この世のすべては因縁という名の『鎖』で繋がっている。

 頑丈で、がんじがらめで、冷たく重い。

 もしも、その鎖が目に視えたなら、きっとここにも繋がりを見出せるはずだ。


 生者と死者。


 彼の目はその繋がりを断つためにある。




 世の中、すべてが偶然の産物で成り立っているわけではない。しかし、それすなわち必然かといえばそういうわけでもない。

 何事にもあてはまることではあるが、特に人と人との繋がりは摩訶不思議なもの。

 たとえば、必ず乗らなければいけない電車に乗ったとき、その車両に偶々乗り合わせた人たちとの出会いは、『必然』とも『偶然』とも言えるものだ。電車に乗ろうとする意志が必然性を生んだが、その先で出会った人にとってあなたが乗り込んだ車両に居たのは偶然にすぎない。

 主観を誰に置くか。または、見方を変えるだけで『必然』も『偶然』も如何様にも入れ替わる。『必ず』と『偶々』は紙一重だというお話で、考察するだけ無駄である。


 ある必然がある偶然を招き寄せた。


 その人に意志はなく、ただ『彼』であるというだけで『私』を、いいえ『私たち』を招き寄せた。彼にとっては必然的な災いでしかないが、しかし『私たち』にとっては偶発的な救いであった。もちろんこれも主観も見方も紙一重のお話。

 考察するだけ無駄なお話。

 だけど。

 だけれども、――私、小路美雨にとって彼との出会いは定められた運命だったように思うのです。


*   *   *


 朝のラッシュ時は、都心に向かうにつれ車内の乗車率が笑えないくらいに上昇する。

 押し合い圧し合い、息苦しい。のみならず、過密で暑苦しい。一五〇センチにも届かない美雨の身長では人体に挟まれた拍子に両足が床から離れてしまうこともざらにあった。手摺りにしがみ付くことができれば運のいい方で、大抵は駅に着くたびに人波にぷかぷかと流されてしまう。比喩でも何でもなく、宙に浮いたままあちこちへ運ばれてしまうのだ。勤め先の最寄り駅に到着する頃にはあたかも溺死しかけた遭難者のような塩梅で、その姿は見る者に僅かな憐憫と、小動物を目撃したかのような癒しをもたらした。

 駅の鏡で身嗜みを直す。捨て犬然としていた姿を幾分かマシなものに整える。

「――はあ。毎朝しんどいなあ」

 会社の近くに住みたいけれど、二十三区内で部屋を借りるとなると家賃相場がぐんと高くなってしまう。高卒新人の給料ではとてもじゃないが手が出せない。

「高卒でなくても新人でなくても厳しいのかも……。特殊な業界だし、給与の相場だってよくわかんないし」

 隣県にあるボロアパートからの通勤はあと数年は続きそうである。満員電車との付き合い方もそのうち慣れていくのだろうか。……それも何か嫌だなあ。

 田舎から出てきて三ヶ月、満員電車に揉まれるたびに軽いホームシックに罹ってしまう。実家の近所でこれほどの人込みは年に一度のお祭りでもお目にかかれないというのに。東京、恐るべし。

 でも、東京には、ここでしか叶わない夢があふれていた。

 美雨は夢を叶えるためにここにいた。

 ――ようし。今日も一日頑張りますか!


 駅を出てから徒歩十分強。九階建てオフィスビルの三階にその会社はあった。

「おはようございます」

 オフィスのドアを開けて中に入ると、長いサラサラの黒髪を両サイドで束ねたツインテールの女の子が、美雨に食らいつかんばかりに詰め寄ってきた。

「遅い!」

「うわあうっ!?」

 手をあたふたさせながら仰け反った。――わあ、びっくりした!

「何よそのあざといリアクションは。いちいちムカつくわね」

 女の子は白けた表情を向けてきたが、その顔はやっぱり可愛い。今日もポップでボーイッシュな私服を着こなしており、センスの高さが窺える。さすがは街のファションリーダー。美雨はしばし見惚れてしまった。

「何ボーっとしてんのよ? ほら、さっさとこっちに来る!」

 腕を引っ張られてずんずん進む。美雨のデスクまでやって来ると、机の上の書類が入った茶封筒を美雨の胸に押し付け、回れ右してそのまま玄関に向かっていく。美雨は転ばないようにするので精一杯だ。

「つ、つばさちゃん!? あ、あの、一体どうしたんですか!?」

「どうした、じゃないわよ! アンタがもたもたしてるから引っ張ってやってるんじゃない! 何でアイドルの私より入りが遅いのよアンタは!?」

「ええっと、……あれ? でもまだ時間には余裕があると思いますけど」

 時刻はまだまだ世間で言うところの通勤時間帯。商店だってこれから開こうという時間である、「早い」とは言えないかもしれないけれど「遅い」ということもないはずだ。

「あ、そうそう、つばさちゃん。おはようございます。今日も早いですねー」

 遅まきながら朝の挨拶。元気なつばさを見ていると何だかこっちまで嬉しくなってきてつい頬が緩んでしまう。「……っ」つばさはなぜかムッとなり、掴んでいた腕を振り解くようにして放した。そして、美雨の眼前に人差し指を突きつけた。

「自覚が足りない!」

「へ?」

「そのほにゃほにゃした面見てるとこっちまで気が緩んじゃう! もっと真剣になってよね! 高校生のつばさがしっかりしてるのに、どうして大人のアンタがそんなにゆるゆるなのよ! しゃきっとしてよ!」

「え? でも、私もまだ十九歳で成人してませんよ?」

「若松っ! 美雨来たからさっさと行くよ! 準備して!」

 つばさは美雨のピント外れの反論を無視してパーティションで仕切られただけの応接ブースを覗き込む。そこではスーツ姿の青年が座って漫画雑誌を読んでいた。

 若松と呼ばれたその青年は、はあ、とこれ見よがしに溜め息を吐いた。

「あのなあ。張り切ってんのはわかるけどよお、今出たってスタジオはまだ開いてねえかんな? レコーディングの開始時刻も午前十時だし。ここからスタジオまでは車で三十分くらいだから、今から行っても一時間以上も待つことになるぞ?」

「そういうのを何とかするのがアンタたちの仕事でしょう!? つばさは早めに入って喉のコンディションを整えておきたいの! どうしてそれがわからないの!?」

「わあ、つばさちゃんて偉いなあ! プロみたいです!」

「プロよ! 美雨もそれを自覚しろっての!」

 若松は鼻で笑うように苦笑した。飲みかけの缶コーヒーに手を伸ばす。

「ンなこと言ったって、おまえだって別にプロの歌手じゃねえじゃん。喉の調子とかいちいち心配しなくていいよ。ガラ声じゃなければ大丈夫。今の時代、フルで歌う必要なんてないし、機械でどうとでも修正できるんだから」

