始まりからの、終わりについて

 少女が初めてその猫と出会ったのは、小学校に入学してすぐの頃、学校からの帰り道だった。

 突如降り出した雨に驚いて駆け込んだ、小さな神社。

 軒下にしゃがんで雨が上がるのを待ちながら、少女はまだピカピカの赤いランドセルから一冊の本を取り出した。緑色の表紙に、可愛らしいライオンと少年の絵が描かれたルース・S・ガネットの『エルマーのぼうけん』。図書室で昼休みに読んでいたのだが最後まで読み切れず、初めて〝貸出〟をしたものだった。

 夢中でページをめくり、最後の一文を読み終えた少女は充足感と共に本を閉じる。いつの間にか、雨は上がっていた。

 夕方の空を見上げて少女が立ち上がった、その時だった。彼女の足元で雨に濡れた毛皮を舐め整える一匹の猫がいた。驚いて思わず飛び退った少女だが、猫は動じた様子もなくすっと顔を上げて少女を見上げる。そして、まるで挨拶をするかのように「にゃあ」と鳴いた。途端に、少女の心臓がとくんと跳ねる。

 ――まるで、この物語の始まりみたい!

 主人公エルマーは、年老いた猫に可哀そうな竜がいるとの話を聞いて、その竜を助けるべく冒険に出かける。目の前のこの猫が、まるで物語の中から飛び出してきたかのようで、少女の胸は高鳴った。

 顔に対して大きすぎる眼鏡を押し上げてから、少女は恐る恐る猫へと手を伸ばしてみる。だが、猫は逃げることもなく、じっとこちらを見上げたままだ。ガラス玉のような瞳と、ピンと伸びた白いヒゲ。艶々とした毛並をそっと撫でると、猫は少女の手に頭をすりつけた。その仕草に、少女は小さく笑みをこぼして言った。

「ねぇ、ねこちゃん。たまと一緒におしゃべりしない?」

 少女のそんな誘いに、猫は小首を傾げてから、同意するように小さく「にゃあ」と、鳴いた。


 それからというもの、学校帰りにその猫に会いにいくことは少女の日課になった。その日、学校であった様々なことを、少女は猫に話した。猫は、まるでこちらの言葉が分かっているかのように、時に落ち込む少女を慰めるように頭を手にすりつけたり、時に少女と一緒に喜ぶように高く鳴いたりしてくれた。

 猫は、少女にとって大切な友達だった。

 月日は流れ、小さかった少女はやがて背が伸びて、日に日に成長していったが、猫はいつまでも出会った頃から変わらなかった。

 しかし、少女が小学校の卒業式を控えたある日、突然、猫が姿を消した。

 車に轢かれたのではないか、ひょっとして、誰かが連れて行ってしまったのだろうか? 様々な憶測に不安を募らせながら、少女は何日も辺りを捜し回った。

 しかし、猫はとうとう見つからず、それきり、少女がその猫の姿を見ることはなかった。

 ――そして、少女だけが、大人になった。



視点の違いによる、ニンゲンの心境と関係性についての考察


 三月初旬。東京都。

 合格通知を握りしめ、一之瀬圭美は自室で小さくガッツポーズをした。

 インターネットでの合格発表は、敢えて見ることはせず、郵便で封筒が届くのを待っていたので、その喜びもひとしおだ。

 とはいえ、センター試験では自己採点だとそこそこ点を取れていたし、何より、本試験で確かな手ごたえを感じていたので正直落ちるとは思っていなかったが、それでも実際に合格を確認した途端、安堵で身体から一気に力が抜けるのを感じた。

 だが、圭美にとって、この合格は最初の通過点でしかない。彼女には、もう一つ重大なミッションが残っていた。

 ――一之瀬圭美、今から一世一代の賭けに出ます!

