信号機が黄色い矢印を光らせると、広告ラッピングが施された路面電車が警笛を鳴らして、ゆっくりと発進した。『うまさ電撃!』地元に愛される人気菓子のキャッチコピーが、大通りを悠々と流れていく。

 対向車線上にある停車駅では、登校中の高校生達が狭いプラットホーム上で身を寄せ合うようにしながら、白い息を吐いて談笑している。

 線路を横に走る車は、呼吸をするように進んだり止まったりを繰り返し、真新しい商業ビルが、自動の口を開けては次々と人を飲み込んでいく。古色蒼然とした老舗の喫茶店は、開店の三十分前にカーテンを開けて目を覚ました。


 人が、物が、時間が動いて、眠っていた空気をかき混ぜながら一日を始めようとしている。

 そんな街を映している、丸くて黒い瞳があった。

 しんとした空気が漂う、誰もいない静かな丘の上。そこに佇む、一頭の白熊。

 幹と枝だけで寒さに堪えている一本の木の下で、雪のように真っ白な白熊が二本足で立ち、黙って街を見下ろしていた。黒縁の眼鏡を耳にかけるでもなく顔に挟み、太い首には長さを最大限に活かしてネクタイを締め、黒いショルダーバッグを今にもズレ落ちそうな角度で肩に掛けている。

 まるでオブジェみたいに凝然と立ち尽くしているかと思えば、時折ぼりぼりとお尻を掻く。その表情は、笑っているようにも泣いているようにも見えるし、何も考えていないようにも見える。

 しばらく街の様子を眺めていた白熊は、やがて徐にショルダーバッグからおにぎりを取り出して、パクリと頬張った。

「さて、行きましょーか。友達のところへ」

 そう呟いて歩き出すと、大地を踏みしめるようにゆっくりと丘を下っていった。


◆  ◇  ◆


 ヒコチャン。

 俺の事を、昔からそう呼んでいた、三人の幼馴染みがいた。

 人に合わせないくせに、人の事ばっか気に掛けていたムードメーカーの晴斗。からだが弱いくせに、誰よりも自分に厳しかったリーダーの亜貴。そんな二人の影に隠れて控えめにしているくせに、実は一番目立っていたおしゃれ番長の友紀美。

 俺達四人は幼少期から、まるでそうする事が自然であるかのように学校でも家でも、いつも一緒にいた。一人でいると「他の三人はどうしたんだ?」と不自然に思われる。それくらい、俺達はナチュラルに一括りだった。

 俺の名前は捺彦。高身長な親の遺伝子を引き継いで、子供の頃から背が高かった俺は、一番背が低かった晴斗をチビチャンと揶揄い、その仕返しで呼ばれた「ヒコチャン」が周囲に広がって、俺のニックネームになった。迷惑だったが、慣れれば何とも思わなくなった。

 故郷を出た今の俺を、ニックネームで呼ぶ奴はいない。「おい」とか「お前」がそれに属さないなら。

 俺は今、快速電車の車内にいる。地元まで一時間弱の距離にいながら、実家には盆や正月にも帰っていなかった。前に帰郷したのは、ちょうど去年の今頃。一年は長いか、それとも短いか。時間と言うのはあやふやだ。

 ヒコチャンだった俺の時間は、遠い場所で止まっている。けれど、当時の光や匂いを閉じ込めた映像が、常に俺の中には流れていた。

 選んだ道を暗中模索する日々の中で、次第にそれもぼやけ始めていた時だった。突然目の前に現れた『あいつ』が、俺を「ヒコチャン」と呼んだのは。

 あれは、今から一か月ほど前の事になる。



 何をしてんだろう、俺は。

 最近、仕事中にふとそんな疑問を浮かべる瞬間が多くなった。蝋燭を吹き消すような静かで長い息を吐きながら、デスクを埋め尽くした用紙やファイルを一つにまとめて席を立った。

「先輩。言われた資料、まとめました」

 癖毛の男が座るデスクの脇にそれを置く。

「おー。サンキュー」

 男はルーペを片手に、写真のポジフィルムを食い入るように見ている。

「そこの赤いファイルに入ってるやつ、シュレッダー頼むわ。あ、待った。その前に何か買ってきて。腹減った」

「何かって、何ですか?」

「何か、美味そうなやつ」

「了解です」

 向かいのコンビニへ直行した。寒さ厳しい二月の下旬。小走りでホカホカの肉まんを買って戻った俺に、男は「グッジョブ」と親指を立てた。


 公園とマンションの間にある隙間を埋めるように建っている、小さなデザイン事務所。俺はここで、デザイナーとして働いている。

 顔を突っ込む勢いで資料に目を通しながら肉まんを頬張っているのは、先輩デザイナーの犬飼さんだ。昼休憩も取れない程に仕事を抱えて、大量の書類や文具で雑然としているデスクに埋もれている。それに比べて、俺のデスクは常にスッキリと片付いていた。

 会社は主に、食品のパッケージやポスターのデザインを請け負っている。入社して暫く営業をしていた俺は、二年前にようやく念願だったデザイン課に配属になった。

 とは言え、デザイン課に属するデザイナーは先輩と俺の二人のみで、更に俺の業務といえば先輩のアシストばかりだから、実質デザイナーは先輩一人と言っていい状態だ。俺も今までいくつかのデザイン案を起こしたが、一度も採用された事はなかった。

「よし出来た。これでサンプル作っとけな。十八時の打ち合わせに持ってくから」

 デスク横のプリンターが、犬飼さんのデザインを吐き出す。カップデザートのパッケージデザインだ。

「了解です」

 俺はデザインの職に就きたいという夢を叶えた。叶えたはずだ。なのにやっている事は雑用ばかりで、何一つとして成果を出していない。頼まれた書類をシュレッダーにかけながら再び思う。何をしてんだろう、俺は。


 ちょうど作業を終えたところで、席を外していた犬飼さんが戻ってきた。

「先輩。サンプル出来ました」

「おー。早かったな」

 カットしたデザイン出力をカップに張り付け、その上から実際の仕上がりに近付けるためにクリアシートを乗せて作ったサンプルを、犬飼さんが四方から眺めてチェックする。

「オッケー。バッチリじゃん。お前ホントに手先器用な。早いし助かるわ」

 他にやる事もないんで。という言葉は飲み込んだ。

「そうだ、S社のデザインどうなってる?」

「それも出来てます」

 先週、犬飼さんと打ち合わせに行ったS社で、新商品になるペットボトル飲料のラベルパッケージのデザインを請け負った。膨らませたイメージを元にアイデアを固めて、既にいくつかデザインラフは作成済みだ。

「クライアントが明後日こっちに来るついでに、うちに顔出すってさ。お前のデザイン見せるから、明日にでも一回社長に出しとけな」

 俺は無言で眉根を寄せた。

 俺のデザイン案を打ち合わせに通すかどうかは、上司である犬飼さんが判断するのが定例だ。まだ見てもいない俺のデザインをクライアントに出すなんて、どういう事だ?

「今回、S社の担当はお前だから、俺を通さなくていいっつってんの」

 妙にスッキリとした顔で犬飼さんが言い放つ。

「あの。俺が担当って、初耳なんですけど」

「うん。今初めて言ったもん」

 目を点にしている俺を見て、犬飼さんは明らかに楽しんでいた。

「そんな驚く事じゃないだろ。アシスタントのつもりでいるのか知らんけど、お前だってここのデザイナーだぞ」

 アシスタントでいるつもりは毛頭無い。俺の職業はあくまでもデザイナーだ。しかし担当を持つのはこれが初めてで、完全に意表を突かれた。

「こっちは今手いっぱいだしな。お前にやらせろって社長のお達しなの。それじゃ、もう行くわ。直帰だから後頼んだ」

 鞄とコートを手に、犬飼さんは飄々と事務所から出ていった。

 もしかして冗談だったりしないか。犬飼さんならあり得る。外へ出回る事が多い社長は今日も一日留守だ。何処かに確証は無いかと探る目が、顔を上げた事務員の目と合った。

「チャンスですね。社長も期待してるようだったから、頑張ってください」

 社長の娘がそう言うなら間違いない。

 はい。と短く返事をした俺は、逸る気持ちを抑えてデスクに戻った。これは本当に待ちに待ったチャンスだ。

 パソコンのモニターにS社のデザインラフを出す。ここ名古屋を中心に売り出す予定の地域限定商品で、味噌煮や味噌カツ、手羽先といった名古屋メシのお供をコンセプトに作られたお茶のラベル。制作したデザイン案は三つ。打倒犬飼さんを目標に、どれも集めたイメージを篩にかけて選りすぐったアイデアを投じている。

 自信はあるが、何かが足りない気もする。打合せ資料を見直した俺は、気合いを新たにデザインを詰めていく。

 固めてきたはずだった仕事への意欲が、俄かに剥がれ始めているのを感じていた俺にとって、そんな現状を打開出来そうなこの好機。絶対に逃すわけにはいかなかった。必ずこの仕事は決める。俺はため息とは違う、蝋燭の火も一気に消えそうな息を吐いた。



 翌日の夕方。事務所に戻ってきた社長に、俺はS社のデザインラフを提出した。

「悪くは、ないけどなぁ」

 顎をさすりながら暫く俺のデザインを眺めていた社長が、犬飼さんを呼ぶ。

「どう思う?」

「そうですね。悪くはないですね」

 社長の隣でデザインラフを覗き込んだ犬飼さんは、特に思案する様子も無く意見を口にした。

「でも、良くも無いですね」

 顔には出さなかったが、俺は耳を疑った。

「明日の午後にS社の斉藤さんが来る。犬飼、それまでにお前も案を出せるか?」

「大丈夫です」

 頷いた犬飼さんに、社長はホッとした様子だった。

「まだ時間はあるから、もう少し考えてみなさい」

 はい。と短く返事をした俺は、デスクに戻ってすぐさまデザインを見直した。思っていたのとは違う社長の反応に、内心はかなり焦っていた。


 資料を広げてモニターに齧りついていた俺は、隣に犬飼さんが立っている事に全く気が付かなかった。視線を感じて顔を上げた瞬間、柔らかい何かで頭を鷲掴みにされる。

「……先輩。何してるんですか?」

 ニヤッと笑った犬飼さんが、左手にはめた犬のパペット人形を掲げて、口をパクパクと動かした。

「お前のそのお堅い頭を、噛み砕いて解してやろうと思ってな」

 何処から持って来たんですか、その不細工な人形は。という言葉は飲み込んだ。

「このデザイン。相当自信あっただろ?」

 モニターを覗き込む犬飼さんに「自信のないものは出しません」と即答する。

「今までのデザインも同じことが言えるけどな、お前が作るデザインってのは、お前が出過ぎてる。自分の存在を目立たせて注意を引こうってのが見えるんだよ」

 下手くそな腹話術で不細工な犬が喋る。俺は納得がいかずに眉根を寄せた。デザインには商品名が出ていても、俺の名前が出ているわけじゃない。

「目立たせるのは商品だ。そんで、飲んでみたいなって思うような購買意欲を引き出させる。それが求められているデザインな。このデザインには余計な主張があっても、肝心な訴えが足りないんだよな」

 まぁ頑張れ。そう言って不細工な犬は手を振り、犬飼さんはデスクに戻っていった。

 定時が過ぎても、社長や事務員、犬飼さんが帰っても、俺は一人で事務所に残ってデザインラフを描き直した。悪くはない。でも良くもない。犬飼さんの言葉が脳裏を過る度に、ペンを握る手に力が入る。

 自信はあった。それもかなりの。俺のデザインのどこが良くないのか。正直分からなかった。普段の犬飼さんは適当で、癖毛同様に性格も曲がっているが、デザインに関しては、それだけは堅実で真っすぐな人だ。たとえ俺の事が気に入らなくても、故意に文句を付けたり讒言したりする人ではない。

 何より社長の反応。期待に応えられなかった事だけは分かる。何かが足りていないような気はしていた。でも犬飼さんが言う「肝心な訴え」って何なんだ?

 資料は読み込んだ。コンセプトも盛り込んだ。お茶飲料である事は見た目で分かる。やはり新商品に必要なのは注目度だろう。そうなると、俺のデザインに足りないものは……。

「インパクトか……?」

 敢えて「それなりに美味しい」とか「ハッキリ言って不味い」等とセンセーショナルなキャッチコピーを付ける商品もある。曖昧な表現や、堂々としたマイナス点で消費者の興味を引こうとする。他にも、商品に全く関係性のないデザインを用いる事でギャップを生み出す表現技巧も少なくはない。恵まれた食環境の中で新しい物を好む傾向が多い日本人は、常に新鮮さと斬新さを求めている。

 S社の新商品は食べ盛りの若年層から、働き盛りの中年層がターゲットであるために、コンビニを中心に展開させるつもりらしい。俺のデザインは悪くない。でも陳列された時、多種多様な商品の中でこれが目を引くかと問われたら、頷きづらいものはあるかもしれない。

 地域限定商品ではあるが、素材の厳選とブレンド法には歳月を費やした自信作だという。悪くはないという妥協は通らないだろう。

 社長も犬飼さんも認めるデザインを、担当である俺が必ず作ってみせる。

「みてろよ」

 犬飼さんのデスクを振り返った俺は、パソコンの横で寝そべって、まるで挑発するようにこっちを見ている不細工な犬の人形を睨み付けた。それから食う事も忘れて没頭し、新たに二つのデザイン案を捻り出した。

 千鳥格子の一つであるハウンドトゥースチェックと、カモフラージュ柄の二パターン。よく見るとパーツの一つ一つが、名古屋メシと呼ばれるフードをモチーフにした絵になっている。遠目だとよく分からないが、見た者は普通の柄とは違う違和感を覚えるはずだ。

 違和感は興味に繋がる。そこで「何だろう?」と手に取ってもらうのが狙いだ。違和感の正体に気付けばインパクトを与えられる。ユーモアに表現した柄の上下にはゴールドのラインを引いてメリハリを付けた。これなら、雑多なコンビニの混色にも同化せずに目を引くことが出来る。ファッション性もあるから持ち運びに抵抗もなく、きっと受け入れやすいはずだ。

 今度こそ絶対な自信を持って出せるデザインが出来た。ラフをバックアップして事務所を出ると、人も車も通らない暗い道で、コンビニの光だけが闇に逆らい異質に浮かんでいた。

 寝袋を持ち込んで事務所に籠る事もある犬飼さんには及ばないが、初めて深夜までデザインの仕事に打ち込んだ俺は、充実した気持ちで妙に高揚しながらクロスバイクで家路についた。



 翌日は朝から気分が冴えなかった。

 目覚めは良かった。作った朝食も美味かった。しかしコーヒーをうっかり零したところから調子が狂った。

 汚れてしまった靴下を履き替えて家を出ると、天気予報にはなかった雨雲が上空に広がっていた。自転車通勤は断念してバスに乗り込んだが、事故渋滞に巻き込まれるというアクシデントに見舞われた。結局雨は降らなかった。

 遅刻寸前で事務所に駆け込んだ俺を見て、犬飼さんが滑稽だと言わんばかりに大声で笑う。

「おはよー。お前って面白い走り方するのな。イケメン台無しだわ」

「おはようございます」

 笑いをこらえている事務員と犬飼さんに、俺は何事も無かったように挨拶をした。

 昔から運動は全般的に駄目だった。ガキの頃は、足の速さがずば抜けていた晴斗や、どんなスポーツでもやってのける亜貴の事を、自分とは全く異なる人種の宇宙人だと思っていた。実際には誰にも真似出来ない、ぎこちない走り方をする俺の方が宇宙人だったかもしれない。走れば転ぶ。泳げば溺れる。自称人並みを豪語する友紀美の身体能力の足元にも及ばなかった俺は、そのせいで笑われる事に多少の免疫は付いている。

 社長の姿はなく、ホワイトボードに書かれた日程表を確認すると午後出勤になっていた。この晴れない気分も、昨夜のデザインラフを認めてもらえば払拭出来るだろう。この時の俺には自信しかなかった。


「先輩。頼まれてたA社のデザイン修正終わりました」

 振り返って声をかけると、相変わらず仕事が山積みのデスクから「おー。見せて」と犬飼さんが顔を出した。修正データを渡して暫くすると、再び仕事の山からひょっこり顔を出す。

「オッケー。バッチリ。今、S社のデザイン出すから待ってろな」

 言ったそばからプリンターが動き出す。俺が取りに行こうとするより先に、犬飼さんが立ち上がり出力を持って来た。

「ありがとうございます」

 デスクに戻った犬飼さんだが、何やらごそごそと騒がしい。見ればファイルやらカタログやら封書やらを鞄に詰めている。

「先輩、出るんですか?」

「うん。印刷所行って試し刷り見てくるわ」

 あそこのそばにある定食屋の味噌おでんが美味いんだよなー。思った事を包み隠さず口から漏らしてコートを羽織っている。今日は珍しく外食するようだ。

「午後はS社の人が来ますけど」

「今日は正式な打ち合わせじゃないしな。それに担当はお前だろ。それとも何か。一人じゃ不安か? そんなら一緒にいてやろうか?」

「いってらっしゃい」

 下手くそな口笛を吹いた犬飼さんは、寒空の中へ消えていった。

 不安どころかホッとした俺は、何かと横から口を挟みたがる犬飼さんが出した、S社のデザインラフを確認する。さっきチラッと見た時も思ったが,シンプルでさっぱりとした印象のデザインだ。キレイに纏まってはいるが、人目を引くとは思えない。「目立たせるのは商品だ」とか言ってたのは誰だよ。

 まさか、俺に変な気遣いでもしたのか。いいや。後輩に篤実ではなくとも仕事には誠実な犬飼さんが、デザインに手を抜くとは考えられない。どういう事だ?

 眉根を寄せながらも、心の中の目は確実な勝利を見据えていた。今回ばかりは自分のデザインに絶対な自信がある。全く負ける気がしない。


 社長が事務所に入ったのは午後一時半。S社の斉藤さんも一緒だった。偶然外で会ったらしい。

 斉藤さんとは、犬飼さんと一緒に打ち合わせで伺った際に顔合わせ済みだ。応接室に入ると、社長から正式に俺が担当になった事が告げられる。よろしくお願いします、と頭を下げた俺に、斉藤さんは朗らかな表情を浮かべて、薄い頭を下げた。

「ちょっと挨拶に寄っただけですので、どうぞお構いなく」

 お茶を運んで来た事務員にも、斉藤さんは丁寧にお辞儀をした。

「いくつかラフが出来ているので、見ていってください」

 社長に促されて、俺は斉藤さんの前に六つのデザインラフを広げた。最初に制作した俺の三案と、作り直した自信の二案。それと犬飼さんの一案だ。

「早いですね。では早速」

 ラフを見る斉藤さんは穏やかな雰囲気を纏ったまま、しかしその目だけは、さっきまでとは違うスイッチに切り替えたようだ。一瞬にして彼の空気が変わったのが分かる。ラフを一つ一つ手に取っていくが、やはり社長達も首を捻った最初の三案に反応はない。

 残りの三案にじっくりと目を落としていた斉藤さんは、やがて一枚のラフを選んだ。

「私は、これが一番良いように思います」

 ハウンドトゥースチェックか。それともカモフラージュか。どっちだ? 逸る気持ちを抑えて斉藤さんの手元を覗く。

「このデザインは、我が社の商品をよく理解してくださっていますね」

 斉藤さんの手に残った一枚は、俺のデザインのどちらでもない、犬飼さんのデザインだった。

 言葉を失った俺は、自分の何かが音も無く崩れていくのを感じた。まるで砂を積み上げて出来た城が、風に吹かれてさらさらと静かに流れ落ちていき、ただの砂に戻っていくようだ。崩れた何かが「自信」だと気付いて、あんなに固めていたはずなのに跡形も残らないなんて、実にあっけないものだなと客観視していた時は、まだこの状況をのみ込むことが出来ていなかった。


 デザインラフを全て持ち帰った斉藤さんだが、満足気な様子から、犬飼さんのデザインが相当気に入っていることが分かった。

「お前のデザインも良かったぞ」

 そう言う社長の顔には「犬飼ので決まりだな」と書いてある。戻ってきた犬飼さんに、俺は何も言わなかった。本決まりじゃないから報告しなくてもいいと、社長に言われたからだ。しかし、どうだった?とか、一言も聞いてこない犬飼さんも、きっと自分のデザインで決まったなと思っているのだろう。俺のデザインを見てもいないのに随分な余裕だ。

 その後も通常通り、犬飼さんの山積みのデスクから零れる仕事を拾っていた。ところが午後五時になって突然、犬飼さんが「帰る」と言い出す。定時にはまだ早過ぎる。

「これから年に一度の大仕事が待ってるってのに、これ以上働けますかって」

 珍しく緊張気味な犬飼さんの視線を追い、卓上カレンダーを見た俺は「なるほど」と頷いた。今日は奥さんの誕生日か。何も言わない社長は事前に容認しているようだ。

「お前も帰れ。今日はもう頼む事ないしな」

 眉根を寄せる俺に犬飼さんは続ける。

「後輩残して、先輩は帰り辛いんだよ」

 昨日は帰りましたよね。と言う言葉は飲み込んだ。

 結局「犬飼の指示に従いなさい」と社長の業務命令が出て、俺も帰る事になった。

 本決まりではないと言っていたS社のデザインは、もう考える必要がないという事か。それなら確かに俺の仕事は何もない。残ったところで意味はない。

 滅多に乗る事のない時刻のバスは、希望やら不安やら汗やら制汗剤やらを纏った学生達を詰め込んでいた。窓の外を流れる、自宅へと戻る道順がまだ明るい。こんな時間に帰らされる自分の無能さに落とした肩が、右折の遠心力に堪えられずにがくりと揺れた。


 降車したのは賑やかな大通り。そこから一本中に入っただけで、息を潜めているような静けさを帯びる細い裏道が続く。その先に建つアパートの、一階の角部屋が俺の自宅だ。ドアを開け、暗くて冷たいワンルームに明かりを灯して暖を点けても、ホッと息をつく事は出来なかった。

 早く帰れたところで特にやりたい事もなく、いつものように部屋着に着替えて、米を炊いて、風呂を掃除した。見たい番組も特になかったが、暇だからテレビを付けた。夕方のニュースは何一つ頭に入ってこない。俺の頭の中は既に「転職」という、たった二文字の言葉で埋め尽くされていた。

 この仕事でやっていけると確信して、ようやくついた自信がこの日、根こそぎ引っこ抜かれて消失した。選ばれなかった俺のデザインのどこが悪かったのか、未だに全く分からない。俺の案が、犬飼さんの案よりも劣っているとはどうしても思えなかった。しかし惨敗したのは事実。俺は、やっと巡ってきたチャンスをものにする事が出来なかった。

 仕事は結果が全てで、覆らないのであれば落ち込むだけ時間の無駄だ。納得がいかなくても受け入れるしかない。かと言って、受け入れた先に何があるわけでもない。犬飼さんがいなければ仕事がないような、結局アシスタントでしかない俺には。

 この仕事は、俺には向いていないかもしれない。二十代も後半に差し掛かった。転職するなら今かもしれない。この下がりに下がったモチベーションで、俺はあと何日通常勤務が出来るだろうか。意欲も無く生活のためだけに働くのなら、今の会社に残る意味は、俺にはない。今は何を考えても転職という結論に辿り着いてしまう。

「会社、辞めるか……」

 ため息交じりに呟いた。今の会社を辞めるという事は、デザイナーを諦めるという事だ。経験も無く入社し、営業をしながら技術を学ぶ日々を経てようやくなった職業だが、結果も出せず、肩書だけにしがみついている腕も痺れ始めていたところだ。潮時かもしれない。

 特に食べたいものも無いけど、たまには手の込んだメシでも作るか。暇だし。立ち上がってキッチンへ入ろうとした時だった。

 滅多に鳴らないインターホンが鳴った。隣の家に住んでいる大家だろうか。大家はこのアパートの住人を便利屋だと思っている節があり、先月も家に呼び出されて高所の電球交換をさせられた。インターホンにはモニターが付いているが、部屋まで確認に戻るのが面倒でそのまま玄関へ向かってドアを開けた。

 そこに立っていたのは大家ではなかった。

「どーも。ボクです。こんばんはー」

 目の前に、一頭の白熊が立っていた。

「突然すいませーん」

 言葉を失う俺の前に二本足で立ち、言葉を話している。

 俺は、この喋る白熊を知っている。

 薄紅色のネクタイを首に巻き、黒いショルダーバックを肩から斜めに掛けている。これは、俺が小学生だった頃に流行っていた「全員アニマル株式会社」というアニメに登場するキャラクター、白熊の係長。その名もシロクマ係長だ。

「……何をやってるんですか、先輩」

 本物と見間違うほどのクオリティーにまんまと一瞬驚いてしまったが、これは着ぐるみだ。そしてこんな事をするのは、去年のハロウィーンに狼男ならぬ犬男に扮してここに現れ、呆然とする俺を見て楽しんでいた犬飼さんしかいない。

 白熊は耳にはかけていない、顔に挟んであるだけの眼鏡を押さえて首を傾げた。

「どちらかと言えば、あなたの方が先輩ですよ。人生の」

 人生においても仕事においても犬飼さんの方が先輩なのだが、面倒だしそこは放置するとしても……。

「奥さんの誕生日はどうしたんですか?」

「ご心配なく。ボク、独身ですから」

 プレゼントを買い忘れたとか、何かやらかして追い出されたのだろうか。それにしても、この着ぐるみは一体何処で調達したんだ。前回の犬男とは比べ物にならない質の高さ。ゆったりとした仕草、それにゆるい口調と、青年の声までシロクマ係長そっくりなパフォーマンスには、驚きを通り越して感動を覚えてしまう。

「車はどうしたんですか?」

 アパートには契約者以外の駐車スペースはない。来客がある時は、大家が所有する向かいの空き地を貸してもらえる事になっている。前回同様そこに止めたのなら大家に申告しなければならない。

「それも、ご心配なく。歩いてきましたから」

 そんな馬鹿な。眉根を寄せた俺は、向かいの空き地に目を凝らした。しかし車は一台も止まってはいない。本当に歩いて来たと言うのかその格好で? それともタクシーに乗って来たのかその格好で?

「マジで言ってます?」

「はい」

「流石にそれは、まずいですよ」

 仮装文化が定着しているハロウィーンでさえ、これほどまでに本気を見せつけてくるコスプレは滅多にないのに、祭りでも何でもない日にこんなのが出歩いていたら間違いなく不審者扱いだ。やっぱり奥さんと何かあったなこれは。正気の沙汰とは思えない。

「やはり、そうですかー。ボク、ネクタイしか身に着けてませんから、これで出歩くのは犯罪かもしれないと、薄々思ってはいたんですよ」

「ボケとかいらないんで。とにかく上がってください」

 こんなところを大家に見られたら面倒だ。

「では、お邪魔しまーす」

 白熊の犬飼さんは、着ぐるみよりも小さい入り口にからだをねじ込んだ。そして、顔と足が中に入ったところで止まった。どうやら尻を残してドア枠に挟まったようだ。

「困りましたねー。動けません」

「冗談は格好だけにしてくれませんか」

 三十を過ぎたおっさんが何をやってるんですか。という言葉は飲み込んだ。

 引っ張るのは大変そうだな。後ろから押すか。ベランダから外へ出て玄関へ回った。辺りを窺いながら、もぞもぞと動いている背中に声を掛ける。

「後ろから押しますよ」

 ドアノブにつかまるようにして足を振り上げた俺は、白熊の尻を思い切り蹴った。こんなに分厚い尻なら、靴の底で押したところでバレないだろう。多少汚れるかもしれないが、それはサプライズ返しという事で。それにしても柔らかいな。

 どうにか白い巨体を玄関の中に入れると、すぐさまドアを閉めた。

 白熊は幅すれすれの廊下を軋ませながらゆっくり進んでいく。天井の高さは平均値だが、頭部が当たる心配はなかった。身長百八十二センチの俺よりは大きいけど、本物の白熊と比べれば随分と小柄な方だと思う。推定百六十七センチの犬飼さんが入っているのに、歩く後ろ姿に全く不自然さがない。ファスナーも見えない。本当によくできた着ぐるみだなと感心した。

 短い廊下の先にある部屋に入った俺達は、立ち止まって顔を見合わせた。

 キッチンを含めた十二畳の洋間には本棚とテーブルとベッド、それから最低限の家電がある。独り身の俺には不自由なく、一人くらいなら来客にも対応できる広さだが、今の犬飼さんは人であって人ではない。このままでは座れる場所がない。

「いい加減、それ脱いでください。狭いんで」

「ダメですよー。これがないとボク、イケメン度が極端に下がるんです」

 眼鏡とネクタイを押さえて首を振られても、俺はボケに乗る気はない。

「狭いなんて、そんな事はありませーん。広いですよー。洞穴に比べたら」

「脱ぐ気はないんですね。分かりました」

 それならば脱がせるまでだ。俺はテーブルをどかし、本棚の前に座れるスペースを作って誘導した。そして、そこに白熊の犬飼さんが腰を下ろしたところで、無防備な後頭部を瞬時に掴んで引っ張った。

「おや。ヘッドマッサージで歓迎されるなんて、初めてです」

 頭とからだの境目をネクタイで隠していると睨んで、頭部を引き抜こう思ったのだが、ビクともしなかった。

 どこかに必ずファスナーがあるはずだ。今度は背中をくまなく探る。

「ちょうど、そこ、痒かったんですよー」

 いつまでシロクマ係長を演じるつもりか知らないが、これ以上は付き合いきれない。嫌われたところでどうせ会社は辞めるつもりだから関係ない。俺は構わず脇腹や腹部にも手を伸ばし、毛を掻き分けて開閉口を探した。

「全身マッサージまで、していただけるんですかー。雑ですけど、気持ちいーです」

 しかしどこを探ってもそれらしき物はなく、どこを触っても生暖かい。中の犬飼さんは大丈夫なんだろうか。

「暑くないですか、それ」

 脱水でも起こされたら大変だ。

「そーですね。少し、暑いですねー。洞穴に比べたら」

「さっきから洞穴、洞穴って。シロクマ係長は冬眠するんですか」

「しませんよー。洞穴に入った事はありません。ではエアコン、切ってもらえますか?」

「嫌です。俺は寒いんで」

 脱がすのは断念した。

「お茶淹れます」

「どーぞ。お構いなく」

 犬飼さんはきっと汗をかいて喉が渇いている。飲む時は流石に邪魔な着ぐるみを脱ぐはずだ。そう思い立ってキッチンへ入る直前、テーブルに置いてあるスマホが鳴った。「どうぞ」と白熊に促されて手に取った。

「……先輩?」

 画面を確認すると、目の前にいるはずの犬飼さんから着信がきている。俺は眉根を寄せながらスマホを耳に当てた。

『おー。出たか』

 耳に響くのは間違いなく、無駄にデカい犬飼さんの声だ。しかし目の前の白熊は、後ろの本棚を眺めながら「多趣味ですねー」とか何とか呟いている。

「先輩、今どこにいますか?」

『今は家。これから嫁とレストラン行くとこ。超高級なとこ。いいだろ』

 やめなさいよ。と奥さんらしき女性の声が聞こえた。

『その前に。言い忘れてたけどお前、仕事辞めるなんてアホな事、考えるなよ。じゃあな』

 これから奥さんの誕生日を祝おうって時に何を言ってるんだ。この人は。

「終わりましたか?」

 勝手に本棚から抜き出した音楽雑誌を眺めていた白熊が、こちらを見て問いかける。

「……あぁ。図星指しといて一方的に切られた」

「誰からですか? 架空請求ですか?」

「違う。てか、お前が誰だ?」

 目の前の白熊は、犬飼さんじゃない。

 じゃあ誰だ? そもそも本当に着ぐるみなのか? 手に残っている毛の感触と生暖かさが、本物の白熊だと訴えてくる。そんなわけあるかと思いつつ可能性を切り捨てられないのは、視覚と触覚からなるリアルな情報に、冷静さが削がれているからだろう。つまりは混乱していた。

 すると白熊はショルダーバッグから何かを取り出し、太い腕を伸ばしながら差し出してきた。警戒しつつ受け取ったそれは、一枚の名刺だった。

 全員アニマル株式会社 動物介在活動ふれあい課 癒し係 係長 クマ科クマ属ホッキョクグマ。声には出さずに読み上げる。

「こんな物まで用意して、何のつもりだ偽物」

「あ。バレました? ですよねー」

 案外、簡単に開き直るんだな。

「二足歩行で眼鏡をかけていれば、人間になれると思ってましたが。やはり、無理でしたねー。全裸ですもんねー。着られる服がないんです。ボク、結局熊ですから。北極熊ですけどね。ぶふっ!」

 そう言って白熊は、恥ずかしそうに両前足で顔を覆い、独特なスタイルで笑い出した。これは「ふくふく笑い」だ。昔、友紀美がそう命名した。アニメでシロクマ係長は、事あるごとに「結局」と「北極」をかけたクソつまらないギャグを繰り出し、場の空気を北極クラスに冷やしていた。そして一人、いや一頭だけでふくふくと笑うのがお決まりだった。

「どう見ても白熊だろ。そこじゃねぇし。さっき毛の奥見えたけど黒かったぞ。あんた、白熊の毛皮を被った何かだろ」

「御存じボクは、白熊です。白熊の皮膚は、黒いんですよー。因みに毛は、白じゃなくて透明色なのはご存知ですか? 嘘も白黒もつかないのが、ご存知、ボクです」

「知るか。本物の白熊が喋ったり、人ん家上がり込んだりするわけないだろ」

「おっしゃる通りです。でもボクは、ほら。ご覧の通り、ファンタジーですから」

「なるほどな。意味が分からん」

 理解に苦しむが、俺の部屋にいる白熊が、本物のシロクマ係長にしか思えなくなっていた。これがファンタジーか。マジで意味が分からない。

「立ち話も、なんですから。どーぞ、座ってください」

 あんたが言うな。普段なら呑み込む心の言葉を吐いて、俺は向かいのベッドの上に座った。

「……本物のシロクマ係長だと、あんたは主張するんだな?」

「ボクは、ボクですよー」

 犬飼さんではない白熊、シロクマ係長は眼鏡を押さえながら頷いた。

「ちょい待て。タイム」

 一旦、頭を整理しよう。額に手を当て、昔の記憶を引き出した。

「全員アニマル株式会社」はその名の通り、社員が全員動物という設定のアニメだ。人間に助けられた動物達が集まって人間社会で会社を興し、働く事で恩返しをするという内容で、晴斗や亜貴、友紀美もみんなが見ていたから、俺も必然的に見ていた。

 そもそも動物を窮地に追いやったのは、環境を破壊したり、身勝手に捨てたりした人間なのに、どうして恩返しなのかと最初は矛盾を抱えていた俺も、動物が働く姿や、関わった人間と心を通わせていくストーリーに次第に引き込まれていき、放送を毎週楽しみにしていた。

 アニマルならではの多種多彩なビジネスを展開している、全員アニマル株式会社。そのなかでも「ふれあい課」は、言わば主力の花形。医療施設を訪問し、触れ合う事で患者の心を癒す治療の手助けをするドッグセラピーのワンコ三兄弟や、個人宅に出張し、触れ合う事で孤独な心に寄り添う友達の役割をするレンタルペットのニャンコ先輩などがいる。

 そんな会社に属しているシロクマ係長の業務と言えば。

「シロクマ係長は、レンタルペットだと称してデカい図体で家を訪ねて、有料のくせに友達ぶってお節介を焼くんだよな」

 個人宅に出張して、ペットのように人と触れ合う、というもの。

「癒し系のボクに、ピッタリな仕事ですよねー」

 どこがだよ。アニメで見ている分には可愛かったが、至近距離で見るシロクマ係長はリアルな肉食獣でしかない。全く癒されない。正直怖い。

「ここに来た目的も、そうだって言うのか?」

「はい。心配は、いりませんよ。ほらボク、小柄じゃないですかー。邪魔にはなりませんし、洞穴生活の人からお金なんて受け取りませんから」

「ドアに挟まったのは誰だよ。すげー邪魔。あと洞穴ネタはもういい」

 金目的なら、こんな小さなアパートには来ないだろう。こいつには、相手が俺でなければならない理由が何かあるはずだ。

「率直に聞くが、どうして俺なんだ?」

「はい。悄然とした様子でバスに乗っているあなたを、お見掛けしたもので」

 最近バスに乗ったのは今日だけだ。帰宅時を見られていたのか。

「友達も恋人も、いなさそうだなーと、思いましたので。ボクは、孤独な現代人のお友達になりたいと、考えているのです」

「余計なお世話だ」

「恥ずかしがることは、ありませんよ。人類みな孤独ですから」

「恥じる相手すらいないんだよ。心配はいらんから帰れ」

 シロクマ係長は再び本棚を眺め始めた。頭に乗っかった二つの耳は、都合の悪い言葉を拾わないようにできているらしい。清々しいまでの無視だった。

「小説、画集、これは楽譜ですか。ヒコチャンは多趣味なんですねー」

「…………」

 その名で呼ばれた瞬間、まるで真綿で締め付けられるような、鈍い息苦しさを感じて言葉を失った。

 シロクマ係長が手にしているのは、子供の時に習っていたピアノの楽譜。今でも気分転換で電子ピアノを弾く時に使っている物で、表紙には、所々かすれた「hikochan」の文字がある。何にでも名前を書きたがる亜貴の仕業だ。

「深い愛情を感じる、いーお名前ですね」

「本名みたいに言うな」

「ニックネームですか。丁度良かった。ボクの『シロクマ係長』も、ニックネームですし。これで、お互いの呼び方が決まりましたね」

 勝手に決めるなよ。という言葉は、毛深い耳に拾われなかったようだ。

「デザイン関係の本も、たくさんお持ちのようですが、ヒコチャンのご職業は?」

「小さなデザイン事務所で働いてる。けど、もう辞めるんだ。デザインは」

 さらっと心境を吐いて、ハッとする。何をしゃべってるんだ、俺は。

「仕事辞めると? なしてね?」

「何その急なキャラ変更」

「熊だけに、熊本弁で喋るという、オプションです。サービスですよー」

「いらん。はずしてくれ」

 これ以上の面倒はごめんだ。

「良かったらボクに、話してみませんか。どうせ、帰る気も無いので」

 帰らない宣言をしたシロクマ係長は、どっしりと座り込んでいる。

 引きずり出す力は無いし、通報して大家に騒がれるのも避けたい。こうなった要因は、勘違いだったとは言え部屋の中に入れた俺にある。面倒だが、シロクマ係長の気が済むようにするしかないか。

「気付いたんだよ。今の仕事は、俺には向いてないって」

 次は成功するって。そのための失敗だろ。気にするなって。明日があるじゃん!

 もし晴斗がここにいたら、きっとそう言うだろう。あいつの底抜けなポジティブ精神はうざかったけど、正直羨ましかった。あいつはいつも顔を上げていた。前を向いていれば救われると言わんばかりに。でも全てがそうとは限らないんだ。俯いた顔を上げた先で待っているのは、変わらない現実だけなんだ。

「仕事は何も一つじゃない。見切りをつけて、次の可能性を視野に入れる決断は合理的だろ。今後の事を考えればマイナスにはならない。だから辞めるんだ」

 顔や態度には出していなかったはずだが、気付いていた犬飼さんの洞察力には流石としか言いようがない。あんな風になりたいと背中を追ってきた先輩だ。でも、いつまでも犬飼さんのアシスタントをする気はない。

「考えは、お決まりのようですね」

「そうだな」

「でもそれ、間違ってますよ」

「どういう事だ?」

「こちらを、ご覧くださーい」

 眉根を寄せる俺に、シロクマ係長はそう言ってショルダーバッグから四角い何かを取り出す。こちらに向けられたそれは鏡だった。

「ほらね?」

「何がだ?」

「ヒコチャンの今のお顔は、希望がある選択をした人のそれでは、ありません」

 元々パッとしない顔立ちではあるが、鏡の中の俺は一段と冴えない顔をしている。

「……確かに、未練がないと言えば、それは嘘かもしれない」

 諦めるのは合理的な決断だと言いながら、心の隅では思っている。それを盾に身を守り、戦わずして逃げているだけじゃないのかと。

「結果を残してないんだ。一つも。チャンスはあったんだ。自分は何をしてるんだろうと迷い始めていた時だったから、必死にアイデアを練って、これ以上ないってデザインが出来た。絶対の自信もあった。これで迷いも打開出来ると思ったんだ。でも蓋を開ければ完敗だった」

「敗因は、何ですか?」

「それが分からないから納得いかないんだ。俺のデザインより、先輩のデザインの方が勝っていたとはどうしても思えない」

 何が「かもしれない」だ。未練だらけじゃないか。

「シロクマ係長に、どうしてこんな心境をぶちまけてんのかも分からないけどな」

 ただ、胸に溜まっていたモヤモヤとしたものを吐き出せた分、少しスッキリした。

「あのさ。別にいいけど、何急に飯食ってんの」

 シロクマ係長は鏡をしまったショルダーバッグから、今度はおにぎりを取り出して食べていた。

「人の愚痴を聞くのも疲れますので」

「お前が話せって言ったんだろうが」

 肉食獣のくせに、シロクマ係長はおにぎりが好物だ。梅干しの酸っぱい匂いが漂ってくる。

「ほら、何か落としたぞ」

 シロクマ係長がおにぎりを取り出した際に、バッグからひらりと落ちた紙を拾って差し出した。白紙なのか裏向きなのか、何も書いてはいない。古いものなのか少し黄ばんでいた。

「どーも。すいません。ところでそれは、何ですか?」

「俺が知るかよ」

「絵が描いてありますねー。かっこいいので、ヒコチャンに差し上げまーす」

 受け取ろうとしないシロクマ係長の言葉に首を捻りながら、紙を裏返した俺は、自分の手元に目が釘付けになった。

「おい」

「はい」

 A4サイズで少し厚みのある紙には、見覚えのある絵が描かれてあった。

「これは、俺が高校の時に描いたデザイン画だ。どうしてシロクマ係長が持ってる?」

 鉛筆の柔らかなタッチと、細かな水彩の着彩。何よりもこのデザイン。俺が描いたものに間違いない。

「こんな事もありますよねー。だってボク、ファンタジーですし」

 シロクマ係長はとぼけたように小首を傾げた。何だか無性に腹が立つ仕草だ。

 確かに、全員アニマル株式会社は現実にはあり得ないファンタジーだ。意外と情に厚いシロクマ係長が、相手の思い出の品を運んできてくれるというストーリーもあって、感動したりもしたが。ここは紛れもない現実。一体どうなってんだ。

 追及したところで、どうせアイ アム ファンタジーの一点張りだろうな。面倒だからもう聞かん。

「デザイン画とおっしゃいましたが、それは何のデザインですか?」

「なんでもねぇよ。気にしなくていい」

「絵を嗜む営業のオオカミ君が、鏡餅みたいな絵を描きまして、ボクの背中だって言うんです。失礼ですよねー。だからボク、言ってやったんです。天才だ!ってね。それで、それは何のデザインですか?」

「……しつこいな。応援幕だよ」

 アニメで一番気に入っていたキャラクター、営業の一匹オオカミの話をぶち込んでくるとはズルい。思わず口元が緩んでしまった。

「バスケ部員に頼まれて、作ったんだ」

「すごいですねー。十代の頃から、デザインを?」

「やったことなんてなかった。俺は美術部で絵を描いていただけだ。絵が上手いからっていうだけの理由で頼まれた」

 部活動の一環で絵画コンクールに応募し、入賞した俺の作品がしばらく校内に飾られていた。それを見てのオファーだった。

「なんの関係もないバスケ部のためにどうして俺がって、最初は思った。けど、面白そうだなって考えが変わって引き受けたんだ」

 入賞した絵をこれでもかと褒めちぎられて、その気になったのも理由の一つだった。

「初めてなのに、そんな立派なデザインが出来るなんて。才能があるんですねー」

「あんたに才能なんてもんが分かるのかよ」

「才能というのは、人に限った無形文化財ではありませんよ。鷹が爪を隠すように、ボクも、出世という才能をひた隠しているのです」

「一生出世しないタイプだな。俺にもなかったよ、才能なんて。だから苦労した」

 当時の思い出が、苦みを伴って蘇ってくる。

「ダメだしされる度に描き直して、描き直す度に意見が割れて、描いても描いても気に入ってもらえなくて。そのうちアイデアも尽きて、意欲も薄れた」

 手元のデザイン画には、何度も描き直した跡がまだ残っている。この頃、部屋のゴミ箱は常に、大量の鉛筆の削りカスとボツになったデザイン画で溢れていた。

「いくら描いてもダメだった。時間は待ってくれねぇし、断念するしかないところまで追い込まれた。もう諦めるしかない。ボコられる覚悟で断ろうとした」

 これまでの苦労も、バスケ部員達が寄せてくれた期待も、無駄にしたくはなかった。でもこれ以上、無駄な苦労や期待を積み重ねたくはない。最後まで描きたいという思いはあるけど、意地を張ってもしょうがない。描けないものは描けない。この時の俺は完全に諦めモードだった。

「そんな時に、バスケ部の練習試合を観戦する事になった。今更、俺には応援する資格も無いだろって思ってた。でも見ているうちに、嘘みたいにアイデアが湧き出したんだ」

 スポーツに興味はなかったが、追い込まれても最後まで全力を尽くす部員の姿に心が持っていかれるようだった。だんだんと引き込まれて、最後には柄にもなく声を上げて応援していた。そして、使い果たして枯れたと思っていた構想力が芽生えて、急激に成長していった。

「その時のアイデアで満場一致の一発オーケー。完成した幕を見たバスケ部員達がめちゃくちゃ喜んでさ。やって良かったと思った」

 九年経った今でも、あの時の情景は忘れられない。

「そんな事があって、デザイン関係の仕事に関心を持った。でも、デザイナーになろうとは思わなかった。今の会社も営業で入ったんだ」

 デザインに関わる仕事なら何でもよかった。でも、どんなに小さな依頼でも面と向かって取り組み、クライアントから受ける要望を、満足というかたちで返す犬飼さんの仕事を見ているうちに考えが変わった。そして、それを見抜いた犬飼さんが一からデザインを教えてくれた。

「……営業のままでいた方が、良かったんだろうな」

 俺も犬飼さんみたいな仕事がしたいなんて欲を出さなければ。関わる仕事で満足していれば。今更遅い後悔が、くたびれた気持ちに滲んでシミになっていく。もう真っ白には戻れない。

「ヒコチャンにはやりたい事があって、それが出来る仕事に就けた。それなのに、辞めてしまうなんて、勿体ないですね」

 おにぎりを食べ終えたシロクマ係長が、少しだけ前のめりになった。

「本当は、デザインを続けたいんですよね?」

「図星を指すなよ。でも俺には向いてないんだ。夢だけじゃやっていけない」

 何をやっているのかと、ため息を繰り返すだけで前に進まない、堂々巡りの日々に見切りをつける。勿体ないのは無駄に過ぎていく時間の方だ。

 するとシロクマ係長は更にからだを傾けてきた。いくら動物好きな俺でも、目の前に迫る獣の顔面に一瞬息が止まる。耳にかけていない、顔に挟んでいるだけの眼鏡が度の無い伊達眼鏡であるという、どうでもいい事実を知った。

「一度も結果が、出せてないんですよね? そんなヒコチャンに諦める資格があるとは、ボクは、思いません」

「そんな資格があってたまるかよ。分かったような口をきくな」

 即座に反論したが、シロクマ係長の言葉は、弱く柔らかい部分に深く突き刺さった。痛みに耐えて続ける。

「俺だって、まだまだこれからだって思いたいんだ。でも先の自分を信用できない。こんな状態で続けたって無駄だろ」

「無駄な事なんて、ありませんよ。何一つ」

 穏やかな口調は変わらないが、シロクマ係長の、俺を捉える目は鋭い。

「今までしてきた事を、一つでもカタチに出来た時に、初めて選択する資格を得るんです。それも無しに先ばかり見ていても、躓くだけですよ。今みたいに」

 現状躓いている俺は、何も言い返せなくなった。

「まだ、時間はあるんじゃないですか? 最後までやりましょーよ。そのデザイン画を描いた時みたいに。諦めるのは、それからでも遅くはないはずです」

「……分かったよ。やりゃいいんだろ。もう下がれって。鼻息かけんな」

 ゆっくりと体勢を戻していくシロクマ係長から視線を逸らす。脳裏には、俺のデザイン画を見て笑顔を浮かべるバスケ部員達が浮かんでいた。

 出来るだろうか今の俺に、あの時のように最後まで。

 するとバスケ部員達の姿が、チャンネルを変えたようにパッと別人になった。S社の斉藤さんだ。「よく理解してくださっていますね」と笑顔を浮かべる斉藤さんの手には、犬飼さんのデザインラフがある。その嬉しそうな顔とバスケ部員達の姿が重なった時、俺は見落としていた何かの断片を見た気がした。

 見失わないように急いでベッドを降り、キッチンへ入ると冷蔵庫からペットボトルに入ったお茶を取り出した。S社から貰った新商品のサンプルで、二本あるがどちらも未開封だった。

 蓋を開けて一口飲んだ。その瞬間、敗因が分かった気がした。確かめるようにもう一口。お茶の冷たさが腹に下っていくと同時に、解せなかったものまでスッと腹に収まって溜飲が下がる思いがした。

「おや。お出かけですか?」

 パーカーを羽織った俺は、もう一方のお茶をシロクマ係長に渡した。

「何か、分かりそうなんだ。ちょっと買い物行ってくる」

 部屋を出るとクロスバイクに跨り、近くのスーパーまで走った。途中で部屋の鍵を閉め忘れている事に気が付いたが、番犬ならぬ番熊がいる部屋に泥棒は入らないだろう。ただ大家が来ない事だけを祈った。



 買い物を済ませて部屋に戻ると、シロクマ係長は変わらず本棚の前に座っていた。そのうち床が抜けやしないかと心配になったが、大家が来なかった様子には一安心だ。

 キッチンに入ると、早速買ってきた食材の調理に取り掛かった。シロクマ係長が覗き込むように首を伸ばしている。

「料理ですかー。慣れてますね」

「一人が長いからな。言わせるな」

 美味い物を食うための料理は面倒じゃない。それに作る事は昔から好きだった。ひたすら手を動かして黙々と作業する俺を、シロクマ係長は黙って見ていた。

 出来上がった料理を次々とテーブルへ運び、面積いっぱいに四品を並べる。

「味噌煮込みうどんに、手羽先に、あんかけパスタに、味噌カツ。随分たくさん作りましたねー。食べきれるでしょーか。ボク、小食なんです」

「心配するな。全部俺が食うから。って何堂々とつまみ食いしてんだよ」

「料理上手な彼女がいないのも、納得の美味さです」

「黙れよ。箸返せ」

 物理的不可能をものともしない毛深い手から、箸を奪い取って洗う。

「これ、ヒコチャン一人で食べるんですか? その細長いからだに入りますか?」

「問題ない。食える。たぶん」

 普段からこんなに食べているわけではないが、腹も空いてきたしいけるだろう。

「さてと。俺はどこで食えばいいんだ」

 シロクマ係長を座らせるために、テーブルは部屋の隅に追いやっていた。これでは座って食べられる場所がない。

「でしたら、ここへ。どーぞ、お座りください」

「係長の腹に俺が座るのか。勘弁してくれ」

「照れないでくださいよ。ボクが、照れちゃいます」

「おっさんが座って照れるって、おかしいだろ」

「おっさんだなんて。嫌ですねー。ボクたち、同世代の若者ですよ」

「同世代って、あんたいくつだよ?」

「年齢を、聞かれましても。人間とは、同じ年の取り方はしないので、その辺りは難しいんですよ。ボク、結局熊ですから。北極熊ですけどね。ぶふっ!」

 つまらないギャグに身が凍る。早く暖かい飯が食いたい。

 結局、壁とテーブルの隙間に挟まるかたちで何とか座った俺は、甘めに仕上げた味噌のタレをたっぷりかけたカツを頬張り、辛みの利いたあんを絡めた太めのパスタを食べ、甘辛の手羽先に齧り付き、味噌がしっかりと染み込んだうどんを啜った。そして飲みかけのペットボトルの蓋を開け、お茶をグイっと飲んだ。

「思った通りだ。おい係長、さっきのお茶は飲んだか?」

「はい。すっかり、頂きました」

 シロクマ係長が空のペットボトルを持ち上げる。

「どうだった?」

「そーですねー。味わって飲む、というよりは、ごくごくと飲めましたね」

「そうなんだ。素朴でクセが無いからごくごくいける。でも味は単純ってわけじゃない」

 俺は再び食べる手を動かした。

「食事で後味が残った重たい口にこれを流すと、一気に軽くなる。水とは違って、喉の奥までさっぱりとして、口の中が軽快になって、また食事が進む」

 食べては飲む。何度繰り返してもそれは変わらなかった。このお茶はシンプルなのに、よく計算されているのが分かる。斉藤さんが犬飼さんのデザインを選んだのは妥当だったと、納得がいった。目立つ事に重点を置いて出しゃばり過ぎていた俺の案に対して、犬飼さんの案は商品の良さを伝えようとしていた。

「俺は、売れるデザインだけを考えて、先輩みたいに中身を理解しようとはしなかった」

「敗因が、分かったんですね」

「何してんだか、俺は。あの人みたいな仕事がしたいと思っていたはずなのにな」

「気付けたなら、まだ、間に合いますよね?」

「…………」

 口の中がいっぱいで、言葉は返さなかった。諦めるためにもうひと踏ん張りするのもおかしな話だが、それまで引っ込んでいた「この仕事を最後まで諦めたくはない」という気持ちが強く込み上げてきた。同時に胃から空気が込み上げてゲップが出た。

 美味いけど流石に作り過ぎたな。膨らんで悲鳴を上げる腹に鞭を打って残りを口にかき込み、量を考えて大事に飲んでいたお茶を飲み干した。

「あー。食った。限界だ」

「本当にお一人で、残さずきれいに平らげて。すごいですねー。感動を通り越してボク、ドン引きです」

「引いてんじゃねぇよ。はぁ。悪い。ちょっと休憩させてくれ」

 壁とテーブルの隙間から抜け出してベットに寝転がった。そうしてしばらく酷使した腹を休ませるつもりだった。しかし数分も経たないうちに俺は起き上がった。

「おや。休憩は、もういいんですか? トイレですか?」

 無視して食器を洗い、テーブルの上を片付けた。それからシロクマ係長を押しのけて、本棚からスケッチ帳と筆記用具を取り出し、また隙間に入り込むようにしてテーブルにつく。

「急にアイデアが湧いた。しばらく黙ってろ」

 飲み食いしている間に小さく芽生えていたアイデアが、一気に急成長して頭から溢れそうだった。この感覚は、あの時と似ている。バスケ部の練習試合を観戦中に込み上げた、みんなの気持ちをカタチにしたいという思い。そして湧き出て止まらなかった応援幕のデザイン。

 S社のデザインは犬飼さんの案で決まったようなもの。チャンスがあるとすれば、それは間違いなくラストチャンスだ。

 資料は会社から持ち出せないが、読み込んだから概ね頭に入っている。事務所以外のパソコンでの作業は禁止されているから、紙に手描きの作画しか出来ないが、やるしかない。

 溢れそうなアイデアを夢中で紙面に移していく。色見帳を広げ、定規で測り、描いては消して、消しては描いた。紙とペン先がこすれ合う音だけが部屋に響く。

 やけに静かだな。視界の端には白い巨体がいるのに、まるで俺一人しかここにいないみたいだ。ふと気になって手を止めた俺は、シロクマ係長を見上げた。

「あのさ。何やってんの?」

「…………」

 シロクマ係長は固く口を閉ざしていた。そして何故か両目も閉ざしていた。

「しゃべれよ」

「……黙ってなくて、いーのですか?」

 囁くような声のシロクマ係長が、うっすらと目を開けた。

「何で目も閉じんだよ」

「心を無にして、静めておりました」

「人ん家で座禅を組むな。気が散るからもう普通にしててくれ」

「お任せくださーい。ボク、普通でいるのは大得意ですから」

 こんなにも説得力の無い言葉は聞いた事がない。現実のアパートの一室にシロクマ係長がいるこの状況が既に普通ではない。

「お前が本物だろうが偽物だろうが、そんなのはもういい。けど一つだけ聞く」

 話せと言われた事は話した。しかしシロクマ係長は相変わらず座り込んでいる。

「何故帰らない?」

「それはですねー。ボクが、ここにいたいからです」

「なるほどな。勝手にしろ」

 俺は構わずデザインを描き続けた。何本もの鉛筆を短くし、動かす手の小指から手首までが真っ黒になるほど、夢中で応援幕を描いていたあの時みたいに、時間を忘れて没頭した。

 日付が変わって風呂に入った後も、欠伸をかみ殺してペンを握った。すると、それまで本を読むなどして不気味なほどにおとなしくしていたシロクマ係長が、ゆっくりと立ち上がった。退屈になって帰る気になったのだろうと思いきや、キッチンに入り、しばらくして戻ってきた。俺のマグカップにたっぷりとコーヒーを淹れて。

 どれだけ夜が更けてもシロクマ係長は帰ろうとはせず、俺がコーヒーを飲み干すとお代わりを淹れてくれた。俺がくしