タクトがふり下ろされて最初の音が奏でられたその瞬間、世界が変わって鳥肌が立った。

 並べられた譜面台。

 前を向く奏者。

 一斉にピックで弦がはじかれ、奏でられた音は一点に向かい集束していく。

 サークルの合奏練習は普段は講義に使われている教室で行われる。椅子や机を並べ直しているとはいえ、それでも見慣れた場所なのに。

 そこはその一瞬で、これまで私がまったく知らなかった特別な世界に変わってしまった。

 音の束はタクトに従い表情を変え、天井の高い教室の中で膨らみ響き、空気の色を変えていく。

 そんな空気に圧倒されながらも、私は必死に五線譜を目で追ってピックを小さく動かした。先輩たちと同じように楽器をかまえているのに、いやというほど楽譜を見て練習してきたというのに、思うように音を出せない自分がもどかしい。

 それでも、小さく頼りない音だったとしても、私の音も大きな音楽のうねりの一部となっていく。

 こんな私でも合奏に参加できるのだと胸が震える。

 この音楽にもっとちゃんと参加したい。

 ずっと私なんかにできるわけがないと逃げてばかりだった。けど、できるかどうかわからないけどやってみたい。

 そして、そう思えたことが嬉しいとすら感じた。


 ――だけど。

 あの日、あんなことになるのだとわかっていたら。

 やってみたいだなんて、最初から思わなかった。



 唐突に差し出された、丸っとしたボディの楽器に混乱した。

「マンドリン、弾けるんだろ?」

 助けを求めるように目の前の男性の顔を見返すも、その人こそが私にその楽器――マンドリンを差し出している張本人であり、私を混乱に陥れている元凶そのものだった。助けてくれるわけなどもちろんない。

「ほら」

 愛想の欠片もない仏頂面で、堂ノ上さんはさっさと受け取れと言わんばかりにマンドリンを私に突きつける。

 そもそも、この人は本当にあの堂ノ上課長なのだろうか。

「……あの!」

 ちゃんと話を訊かないと、と口を開いた瞬間にとうとう両手にマンドリンを押しつけられた。うっかり落とすわけにはいかず、気がつけば私はマンドリンを抱え込まされていて、もう目の前の堂ノ上さんを見返すことしかできない。

 ――何がどうしてこうなった。

 腕の中の感触に思いもかけず込み上げた懐かしさとそれを上回る困惑で立ち尽くしたまま、私は数日前の会社での出来事を思い出す。



 三日前の定時後のことだった。

 その日はちょうど担当していたプロジェクトが山を一つ越えたところで、私以外のチームメンバーは定時になると早々にオフィスを出ていった。私もそうしてもよかったのだが、時間があるときに目を通しておきたい資料がいくつかあり、少しだけ残業しようとまだ席にいた。

 ペーパーレス化が推進される職場のこと、目当ての資料はデータ共有サービスですぐに見つかった。開発を担当している帳票作成ソフトウェアの旧バージョンの仕様書。入社三年目の私がこの製品の担当になったのは先月のことで、いまだにわからないことの方が多く、いつヘマをしないかと日々不安でしょうがない。

 課内のほかのプロジェクトも忙しい時期ではないのか、気がつけばフロアには数えるほどしか人がいなくなっている。新しい年になってまだ一週間ほど、新年会で予定をいっぱいにしている人も少なくないのだろう。少し室温が下がったように感じてデスクの引き出しからブランケットを出してかけ、ディスプレイに集中した。

 一時間くらいやったら帰ろう。ここ最近の残業で読めていない漫画の山がこれ以上大きくなる前に手をつけたい。

 そうして黙々と文字を追い、三十分ほど経ったときのこと。机の上にカツッと何かを置かれて目を向けると、コーンスープの缶があった。

「嫌いじゃなかったらもらってくれる?」

 身体をひねるようにしてふり返ると、課長の堂ノ上さんが立っていた。その手にはホットコーヒーの缶がある。

「いいんですか?」

「間違えて買っちゃったんだ」

 堂ノ上さんの銀縁メガネの奥の目が柔らかい笑みを浮かべている。

「……ありがとうございます」

 缶に手を伸ばすと少し熱いくらいで、自分の指先がすっかり冷えていることに気がついた。両手でくるんだ缶のプルタブに視線を落としつつ、緩んでしまいそうな頬に力を入れる。残業しててよかった。

 堂ノ上さんは、「理想の上司」を絵に描いたような課長だ。

 人懐っこさも感じられる目鼻のはっきりした面立ち、ついでに独身なのも相まってか、三十五歳という実年齢よりはかなり若く見える。何かスポーツでもやっているのか高身長なうえに肩幅があり、腹部もたるんでおらずスタイルもいい。企業向けのソフトウェア開発を請け負っているうちの会社はいわゆるIT企業で服装規定はないが、管理職である堂ノ上さんは常にジャケットを着用していて、今日はネイビーのジャケットと明るめのグレーのボトムスの組み合わせでおしゃれだけど嫌味がない。

 そんな堂ノ上さんが仕事ができるのは言うまでもなく、部下一人一人に細やかな気配りもでき、憧れるなと言う方が難しい。基本的に少女漫画の二次元男子が好きな私が珍しく認めた三次元の男性だ。十歳も離れているし恐れ多すぎて恋愛対象にはなりえないが、目と心の保養くらいにはなる。それなりにブラックな労働環境なのだ、密かな楽しみがあったってバチは当たるまい。

 もらったコーンスープの缶にすっかり癒やされていたら、背後から「旧バージョンの仕様書?」と訊かれて堂ノ上さんがまだ立ち去っていないことに気がついた。

「花崎さんって勉強熱心だよね」

 思いがけない言葉に加えて優しく微笑みかけられてしまい、顔の前で大きく手をふる。

「そんなことないです、私なんか全然ダメだからやってるだけで……」

「本当にダメな人は勉強しようなんて思わないんだよ」

 気がつけばフロアにいるのは私と堂ノ上さんだけで、放課後の教室で気になる彼と二人きり、という少女漫画の定番シチュエーションみたいな状況を急に意識してしまって堂ノ上さんの方をまともに見られない。残業するとこんなご褒美があるなんて知らなかった。一人で勝手にドキドキしているのがバレませんようにとコーンスープの缶を握りしめる両手はもはや汗ばみかけている。

 褒められたのならお礼でも言えばいいのかもしれないが、うまく言葉が出てこない。そうして落ちた変な沈黙をやぶったのは堂ノ上さんだった。

「花崎さんに、ちょっとお願いがあるんだ」

 跳ねた心臓をごまかすように、熱い缶を握ったまま椅子から立ち上がる。ばさりとブランケットが足元に落ちた。

「で、できることでしたら! 資料のコピーでもデータの整理でも……」

 私が落としたブランケットを素早く拾うと、指の長い大きな手で払って堂ノ上さんは私の椅子の背にかけてくれる。

「すみません……」

 すっかり落ち着きをなくしている私にメガネの奥で苦笑しつつ、堂ノ上さんは訊いてきた。

「急で悪いんだけど、今週の土曜日って時間あるかな?」

 土曜日? うちの会社の基本的な出社日は月曜日から金曜日までだ。

「時間はありますけど……休日出勤ですか?」

 休日出勤をしないとまずいくらい火を噴いているプロジェクトが課内にあるのだろうか、と考えを巡らせていると、堂ノ上さんは持っていた缶コーヒーを私の机に置いて胸ポケットからスマホを取り出した。

「仕事の話じゃないんだ。よかったら、連絡先、教えてもらえる?」


 ……認めよう、あのとき私は確かに浮かれていた。

 もちろん、期待なんてしたってしょうがないとわかっている。でも、だけど、それでも。目と心の保養になるくらいの憧れの上司から個人的に連絡先を訊かれ、貴重な休日に呼び出されたのだ。私みたいななんの取り柄もない見た目も十人並みの女子だって、心の片すみで「もしかして」って期待くらいしたくなる。名前で呼び合う仲になったらどうしよう、職場には隠した方がいいのだろうか、などとしまいには要らぬ心配をしてしまったのもしょうがない。あまりアレンジのしようがないボブヘアにヘアピンを挿し、靴箱の奥に押し込められていたブーツを引っぱり出すくらいには心弾んでしまっていたのだ。まともな判断なんてできたわけがない。

