彼女の遺体が発見された時、手元に転がっていた携帯の画面に、僕の携帯番号が打ち込まれていたと知ったのは、それから数ヶ月後のことだった。



 ちょうどこの場所だった。

 夕暮れ、まっすぐに列を成した桜並木。

 今ではすっかり枯れ果て目もくれられない木々たちが、こぞって雪を積もらせ冷たさに耐えながら、数ヶ月先の春を待ち望んでいた。

 ここが、彼女と最後に逢った場所だ。

 あれから何度、僕はここに足を運んでいるのだろう。

 僕はゆっくりと目を閉じる。そうすれば、少しでも彼女に近づけるような気がした。

「ピッピ」

 小さな声に目を開けると、一羽の小鳥が木の上からこちらをじっと見据えていた。淡いグリーンの羽を静かに休めていて、それはまるで季節外れの木の葉を演じているみたいだ。

 なんだか空が似合わないその小鳥は、やがて居場所を求めるように、僕に背を向け羽ばたいていった。



 十月初旬の、あの日。

 木の葉も空も、彼女の髪色に至るまで、オレンジ一色に染まった景色。それは色褪せたセピア写真の中のようだった。

 彼女は裾がバルーンになった花柄のワンピースに、白いニットのカーディガンを羽織っていて、その袖で指先を少し隠していた。

「やっぱり駅まで送るよ」

 僕の提案に、彼女は俯いたまま首だけを荒っぽく横に振った。と同時に、ぎゅっと唇を噛みしめた彼女を、僕はただ黙って見ているしかなかった。

 やがて、彼女は逆光にいる僕を眩しそう見つめて、

「ねえ、大ちゃん、私、本当はね……」

 何かを言いかけた。つられてゴクリと息をのむ。けれど――、

「ううん、なんでもない……サヨナラ」

 そう言い残して、彼女は僕のもとを足早に走り去っていった。


 あの日、彼女はこの街を去った。

 そして、僕の前からも。

 今でも、あの日のことを思い出す。

 それはいつも、ふとした瞬間。タバコを吸っている時、眠りにつく前、夢の中、そういった僕が無防備な時を狙って、古傷の奥に、じんわりと痛みが蘇ってくるのだった。

 できることなら、もう一度あの日に戻りたい。

 一日だってそう思わない日はなかった。

 なぜ時間は前に進むばかりで、折り返し地点が一つもないのだろう。

 規則正しく時を刻む時計の秒針はぐるぐると円を描き、たった六十秒でまたもといた場所に戻ってこられるというのに。

 もし、もう一度あの日に戻ることができるなら。彼女がどんなに拒もうと、僕は決して彼女の手を離したりはしなかったのに――。


 意識をとらわれながら、慌てて乗り込んだこの電車が自宅と反対方面だと気づいた時にはもう遅かった。

「ああ、やっちまった」

 巻き戻されていく街並みを見ながら、ドアの前で小さく舌打ちをする。

 彼女のことを考えている時はいつもこれだ。僕は昔の自分に戻ってしまう。

 今だってこうして、彼女と付き合っていた頃まで住んでいた実家方面行きの電車に乗り込んでいるのだから。


 彼女と付き合った二年半という月日の中で、彼女は何度か僕の実家に訪れた。

 彼女は僕の実家を素敵な家だと言ってくれたし、それ以上に僕の両親が彼女のことを気に入った。

 だから彼女と別れた後、さらに死んだ後になっても、両親は僕に向かって未練がましく彼女の話を続けるのだった。

 だから僕はほとんど実家に寄り付かなくなった。

 そんなこと、言われなくたって自分が一番よくわかっている。

 電車はゆっくりとスピードを落として完全に停まり、ドアが開かれた。立ちつくす僕の脇をすり抜けて出ていこうとする人の波に、思わず足がすくむ。

「ドアが閉まります。ご注意ください――」

 それはほんの数秒の出来事だった。やがて新たな客を乗せた電車は、再びゆっくりと走りだす。僕は、その電車を外から見送っていた。

 電車がホームを出て行った後、線路の奥に立つ巨大看板には、何かの広告ポスターが貼り付けられていた。


【取り返せない過去になる前に、やり直せる今を】


 あの頃に戻ってやり直せたら……。

 何度、このフレーズを頭の中で繰り返しただろう。

 あの頃にもう一度戻れるなら、彼女を力ずくでも引き止めて、けして離さないのに。

 けれど、過ぎてしまった過去には、もう二度と戻ることはできない。

 過去にどれだけ後悔があろうと、やり直すなんて不可能だ。

