プロローグ 歌う本屋


 本屋の朝は早い。特に、ウチみたいな店は。

 四谷書廓堂。創業八十年を超える、五階建ての駅前本屋。

 朝八時。開店三時間前の店内は始業前の薄闇、そして整然と陳列された本に囲まれ静謐な空気を醸し出している……みたいなことは全然なくて。

「荷上げじゃ野郎どもォ! チンタラしてるヤツぁ神田川に叩っ込むぞ!」

「「「「うっす!!」」」」

 荷上げ担当の鵜飼がヤクザみたいに吠えると、待ち構えていた荷上げ部隊もヤクザの下っ端みたいに吠える。こきり、こきり。首を鳴らして私も仕事に向かう。

 一階中央。いつもと同じダンボールの山。目分量だと大体二千冊。

 まずは片っ端から箱を開けてく。張り詰めた梱包テープを切る感触が手に伝わると、まだ目覚めきってなかった頭がそのたび冴え渡るようで、なんだか気持ちいい。

「おい誰か、今日の賭け、一口のんない?」

「今日はなんですか? 打ち切りグランプリ?」

「いや、何回続くかレース、ほら、今、『HUNTER×HUN」

「はいはいはいはい! ちゃちゃっと売り場に行きますよ!」

 上階のチーフたちが階段を上りながら言い合うと、荷上げ部隊から笑いが漏れる。

「今日は付録が山盛りだから、荷上げは早めに終わらせて雑誌に入ってね!」

 私はそう言うと開けたダンボールを組み替え、フロアを滑らせて階段横に置いてく。

「よう聞いたか野郎ども! 姉さんが急げってよ!」

「その呼び方やめてって言ってんじゃん! あんた二十三でタメでしょ!」

「なにを仰る文庫文芸担当様、店の顔だろ。んじゃ上げるぞォ、野郎どもォ!」

「「「「うっす!!」」」」

 階段に陣取る荷上げ部隊が、ほい、ほい、よいやさ、よいやさ、リズムの良いかけ声をあげながらダンボールを手渡し、手渡し、各フロアに上げてく。そのかけ声がいつしか舟歌みたいになって響き渡ると、書廓堂の朝はますます加速してく。

 歌に耳を傾けながら残ったダンボールを開けて、作業用のスペースを確保。バックヤードなんて気の利いたもの、ウチにはない。あとエレベーターもない。

「楠ー、明日一人、新人来るんだけど、頼んだー」

 レジカウンターの中で予約のチェックをしている店長が私に言う。

「ええー、明日ですか? 急ですねー」

「来るだけありがたいと思ってよ、好きなように育ててくれていいからさ」

「じゃ、こんな店とっとと辞めた方がいいよー、とか言いますよー」

「いいんじゃない? 学生さんだし」

 いつものような皮肉を、いつものように軽くいなす店長。

「なっちゃんはホント奇特だなー、てっきり就活するもんだと思ってたのに」

 話題書コーナー担当の山南さんが、棚を空けながら私に言う。

「だって私、そもそも本屋志望ですもん。面接のときから言ってたんですよ、正社員志望だって! そのときは、僕もそういうルートを辿ったからがんばればあるよ、的なこと言ってたくせに……来てみたら社員、店長だけじゃないですか!」

 上の階でごろごろいってる台車の音が、一階まで響いてくる。

「アレはお前、アレだよ、笑顔あふれる職場です的な……だいたいおれのルートってのは……この店の五階にいた前の店長を、一階一階の番人を倒しつつ上り詰めて倒す形式だったからね。今の楠じゃ、二階の鎖鎌使いにやられるのがオチだな」