 かくして指定された場所はどう考えてもデートスポットでなかったものの、なんの疑問も抱かず足取り軽く自宅を出て電車に乗った。私の自宅も会社も都内にあるが、指定されたのはなぜか千葉で、下り電車で一時間ほどかかった。そして正午過ぎにJR千葉駅に到着、最近改装を終えたばかりだという広大な駅に圧倒されつつ、行き交う人混みを進んで千葉公園方面に出た。うっすらと雲はあるものの青い空が広がり、それを分断するようにレールにぶら下がったモノレールが走り抜けていく。

 それから寒空の下歩くこと約五分、到着したのはなかなか年季が入った市営の施設、いわゆるコミュニティセンターだった。免震対策の施された古い建物で、入口手前の掲示板には何かの講習やセミナーのポスターが貼られており、浮かれ気分は冷や水を浴びせられたように急速にしぼんでいく。

 ……〝お願い〟っていうの、もしかして堂ノ上さんが関わっているセミナーとかイベントとか、そういうものの手伝いなんだろうか。

 少女漫画のヒロイン気分は、たちまち怪しい勧誘とかだったらどうしようという不安に取って代わられる。堂ノ上さんは時間と場所の指定だけし、来てくれればわかるからと〝お願い〟の詳細については教えてくれなかった。あの堂ノ上さんに限ってそんなこと、とは思うものの、職場での堂ノ上さんのことしか私は知らないではないか。

 そうしてコミュニティセンターの入口を前に立ち尽くすこと数分、中から自動扉が開いてラフな雰囲気の黒いダウンジャケットの男性が出てきた。邪魔にならないように端に寄ると、なぜかその人は私が寄った側を歩いてくる。しょうがないので再び道の反対側に移動すると、男性もそちらに進路を変えた。

 まさか不審者だと思われてるんじゃ……。

「花崎、何やってんだ?」

 知った声ではあるものの、それはあまりに聞き慣れない口調だった。

 ダウンジャケットにジーパンという見慣れない私服姿、無造作な黒髪、こちらを見るどこか気だるげな黒い瞳。銀縁メガネはなくともその整った顔立ちには十分すぎるくらい見覚えがあったが、雰囲気があまりに違いすぎてすぐには認識できなかった。

「……堂ノ上課長、ですか?」

「ほかの誰だっつーんだよ」

 私が知っている課長は完璧な紳士で、少なくともこんな口調で話したりしない。双子の兄弟だと言ってほしかった。

 ほら、と私を促して堂ノ上さんらしき男性はコミュニティセンターの方に歩きだす。

「さっさと中入れよ」

「あの……本当に堂ノ上さんですか?」

「わかりきったこと訊くな」

 睨むような目を向けられて内臓が縮み上がり、私は言われるがままに堂ノ上さんについて中に踏み込んでしまった。

 コミュニティセンターのエントランスは暖房が効いて生暖かく、私は巻いていたマフラーを歩きながら解いた。受付らしいカウンターを通過して堂ノ上さんは大股で奥へと進んでいくが、受付の横に本日の施設利用者が書かれた小さな黒板があって私は足を止めた。五階の会議室Cの欄に「美浜プレクトラム・アンサンブル」との記載がある。

 プレクトラム、という単語を口の中で呟いた途端、嫌な予感がした。

「何やってんだよ」

 いつの間にこちらに戻ってきたのか、焦れた様子の堂ノ上さんに腕を引かれて歩かされる。堂ノ上さんはそのまま私を奥のエレベータに押し込み、ロマンチックなムードの欠片もない苛立った様子で連打するように「5」のボタンを指で叩いた。ドアがゆっくりと閉まり、エレベータボックスが小さく唸りながら上昇する。

「あの……私は何をすればいいんでしょう?」

 掴まれたばかりのコートの腕に自分で触れつつ堂ノ上さんをそっと窺い見ると、腕を組んで壁にもたれた堂ノ上さんはこちらを見もせずに答えた。

「行けばわかる」

 何を考えているのかわからない冷めた眼差しにビクつき、一人で勝手にトキめいていたのを見透かされたような気がして黙り込む。そうして居心地の悪い数秒ののちに五階に到着し、連れていかれたのはやはり会議室Cだった。アイボリーのカーペットが敷き詰められたこぢんまりした一室で、私たちのほかには誰もいない。畳まれた長机が壁際に寄せられ、窓には白いレースカーテンが引かれ、部屋の中央には壁に向かって半円を描くようにパイプ椅子が五脚並んでいる。

 そして堂ノ上さんは中に入ると壁際に置いてあった二台の楽器ケースのうちの一つを開け、中身を私に突き出すように差し出したのだった。

「マンドリン、弾けるんだろ?」



 押しつけられたマンドリンを抱えつつ、私は抗議の声を上げた。

「無理です! 私、楽器なんて……」

「弾けるだろ、マンドリン」

 今度は断定され、私は答える代わりに腕の中の弦楽器を顔を引きつらせて見つめた。

 ウクレレよりもサイズはひと回り大きく明るい色で、ボディはイチジクを半分に割ったような形。平らな表面板にはサウンドホールがあり、べっ甲模様のピックガードが天井の蛍光灯を鋭く反射している。張られている弦は八本、ネックの指板にはずらりとフレットが並び、そのてっぺん、弦を留める糸巻きのあるヘッド部分はくるりと丸まった渦巻き型で、この楽器が安物ではないことを私に主張する。

 堂ノ上さんは腕を組んで威圧するように私を見下ろすと、社内報、と呟く。

「三年前の社内報に、学生時代にマンドリンサークルに入ってたって書いてあった」

 三年前――正確には二年と九ヶ月前の社内報。『新入社員紹介特集号』と題されたそれには当時新入社員だった私のプロフィールが掲載されていて、「大学時代の部活・サークル」という欄に「マンドリン」と書いたのを確かに覚えている。

 三年前の自分を呪いたい。大学四年の夏を前にしてやめたマンドリンサークルのことなど、わざわざ書く必要などなかったのだ。プロフィール提出時、バカ正直な私は空欄で出すのをためらった挙げ句に「音楽関係」と書き、そのせいで社内報の制作に並々ならぬ情熱を燃やしていた社内報委員の社員に呼び出された。

 ――せっかくの自己PRの場なんだから、もっと具体的に書いてみようよ。花崎さんはどんな音楽をやってたのかな? オーケストラ? 軽音? ウクレレ?

 新入社員の身であった私はこれも会社員になるための洗礼の一つだと諦め、渋々「マンドリン」と答えた。

 ……それが三年後にこんなことになるのなら、嘘でもいいから「無所属」と書くか空欄にでもしておけばよかった。

「出身大学も書いてあったから演奏会の動画も観た。花崎がマンドリンを弾けるのはわかってる」

 証拠は押さえたとでも言わんばかりで、マンドリンサークルで別の楽器をやっていました、と苦し紛れの嘘をつくこともできなそうだ。

「もしかして……お願いって、マンドリン弾けってことですか?」

「ほかに何があるんだよ。楽器はそれ貸してやるから」

 貸してやる、ということは堂ノ上さんの楽器なのだろうか。ヘッドの形が特徴的な、イタリアのブランド、カラーチェのクラシコAだ。新品だと確実に百万円を超えるモデルで、それもまた私の足をすくませる。

 堂ノ上さんは楽器ケースと一緒に置いてあったトートバッグからA4サイズの茶封筒を取り出すと、今度はそれを押しつけてくる。

「これ楽譜だから」

「いやあの……意味わからないです! なんなんですかこれ」

「できることならやるっつっただろ」

「言いましたけども!」

 楽譜とマンドリンを両手に立ち尽くしている私を横目に、堂ノ上さんはもう一つの楽器ケースを開けた。

 ドラだ。マンドリンよりも一回り大きく一オクターブ低い音が出る、マンドラ・テノール。

 ヴァイオリン属の楽器にチェロやコントラバスといった同じ形状でサイズ違いの楽器があるように、マンドリン属の楽器にもそれはある。中高音を奏でるマンドラ・テノールや、中低音を奏でるマンドロン・セロ。これらはそれぞれ、略してドラ、セロと呼ばれている。そのドラは私に押しつけられたマンドリンと同じモデルで、値段を考えるのはやめておく。