 ばさり、と漫画雑誌をテーブルに放った。その表紙には八人の水着アイドルたちが肩を並べて微笑んでいた。右から二番目には、目の前に居るツインテールが可愛らしいポーズを決めている。

「そういうズルは嫌なの。つばさは歌って踊れる格好いいアーティストを目指してるんだから。いつか武道館やドームを超満員で埋めつくしてやる!」

 わはははは、と若松が大口を開けて笑った。己の野望を笑いで一蹴されたつばさは膨れっ面である。それさえ無視して若松は美雨に手を挙げた。

「おはよう、小路ちゃん。今朝もスーツがよれよれだねえ。満員電車の人波のビッグウェーブにはうまく乗れたか?」

「もう! 電車のことは思い出させないでくださいよお。毎朝死にそうな目に遭ってるんですから」

「俺は近所だし、チャリ通だから同情はするけどね。でも、君のその姿は可哀相だけど癒されるんだよね。小型犬みたいでさ。我が家にも欲しいねえ、小路犬」

「ぐぐう」

「冗談だってば。ンなことでいちいち泣くなよ。てか、相変わらず変な泣き声だ」

「な、泣いてませんもん!」

 元々涙腺が緩い体質らしく、少しでも感情的になるとすぐに涙ぐんでしまうのだ。美雨本人にその気がなくても傍からは泣いているようにしか見えず、これまでにも幾多の場面で紛らわしい誤解を与えてきた。……今は満員電車のことを思い出して本当に泣いてしまったけれど。この体質、どうにかして治せないものだろうか。

「可愛いっつってんだからいいじゃん」

 可哀相としか言われていないが、蒸し返したくないから突っ込まない。

「ま、ボロボロさ加減で言ったらオレも負けてないけどね」

 よく見ると、若松のスーツもよれよれである。

「あれ? もしかして昨日と同じ格好ですか?」

「おうよ! 帰ってないからな! 営業の付き合いで一晩中飲み屋を渡り歩いたぜ。ったくよお、慢性的な人手不足には困ったもんだ! あー、今日くらい休みてえ! ――っ痛ぇ! 何すんだよ!?」

 いつの間にかソファの後ろに回ったつばさが漫画雑誌の背の部分で若松の頭を叩いていた。

「つばさを無視すんな! それに、つばさの大事な日に休みたいとか言わないで!」

 拗ねるように唇を尖らせる。こういうところは十代の女の子らしくて可愛いが、しおらしさは欠片もなくて負けん気だけが前面に出ていた。若松は「あー」と唸った。

「あと、つばさ以外の女の子に可愛いって言うのもナシ! 可愛いとかキレイとかはつばさにしか言っちゃ駄目! わかった!?」

 台詞だけならカップルの痴話喧嘩にしか聞こえず、美雨も思わず赤面しそうになる。言われた若松はお手上げとばかりに万歳して「はいはい」と観念した。

「確かに今のは俺が悪かった。つばさの大事な日だもんな。何よりも優先されるよ。それと、肝に銘じとく。可愛いのはつばさだけ。それ以外はみーんな不細工。これでいいか?」

「言われなくてもそれくらい弁えてなさいよ。――プロならね」

 周防つばさ、十七歳――彼女はプロ二年目の現役女子高生アイドルである。弱小事務所が近年獲得した中では一番期待を寄せている逸材で、それはつばさ本人も大いに自覚しており意識も高かった。「私がこの事務所の救世主になってやるわ!」と息巻いていて、そのやる気にはスカウトをした社長を初め、社員である美雨も若松も引っ張られている。

「ほらっ、早くしてよ!」

 つばさに続いてオフィスを出て行く。「早く行ったって意味ねえってのに」と車の鍵を手許で遊ばせながら文句を垂れる若松を「まあまあ」と宥める美雨。閉まるガラスドアのプレートには『(株)芸能プロダクションLifeLu』とあった。

 美雨の仕事はアイドルの専属マネージャーである。



 芸能プロダクション・ライフルは、かつて日本歌謡界に彗星の如く現れた伝説の歌姫『小倉秋葉』と当時の専属マネージャーが独立して興した芸能事務所である。『小倉秋葉』の絶対的人気を支えに、第二第三の『小倉秋葉』を生み出そうと活動し始めて早十年。当初の目論見を大きく外し、数々のアイドルを輩出してきたものの人気はいまいち振るわず、二年前に唯一の稼ぎ頭であった『小倉秋葉』が突如現役を引退したことで業績はますます下降の一途を辿っていった。歌手からプロのカメラマンに転向した『小倉秋葉』に復帰の意志はもはやなく、会社存立は次世代を担う新星アイドルを発掘できるか否かに懸かっていた。

 そうしてついに掘り出された新星が周防つばさである。彼女は現在のライフル所属アイドルの中では一番の売れ線で、知名度はまだまだそれほどでもないけれど、磨けば光る原石であろうことはアイドルオタクを自認している美雨も認めているところだ。

 笑顔と見栄えはピカイチ、歌唱力と演技力はいまいち。このままグラビア路線に突き進むか、テレビタレントとして売り出すべきか、はたまた女優に転向させて勝負に出るか。事務所としても方向性を決めあぐねていた。

 ――歌で行くのもアリだと思うんだけどなあ。

 デビュー曲はユニットだったので目立たなかったが、今回は初のソロということで多くの人がその魅力に気づくことだろう。そう思っていたのに、

「うっわ、あいつマジで下手だな……」

 一緒にレコーディングの様子を見ていた若松が呟いた。美雨には音楽のことはよくわからないけれど、つばさの癖のある声は割と中毒性があっていいと思うのだが。

「癖っつーか、単純に音痴なんだな」

「えー、そうですか? つばさちゃん、ボイトレ頑張ってたじゃないですか?」

「つばさの奴、変に器用だからさ。そのときは講師の言うとおりに合わせられるんだけど、一旦離れちゃうとご覧のとおりすぐに元に戻っちまう。いくら練習で上手くったって身につかなきゃ意味ねえよ」

「レコーディングって私初めてなんですけど、音響スタッフの方たちにこんなに見られながらだとやっぱり緊張しちゃうんですかねえ」

「だからって、そんなの言い訳にしちゃいかんだろ。つってもまあ、責めたところで始まらん。小路ちゃんは後でつばさのフォローしておけよ」

「はい」

 エンジニアが機材の不調を訴えたので、一旦休憩を入れた。

 美雨たちが訪れたレコーディングスタジオは、ビル一棟の中にいくつもの音楽スタジオやダンス&リハーサルスタジオ、演奏会ができるホールまで完備した、音楽専用総合ビルディングである。一階のロビーにある休憩スペースでレコーディングの再開を待つ。

