地獄だとしたらあまりにカラフルで能天気な、天国だとしたらずいぶん雑多で圧迫感のある場所だな、と目を覚ました琥珀は、まだアルコールが抜けきっていない頭でぼんやりと思った。

 天井に吊ったベビーメリーがクルクルと回り、赤、ピンク、青、黄、緑の玉と、その先にぶら下がったウサギ、クマ、ネコ、イヌ、ゾウが激しく追いかけっこをしていて、視界が騒がしいことこのうえない。

 首を動かしてみれば、積まれた本や段ボール箱、無造作に置かれた植木鉢、壁に掛けられた絵画やオーナメントが目に入ってきた。

 病院でないのは明らか。

 でも、地獄でも天国でもなさそうだ。

 琥珀は中学校の卒業式が終わると、写真を撮ったり抱き合ったりするクラスメイトの間を透明人間のように通り過ぎて、人気のない海辺に行ったのだ。

 死ぬつもりで。

 冷たい海風に吹かれながら、予め買っておいたカップ酒と睡眠導入剤を学生鞄から取り出し、薬を酒で飲み、カッターで左手首を切った。

 で、地獄にも天国にも行けなかった自分は、どこに辿り着いたのだ?

 ずいぶんと乱雑にいろいろな物が積み重なっているところ……、整理されていない物置小屋?

 ただでさえ頭がクラクラするのに、視界の暴力がさらに拍車をかけて、眼球の奥が痛む。

 耐えられなくなり瞼をぎゅっと閉じて遮断すると、視覚が消えたぶん、聴覚が敏感になった。

 遠くで誰かが話している。

 ――今日はすごいものを拾ってきたんだ。

 ――すごい? どうせ変なものでしょう。あまり大きなものは困るから。

 二人。どちらも男。大人。

 やがて近づいてくる足音が聞こえてきた。

 ドアの向こうに人の気配を感じると同時に、カチャリとドアノブが鳴った。

 琥珀は身を固くして、恐る恐る目を開けてドアのほうへ顔を向けた。

 ドアから現れたのは白衣を纏った背の高い男で、琥珀を見て彫りの深い顔に驚きを浮かべた。

「おや、起きている」

 男は琥珀のそばに寄ってしゃがみ込み、さも珍しいものでも見るように目を見開いて輝かせる。

 琥珀のほうは大きな男に上から覗かれるように凝視されて、恐怖で動けないまま相手の顔を見返す。

 赤毛の髪をゆるく一つに束ね、青い目をした男は四十歳ぐらいに見える。彫りの深い顔は明らかに日本人ではない。そのことがさらに恐怖を増す。

 お互い目を大きくしたまま見つめ合うこと十数秒。

 先に動いたのは男のほうだった。青い目を細めて、無邪気な笑顔を浮かべる。

「すごい、すごい。すごいもの拾っちゃった」

 しゃがんだ膝の上に置いた手が、ソワソワと触りたそうに変な動きをしている。新しいオモチャを手に入れた子どもが、はしゃぐ心を一生懸命抑えているように見えた。

 今すぐ危害を加えられるようではないと、琥珀は少しだけ緊張を解いた。

 背が高いだけではなく、筋肉があり逞しい体形をしているのが白衣越しにもわかる。

 彼が琥珀をここまで運んできたのだろうか。助けてくれた……のかどうかは怪しい。本当に助ける気なら、病院に連れていくはずだ。

 いや、白衣を着ているから、彼は医者なのかもしれない。だとしたらやはり自分を助けてくれたのだろうか。

 しかし、医者なら目をキラキラさせて患者を見下ろしたりしないだろうし、脈や熱を測る様子もない。

 流暢な日本語を話しているが、顔立ちはどう見ても西洋人。

 男はとうとう我慢できなくなってウズウズと動かしていた手を止めて、そっと右手の人差し指を琥珀の顔に近づけてきて、ちょっとためらった後、ツンと頬を一度突いた。

「話せる? 話せないの?」

 男が首を傾げる。

「変だな。日本語通じない? あ、チャイニーズ? コリアンかな? ニーハオ。アンニョンハセヨ」

 それでも琥珀がなんの反応も見せないので、ますます男の首が傾く。

 部屋の外から新たな男の声が聞こえてきた。

「なにに話しかけているの? 人形やぬいぐるみでも拾ってきたんですか?」

 二人目の男が部屋に入って来た。部屋の中でもパーカーのフードを被って、顔は半分隠れているが、声からして白衣の男よりもきっと若い。

 パーカーの男は白衣の男の後ろに立ち、琥珀を見て息を呑む。そして、いきなり白衣の男を蹴り倒すようにのけ、代わって自分が膝をつき、琥珀の顔を覗き込む。

「突然ひどいな。痛いじゃないか」

 ゴロンと部屋の隅に転がった白衣の男が、蹴られた腰のあたりをさすりながら体を起こす。

「人間じゃないか! 拾ったって、倒れていたの? 顔色が悪い。救急車呼んで!」

 琥珀はとっさに毛布から腕を出してパーカーの袖を掴んだ。

「ダメ!」

 自分でも驚くほど大きな声が出た。

 白衣の大男も、袖を掴まれたパーカーの男も、驚いた表情で琥珀を見つめた。

「あの、大丈夫です。大丈夫ですから、救急車とか、やめてください。帰ります」

 琥珀は上半身を起こして言った。いきなり体を動かしたせいか、それともアルコールが残っているせいか、グラリと頭が揺れる。

 倒れそうになる背中を、パーカーの男が支えた。

「わかった。でも、もう少し休んだほうがいい」

 そう言って、パーカーの男は琥珀を再び寝かせると、白衣の大男を引きずるようにして部屋を出て行った。

 耳を澄ませて、二人の男たちが出て行ったドアを見つめる。足音は遠くなり、やがて消えたが、そのまま用心深く聴覚に神経を集中させる。

 どうやら救急車を呼ぶ気配はないようだ。

 強張らせていた体の力を抜くと、すぐに睡魔に攫われた。


 琥珀が再び目覚めると、強烈な喉の渇きを覚えた。

 起き上がってみると、枕元に水差しとグラスが置いてある。

 水は生温かったけれど、味は透き通っていて、とても美味しく感じた。水を飲むと、頭も気分もずいぶんとすっきりしてきた。

 カーテンの隙間に浮かぶ満月に近い月を見つめて、今何時だろう、この家でどれくらい寝ていたのだろうと考える。

 最後の記憶は、海に沈んでいく夕日を、アルコールが回った頭でふわふわと少し幸せな気分で眺めていたこと。

 その後すぐに気を失い、赤毛の大男に連れて行かれたのだろうか?

 喉の渇きが癒えたら、今度はトイレに行きたくなった。

 そっと床から抜けだして、ドアを開けた。

「うわ……」

 目の前に広がる廊下には、琥珀が寝ていた部屋と同様、いろいろな物が積み重なっていた。幅二メートルあるはずの廊下が、溢れる物によって半分の一メートルほどの狭さになっていた。

 同じようなドアがほかに三つ、廊下の先に下り階段があった。

 ギシギシと鳴る階段を降りていくと、大きな玄関が目の前に見えた。古い引き戸の玄関扉は木製で、とても年季が入っている。上り框から二十センチほど下がった土間には、革靴やスニーカー、長靴、サンダルなど男物の靴が七足並べてあった。通常サイズと、琥珀が初めて目にする大きなサイズ。きっとこの家は、さっき顔を見せた背の高い白衣の大男と、パーカーを着た青年の二人暮らしだ。

 隅っこに、琥珀の汚れた学生靴がちょこんと置いてあった。擦り切れた革靴が可哀相なぐらい小さく見えるのは、周りに大きな靴があるからだろう。琥珀は情けない思いで、皺々になった制服のスカートに目を落とす。