 いつものようなほら話には、ため息さえ出ない。がっちゃん、うぃーん、しゅぼぼぼ、しゅぷー、コミックにビニールをかけるシュリンカーの音が階上から響いてくる。

「大体お前、この二〇一七年、出版不況極まりないご時世に本屋になりたいなんてねえ……人生棒に振るならもっと手っ取り早い方法があるんだぞ? 知らないのか?」

「うっせバーカ! バーカ! ……バーカ!」

「こんな語彙の貧弱な人に、文庫文芸担当が勤まるなんて世も末だねえ、やだやだ」

「……うっせーおっさん! スマホに変えたからって現代人ぶりやがって! そのスマホも結局声優のブログチェックにしか使ってないくせしやがって!」

 山南さんがゲラゲラ笑って、店長と私も笑った。

 私たちの笑い声が、荷上げ部隊の舟歌と混じる。ベースラインみたいな台車の音に、華やかなホーンセクションみたいなシュリンカーの音。照明を半分ぐらいしかつけてない薄暗い店内にそれが響く。みんなの熱があたりに満ちて、店が、生きてるみたいに思える一瞬。ダンボールはまだまだ尽きないけれど、私は思う。

 私たちは笑う。

 溢れそうな本に、押しつぶされないために。

 私たちは歌う。

 押しつぶされそうな本を、すくい取るために。

 それができるこの店が、私はやっぱり、大好きだ。

 こんな本屋、地球上探したってたぶん、ここだけだ。



「と、まあ、レジの流れは大体こんな。わかった?」

 書廓堂五階事務室。レジのシミュレータで一通り研修を終えた楠奈津がそう言っても、すぐに返事はなかった。代わりにがりがり、必死でなにかを書き付けている音。

「…………あ! はい、あの、一通り、は」

 手元の小さなメモ帳に向かって背筋を丸めるその姿は、奈津にはどこか、ひまわりのタネをかじるハムスターを連想させた。

「ま、わかんないことがあったらなんでも聞いてね。私が鈴森さん……紗和さん……紗和ちゃん、でいい? 紗和ちゃんの教育係だから」

「え、あ、えと、はい、楠さん」

 かしこまった返事に少し笑いを漏らす奈津。

「そんなに力入れてないでいいよー、お客さんに伝わらないところは全力でだらけてこう、ってのがウチのモットーだから」

「わか……りました楠さん。すいません、あの、敬語の方がわたし、楽なんです」

「へー、ちゃんとしてるなあ……さっすがお嬢様ー」

 聞いたところによれば紗和は、皇族も通ったという名門女子大の一年生。

「いえ! 全然そんなじゃないんです普通です!」

 ぷるぷる、小刻みに、高速で首を横に振る紗和。胸の研修中バッジとポニーテールが遅れて揺れる。その仕草でまた小さな齧歯類を連想してしまい、奈津は笑った。

「いいじゃんお嬢様、私憧れてたけどなー、ごきげんよう、とか言い合う生活」

「それがですね、別に普通の感じで言うんです。あの、なんて言うんでしょう……こんちわー、と同じ感じで、ごきげんよー、なんです」

「……マジでそれ、言ってるの、今でも?」

 奈津の問いに、なにがおかしいのかわからない、という顔になる紗和。すると後ろから、くつくつくつ、底意地の悪そうな笑い声が聞こえてくる。

「ハルさん、なにがおかしいんですかあ」

 デスクでかちかち、マウスとキーボードを叩き続ける女は振り返らずに答える。

「いーや、なんも」

 そう言うと引き出しをあさる。紗和はそんな女を不思議そうな目で眺めている。

「あ、肝心の人の紹介がまだだった」

 朝八時に店の前に来た紗和を引き連れ、朝荷の仕事を教え、五階まで上がっていく傍ら、各階チーフに紗和の紹介は済ませている。が、売り場ではない、しかし書廓堂の心臓部とも言える五階の主に関してはまだだった。

「アタシ、剣崎春歌、五階、システム担当。ま、よろしく」

 女、剣崎は軽く言うとくるり、椅子を回転させ、奈津の手元になにかを投げる。

「それ新人の端末な、使い方ちゃんと教えろよォ楠ィ」

 それだけ言うとまたくるり、椅子を回転させ、モニタに目を戻す。

「えー、ハルさんの方が詳しいじゃないですか、作ったんだし」

「だァほう、てめェが教育係だろォ、アタシの時給に、んなのァ入ってねェよ」

 奈津の手元に投げつけられたのは、一台のスマートフォン。裏に大きく「店員用端末」と書かれたケースに包まれ、首からぶら下げるための青い紐がついている。

「…………すごい、ですね……」

 紗和が呆けたように漏らす。その言葉が端末に向けられたものだと思った奈津は少し得意になったが、視線が壁を向いているのに気付くと苦笑いをこぼす。

「ああ、まあ……ウチはこういう店だから」

 ワンフロア百坪弱の書廓堂、その五階は事務室だ。売り場にあるような本棚がないためやたらと広く見える。店員用のロッカーが並び、応接用のソファとテーブルも一揃い。それから壁際には、剣崎が陣取るデスクが一つ。

