そのとき考えていたのは「トイレ掃除がしたい」ということ。

 会社の引っ越し中だった。二十八歳の誕生日が目前だった。

 冷房の風が埃を巻き上げるなか、あふれる書類や機材の山に飽いた同僚たちが「いっそ火をつけてしまえばいいよ」と物騒なジョークをかわすのを聞きながら、わたしは自分のマンションのトイレに想いを馳せていた。

 これが終わったらトイレ掃除をする。指をすべらせたら陶器の縁に光が散って、ふたのうえで誕生日ケーキが食べられるくらいピカピカにする。ぜったい、に。

 そんなことを思いつつデスクで機材を段ボール箱に突っ込んでいると、「彼が新しく入ったバイトだよ」というチーフの言葉と、そしてだれかの声が聞こえた。

「はじめまして。才式樹々です」

 わたしは手を止めた。知っている名前だった。聞き覚えのある声にも思えた。とっさにふり返って彼を目にしたとたん、体が凍りついた。

 初めて会ったのが五歳。次が十歳、最後に会ったのが十五歳。あのときとなにひとつ変わらない姿で彼は立っていて、そして、

(……かぐみ)

 眼鏡の奥の瞳でわたしを見つけて、唇だけで名を呼んだ。



第一章  幸せの庭


 わたしにとって世界でいちばん幸せな場所は、祖母の家。

 場所は千葉県、外房線の線路沿いに建つ築六十年を超えた二階建ての古民家だ。

 一階は部屋が六つとお茶の間と土間付き台所と、庭に面した縁側。二階はわたしの自室の六畳半と、納戸代わりの部屋がふたつ。広くて部屋数も多く、造りはしっかりしているが、経年による汚れと翳りがいたるところに染み付いている。

 でも緑の庭の向こうは、海。踏切を挟んで、ほんの五十歩の距離。

 幼いころ、よく縁側に布団を敷いて寝た。春には鳥のさえずりで目を覚まし、夏には肌を刺す陽射しで目を細め、秋には肌寒さに毛布を巻きつけて起き上がり、冬には暖かな羽毛布団から首を出して、掃き出し窓から朝陽に輝く庭を眺めた。

 やわらかな黄緑色の新芽、水気を含んで揺れる青い梢、黄色と赤に大地を彩る落ち葉、裸の梢を冬空に広げる木々……。

 生命の輝きが増す姿と、生命の気配が消えていく光景を、庭は見せてくれた。

 そのすべてに、潮騒があった。

 子守歌みたいに静かな凪のときも、嵐の前の不穏な静けさのときも、音だけですべてを壊すような嵐のときも、波音はいつだって日々にあった。

 あんなに美しい場所を、わたしはほかに知らない。いつ思い出しても、あの家で過ごした幼い日々は、独りの夜にそっと開く大切な本のようだ。

 その幸せな家で、わたしは樹々に出会った。五歳のときだった。


「……君は、ここの家の子?」

 縁側で絵本から目を上げると、葉陰にひとりの青年が立っていた。

「お家のひとはいますか」

 彼はまた尋ねた。わたしはぽかんと口を開けて見上げたままだった。

 なんて綺麗なひとだろうと思った。幼い目にも、ほんとうに綺麗に映った。

 淡い木洩れ陽を受ける繊細な作りの顔立ち。首筋と肩回りは意外にしっかりしているのに、その上に載る顔はダークブラウンの巻き毛に縁取られて、夢のように綺麗だった。クラシカルな黒いフレームの眼鏡も上品で、かしこそうだった。

 そのとき読んでいた絵本は『幸福な王子』で、だから素直に彼は王子様だと思った。彼の願いのために、ツバメが生命を賭けるにふさわしい王子。

 そして、不思議なほど沈んだまなざしをしていた。

 同い年の子の父親よりあきらかに若いのに、色々なものを見てしまったから、どんな感情も沸き立たせることができなくなった老成者の目。もちろん、五歳のわたしがそこまで見通せたわけがない。それから何度か会って、気づいた結果。

「そうか、ごめん。僕は樹々といいます」

 わたしが答えないから警戒されていると思ったのか、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。その表情が、なんだかとても愛嬌があった。