 通信制の学校に通っているつばさは、待っている間に学校の課題に取り掛かっていた。右手でシャーペンを回し、左手で頬杖を突いてつまらなそうにテキストを眺めている。さっきから全然手が動いていない。わからないところでもあるのかな、と美雨が覗き込むと、顔を上げて睨みつけてきた。

「何よ?」

「ええっと、どこかわかんないとこでもあるのかなあって」

「ない。あっても美雨には訊かない。アンタ、絶対つばさよりバカだもん」

「えー? そんなことないですよー。どれどれ?」

 これでも高校時代の成績はクラスでも中の上だったのだ。高校二年生用の数学のテキストをざっと流し見る。目蓋を二、三度パチパチ開閉し、曲げた腰を真っ直ぐに伸ばした。

 へへー、ととりあえず笑っておく。

「あ、もしかして、何か悩みごとがあったりして?」

「ない。あっても美雨には言わない。アンタ、絶対つばさより経験値低そうだもん」

「んぐぐ」

 確かに、誰がどう見ても美雨よりつばさの方が大人っぽいし、美雨以上にいろんな経験をしていそうである。下手をすれば小学生にも間違えられる自分の容姿が今さらながら恨めしい。……まあ、見た目だけの話じゃないけれども。

「じゃあ、若松さんはどうですか? 若松さんになら遠慮なく相談できるんじゃ」

「論外。若松に相談するくらいだったら美雨にする」

「えっ、本当ですか? やったーっ!」

 ……いやいや、喜んでどうする。どちらも振られたことに変わりなかった。

 チッ、と舌打ちするつばさ。段々イライラが増してきているようだ。やっぱりレコーディングがうまくいかなかったことが原因かな。スタッフさんたちに何度もリテイクされていたし、その度に地団太を踏んでいたから。

 ――うーん。こういうときどうやってフォローしたらいいんだろう?

 アイドルと信頼関係を築くのはなかなか難しい。仕事である以上ただ仲良くなればそれでいいというわけではない。アイドルはあくまで『商品』であり、マネージャーもあくまで『管理者』なのだ。割り切ることも大切で、一定の距離感は保つべきである。

 ――ということを入社したときに若松さんに教えられたけど、何だかなあ。

 美雨はアイドルのマネージャーになりたくてこの業界に飛び込んだ。『小倉秋葉』に憧れて、彼女を支える仕事がしたいと夢を見た。残念ながら『小倉秋葉』は引退し会うことすら叶わなかったけれど、幸運なことに周防つばさには出会えたのだ。第二の『小倉秋葉』どころか、誰にも比肩されないトップアイドルにだってなれるかもしれない逸材を、生かすも殺すも自分の腕に掛かっていた。

 疎まれたっていいじゃないか。つばさの魅力を最大限に引き出せるなら美雨も全力でぶつかっていくべきだ。

「ねえねえ、つばさちゃん、私に何かしてほしいことありませんか?」

「どっか行って」

「そう言わずに」

「じゃあ、コンビニでアイス買ってきて。カップのチョコミント」

「了解です!」

 根本的な解決にはならないかもしれないけれど、好物を食べれば幾らか気分は晴れるというもの。美雨も気分が落ち込んだときはよく美味しいものを食べて心のリフレッシュを図っているので、つばさが甘いものを欲する気持ちもよくわかるのだ。――この買出しが「どっか行って」を実践させるための口実であることを美雨のめでたい頭では夢にも思わない。

 休憩スペースを出て玄関に向かう。受付に居る背の高い男女が目に入った。

 ――あれ? 何だろう?

 男性は一八〇以上、女性も一七〇以上は確実にあって、美雨からすれば見上げんばかりの巨峰であった。ふたりとも抜群のプロポーションをしていて、サングラス越しにもわかる美男美女。ロビーのすべての人目を引いていた。

 男性が受付に向かって何やら抗議していた。

「使えないってどういうことだい!? こっちは忙しいスケジュールの合間を縫ってレコーディングしに来てるんだ! 一分一秒だって無駄にできないんだよ! わかる!? 僕の一分一秒がどれほど貴重か、本当にわかってる!?」

 聞けば、機材のトラブルは他のスタジオでも発生しているらしい。しどろもどろに説明しているのはオーナーだろうか、あごひげを蓄えて見るからに恐そうな人がぺこぺこ頭を下げている。

「各階のスタジオでも同じような現象が起きてるんです。周辺で強い電磁波が発生しているのかもしれません。いま電力会社に問い合わせているところで」

「照明や空調は正常に稼働しているのに? トラブルは全部音響回りに集中しているんだろう。なら、機材の管理に問題があったんだろうさ。ここを贔屓にしていた者としてはショックだよ。お宅とは今日限りだ」

「そんな!? 待ってください! すぐ復旧させますので!」

 あごひげは顔を真っ青にして男性を引き留めている。見ている方が居た堪れなくなった。男性の言い分もわかるけど、もう少し待ってあげられないのかな。

 それにしても、あの男の人。どっかで見覚えが……。

「あれ、初ノ宮行幸じゃん」

 うわ、びっくり。頭上にいきなり若松の顔が現れた。

「い、いきなり現れないでくださいよ! 今までどこに居たんですか!?」

「喫煙所だよ。それより、何、どうしたんだ? もしかして、収録でトラブってることでクレーム付けてんのか? 相変わらず他人に厳しい奴だなあ」

「若松さん、あの人知ってるんですか?」

「あ? いや、つか、おまえ知らないの? 初ノ宮行幸。超有名人じゃん」

 ウイノミヤユキユキ?

 その響きをしばらく漢字変換できなかった。しかし、思い浮かんだ瞬間、ぱあっと目の前に道が開けたみたいに、頭の中に初ノ宮行幸に関する情報があふれた。

 歌に芝居に作家業に、マルチに活躍するスーパーアイドル。多才であることを鼻に掛けて臆面も無く自画自賛するナルシストキャラでもおなじみだ。自分と比べて他人を見下す言動が特徴的だけど、不思議と不快に感じられずむしろ笑えて、多くの視聴者から支持を集めている。映画やCM、バラエティ番組にも引っ張りだこ。いま芸能界で最も注目されている男――それが初ノ宮行幸だった。

「ゆゆゆ、ユッキー!? ユッキーって、あのユッキーですよね!? 本物の!? あれが!? 嘘ぉ!?」

 驚きすぎて思わず涙が込み上げてきた。感涙とはまさにこのことである。

「ああ、本物。別の現場で何度か見掛けたことがある。隣の美女はマネージャーだ。十年前にデビューして現在は二十六歳。俺と同い年なんで経歴なんかもなんとなく覚えちまったよ。今日レコーディングってことは二十枚目のシングルかな。どんな曲なんだろ」

 若松が若干嬉しそうに見えるのはたぶん気のせいではないだろう。どうやらかなりのユッキーファンであるらしい。全曲コンプしてるんだ、と自慢げに話した。

「お? こっち来るぞ」

 マネージャーに腕を引かれた行幸が渋々といった感じで歩いてくる。美雨の背後にはエレベーターホールがあり、端に寄ってすれ違う瞬間思わず会釈していた。

 すると、先行するマネージャーに抗うようにして、行幸は美雨を振り返っておもむろに立ち止まった。

「ちょっと!? 何で止まるのよ? まだ愚痴言い足りないのアンタは?」

 苛立つマネージャーの険のある声も無視してサングラスを外す行幸。色気のあるタレ目が美雨の全身を舐め回すように見た。それどころか、鼻と鼻がくっつきそうなくらい顔を寄せてきたァ――!?

「な、な、な」

 間近に迫る顔は背の低い美雨にも負けないくらい小さいのに、目鼻立ちの凹凸具合はなぜにこんなにも違うのか。――っていうか、肌ツルツル! きめ細かい!? まつ毛長っ!? 本当に日本人!? 丸顔丸鼻の自分がますます子供じみているように思えてきて、感激と興奮と惨めさが綯い交ぜになって知らず涙があふれてきた。ぐぐううううっ。

「おいおい、この子いきなり泣き出したぞ?」

「あー、すんません。これでも一応ウチの社員でして。何か御用ですか?」

 若松の掌がぽんと頭の上に乗る。行幸は「何だ。子供の社会科見学じゃなかったのか」とがっかりしたように呟き身を離した。――あ、あれ? 子供だったらよかったのかな。もしや、ユッキーは子供好き?

「お宅らは?」

「芸能プロダクション『ライフル』の社員です。今日はウチのアイドルの新曲収録に」

「あっそう。ご苦労さま。――この子、ちょっと借りていい?」

 は? と声に出したのは若松と、行幸に指差された美雨である。返事をする間もなく首根っこ掴まれて連行されていく。「え? え? えええ!?」と悲鳴を上げてあたふた暴れていると「大人しくしなよ」と素っ気無く注意された。

「あ、あのっ!? 私、何か失礼なことしちゃいましたか!?」

 𠮟られることを前提に訊いてみると、

「自覚がないんじゃ仕方ない。とりあえず、事が済むまで黙っていなよ。気が散るから」

 明らかに美雨に対して怒っていた。もちろん身に覚えがなかったが、トップアイドルの迫力に何も言えなくなる。若松も、呆然としてその場から一歩も動けない。

 美雨をエレベーターの中に押し込むとすぐさま『閉』ボタンを押す。傍らでは美人マネージャーが、また始まった、と言わんばかりの溜め息を吐いた。

「で? 今度は何が視えたの?」

「複雑に絡まった『鎖』だよ。この子はただ歩くだけで『鎖』に引っ掛かる」

「意味わかんないけど、まあいいわ。すぐ解決するなら、急いで」

「了解だ。文句は後で言うことにする」

 首根っこを掴まれたまま恐々とふたりを見上げた。凜々しい立ち姿。スーツジャケットを着こなすふたりはさながらアクション映画に出てくるエージェントのようだった。会話の中身は当然理解不能であるが。

 そして、上昇したエレベーターが到着したフロアは、先ほどまでつばさのレコーディングをしていたスタジオがある四階であった。もはや引き摺られるようにして通路を引っ張られていくと、唐突に行幸の手が離れた。

 閉ざされた収録ブースを観察し、扉の脇の空間に視線を泳がせる。蝿を追っ払うような動作で二度三度片手を振り、軽く舌打ちしてからジャケットの懐をまさぐった。

「君はさっきこの場所に立っていたね?」

 そういえば。収録中はスタッフの仕事の邪魔にならないようになるべく通路で待機していたのだが、その折に寄り掛かっていたのがまさしく今目の前にある壁だった。どうしてわかったのだろう。

 美雨が黙って頷くと、行幸は白い紙を取り出した。美雨には与り知らないことだが、その紙は梵字が書かれた魔除けの護符である。無造作に壁に投げつけると、その護符目掛けて張り手を繰り出した。パンッ、と護符を押し付けるようにして壁を叩き、そのままくしゃりと護符を握る。

「あ、なんか大騒ぎになってる。何したの?」

 マネージャーが耳を澄ますようにして言った。――大騒ぎ? 美雨も両耳に手を添えてみたが何も聞こえなかった。

 行幸は護符をポケットに入れると、周囲を見回した。

「一旦『鎖』を千切ったんだ。交通渋滞を起こしていたからね、これで絡まっていた『鎖』も全部解けた。このまま取り逃がすのは癪だけど、殲滅するには数が多すぎるし、再構築して真っ直ぐに延びた『鎖』が奴らを元居た場所に次々と還している。全部を追いかけるのは正直言って面倒だな」

「当然よ。今日はレコーディングしに来たんだから。そっちの仕事は考えないで」

 美雨はただただ唖然としていた。もう、何が何やら。

 さて、と行幸は気を取り直すようにマネージャーに向き直った。親指を立てて美雨に指し向け、文句を口にした。

「だから言っただろう。すべてのスタジオを押さえておけって。そうすればこんな子をこのビルに入れることもなかったんだ」

「何言ってんのよ! ビルごと借り切る気!? 一体いくら掛かると思ってんの! それに、この子が何だってのよ?」

「わからないのか? ならいいさ。でも、今後は気をつけろよ。僕のマネージャーでいたいならね」

「アンタを制御できるのは私くらいなもんでしょうに。断言できるけど、私が辞めたら一ヶ月も経たずに事務所潰れるから」

「そのときは潔く潰すさ。ともかく、僕は言ったからな。覚えておくんだよ」

「はいはい」

 完全に置いてきぼりを食っている美雨であるが、ふたりの言いあいを聞いているうちにふたりが互いを強く信頼しあっているのだと感じた。一蓮托生という感じ。言葉遣いに遠慮がないのもその程度で罅が入る間柄でないことを承知しているからだ。これぞタレントとマネージャーの理想形の一つだと思った。――いいなあ。私もつばさちゃんとこういう仲になりたいなあ。

「何を笑っているんだ、君は。気持ち悪いな」

「……すみません」

 毒を吐くのはテレビ用のキャラだと思っていたけど、どうやら素でもあるらしい。実物のユッキーを見られて嬉しさ半分、複雑な気分も半分だ。

「君、普段から御守りを一つか二つ身に付けていないか? 子供の頃に持たされた御守りみたいなものをさ」

「え? ――あ、はい。あります……けど」

 すると、行幸の目つきが鋭いものに変わった。

「やっぱりな。まったく、一度きりの社会科見学だったらまだしも、芸能関係者だとは……。君、この仕事向いてないよ。転職することをお勧めするね」

 真剣な表情。

 怒気さえ含んだその声に、がつん、と鈍器で殴られるのと同じくらいの衝撃を受けた。

「……向いてない?」

 行幸とマネージャーは呆然とする美雨を置いてエレベーターに乗り込み、六階――レコーディングの予約をしているフロアに向かった。しばらく立ち尽くしていると、エレベーターが一階からつばさと若松を運んできた。若松はホッとしたように息を吐き、「初ノ宮行幸と何話したんだ? サイン貰ったか?」と美雨を気遣うように努めて明るい声で訊ねた。

 仏頂面のつばさがそれを遮った。

「初ノ宮行幸なんてどうでもいいし! それより、美雨! アンタ、アイス買いに行かずに何サボってんのよ!? チョコミント買ってきてってつばさ言ったよね!?」

「あ、ごめんなさい。それどころじゃなかったというか」

「本っ当に使えない! まったくグズなんだから! まあいいわ。機材が使えるようになったんだって。レコーディング再開するそうだから、美雨も急いで準備して。休憩挟んだら喉の調子もよくなったの! 見てなさい! 今度こそつばさの美声でアンタたちを感動させてやるんだから! ――って、ちょっと。何でもう泣いてんのよ、美雨?」

「ぐ……ぐう……、だ、大丈夫っ。何でもありませんから……っ」

 新人だし、至らない部分がたくさんあることもわかっていた。

 でも、たぶん違う。

 経験とか知識とか、きっとそういうことじゃないんだ。初ノ宮行幸はどう足掻いたって埋まらない何かを指摘していた。決定的に向いていない要素を美雨の中に見出していた。

 普段すぐにべそをかく美雨でも、悔し涙をこぼすのは生涯で二度目であった。


*   *   *


 祖母の言葉で、ずっと心に引っ掛かっているものがある。

「誰だって支えられなきゃ立てないんだよ」

 何がきっかけだったのか今ではもう定かでないが、幼い美雨が泣きべそをかいていると、祖母から御守りを手渡された。普段は底なしに明るくて、けれど怒ったときは父の雷よりも恐ろしく、そしてどんなときでも品格を重んじていた祖母である、きっとこの御守りも由緒ある物に違いない。美雨は泣くことも忘れてその御守りを物珍しく観察した。

「神様だってそう。普段はずっと人助けをしてくださっているが、偶には力を抜きたいときがある。誰かの支えを必要とすることもある」

「神様も?」

「そうさ。だから美雨、アンタもいつかは誰かの支えになってやりな」

 それならば相手は祖母がいい。そう言うと、哀しげに頭を撫でられた。

「私はいいんだよ。それよりも、無理して平気そうに立ってる人を特に気に掛けてあげな。誰も気づいていなくてもアンタだけは気づいてあげるんだ。いいね?」

「おばあちゃん?」

 なぜそんなことを言うのだろうと不思議に思った。それはまるで遺言のようでもあったが、結局祖母はその日から三年生きた。享年七十三歳だった。

 両親による祖母に対する人物評は厳格にして頑固。しかし、美雨は祖母から躾けられた記憶が一切なく、教えられたことと言えば「人にやらせると笑える民間療法」や「披露したところで何の自慢にもならない蘊蓄」といったくだらないことばかりであった。なので、説教らしい説教は御守りをくれたあのときだけで、だからこそいつまでも忘れられずに残っているのだろう。

 小学生のまま成長が止まったのね、と友人たちに憐れまれ、中学に上がってからは背を伸ばす目的でスポーツに打ち込んだ。結局背が伸びたことは高校時代を含めてもついぞなかったが、身体的に不利であるからこそテクニックを磨いた部分は確かにあって、推薦で進路が開けるほどの活躍ができたのは幸運だった。将来は体育大学を出て学校の先生になるのも悪くない――美雨のささやかな夢だった。しかし、たった一度の故障ですべてが覆される理不尽さを、高校二年の秋に思い知る。

 膝の前十字靭帯断裂――無事手術に成功してリハビリを終えたとしても約一年間は競技に復帰できない重い損傷である。仮に復帰できたとしても、医者は美雨の小さな体では運動の負担に耐え切れない恐れがあると診断し、引退を勧告した。

 人生で初めての挫折であった。祖母の葬式で流した以上の涙がこぼれた。普段から涙腺が緩い分、本当の悔し涙は数日かかっても止まらなかった。

 やがて涙も乾き切り虚ろに病室の壁を見つめ続けた。不意に友人たちが持ってきた見舞品の中から一枚のCDアルバムを見つけだす。ジャケットには同性であっても目を引く美しい女性が写っていた。

「……『小倉秋葉』?」

 名前くらいなら聞いたことがある。デビューから二十年、ずっと流行の最先端で活躍してきた歌姫だ。少し前に引退を表明し、その年に出した最後のベストアルバムがそれだった。これでも聴いて気晴らしをしろという友人たちの心遣いが胸をざわつかせる。人生を棒に振った失望を、歌一つで救い出せるものと軽く見られたような気がして癇に障る。――歌くらい何だ。私にだって歌えるよ。音痴だけど。

 けれど、せっかくの見舞品だ。入院生活に飽いていたこともあり、母が持ち込んだノートパソコンに、アルバムに付属したDVDをセットする。ミュージックビデオが再生され、しばらく小倉秋葉の歌とダンスを鑑賞した。

 ファイナルシングル『ワタシスベテ』――その、物語仕立てのミュージックビデオである。学生服を着た少女が若い衝動を抑え切れずに走り出す。その道の先々に歌姫は現れ、熱唱とともに何度となく少女を送り出すのだ。少女は夜の街をひた走り、場面が移り変わるたびに衣装もまた変化していく。そして、大きなステージの上に躍り出ると、少女は歌姫の姿に変貌した。

