プロローグ


 呼吸を止めて、深く、甘く、未来を思った。

 願わくはこの身体で、祈りを力に変えて戦いたい。


 軽い潜水のつもりだったのに、気付けば二十五メートルプールのゴールが迫っていた。

 久しぶりに迷いなく足を動かせることが嬉しくて、一気に泳いでしまったのだ。

 顔を上げ、プールサイドに手を乗せて一息つくと、ファイルを抱えたジャージ姿の少女が、不安そうな顔で覗き込んできた。

「優雅様。膝に痛みは?」

 水中で右膝の感触を確かめてみる。

「大丈夫。痛みも違和感もないよ」

「良かったです。突然、潜水を始めたので心配しました」

「トレーニング出来ることが嬉しくて、つい、はしゃいじゃった」

「見事なドルフィンキックでした」

 目の前の少女は、私立赤羽高等学校に入学したばかりの一年生、榊原梓。『レッドスワン』の愛称を持つ赤羽高校サッカー部の守護神にして、空前絶後の問題児、三馬鹿トリオのリーダー、榊原楓の妹だ。

 梓ちゃんは楓の妹ということもあり、合格直後の二月からマネージャーとして練習に参加していた。そして、その仕事ぶりを評価され、入学式を待たずして、復帰を目指す僕の専属マネージャーを務めるよう、監督から直々に要請されることになった。

 僕はこの春まで一年半以上、ただ身体を休ませていた。ボールを使うトレーニングを始める前に、最低限のフィジカルを取り戻さなければならない。

 レッドスワンの監督、舞原世怜奈は、新潟で暮らす者なら知らない者はない旧家に出自を持っている。東日本の財界を牛耳る舞原家には、お抱えの総合病院があり、先生はそこに勤務するスポーツドクターに、僕のリハビリメニューを作らせていた。

 僕の右膝は長い間、原因不明の痛みに悲鳴を上げていた。ようやく復帰の目処が立ったとはいえ、いつ再び暴発しても不思議ではない。前十字靭帯断裂という大怪我を負った左膝にも、古傷を抱えている状態だ。トレーニングは細心の注意を払って進める必要がある。

 ここ数日は梓ちゃんのサポートを受けながら、舞原傘下の企業が運営するジムやプールで、膝の状態を確認しながら、復帰に向けて汗を流していた。


 ガラス張りの向こうに、満開のソメイヨシノが映えている。

 異常気象のせいで、今年は桜が咲くのも早かった。

「アシスタントコーチとしての仕事は、一旦、保留にしましょうか」

 世怜奈先生にそんなことを告げられたのは、一週間前、三月の終わりのことだ。

「優雅はずっと自分を犠牲にしてチームのために動いてくれていた。今日からはしばらく自分のために時間と頭を使って欲しい」

「でも、先生と華代だけじゃ仕事が……」

「もちろん、優雅には助けて欲しい。ただ、選手とコーチ、二つの仕事を両立するのは難しいと思う。特に今は復帰に向けての大事な時期だからね。優雅、君はうちのエースよ。それも一人でゲームを変えられる絶対的なエース。今はコンディション作りに専念して欲しい。レッドスワンにとっても結果的には、その方がプラスになる」

「そうしろと言われれば、そうしますけど」

「そんなに深刻な顔をしないで。これは白か黒かの話じゃない」

 世怜奈先生の顔に、穏やかな微笑が浮かんだ。

「膝の状態が芳しくなくて、復帰が遅れるようなら、またコーチの仕事を頼むから」

「分かりました。じゃあ、しばらくは自分のことに集中します。期待に応えられるように」


 プールから上がり、チームジャージに着替えてから、梓ちゃんの待つロビーへと向かった。

 彼女は膝の上に開いたノートパソコンに、本日消化したメニューを打ち込んでいる。

 お礼の意味も込めて、彼女の好きな紅茶を買ってから、その隣に座った。

「お疲れ様。今日もありがとう」

「あ……。すみません」

 去年まで僕は梓ちゃんの私服姿しか見たことがなかった。ゴシックロリータだったか、ロリータパンクだったか、正確な名称は分からないけれど、彼女はいつもロココ調を思わせる衣装を纏っていた。身長こそ平均より少し高い程度だが、楓の妹だけあって、さすがにスタイルは抜群である。顔が小さく手足も長いので、黙っているとドールのようだ。昨年度までの印象が強過ぎるせいで、未だにジャージ姿は見慣れない。