 そしてデスクの奥、壁一面に、店中の様子が映し出されている。

 二十三インチの液晶モニタがずらり、鉄製ラックに十六台並び、それぞれが四分割の画面で、計六十四個の映像が、リアルタイムで映っている。そこには開店を三十分前に控え、忙しく動き回る店員たち。

「ま、ここからハルさんが店全体に目を光らせてるから、安心できると、そういうわけだねー。その端末から映像は確認できるようになってるから。他にも色々、在庫の検索とか、注文の状況とか、発注とか返品とか……そういう仕事も全部できるようになってるから、おいおい使い方は教えるねー」

「あ、はい!」

「でもとりあえず当面は、レジに専念してもらいまーす。慣れてきたらフロアの方の仕事も教えていきますがー……バイト自体、初めてなんだっけ?」

「はい、わたし、本屋さんにずっと憧れてて、でも両親がずっと、アルバイト許可してくれなくて……東京に出てきてようやく説得して、できるようになったんです!」

 少し興奮気味に言う紗和に、少し苦い顔になる奈津。

「わー……ホントにお嬢様……御令嬢じゃん」

「違うんです! 全然、全然普通です! あの、今は1Kに一人暮らしですし」

「じゃ、実家はやっぱりグランドピアノがあるの? 庭に茶室があったり」

 奈津が冗談めかして言うと、またもやぶるぶる首を横に振る紗和。

「サックスのコレクションだけですよ。お父様が下手の横好きで、ビンテージって聞くと何十本でも買っちゃうんです。並べたがりますよね、男の人って」

 妙な顔をして固まる奈津。背後から、くつくつくつ、笑い声が聞こえる。

「え、あの、なにか……おかしかったですか?」

 うろたえて言う紗和に、今度は奈津も吹き出す。

「うーうん、ごめんね笑っちゃって、あの、おかしくないんだけど……」

 今度は奈津がうろたえて言葉を探していると、剣崎はケラケラ、はっきり笑った。

「もーハルさん! 人の家庭環境のこと笑うなんて最低ですよ!」

「……えェー? そういう笑いじゃねェよォ」

「紗和ちゃん、気を悪くしないでね、この人は相手が誰でもこういう人なので、自然現象かなにかだと思った方が精神衛生上都合がいいよきっと、うん」

「え、あ、あの、はい」

「よし! じゃ、接客用語、もう一回繰り返してみましょう! こういうのはアホくさいし単なる精神論じゃんって思うけど、やればやっただけ効果はあるからね! 劇の練習だと思ってください! はい、お客様がレジにいらっしゃいました?!」

「い、いらっしゃいませ!」

「はい大きすぎ! 照れを勢いで振り切ろうとする姿勢はいいけどウチは魚河岸じゃないからねー! それなりの声量でね! もう一回!」

「い、いらっしゃいませ」

「自信なさすぎ! クレーマーはそういう店員をかぎ当てるから注意してねー!」

「……いらっしゃいませ」

「それ! いいよいいよ! いけるよいけるよ! バランスバランス! 意識して!」

 と、スポーツ選手じみたやりとりでいくつかの接客用語を繰り返し、またお越しくださいませ、までを言い終わらせ、奈津は一足先に紗和を一階へ送り出す。

 とてとて、小走りの紗和が事務室から出て、モニタの中で一階に下りていく。

「……一週間もつかもたないか……そうさね、五百、ってところかね」

 こつこつ、人差し指で机を叩きながら剣崎が、おもしろそうに呟く。

「私……もたない方に賭けますけど……」

 書廓堂の店員はあらゆる物事で賭ける。新人が居着くかどうかは絶好の対象だ。

 本屋の仕事は文化的に見えてその実、重いものを運び、小売の接客をこなし、時給は最低、嫌われる仕事の三大要素が満ちている。一本数十万のサックスを何十本もコレクションできるような家庭に育ち、学友とごきげんようと言い合いながら育った十八歳のお嬢様が、あこがれだけでできるほど楽な仕事ではない。そんなことを思いながらも奈津は、自分の父親がコレクションしていた、飲んだ日本酒のラベルを思い出し、でもたしかに並べてたなー、と少し笑った。