 ――羽をもがれても 空に挑み続けて 立って 立って 立って 立て。

 ――悔し涙 怒り 蹴り上げて 未来を作れ ワタシ全てで。

 歌い終わった歌姫は幻影となって、制服姿の少女を舞台に残して去っていく。少女は明け方の野外ステージの上で未来の自分に思いを馳せ、顔を上げてステージを降りていく。それは歌姫がその道を志し、そして舞台を降りるまでの物語であった。

「……」

 ありきたりなテーマだ。それなのに、小倉秋葉の歌声が心臓に突き刺さり、美雨は涸れていたはずの涙を流していた。こんなにも心揺さぶられたのは初めてだ。

 頑張れ、と応援された気がした。

 それからは取り憑かれたように小倉秋葉の曲を聴き続けた。小倉秋葉に心酔し、小倉秋葉のいる世界に憧れて、アイドルというものに興味が湧いた。

 華やかなステージの上で歌って踊って聴く人すべてを元気にするなんて、まるで神様だ。偶像とはよく言ったものである。

 ふと、祖母の言葉が思い出された。

「小倉秋葉も誰かに支えられたいと思っているのかな……」

 ステージの上では孤独な神様。平気そうに見えてもその実、不安でいっぱいで無理をしているかもしれないじゃないか。

 だったら、彼女を支えるのは自分でありたい。

 そして、美雨は立ち直る。新たな夢を持つことでそれを心の支えに変えた。

 ――アイドルの専属マネージャーになる。今度は私が支える番だ!

 それこそが、祖母の言葉から始まった、美雨に定められた道だと信じて。


*   *   *


 だというのに、初ノ宮行幸に出端を挫かれてしまった。

 現在のトップアイドルが言うのだから間違いないのだろう。美雨にはマネージャーの素質がないらしい。

「それで落ち込んでいたのか。いやあ災難だったねえ」

 オフィスに社長・猪熊の声が響く。十年前に『小倉秋葉』をレコード会社からかっさらい、業界中から後ろ指差されながらもライフルを起業した元マネージャーである。

「悔しいのはわかったから、もう泣きなさんな。ほら、鼻くらいかみなさい」

 不器用な猪熊の手から放り投げられたティッシュ箱は決して優しいとは言えない強さと軌道で飛んできたが、美雨は片手で軽やかにキャッチした。「ちっちゃくて泣き虫のくせに運動神経だけはいいんだよなあ」と猪熊は苦笑した。

「僕は小路ちゃんを買っているよ。この業界に向いていないとも思わない。ただちょっとだけ気持ちが入りすぎちゃうところがあるのが玉に瑕かな。それさえ直せば大丈夫だよ」

 商品に肩入れしすぎるといざ出荷するときに傷つくからね――。社長が何を喩えにしたのかわからないが言わんとするところは理解できた。つばさにとって嫌な仕事が回ってきたとき、マネージャーのすべきことは同情ではなく非情になりきって送り出すことだ。アイドルとの歩み寄りはあくまで気持ちよく仕事に向かわせるための打算で行うべきで、それを憂慮していたらマネージャーなんて務まらない。

「つばさは四、五年に一人くらいの逸材だからね。ゆっくり育てるのもいいと思うんだ。焦らずいこう。ね?」

 美雨を慮っての慰めに黙って頷いた。

 社長には悪いが、初ノ宮行幸の「向いてない」という言葉の真意はそこじゃない気がする。外見や内面の話じゃなくて、もっとこうスピリチュアルな何かだ。

 あれから数日間、ずっと行幸の台詞を反芻し、行幸の経歴を思い出していた。

 どうして忘れていたのだろう。

 初ノ宮行幸は霊能力者タレントとしてデビューしたのではなかったか。



 十年前、真夏の心霊特番に登場した十代の除霊師が初ノ宮行幸だった。幽霊が出ると評判の廃屋に赴き、焚いた炎の前で一心不乱に念仏を唱える美少年の姿は瞬く間にお茶の間を席巻し、以降毎年夏の風物詩としてテレビに登場し知名度を高めていった。

 そこから俳優業に乗り出し主役を張るようになると、自ら作った主題歌を売り出したり、主演映画では監督をこなしたり、執筆した台本も小説化してミリオンセラーを記録するなどして、次々に成功を収めていった。いつしかテレビの顔にまでなった初ノ宮行幸はしかし、本人と事務所のどちらの意向か、反比例するように心霊系の仕事が減っていった。今でも除霊師の仕事も請け負っているという話だが、こちらはもはや都市伝説級の胡散臭い噂話に昇華していた。

 でも、だからって人気に火がついたきっかけが消えるわけではない。

 初ノ宮行幸が霊能力者であることに変わりはないのだ。

 そしてこの日、周防つばさの新曲のお披露目となるアイドル紹介番組の収録現場は、奇しくも初ノ宮行幸がデビューした心霊特番を制作したテレビ局内にあった。嫌でも意識してしまい、美雨は朝から憂鬱だった。

 満員電車では人波にぎゅうぎゅうに揉まれ、降車駅に着いたら今度は財布を落としたことに気づいてまたへこんだ。免許証やキャッシュカードは別のカード入れに入れておいたので難を逃れたが、落とした財布は子供の頃から愛用していた小銭入れで、思い入れが強かった分、突然の別れに打ちのめされた。散々である。運気は完全に美雨を見放していた。

 収録現場に着いてからも重苦しい溜め息を連発し、ただでさえ気の短いつばさを苛つかせた。

「あーんもう! さっきからウジウジウジウジと! やめてよね、収録前にテンション下げるの!」

「ご、ごめんなさい」

 鏡越しに睨みつけられる。つばさは顔のメイクに取り掛かっているので動けずにいた。

「ったくぅ。そんなんじゃこっちの調子まで狂っちゃう。もう出て行って! そのウジウジやめるまで帰ってくんな!」

「うぐぐぐぐ……」

 何も言い返せなかった。言われるままにメイク室から出て行く。

 収録スタジオに続く通路はテレビ局の社員や番組スタッフが忙しなく行き交っていた。そこから離れ、休憩室の横を通り過ぎる。よくテレビで見掛けるタレントやお笑い芸人が当たり前のように座っていて、談笑していた。出番待ちなのか収録が終わったのか。あるいは、打ち合わせ中ということも考えられる。一般人からしたら夢のような世界が目の前に広がっているのに、美雨の気持ちは少しも上向かなかった。

 若松は番組の関係者に挨拶に出向いている。そっちに付いていけばよかったと思った。人と会って緊張していれば少なくともウジウジしなくて済んだはずだから。役割分担上、つばさのそばから離れられなかったからどちらにせよメイク室に居るしかなかったのだけれど、追い出されてしまった今なら役割も何もないのだし。

 ――何やってるんだろう、私。

 初ノ宮行幸じゃなくても今の美雨を見れば誰だって「おまえはこの仕事に向いていない」と言うだろう。現場に入っているというのにいつまで気持ちを切り替えられずにいるんだか。自分が情けなくなる。……やば。また涙が込み上げてきた。なんて堪え性のない人間なんだろうか、私って。

「いけない、いけない。気にしていても仕方ないよね。頑張れ、私。うん!」

 トイレの鏡に言い聞かせて廊下に戻ると、背後から足許を何かが駆け抜けていった。

「?」

 子供だった。小学校低学年くらいの男の子で、美雨を振り返っておいでおいでと大きく手を振った。美雨は背後を振り返り、私? と、確認するように自分の顔を指で差す。

 男の子は大きく頷くと再び駆け出した。――どうしよう。追った方がいいのかな。迷子だとは思えないけれど、むやみやたらに駆け回るのを黙って見過ごすわけにいかなかった。きっと他のスタッフさんの迷惑になるし、捕まえて保護者に引き渡すべきだろう。

「待ってください!」

 小走りで男の子を追いかける。男の子は通路を曲がるたびに美雨がついてきていることを確認し、また駆け出す。完全におちょくられているとわかっていたけれど、こうなると自分が責任を持って止めなければ、という使命感が湧いてくる。テレビ局の収録スタジオは入り組んでいて、通路にもケーブルの束や小道具が入った段ボール箱が至るところに置かれていて、とても走りにくかったが、徐々に距離が縮まっていった。あとちょっと。

 それにしても。

 今どきの子役タレントはどの子も礼儀正しくて大人びているという印象があったから、この男の子のような年相応のやんちゃな子がいてくれて少し安心していた。この業界、子供っぽいのが美雨だけだったらどうしようって悩んでもいたから。本当の子供を捕まえて安心した気になるのもどうかと思うけど。

 普段は施錠してある非常口を開けて、吹き抜けの避難用階段を昇っていく。カンカンカンと足音を鳴らして男の子を追うが、男の子は美雨を挑発するように手摺りから顔を覗かせて白い歯を見せた。

「こんなところに勝手に入ったら怒られますよ!」

 男の子がケタケタケタと笑う。美雨を見下ろす目つきが段々と細く薄くなっていく。

 様子がおかしい。

「……え?」

 男の子の首がゆっくりと傾いでいく。首の角度が直角になってもそれは止まらず、やがて顎と額が上下逆さまになった。頭が百八十度回転してもなお男の子の笑い声は止まらない。

 白かった顔がなお白く、まるで背後を透かすほどに血色を失っていく。やがて本当に全身が透けて見えたところでぞくりと怖気立った。

「あ、あなた、まさか……」

 男の子は口を利かない代わりに手摺りから身を乗り出し、ぬめり、と滑るようにしてこちらに落下してきた。迫る逆さまの顔には子供らしさの欠片もない厭らしい笑みを湛えていた。

 ――ぶつかる!?

 事ここに至ればそれが人間でないことには頭の片隅では気づいていたが、形が子供であるために「万が一」を捨てきれなかったのはかつて美雨がそういった存在を視たことがなかったせいである。ありえない角度に曲がった首も、背後が透けて見える体も、別の誰かの尺度でならありえるモノかもしれないという可能性が脳裏を過ぎり、それが一瞬の躊躇いをもたらした。受け止めようと手を伸ばしたこともほとんど無意識に近い。

 ヒトならざるモノに少しでも触れたらどうなるかなんて想像さえしていない。

 首根っこを掴まれる。覚えのある感触に思わず「ひゃっ!?」と声を上げた。

 ぐい、と背後に引っ張られ、背中から階段を落ちそうになった体はその瞬間、ふわり、と大きな腕に抱えられた。

 踊り場で乱暴に降ろされて尻餅をつく。

「あいたっ、――――あ、」

 見上げれば、そこには初ノ宮行幸の横顔があった。その彫像のような美しさに思わず息を吞む。たちまち耳から音が遠ざかり、無音の間、今の状況さえ忘れた。

 なんて、きれい。

「う、うい、の……さ」

「黙ってなよ。気をしっかり持って。僕だけを見ているんだ!」

 行幸は白い顔の男の子と対峙して佇む。男の子の顔はいまやのっぺらぼうのように凹凸がない。両目も洞みたいに黒々として光彩を失くしていた。獰猛な笑みを湛え、行幸の後ろにいる美雨を相変わらず見つめている。

「おい、おまえの相手はこの僕だ。無視してんじゃないよ、糞餓鬼」

 男の子の視線を遮るように一歩横に移動する。美雨からも男の子の姿が長い足に阻まれて見えなくなった。

 何やら大変な事態が起きているらしいということは理解できたが、さてこのまま座り込んでいていいものか若干迷う。

 避難階段の床はステンレス製で、ついた手やお尻からその冷たさを実感したとき、不意に生温い風が吹き込んできたのを感じた。

 ――風。……下から?

 視線を下げると、美雨の股の間に中年男性の頭部が転がっていた。

「きゃあ――――っ!?」

 美雨の悲鳴に呼応したかのように次々とたくさんの顔が床から生えてきた。背後の壁や頭上の階段からも半透明の人間がすり抜けて現れた。吹き抜けの避難階段はまるで水のないアクアリウム。そこを浮遊するのは魚じみた人の影。電灯の照明が明滅を繰り返して最後には消え、非常灯の明かりがかろうじて海底世界を演出する。何も見えない。なのに、ヒトならざるモノ共の不吉な姿ははっきりと視えていた。

 ――こ、これって、やや、やっぱり幽霊!?

 認識した瞬間、浮遊する幽霊に一斉に視られたと感じた。

 意識が流れ込んでくる。壁際の男は借金苦の果てに自殺した。床を這う女は愛していた男に裏切られて殺された。頭上から落ちてきた老婆は孤独死。眼前を浮遊していく青年は轢き逃げに遭って死亡。屈強そうな大男は病に冒され見る見るうちに干からびていく。集団登校中に交通事故に巻き込まれた児童たち。失くした手首を探す女子高生。バットで殴られ陥没した頭を押さえつける老人。死んだ後も溺れ苦しんでいる水着の少年。首吊りと飛び降りははたしてどちらが多いのか。無理心中の罪の所在。過剰防衛への逆恨み。蛆が湧く腐乱死体。笑う参列者への罵詈雑言。生者に対する怨念。憎悪。嫉妬。嫉妬。嫉妬。


