序章



「お断りします」

 桃子は畳に指をつくと、背筋をぴんと伸ばしたまま、深く頭を下げた。

 ややして聞こえた低い唸り声に顔を上げると、腕を組んで考え込む父の姿が目に入った。障子の隙間から差し込む夕日が、その厳めしい顔に苦悶の影を作っている。

 しばらく考え込んでいた父は、やがて薄っすら片目を開くと、チラッと桃子を見つめた。そして「うーん」と唸り、大きな体を捩る。

「桃子……、言いにくいのだけどね。お断りされているのは、私達の方なのだよ」

 父は諭すように言うと、座卓に置かれた、一通の手紙を指さした。

 白い和封筒に便箋が一枚、横並びに置かれている。

 差出人の名前は、志摩太一。彼は桃子の婚約者――桃子が生まれる前からそうと決まっていた、世に言う許嫁である。

 手紙の内容は、その許嫁の関係を解消して欲しいというものだった。

 桃子はかすかに震える指先を、そっと胸に当てた。手紙を見た時の衝撃を思い出す度、ずきずきと胸が痛む。

 桃子は今日、晴れて十八歳になった。

 日高家ではつい先程まで、親族を集めて桃子の誕生祝いが行なわれており、手紙はその最中に郵便受けに届いていたらしい。宴には太一も招待していたのに、顔を見せなかったばかりか、婚約破棄の告知までされてしまったというわけだ。

 宴が終わるなり手紙の存在を知った桃子は、その足で父を引きずってここに来たのである。おかげで父は紋付羽織袴、桃子は振袖を着たままだ。

 大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、桃子は再び父を見つた。

 そしてカッと目を見開く。

「ですから、お断りされるのを、お断りします」

 淑女たるもの、いかなる時も声を荒げたりはしないものだ。とはいえ、目は口ほどに物を言うらしい。桃子の眼力に、父は大きな肩を丸め、両手で顔を覆った。

 日高家の当主である父は、厳めしい顔をした威厳溢れる大男であるが、こと桃子や妻の前では些か貫禄がなくなる。

「桃子の、その目力は誰に似たのだろうなあ」

 弱々しく言って、チラチラと指の隙間から桃子を見つめる。

「目を閉じていれば大和撫子なのに……」

 ――目を閉じていれば大和撫子。

 これは父の口癖だ。桃子は溜息を堪えて、ちらりと、窓に映る自分の姿を見つめた。

 腰近くまで伸ばした真っ直ぐな黒髪は、今は振袖に合わせて結い上げている。体型は小柄で、大抵の大人より背が低いのがコンプレックスだ。特に気になっている小さな撫で肩は、着物の時は目立たなくていい。顔は――、特段目立つほうではないはずだ。良くも悪くも。今日は宴の主役ということもあり華やかな化粧をしているが、普段は地味なほうだと桃子は思っている。

 物心つく前から叩き込まれた所作もあり、一見は確かに大和撫子に見えるのだろう。――そう、見つめ合わなければ。

 自分でもそんな注釈を付けてしまうほど、桃子は目力が強い。目つきが鋭いとか、つり上がっているとか、そういうわけではないのだが、眼力が強いのだ。あえて言うなら、人より少し、目が大きいぐらいだろうか。