「……アタシャもつ方に五百だ」

 奈津は少し、眉を上げて剣崎を見た。

「バーカ、店長が面接してんだ、少しは人を信頼するってこと、覚えやがれお前は」

「……そう言ってこの前の子、二週間もたなかったじゃないですかー」

「人間の存在とは、混沌そのものであるなァ」

 そう言って能天気に口笛を吹く剣崎に、奈津はため息を漏らした。



 奈津が剣崎に五百円玉を投げつけた日、紗和はフロアに出ることになった。夏休み中は週に四回というペースでシフトに入っていた彼女は、奈津が意外に思うほどの要領の良さを発揮し、レジ周りの仕事を覚えていった。客とのやりとりについてはまだまだ、奈津が見ていて不安になる面があったけれど、エプロンに研修中のプレートがついているなら許容範囲だろう。

 ……でもこっちはもつかなあ……

 教育係を任されてからというもの、いつ辞めるか、バッくれてしまうか、気が気でなかった奈津はまた少し不安になった。紗和は奈津のそんな内心を知らず、新たな仕事を言い渡され、鼻息を荒くしていた。

 紗和に与えられた次なる仕事は、本の補充と整頓。

 まずは棚や平台に欠けているところやへこんでいる箇所を見つける。次にその本の在庫が棚下の引き出し、ストッカーにあれば補充、なければ階段下の簡易倉庫から出し、そこにもなければ端末にメモをとり楠に引き継ぎ。それから整頓。客の立ち読みで乱れた棚を元に戻す。対象は一階の雑誌、文庫文芸、新刊、話題書。

 それだけの仕事が、永久に終わらなかった。

 もしかすると自分がお荷物でどうしようもなく、だから誰にでもできる簡単な仕事を割り振られたんじゃないのかな、と不安になっていた紗和は心の底から驚いた。

 仕事を見つけ棚に歩み寄っていくと、ちょうど良く客から声がかかる。単純な捜し物から、贈り物を選ぶのを手伝ってほしいというものまで、要望は様々だ。焦りながらも端末を駆使し、なんとか答え、ふり向けば今度は別の棚が乱れている。どちらから整頓しようか、と迷っていればまた、客から声がかかる。案内やなにやで時間を空けると、今度もまた別の棚が乱れていて、おまけにその前に立ち読み客がいて手を出せない。どかないかな、と立ち止まろうものなら……また別の客。さらにその客がマンガの場所を聞いてこようものなら、先回りで足が熱くなる。フロアをまたいでの案内は店員が先導し、元のフロアに戻るときは、走っているとは思われない速度の中で一番速く、というのが書廓堂でのルール。そしてマンガはすべて、この、築五十年を超す、あちこち改装工事をつぎ足し、つぎ足し、不潔な印象こそないが、ゼロから建て直さないとエレベーターが設置できない宿命を背負った書廓堂ビル、四階にある。

 しかし、紗和にはそれが楽しかった。

 病気がちで、病院や家に籠もりながら育った自分にとって、ただ一つの慰めだった本に囲まれて働ける、そう思うと筋肉痛も苦にならない。

 ……この子、やるなあ。

 初対面で奈津が紗和に抱いた印象は、いかにもな温室育ちの高嶺の花。だが、それはやがて、高山に咲く野生の花、に変わっていった。しかしその高山のある場所が、地球じゃなくて火星とかかも、とは一日もしないうちに思うようになった。



「……ラーメン屋が全員殺し屋の本?」

 困り顔の紗和を階段下倉庫まで連れ込み、事情を尋ねると、奈津は眉をひそめた。

「はい、あの、それで、小説、ってことなんですけど」

 端末にメモした言葉を読み上げる紗和の顔は、どこまでも真剣だ。

「……戦うの? ラーメン屋の、殺し屋が」

「一応探してみたんですけど、マンガしか出てこなくて……すいません、どうしたらいいんでしょう? これ、普通の本屋さんでは取り扱えない本なんでしょうか……? 探しても出てこないということは……すごい稀覯書とか……?」