 顔に対して大きめな黒縁眼鏡をぐっと押し上げ、圭美は自室を出て階下へと向かった。リビングというよりも応接室と呼ぶにふさわしい部屋には、壮年の女性がソファーに腰掛けている。背後から近づいた圭美に気づいた女性が険しい表情で振り返った。その視線の厳しさに思わず怯みそうになりつつも、腹に力を入れてなんとか堪える。

「合格、しました」

「あらそう、受かったの。まぁ、国立とはいえ倍率の低い地方大学ですもの。たとえあなたの学力であっても、受かって当然でしょうね」

 まさか褒められるとは思っていなかったが、おめでとうの一言すらない。だが、圭美が地方の大学を選んだことは彼女にとって納得しがたいことであり、端から不服を露わにしていたのでこの反応も当然と言えば当然だ。

「――で、約束は覚えているわね?」

 女は細い煙草に火を点けながら、前を向く。圭美はゆっくりと移動して女の斜め前のソファーへと腰を下ろす。その間に、これから自分が言うべきことを心の中で反芻し、小さく息を吐いた。何度もこの場をシミュレーションしてきた。大丈夫だ。そう思いつつも心臓は波打ち、今にも飛び出しそうだった。

 圭美が座ったのをちらりと見遣って、女が再び口を開く。

「あなたは、最新設備の整ったうちの医学部への進学を拒否して、あろうことか、田舎の地方大学なんかへ行くことに決めたわね」

 明らかに侮蔑の色を含ませた声で女が言ったが、圭美は表情を変えずに頷く。この女が理事長を務める私立大学は、関東ではそこそこ名の知れた医大だったが、圭美はそこへの進学を拒んだ。一族郎党全てを自分の大学へと進学させ、そのまま系列の病院で医者として勤めさせてきた女にとっては――たとえ本意ではない形で親族の一として数えることになった圭美であっても、その選択は当然許し難いものであった。

 だが、圭美にとってその選択は自らの人生を賭けた一世一代の大勝負であり、今までの従順さから一転、頑としてこれだけは譲らなかった。そこで、女は一つの条件を圭美に課した。

「はい。条件のとおり、私はこれから全て自分の力で生活をしていきます。特待生制度が適用できたので、授業料は免除されますし、後は、バイトと奨学金でやっていけるはずです。なので、ご心配には及びません」

 大学に受かっても受からなくても、高校卒業と同時に何とかしてこの家を出るつもりではあったので、五年間こつこつと貯めてきた蓄えもある。入学してすぐにバイトを始めれば、一人でやっていけるだろう。

「――アルバイト、ねぇ?」

 ふぅっと紫煙を吐き出し、女はふっと口元を歪めて笑う。

「医学部は、そう甘くはないわよ。実習も多いし、アルバイトなんてしている暇が果たしてあるのかしら?」

 女の言葉に、圭美は内心の動揺を悟られないように僅かに口元を引き上げた。

「大変なのは、覚悟の上です」

 そう言った圭美を見据え、女は嘲笑するようにふんと鼻を鳴らした。

「もし、あなたが六年の間で一度でも私を頼ったならば、即座にこちらの大学へ編入させるからそのつもりでいなさい。あぁ、それと――」

 言葉を切った女は、再び顔を顰めて煙を吐いた。

「せいぜい、母親と同じ轍を踏まないように心掛けることね」

 冷たく言い放たれた言葉が、まるで背中に生えた見えない鱗を逆撫でされたかのように、ざらりとした感情となって圭美を襲う。

 あからさまに毒を孕んだ侮蔑の言葉を投げかけてくるこの相手と自分との間に、本当に血縁関係があるのだろうかと疑いたくなる。しかし、彼女から発せられる声は時折はっとするほど母と似通っており、彼女が間違いなく母の母、つまり自分の祖母であることを実感させられた。

 圭美は感情を表に出すことなく、静かに息を吸って心を落ち着けた。こちらを意図的に傷つけようと吐かれた言葉であろうが、五年も繰り返されていれば、無心に聞き流す術は自然と身につくものである。

 女の言葉に答えず黒縁眼鏡を押し上げると、圭美はただ無表情に相手を正面から見据える。笑いも怒りもしない、感情の伴わない目が、この女が最も嫌う表情なのだと、いつの頃からか圭美は察するようになっていた。何も反応しない圭美に、女が苛立たしげに舌打ちする音が微かに聞こえた。どうやら、ひとしきりの嫌味は出尽くしたらしい。

 ――いよいよ、ここが正念場だ。

「入学手続きは全て自分でやりますので、この入学同意書の保護者欄に、サインだけいただけますか?」

 圭美は無機質な声で言って、一枚の書類を取り出すと女の前のローテーブルに置いた。三つに折られた紙の、上から三分の一だけが伸びきらずにそこに書かれた文字を隠す。だが、残りの三分の二から、その書類が間違いなく入学同意書であることは見て取れた。

 小さくため息をついて、胸ポケットから万年筆を取り出した女は、書類の内容を確認することなく、保護者欄にサインをした。

「ここを出ていくのなら、住居も自分で探しなさいよ」

「――はい、もちろん」

 薄い笑みと共に言うと、女はふんと鼻を鳴らして自室へと戻っていった。その背を見送ってから、圭美は置きっぱなしにされた書類へと手を伸ばす。指先が微かに震えているのを見て、改めて自分が緊張していたことを知る。

 ――やった……!