 梓ちゃんは中学時代に楓と対戦した試合を観て、僕の虜になったらしく、四年前からファンを公言していた。そのせいで妹を溺愛する楓に、僕は嫌われることになってしまった。

 彼女を専属マネージャーにすると先生が決めた時、当然、楓は烈火のごとく怒ったが、赤点補習の免除という裏取引により、最終的には引き下がっていた。

 自分で言うと馬鹿みたいだけれど、梓ちゃんは本当に僕のファンなのだろう。愛情が過ぎる余り、僕自身よりも高槻優雅の肉体について真剣に考えている節があった。

 毎日、神経を尖らせて膝の状態を確かめているし、わずかな異変を感じ取っただけで、大事を取ってその日のメニューを中止にしてしまう。本人が自覚出来ていない症状にまで、微妙な動きで気付く有様だった。

 情けなくなるほど怪我に弱い高槻優雅が、フィールドに復帰出来るよう、榊原梓を専属マネージャーにつける。世怜奈先生の判断が功を奏し、練習を再開してから二週間ほどが経ったが、ここまでは順調にトレーニングを積むことが出来ている。

 もうすぐ開幕するリーグ戦には間に合わない。ただ、叶うなら五月の頭に始まるインターハイ予選では、チームに復帰したい。

 三年生である僕にとっては、最後の一年だ。

 伊織と、圭士朗さんと、仲間たちと、今度こそ同じフィールドに立って戦いたい。

「膝は今日も問題なさそうですか?」

「そうだね。もう少しトレーニング出来たかも」

「いいえ。油断は禁物です。絶対に無理はさせられません」

 梓ちゃんは僕のファンだが、いや、ファンだからこそだろうか。練習メニューに関して絶対に意見を譲らない。彼女が終わりと言ったら、今日の練習は終わりだ。

 早くボールを蹴りたい。全体練習に合流したい。

 気持ちは、はやる一方だけれど、その時は、まだもう少しだけ先になりそうだった。


 四月六日、水曜日。

 赤羽高校では本日、入学式がおこなわれた。

「体験入部は明日からだっけ。春休みから練習に参加していた子たちも上手かったけど、即戦力になりそうな子が、もっと増えたら良いな」

「それも可能なら左サイドを任せられる選手ですよね」

 チームに合流して間もないのに、梓ちゃんは現在のチーム状態について、既に完璧に把握していた。レッドスワンのファン歴二年は伊達ではないということだろう。

 世怜奈先生は守備的な戦術の構築を得意とする監督であり、昨年度、選手層の薄いレッドスワンが全国ベスト4まで羽ばたけたのは、適切な選手を、適切な守備的ポジションにコンバートすることに成功したからである。

 しかし、この三月にDFのレギュラー陣が三人卒業している。CBだった森越先輩の後釜はともかく、鬼武先輩と葉月先輩が務めた両SBの穴は、簡単には埋まらないだろう。

 守備で身体を張れるだけじゃない。レッドスワンは攻撃でも二人に頼りきりだった。天馬のいる右サイドはともかく、左サイドは葉月先輩の独壇場だったと言って良い。

 鬼武先輩は元FWの嗅覚を発揮し、ここぞという場面で得点を奪ってくれた。葉月先輩の左足から放たれるフリーキックも、チームの強力な武器だった。

 鬼武先輩は選手権後、二ヵ月かけて右SBの技術を、後釜と見込んだ穂高に教え込んでいる。CBに転向するまで穂高はサイドアタッカーだった。俊足を生かしたドリブルという明確な武器があり、CBとしての経験を積んだことで守備力も上がっている。

 SBとして成熟するには時間がかかるだろうが、最終的に鬼武先輩の穴は穂高で埋まる可能性が高い。

 森越先輩の卒業と、穂高のコンバートによって手薄になったCBについても、既に答えが見つかっている。昨年までボランチとしてプレーしていた成宮狼が、先生の命を受け、CBにコンバートされたからだ。ボール奪取を得意とする狼は、最終ラインに王様のように構える伊織の良いパートナーになるだろう。