「かぐみ。みかみ、かぐみ!」

 わたしも答えた。祖母に習ったとおり、はきはきと元気よく。

「かぐみって、ときじくの、なんとかのみから、つけたんだって」

「ときじくの……ああ、非時香木実のことだね、かぐみ」

 彼はわたしの名前と、由来をくり返した。

 優しい声だった。葉ずれの音か雨音か、遠い潮騒にも似た静かな響き。初めてなのに懐かしい温度を持って、わたしの鼓膜をそっと震わせた。

「常世の木の実だ。口にしたものに不老不死をもたらす」

「フロウフシ?」

 五歳のわたしにはむずかしい言葉だった。彼はいい直した。

「永遠、という意味だよ。ずっと、変わらないことだ」

「えいえん……」

 そうだよ、と彼はうなずいて目を細めた。眼鏡の奥の老いて疲れた目に、ほんの一瞬、ほのかな火にも似た感情がよぎった気がした。

「君の名前には、〝永遠〟がある」


      ◇


「……けっこん」

 間の抜けたわたしの声が、部屋の低い天井に響く。

「はあ、亜沙子がけっこん……なんで結婚……けっこんなんで……」

「ちょっと、一晩中くり返すつもりか」

 ぐいと亜沙子に肘で押しのけられて、けっこ、までいいかけて呑み込む。

 わたしの友人、亜沙子。同学年の同い年で今年二十八歳。

 勝浦の祖母の家に住んでいたころの幼なじみだ。小学校五年に上がる間際、亜沙子が家庭の事情で近所の親戚の家に引っ越してきて、中学二年まで一緒に過ごしたあと、また引っ越していってしまったけれど、お互い就職してから東京で再会した。

 それぞれ仕事の合間を縫い、月に二、三度はどちらかの部屋へ泊まり込んでいる。土曜の今夜は久しぶりに会い、外で食事したあとわたしの部屋に来た。

 幼いころから夢見がちでマイペースなわたしと違い、彼女は口と手から先に動くタイプだった。口達者で喧嘩っ早い彼女をなだめるのがわたしで、放っておかれれば独りで空想にふけるわたしを、世界に引き合わせてくれるのが彼女だった。

 正反対なのに、正反対だからこそ、わたしは彼女が大好きだ。

「子どもができたから結婚する。ありがちなシンプルさだよ」

 亜沙子は口寂しいのか、下唇を引っ張りつつ答える。そういえば、さっき食事をしたイタリアンレストランで、スモーカーの彼女が一本も吸っていなかった。

 はあ、とわたしはベッドの上で膝を抱えて吐息する。

「相手はやっぱり、タカシくんよね」

 タカシくんは亜沙子の彼氏だ。正直、褒められた素行のひとじゃない。

 バイトを掛け持ちして、すこしでもお金が貯まるとふらりと中央アジアや東南アジアに旅に出て、数ヶ月も帰らない。年の半分以上はバックパッカーとして暮らしていて、日本にいるときは亜沙子のマンションに転がり込んでお金も入れない。

 だけど呑気で気がよくて、陽焼けした笑顔が気持ちいいひとだった。

 亜沙子の家に遊びに行くと、彼は旅先で覚えた謎の料理を作ってくれる。辛くて甘酸っぱくてパクチーが山盛りで、多彩な味が後を引いてもっと食べたくなる。

 世の中には、暖炉の火みたいなひとがいる。世間の常識から外れたひとだけれど、亜沙子がタカシくんを好きな理由が、わたしにはよくわかる。

「向こうから結婚しようっていってきたからね。逃げるかと思ったのにさ」

「逃げるひとじゃないでしょう、タカシくんは」

「逃げないけど、そばにはいてくれないよね。きっと」

 見えない煙草があるように、亜沙子はまた指で下唇を挟んで引っ張った。吸ってもいいよ、といいかけて、もう彼女ひとりの体ではないと思い返す。

 亜沙子のお腹に目をやる。生命が発芽しているなんて思えない、ぺたんこのお腹。とても弱々しい芽なのに、もう親の行動を左右している。

「問題はあんただよ、香実。ていうか、相変わらずこの部屋すごいわ」

 マットレスの上であぐらをかくと、亜沙子が部屋を見回して嘆息した。

「この混沌から、どうやって出社できる格好になるわけ」

 まったくそのとおりでわたしは言葉がない。

 まず、脱ぎ散らかされた衣類で床が見えない。壁際には積み重なった雑誌の山、ローテーブルの上は領収証やDMや読みかけの本で埋まり、台所はミネラルウォーターのペットボトルでぱんぱんのゴミ袋がいっぱい。

 つまり、足の踏み場どころか手の置き場もない。わたしたちがベッドの上に座っているのは、ゴミに追いやられた結果なのだ。

 その代わりユニットバスはピカピカで、排水口には髪の毛一本もない。

 毎日綺麗にしているから、激務と部署の引っ越しで珍しく午前様が続いて掃除できなかったここ最近は、いつも以上に落ち着かなくて居心地が悪かった。

 自炊しないから腐るような生ゴミはない。ミニ冷蔵庫には調味料すら入っていない。せいぜいミネラルウォーターのペットボトルくらい。

 いい訳させてもらえれば、料理や掃除ができないわけではない。高校生まで過ごした祖母の家では、ちゃんと担当していた。就職して、会社近くのここに引っ越して六年近く過ぎたけれど、どうしても〝生活〟をする気になれなかったのだ。

 窓を開けても隣のビルの壁しか見えない、車の音ばかりが響くこの場所では。

「あたしはいいけど、仲良くなりたい相手はちょっと呼べないんじゃない」

 意地悪な目でわたしをにらんで、亜沙子はいった。

「それで、初恋の彼と再会したってほんと」

「え、っと」

 とっさに返事ができない。亜沙子に話したくて呼んだはずなのに、いざ問われると、どう話していいのか言葉に詰まる。それに樹々が祖母の家を訪れていた年は、亜沙子と過ごした時期とかぶっていなかった。

「初めて会ったのが五歳だっけ。だったらもうだいぶおっさんじゃん?」

 どう答えていいのか、わたし自身この目で見たのにまだ信じられない。

 最初に会ったときと、最後に会ったときと、そして昨日会った彼。

 そのどれもがなにひとつ変わっていなかったなんて。しかもいまは、向こうのほうが年下に見えるなんて。どこを探したってリアリティの欠片もない。

 金曜日、埃だらけの職場で再会したあと、彼との会話はなかった。引っ越しが大詰めでそれどころではなかったせいもあるけれど、わたしが避けていたからだ。

 だってなにを話せばいい? 久しぶり、ぜんぜん変わってないね、とか?

 常套句がそのままの意味になって笑いにもならない。

「いや、その、ほんとうに彼か……自信がなくて」

「名前は一緒だったんでしょ。向こうは気づいたの?」

「はっきりいわれたわけじゃないもの」

「でもさあ、いくら初恋の相手でもおっさんでバイトでしょ? って、フリーターと結婚するつもりのあたしがいうなって話だけど」

「べ、べつに、どうこうなろうってつもりは」

「ふふん、照れてる?」

 うろたえるわたしを見て亜沙子は嬉しそうに笑った。

「まあ進展するもしないもあんた次第。もうそれなりの歳だしさ」

「そうだよ、もう二十八だよ、それもあと一週間もないもの」

「あたしはまだ三ヶ月猶予あるけどね」

「たった三ヶ月じゃない」

「三ヶ月は大きいってば。ねえ、次の週末ちゃんとうちに来てよ。誕生日お祝いするからさあ、タカシも張り切ってアジアン食材屋に通ってるし」

 くすくす笑う彼女の細い肩を、わたしは昔を重ねながら見つめる。

 幼なじみで同い年。長い付き合いで一番の大事な友だち。

 亜沙子といると気兼ねがない。なにをしても無駄な気遣いなんか要らない。だから貸し借りがない。貸し借りがない関係は自由で、居心地がいい。それは歳を重ねても変わらない。わたしたちの仲だけは、ずっとこのまま変わらない。

 そう思っていた。……そんなこと、あるはずがないのに。

「あーあ」

 わたしは亜沙子の肩にあごを載せて、吐息した。

「亜沙子に、わたしを産んでほしかったな」

「なにそれ。笑うわ、香実のドリーム」

「じゃあ、来世は亜沙子のタカシくんになる」

「やだ、あんなダメ男にならないで。香実のまま、彼氏になってよ」

 わたしたちは笑った。笑いながらも、寂しさに胸がふっと空洞になる。

 みんな変わっていく。亜沙子だけじゃない、ちょうど一年前の夏に祖母が亡くなって以来、わたしを置き去りに周りはどんどん変わってしまった。

 祖母を見送り、想い出の多い家を閉ざして逃げるように東京に戻ったとたん、おなじ部署の心酔していた先輩と、アシスタントの後輩がそろって退職。

 直後に社内でリストラの嵐、部署の再編成、次いで会社の引っ越し。

 そして樹々との再会、亜沙子の妊娠と結婚と、まるで防波堤だった祖母がいなくなったとたん、怒濤が押し寄せてきたみたい。

 なのに、わたし自身は変わらない。すべてがどこかへ根こそぎ流され、自分ひとりだけぽつんと置き去りになって、干上がった池でぼう然としている心地。

 わたしは目を閉じた。亜沙子は隣にいるのに、独りぼっちのように心細かった。

 だが、このときわたしはまだ気づいていなかった。

 樹々との再会だけが、わたしを置き去りにしていく変化ではなく、わたしを変えてくれる変化なのだということに。


 週明けの月曜日、今日からわたしが勤める広告代理店は浜松町へ移転した。

 以前は丸々ビルを借りていたが、都心とはいえ今度はワンフロア。社員百人にも満たない中堅規模の会社だから、これが分相応だろう。

 エレベーターで上がり、社員証でフロアのロックを解除して入室する。なかは業者が運び入れた段ボール箱でいっぱいで、ひと気はない。いつもはギリギリに出社だけれど、今日は一時間早く起きたから一番乗りのようだ、と思ったとき、

「おはようござ……うわあっ」

 大きな声とともに積まれた箱の一角が崩れて、わたしは飛び上がった。

「うー、うわ、お、重っ」

 どうやら一番乗りじゃなかったらしい。そしてどうやら一番乗りのだれかが、間抜けなことに箱の下敷きになっているらしい。

「だいじょうぶですか……って」

 駆け寄って箱を押しのけると、仰向けに倒れる青年が現れて手が止まる。

 彼だ。〝樹々〟だ。

 わたしは息を呑み、床に手をついて身を起こす彼を見つめる。

 樹々。想い出の彼。五歳のとき、十歳のとき、十五歳のとき、そして金曜日の再会。いつのときと比べても、目の前の彼はどれもおなじ顔をしている。

「す、すみません。ふり向いた拍子に肘が箱に」

 彼はズレた眼鏡を直そうとしたが、すぐにぽろりと外れる。

「あの、それ……折れてるみたいですけど」

「えっ、ああ、しまった」

 ブリッジがぽっきり折れた眼鏡を拾い上げ、彼はぼう然とつぶやく。

「困ったな……真っぷたつだ。これじゃ、仕事が」

「眼鏡ストアに持ち込んだら、直せませんか」

「近くにあるんですか? 場所は?」

「ごめんなさい、よく知らなくて。スマホで検索してみては」

「うーん……だけど、行ってもすぐ直してもらえるとは限らない。それにこのフレームは特別だから、取り寄せは確実です」

 彼は眉を寄せると、いきなり早口でしゃべり始めた。

「この型は典型的なウェリントンなんですが、イギリスのメーカーで輸入業者は日本に一社だけなんです。しかも個人業者だから在庫の数にも限りがあるし、発注しても気まぐれで発送も遅れがち。だから最低でも一ヶ月はかかるわけで」

「えっと、つまり?」

「あー、つまり仕事にならないってことで……そうだ」

 ぱっと彼は明るい顔になった。

「セロテープかガムテープがあれば応急処置ができますね!」

 このひと、なにいってるんだ。

「まあ……うん、たしかに。でもまだ、なにもかも箱のなかですから」

「あっ、そうだった。そうでした」

 見るからにしょんぼりと彼は眉と肩を落とした。綺麗な顔立ちなのに、そうするととても残念に見えて、わたしはつい吹き出しそうになる。

「これ、よければどうぞ」

 わたしは肩掛けバッグから絆創膏を取り出す。企画書や仕様書をコピーするとき、たまに紙で指を切ってしまうから、常備しているのだ。

「応急処置。ガムテやセロテープを探すより早いでしょう」

「ああ、ありがとうございます!」

 彼はブリッジを絆創膏でつなぎ、耳にかけて満足げにうなずいた。

「よし、完璧です」

 ついにわたしは吹き出す。

 まったく完璧じゃなかった。つないだフレームは左右ズレてるし、ぐるぐる巻いた絆創膏は不格好だし、まったくかっこ悪い。モデルか俳優みたいに綺麗な顔をしているのに、こんな眼鏡のせいで、愛嬌はあっても情けなさのほうが勝っている。

「うーん、一秒でも早くフレーム直したほうがいいと思います」

「だめですか?」

 はい、とうなずくと、また彼はがっくりうなだれる。そんな様子にまた笑いがこみ上げる。笑いを抑えつけながら、改めて彼を観察した。

 樹々は、わたしの初恋の彼は、こんな面白くも情けない感じだったっけ。

 よく見ると、首筋や肩回りが細くて胸板も薄い。そういう未発達さが、いかにも少年期を脱したばかりの二十歳そこそこに見えた。

 昔はもっと大人に思えたのに。格好よくて頼りがいがあったのに。それはわたしが子どもだったから? あるいは想い出補正というやつ?

 そして、わたしをまったく覚えてないような態度と反応。

〝……かぐみ〟

 再会したときの唇の動き。あれはたしかにわたしの名を呼んでいたのに。

 他人の空似とは思えない。でも、思い切って確かめることができない。

 もしも忘れていたら? わたしの名を呼んだのが錯覚だったら? 再会を喜んでいるのが、わたしだけ……だったなら?

「いつもこんなに早いんですか」

 ふいに訊かれて、はっとわたしは我に返った。

「いえ、今日はたまたまです」

 あなたに会うのが怖くて。先に出社すれば、心の余裕ができると思って。なんて答えられるはずがなくて、だから逆に問い返す。

「樹……才式さんこそ、どうしてこんなに早く?」

「仕事がありましたから」

「仕事? このビルに越したばかりで、いったいなんの……」

「おはよぉ。あれえ、香実ちゃん今日はやけに早いなあ」

 同僚が部屋に入ってきて、あくび混じりで声をかけた。

 彼はわたしとおなじメディアコンテンツ部で、おなじくWEBデザイナーの西崎さん。テクニカル系の作業も得意で、サイト構築からコーディングまでこなすオールラウンダー。人員が減ったせいで最近はアプリ開発にも携わっている。おかげで作業は山積みで、ほぼ会社に泊まり込みの日々だ。

 わたしも以前はそうだった。だけど、そんな働き方はもうやめた。

 祖母が亡くなり、高月先輩も……いなくなったから。

「おはよう、西崎さん」「おはようございます」

 わたしは気さくに、樹々は慇懃にあいさつをする。

「おはよ。才式くんまで早いんだなあ」

 そういって、ふわあ、と西崎さんはあごが外れそうな大あくびをした。

「西崎さん、まさか引っ越ししたばかりなのに泊まり?」

「そ。土日から寝袋で。三日風呂入ってないからさあ、顔はいま洗面所で洗ったけど、これから近くのシャワールームでシャワってくる」

「帰らなくていいんですか。お子さん生まれたばっかりなのに」

「それそれ」

 溶けそうなまぶたで、西崎さんは首を振った。

「新生児なんて寝てるばっかりでさ。向こうのお義母さんも来てるから、俺はいてもやることないし、邪魔者でしかないよ」

「でも、お義母さんもいつまでもいてくださるわけじゃないでしょう」

 亜沙子のことを思い出し、ついいわなくてもいいことを口にしてしまう。

「やーめてくれ、ウチの奥さんとおなじこと」

 西崎さんはごしごしとこめかみをこする。

「〝忙しい〟がステータスの国じゃ、ワーク・ライフ・バランスなんてとうてい無理だよなあ……けどさあ、この案件の目処が立たなきゃ」

「新規アプリのUIデザイン案、できてます」

 樹々の声が挟まれ、わたしと西崎さんはそろってふり返る。

「もう? ていうか、実力見るために試しで振ったんだけど」

 西崎さんはあくびを引っ込め、樹々のデスクをのぞき込む。いつの間に出したのか、私物らしきタブレット型パソコンが置いてあった。

「いいねえ。導線がわかりやすいし、使いやすそうだ」

「ありがとうございます。なにか修正があればすぐに」

「金曜日に頼んで、まさか本格業務開始前にできるなんてなあ。下案にできりゃラッキーと思ってたからさ。これをもとに最終仕様書作ってチーフに承認取るから、データ送って。社内のネット回りは土日にもう開通してるから」