 突然の状況もさることながら、私は堂ノ上さんが楽器を弾くということにも驚いていた。学生時代に「楽器を持つと人は三割増しでカッコよく見える」と誰かが言っていたのが蘇る。カッコよく見えるかどうかはともかく、見慣れた人が楽器を手にする姿には確かによそ行きの空気のようなものがある。オフィスで見慣れた課長がマンドリン属の楽器を持つ姿なんて、誰が想像できただろう。

 堂ノ上さんは慣れた手つきでドラのネックを掴むと私に対峙した。

「ここで練習してるのは、美浜プレクトラム・アンサンブルって名前のマンドリン・アンサンブル。今年の六月に演奏会を開く予定で、現状、マンドリンが足りてない」

 堂ノ上さんが口にした演奏会の日程は、くしくも私の誕生日前日だ。

「……それで、私に弾けと?」

「演奏会まででいいから手伝ってほしい」

 ほら、と堂ノ上さんは並んだパイプ椅子の方を指し示す。

「準備してやったんだから練習参加しろよ」

 これが人にものを頼む態度かと腹が立ってきたが、堂ノ上さんの威圧的な態度に気圧されて座らされてしまう。と、座らされた席にまた絶句した。

「もしかして、足りないのってファーストマンドリンなんですか!?」

 正面向かって左最前列の席。そこはいわゆる首席奏者の席で、指揮者の次に音楽をまとめるコンサートマスターが座る場所だ。指揮者がいないアンサンブル編成だとしたら、実質的な合奏の責任者の席ということになる。マンドリン・オーケストラではマンドリンパートはファーストとセカンドに上下分けされることが多く、ファーストマンドリンのトップが首席奏者だ。

 堂ノ上さんは私には答えず、私の対面、右前方の席の足元にドラを置くと譜面台を組み立て始めた。私もマンドリンを足元に置いて押しつけられた茶封筒の中身を出してみる。ペラ紙に印刷されたパート譜で、それにはやはり「1st Mandolin」の文字。

「無茶苦茶です……」

 頭に花の咲いたことを考えてここまで来てしまった自分を呪う。楽譜を手にうなだれた私の前に、組み立て終えたばかりの譜面台が置かれた。

「もうすぐほかのメンバーも来るから」

 その言葉に今すぐ逃げなければと思った瞬間、会議室のドアが開けられる。

「こんにちはー」

 明るい声と共に現れたのは、年齢も背格好も異なる三人だった。

「あ、本当にマンドリンの子を連れてきたんだー。若ーい、癒やされるー」

「人数増えるの久しぶりじゃないっすか! 写真撮っていいっすか?」

「お土産はちゃんと人数分あるからね!」

 マンドリンのケースを背負った主婦っぽいアニメ声の女性と、ギターケースを持ったバンドマンスタイルの大学生くらいの若い男の子、そして大きなセロのケースを抱えた小柄で白髪の七十代くらいの女性が次々に口を開く。

「この三人が残りのメンバー」

 堂ノ上さんに紹介され、私が引きつった笑みで会釈した途端、アニメ声の女性がやや前のめりになって勢いよく手を挙げてビクついた。直後、持っていたバッグの中身が勢いよく足元にバラまかれる。

「やだ、またやっちゃった! ――あたし、鈴木塔子。よかったら名前で呼んでねー。これでも一児の母やってます」

 塔子さんはにっこり笑い、散らばったスマホやら楽譜やらをしゃがんで拾い始めた。ふわりとした髪が白いセーターの肩にかかっている。

 バンドマンスタイルの男の子が素早く塔子さんを手伝い、それからこちらを向いた。

「俺は新山颯太、大学一年の十九歳っす。みんなには颯太って呼ばれてるんでそれでお願いしゃっす」

 颯太くんは明るく自己紹介して私に敬礼する。サイドを刈り上げた茶髪で白いパーカーの上に黒いPコートを着ており、左耳にはシルバーのピアス、腰にはチェーンがぶら下がっていていかにも軽音楽が似合いそうな出で立ちだ。メンバーの中で一番年齢が近いはずなのに、親近感を覚えるどころか宇宙人に思える。

 そして最後に、白髪の女性が足元にセロケースを下ろしてバッグから何かを取り出すと、こちらにやってきて私の手にそれを押しつけた。

「これ、ケニアのお土産なの。ジープに乗って野生動物を見たんだけどね、まさに大迫力! って感じだったよ。あ、私は泉谷幸恵、よろしくね!」

 声が大きい幸恵さんからもらった包みを開くと、木製のヒョウの置物だった。目鼻の位置が微妙にずれていてひょっとこみたいな顔をしている。そして、グレーのロングコートを脱いだ幸恵さんも目がチカチカするようなヒョウ柄のシャツを着ていた。

 こうして逃げることも叶わないまま自己紹介の嵐に呑み込まれ、合奏の準備が始まってしまった。半円を描いたパイプ椅子には、正面向かって左から私、塔子さん、幸恵さん、颯太くん、そして堂ノ上さんの順に座っている。

 私は立てかけた楽譜の陰から、半円を描いて座る面々をそっと観察した。不思議な集団だ。会社の上司、子持ちの主婦、宇宙人の十代、元気なおばあちゃん。学校のような閉じたコミュニティではないにしろ、サークルなのだからもう少し何かしらの共通項のある人が集まるものだと思っていた。歳も属性も違いすぎて誰も彼もが浮いており、おかげで私のよそ者っぷりすら薄れている。

「――それじゃ、」

 堂ノ上さんが口を開くと、私以外の全員が一斉に席を立った。

「合奏始めます」

 よろしくお願いします、とみながそれに応え、一人座ったままの私は不本意ながらも出遅れたような形になってしまい気まずさでいっぱいになる。

 そんな私を見て、堂ノ上さんはにこりともせずに言った。

「花崎も今日はよろしく」

 塔子さんにも隣から「よろしくね、未奈ちゃん」と明るく声をかけられ慌てて立ち上がってから、あれ? と思う。そういえば私はまだ名乗っていなかったような。

 私の疑問に答えるように、「花崎のことは事前にみんなに知らせておいた」と堂ノ上さんが説明してくる。

「未奈さん、二十五なんすよね? うちの姉貴が未奈さんと同い歳で、高校の教師やってるんすよ」

 颯太くんに笑顔でそう話しかけられ、名前どころか年齢まで事前にメンバーに共有されていたことが判明していっそう逃げだしたくなってくる。

「あの……本当に合奏やるんですか?」

「やるっつっただろ」

「私も?」

「なんのためにマンドリン貸してやったと思ってんだよ」

「でも楽譜だってさっき渡されたばっかりで、そもそもマンドリンだって何年も触っていなくてですね、」

「やってもねーのにごちゃごちゃうるせーよ。弾けるとこだけ弾けばいいだろ」

 ごちゃごちゃ言う権利くらい認めてほしい。

 何も言い返せず席に着くと、隣の塔子さんから「横暴だよねー」と小声で同情された。

「タクミくん、会社でもあんな風なの?」

 曖昧に笑って答えは濁し、「タクミくん」という呼称に違和感でいっぱいになる。課長の下の名前が巧というのは知っていたけど、社内では仕事ができるすごい人で人格者で、気安く馴れ馴れしくできない雰囲気もあり、そんな風にフランクに呼ぶ人はいない。会社でもあんな風だったら、少なくともこんなところにのこのこ来なかった。ここでの堂ノ上さんがいつも「あんな風」だというのなら、なんという二重人格、詐欺に遭った気分だ。理想の上司など幻想にすぎなかった。三次元の男になんてもう二度と憧れたりしないと心に誓う。