 困り果てた顔を見せる紗和。

「……ええとね、紗和ちゃん」

 姿勢を正して、奈津は紗和の顔を見下ろす。身長が頭一つ違う二人が並ぶと、どこか、なにもかもが対照的な姉妹のように見える。

「はい」

 困った顔をしながらも、殺し屋、ラーメン、バトル、などで端末から検索を続ける紗和。奈津は思わず、固麺で人を刺し殺す粉落としの銀次、うどんの技術を応用した極太つけ麺で敵を捕縛するトライアンフ・マサなどを妄想してしまい少し吹き出した。そして真剣そのものの紗和を見て、今度ははっきり笑ってしまった。

「なんですか、困ってるんですよう、お客様、ずっと探してらっしゃるそうで」

 ともすれば泣き出しそうな顔で端末から検索を続ける紗和。

「あのね紗和ちゃん、いいですか」

「はい」

「お客様が仰る、本にまつわる情報というのはね、十割間違っています」

 何を言っているのかわからない、という顔で奈津を見る紗和。

「…………十、割」

「十割」

「……九割ではなく」

「十割」

「でも……その……」

「そうじゃないけど、そう思ってた方がやりやすい、ってこと。体感だと五割かな、合ってる確率は。どこに待たせてる?」

 奈津は自分の端末を出して監視カメラの映像を呼び出し、スクロールさせていく。

「あ、こちらの方です」

 国内文芸の棚前でしかめ面をしている、スーツの男性を紗和が指さす。

「よし、任せなさい」

 そう言うと奈津はすたすた、フロアの客へと急いだ。紗和はあわててそれについていく。その姿を視界の端にとらえた奈津は、ハムスターよりカルガモの子どもとかかなー、などと思ってほほえんだ。



「あっ、あー、これですこれ! いやー、どうも!」

 破顔一笑、客は一冊のライト文芸作品を手にとってレジに走って行った。残された紗和は、納得がいかない、という顔の見本のような表情であらすじをにらみ付けている。人口の三%が殺し屋の街・博多で、裏稼業の男たちが踊りまくる人気群像劇……

「ラーメン屋が、殺し屋じゃ、ないじゃないですかぁ……」

「人口の三%が殺し屋の街、博多……っていうのを探し続けるウチに混ざっちゃったんでしょ、よくあるよくある。私なんか舞浜駅が世界を征服してる本ないですかって言われたことあるよ。なにニーランドが立ってるんだっつーのその舞浜。あ、金線を巻いたねこがタイムスリップして幼女と結婚する本、っていうのもあったっけなあ」

「え、なんて本ですか?!」

 驚いて目を丸くする紗和に、奈津は奈津であきれて目を丸くした。

「……人のことをもう少し疑いましょう、って、今まで誰かから言われなかった?」

 自覚はあるのか、少し気まずそうな顔になる紗和。

「……紗和なんかが東京に行ったら人買いにさらわれて売り飛ばされるんだぞ、って、お父様が。それで最後まで、一人暮らしに反対されてました」

 発言のどこにどう突っ込めばいいのかわからなくなった奈津は、なぜか、腹の底から笑いたくなった。

「……お父様は、慧眼でらっしゃるねえ」

「そんな、単なるうるさいおじさんですよ」

 紗和の顔が少し顔が赤くなる。

「でも紗和ちゃん、あなたはきっと、いい本屋になれるよ、うん」

 小首をかしげる紗和の肩を叩く。

「接客というのは、理不尽なものだっていうのは、わかってもらえたかな」

「理不尽……ですね、たしかに、はい」

 客自身がよく覚えていないモノを、どうやって探し出せばいいというのか。そもそもなぜ、奈津には客の探していた本がわかったのか、紗和には見当もつかない。

「本って、年に何冊出るか、教えたっけ?」

「いえ、一万冊ぐらいですか?」

「八万冊」

「…………え……一年に、ですよね?」

「うん。ざっくり言うと一日に二百タイトル以上、新刊が出てるわけだねー」

「…………へ?」

「へ? ってなるよねー、うん。でもそれだけ出てたら、お客さんだっていちいち覚えてられないでしょー、どっかで見て読もうって思った本でもさ。忘れたり混ざったりで……ああ、この間なんか『吾輩は猫である』を探してるって言うから、夏目漱石のところまで案内して、色々出てるから違いを説明しようとしたら、あっ、これです、って『堕落論』買ってった人がいたよ。猫ではないですよって言ったんだけど」

