〈珈琲エメラルド〉の窓辺の席に座った上倉悠貴は読みかけの本を閉じ、吐息を漏らした。

 木目調の内装とアンティークの調度品が調和した店内はあたたかな雰囲気で、居心地が良い。暖色の照明。穏やかに響く洋楽。コーヒーの香り。エメラルドにいると時間の流れまでゆったりとして感じられる。

 こんなふうに寛ぐのはいつぶりだろう。

 悠貴はコーヒーを口許に運んだ。ぼんやりと過ごすうちに、思考はあの日の出来事に向いていた。

 耳の奥で踏切の警報器の音がこだました。


 遮断機が下り、カンカンカン、と甲高い音が響く。

 悠貴はスマートフォンに耳をあて、信じられない思いで送話口に囁いた。

「――――稀早?」

 返事はない。電話に意識を集中すると、話を切り出そうと通話の相手が小さく息を吸うのが聞こえた。

 次の瞬間、轟音があたりの音を呑み込んだ。

 遮断機のすぐ横を急行電車が走り抜ける。暴力的なまでの音が通り過ぎるのに数秒を要した。

 電車が去った時、通話は切れていた。

 悠貴は唖然として画面を見つめた。

 今のは一体……。

 いきなりスマートフォンが振動した。画面には再び着信のアイコンが出ている。発信元は『非通知』だ。

 すぐさま通話ボタンをタップする。

「もしもし!」

「あ、会長? 休みの日にごめん」

 聞き覚えのある声に悠貴の眉根が寄った。

「秋月か?」

「ですね。会長の腹心の秋月です」

「番号を変えたのか。非通知になってる」

 電話の向こうで秋月が「フッ」と悲しげに笑った。

「これは女の子と連絡取る専用です、会長に教える電話番号は存在しません!」

 文化祭の時に訳あって秋月のスマートフォンに細工をしたのだが、そのことを根に持っているらしい。SNSは知っているので連絡は困らないし、今はそんな話をしている場合ではない。

「さっき電話したか?」

「してないよ。……会長、何かあった?」

 ふと秋月が真面目な口調になった。悠貴の声の調子で感じるものがあったらしい。

 秋月に心配されるとは。悠貴は内心で苦笑いした。

「いや、いいんだ。用件は?」

「ああ、えっと明日の定例会。新役員のことなんだけど、昨日のさ――」

 遮断機が上がり、正面からポニーテールの高校生がやってくる。

 弾むように揺れる束ねた髪とヨゼフ高校の制服。たったそれだけの特徴の他人と稀早を見間違えた自分がひどく滑稽に思えた。

 三年前に亡くなった友人がそこにいるわけがないのだ。


 簡単に割り切れるものでもないか……。

 悠貴はコーヒーカップをテーブルに戻した。

 あの電話もただの間違い電話だったのだろう。着信があったのはヨゼフの寮からの帰り道だ。かつて暮らした場所、音、匂い。それらは悠貴を過去に引き戻すのに十分な力を持っていた。あれはそうしたものが見せた幻影だ。

 長年追い続けた事件を解決し、ようやく息が吐けた気がした。しかし解決と同時に心の整理までつくはずもない。

 まだ呑み込めないことがある。割り切れず、胸の底でわだかまっているものが。

 事件を解決しても喜びはなかった。痛みを伴う結末に胸は軋み、重苦しい。真犯人に対する苛立ちと悔恨。俺は怒っているのだろうか、それとも哀しいのか。

 ……たぶん、どちらでもない。

 途方に暮れている自分に気づき、悠貴は溜息を吐いた。

「悠貴君?」

 その時、頭上から柔らかな声が響いた。

 顔を上げると、サロンエプロンを締めた小野寺美久が水差しを手に立っていた。

 バイトの女子大生だ。おっとりとした温和な美人で、澄んだ瞳が印象的だ。その髪の一房は不自然に短い。まわりの毛を切って馴染ませているので気づく者はまずいないが、悠貴は一目でわかった。

「考え事?」

 美久が悠貴の顔を覗き込んだ。鈍感なくせに人の心の機微には聡い。

「少しな」

 そっけなく返すと、美久はしばらく悠貴を見つめ、安心したように表情を緩めた。

「そうなんだ。お水、入れておくね」

 気泡を躍らせながらレモン水がグラスを満たしていく。

 水を注ぐ美久の所作に目を惹かれた。姿勢、水差しの持ち方、角度。何気ない一つひとつの動作が丁寧で、心がこもっている。単純な動作だからこそ、その人物のことがよく見えるものだ。