 堂ノ上さんの圧力に屈して渡された楽譜を譜面台に立てかけ、足元に置いていたマンドリンを手にしてから気がついた。

「あの……」

 自分も席に着き、ドラをかまえようとしていた堂ノ上さんが片眉を上げた。

「私、チューニングしてないんですけど」

「お前、今までそこに座って何してたんだよ」

 状況を把握するのに精いっぱいでした、と心の中でだけ口答えする。

「してないっつーならさっさとしろよ」

「チューナーもピックもないです」

「そういうことは先に言え」

 マンドリンの状態はよく、渡されたピックで弦をはじくと明るく澄んだ音が響いた。久しぶりの感覚に一瞬目の奥が熱くなりかけたけど、そんな自分に気づかないふりをしてチューナーの目盛りを見ながら糸巻きを緩め、442ヘルツに合わせていく。


 渡された楽譜は八曲分で、すべて六月の演奏会の曲目だという。学生時代に弾いたことのある曲もあるけど、ほとんどが初見だ。

 右足を上にして足を組み、右足の太ももの上に滑り止めマットを敷いてその上に丸みを帯びたボディを置き、指板のあるネックは左手の人差し指のつけ根に載せて下から軽く握る。借りたピックは焦げ茶色でしずく形をしており、滑り止めがついていた。それを右手の親指と人差し指で挟み、弦をはじくというわけだ。

 変な緊張でたちまち身体が強ばっていく。四年ぶりで自分の記憶も何もかもに自信がない。姿勢はこれで正しいのか、ちゃんとピックを持てているのか、トレモロなんかできるのか。騙されるように連れてこられたわけだし、むしろ弾けないくらいの方がいいのではと思うも、ここまで来たらやらなければならないのではという気もしてくる。

「ひとまず一曲ずつやってみよう」

 堂ノ上さんの言葉に会議室は静かになる。指揮者がいないアンサンブル形式なので、堂ノ上さんが指揮者の代わりに合図を出した。楽譜を見て最初の音はわかっていたものの、やっぱり私は手を動かせず、硬直したまま四人の演奏に耳を傾ける。

 堂ノ上さんの演奏は誰よりも堂々としていた。ピックを手にした右手首は神経質なほどに細かくトレモロを刻み、マンドリンよりも一回り大きく低いドラの音がこれでもかと存在を主張して耳に飛び込んでくる。

 マンドリン属の楽器は複弦楽器といって、張ってある八本の弦は一音につき二本ずつ。ピックで二本の弦を同時にはじくトレモロ奏法を用い、細かな音の粒を連ねて一つの長音として聴かせる。慣れていないと二本の弦を平等に弾き下ろせなかったり、ピックのアップとダウンにバラつきが出たりするが、少なくとも堂ノ上さんのトレモロにそんな不安定さはなく、演奏歴の長さが窺える。

 そうして一曲目の演奏が終わるやいなや、堂ノ上さんの指摘が火を噴くように飛んでいく。

「セカンド、九小節目からのメロディ聞こえない。ピアノでも出すとこ出して」

「ギター、二十三小節目のクレッシェンドから加速してる。ノリがいいのと走り屋は違うっていつも言ってんだろ」

「セロは音量十分なんでピッキングノイズ出ないようにできません? フォルティッシモはいいんですけどバリバリ鳴りすぎ」

 婉曲な言い回しというのを知らないのか、指摘は直球で容赦がない。会社では聞いたことがない物言いにすっかり縮み上がっていたら、その矛先は最後に私に向いた。

「花崎はなんでもいいから弾け!」

「すみませんでしたっ!」

 反射的に謝ってからマンドリンをかまえ直す。ここには鬼がいる。弾かなければ生きて帰れないかもしれない。

 そうして次の曲に移ることになり、楽譜をめくっていた私は覚えのあるタイトルに固まった。

『マンドリン・オーケストラのためのソナチネ』。オランダ人の作曲家、J・B・コックの曲だ。

 大学時代に弾いたことがあり、楽譜を軽く眺めるとすぐにメロディを思い出せた。ソナチネというのは楽曲の形式を指す言葉で、小規模なソナタ形式の意。この曲はゆったりとした導入部分、そして全パートのユニゾンで始まるテンポの速いアレグロ・ヴィヴァーチェの二つのパートで構成されている。速弾きなどはなく難易度はさほど高くないが、音域も奏法も異なるすべての楽器で同じ音を弾くユニゾンがあり、ぴたりと合わせられなくて苦労した記憶がある。苦労したけど最終的には合わせられるようになった、という話だったらいい思い出なのだが、合わせられないまま私はサークルをやめてしまったので苦い記憶しかない。

 全員が準備できたのを見計らい、堂ノ上さんが合図を出す。ファーストマンドリンとマンドラの二パートが拍の裏から入るアウフタクトで曲が始まる。生きて帰るためだと覚悟を決め、一番低いG弦をピックで弾き下ろした。

 金属製の細い弦が喰い込み、左手の指先が痺れた。

 毎日練習していた頃は指先が硬くなっていて、弦の振動に負けることなどなかったのに。すっかり柔くなってしまった自分の指に、思いもかけず喪失感がわき上がる。それをごまかすように楽譜に集中するも、今度はピックを持った右手首が思うように動かず響くトレモロはぎこちない。

 いっそピックを下ろしてしまおうと思うものの、ところどころつっかえ、音を間違えながらも堂ノ上さんに引っぱられるように弾いていく。そうして後半、アップテンポになるユニゾン部分に差しかかる。音を延ばすフェルマータのあと、堂ノ上さんの合図で全員の音が重なった。

 最初の音は綺麗に揃った。が、二音目からは見事にばらけ、メロディは空中分解する。危ういバランスで完成したトランプのタワーが、一瞬の間のあとに崩壊するかのように。難しい曲ではないだけに、ぴたりと揃えようと思うと神経を遣うし些細なズレでも悪目立ちする。初めて参加した合奏でそううまくいくわけがない。

 ――なんとなくは合ってるんだけどね。

 脳裏に千晶の声が蘇った。

 ――ハマったーって感じじゃないよね。縦の線がちょっとずつズレてるっていうか。

 記憶の断片をふり払う。思い出すことなんてもうずっとなかったのに。

 後半に突入してテンポが速くなってからは、かつては弾けていた曲とは思えないほど右手も左手も追いつかなくなり、今度こそピックの手を下ろした。そもそも、ブランクのある人間が初対面の集団に交ざっていきなり合奏するなんて無茶なのだ。プロならともかく、自分も含めアマチュア奏者でしかない。阿吽の呼吸で合わせられるほどの信頼関係もなければ、互いの演奏のクセどころか力量すらわからない。

 マンドリンをかまえたまま硬直し、流れていく音楽を聴いていた。弾かなければよかった、と後悔する。どれだけ弾けないのか確認させられ、みじめになっただけだ。

 最後の和音が終わり、会議室に静寂が戻った直後、堂ノ上さんがこちらを睨んだ。

「どうして途中でやめた?」

 答えない私から堂ノ上さんはすぐに視線を逸らし、隣に座った颯太くんに指示を飛ばした。堂ノ上さんの言葉はきついが、少なくともそれをほかの三人が怖がっていたりうんざりしていたりする様子はない。ここには、それを受容できるだけの信頼関係みたいなものがあるのかもしれない。

 ……そんなの、私の知るところではないけど。


 そうして何曲か通し、一時間半ほどで休憩時間になった。お手洗いにでも行くのか堂ノ上さんが会議室を出ていったのを見て、私は即座に立ち上がる。パイプ椅子にかけてあったコートに素早く袖を通し、荷物をまとめて隣の塔子さんに声をかけた。

「あの、マンドリンと楽譜、堂ノ上さんに返しておいてください」

「え、帰っちゃうの?」

「はい。今日は短い時間でしたけどありがとうございました!」

 塔子さん、幸恵さん、颯太くんに頭を下げ、転げるように会議室を出た。廊下を窺って堂ノ上さんの姿がないことを確認し、駆け足でエレベータに向かう。

 こんなのはもうたくさんだ。せっかくの休日、アニメを観るなり漫画を読むなりして心を落ち着けたい。レンタルショップに行って映画を借りるのでもいい。とにもかくにもここから脱出して悪夢のような数時間のことを忘れたい。