「顔だって可愛らしいのになあ。そこらの女優より、桃子のほうが余程可愛いと……」

「お父さま」

 桃子は父の言葉を遮った。いまは親バカ話を聞いている場合ではない。

「私は、納得がいきません」

 いかにも几帳面そうな文字の並ぶ便箋に、そっと指先で触れる。

 手紙の内容は至って簡素だ。

 拝啓から始まり、時候の挨拶の後に短く、婚約の解消を求める旨が綴られている。

『かねてより頂いていた縁談の件ですが、当方にやんごとなき事情があり、白紙に戻して頂きたいと存じます』

 この後には結びの挨拶があるのみ。桃子は膝の上に手を戻すと、きつく拳を握った。

「これでは、何もわかりません」

 桃子と太一の二人は、確かに親同士が決めた婚約者。けれど、桃子にはなんの迷いもなかったし、太一だって納得をしていたはずだった。少なくとも、八年前までは。

「やんごとなき事情か……」

 父は顎に手を添え、天井を見上げた。

「太一くんに、他に結婚したい相手ができたとか……」

「お父さま」

 淑女は声を荒げない。代わりに真っ直ぐ父を見つめる。

 口を噤み、そそくさと居住まいを正す父に、桃子は言葉を続けた。

「……お父さま。太一さんは真面目で、思いやりのある方です。もし他に思う人ができたのなら、きちんとそう、説明してくださるはずです」

 自分で言いながら、桃子は勇気が湧いてくるのを感じた。桃子も、父の言うことを考えなかったわけではないのだ。むしろ、その可能性ばかり考えて気が立っていた。

 静かに殺気立つ桃子に、父は居心地悪そうにゴホンと咳払いをした。

「まあ、とにかく、志摩家に問い合わせてみなければ何も分からない。すぐに連絡を取るから、少し待っていなさい」

 父の言葉に、桃子は「いいえ」と首を横に振った。

「きっと無駄です。問い合わせて分かるような事情なら手紙に書くはずです」

 桃子はピンと背筋を伸ばすと、父を見つめる黒い瞳に力を込めた。

「ですから私、直接太一さんに会って、確かめて参ります」

 その静かな迫力に、父が思わずと言った様子で「それがいいね」と頷く。桃子は決意を新たに目前の手紙を手に取った。そして、その裏面に動物の足跡があるのに気付いて、ふと眉を寄せる。

 ――犬? いや、これは猫の足跡だろう。太一が飼っているのだろうか?

 新たに生まれた小さな疑問に、桃子は首を傾げたのだった。


第一章 『駅』



 桃子の生まれた日高家は、公家の流れを汲む日本でも指折りの名家である。代々受け継いだ資産を元手に幅広く商売をしており、それなりの財力も蓄えている。桃子はその家の長女であり、跡継ぎである兄もひとりいる。

 対して桃子の婚約者――、太一の生まれた志摩家は、平安時代から続く武士の家系だ。先祖は源氏の流れを汲み、時流が違えば将軍様という家柄。警察官僚を多く排出し、太一の祖父は警察庁長官まで勤め上げている。太一はその家のひとり息子である。

 桃子と太一の婚約は、桃子がまだお腹の中にいる時に、父親同士でちゃちゃっと決めてしまったのだという。二人は桃子の大学卒業を待って籍を入れる。そういう約束だった。

 今時許嫁なんて、という人もいたけれど、桃子にはなんの迷いも不満もなかった。幼い頃からそうと教えられていたし、何より、太一が桃子の初恋の相手だったからだ。

 ――太一と初めて会った日のことを、桃子は今も鮮明に覚えている。

 五歳のある日。桃子は母と喧嘩をして、自分の部屋を飛び出した。

「あなたが不出来な人間だと、嫁いだ後、日高の名前に傷がつくのですよ」

 口癖のようにそう言っていた母は、その言葉通り、厳しく桃子を育てた。花嫁修業だと、茶道や華道の『道』とつくものはもちろん、習い事といえるものは全て、寝る間を惜しんで覚えさせられたものだった。

 そんな日々にとうとう耐えかね、桃子はその日の朝一番に、服も着替えず裸足で庭に逃げ出した。張り詰めた弓から放たれたように勢いはよかったものの、いざ外に出ようとすると足がすくみ、仕方なく庭の隅にある松の木の裏に隠れたのだ。行き場をなくし、膝を抱えてすすり泣く桃子に手を差し伸べてくれたのが去る日の太一だった。

「ほら、泣かないで」

 太一はその日、桃子との初めての顔合わせの為に日高家を訪れていた。そして小さな婚約者の不在を知り、捜してくれていたのだ。

 しかし、そんな事情を知らない桃子は彼が誰かと顔を上げた。幼い桃子も見とれてしまうぐらい、彼は人形のように整った顔をしていて、逆光も重なりキラキラと輝いてすら見えた。思わずまじまじと見つめてしまってから、桃子はハッと彼から視線を逸らす。桃子が真剣に見つめると、友達はみんな怯えてしまうからだ。