 くるくると。レモン水の中で小さな気泡がきらめく。

 乗り越えられたこと、受け止めきれないこと……長年追い続けた因縁の事件に区切りをつけ、呆然としている自分がいる。だが、決してそれだけではない。

 今あるものを大切にしたい。

 そう感じる程度に、悠貴の世界は変わっていた。


§


 美久は水差しを手にカウンターへ戻りながらほっとした。

 よかった、悠貴君大丈夫そう。

 客席にいる時、悠貴は大抵読書をして過ごすが、この数日はぼんやりと店内を眺めることが多かった。何事にも集中して取り組む悠貴には珍しい。

 悩み事があるのかと密かに気にかけていたが、話してみるとふさぎ込んでいるようではなかった。

 きっと気が抜けてしまったのだ。三年間追い続けた事件の全容を解明し、解決に導いた。ようやく使命を果たせた安堵と苦い結末に心がついてきていないのだろう。

 こういう時は見守るほかない。無理に話を聞こうとしたり励ましたりしては、かえって気が休まらない。今の悠貴に必要なのは時間だ。

 チリリン、と涼やかなドアベルの音が響き、入り口に中年の男が現れた。見覚えのある顔に美久は笑顔を向けた。

「いらっしゃいませ、四元さん」

 うだつのあがらないサラリーマンのような風体だが、現職の刑事だ。悠貴と真紘とは以前から面識があり、エメラルドの探偵とも関わりがある。

 四元の定位置はカウンター席だが、あいにく満席だ。

 カウンターに立つ店長の上倉真紘が四元に気づいて声をかけた。

「こんばんは四元さん。いつものですか?」

「ああ、頼むよ」

 四元は短く応じ、美久に会釈をして悠貴のテーブルへ向かった。

 美久はお冷やのグラスを運び、カウンターに戻って真紘に尋ねた。

「四元さん、悠貴君と約束ですか?」

「うん、先日の事件のことでね。必要な話は済んでいるはずだけど……拘留中の彼の様子とか、これからのこととか、いろいろとあるから」

 彼。美久は名前を聞かなくても誰のことかわかった。

 刑事の四元が犯人や事件について口外することはないが、様子や起訴までの流れなど話せることもあるのだろう。

 これからなんだ。

 美久はふと実感した。事件が終わっても人生は続く。あの事件に関わった誰もが、様々な感情を抱えてこれからを生きていく。

 真紘がカウンターに淹れたてのコーヒーを二客置いた。

「一番テーブルにお願いします」

「はい」

 コーヒーをトレイにのせて窓辺の席に運ぶと、悠貴と四元は雑談していた。美久は四元の前に注文品とミルクピッチャーを置き、テーブルの隅を手で示した。

「お砂糖はそちらです」

 眼光鋭い四元は意外に甘党だ。たっぷりのミルクに砂糖は必ず三つ落とす。

 カウンター席とテーブル席ではシュガーポットの容器が違うので戸惑わないよう配慮したつもりが、四元は顔をしかめた。

「ここの店員はよく観察してるな。もう甘党だとバレてる」

「その顔で砂糖を三つも入れたら嫌でも覚えますよ」

「この顔でカフェオレ注文するよりいいだろう」

 四元は悠貴に言い返しながらシュガーポットを定位置に戻し、つと手をとめた。

「これは何だ?」

 シュガーポットの奥、レースのカーテンを引いた窓辺に置物が飾られている。

 寸胴鍋のような胴鎧に、逆さにしたロウトのような兜。腕と頭は藁で作られ、かかしらしく両手を広げて片足立ちしている。そして鎧の胸にはハートマークと『College』の文字。

 美久は悠貴の前に新しいコーヒーを置きながら四元に教えた。

「『オズの魔法使い』のブリキのかかしです」

「……ブリキのかかしなんていたか?」

「いないです、真紘さんがうろ覚えで作ったらしくて」

「ああ、真紘君か」

 妙に納得した声がおかしい。美久は思わず笑みをこぼしたが、悠貴の態度はまったく違った。驚いた顔で四元を見つめている。

「悠貴君?」

 悠貴は我に返ったように目を瞬いた。

「あ、いや……」

 なぜか動揺しているように見えた。

 どうしたのか尋ねようとした時、カウンターから真紘の声が響いた。

「小野寺さん、ケーキセットをお願いします」

「はい」

 美久はカウンターに向かい、悠貴を振り返った。四元に話しかけているが、動揺した様子はない。

 気のせいだったかな。

 不思議に思いながら頭を切り換えて仕事に集中する。

 エメラルドの秋は忙しい。井の頭恩賜公園の紅葉と爽やかな秋の気候に誘われ、たくさんの出会いと再会がやってくる。




 秋の夕暮れのひととき、エメラルドは黄金色に染まる。夕陽を浴びて扉のガラスが金色に輝き、窓辺からは黄昏の森が望める。店内に満ちるコーヒーの薫りにはほんのり落ち葉の甘い香りが溶けて、深まる秋の気配がした。