 エレベータボックスは一階に留まっていて、なかなか五階まで来てくれない。いつ堂ノ上さんに連れ戻されるかと気が気ではなく、いっそ階段を使おうと決めて踵を返し、駆けるように階段を降りた私は踊り場の手前で足を止めた。

 踊り場の壁にもたれている堂ノ上さんはちょうど通話を終えたのか、耳からスマホを離したところだった。

 硬直したような空気の中、しばし無言で向かい合う。

「……おつかれさまでしたっ」

 小さく会釈して堂ノ上さんの横をすり抜けようとしたが、あっさり腕を掴まれてつんのめる。

「誰が帰っていいって言ったよ?」

「すみません、勘弁してください! 合奏とかサークルとか無理です!」

「別にメンバーになれとは言ってないだろ。次の演奏会まで手伝えってだけだろうが」

「手伝えって……話が違いますよ! そんなお願いは聞けません!」

「どうせ暇なんだから手伝いくらいいいだろ」

「勝手に暇だって決めつけないでください! それにさっきの合奏でわかったと思いますけど、全然弾けないし――」

「ブランクがあるならあんなもんだろ。少し練習すりゃなんとかなる」

「簡単に言わないでください。ましてやコンマスなんて私なんかにできるわけが――」

「花崎って、いつも『私なんか』って言うよな」

 急に強い口調で言葉を遮られてビクリとする。

「そういうの、前から思ってたけどすっげーイライラする」

 掴まれていた腕はいつの間にか離されていたけど、投げかけられた直球すぎる言葉に動けない。それは今日一番のダメ出しで、常々自分はダメな奴だと思ってはいたものの、こうもまっ向から否定されたのは初めてだった。

「……しょうがないじゃないですか。堂ノ上さんみたいにデキる人間じゃないんです」

 絞り出すように言い返すも、それはあまりに情けない台詞だった。そんな私を堂ノ上さんは鼻で笑う。

「やろうともしない奴ができるようになるわけがないだろ」

「――なんにも知らないくせに勝手なこと言わないでください!」

 瞬間的に頭に血が上り、考えるよりも先に言葉が口から飛び出した。

「堂ノ上さんみたいなデキる人には、どうせ私みたいなダメ人間の気持ちなんてわからないんですよ! それに社会人になってまでサークルなんてやる意味あるんですか? 青春ゴッコしたいなら私を巻き込まないでください!」

 呆気に取られた顔の堂ノ上さんの脇をすり抜け、足元だけを見つめて階段を駆け降り、気がつけば一階に着いていた。息が上がって心臓がしめつけられるように痛む。

 余計なことを言いすぎた。

 けど、そもそも私はマンドリンをやりたいなんてひと言も言っていない。何も知らされずに連れてこられて、無理やり弾かされたのだ。できなくて当たり前なのに、あんなことを言われる筋合いはない。

 上がった息を整えるように深呼吸し、ゆっくりと足を進めてコミュニティセンターを出た。時間を確かめようとスマホを取り出し、メッセが届いていることに気づいてさらに気が重くなる。

 大学時代のサークルの友人、千晶からだった。千晶と練習したときのことを思い出したばかりだったこともあり、なんとも複雑な気分でメッセを見る。例のごとくで会えないかという誘いで胃が痛い。

 大学を卒業してから早三年、千晶はいまだに定期的に誘ってくれるが、それに応えたことは一度もなかった。いっそ切ってしまえばいいと思うものの、それもできない私は『最近仕事で忙しくて』と適当な言い訳をして『また今度』と返す。いっそ見限ってくれればいいのに。

 堂ノ上さんに「どうせ暇」と言われたのを思い出し、ブーツの踵で地面を蹴った。



 私には、中高生の頃の思い出があまりない。友だちも人並みにはいたし、いじめに遭っていたとかそういう嫌な思い出があるわけではないけど、人付き合いが得意じゃないしと部活にも入っておらず、これといって印象的なエピソードもイベントもなかった。好きだった少女漫画を読んでは、恋愛でトキめいたり部活で青春の一ページを刻んだりといった学生生活に憧れ、ため息をついていた記憶ばかりがある。

 だから大学でサークルに入ったのは、私としてはちょっとした冒険だったのだ。

「大学生ってサークルに入らないと友だちができないんじゃないの?」とませた妹に焦燥感を煽られ、それなら小学生の頃からピアノを習っているし音楽に関係したものにしようと思い、『初心者大歓迎』というポスターに導かれてマンドリンサークルに入会した。

 初めての弦楽器で最初はなかなかコツを掴めなかったけど、先輩たちは優しく根気強く教えてくれた。同期の友だちにも恵まれた。なかでも同じマンドリンパートだった千晶は、人見知りの私にも最初から気さくですぐに打ち解けられた。よく二人で自主練をしたし、サークル以外でも一緒に過ごすことが増えていった。

「未奈は練習熱心だよね」

 千晶はよくそんなことを言ってくれたけど、私自身は全然満足していなかった。ピアノは一人で完結できるけど、マンドリンには合奏が欠かせない。合奏という場は無条件に私を受け入れてくれるように思えたものの、私は邪魔になりたくなくて、そのためには練習する以外に方法がなかったのだ。

 それに、そうやって夢中になっている自分や、一緒にがんばれる仲間がいること自体が嬉しかったのもある。これってすごく青春っぽい、冴えない私でも漫画のような青春を送れているのでは、などと密かに浮かれていた。もちろんマンドリンを弾くこと自体も楽しかったけど、多分それ以上に、仲間と一緒に演奏会を目指す高揚感みたいなものが好きだったのだと思う。

 合奏や練習で意見がぶつかることもあるし、人間関係の何もかもがうまくいくわけではもちろんない。それでもサークルをやめたいと思うような大きなトラブルはなく、三年生の夏を迎えた頃、もうすぐ引退する四年生の先輩たちに呼び出された。

「未奈ちゃん、コンマスやってみない?」

 千晶は自分のことのように喜んでくれた。コンサートマスターは指揮者に次ぐ合奏の要、名誉なことだと頭ではわかっていたのに、それでも私には人を引っぱる立場になることへの不安しかなかった。

「何かあったら私もフォローするしさ」

 そんな千晶はセカンドマンドリンのトップに指名されていて、今までみたいに頼りっ放しというわけにいかないのは明白で、覚悟を決める必要があった。

「……がんばってみる」

 青春に試練はつきものだし、と心のどこかで浮かれていた私は決意した。

 ――でも、それが間違いだった。

 先輩たちが卒業して私は四年生になり、就職活動で忙しい中でもサークルの練習には積極的に参加してかつて先輩たちが自分にしてくれたのを思い出しながら後輩たちに楽器を教えた。もっとビシッと言っちゃいなよ、などと千晶にはよく言われていたけど、もともと人にハッキリものを言えるタイプではない。私なりの精いっぱいで周囲に目を配り、音楽のことを考えて練習に励むしかなかった。

 そうして引退試合となる演奏会を数ヶ月後に控えた、初夏のことだった。

 その日は全体練習の日ではなかったが、午後いちの講義が休講になってしまい、個人練習をしようと思い立った。旧型の冷房しかないサークル棟はうっすらと汗ばむ暑さで、はやる気持ちで扇風機のある部室に向かったのを覚えている。ドアを開けると、部室には予想外に人がいて目をまたたいた。

 千晶を含めた同期のメンバー数名が集まり、何か話し合いでもしているような雰囲気を漂わせていた。みんな一様に私が来るとは思ってもみなかったという顔をし、揃って黙り込んでしまう。

 ともすれば気まずいものになりそうな空気を濁すように、千晶が声をかけてきた。

「未奈、午後は講義じゃなかったっけ?」

「急に休講になって……」

 机上に千晶のスマホが置かれていて、見慣れたサークルのホームページが表示されている。

「何かあったの?」

 千晶は私の視線に気がつくと、ハッとしたようにスマホを手にする。サークルのホームページには、外部向けの演奏会の案内や会員限定で見られる練習日程や雑談をする掲示板のページがある。練習日程は自分のカレンダーアプリに登録してあったし、ここ最近はあまりチェックしていなかった。