 高揚する気持ちを抑えて書類を片手に足早に自室へと戻ると、後ろ手に扉を閉め、圭美は小さく息を吐く。

「母さん。春から、母さんと同じ大学に通うよ」

 書類を机に置くと、ぎゅうぎゅうに本が詰まった棚の隅に隠すように置かれた写真立てに向かって声を掛ける。そこでようやく、圭美の表情に笑みが浮かんだ。写真の中の母も、心なしか嬉しそうに見える。

 五年前に亡くなった母がかつて通っていたという、地方の国立大学。

 高校卒業と同時に家出同然で実家を飛び出した圭美の母は、一年間働いて学費を稼いでから大学へと進学した。大変だったけど、毎日がすごく楽しかったと語る母の姿は、幼い圭美の記憶に鮮明に残っており、母と同じ大学に進学し、母のように世界中の文学を学ぶことが、圭美にとって幼い頃からの夢だった。

 そして、今の圭美には、もう一つ大きな目的があった。

 本棚から、一冊の文庫本を取り出す。母が好きだったポール・ギャリコの小説『ジェニィ』だ。真ん中辺りを開くと、そこには四つに折られた紙片があった。それは、ノートを切り取って書かれた、母宛の恋文だった。差出人の名前はなく、ただ最後の行に〝○〟と〝○〟が横に並んで書かれているだけだ。しかし、初めてこの紙を見つけた時、圭美はこの差出人こそが自分の父親なのだと直感的に確信した。

 母は在学中に圭美を身籠った。つまり、父とは大学で出会った可能性が高い。母と同じ大学に通えば、父のことも何か分かるかもしれない。

 だからこそ圭美は、こんな危険を冒してまで無茶な賭けに出たのだ。

「あ。そうだ、寮!」

 暫し感慨にふけっていた圭美は、思い至って改めて合格通知の入った封筒の中身を確認する。

 合格通知書に入学金の支払い書、大学案内パンフレットなど、中の書類を一枚ずつ確認する。

「――あった」

 A4の学生寮の案内は、黒一色で印刷した紙をホチキスで留めただけの手作り感あふれるものだ。そこには三つの寮が紹介されていた。

「百代寮と千歳寮――は男子寮か。ってことは、こっちの万葉寮だな」

 母の妊娠が分かったのは卒業間際だったそうだが、学生寮で過ごしていたおかげで寮生の皆に助けてもらい、無事に卒業できたのだと言っていた。

 ――実はね、母さんの住んでいた寮には、秘密があったの。

 楽しげに話す母の顔が浮かぶ。

 ――秘密? どんな?