 薄暗い玄関に背を向ければ、短い廊下の先にぽっかりと空いた明るい空間が見えた。

 忍び足で廊下を進み、太い柱に体を寄せて覗き込めば、すべてデザインが違う四つの椅子とテーブル、その向こうにカウンターキッチンが見えた。

 ダイニングは明るくて紅茶の香りがしたが、誰もいない。

 琥珀がためらいながらダイニングに足を踏み入れると、左足首に生暖かい物が触れた。

「きゃっ!」

 思わず悲鳴を上げて跳び上がる。

「ミャア」

 視線を下げると、黒猫が興味深そうに金色の瞳を光らせて琥珀を見上げていた。

「あ、起きたんだね」

 声がするほうに視線を移せば、ダイニングから続くリビングのソファに座ったパーカーの彼が、琥珀に顔を向けていた。

 彼は立ち上がって、視線を琥珀から黒猫に移す。

「シュヴァルツ」

 名前を呼ばれた猫は彼のほうへ顔を向けたが、すぐにまた琥珀を見上げる。

 近寄ってきた彼が腰を折って手を伸ばし、黒猫を抱き上げた。その反動で頭を覆っていたフードがするりと後ろに落ち、琥珀は驚いて彼の顔を凝視してしまう。彼は真っ白い髪と肌をしていた。サイボーグみたいだと思った。

「体調はどう? 気分は?」

 灰色の瞳が優しく微笑む。

 声をかけられて初めて、琥珀は自分があまりにも無遠慮に彼の顔を見ていたと気づき、慌てて視線を下げた。

「あ、あのっ、ト、トイレを借りてもいいですか?」

「もちろん。玄関から一番近いドアだよ」

 薄暗くて先ほどは気づかなかったが、階段を降りた近くにドアが二つ並んでいた。琥珀は教えられたとおり、玄関に一番近いドアを開けた。

「わぁ……」

 狭いトイレにさえ、わけのわからない雑貨が押し詰められていた。

 床にぬいぐるみや鉢があるだけでなく、便座に座って上を見上げれば、壁に取り付けられた棚に小さな壺や本、人形が収められている。摩訶不思議な空間に閉じ込められているようで、まったく落ち着かない。

 なによりも気になったのが、ドアにかけられていた『こども110番』のステッカー。普通は玄関や門など目立つところに貼るべき物。

 琥珀は、白衣の大男と、真っ白な若い男について考える。

 自分に危害を加える様子はないけれど、それだけに疑問が膨らむ。

 暴行や金品目的でもなく、なぜ自分をこの家に運んできたのか。

「……べつに殺されるのは構わないけれど」

 ため息交じりに呟く。もう苦しむのはいやだ。痛かったり、怖かったりするのはいやだ。苦痛なく、眠っている間に死ねるのならばいい。そのあとに臓器を盗られようが、いかがわしい撮影をされようが、死んでしまえば苦しみなんて感じないのだから。

 自分の吐く息に、まだ少しアルコールのにおいが混じっている。

 左手首には血の固まった傷。

 琥珀はトイレを出て、ダイニングキッチンへと戻った。

「ありがとうございました」

 猫を抱いてテーブルの椅子に座っていた銀髪の彼は、微笑みながら琥珀に尋ねる。

「お腹空いていない? スープとパンがあるよ」

「大丈夫です。お腹、空いてません」

 遠慮ではなく、本当にお腹は空いていなかった。それにまだ、アルコールがチクチクと胃を刺激している。

「じゃあ、なにか飲む? 紅茶、淹れようか。ジュースとかのほうがいいかな?」

 彼は琥珀の答えを聞く前に、カウンターキッチンへと向かう。

 琥珀と話したがっているのだ。琥珀がなぜ、酒を飲んでいたのか。気を失っていたのか。救急車を呼ばないでくれと言ったのか。その理由を知りたがっている。

 答えられぬまま立ち竦んでいると、ふいに冷たい風が部屋に入ってきた。

 風はダイニングから続くリビングのほうからだった。

 リビングにはソファとテレビ、ほかに棚が一つあるだけで、この家の中ではずいぶんとスッキリしている。そのリビングのカーテンが波打っていた。

 波打つカーテンの隙間から、白衣を着た赤毛の大男が現れ、琥珀を見て目を大きくする。

「おや、起きたのかい」

 琥珀はどう答えていいかわからず、小さく頭を下げた。

「博士もなにか飲む?」

 白い彼がカウンターキッチンの中から声をかけると、赤毛の大男は大股でリビングを横切ってダイニングのテーブル前にやってきた。

「ふむ。ではシャトー・ムートン・ロートシルトをもらおう」

「あるわけないでしょ。いつもの赤ワインだね」

 パーカーの男が冷たく言い放つと、大男が地団駄を踏みながら抗議する。

「気分の問題だ、気分の。吾輩が錬成したワイングラスに注いでくれれば、ロートシルトにも劣らない味に変化しているはずだ。それに」

 赤毛の大男は言いかけた言葉を呑み込んだ。琥珀の不審な視線に気づいたのだろう。実際、琥珀は彼の子どもっぽい態度に困惑していた。

 コホンと咳払いをすると、赤毛の大男は今度は芝居がかった紳士的な態度で琥珀に話しかける。

「さ、お嬢さんはこちらの椅子に座るといい。この椅子が一番座り心地がよいのだ」

 四つの中で一番肘掛けがしっかりしていて、座面部分にペイズリー柄のクッションが縫い付けられている椅子を引く。

 そして自身は透明なプラスティックでできた丸い椅子に腰を掛けた。ツルンとしたプラスティックのモダンなデザインで、琥珀の前に位置している。

 自分のために引かれた椅子を無視するわけにもいかず、尋問席に座る気分で腰を下ろした。

 きっと、いろいろ聞かれるのだろう。膝の上に置いた手が小さく震え始める。

「その汚い白衣は脱いでください」

 ワインボトルとワイングラス、マグカップを持ってテーブルにやってきた白い彼が眉間にシワを寄せると、赤毛の男は渋々と立ち上がって白衣を脱ぎ、リビングのソファへと放り投げた。

 丸められた白衣は残念な弧を描き、ソファの手前で落ちる。

 その間に、白い彼はワインボトルとグラスを大男の前に、マグカップを琥珀の前に置き、自分は琥珀の隣に座った。

 マグカップの中身はホットミルク。ふんわりとミルクとハチミツの甘い香りが漂う。冷たくなっていく指先を温めるように、そっとカップに手を添えて、琥珀は彼らの質問を待つ。

 赤毛の男は椅子に座り直し、ワインボトルを手に自ら酒を注ぐと、乾杯するようにグラスを掲げた。

「自己紹介をしよう。吾輩はヨハン・ゲオルク・ファウスト。この世でもっとも優秀な錬金術師だ。敬意を込めてドクトル・ファウスト、あるいはファウスト博士と呼ぶがいい」

 まったくの予想外な自己紹介に、驚愕と困惑の表情でアルケミストと名乗る男を凝視する。

 奇異な目を向けて唖然としている琥珀を置いてきぼりにして、自己紹介は続く。

「で、こっちは吾輩の最高傑作、今のところの最高傑作である人造人間の月読だ」

 来るであろう質問に怯えて冷たくなっていた手が、別の意味で冷えていく。

 隣に座る白い彼、月読に顔を向ければ、彼は困ったような笑顔を浮かべた。儚げな笑みは、まだ色が塗られていない美しいマネキン人形のようだ。

 奇妙な家の奇妙な住人。一瞬信じてしまいそうになる。が、心の中で琥珀は首を振る。

 もしかして、琥珀が知っているマンガに出てくるような錬金術師や人造人間とは違う意味なのかもしれない。日本でアイドルと言えば人気のある歌手やタレントを差すが、本来の意味は偶像であるように。

「ところでキミの名は? その制服、中学生だな」

 突然問われて、琥珀は狼狽えながら答える。

「あ、あたしは深見琥珀、です」

 うっかり本名を言ってしまったことを後悔する。

 尋ねた男は琥珀の後悔など知らず、頬に手を当てて眉間にシワを寄せて考え込む。

「ほう……。ふかみ、こはく。こはくとは聞き慣れない音だ」

 月読が真っ白い髪を揺らして、ファウストに顔を近づけて耳打ちするようになにかを告げる。するとファウストが表情を明るくした。

「なるほど。ベルンシュタイン。英語ではアンバーだな」

 ファウストが顎に手を当てて考え込む。

「Aから始まる音は力強くていい。しかも次にMやNが続くと、力強さにしなやかさが加わって、逞しくも優しい音になる。うむ。キミにはBから始まるベルンシュタインよりも、Aから始まるアンバーのほうが似合っている。Kから始まる琥珀もいいが、やはりAのほうがふさわしいと思う。キミのことはアンバーと呼ぶことにしよう」

 彼の講釈を琥珀はまったく聞いていなかった。

 悪い人ではないが、おかしい人なのかもしれないと不安に思う。

「ところでアンバーは、なぜアルコールを飲んで手首を切って倒れていたんだい?」

 ふいに恐れていたことを尋ねられ、琥珀の肩がビクンと跳ねる。

「それは、その……」

 今更誤魔化しても仕方ないかと、琥珀は正直に言う。

「もう、生きていたくないと思って」

 死のうとした、なんて言ったら、相手はどう反応するのだろう。

 呆れるのか、驚くのか、説教するのか。琥珀は俯いて彼らの反応に怯える。

 足下に寄ってきた黒猫、シュヴァルツが不思議そうに琥珀を見上げていた。

「ふむ。つまりアンバーは自分を捨てようとしたわけだ」

 ファウストは腕を組んで鷹揚にうなずき、それから白い彼、月読に向かって得意げに言う。

「ほら、彼女は捨ててあったんだ。だから吾輩が拾ってきても問題ないわけだ」

「問題ないわけがないでしょう」

 ファウストが小さく声を上げて顔を顰めた。

 ちらりと隣を見れば、月読が冷たい彫刻のような表情でファウストを睨みつけていた。

 月読は氷のような表情を解いて、琥珀に微笑みかける。

「もう遅い時間だから、家に帰るなら送っていこう。もし家に帰りたくないのなら、泊まってもいい。でも、家には連絡を入れておいたほうがいいと思うけど」

 優しげな表情の中に、琥珀の心を探ろうとする鋭さがちらりと見えた。

 家に戻るにも、ここに留まるにも、琥珀の実家にコンタクトをとるしかない選択。

 家には帰りたくない。でも、ほかに行く場所もない。

 黙り込む琥珀に、ファウストは妥協案もしくは救済案を提示する。

「ま、一晩ぐらい問題を先送りにしてもいいだろう」

 ファウストはグラスに入ったワインを喉に流し、月読は肩を竦めてティーカップを口元に運ぶ。

 三人はしばし無言でそれぞれの飲み物を堪能する。沈黙を破ったのは月読だ。

「もうお酒は完全に抜けたようだね。お風呂に入りたいならバスルームの使い方を教えるから。着替えは……たぶんなにかあるだろう」


 ホットミルクを飲み終えた琥珀は、月読について自分が寝ていた部屋の真向かいの部屋に入る。そこも所狭しといろいろな物が積み上がっていた。

「どこもかしこも物が溢れていて驚いたでしょう。なんでもかんでも拾って来ちゃうんだよね、博士は。整理整頓が追いつかなくて。一歩間違えればゴミ屋敷だよ」

 愚痴というよりは独り言のように呟きながら、月読は衣類と油性ペンで乱暴に書かれた段ボール箱を見つけて、引っ張り出し床に置いた。

 箱を開けてみれば、Tシャツやスウェットなど、部屋着になりそうな服がたくさん詰め込まれていた。

「衣類系はここに入れてあるんだ。全部洗濯してある物だからきれいだよ。サイズの合う物を選んで自由に使って」

 二、三枚手にとって広げてみる。着古した感はあるが、どれも清潔そうだ。男性物から女性物、子ども用の物まで、サイズもデザインもいろいろある。

「僕の部屋はこの隣。なにか困ったことがあればいつでも訪ねてきてね」

「あの、ファウスト……博士は?」

「彼は離れの小屋で寝起きしているよ。庭にガレージのような掘っ建て小屋があるんだ。彼が言うには錬金を行う実験室なんだって」

 琥珀は手にしていた服から月読に目を移す。

 照明の下でもフードを被ったままの彼。光に透けるとほんのりと赤みが混じる灰色の瞳、うっすらと銀色を浮かび上がらせる銀髪。

 アルケミストとは? ホムンクルスとは?

 月読はなにか言いたげな琥珀の表情を察して、幼子に言い聞かせるように優しく目を細めた。

「お互い知りたいことがあるだろうけど、それは明日にしよう。今夜はとにかくお休み。ゆっくりと、心も体も休めるんだよ」

 先に牽制され、琥珀は疑問を呑み込んでうなずくしかない。

 月読が去った後、琥珀は段ボール箱の中身を吟味して自分の体に合う長袖シャツとジャージパンツを見つけた。

 琥珀はもう必要なくなった中学の制服を脱いで、手にした長袖シャツとジャージパンツに着替えて、静かに部屋を出た。足音を立てないよう注意しながら廊下を進み、階段の手すりに身を乗り出して一階を見下ろす。

 誰もいない玄関が見える。三段ほど階段を降りてダイニングキッチンのほうを覗いてみれば、暗い空間がぽっかりと広がっていた。

 月読は自分の部屋に、ファウストは離れにいるようだ。

 琥珀は手すりに体重をかけて、階段が重みにギシギシと鳴るのを最小限に抑えつつ玄関まで辿り着き、慎重にゆっくりと扉を開いて家を抜け出す。

 外に出た瞬間、潮の香りがする冷たい風が吹き付ける。

「寒っ……」

 昼間は春の陽気だったのに、まだ夜は冷える。海風が吹くから、余計に体感温度を低く感じるのだろう。

 耳を澄ませば、潮騒が聞こえる。

 琥珀の住む町は日本海に面する小さな過疎地だが、家は海から少し離れた場所にあった。

 でもこの家は海のすぐ近くに建っているらしい。酒を飲んで手首を切った場所からどれくらい離れているのだろう。

 琥珀は少し歩いたところで振り返った。

 月読が一歩間違えればゴミ屋敷と言っていた意味がよく理解できた。

 蔦が絡まる古い木造二階建ての家。家を囲むようにタイヤや自転車、家電製品など、明らかに壊れて捨てられた物が積み上がっている。脇には家に負けず劣らず使い古された軽トラックが停まっていた。

 家から漏れる明かりがなければ、廃墟の周りに不法投棄されてできたゴミ屋敷にしか見えない。

 ちょっと荷台が歪な軽トラックを見ながら思う。自分はこのトラックで運ばれたのだろうか。捨てられたゴミのように。

 胸の底がキュッと痛んで、琥珀は逃げるように歩き始める。

 家も街灯もほぼない、放ったらかしの空き地が広がる土の道を頼りない月明かりだけで進んでいく。

 しばらくするとアスファルトに覆われた広い二車線の道路に出た。

 その向こうは黒く波打つ海。

 琥珀は歩道に立って、しばらく黒いうねりを見つめる。

 潮の香り、冷たく湿った風。街灯はかなり離れた間隔で立っている。店も通る車もなく、辺りはすっぽりと夜の闇。

 本当にここは田舎なんだなぁ、と思いながら琥珀は海沿いの国道を歩き始める。

 きっと、自分はどこにも行けないんだ。行ける場所なんてないんだ。

 仕方ない。自分は親にさえ愛されなかった子どもなのだから。

 ポケットに手を突っ込んで、少しでも風が当たらないよう背を丸めて歩き出す。

 上に羽織るものをもらっておくのだったと琥珀は後悔するが、すぐに打ち消した。

「まるで世界の隅っこのよう」

 もうお金も酒もカッターもない。

 琥珀の目の前に砂浜へ降りていく階段があった。

 夏には海の家が建ち、海水浴を楽しむ人々が集うのかもしれない。今は、なにもない寂しい海辺だが。

 街灯が照らす階段の前に立ち止まって、琥珀は黒い海に顔を向ける。

 きっと海水は冷たいだろう。氷でできたナイフで刺すように、一瞬で心臓を止めてくれるだろうか。荒ぶる波は暗い海底に、一瞬で連れていってくれるだろうか。

「ほんの少し、我慢すればいいんだ」

 我慢なんて、ずっとしてきた。今でもしている。だから、きっと大丈夫。ほんの少し。苦しいのはほんの少しの時間だ、きっと。

 琥珀はギュッと唇を噛みしめて、国道から伸びる階段を降りていく。

 波の音がますます耳に響いて、少しだけ決意が揺らぎそうになる。

 それでも階段を降りて砂浜に降り立ち、ゆっくりと黒い海へと歩いて行く。

 波間に近づくにつれ、貝殻がジャリ、ジャリと足下で悲鳴を上げ始める。ずいぶんと貝の死骸が多い浜だと、踏みつぶす貝殻の音に耳を澄ませば、背後からも同じ音が少しずれて聞こえてきた。 

 背後に誰かがいる!

 琥珀は跳び上がる勢いで振り返った。

 ほんの三メートル先に、巨大な人影があった。

 喉の奥であげた悲鳴は、潮風に持っていかれた。

 だが、うっすらと月明かりに浮かぶ赤毛を見て、強張った体から力が少しずつ抜けていった。

「アンバーがまた自分を捨てに行くのかと思って」

 ファウストが大きな体を寒そうに肩を丸めてクシャミをした。

 その姿がなんだかあまりに情けなく、可笑しかった。

 ファウストはズズッと鼻水を啜って断言する。

「アンバー、キミには黄金に輝く魂がある。キミが捨てるのなら、吾輩が拾う。拾って錬金し、新しい黄金に変える」

「新しい黄金?」

「吾輩はいろいろなものを拾ってきては月読に叱られるが、なんでもかんでも闇雲に落ちている物や捨ててある物を拾うわけではない」

 ファウストは腰に手を当ててふんぞり返って偉そうに断言する。

「吾輩が拾うのは輝く魂があるものだけだ。まだ使えるパソコンが捨ててあったとしても、そこに魂がなければ拾わない。逆に錆びた空き缶でも、それに輝ける魂が宿っていれば吾輩は手に取るだろう」

 ひときわ強い風が吹いて、高い波が琥珀の足下まで届いた。

 冷たい海水と潮風に身が縮む。

 ファウストが再び大きなクシャミをした。

「まあ、とにかく寒いから家に戻ろう。アンバーだって震えている」

 ファウストの影が大きく動いて、自分の抜け殻を剝がして琥珀に近づく。

 ふわりと暖かくて柔らかい影が琥珀を包んだ。

 白衣だと思った裾の長いシルエットは、丈の長いコートだった。琥珀が羽織ると、裾が砂浜に付きそうだった。

 ジャリジャリと貝殻の悲鳴が小さくなっていく。やがて靴底は砂を踏みしめ、階段を登り、アスファルトの上に立つ。

 見つかってコートを預かっている以上、琥珀はファウストの後をついていくしかなかった。逃げだそうと走り出しても、手も足も長い筋肉質の大男にすぐ追いつかれてしまうことは明白だ。

 手を引かれているわけでも、鎖で繋がれているわけでもないが、琥珀はファウストの三歩後を力なくついていく。

 ファウストはハイネックのセーターにジーンズを穿いているが、コートを琥珀に譲って寒いのか、大きな背中は丸まっていた。

「あたしを拾ったってことは、あたしの中にも輝く魂が見えたの?」

「もちろん」

 ファウストは振り返って大げさに手を広げ、琥珀の不安を一瞬で一掃するほどの笑顔で答える。笑った顔はずっと若く見えて、もしかしたら二十代なのかと思う。そもそも外国人にあまり接したことのない琥珀に、彼らの年齢はわかりにくい。

 自分の中に輝く魂などあるわけがない。

 でも、ファウストの言葉が嬉しくて、少し泣き出しそうになる感情を抑えて空を見上げれば、満天の星が頭上を覆っていた。

 どこまでも続く世界。

「……遠くへ行きたい」

 夜空を見上げながら、ふと心が漏れた。

「遠くって、月まで?」

 琥珀と同じように視線を上げてファウストが月を指さす。

「まさかっ!」

 あまりに突拍子もない場所を指定されて思わず大きな声が出てしまった。

「じゃあ、外国? 世界を旅するってことかい? それは素敵な夢だ」

「遠くって、大阪とか東京とか、その程度です」

 慌てて琥珀は否定する。海外なんて大それたこと考えていない。

 遠くへ行きたいのは多くの人が行き交う都会で、誰も自分のことを知らない街で、その他大勢の人間になって一からやり直したいからだ。

 自分を知っている人に絶対会わなそうな場所。会っても、お互い素通りしてしまうような場所。

 ファウストは不思議そうな顔で琥珀に視線を向けたが、すぐに前方に注意を向けた。

 やがて凸凹と不思議なシルエットが見えてくる。

 シンプルな長方形の二階建て木造住宅なのに、棚や洗濯機、自転車など粗大ゴミやらガラクタに囲まれて、無造作に積み上げられたレゴブロックみたいな、奇妙な家。

「ま、どんな理由にせよ、アンバーがどこかへ行きたいと願うのなら、何かが変わるだろう」

 ファウストは予言のように言った。