「あのね、未奈――」

 椅子から立ち上がって千晶が何か話しかけてきたが、自分のスマホで掲示板を表示した私にはすぐに聞こえなくなった。

『現在の合奏の問題点について』

 いつもはバカな雑談ばかりの掲示板にそんな大仰なタイトルのスレッドが立っており、運営や合奏に対する不満が画面いっぱいに書き連ねられていた。名指しこそされていないものの、そこに頻繁に書かれている『現在のコンマス』とは私以外にありえない。

 スマホを手に固まっている私の腕を掴み、千晶が揺すった。

「こんなの気にしなくていいから! 誰がやったんだろうって、今みんなで話してて……」

 わざわざ私の講義がある時間にみなを集めたのは千晶なのだと確信した。私に気を遣ってくれたのだろう。

 けど、こうやって人を集めてなんになるというのか。集まったほかの面々が何を考えているのかはわからないし、こんな奴がコンマスに選ばれたから面倒なことになったのだと思われている気がしてならない。そもそも掲示板の投稿は匿名で、スレッドを立てたのがこの中の人間じゃないなんて誰にも断言できない。

 咄嗟に怒りが浮かんだものの、けどそれはすぐにしぼんで次第に恥ずかしくなってきた。実力も人望もないくせに、調子に乗るからこんなことになったのだと思った。私なんかががんばってみたところでこれが現実なのに。ハッピーエンドが用意されている漫画みたいにうまくいくわけなんてないのに。

 気にしなくていい、今までどおりでいいから、大丈夫だよ。そう口々にかけられた言葉は何一つ入ってこず、信じる気にもなれなかった。何かがぷっつり切れてしまって、私はその場から逃げだした。

 ……あの日からずっと、私は逃げたままでいる。



 週が明けて、とうとう月曜日がやってきてしまった。

 よほど仮病でも使って会社をサボろうかと思った。土曜日の堂ノ上さんの豹変ぶりはすっかりトラウマになっていたし、おまけに理不尽な目に遭ったとはいえ、あんなことを勢いで直属の上司に言うんじゃなかったと後悔の胃痛でのたうち回った。が、だからといって出社しないわけにはいかないのが勤め人の辛いところだ。

 胃痛をこらえてなんとかオフィスビルに到着し、できるだけ課長席を見ないようにしてフロアに踏み込んだ。堂ノ上さんの姿がなくてひとまず胸を撫で下ろす。いつものオフィスの風景に、あれは白昼夢だったのではないかという気すらしてくるが、メッセでのやり取りは残っていて疑いようがない。

 バッグの中に胃薬の予備があるのを確認してから自席に着き、パソコンの電源を入れたときだった。椅子の背にかけていたブランケットが落ちていたらしく、誰かに横から差し出された。

「あ、ありがとうございます」

 そうふり返った私は悲鳴を呑み込んだ。

「おはよう、花崎さん」

 かつてだったらトキめいたであろう、銀縁メガネの柔らかい笑みに今は冷や汗が止まらない。堂ノ上さんは土曜日のような無造作ヘアではなく髪も整っており、しゃんとしたジャケット姿でまるで別人だった。いや、土曜日のあれこそが別人だったわけで、こちらが私にとってはいつもの堂ノ上さんで、などと考えていたら混乱してきて胃痛がぶり返す。

 挨拶すらできない私に堂ノ上さんはわずかに首を傾げ、私のデスクの上にブランケットをふんわりと置いて去っていった。ほかの社員にもいつもの爽やかさで挨拶をしているのをぼんやりと眺める。それはこのオフィスにありふれたいつもの朝の光景そのままで、三次元の男って怖いと思った。

 幸いなことに、課長と仕事で直接的なやり取りをすることはほとんどない。自分の仕事に集中していたら堂ノ上さんのことを気にする間もなく午前中が終わり、そうして昼休み明けのこと、同じチームの主任、林村さんに呼びつけられた。三つ隣の林村さんの席は課長席のまん前で、極力堂ノ上さんを視界に入れないようにして立った。

「ちょっと相談なんだけど」

 林村さんは椅子からはみ出るような巨体を揺らし、ハンカチタオルで脂ぎった額を拭いながら私が携わっているプロジェクトの進捗管理表をディスプレイに表示する。

「実は来月から、森元が別のプロジェクトのヘルプに引っぱられることになってさ」

 三十過ぎの森元さんは副主任で、プロジェクトのリーダーだった。他部署との折衝や予算関連の作業は主任が行うが、進捗管理やメンバーのフォロー等々、プロジェクトの実質的な推進役を担うのがリーダーとなる。

「花崎ちゃん、リーダーやってみない?」

 変な声が出て及び腰になった。

「もちろんフォローはするし。花崎ちゃんも三年目でしょ。そろそろ一度そういうのやってみてもいいんじゃないかなって」

 同期入社の子が別のプロジェクトでメインのポジションに就いているのは知っていた。みんな優秀ですごいなぁなんて、他人事のように思っていたのだけど。

「私なんか……」

 そう口にしてからハッとするも、怖くて課長席の方は見られない。

 ――花崎って、いつも「私なんか」って言うよな。そういうの、前から思ってたけどすっげーイライラする。

 一昨日投げつけられた言葉が蘇り、改めてえぐられた。今この瞬間も、紳士の仮面の下で堂ノ上さんはイラついているに違いない。

 意識して「私なんか」と言っているつもりがなかっただけにタチが悪い。いつから口癖になっていたんだろう。

「――花崎ちゃん?」

 林村さんに顔を覗き込まれ、ハッとして顔を上げる。

「あの……はい、大丈夫です」

 まったくもって何も大丈夫じゃないが、それ以外に答えようがない。

「引き継ぎは今月中に森元にさせるし、わからないことがあったら相談してくれていいからさ。ま、気楽にやってよ」

 何をどう気楽にすればいいのか相談したかったけど、ぐっと我慢して自席に戻った。胃の痛みが増していく。林村さんは私にできると思ったからリーダーを任せると言ってくれたんだから、それを信じて「がんばります」と言えばいいだけなのに。そのひと言が言えない。私なんかにできるわけない、そんな考えが何よりも先んじる私はきっと、誰よりも自分を信じてない。

 デスクに突っ伏してしまいたいのをこらえて仕事に意識を戻す。課長席を視界に入れないように背筋をまっすぐにし、それから胃薬を取り出した。


 そんな風に胃痛に苦しめられた数日だったが、仕事をしていると時間が流れるのはとっても早い。堂ノ上さんの裏の顔に内心で怯えつつも数日が過ぎたある日の夜だった。一時間ほど残業して一人暮らしをしているマンションに帰宅した直後、実家から電話がかかってきた。

『未奈ちゃん? 元気してる?』

 スマホを耳から数センチ離した。はっきりしゃべらない私とは対照的に、母の声はいつだってボリュームマックスだ。元気いっぱいだったセロの幸恵さんのことを思い出し、テレビの前に所在なさげに立っているヒョウの置物のひょっとこ顔と目が合った。

 片手で暖房のスイッチを入れ、冷え切った部屋の中央にある座椅子に腰かけてブランケットをかける。近況を尋ねてくる母に適当に答えつつ、何か用かと訊いた。

『三月公開の映画の招待券が二枚あるんだけどいる? 少女漫画の実写化って書いてあるけど』

 母が口にした映画のタイトルに気分が少し上向いた。

「観たいと思ってたんだ。一枚ちょうだい」

 そう答えた私に、母は芝居がかった声を上げて全力で嘆いてみせる。

『一緒に行ってくれる彼氏とか友だちとかいないの?』

 いない、と断言するのはためらわれ、かといって反論する材料もない。SNS上で軽いやり取りをする友だちだったらいたが、社会人になってからリアルでの付き合いはほぼないに等しい。

