのか。そんなことか」

 風花が納得したように頷いたので、結衣は呆然とした。

「それなら問題ない。俺が守るから」

「は?」

「それは僕から説明します」

 風花に任せていては埒が明かないと思ったのか、宗司が苦笑しながら口を挟んできた。

「この風花は祖父の愛犬でした。彼はあやかしになった今でも祖父が大事にしていた書庫を守るためにいるんです。飼い主だった祖父もいないし、自由にしてもいいんですが」

「守る……?」

「そう。あやかしの図書館として開放された書庫には、いろんなあやかしが来る。そのほとんどが本に興味を持つ平和的なあやかしですが、厄介なやつが来ないとも限らない。そんなときのための番犬――ガードマンが風花なんです」

 目が合うと、風花がニヤリと微笑んだ。

 無邪気さと無垢な凶暴さが入り混じる、少し怖いが魅力的な笑顔で、結衣は思わず見とれてしまった。

 人間ではとてもありえないような、純然でまっすぐな感情が伝わってくる。

 言われてみれば、彼は人の形をとりながら人とは少し違って見えた。

「そういうわけだ。おまえが図書係にふさわしければ、何が来ても俺がちゃんと守ってやるから」

「……私がふさわしくなかったら?」

「出ていってもらう。大事なご主人の書庫だ。役に立たない奴には任せられない」

 風花がふんと嘲るように鼻を鳴らす。

 ああ、そうか。

 結衣は少し風花のことがわかった気がした。

 忠犬ハチ公のモデルにもなった秋田犬は、忠実で家族を守ろうとする気持ちが強いと聞く。風花はその性質のままのあやかしなのだろう。

 だから、ご主人の残した書庫を守るため、怪しい部外者を警戒している。

 私は彼を怪しんでいたが、彼もどこの誰かもわからない私を怪しんでいるのだ。

 ちゃんと書庫の蔵書を扱うのか。利用者の役に立つのか。

 部外者を警戒している忠実な番犬。それが風花だ。

 そのとき、結衣はある可能性を思いついてはっとなった。

 ナギがもしあやかしだとしたら――故郷はここからは遠い。でも、もしかしたら。

「この書庫を再開したら、本好きのあやかしたちがやって来るんでしょうか?」

「彼らなりにいろいろネットワークがあるみたいですからね。あやかしが自由に出入りをして本を読める場所なんて他にないでしょうから、本好きはやってくると思いますよ」

 宗司の言葉に、結衣は期待に胸が膨らむのを感じた。

 もしかしたら、いつかナギも噂を聞きつけてここに来るかもしれない。

 だって、あんなに本が好きだったのだから。

 ナギにもう一度会えるかもしれない――急に光が差したような気がした。

 ずっと諦めていたけれど、ここなら。この場所でなら再会の可能性がある。

 でも、この世と異界の狭間という特別な場所に身を置くことが怖くもあった。

 結衣はちらっと風花を見た。

「あなたは書庫にずっといるの?」

「もちろん。書庫を守るのが俺の役目だから」

 当然のように、風花が胸を張る。

「私がちゃんとした図書係になったら、守ってくれる……?」

 風花の目が大きく見開かれ、そして彼はニヤリと微笑んだ。

「大事な大事な図書係を、俺が守らないわけがないだろう?」

 風花の輝く黒い瞳に宿る強い光。

 揺るがない、まっすぐな彼の気持ちが伝わってくる。

 職務を果たせば、風花は私を守ってくれるだろう。ご主人の書庫のために全身全霊をかけて。

 結衣の心はようやく決まった。

「私……ちゃんとやれるかわかりませんが……ここで働いてみたいです」

「ほんと!?」

 宗司が目を大きく見開き、ソファからがばっと立ち上がった。

「やった! ありがとう!!」

 宗司が手を伸ばし、結衣の手をぎゅっと握る。

 さっきまでの落ち着いた様子はどこへやら、宗司はまるで少年のようなはちきれんばかりの笑顔を浮かべている。

 大人の男性に、こんなに無邪気に感謝されるのは初めてだ。

 結衣は戸惑いつつも、嬉しかった。

「あ、失礼」

 宗司が結衣の手を握りっぱなしなことにようやく気づき、ぱっと手を離す。

 すると、今度は風花がぎゅっと結衣の手を握ってきた。

「えっ!!」

 力強い手に両手をがしっと包まれて、結衣は思わず声を上げた。

「こら、風花!! 離れなさい!」

 慌てる宗司に、風花がきょとんとする。

「え? これは契約完了したときの人間の合図じゃないのか?」

「ち、違う! いや、違わないけど、思わず手を握ってしまっただけで、オーバーアクションで、その……」

 宗司が顔を赤らめておろおろしている。

 すると、風花が怪訝そうな表情で結衣の顔を覗き込んできた。

 ぐいっと近づいてきて、今にも鼻と鼻がくっつきそうだ。

「あ、あの……」

 何とか風花を遠ざけようと結衣が腕に力を入れたとき、更に風花が顔を近づけてきた。

 頬と頬がぴたりとくっつき、息が耳元に触れる。

「ちょっと……!」

 結衣はどんと風花を突き飛ばした。

「風花! 失礼だろ?」

 宗司が叱ったが、風花は真剣な表情で結衣をじっと凝視したままだ。

「おまえ、あやかしの匂いが微かにするな……」

「え?」

「おまえ、昔あやかしの少年と知り合ったって言ってたな?」

「え、うん……」

「それ以来、他のあやかしに会ってないんだろ?」

「ええ、まあ……」

「なるほどな」

 風花がようやく結衣から離れた。

「なるほどって何?」

「そいつがおまえを守るために、マーキングしていたのかもな」

「マーキング?」

「強力なあやかしの気配をつけておくこと。これがあれば、冷やかしのあやかしはまず寄ってこない。他の低級なあやかしも身を隠す。だから、あんたは今まであやかしと無縁でいられたのかもしれないな」

「……」

 結衣は思いがけない言葉に驚いた。

「時間が立ちすぎてだいぶ匂いが薄れてるな。もうそのうち消えるだろ。だけど心配しなくていいぞ。これからは俺がついてるからな!」

 風花が自信満々に胸を叩く。

「すいません、ウチの番犬は女性の扱いを知らなくて。犬だと思って許してやってください」

 宗司がため息まじりに謝ってくる。

 いきなり匂いをかがれて驚いたけど、確かに犬だと思えば腹は立たない。

 実家でも犬を飼っていたし、むしろ好きなほうだ。

「大丈夫です」

「よかった。基本的には僕は書庫にはおらず、風花と二人で仕事をしてもらうことになるので」

 結衣はこくりと頷いた。

「じゃあ、来週からよろしくお願いします」

「はい」

 私はあやかし屋敷の図書係になってしまった。

 これからどんな生活が始まるのだろう。

 期待と不安が混ざり合い、結衣はドキドキした。