「どうしたの?」

 桃子の様子に、太一が不思議そうに首を傾げる。桃子が「私の目は怖いから」と震える声で説明すると、太一は「なんだ」と言って笑った。

「ぼくは好きだよ。とても優しい目だ」

 ――太一は、初めて桃子の目を好きだと言ってくれた人だった。

 その瞬間、幼い桃子の胸で何かが弾けた。頭上の松の木が桜に変わり、世界を桜吹雪で染めてしまったのではないか。それぐらい、桃子の世界が一瞬で色づいたのだ。

 それからの桃子は、進んで花嫁修行を受けるようになった。

 母が「志摩家の人が、あまり無理をさせるなと言うから……」と習い事を減らそうとするのを押し止め、むしろ増やすように頼んだ。あまりのストイックさに、父は「それじゃ武者修行だよ」と困った顔をしたが桃子は止まらなかった。突き進んだ。

 すべては太一に相応しいお嫁さんになりたい、その一心で。

 太一は年の離れた許嫁に、「無理に嫁いでくることはない」と言ったけれど、桃子の気持ちを知ってからは、「気持ちが変わらなければ、いつかお嫁においで」と言ってくれた。そして度々、会いに来てくれた。

 太一を知る度に桃子の恋心は確かなものへと変わって行った。彼が自分を妹のようにしか見ていないということには気付いていたが構わなかった。時間はあるのだから、ゆっくりと気持ちを通わせていけばよいと思っていたのだ。――あの日までは。

 二人の関係に暗雲が立ち込めたのは、実はこれが初めてのことではない。

 八年前のある日を境に、太一はぴたりと桃子の前に現れなくなったのだ。桃子から赴いても、決して会ってはくれなかった。

 それでも、許嫁の約束だけを頼りに太一を思い続けて八年。

 ついに突きつけられた太一からの最終通告が、件の婚約破棄の手紙なのである。


「久しぶりね、桃子ちゃん。……いつ以来かしら?」

 胸に手をあて、懐かしそうに言うのは志摩友江――太一の曾祖母である。

 ここは志摩の本宅。日高家と志摩家は同じ都内にあり、電車で一時間程の距離だ。

 今は冬休みということもあり、桃子は早速、太一に会いに訪れていた。

「重三さんが亡くなってからなので、十年以上になります」

「そう、もうそんなになるのね。桃子ちゃんが大きくなるはずだわ。本当に、素敵な女性になって……」

 友江の言葉に、桃子は緊張気味に微笑みながら、用意された紅茶に口をつけた。

 シャンデリアの輝く華やかな客室は、純和風な作りの日高邸にはない洋風の設えだ。

 白い大理石の床に置かれた猫足のガラステーブルを挟み、布張りのソファに腰掛けて友江と二人きりで向かい合っている。太一は不在だという。今は平日の昼間なので、きっと仕事だろう。太一がいないことは想定通りだ。桃子は、太一が帰って来るまで何がなんでも待たせて貰うつもりで来たのである。

 今まではしつこくして嫌わるのを恐れていたが、最早そうも言っていられない。

 ――けれど、まさか友江がいるとは思わなかった。

 桃子は不躾にならぬよう気をつけながら、正面に座る友江を見つめた。

 友江は白髪を結い上げた上品な女性である。九十歳近いはずだが、背筋はピンと伸びていて年を感じさせない。今は皺深い顔も、若い頃はさぞ美しかったのだろうと容易に想像できる。何より、華やかな時の残り香とでもいうようなものが友江にはある。

 最後に友江を見たのは彼女の夫である重三の葬式で、酷くやつれていて、見ているのも辛い程だったのをよく覚えている。その後ふさぎ込むようになった彼女は遠地の別荘で過ごすことが多くなり、以来疎遠になってしまったのだ。

 重三にも友江にも本当に良くして貰っていたので、ずっと寂しく思っていた。

 友江はいつ東京に戻っていたのだろう。知っていたら何を置いても会いに来たのに。

 桃子は友江との再会を心から嬉しく思いつつも、表情に暗い影を落とした。

 けれど、喜んでばかりもいられないのだ。

 太一のことをどう切り出すべきか。もの言いたげな桃子の様子に友江が気付いた。

「それで……、今日はどうしたのかしら?」

 首を傾げる友江に、桃子はおずおずと太一からの手紙を渡した。

 友江は目を細めて内容に目を通すと、額に手を当てて首を横に振った。

「ごめんなさいね、驚いたでしょう? 本人に事情を説明をさせたいのだけど、太一は家にいないのよ。浩介さんも出張であと数日は帰らないし……」

「浩介さん」とは太一の父の名前だ。彼は婿養子として志摩家に入った為、友江にとっては義理の孫になる。太一の母はすでに鬼籍で、祖父母は京都の別邸に住んでいる。つまり今この本宅に、志摩家の人間は友江しかいないということになる。