 くすくす、おかしそうに笑う奈津。その笑いになぜか、背筋が寒くなる紗和。

 東京に出てきてからというもの紗和は、毎日のように求人情報を眺めていた。目当てはもちろん本屋だったが、その中でも条件があった。画一的なマニュアルがあまりない、個人の技が生きている、チェーンではない店舗。そうしてたどり着いた書廓堂はぴったりの職場に思えたが、奈津の笑いを見て初めて、自分は来るところを間違えたのかもしれない、という思いが頭をかすめる。紗和がそれまでいたのは、一冊一冊の本が宝物のように思える世界。読んだ思い出と共に本を宝箱にしまい、秘密の洞窟に隠しておく。けれど一日に二百タイトル以上も新しい本がやって来るなんて、秘密の洞窟が東京ドーム並の広さでもすぐに一杯になってしまう。

「ま、要は慣れです。中身じゃなくて、外側の情報で記憶しとくの。版元……あ、出版社のことね、その名前、発売日、表紙の印象、こういう話、って一行ぐらいのあらすじ、それからタイトルと、余裕があったら作者名。覚えきれないだろうけど……」

 またもや笑う奈津。

「でも大丈夫。うちにはこの端末があるから。使い方はもう慣れた?」

「え、あ、はい」

「それ、表紙もあらすじもわかるし、今ウチに在庫があるかどうか、何階のどこにあるか、ってのもリアルタイムに反映されてるから。どこの書評にいつ載ったか、なんてのも、上でハルさんが更新かけてるし、活用してみて。こればっかりは……経験を積まないとわかんないところでもあるから、苦労すると思うけど……苦労してください、うん。お仕事ですから。あ、わかんないこととかあったらなんでも聞いていいからね。今みたいに助けがほしかったらいつでも駆けつけるし、頼って頼って」

 胸を反らせてポン、と叩きながら笑顔でそう言う奈津。

 紗和は不思議になった。どうしてこの人は、笑えるんだろう?

 空元気にも、自虐にも見えない、自然な笑顔だった。



 奈津から教わった本の探し方は、それまで紗和が様々な本棚の前でやってきた方法とは、根本から異なっていた。タイトルと作者名よりも、版元、出版社の名前と発売時期から探すという。

 書廓堂では発売一ヶ月以内のモノなら一階の新刊エリア、それ以降ならジャンル、出版社ごとに売り場を分けている。大まかな分類だと、小説なら一階、学術は二階、実用書なら三階で、マンガが四階。そして各フロアではジャンル、出版社ごとに棚を分け、その中で作者五十音順、最後に、タイトルの五十音順で並べる。

 本屋の棚は誰か特定の一人に向けた棚ではない。不特定多数に向け、わかりやすく、目に付きやすいように並べる棚だ。作者名やタイトルよりも、版元やレーベルなどのカテゴリーが重要になる。発売日や本のサイズは版元ごとにおおむね統一されているし、レーベルを見ればある程度、内容の傾向に大まかな見当はつく。もちろん一冊一冊内容を吟味して並べられれば理想だ。が、そんな悠長なことをしていればその日の新刊約二百冊を読んでいる間に日が暮れ、昇り、次の日の新刊約二百冊が届くだろう。

 紗和が一読者だった頃は、どうして内容に全然関係ない、出版社の名前なんかで本棚を仕切ってるんだろう? もっと関係させて並べればいいのに、と不思議で仕方なかったが、当然のことだったんだ、と気付き、その途方もなさに頭がくらくらした。