「い、忙しいんだよ、私も」

『どうせ漫画読むのに忙しいだけでしょ』

 電話の向こうで赤ん坊の泣き声がし、続けてそれをあやす妹の愛奈の声が聞こえた。二年前にいわゆるできちゃった婚をした妹は、今は夫婦で実家の親と同居している。

 お姉ちゃん? と愛奈が母に訊く声がし、それから母に何か言った。

『愛奈が「早く彼氏紹介しろ」だって』

「余計なお世話だって言っといて」

 子どもを産んでから愛奈はすっかり大人の顔になった。あれが大変これが大変と愚痴りつつも、地に足が着いている自信みたいなものが全身からみなぎっている。かつては私にくっついて回ってばかりだった幼い妹の面影は欠片もない。

「チケット、やっぱり二枚もらう」

 母を相手に強がってもしょうがないとは思いつつも虚勢をはった。誰と一緒に行くの、と訊かなかったのはせめてもの母の優しさだったのかもしれない。もしくは、一緒に行く人がいなければ一人で二回観に行けばいいという私の考えを見透かしたのか。通話を切ると、疲れが倍になって全身にのしかかってくる。

 学生時代はこんなに不安定じゃなかった。

 社会人なんだからこんなものだと思いはすれど、ダメな自分を持て余してばかりでどこにいても居心地が悪い。胸をはれるほど仕事ができているわけでもないし、パソコンに向かうのが嫌いじゃないというだけで出世欲からもほど遠い。かといって「自分にはこれがある」と言えるような趣味もなく、人付き合いも苦手。社会に出てから自分という人間の素が試されているように感じることが増えた。「これが私だ」と言えるものが、今の私にはあまりにない。

 ……昔はこうじゃなかった。

 楽しいと思えるものも、夢中になれるものもあったはずなのに。

 座椅子で膝を抱えていたらメッセを受信していることに気がついた。私にメッセを送ってくる人間は限られている。また千晶だろうかといっそう気が重くなったが送り主はまさかの堂ノ上さんで、悲鳴を上げてスマホを床に伏せた。

 堂ノ上さんのせいだ、と独りごちりつつ立ち上がる。堂ノ上さんのせいで余計なことを思い出したし、色んなものがぐちゃぐちゃになってる。

 スマホで動画サイトを開いて適当なピアノ曲を流し、何度も読み返している少女漫画コレクションが並んだ本棚を眺めたが今の気分に合うものはなく、クローゼットを開けて積んである漫画ケースを引っぱり出した。こういうときは過去の名作を全巻一気読みするに限る。

 目当ての漫画を床に積み上げたところで顔を上げると、クローゼットの奥にある青いケースが目についた。一人暮らしを始めたときに、実家に置いてきてもよかったのについつい持ってきてしまったもの。――学生時代に使っていたマンドリンのケースだ。

 たっぷり十秒は悩んだものの、気がつけば楽器ケースを引き寄せていた。厚みのある布ばりのケースの蓋を思い切って開く。

 四年前のままだった。

 私のマンドリンはカビたり割れたりすることもなく、かつてのままの姿を保っている。古くなって伸びきった弦は張り替えないと音が響かなそうではあったものの、でもその程度。四年という歳月はこんなにも短いものなのか。

 さっさと蓋を閉じて漫画を読もうと思うのに、意に反して私の手はマンドリンの細いネックを掴み、ケースの小物入れからしずく形のピックを取り出している。

 ……今さらこんなことをしたって、何かが変わるわけじゃないのに。

 手の中のピックで、そっとE弦をはじいた。



 千葉駅で下車して徒歩五分、コミュニティセンターの前で足を止める。自分で考えてここまで来たはずなのに、今さらながら迷いが生じる。

 先日、堂ノ上さんからメッセで送られてきたのは次の練習の日時だった。堂ノ上さんの二重人格っぷりはもはやトラウマと化していて返信できなかったものの、結局ここに足が向いてしまった。

 エントランスの前でうろつくこと数分、あと一歩の勇気が足りなかったそのとき。

「もしかして、未奈ちゃん?」

 かわいらしい高い声をかけられる。ふんわりした髪に、白いダウンジャケットから細身のジーパンの脚が伸びている塔子さんだった。

「わー、また練習に来てくれたんだ!」

 思いもかけず正面から抱きつかれてふらついた。甘い匂いに包まれる。塔子さんの背中でマンドリンのケースが大きく揺れた。

「あの、今度はちゃんと見学したくて……よろしくお願いします」

 塔子さんから離れて頭を下げた私の背中でも、マンドリンのケースが揺れている。


 わかってはいたけど、会議室にいた堂ノ上さんはやっぱり鬼モードだった。

「来たんだ?」

 無造作な前髪の下から睨むような目を向けられてすくみ上がる。昨日はにこやかに挨拶してくれた理想の上司は、やはりここには存在しなかった。

「練習日程、ご連絡いただいたので……」

 堂ノ上さんは私が持っているマンドリンに視線を移す。

「それ、自分の楽器?」

「そうです」

 堂ノ上さんに借りた楽器と比べると値段は三分の一ほどの国内ブランドのものだが、それでも学生時代にアルバイトして貯めたお金で買った思い出の品だ。

 前回と同じ席に着き、持参してきた譜面台を組み立てて茶封筒から楽譜を出すと、この数日、自宅でちまちまと練習していた『マンドリン・オーケストラのためのソナチネ』の楽譜が最初に出てきた。

 ずっとしまっていたマンドリンを手にした途端、この曲をもう一度弾けるようになりたくていてもたってもいられなくなった。千晶とあんなに練習したのに弾けなくなってしまった自分が、急に耐え難く思えてどうしようもなくなった。

 ――やろうともしない奴ができるようになるわけがないだろ。

 先日、堂ノ上さんに言われた言葉は今でも腹立たしく思う反面、図星でもあった。

 私だって、本当はできるようになりたい。

 毎日を楽しく思えた頃の自分を取り戻したい。私にだってできるって信じられるようになりたい。

 遅れて会議室に現れた颯太くんは明るく挨拶してくれ、私のマンドリンにカメラを向けると『今日の練習も五人でテンあげ!』とインストグラムに投稿した。続けて幸恵さんが到着し、ヘビ柄のセーター姿で沖縄土産の色鮮やかなシーサーの置物をくれる。みんな先週のことなどなかったように接してくれて、拍子抜けすると同時に気楽にもなった。

 堂ノ上さんに怒られる前にチューニングを終えてマンドリンをかまえる。学生時代の硬さには及ばないけど、少し練習したおかげで指先が弦の振動に負けることはなくなってきた。トレモロはまだぎこちないが、少しは手首が動くようになったと思う。

 みんながチューニングを終えて席に着いたのを見計らい、堂ノ上さんが声をかけた。

「――合奏始めます」

 ほかのみんなと同じように席を立ち、私も「よろしくお願いします」と声を出した。


 午後五時に練習が終わり、コミュニティセンターの外に出ると辺りはすっかり暗くなっていた。車で来ている颯太くんとはコミュニティセンターの前で別れ、バスだという塔子さんと幸恵さんとは千葉駅の近くで別れた。都内に住んでいるのは私と堂ノ上さんだけで、否応なしに帰りの電車は二人きりになってしまう。

 千葉駅発の東京行き上り快速電車は空席を見つけられない程度には混んでいた。閉まったドアの近くに、距離を空けて堂ノ上さんと向かい合うようにして立つ。

 電車が発車し、景色が車窓を流れ始めた頃に堂ノ上さんがおもむろに口を開いた。

「練習に来たってことは、演奏会に出る気になったってこと?」

 こういう会話になるだろうと予想できていたものの、すぐには答えられなかった。そんな私に、堂ノ上さんは言葉を重ねてくる。

「今日、楽しそうにしてたな」

 その言葉を否定することはできない。そんなのはみんなに失礼だ。

 前回あんな風に練習の途中で帰ったというのに、メンバーは誰一人としてそのことには触れず歓迎してくれた。曲のことや普段の練習のことなど色んなことを教えてくれ、大学時代に新入生だった私を快く迎えてくれた先輩たちのことが思い出された。堂ノ上さんは安定の鬼モードだったけど、それを鑑みても久しぶりに楽しいと思える時間を過ごせた。