「太一さんは、お仕事ですか……?」

 友江が短く頷く。太一も浩介も警察官だ。忙しいのは仕方がない。

「いつ頃戻られますか? どうしても太一さんにお会いして、ワケを聞きたいのです」

 桃子は体を前に乗り出した。その様子に、友江は迷うように薄墨色の瞳を動かす。

「実は今……、太一は奈良にいるのよ」

「……出張ですか?」

「いいえ。仕事についてからずっと、太一は奈良にいるの」

 桃子は首を傾げた。太一が、奈良にいる? 一体どういうことだろう。日高家の人間はみな、太一も含め東京勤めだと思っていた。

 ならば桃子が太一に会って貰えなかったのは――、少なくとも勤めるようになってからは、そもそも東京にいなかったということか。

 奈良……。

 正直、あまりイメージが湧かない。ぼんやりと頭に浮かぶのは、大仏と鹿ぐらいだ。

「……太一さんは警察官で、東京勤めだと思っていました」

「警察官ではあるのだけど……、かなり特殊な任務についていて、関係者以外への他言は許されていないの」

 確かに、太一がどこにいるかを直接確かめたことはなかった。あの志摩家の人間なのだから、当然本庁勤めだろうと思い込んでいただけだ。

「私も太一が奈良のどこにいるかまでは分からないの。きっと浩介さんも同じよ」

「……どこにいるか分からないなんて、そんなことがあるのですか?」

「ええ。けれど、それも太一に説明をさせたほうがいいのでしょうね」

 与えられた情報に混乱しながらも、友江の口ぶりが気になって、桃子は目を細めた。

「説明させたほうがいい」と言うからには、友江はきっと事情を把握しているのだ。

 太一が奈良にいる事情を。恐らくは太一が婚約破棄を望む理由も。

 聞きたい。聞きたくて堪らない――、けれど今食い下がって友江から全ての事情を聞いたとして、自分は納得できるのだろうか。

 答えは考える迄もなかった。太一以外の言葉で、納得なんてできるはずがない。

 ならば、するべきことは決まっている。

「私も奈良に行きます」

「……え?」

 驚く友江を、桃子は真剣な目つきで見つめた。

「太一さんを捜し出して、直接、理由を聞いて来ます」

「だけど私達にも居場所が分からないのよ? 奈良は遠いし……」

「なんとかします」

 きっぱりと言い切る桃子に、友江は「だけど……」と言いかけて口を噤む。

 決意のこもった桃子の表情から何かを感じたのかもしれないし、何を言っても無駄だと思ったのかもしれない。単に、桃子の目力に呑まれただけかもしれないが。

 友江はしばらく考え込んだ後、「少し待っていてね」と部屋を出て行く。

 十分程して戻って来た友江の両手の上には、掌大の桐箱があった。

 友江はそれを、まるで赤子を抱くように胸に引き寄せてから、そっと大事にテーブルに置いた。

「それは……?」

 訊ねる桃子に、友江は柔らかく微笑んで、両手で桐箱の蓋を開けた。

 覗き込むと、白い布の上に、青銅色をしたものが置かれている。テニスボール程の大きさの輪っかに、ひと回り小さな丸い球が三つ、三角形になるようについている。

 友江がそれを持ち上げると、りん、りん、りんと、鈴の音が三つ重なった。そこで初めて、桃子は輪についている丸い球が鈴なのだと気付いた。

「不思議な音色を出す、変わった鈴でしょう?」

 どこか懐かしむように鈴を見つめながら、友江が言葉を続けた。

「太一を捜すのなら、これを持って、奈良県の天川村にある、空河神社に行ってちょうだい」

「そらかわ……?」

 初めて聞く地名だ。首を傾げる桃子に、友江が日本地図をテーブルに広げた。先程鈴を取りに行った際、一緒に持って来てくれたようだ。細い指が地図の一点をさす。

「吉野山は知っているかしら? 桜の名所の」

「……名前ぐらいは」

「その近くよ。途中バスに乗り換えて山を登らないといけないから、上手く乗り継いでも五時間半はかかるでしょうね」

 五時間半――、新幹線なら東京から博多迄行けてしまう。

「……そこに行けば、太一さんに会えるのですか?」

「そこにいる人が、導いてくれるはずよ」

 曖昧な返事だ。神社の関係者が、太一の居場所を知っているということだろうか。

「空河神社は、呼ばれたものしか辿りけ着けないと言われている場所だけれど、きっとこの鈴が導いてくれるはず。……桃子ちゃんなら、これがなくても辿り着けるのかもしれないけれど」

 呼ばれたものだけが辿り着ける場所。神社らしい、神秘的な話だ。この鈴は、その道しるべということだろうか。それを訊ねようと口を開くより早く、友江が桃子の手を握った。柔らかく、温かな手で。

「本当なら私がついて行くべきなのだけど、少し前に退院したばかりで、まだ体の自由が利かないの。どうか許してちょうだい」

 桃子は首を横に振った。退院というからには病気だったのだろう。もしかすると、東京の病院に通う為に帰って来たのかもしれない。快癒したのか訊ねようと口を開きかけたが、祈るような友江の言葉が続いて、桃子は言葉を呑み込んだ。


『奈良県』というと、桃子には大仏や鹿のイメージしかなかったけれど、ここはそういった名所のある奈良県北部から、はるか南。天川村は奈良県南部、吉野山地の中、標高は八〇〇メートルの所にある。二〇〇四年に世界遺産に登録された、紀伊山地の霊場と参詣道の一部も天川村にあるのだとか。

 その険しい山間の村の中に、空河神社は凛とした静謐さをもって居を構えていた。

「――やっと着いた」

 深々とした緑の常盤木の前にそびえ立つ、しめ縄のかかった大きな赤鳥居を見上げ、桃子は溜息にも似た安堵の声を漏らした。

 傍には桃子の身長の倍はありそうな二基の石灯籠と、『空河大弁財天社』と刻まれた石碑が立っている。

 東京から新幹線、電車、バスと乗り換えて六時間近く――、ようやくここまで辿り着いたのだ。長旅に加え、杉や檜が針山の如く生い茂る険しい山道をバスで走って来た為、腰が痛むし疲れもあるが、今は辿り着いた感慨のほうが勝っている。

 ――それにしても、このような山奥で、太一は一体何をしているのだろう?

 桃子は周囲の山々を見渡して首を傾げた。

 村の駐在? いや、友江は特殊な任務と言っていたし、秘密組織がここにあって潜入捜査をしているとか。もしくは隠れ住む重要人物の護衛をしているのかもしれない。

 答えの出ない疑問を浮かべながら、桃子は肩にかけたボストンバッグを見下ろした。

 中には友江から預かった鈴が入っている。ここに来るまで時間はかかったが、特に障害は起こらなかった。知らぬ間に鈴のご利益に預かっていたのかもしれない。

 ボストンバックの中には他にも、少なくとも数日はかかるだろう旅の荷物がぱんぱんになるまで詰められている。

 そもそも太一がすぐに見つかる保証はなく、数日で帰れるかも怪しい。

 両親には『数日で帰ります』と置き手紙だけをして来ていた。友江から聞いた話をすれば本当に婚約破棄になりかねないし、捜しに行くと言っても止められるに決まっているからだ。両親からの着信が鳴りっぱなしだが、『元気です』『無事です』とメールを返すにとどめていた。帰ったらたっぷり叱られることは覚悟の上だ。

 桃子は赤鳥居をくぐり、手水舎で手を清めた。冬山の凍てつく寒さに体を震えさせながら社内を見渡す。どうやら他に参拝者はいないようだ。

 正面には石鳥居がどっしりと立ち、奥に石階段が伸びている。これを上った所に拝殿があるのだろう。駐車場の方には、社務所と思われる建物もある。

 友江は神社にいる人が、太一の所に導いてくれると言っていた。とすれば、まずは社務所に行って、太一のことを知る人がいないかを訊ねたいところだが――。

「……でも、神社に来たなら、まずはお参りをしてからじゃないと」

 神様に挨拶もせずに歩き回るのは、少し行儀が悪い気がする。

 桃子は逸る気持ちを深呼吸して抑え、疲れた膝に両手を当てた。「えいっ」と気合いを入れ、階段を上り始める。

 階段は五十段程だろうか。傍には樹齢百年は越えるだろう立派な檜が生い茂っている。途中、磐座や摂社の建物があるのを横目に階段を上りきった桃子は、目前に迫る拝殿の建物を見上げた。

 建物自体は比較的新しいようだ。木材にくすみがなく、全体が白く見える。

 入口にかかった幕をくぐって中へ入ると、仄明かりに能舞台が見えた。きっと、ここで舞を奉納するのだろう。

 押し寄せるような神秘的な雰囲気に少し緊張しながら、桃子は鈴緒の前まで進んだ。

 お参りをしようとお賽銭を投げ、鈴緒を掴んで頭上の鈴を鳴らそうとしたところでハッと気付いて手を止める。見上げた鈴の形が、友江から預かったものと同じ形状をしていたからである。違いといえば、頭上の鈴のほうがかなり大きいということと、それがふたつ重なっているということぐらいだろうか。

 桃子は急いでカバンから鈴を取り出した。見比べようと鈴を掲げた拍子に音が鳴る――、りんりんりん。その三つ重なる鈴の音の余韻が消えた頃、不意に背後に人の気配を感じ、桃子はびくっと肩を震わせて振り返った。

「すまないね、驚かせてしまったかな?」

 薄っすらと差し込む日差しの中にに佇むのは、白衣に差袴姿の神職と思われる男性だった。頭に霜の降りた四十代半ば頃の風貌で、いかにも人の好さそうな顔つきをしている。掃除の途中だったのか手にホウキを持ち、柔和な笑みを桃子に向けている。

「私は、ここの宮司でね。若い女の子がひとりでお参りなんて珍しいから、つい声をかけてしまって……、いやはや、申し訳ない」

 ははは、と宮司が自分の頭を叩く。桃子は「いえ」と言ってから、挨拶に頭を下げた。後で社務所に寄るつもりだったのだから、声をかけてもらえてよかった。

「おや、それは五十鈴だね」

 宮司が興味深そうに桃子の手にある鈴を覗き込んだ。

「五十鈴?」

「君の持っている鈴の名前だよ。少し変わった形をしているだろう? 五十鈴は数千年前から当社に伝わる神器で、君の持っている鈴もそれを模して作られた物だよ」

 そういった縁起のあるものだとは知らなかった。宮司は調子よく言葉を続ける。

「五十鈴はね、古くは天照大神が天岩戸にお隠れになった時、天鈿女命がこの鈴の付いた矛を持って舞われ、天照大神を外にお連れしたという伝説があるんだ。……天照大神の天岩戸伝説はご存じかな?」

 桃子は頷いた。といっても、何かの本で読んだことがある程度だけれど。

 確か――、ある時太陽の神様である天照大神は、弟の須佐之男命の悪戯に怒って、岩戸の中に閉じ籠もってしまった。太陽神である天照大神が隠れた事で世界は暗闇となり、困った他の神々があの手この手で外に連れ出そうとする。最後は宮司の言う通り、天鈿女命が舞を踊り、他の神々もドンチャン騒ぎの宴会をして、様子が気になった天照大神が顔を見せたところで引きずり出す――、という話だった気がする。

「五十鈴はそういった、とても有り難いものなんだよ。……さて、お嬢さん。今日はその五十鈴のお導きで、こちらに参られたのかな?」

 軽快な口調で宮司が訊ねる。桃子はまじまじと五十鈴を見つめた。

 桃子をここへ導いたのは友江だ。では、その友江はどういった経緯でこの鈴を手に入れたのだろう。

 疑問に思うも、今は考えても答えのないことだ。桃子は改めて宮司に向き直った。

「人を捜していて、ある人に鈴を持ってここへ行くようにと言われたんです……」

 すがるような口調になっていたかもしれない。この宮司が、太一へ繋がるたった一本の糸だ。宮司は「ほう、人を」と言って顎をさすり、目を細めた。

「……ここは冷える。よろしければ社務所で、詳しく話を伺いしましょう」