 なにしろ出版業界ときたら、年に八万タイトルの新刊を出している。

 どうしてそこまで出す必要があるのか、紗和にははてしなく疑問だったけれど、その答えを探すより先に、目の前の仕事に体当たりでぶつかっていった。

 入院していたときは、想像しかできなかった本屋。

 調子が良くなってから初めて足を運び、まるで夢の国にいるようだと思った本屋。

 それが今、日常となって、仕事となって、その中にいられる。

 紗和にとってはそれこそ、夢のようだった。

 書廓堂の棚ルールは明確で、整頓に迷うことはなかった。新刊か既刊か、迷うことは多かったが、そんなときは端末が役立つ。音声入力もできたし、バーコードを読み取っての検索までできる。これさえあれば問い合わせで困ることはない……と思おうとすると例のごとく、機械では応対しようがない、曖昧な問い合わせがやって来る。

「お帰りヒトラー、って本、どこですか? 映画にもなってたんですけど、探してもなくて……置いてないですかね? なんとか……プルシュム? さんが書いた」

 一瞬、固まってしまう。聞いたことのないタイトルだし、プルシュムと言われても、中東辺りの伝統的なお菓子とか……? 程度のことしか思い浮かばない。

「……映画化された作品、ですか?」

「はい、あの、あー、結構最近だったと思うんですけど……」

 問い合わせは連想ゲーム。奈津から教わったことを思い出す。

「そうすると……」

 タイトルより先に、ヒトラー、映画、でネット検索。するとドキュメント風のシリアスなものから、コメディで月の裏側にナチスが生き延びていたものまで、いくつも出てくる。幅広さに吹き出しそうになる紗和だが、こらえる。それができるだけの接客用表情筋は、働きだして二週間でもう、仕上がっている。笑顔は筋肉ってホントなんだ、と思いながら表情は接客用笑顔を保ちつつ、紗和は尋ねる。

「どれでしょう? この中にありますか?」

「え、こんなあるんですか……えー……あ、これですこれです、これ…………あ、ごめんなさい、お帰りって、出迎えてどうすんだ、ごめんなさい、ヴェルメシュだし」

 自嘲気味に笑い、シルエット風に、印象的なあの髪型とチョビ髭が描かれた表紙を指さす。現代ドイツに突然蘇ったヒトラーが、社会の中でコメディアンとして受け入れられていき、やがて政界に復活していく……というコメディから始まるサスペンスものらしい。もちろん、お帰りヒトラー、というタイトルではない。

 紗和は正しいタイトルを在庫検索システムに入れ、場所を把握。小説ということで予想はついていたが、一階ということに少し胸をなで下ろす。たった二週間でもう五百回近く階段の上り下りをしたのではないだろうか。書廓堂で働く先輩たちのたくましさに最初は驚いていたけど、遅かれ早かれわたしもそうなれるんじゃないかな、足だけは、と、楽しみなのか悲しみなのかよくわからない感情を内心で持てあます。

「こちらです、どうぞ」

 客を視界の斜め後ろに入れながら案内する。売り場に着き、目的の本を差し出す。

 そのときの、客の顔。

「あー、これです、これ、どうも」

 奈津にも言われていたけれど、それはやっぱり、たまらなかった。

 懐かしい親友に、思いがけないところで再会したような、そんな顔。

 探していた本は未知のモノのはずなのに、それを見つけたお客さんはみんな、そんな顔をしている。その顔を見ると、胸の中がむずむず、くすぐられるような気持ちになる。誇らしいような恥ずかしいような、それでもやっぱり、誇らしいような。

「またなにかありましたら、お気軽に」

 その場で立ち読みを始める客の背中にそう声をかけ、すっ、と身を引く。今のは、今までで一番の接客だったかも、そう思って少し得意になる。目立つ失敗をしていないだけだ、とはわかっていたが、それでも少しスキップ気味になって棚整理に戻る。

 一連の様子をレジPCで監視カメラの映像を呼び出し、横目でずっと見ていた奈津の顔に、少しだけ、接客用ではない笑みがこぼれた。

 思い返せば私も、お客さんたちに鍛えられたんだなあ……と、奈津は思う。

「ありがとうございました」

 客の背中に頭を下げつつ、ちらりとまたモニタを確認。スキップが棚につくと、慣れた手つきで、どこんどこん、棚の整理を再開する。この子はモノになるかもしれない、ちらりとそんなことを思いながら列に声をかける。

「お待ちのお客様どうぞー」