 美久はカウンターの脇でカトラリーを磨きながら店内を眺めた。

 混雑のピークを過ぎ、客席には三組の客とカウンターに悠貴がいるばかりだ。

 悠貴はいつものように本を手にしているが、表情は硬い。読書というより宙を睨んでいると言ったほうが正確だ。

 うーん……やっぱり、変?

 カトラリーをケースに収めながら美久は内心で首を傾げた。

 つい先日まで気の抜けた様子だったが、数日ぶりに客席に現れた悠貴は難しい顔をするようになっていた。しかし話しかけるといつもどおりで、思い過ごしのように感じられる。

「小野寺さん。そろそろ上がっていいよ」

 カウンターの真紘が小声で言い、柱時計を指差した。

 時計の針が午後四時を回ろうとしているのを見て美久ははっとした。これから友だちと会う約束だ。悠貴に気を取られて時間を忘れていた。

「すみません。お先に失礼します」

「うん、今日もありがとう。楽しんできて」

「ありがとうございます」

 美久は笑顔で答え、バックヤードへ向かった。


§


 店の玄関扉の向こうを私服に着替えた美久が手を振って通り過ぎる。

 カウンターに立つ真紘は手を振り返して業務に戻った。客の会計を済ませ、テーブルを片付ける。のんびり働くうちに時刻は四時半を過ぎた。

 今の季節は日が暮れるとぐっと客足が鈍る。不意の混雑に備えて学校帰りの悠貴が待機しているが、閉店まで一人で対応できそうだ。

 真紘はコーヒーをドリップしながらカウンター席で読書をする悠貴に囁いた。

「もう混雑しないと思うから帰って大丈夫だよ」

「そうだな」

「コーヒーのおかわりは?」

「いる」

 真紘は頷いて、穏やかな調子のまま尋ねた。

「それで、何があった?」

 悠貴は本から顔を上げ、眉を顰めた。

「どういう意味だ?」

「そのままだよ。何かあったんだろう?」

「……なぜそう思う?」

「この顔は何かあったなあ、と」

 所感を伝えると悠貴はますます怪訝な顔になった。

 真紘は笑みをこぼした。何でも背負込むのは悠貴の悪い癖だ。そういう時どんな表情をするかは兄の真紘が誰よりもわかっていた。おそらく本人以上に。

 四元さんが店に来たあたりからかな。

 あの時を境に何か変わったように感じた。といっても、ごく小さな変調だ。ボタンを掛け違えたような、些細な違和感。些細だが、鏡に映った自分を見た時にはっとする――そんな確信を含んだ感覚だ。

 悠貴は無言だったが、しばらくして諦めたように息を吐いた。

「真紘は勘がいいよな」

「小野寺さんも気づいているよ」

 悠貴は何か言いたそうな顔をしたが否定しなかった。一呼吸置いて話を切り出そうとした時、チリリン、とドアベルが鳴った。

 二十歳くらいの女性が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 女性は百七十センチを超える長身で、高いヒールを履いている。すらりとのびやかな体躯はモデルのようだ。何を思ったか、入り口に佇んでじろじろと店内を見回している。