 どう考えても最大の問題は、葉月先輩が務めていた左SBだった。先生は何人かの三年生をそのポジションで試しているけれど、攻守両面で大幅な戦力低下は否めない。

 あらゆるポジションの中で最もパスが集中するSBに中心選手を配置し、ゲームをコントロールする。レッドスワンはそういう哲学を基調に組み立てられたチームだ。

 そして、現状、控え選手で左SBの穴が埋まらないことも、もう分かっている。チームの底上げには新入部員の活躍が必要不可欠だった。

 とはいえ入学直後の一年生に葉月先輩の穴埋めを期待するのは酷だろう。左SBの穴が最後まで埋まらなかった場合、世怜奈先生には次善の策があるんだろうか。

 レッドスワンは昨年度、全国ベスト4という成績を収めている。しかし、胸を張って、全国トップクラスの強豪と名乗れるレベルには、まだ達していない。選手層が薄く、スペシャルと呼べる選手は、伊織と楓の二人だけだ。

 本年度、最初の目標であるインターハイ予選は、早くも来月には始まる。

 チーム作りを間違えば、あっという間に地方予選で姿を消すことになる。

 一日も早く、一年生を加えた状態で、新しい形を見つける必要があった。




 四月七日、木曜日。

 本日より新チームが本格的に始動するが、僕は今日も別メニュー調整だ。

 トレーニングルームにて三十分ほどサイクリングマシンを漕いでから、関節の状態を梓ちゃんにチェックしてもらう。

 痛みは感じないものの若干の違和感を覚えていた。

 少しでも異変を感じたらトレーニングを即中止にするよう医師に厳命されている。今日はここまでだろう。

「優雅様。着替えたらグラウンドへ行きませんか? 新一年生も集まっていると思います」

 僕の右膝に巻かれたテーピングの状態を確認してから、梓ちゃんが告げる。

「そうだね。どんな子が入って来るのか気になるしな」

 昨日まで僕はチームを離れ、プールのあるジムと、校倉総合病院のメディカルフィットネスでトレーニングに励んでいた。

 世怜奈先生とも、もう一週間、顔を合わせていない。彼女が赴任して以来、こんなに長期間、会わずにいるのは初めてだ。

 久しぶりに先生の声が聞きたい。そんなことを思い、心臓が少しだけ鼓動を速めた。


 グラウンドに到着すると、想像もしていなかった風景が視界に飛び込んでくる。

 去年は新入部員が三人しか集まらなかった。後に天馬が加入したとはいえ、それでも現二年生はたった四人である。

 高校選手権での躍進、注目度の高い若く美しい監督が指揮を執っていること、その辺りの事情を鑑みても、昨年より多くの入部希望者が集まると予測していたし、春休みの時点でも五人の選手が練習に参加していた。

 十名は超えると期待していたけれど、さすがにこの人数は想像出来なかった。

 グラウンドでは早速、一年生も交えての紅白戦が実施されている。どちらのチームも半数以上が一年生で構成されているにも関わらず、コートの脇には、見慣れない顔がまだ二十人ほど並んでいた。単純計算で三十人以上の入部希望者が集まっているということだ。

 驚きはそれだけではない。遠目でも、マネージャー希望の女子が十人以上集まっていることが分かる。半年前まで廃部の危機に怯えていたのに、レッドスワンを取り巻く環境は、わずかな間で激変していた。


 全国大会に出場したチームに入部を希望する一年生である。

 総じてレベルは高い。

 だが、中学を卒業したばかりの十五歳とは、さすがに鍛え方も肉体の強度も違う。新入部員を蹴散らすように躍動する三年生や二年生のプレーに、マネージャー希望の女子たちは、まるでアイドルでも応援しているような歓声を上げていた。

 キャプテンの伊織や圭士朗さんは平常心を保ってプレーしているものの、三馬鹿トリオや天馬は、女の子たちから発せられる黄色い声に、明らかに調子に乗っていた。

 昨年の高校選手権、絶大な人気を誇る鹿児島青陽を、極端なほどの守備的戦術で下したことで、レッドスワンには『アンチフットボール』のレッテルが貼られた。

 一日にしてヒールとなったレッドスワンの中でも、悪評が高かったのは楓である。開会式のふてぶてしい態度、応援マネージャーを務めた女優、櫻沢七海の告白を無視したこと、幾つもの要素が絡み合い、楓は分かりやすく非難の対象になった。