 僕たちの前に広がる道は、時計のように円ではなくて、ただただまっすぐに延びているだけ。そして、ゴールに辿り着いたらプツリと終わる。

 それが生きるということであり、人生なのだ。

 とらわれかけていた意識を取り戻した僕は、その広告から目を逸らして、間もなく入ってきた向かいの電車に乗り込んだ。


 ジャケットのポケットが振動する。僕の仕事仲間で、親友の正樹からの着信だった。

『もしもし?』

「おう、どうした?」

 僕がそう言うと、正樹は少しの間勿体つけるように言葉を濁してから言った。

『実は俺、結婚することになったんだ』

「え、 美紀ちゃんと?」

 突然の報告に僕は驚いた。心なしか正樹の声も高揚しているようだった。

『ああ、そろそろけじめつけようと思っていてさ。もう付き合って八年になるからな。それでさっきプロポーズして、OKもらって。真っ先にお前に知らせたってわけ』

「おお、おめでとう! ありがとうな」

『おう! とりあえず詳しくはまた話すよ』

 電話が切れた後も、弾んだ正樹の声が耳から離れなかった。

 僕はゆっくりと携帯を閉じる。親友の幸せは心から嬉しかった。

 だけど、そんな話を聞く度に、僕は彼女のことを強く想うのだった。

 彼女と別れて以来、僕は数人の女と付き合ったけれど、誰一人として心から愛せた子はいなかった。

 一方通行だろうとなんだろうと、僕の小指に結ばれた赤い糸は紛れもなく彼女に繋がっていたのだから仕方がない。

 それなのに、僕には今、同棲している加奈という女がいる。

「好き」かどうかはわからないが、少なくとも「嫌い」なところは何一つない。

 とてもいい子だ。心から愛せたら、と思う。

 加奈は、今でも僕が彼女を想っていることを知っていた。それをわかった上で、僕と一緒にいてくれるのだ。

 それなのに僕は、加奈本人にさえ、彼女の面影を見つけようとしている気さえする。

 そのことに大きな罪悪感を抱えながらも、自分で正せる気もしなかった。せめて取り繕うよう努力しても、それは多分、無駄に終わるだろう。

 なぜなら加奈は、彼女の親友だったから――。


 アパートへ戻ったのは深夜に近かった。加奈はまだ起きていて、

「お疲れさま、また残業? ご飯食べる?」

 と立ち上がってキッチンに向かう。

「ああ。でも、先にシャワー浴びてくる」

 テーブルの前に腰掛けた時には、温め直された料理が並べられ、冷蔵庫から取り出したばかりのビールがシュワシュワと音を立ててジョッキに注がれているところだった。

 七対三という完璧なバランスで注がれた泡。まるでCMに出てきそうなほど見事なそれは、加奈の得意技だった。

 ふと、彼女が注いでくれた泡ばかりのビールが脳裏に蘇る。

 いけない、と頭を振ってそれを無理やり頭の中から追い出した。

 誰がどう見ても加奈は家庭的でいい女であることは明白だった。なのにどうして僕は、今でも彼女ばかりなのだろう。

 そう思う度に、小さな罪悪感が胸をチクチクと刺し続けるのだった。

 彼女と加奈は外見もよく似ていた。類は友を呼ぶ、なのだろうか。

 長かった髪をばっさり肩まで切った加奈が、彼女と重なり、今日もこうして無意識に顔を背けてしまうのだった。

「髪切ったの。気がついた?」

 短くなった後ろ髪をしきりに撫でつけながら加奈が言った。

「ああ。気づくさ、さすがに」

 加奈と目を合わせないようにして、僕は料理を口に運んだ。

「そうよね、だって30センチは切ったもの」

 そう言って、加奈は両手を広げてみせた。

「思わず持って帰ってこようかと思った」

「そんなもん、どこに置くんだよ」

「そう思って、持って帰ってこなかったわよ」

 加奈がフフッと微笑みを零す。

「アカネも、いつもこのくらいだったわよね」

 その名前に、無意識のうちに黙りこくる。

 そんな僕を見かねた加奈が、ふうとため息をついた。

「ねえ、まだ行く気ないの?」

「………」

「……だってもうすぐ七回忌だよ?」

 アカネが死んだのは、別れてちょうど三ヶ月が過ぎた頃だった。

 そして僕がそのことを知ったのは、それからさらに数ヶ月後。偶然、街で加奈とすれ違った時のことだ。

 死因は急性心不全の突然死だった。

 加奈の情報によると、亡くなる前のアカネはほとんど食事をとれなくなっていたらしい。

 僕と別れたその足で引っ越していったアカネ。そこで独り、部屋のソファーに腰をかけたまま息を引き取っていたところを母親に発見されたのだそうだ。

 たった三ヶ月後に彼女が死んでしまうなんて誰が思っただろうか。もしわかっていたのなら、遠距離なんてことくらいで、意地でも彼女と別れたりしなかった。

 引き止めるか、僕がアカネのもとへ行き、毎日そばにいて、彼女が苦しみだしたらすぐさま病院へ連れていっただろう。

 今更考えたってもう遅いことは十分わかっている。それでも何度も同じことばかりを繰り返し考えた。何千、何億、それは巨大な渦となって僕をのみ込み、今もその中にいる。

 加奈に返事をしないまま、立ち上がってベランダの窓を開けた。

 タバコに火をつけ、ウッドデッキの上に座り込み、肺に溜めこんだ息をゆっくりと吐く。向かい風でもろに煙を顔に浴び、ギュッと目をつぶると目じりに涙が滲んだ。

 すぐ後で加奈も僕の隣に並び、口の右端にタバコをくわえた。僕は同じく火をつけてやる。

 僕のより細長くて白いタバコは、加奈の細い指に似合っていた。

「七回忌、今月の十五日だって。命日だからって」

 黙り続ける僕に、彼女は続ける。

「七回忌っていったって、まだ六年しか経ってないのに変よね。もうこんなに経ったんだ、さっさと見切りつけろ、ってことかしらね」

 言ってから彼女はハッとした顔をしてごめん、と小さく謝った。

「お前が謝ることないさ」

「でも……」

「お前は何も悪くないよ、悪いのは僕だ」

「どうして? 雄くんは何も悪くない」

「雄くん」と言われて一瞬、誰のことだかわからなかった。彼女のことを考えすぎていたせいだ。そう呼ばれて、加奈が彼女でないことを改めて実感する。

 木口雄大。

 それが僕の名だ。

 彼女は僕のことを「大ちゃん」と呼んでいた。

 そう呼んだのは後にも先にも彼女だけだった。他の誰とも同じように呼びたくない、という彼女のこだわり。

 当時はそう呼ばれても、どうもしっくりこなかった。けれど、今となっては「大ちゃん」以外の僕は、僕であって僕じゃない。そんな気がした。

 もし、「本当の僕」というものがあるとしたなら、それは「大ちゃん」であり、彼女が死んだ時、一緒にこの世から消えてしまったに違いない。

 彼女なしに生きていくことも、彼女以外の誰かの隣で眠ることもできてしまう今の僕は、ただの抜け殻に他ならなかった。

 彼女は僕の大事な部分を根こそぎ抱えたまま、この世を去ってしまったのだ。



「……ぅあっ!」

 体中にじっとりとした汗が滲んでいた。息を切らして隣に目をやると、加奈は気づかず寝息を立てていた。

 静かに起き上がって、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を一気に飲み干す。

 ――1月10日3時20分。

 さっきまで見ていた光景が瞼の裏で生々しく蘇ってくる。彼女が死んでから、僕は何度も同じ夢を見るようになった。そして何度もうなされるのだった。

 彼女が死ぬ直前に電話をかけた相手は僕だった――。

 別れを切り出したのは確かに彼女で、とっくに僕のことなど忘れたと思っていたのに。必要なのは、僕が彼女を忘れることだけだと思っていた。

 だから、それを聞いた時、僕は不謹慎にも嬉しかった。そして、その後その何倍も後悔に打ちのめされることになったのだ。

 なんとかして彼女を忘れようとした僕は、別れてからすぐに番号ごと携帯を買い換えた。そんな僕が予想もしない彼女からの電話に出ることは二度と叶わなかった。

 彼女は朦朧とした意識の中で、ようやく押し終えたその十一桁の数字の先から、冷たく突き放したような電子音を聞いたのだろう。

 ――オカケニナッタ電話番号ハ、現在使ワレテオリマセン。

 最後の時に、彼女がどれほど絶望したのだろうか。

 夢の中で永遠に鳴り響くアナウンス。

 それは紛れもなく、僕の彼女への後悔と未練の塊になった。



 結局、寝つけなかった僕は上着を羽織り、加奈が起きてこないよう用心深く玄関のドアを開けた。

 空はまだ、瞼を閉じたように真っ暗だ。夜明け前が一番暗いのなら、正しくその辺りの時間なのだろう。

 僕はマンションの下に止めてある車に乗り込んだ。

 少しドライブでもして気を紛らわせよう。国道に乗り、窓を開けて風を浴びる。どこか宛てがあるわけでもなかった。

 気のむくまま車を走らせた結果、辿り着いたのは僕の実家だった。

 まるで何かが僕をここへと導いているかのように、自然な流れだった。

 こんな風にアカネのことばかり考えてしまう日は、いっそ、彼女にまみれて夜を明かすのも方法かもしれない。

 僕は家の前に車を止め、一応普段から自宅の鍵と一緒にして持ち歩いている実家の鍵で玄関のドアをあける。もちろん、中はシンと静まり返っていた。

 懐かしい実家の匂いがする。こんな時間に突然息子が帰ってくるなどと思っていない両親はとっくに夢の中のはずだ。

 玄関を入ってすぐにある部屋が僕の部屋だった。

 階段を上がる音で誰かを起こしてしまわずに済むのが、この部屋のいいところ。小さな音もたてないよう慎重に部屋の中へと忍び込んだ。

 ドアの脇にあるスイッチを押して電気をつけた。

 灯りの灯った部屋は、僕がここで暮らしていた時よりも一回り小さくなった気がした。決して気のせいなどではない。なぜなら僕がここで暮らしていた時にはなかった物が部屋の壁中にずらりと並べられていたからだ。

 天井までぴったりと収まるサイズで作られた本棚には、とても読みきれない量の本が隙間なく収められている。

 僕がこの部屋を出てから、昨年に心筋梗塞で亡くなるまで、母方のばあちゃんが住んでいた。部屋のサイズに合わせて本棚を作ったのは僕だけど、そこに収められた本の多くを書いたのは、僕のじいちゃんだった。

 ばあちゃんよりも数年前に他界したじいちゃんは小説家だった。だから、並べられた本の中には同じタイトルのものが何冊もある。

 僕はじいちゃんの書く小説が子供の頃から好きだった。

 ボンレスハムみたいに分厚い本を抱え込み、読めない字をじいちゃん本人に教わりながら読んでいた。

 正直意味を正確に理解していたかといえば、きっとそうではないが、それでも生きる上で大切なことを僕は本を通してじいちゃんから学んでいたような気がする。

 僕は本棚に囲まれた部屋の窓辺に寄せられたベッドの上にごろりと横になった。

 多少埃っぽいが、そんなことをいちいち気にするほど潔癖ではない。

 このベッドは僕がいた頃と同じものだった。

 何度か、アカネがこのベッドの上で寝息を立てていたことを思い出す。

 僕はそこでそっと目をとじた。手首や首筋に直接触れるシーツが肌に冷たい。


『ねえ大ちゃん、私、本当はね……』


 ハッとして目を開けると、今目の前にいた彼女が青白い蛍光灯に吸い込まれていった。

 心臓がドキドキと波打っている。

 いつも思い出す別れ際のシーンだが、今日はいつもに増して鮮明に感じた。

 やっぱり、ここはダメだ。落ち着くどころが、かえって心が乱れる。

 体を起こし、ぐるりと部屋を見渡した。

 ふと、本棚に丁寧に並べれた本の中で一冊だけ反対向きに差し込まれている本を見つけた。

 表紙にはじいちゃんの名前が印字されている。じいちゃんの本は全て読んだことがあるはずなのに、これは今まで一度も見たことのないタイトルだった。

「こんな本あったっけ……」

 不思議に思いながら何気なくパラリと一ページ捲ってみる。


 もしも、『後悔の旅』ができるなら、

 僕はもう一度、七年前のあの日に戻りたい。


 七年前、というフレーズに体がピクリと反応する。

 アカネと別れたあの日も、今から七年前のことだった。

「後悔の旅…」

 ポツリと呟いてみる。

 まさに今の僕が一番望んでいることだ。

 後悔という言葉と、彼女の名前はいつもセットになって僕を内側から支配している。

 もし過去に残してきた後悔を巡る旅が出来たなら……。

 ページを捲ろうとしている手がまるで余震のようにかすかに震えていた。ぱらり、と紙が擦れる音と共にページを移した、その瞬間だった。

 視界がグニャリと折れ曲がり、重力のない巨大なワームホールの中にみるみるうちに吸い込まれていくような錯覚が起こる。

 訳が分からず本を投げ出してその場に倒れ込み、うずくまった。

 ああ、ダメだ! 吸い込まれる!

 得体の知れない恐怖と、それとは対照的にとても温かく柔らかなものが僕を包み込む感覚がした。

 身動きできずに、必死にぎゅっと目を瞑る。

 ずいぶん遠くのほうで誰かの声が響いていた気がした……。

「頑張れよ、雄大」

 それはどこかで聞いたような、懐かしい声に思えた。