 幼い自分が、母に尋ねる。だが、母は片目を瞑ると小さく笑った。

 ――ナイショ。知りたかったら、自分の目で確かめてみなさい。

 今考えれば、きっとそれは他愛のない内容だったのだろう。しかし、幼い圭美にとって、その言葉は異世界の物語の始まりのようで、心が弾んだのを今でも覚えている。

「この写真を見る限り、そんなに素敵な寮だとは思えないけど」

 呟いて、圭美は手元の資料を裏返す。そして、思わず目を見開いた。

「って、水道代込みで寮費七千円!? 安っ……」

 地方とはいえ、一月一万円を切るこの値段は破格だ。男子寮のように食事こそつかないが、食費を節約すれば一月の生活費を三万円以内に抑えられるかもしれない。

「……母さんの言ってた秘密って、まさか、この値段のことじゃないよね?」

 母一人、子一人での生活が長かった故か、母は節約が得意だった。それは、ひょっとすると学生時代に身に付けたのかもしれない。

 何はともあれ、これから先の生活を考えれば、費用は安価であるほどに有難い。たとえ、何があっても一人でやっていくためには――。

 圭美は、横目で机の上で広がった書類へと目を向ける。一番上に太い文字で書かれた大学名と、その下に続く合格した学部の名称。

 だが、そこに医学部の文字はない。

 そこに書かれていたのは、かつて母親が在籍していたのと同じく、文系学部の一つである〝人文学部〟だった。


◆‌


 圭美が入ることになった部屋は、北棟の二階、突き当たりの部屋だった。

 万葉寮は、北棟と南棟の二棟から成る鉄筋コンクリートの三階建てで、階段を中央に置いて左右にフロアが分かれている。

 一つのフロアに一人部屋の個室が五つずつあり、その五部屋で共同利用するリビングとキッチン、風呂とトイレが設けられていた。これだけ聞くと、まるでおしゃれなシェアハウスのようだが、実際のところリビングは幅の広い廊下の窓際に公民館にあるような長机とパイプ椅子が置かれただけの長細い空間だし、キッチンと言うよりも〝台所〟と呼ぶ方がしっくりくる調理場に、トイレに至っては和式だったりする。極め付きなのは、手回しで火を点けるバランス釜の設置された風呂だ。一応シャワーもついてはいるが、果たして、本当にこれからお湯が出るのだろうかと疑念が湧く。

「……す、すごい。まるで、ここだけ十年くらい時が止まってるみたい」

 僅かなカルチャーショックを受けつつ呟く。昭和という時代を実際に生きたことのない圭美だが、話に聞くその時代を彷彿とさせるような数々の設備に驚きつつ、しかしここまで来ると最早異世界に迷い込んだかのような面白さを感じるから不思議だ。

「さてと。それじゃまずは――」

 個室の扉が並ぶリビングの中央に立ち、圭美はぐるりと周囲を見回す。同じリビングの先輩達はまだ帰省中なのか不在のようだ。挨拶は後回しにし、まずは自室を整えることにする。

 木製の扉を開いて部屋に入ると、すぐ右手に事務机のような武骨な机と椅子があり、すぐその奥には窓に面して部屋の幅にぴったりと合ったベッドが横に置かれている。

 ベッドと部屋の幅が同じだが、決してベッドが大きい訳ではない。資料には四畳半と書かれていたが、おそらくこの部屋は四畳半もないのだろう。

 左側を見ると、扉を開いた時には気づかなかったが扉の陰に隠れる位置に鉄製のラックが設置されていた。

「おぉ……このラック、バイト先の倉庫にあったな」

 思わず呟く。鉄の棒と板を組み合わせたがっしりとしたラックは、妙な存在感を伴ってそこに鎮座している。事務机といいこのラックといい、ここにある備品は総じて仮にも若い女子の部屋にはすこぶる似つかわしくない品であることは間違いない。だが、家具類を一から揃えることを考えれば、どれほど可愛い要素が皆無であろうと圭美にとって有難いことに変わりない。

 リュックサックを下ろして、圭美は荷物の一番上に乗せていた写真立てを取り出す。机の端にそれを置き、笑顔を浮かべた母へと話し掛けた。

「ほら、懐かしいでしょ? 母さんは、どの部屋だったのかな?」

 母が在学していたのは二十年も前だが、寮の様子を見る限り、当時から大して変わっているとは思えない。きっと母も懐かしんでいることだろう。

「よし。それじゃあ買い出しもしなきゃだし、早く片付けちゃおう。近くに安いホームセンターとかがあればいいなぁ」

 言いながら、上着を脱いで袖を捲る。荷物は既に部屋の中に運び込まれていた。宅配便の伝票が貼られた段ボール箱三つと、高校時代三年間勤めたバイト先のホームセンターで、バイト仲間の皆が餞別としてプレゼントしてくれたオリジナルブランドの布団セット。これで、圭美の荷物は全てだ。我ながら、なんて省エネな引っ越しなのだろうと圭美は思う。

「あ、そうだ。窓、開けよう」

 部屋は入寮前に掃除してくれているとはいえ、動き回ると埃が舞うだろうと思い立ち、圭美は古いマットレスが敷かれたベッドの上に乗ると、塗料が剥げて錆止めの茶色がところどころ見えている古い窓枠へと手を掛けた。見た目のとおり建てつけが良くない窓を力任せに引くと、その先には災害時用の避難梯子を設置する目的だけに設けられたのだろうと想像がつく、ベランダと言えなくもないスペースがあった。

「おぉ。狭いけど、一応布団が干せるじゃない」

 呟いて、もう少しよく見ようと窓枠から身を乗り出したその時、圭美の視界の端を、黒と茶色の何かがさっと横切った。

「――ッ!?」

 咄嗟に圭美は自らの動きを止めた。本能が、振り返るなと警鐘を鳴らしている。だが、人間というのは不思議なもので、見るな見るなと思っていても、結局その正体を確かめなければいられない。

 そろりと視線を左に動かし、たった今動いたばかりのそれを見る。視界の中に、今度こそはっきりと映りこんだモノは。

「ぎ、ぎゃあああ!」

 そして、圭美は絶叫した。

 コンクリート造りの寒々しいベランダの手すりの上に、黒と茶色の毛玉が二つ並んで乗っている。尖った耳と、長く伸びた白いヒゲ。ギラリと金と緑の瞳を光らせるそれは、圭美がこの世で最も苦手とする生物だ。

「ね、猫ッ!!」

 短くその名を叫んだ圭美は、恐怖に震える手を必死に動かして窓を閉めようとサッシを握った。住居空間の古さや不便さにはさほど抵抗を覚えなかった圭美だが、自分の部屋に猫が入ってくるなんて、想像しただけでも恐ろしい。とにかく早くこの空間を遮断しなくては。

 だが、焦る気持ちと裏腹に、建てつけが悪い窓は何かが引っかかったかのように動かない。

「嘘!? 何で動かないの!?」

 軽くパニックになりながら、何とか力任せに窓を閉め、その勢いのままでクレセント錠を力いっぱい引き下ろした。これで安心、と力を抜いたのも束の間、圭美は自分の手の中にある物体を見て、今度はさっと血の気が引くのを感じた。

「う、嘘でしょ……」

 手の中にごろんと残っているのは、先ほど引き下ろしたはずのクレセント錠。すがりつくようにサッシを見直すと、そこにあるはずの鍵の部分が途中からぽっきりと折れていた。

「……――えーっと。ほら、あの、これって実は防犯上取り外し可能な最新のタイプなのかも!」

 現実から目を逸らしまくった希望を呟きながら、圭美は自分の手の中に残る〝鍵だったもの〟と、窓枠に僅かに残る〝鍵だったもの〟の断面を見比べ、合わせてみる。想像どおり、それはぴったりと綺麗に合わさった。ぐっと力を入れてくっつけてから、そっと手を離す。

 だが、もちろんそんなことで金属が接合する訳もなく、ぽとりと欠片が落下する。

「う、うわああああ!」

 逃れようのない現実を突きつけられ、圭美は頭を抱えて叫んだ。入寮して僅か三十分で早くも備品を破壊してしまった数分前の自分を殴ってやりたい衝動に駆られる。

「嘘でしょマジで一寸これどうしよう!? べ、弁償!? って、いくらかかるの!?」

 老朽化していたことは事実だが、窓外の猫に驚いて力いっぱい引き下ろしたことがとどめを刺したのは間違いない。これは、果たして過失という扱いになるのだろうか。

 学生の自治寮だからこそ、寮の規則は寮長の裁量に任されている部分が多いと資料に書いてあった気がする。入寮即備品を破壊した新入生なんて、心証が良いはずがない。

「え……まさか、退寮なんてことにはならないよね……?」

 半泣きで鍵を見下ろし途方にくれていた圭美だったが、ふいに視線を感じて勢いよく顔を上げた。すると、窓を隔てた手摺りの上に並んだ二匹の猫が、覗きこむようにしてこちらを見つめているではないか。

「ぎゃっ! まだいた!!」

 思わず仰け反った圭美に、窓外の二匹が、きょとんとした表情で顔を見合わせた。そして、その直後、信じられないことが起きた。

 ちょこんと手摺りに座った猫達二匹は、揃ってこちらを見据えるとまるで『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫のように〝にぃぃ〟と口を吊り上げて、笑ったのだ。

「!? !?」

 恐怖が限度を超えて、最早声すら出ないまま圭美はそれを二度見する。しかし、見間違いなどではなく、確かに二匹の猫は笑っているではないか。

 その事実に、声にならない声を上げて圭美はベッドの上から転がり落ちた。お尻と腰をしこたま床にぶつけて痛みに涙を浮かべつつも、視線は窓から外すことができない。

「え、な、何、今の? 猫が、笑った……?」

 ずれた眼鏡を戻すことすら忘れて呆然として圭美は呟く。と同時に、ぞわりと両腕が粟立って、〝化け猫〟という言葉が圭美の脳裏を過った。

 そんな圭美の様子を見ているのかいないのか、ふいに興味を失ったかのように立ち上がった二匹は、悠々とした足取りで手摺りを歩いていき、ようやく圭美の視界から消えた。途端にどっと嫌な汗が流れ、それを拭いながら、ずれた眼鏡を押し上げる。もう一度窓の外を確かめようかとも思ったが、ただでさえ嫌いな猫の姿はたとえ普通の猫だったとしても見たくはない。というか、そろそろ心臓がもたない可能性が高い。

「い、いやいやいや! 冷静になるのよ圭美。猫が笑うだなんて、そんなはず、ないない! きっと混乱した私の見間違い。うん、そうだよそうに決まってる!」

 ぐっと背筋を伸ばし、ふうーっとゆっくり息を吐いてから、圭美は落ち着いて呼吸を整える。

「――うん。大丈夫、大丈夫。何があっても、きっと母さんが守ってくれる。だから、私は大丈夫」

 自己暗示をかけるように自分にそう言い聞かせ、口元を無理やり吊り上げて笑みを作る。

 中学生の時に、たった一人の家族だった母を亡くした圭美だが、こうして何度も自分に大丈夫だと言い聞かせてここまで来られたのだ。決して人より器用だとは言えないが、立ち直りの早さと根性だけは人一倍あると自負している圭美である。

 気持ちを切り替えるように、ぶつけた腰をさすりつつも立ち上がる。すると、コンコンと扉がノックされる音と、柔らかな声音が圭美を呼ぶ声がした。

「一之瀬さーん。いますかぁー?」

「あ! はい! 今出ます!」

 同じリビングの誰かが帰ってきたのだろうか。返事をしながら慌てて扉を引くと、そこには小柄でふわりとした風貌の可愛らしい女性と、ショートカットが似合うすらりとした美人が並んで立っていた。

「一之瀬さん、こんにちはー」

 にこにことした笑みを湛えて、小柄な方の女性が言う。

「万葉寮へ、ようこそー」

「え、あ。こ、こんにちは! 今日からこちらでお世話になります、一之瀬圭美です!」

 勢いよく頭を下げる。勢いがよすぎてずれた眼鏡をあたふたしながらかけ直し、圭美は正面の二人に改めて対峙する。

「あ、これでタマミって読むんだねー。ふふふ。じゃあ、タマちゃんだー」

 見た目と同じく、ふわっとした口調でその女性が言うと、その隣からスレンダー美人が苦笑を浮かべて口を挟んだ。

「こら、ヒヨ。まずは自己紹介でしょーが。いきなりごめんね、圭美ちゃん。私は二宮志保。今年度から副寮長やってます。で、こっちが寮長」

「寮長の、六角日和ですー。教育学部の三回生だよ。よろしくねー、タマちゃん」

「圭美ちゃんが今年最後の入寮生だから、ホントはお出迎えしたかったんだけど、午前中に男子寮との合同会議があってさー。あ、このリビングの皆も今は帰省してるけど、明日くらいから徐々に戻ってくると思うよ。先輩含めて、面白い人ばっかりだから安心してね」

 テキパキとした口調で志保が言う。

「はい。ありがとうございます。これから、よろしくお願いします!」

 本来、こちらから挨拶に行くべきだったと内心で反省しつつ、再び頭を下げる。

「志保ちゃんは南棟の一階でー、私はこの部屋の丁度真上の三階にいるから、何かあったら気軽に声をかけてねー」

「ヒヨの部屋にはお菓子がいっぱいあるからね、何もなくても遊びに行くといいよ」

 カラッとした笑みを浮かべて志保が言うと、ふわりとした笑みで日和も言う。

「お菓子だけじゃなくてお茶も出すよー? カフェ日和、いつでもお待ちしてまーす」

 ぱっと見は真逆のタイプだが、息のあったその様子から二人の仲の良さが窺える。優しそうな二人でよかったと、圭美はほっと安心する。

「引っ越しの荷物は揃ってた? 手伝うことがあれば言ってね?」

「ありがとうございます。けど、持ってきた荷物も少ないし、大丈夫です」

 笑顔で答えた圭美に、日和がふと思い出したように問うた。

「あー。そうだタマちゃん。タマちゃんって、猫はお好き?」

 その言葉に、先ほど遭遇した恐怖体験を思い出し、圭美はびくりと身を強張らせる。

「えっと。じ、実は、あんまり得意じゃなくって……」

「えー、そうなの? 残念。せっかく可愛いコがうちには二匹もいるのに」

 心底残念そうに言った志保の言葉に、圭美は絶句する。

「あ、あの……、それは、どういう……?」

「あのねー、この寮には今、猫が二匹、棲みついてるのよー。一応野良なんだけど、懐っこいから、寮のアイドルみたいな存在なんだー」

「ホント、超可愛いんだよ!? ウチのコ達、マジ最高! 私のスマホ、あのコ達の画像で一杯なんだから!」

「そ、そうなんですね!」

 今にもスマホで写真を見せてきそうな志保の勢いに、圭美は若干逃げ腰になる。そんな圭美の様子に、はっと我に返ったらしい志保が慌てて言い繕う。

「あぁ! ごめんね、ついヒートアップしちゃった。でも安心してね。猫が苦手な寮生だってここにはもちろんいるし、館内には絶対入れないことって規則にもなってるから」

「それに、猫が苦手な人には、あのコ達も近づいてこないから、心配しなくても大丈夫よー?」

 日和はそう言ったが、猫が視界に入るだけでも恐怖の圭美にとって、それは決して安心できない環境である。

 ――ど、どうしよう。私、ここでは暮らせないかもしれない……。

 暗い気持ちでそう考えて、はっと圭美は思い至る。

「あの、ひょっとしてその猫って、黒いのと、茶色のトラっぽい奴ですか?」

「うん。そうだよー。ハチクロちゃんと、サバトラちゃん」

「違うってば、ヒヨ。ハチワレと、キジトラ! もー、何度言っても間違えるんだから」

「あらー、そうだっけ。まぁ、可愛ければ何でもいいじゃない?」

「うん、それは確かにそのとおりね。可愛いは正義だから」

 うんうんと頷く二人を前に、圭美は内心で激しく動揺していた。

 ――ってことは、さっきの化け猫(仮)は、この寮内に棲んでる猫ってこと!?

 果たして、先輩達はそのことを知っているのだろうかと、圭美は重ねて恐る恐る尋ねる。

「あ、あのですね。私の見間違いでなければ、実はさっき、その猫達が、その……にぃぃって笑ったように、見えたんですけど……?」

 意を決しての圭美の言葉に、志保が真顔で頷いた。

「圭美ちゃんも、気づいたんだね」

「そ、それじゃあ、先輩達もあれを知って――」

「あるよねー、猫が寝てる時に、たまに笑ってるように見えるあの顔! 超可愛いの!」

 拳を固めて力説する志保に、圭美は思わず頭を抱えそうになるのをかろうじて堪えた。

 ――ダメだー! 全く伝わってない!

「ふふふ。目を細めてご飯食べてる時とかも、笑ってるよねー?」

「あるある! 顔を洗ってる時も、たまに笑ってたりさー」

 目尻を下げて楽しげに猫あるあるを繰り広げる二人を前に、圭美は愕然として思う。

 ――いや、アレは、絶対にそういう感じじゃなかったよ……。

 そうは思えど、猫が笑ったという確証はどこにもない。それに、猫好きな二人にこれ以上言ったところで、圭美の感じたニュアンスは伝わらないだろう。しかし、やはり冷静に考えて、あれはきっと自分の見間違いだったのだ。そうに違いない。

 そう結論づけて、圭美は先ほどの出来事を忘れることに決めた。

 ――だけど、とにかく猫が二匹も棲みついてるっていうのは、変わらない事実なんだよね……。

 先輩達に気づかれないように圭美はそっと嘆息する。圭美にとって素晴らしい環境だと思ったこの寮だったが、今や一刻も早く抜け出したい恐怖の場所へと変わってしまっていた。

 ――よし、決めた。とにかく、これから死ぬほどバイトをしよう。そして、お金が貯まったらすぐに安いアパートに引っ越そう!

 手を振り去っていく二人の先輩を見送りながら、そう決心した圭美だったが。

「あッ……」

 そして、圭美は咄嗟にポケットの中へと突っ込んだ異物の存在を思い出し、密かにもう一つの決断をする。

「……か、鍵のことも、取りあえずもう少しナイショにしておこう……」

 だが、この決断こそが、これからの圭美の生活を狂わせるきっかけになろうとは、この時の圭美は知る由もなかった。