「楽しくは、あったんですけど。……学生時代に『マンドリン・オーケストラのためのソナチネ』、弾いたことがあって。もう一度弾きたいと思って練習してきたんですけど、合奏では散々でした」

 思うように指は動かず、途中で弾くのをやめてしまった前回よりはマシだったというだけだ。

「こんなんじゃ、とてもじゃないけどコンサートマスターなんて無理です。ましてや――」

 私なんかが、と言いそうになって辛うじて呑み込むも、堂ノ上さんには私が何を言いかけたのかわかったのかもしれない。堂ノ上さんは相変わらずで笑顔の一つもなかったが、わずかに口調を和らげて訊いてきた。

「なんでそんなに自分がダメだと思うんだよ」

 またしてもストレートな質問にいたたまれなくなるも、堂ノ上さんは純粋に疑問だと言わんばかりの目をしている。きっと自信に満ちた人生を送ってきたんだろう。本当に私とは人種が違う。

「自信がある人の方が不思議です。昔から自信を持てたことなんてほとんどないです」

 何をやるにしても百パーセントなんてありえない。一パーセントのリスクを考えると足はすくむし慎重になる。石橋を叩いても叩いても不安でなかなか渡れない、それが私という人間の基本だ。

 けど、思い返せば昔は今ほどひどくなかったかもしれない。不安でも心配でも、叩いた石橋をゆっくりと渡ることくらいはできたのではなかったか。

「……大学四年のとき、サークルでコンマスに選ばれたんです。名誉なことだったし、やるしかないし、がんばろうと思いました。でも……サークルのホームページに掲示板があったんですけど、そこに匿名で批判されて。コンマスとして全然なってないとか、あんなにヘタなのに選ぶ周りもどうかしてるとか。誰が書いたのかはすぐにわかって、その人はサークルやめちゃったし、みんなには気にしないでいいって言われたけど、でもやっぱりダメで」

 ほかにも内心同じように思っている人がいるかもしれないと思ったら、怖くて練習に行けなくなった。演奏会を数ヶ月後に控えたタイミングなのに逃げだした。

「選ばれたからって調子に乗って、やらなきゃよかったと思いました。――私、こんな性格だし、根暗だし人付き合いヘタだし、ずっと冴えない学生生活送ってきたんですよ。だけど大学で思い切ってサークル入って……楽しかったんです。仲間がいて、練習がんばって、バカみたいなんですけど、すごい青春してるって感じがして。だけど、私が冴えないっていう事実が変わるわけじゃなかったんですよね。挙げ句、自分に決着つけられなくて逃げだすとか、もう本当にダメとしか言いようがなくて……」

 自分の言葉ながら落ち込んでくる。こんな個人的なことを話さなくてもよかったかもしれない。けど、堂ノ上さんは鼻で笑ったりはしなかった。

「批判してきた奴を見返そうとは思わなかったわけ?」

「この間も言いましたけど、堂ノ上さんとは違うんです、私は」

 電車が減速して次の駅に到着し、ドアが開いて冷たい空気が二人の間に流れた。いくら話したって理解してもらえるとは到底思えず、気まずさばかりが増していく。東京はまだ遠い。

「……俺はそんな風にうじうじしないからわからないけど」

 そう前置きして堂ノ上さんは話しだす。

「つまるところ、逃げた自分がいまだに許せないってことだろ。そういうのって、今度こそ逃げないで何かをやり切って自信つけて、自己評価上げてくしかないっつーか。リベンジ?」

 人が乗ってきて堂ノ上さんとの距離が縮まった。ドアが閉まって電車が再び走りだす。

「……リベンジしようとしてまたできなかったらどうしようとか、そういうこと考えません?」

「考えねーよ。そんなこと考えてたらキリがねーだろ」

 堂ノ上さんの意見はシンプルで正論で、やっぱり私とは人種が違う。

「演奏会から逃げだしたっつーんなら、今度こそ逃げずに演奏会に出れば万事解決だろ。こっちも人手不足でちょうどいい。うちの演奏会に出ろ」

「あの、ちゃんと考えてます? ファーストマンドリンですよ? 大事な演奏会のメロディ、私に預けるってことですよ?」

「花崎、耳いいだろ」

「耳?」

 突然の言葉に目をまたたいていたら、堂ノ上さんは続けた。

「今日、周りの音を聴いて合わせようとしてただろ」

 人の顔色を窺うように、邪魔をしてしまわないように、演奏でもみんなの音を聴いてタイミングを計ろうとしていた自覚はある。そのことだろうか。

「弾けてるか弾けてないかっつったら、もちろん弾けてないんだけどさ。周囲の音を聴ける耳があるのはすごいことだろ。それに、少なくとも花崎は自分勝手な演奏はしない。音楽を優先してる感じがした。こう弾きたいって主張がなさすぎるのも問題だけどな」

 褒められているのかけなされているのかわからなくなってくる。

「つまり、どういうことですか?」

 わかんねー奴だな、と呟いてから堂ノ上さんはまとめる。

「できるのにやらないの、もったいないってことだよ」

 できる、と人に言われることはプレッシャーでしかない。でも一方で、プレッシャーだけではない何かで心臓がうるさいくらいに拍動し始める。

「花崎さ、この間、『青春ゴッコ』とか言っただろ」

「言いましたすみませんごめんなさい」

「青春は何歳までに終わりにしなきゃいけません、なんて決まりはどこにもないだろ」

 堂ノ上さんの言葉が意図するところがわからず、はぁ、とまぬけな声で応える。

「失敗したならやり直すしかないんだよ。演奏会だろうが青春だろうがさ」

 何バカなことを、と笑い飛ばすことはできず、まじまじと堂ノ上さんを見つめ直した。

「……本気で言ってます?」

「冗談に聞こえんのかよ」

「いやでも、私にできると思って言ってます?」

「しつこいな。思ってねーこと言わねーよ」

 鬼モードの堂ノ上さんがそういう人だというのだけはわかる。だからこそ、「できる」という言葉を頼もしくも感じた。

 青春時代のやり直しなんて本当にできるんだろうか。

 そもそも今の私は社会人で、学生時代には戻れない。

 同じことをくり返してしまうのがオチかもしれない。

 けど、もし痛い目に遭ったとしても。この人だったら、何度でもやり直せと言うのだろう。

「あの……本当にやってもいいんですか?」

「鬱陶しいな、はっきりしろよ。演奏会、やるのか? やらないのか?」

 そう睨まれて背筋を伸ばした。

「やってみます」

 勢い余って宣言してしまった。早まった、やっぱり無理だ、なんて気持ちを封じ込めるように両手を合わせて握りしめる。

 怖いけど、今はそれ以上に変わりたいという気持ちが勝ってる。両手の指には、ピックを持ち、弦を押さえたときの感触がまだ残っている。

「演奏会は六月だ。半年もあればリベンジには十分だろ」

「はい」

 半年しかない、という焦りは殺して返事をする。きっと半年だろうが一年だろうが不安な気持ちに変わりはない、ずるずるとやるよりも、期限が決まっている方がいい。

 やってみると決めただけだし不安はあれど、ずっと自分の中にあった重しが少しだけ軽くなったようだった。鬼モードの堂ノ上さんは怖いけど、こういう機会をもらえたことはよかったし、感謝しないといけないのかもしれない。

 それに、と堂ノ上さんが話を続ける。

「三月にも舞台があるからチャンスは二回だ。よかったな」

「……はい?」

 今は一月の末、三月となると話が違う。

「ちょっと待ってください、三月ってなんですか」

「練習で使ってるコミュニティセンターで祭りがあって、演奏することになってんだ。ま、曲目は演奏会とかぶってるし問題ないだろ」

「も、問題しかないですよ! 私がやるって決めたのは六月の演奏会であって、三月は――」

「やるって決めたならごたごた言うな」

 鬼モードの堂ノ上さんに感謝なんてした私がバカだった。結局いいように騙されただけだ。

 電車はまだまだ千葉を抜けない。都内に着くまでにこれ以上騙されることがないようにと、それだけを祈った。