 スタジオ内で駆け回る男の子。

 頭上に落下した照明機材が細い体を粉々に。

 見るも無惨な圧死体。


「……っ!?」

 涙が止まらない。

 死のイメージを幾度も視せられて胸が苦しい。

 息ができない。

 吐き出す分を補えない。喉に蓋ができたみたい。

 遠退く意識の中で幽霊たちの顔を見た。皆、苦痛に喘いでいるのに喜悦に染まった笑みを浮かべていた。美雨を仲間に引き込めると確信した目、目、目。集団の悪意に晒されて極寒の只中に居るようだ。手足の感覚もなくなって目蓋も次第に落ちていく。

 死、

 ――ダンッ、と床を踏み抜く音が響いた。

「惑わされるな! そんなもんは幻覚だ! 僕を見ろと言っているだろ! 何度も言わせないでくれ!」

「……」

「返事ッ!」

「わ、は、はいっ! ――あ」

 呼吸ができる。すり寄ってきた幽霊たちも行幸の一喝で美雨から瞬時に離れた。切れていた照明も復活し、海底は元の避難階段に戻っていた。

 すぐさま行幸だけを見た。行幸はくぐもった声で念仏らしきものを唱えていた。見据える先はあの男の子の幽霊だ。

 再び床を踏み抜く――二つ、三つ。沓音を響かせて邪気祓いの結界を成す呪法。反閇と云われる歩行呪術の「千鳥足」を省略した形だ。中国の道教の禹歩を祖とし、日本に伝来して後は陰陽道、修験道、神道、神楽、能楽、果ては歌舞伎の六方相撲の四股踏みなどにも影響を及ぼした歩法である――もちろんそんなことは露知らない美雨ではあるが、その光景には呆然と目を瞠った。

 ……美しい。まるで舞を舞うかのような行幸の所作に状況も忘れて見入ってしまう。

激しく踏み鳴らされた足拍子が魔を弾く境界を避難通路いっぱいに広げた。

「消え失せろ! おまえらに現世での居場所なんかない!」

 幽霊が一目散に逃げていく――否、壁の外に弾き飛ばされていく。

 唯一、男の子の幽霊だけが野太い悲鳴を上げながらその場から動けずにいた。行幸が拳を伸ばした先で苦しそうにもがいている。直に触れているわけでもないのに、男の子を掴んで捕えているようにも見えた。

「大昔、ここのスタジオでは子役の男の子が落下してきた照明器具に押し潰されて死亡した事故があったそうだ。君なんだろ? いくらそこのオチビちゃんが美味そうだからって表に出てきたのは失敗だったね。別に現世に居たいわけじゃないんだろう? だったら今すぐ消してやる――よっ!」

 掴んでいた何かを引き抜いた。すると、男の子の幽霊は呆然とした様子で徐々に存在感を薄くしていく。

 美雨の脳内に声が響いた。

 ――もっと遊んでいたかった。もっともっと遊んでほしかった。

「……」

 男の子の幽霊は跡形もなく消えていった。先ほどまでの密度が嘘のように避難通路からすべての幽霊がいなくなった。

 行幸はゆっくり振り返ると、美雨の手を取って立たせた。

 美雨の全身をじっくりと眺めた。

「あ、あの?」

 居心地悪そうに身動ぎすると、行幸はこれ見よがしに溜め息を吐いた。

「御守りを失くしたんだな?」

 驚いた。どうしてそんなことまでわかるんだろう。

 小さい頃に祖母から貰った御守りである。祖母の形見と言ってもいい。神社で貰えるおみくじのように小さく折り畳まれた紙で、糊付けしてあるために中は開けず、表紙の梵字以外は何が書かれているのかわからなかった。

 ずっと小銭入れの中に大切に仕舞っていたのに、今朝満員電車で財布ごと落としてしまったのだ。駅係員に連絡しようとも思ったが、財布には御守り以外に持ち主を特定できる物が入っていなかったので、美雨は届け出ることもせずに諦めていた。

「どこで手に入れたのか知らないけれど、幽霊を惹き付ける体質を持つ君をこれまでずっと守ってきたものだ。かなり強力な護符だったんだろう。それを失くしただって? 莫迦だろ、君」

「な、な、ばかって、」

「莫迦に莫迦と言って何が悪い。御守りを失くしたせいで幽霊に襲われたんだよ。そのことをしっかりとその足りないオツムに書き込んでおくことだ。いいね?」

 なんという口の悪さ。唖然とする美雨を尻目に、行幸は苛立たしげに頭を掻いた。

「まったく、面倒なことになったもんだ。とりあえずここから出ようか。こんな場所に居るのは性に合わない」

 行幸に急かされて、非常口の近くに居た美雨から先に扉を開けて入る。

「あ、あれ?」

 局の通路に入った途端、視界が回った。足許からすーっと力が抜けていく。

「あれれ?」

 踏ん張りが利かず後ろに倒れ込むと、行幸に片手で支えられた。

「す、すみません。で、でも、何でか力が入らなくて」

「御守りのおかげでこれまで遠ざけられていたものをいきなり浴びせられたんだ。驚きもするし体力も消耗する。腰に力が入らなくなるのも無理はないよ」

「どうしよう。これから収録なのに」

 つばさも今頃美雨がいなくてイライラを募らせていることだろう。――ああ、後でまた怒られるんだろうなあ。年下に怒られるのって結構辛いんだけどなあ。

「収録だって? 命が懸かっているのに悠長なことだ」

「へ?」

 命って?

「君は早退するんだよ。僕から君の事務所に連絡しておいてやるから仕事のことはこれ以上考えるな。また奴らに襲われても知らないぞ」

 行幸の声音は真剣そのもので否やを口にするのは躊躇われた。

「歩けるかい?」

 どうにかして足腰に力を込めるが、体重を預けた行幸の手から背中を離すことができない。行幸は、仕方ない、と言いつつ美雨を無造作に抱え上げた。

「ひゃあ!?」

 お姫様だっこ――ではなく、小脇に荷物を抱えるようにして。

「小さくて軽いから助かるよ。……こら、暴れるんじゃない!」

「だ、だってこれ!? こんなっ、まるで子供扱いみたいにっ!? 嫌です!」

「黙っててくれたら荷物扱いしてやるよ。物は喋りもしないし暴れもしないからね。優しく丁寧に運んでやるさ」

「……もし喋ったり暴れたりしたら?」

「引き摺る」


 その日、テレビ局内の一部がざわついた。トップアイドルの初ノ宮行幸が女の子を脇に抱えて地下駐車場に下りていくのを数十人の社員が目撃したのである。女の子はぐったりとして微動だにせず、まさか児童誘拐か、もしや自前のダッチワイフか、としばらく下卑た噂が飛び交った。

「ぐふう……」

 女の子がさめざめと泣いていたことには誰一人として気づかなかった。