「ここ、喫茶店エメラルド?」

「はい」

「ふうん」

 声に不満げな響きが滲んだ。

 悠貴もそれを聞き分けたのだろう。真紘との会話を中断し、本を開いて一般客のように振る舞った。

 真紘は目の端で悠貴の動向を確認しながら女性に声をかけた。

「お好きな席におかけください」

 女性はつかつかとヒールの音を響かせてカウンターの真ん中に陣取った。

 常連客以外でこの席を選ぶ人は珍しい。一人客の多くは二人掛けのテーブルやカウンターの隅を好むものだ。

 真紘はレモン水をグラスに注いで女性の前に置いた。メニューを手渡そうとするとそれより先に女性が口を開いた。

「レモンのシフォンケーキ、ハニーソースなしのクリーム付きで」

「お飲み物はいかがなさいますか?」

「オレンジジュース」

 かしこまりました、と応じかけた時、女性が声をかぶせた。

「今のはなし、ダージリンのホットにして。レモンもミルクも不要です」

「承りました。ホットダージリンティーにレモンのシフォンケーキ、ハニーソースなしのクリーム付きですね」

 真紘はメニューをたたんで注文票をつけた。コーヒーを悠貴に出し、紅茶とケーキの用意に取りかかる。その間、女性の視線は忙しく店内を動き回った。あちこち見回し、値踏みするように観察する。無遠慮な眼差しは真紘にも向けられた。一挙手一投足を見逃すまいとする執拗な視線だ。

「お待たせしました」

 ティーセットと皿に盛りつけたシフォンケーキをテーブルに並べる時も女性は真紘の顔をじっと見つめて逸らさなかった。

 真紘はその視線をおっとりと受け止めた。

「他にご注文はありますか?」

 女性は声を低くした。

「探してる人がいるんだけど」

「人探しですか」

「そうよ、とっちめたい奴がいる。あの子の人生をぶち壊した、最低最悪の輩をね」

 とっちめたいか。なかなか物騒だなあ。

 初めて訪れる喫茶店の店員にこんなことを打ち明ける客はまずいない。裏を返せば『そんなことを打ち明けられる喫茶店』だと知っているのだ。

 どうやら依頼人だったようだ。

 ちらりと悠貴に目を向けると、悠貴は目顔で頷いた。一瞬のやりとりをすませ、真紘は女性に尋ねた。

「ただ事ではなさそうですね。何があったんですか?」

「許しがたいことが起きたのよ」

「〈あの子〉にですね。〈あの子〉さんはどんな方ですか」

「体型はふつう、身長はこのくらい」

 女性はスツールに腰掛けたまま自分の頭のあたりを手で示した。だが、それだけだった。十分な説明をしたと言わんばかりに満足げな表情をしている。

「もう少し手がかりをいただけますか?」

 女性は目を剥いた。

「今のでわからないの?」

「すみません。できれば何が起きたのか、〈あの子〉さんのお名前やあなたとの関係を教えていただけると助かります」

 女性は盛大に溜息を吐いた。長い足を組み、神経質につま先で床を打つ。

「ねえ、私はどう見えます?」

「どう、とおっしゃいますと?」

「あなたの目に私はどう映ってるのかと訊いてるのよ」

 脈略のない質問に真紘は目を白黒させた。

 質問の意図を確認したいところだが、女性は肩にかかる黒髪を払い、怒りに燃える目で真紘を睨めつけた。とても尋ね返せる雰囲気ではない。

 まいったなあ。

 真紘は内心で思いながら女性を観察した。

 洒落たデザインの白いシャツに細身のパンツを合わせている。今はカウンターテーブルで見えないが、曲線の美しいヒールを履いていたはずだ。大ぶりのアクセサリーが耳を飾り、右手に華奢なピンキーリングが一つ。透明なマニキュアを塗った爪は短く切り揃えられている。

 首の左側にキスマークがあって少々目のやり場に困るが、背筋の伸びた居住まいときりりとした目元が情熱的で意志の強さを窺わせる。

「お洒落で華やかな雰囲気をお持ちですね」

 感じたままを伝えると、女性は深く頷いた。

「おっしゃるとおり。ご覧のように美人でスタイル抜群の優秀な人間よ」

 褒めていないところまでしっかり言ってのける逞しさが微笑ましい。

 真紘が笑みをこぼすと女性は目くじらを立てた。

「笑い事じゃない! あのね、私は忙しいの。久しぶりに日本に帰ってきてまたすぐ離れるっていうのに……! いい、この私がわざわざこんなところまで足を運んだのよ、解決するまで帰らないから」

「できるかぎりのことをしたいと考えています。そのためにも詳しいお話をお願いできますか。断片的な情報では判断しかねますので」

 女性は不満そうに顔を歪めたが、溜息まじりに返した。

「いいわ、仕方ないから最初から説明してあげる」

「ありがとうございます」

「敷井菫という女の子がいるの。今、小学三年生でクラスの人気者よ――あの事件が起きるまではね」

 親族か近所の子だろう。真紘は女性との関係を想像しながら耳を傾けた。

 それは女の子と小鳥を巡る、小さな事件だった。