「はい、いま送りました」

 樹々はタブレットの上で指を滑らせる。すぐ送れるようにしてあったらしい。

「有能だなあ、眼鏡は変だけど。壊れてんの? ファッションなの?」

 おかしそうに指差して、西崎さんは笑う。

「人員減って戦力ガタ落ちだったからさ。才式くんのおかげで助かりそうだわ」

 そういうと、西崎さんはシャワーに行ってくるとふらふら出ていった。

 ふたりきりで残されたので、わたしはそっと彼に尋ねてみる。

「金曜日に作業振られてもうできたんですか。土日も出て?」

「いえ、金曜日にだいたいのラフを作って、仕上げは自宅でやりました」

 彼は頭をかいて答える。だったら実質たったの一日だ。

 タブレットをのぞいてみると、たしかによくできていた。

 デザインは基本的にセンスの前に理論で構築するものだけど、さらに上乗せしてユーザーに届けるにはやはりセンスがものをいう。UI……ユーザーインターフェースと並んでよくいわれるUX――ユーザーエクスペリエンス、つまり使うひとの興味を誘って体験させて、心地よい使用感で継続させるには、そのセンスが大事だ。

 樹々のデザイン案は〝使ってみたい〟と思わせる楽しさにあふれていた。その辺り、わたしはあまりいい結果を出せたことがない。

〝真面目すぎてセンスがないんだよ、三上は〟

 もう二度と聞くことがないのに、その声は脳内でたやすく思い出せた。

「才式さん、経験者だったんだ」

「ほんのすこしだけです」

 照れくさげに彼は答えたが、わたしはちょっと悔しい想いでつぶやく。

「あなたの指導を任されてるけれど、教えることなんてなにもなさそう」

「でもこれは、企画書がよかったんですよ」

 意外な言葉でとっさに返事に詰まると、彼は続けた。

「だから短期間でデザインがしやすかった。丁寧で、いい仕事です」

 企画書は画面設計に入る前段階に必要で、たいていわたしの作業だ。

 クライアントから要望を明記した提案依頼書がもらえれば話は早いが、だいたいは口頭で漠然としたものを告げられる。その場合、向こうにヒアリングして仕様をビジュアル化した書面にする。大事な作業でもやって当たり前の仕事で、評価されたことなんてほとんどない。だから褒められて、つい、頬が赤くなった。

「それなら……よかった」

「ああ、そうか」

 樹々の声のトーンがすこし変わった。

「作成したのは、あなたなんですね」

 わたしは思わず顔を上げる。彼は笑みをたたえてまっすぐに見つめていた。

 その笑みに胸が痛む。ほんとうに彼は……〝樹々〟は、昔となにひとつ変わっていない。整って奥行きある顔立ち。引き込まれるような明るい色味の瞳。改めて見ても美しい作り。綺麗すぎて真実とも現実とも思えない。

 綺麗なものには不思議な清潔感がある。彼が着ている手触りのよさそうなシャツも、朝の光を受けるなめらかな肌も、夏の早朝にも似た清々しさがあった。

 幼いころ、木陰に現れる彼の姿をわたしはずっと待ちこがれていた。樹々の訪れは、潮騒の響く緑の庭を、さらにあざやかに彩ってくれた。

 体の陰でそっとこぶしを握る。訊いてみようか、と思う。

 最後に会ってからいままで、どんなふうに過ごし、どう生きてきたのか。これまで、どこでなにをしていたのか。ほんとうに、ずっと変わらないひとなのか。

 間違いなく、わたしの、大事な初恋の彼なのか。

「あの、ありがとう」

 照れくささと嬉しさと、勇気を出すためにわたしは目を落とす。

「退社した高月……先輩に叩き込まれたの。すごく優秀な先輩で、わたしを育ててくれて、ずっと尊敬してた。辞めてしまって残念だった、けど」

 高月先輩の名前を口にして、一瞬気分が沈んだけれど、すぐさま気持ちを切り替えて声を明るくしていった。

「よかったらランチでも、どう? あなたの都合のいいときに。会社のことや仕事のことだけじゃなくて、色々と話したい。その」

 しどろもどろになる声を呑み込み、いい直す。

「せ、せっかく、久しぶりに会えたんだしね。だから、ええと……」

 勇気を奮い起こし、思い切って目を上げて尋ねる。

「樹々。わたしのこと、覚えててくれた?」

 じっと彼の目を見つめて、わたしは胸をどきどきさせながら答えを待った。期待と、喜びが、痛いくらい鼓動を速くさせていた。

「……いえ」

 けれど、その期待はあっさりと裏切られた。

 彼はふいに目をそむけ、申し訳なさそうにわたしにいった。

「すみません、覚えがないです。あなたとは……ここで初めて会いました」