 けれど今、女の子たちは、そんな楓にすら歓声を送っている。

 セーブの場面ではもちろん、ゴールキックにすら黄色い声が上がっていた。

 普段、女子になんて興味がないみたいな顔をしているくせに、ちやほやされることは、まんざらでもないらしい。

「おい! ディフェンスは適当で良いぞ!」

 楓は自分の前でプレーする守備陣に、ふざけた声をかけていた。

「もっとシュートを打たせろ! 誰も俺から点は取れないからな!」

 三つ子の魂百まで。最上級生になったというのに、すぐに調子に乗る性格は、まったく変わっていなかった。


 フェンスの扉を開けて、グラウンドに入る。

 仲間たちの下に向かうと、一年生たちが僕の存在に気付いた。そして、次の瞬間……。

 先ほどまでとはレベルの違う歓声が上がった。さっきまであんなに紅白戦に夢中だったくせに、もう誰一人としてグラウンドを見ていない。

「優雅様だ!」

「ガラスのファンタジスタってCGじゃないんだ!」

「意外と背が高い。て言うか、細い! 白い!」

 ……嘘だろ。梓ちゃん以外の後輩まで、僕を『優雅様』呼ばわりするのかよ。

「リオ! 穂高! ボーッとするな! 試合中だぞ!」

 伊織の激昂が聞こえ、グラウンドに目をやると、三馬鹿トリオがプレーをやめて僕を睨んでいた。もしかして嫉妬されているんだろうか。


「優雅、膝の調子はどう?」

 ボブカットの小柄な少女、マネージャーの楠井華代がやって来た。日中の教室では無傷だったのに、いつの間にか膝に絆創膏を貼っている。また何処かで転んだらしい。

「まあまあかな。もうすぐ練習に参加出来るかも」

 真面目な顔で答えたのに、一瞬で疑いの目を向けられた。

「梓、本当は?」

「違和感があるとのことだったので、今日のトレーニングは早めに終了しました」

「駄目じゃん。やっぱり地区予選には間に合わないか」

「まだ一ヵ月もあるし分からないだろ」

「言っておくけど、絶対に無理はさせないから。世怜奈先生が梓を優雅の専属にするって言った時は、正直、反対だったんだよね。でも、先生の判断は正しかった」

 華代は自分より背の高い梓ちゃんの頭を撫でる。

「優雅のことが好き過ぎて何も言えないんじゃないかと思ったけど、逆だった」

「はい。私は優雅様を敬愛していますので、絶対に無理はさせません」

「自己管理出来ない優雅を見張ってくれるのは、本当にありがたいよ。これからもよろしく」

「お任せ下さい。たとえ嫌われても、優雅様のトレーニングは徹底的に管理します」

 サバサバした性格の華代は、同性の友達を作ることを苦手としている。クラスにも真扶由さん以外に友達がいないのだが、梓ちゃんとは上手くやっているようだった。

「なあ、華代。世怜奈先生は?」

「職員会議。何時に終わるか分からないから、今日は入部希望者を混ぜて、全員にゲームを楽しませなさいって」

「そっか」

 久しぶりに会えると思ったのに、なかなか上手くいかないものだ。

「心配しなくても練習が終わる前に来ると思うよ」

 華代の顔に悪戯な微笑が浮かんでいた。

「別に何も心配していないよ」

「素直じゃないね。可愛くないなぁ」


 華代がホイッスルを吹き、紅白戦はタイムアップを迎える。

 すぐに次の試合が始まるのだろう。副キャプテンに就任した圭士朗さんが、ベンチで選手の交代を指示していた。次も上級生の中に新入部員を混ぜて紅白戦を実施するらしい。

 三馬鹿トリオはフィールドに残っていたが、伊織は交代となっていた。

 ベンチに下がる伊織に、一年生の女の子たちが熱視線を向けている。

 昨年度の活躍で、伊織は一躍、ユース年代を代表する選手となった。冬の選手権では最後まで鉄壁の守備を見せていたし、準決勝では鮮烈なゴールまで決めている。年代別日本代表に招集された今、伊織は名実ともにレッドスワンの顔だ。

 女の子たちが我先にと伊織の周りに群がり、タオルやスポーツドリンクを差し出す。

「デレデレしてる。伊織のくせに」

 面白くなさそうに華代が呟いた。

「普段と変わらないように見えるけど」

「鼻の下が伸びてる。キャプテンなんだから一年生には毅然としなさいよ」

 もしかして、これも嫉妬だろうか。

 華代が伊織のことをどう思っているのか。僕は今でも、いまいち分かっていない。


「お疲れ様。新人はどう?」

 スポーツドリンクを片手にやって来たキャプテンに問う。

「期待以上だよ。即戦力になりそうな奴も何人かいる。今年は三年でもベンチに入れない選手が出るかもな」

「心情的にはともかく、チームとしては歓迎すべき事態だね」

「去年は選手層の薄さが弱点だったからな」

「今、伊織が一番、期待しているのはどの子?」

 早くも提出された入部届をめくりながら、華代が問う。

「そりゃ、あいつだよ。南谷大地。サイズも、能力も、ほかの一年とは雲泥の差だ。アルビレックスのジュニアユースにいたんだろ? あのレベルでユースに昇格出来ないとか、やっぱりプロクラブは凄いよ」

 大地は春休みから練習に参加していた生徒の一人だ。彼の実力は分かっていたつもりだが、改めて入部届を見ても、その規格外のフィジカルに驚かされる。

 四月生まれというアドバンテージを考慮に入れても、このサイズは凄い。高校入学の時点で身長百八十五センチ、体重九十キロ。うちで一番、体重のある常陸でも八十キロだから、横幅では既にチームナンバーワンということになる。

 先ほどの試合では、ハイボールの競い合いで、百九十一センチあるリオを吹っ飛ばしていた。とんでもないフィジカルの持ち主である。

 レッドスワンの武器は、知性と高さだ。特に後者は分かりやすく全国でもトップレベルにある。春休みの身長測定で、ついに楓も身長を百九十センチの大台に乗せた。百九十センチ以上の選手を、レギュラーに四人揃えるチームなど、全国を見回しても、うちくらいだろう。そんなチームに、またしても屈強な肉体を持つ選手が加入したのである。

「しかも、あいつ、でかいだけじゃないからな」

 そう。彼はクラブチームの下部組織出身であり、元プロたちによる英才教育を受けてきたエリート中のエリートだ。足下の技術も、パス精度も、ドリブルも、シュートも、すべてが高水準であり、あの体重で足まで速い。自己申告のプロフィールによれば、攻撃的なポジションは何処でも務められるらしい。

「テクニックだけなら普通に俺らよりも上だろうな」

「でも、ユースには昇格出来なかった」

 低い声で華代が呟く。

「まあ、理由は想像がつくよ」

 フィジカルにも、テクニックにも恵まれているのに、プロクラブから失格の烙印を押された理由。それは、ひとえに『走らない選手』だからだ。

 あれだけの技術に恵まれ、足まで速いのに、とにかく走らない。

 ボールを失っても追わないし、守備もろくにしない。

 春休みの体力測定では、数値が彼の欠点を明確にしていた。体重をコントロール出来ていないからか、スタミナだけが凡人並なのである。現代サッカーは言ってみれば、広大なスペースを潰し合う競技だ。幾ら上手くても、走れない選手では戦えない。

 あれだけの素材である。子どもの頃から散々注意されてきただろうに、彼は高校生になるまで意識を変えることが出来なかった。傲慢な性格と、低い自己管理能力を見抜かれ、南谷大地はプロクラブに見切りをつけられた。そして、このレッドスワンに辿り着いたのだ。

 昨年度の高校選手権で、世怜奈先生は背の高い選手がいるからこその戦術に終始した。一連の戦い方を見て、このチームなら自分を生かしてくれると思ったのだろう。

 彼の期待はあながち間違っていない。世怜奈先生は特徴のある選手が好きだし、戦術に選手を当てはめるのではなく、揃えた選手に戦術を合わせていくタイプだ。

「おい! 今、俺に出せただろ! パスが遅いんだよ!」

「下げるな! ボールをもらう前に周りを見ろよ! いただろ、俺が。寄越せって!」

「トラップがでかい! 収められないなら触るな! 邪魔だ!」

 グラウンドの中央で、大地は先輩たちにも物怖じせずに罵声を連発している。

「一年であれだけ声を出せるってのは才能だよな。さすがはユース崩れ」

「あの態度は駄目でしょ。伊織、ちゃんと注意してよ」

「何度もしたさ。でも、周りを見下しているから、聞く耳を持ってねえ。あれだけ上手い奴を先生が使わないわけないしな。今から頭が痛いぜ」

 癖の強い選手だが、南谷大地が期待の新戦力であることに疑いはない。

 チームメイトとも上手くやってくれたら良いのだけれど……。

「大地と並んで期待出来るのは、あっちの茶髪だな。名前、何だったっけ」

「水瀬紫苑。中学までは山形県に住んでいたみたい」

 入部届に目を落として華代が答える。

「へー。このタイミングで親が転勤したってことか」

 伊織が続けて名前を挙げたのは、大地と逆のチームでプレーする髪の長い少年だった。端整な顔立ちで、プレーにも華がある。髪を染めていることもあり、何処となく卒業した葉月先輩を彷彿とさせるプレイヤーだった。

 彼も春休みの時点で数回、練習に参加していた。

 今日の紅白戦では、早くも前線でリオと抜群の連携を見せている。

「中学時代にFWとして山形の県代表にも選ばれているみたい。スピードもテクニックもあるから、将来のエース候補かも」

「万能型だね。大地ほど目立っていないのは、良い意味で周りに溶け込んでいるからかな。守備に回った時のスペースの消し方も抜群に上手い」

 少し鍛えれば、リオや天馬の控えを任せることも出来そうだった。

「ま、即戦力はあの二人だな。あとは時間をかけて育てるって感じか」

 傲岸不遜な巨漢と、茶髪で色白の優男。

 攻撃的なプレーを得意とする対照的な二人だった。


「あのさ。もう一人、気になる選手がいるんだけど。あっちのCBって確か昨日……」

「ああ。新入生総代だった奴か。答辞を読んでたな」

 大地と同じチームの最後尾でプレーしている、真面目そうな短髪の少年。声も出さずに、彼は黙々と敵チームの攻撃の芽を摘んでいた。

「ディフェンダーだから目立っていないけど、さっきから随分と効いているよ。天馬の突破を止めていたし、珍しく常陸のポストプレーが上手くいっていないのは、連携不足じゃなくて、あいつが上手く身体を当てて邪魔しているからだ。身長差があれだけある選手に仕事をさせないのは凄い」

 天馬を止められるということは、スピードもあるということである。身長は百七十センチ台中盤だろうから、年齢を考えれば長身の部類に入るだろう。

「あの子、春休みの練習には参加していなかったよね」

「今日、初めて見る顔だな。名前、何て言ったっけ」

「……入部届はまだ出ていないみたい。私も覚えてないや」

 華代がファイルから顔を上げる。

「確かに地味に効いているね。え。今の見た? ロングフィード、伊織より上手くない?」

「しかも左で蹴ったな」

「彼の名前は、佐々岡謙心です」

 背後からの声に振り返ると、梓ちゃんが笑みを浮かべていた。

「もしかしてクラスメイト?」

「今は違いますが、小学校と中学校が同じだったんです」

「へー。じゃあ、楓の後輩か」

「はい。一度見ただけで謙心君の凄さに気付くとは、さすが優雅様です」

「彼、中学時代はそこそこ有名人?」

「中学三年生の時に、県大会で二位になっていますね。噂が本当なら、クラブユースからスカウトされていたはずですし、美波高校の体育科からも推薦の打診を受けていたはずです」

「じゃあ、その二つをどっちも蹴って、うちに入学したってことか」

「そうなりますね。私はお兄ちゃんが卒業して以来、中学のサッカー部の試合は観ていないので、知っているのは謙心君が一年生の時のプレーだけなんです。ただ、お兄ちゃんにも一目置かれていたと記憶しています。酷い言葉をいつもかけられていましたから」

 楓が暴言を吐くのは、相手を認めている証拠だ。

「謙心君は無口ですし、私もほとんど喋ったことがありません。でも、上手いのは間違いないと思います」

「正直、貴重な戦力だよ。最終ラインはレギュラーが三人卒業したからな」

 先生はボランチの狼をCBにコンバートしたが、レギュラークラスが二人では、トーナメントを戦い切れない。

 最初の目標である夏のインターハイは、主催者の常識を疑うほどの過密日程で実施される。勝ち進めばカードの累積による出場停止だって起こり得る。

「期待出来そうだな。あいつは鍛え甲斐がありそうだ」

 謙心を見つめながら、伊織が楽しそうに呟いた。


「あ。世怜奈先生からメールだ」

 華代がポケットから携帯電話を取り出す。

 メールを確認した華代は、その文面を僕と伊織に見せてくる。

『今年の戦術が、やっと頭の中で固まってきたわ。』

 どういうことだ? 職員会議があるとかで先生はこの場にいない。今日集まった新戦力の確認は、まだ出来ていないはずだが……。

 そこで、気付いた。

 校舎の三階、窓に手をかけて、グラウンドを見つめている女性の姿があった。

 春風に髪をなびかせて、微笑を湛えているのは、舞原世怜奈。


 一週間振りに彼女の姿を目にしたその時、不意に、心臓の音が聞こえたような気がした。

 喉の下、胸の奥。

 琴線みたいな場所で、何かが軋む。


 十七歳、高校三年生。陽春。

 僕は、生まれて初めての恋に落ちているのかもしれなかった。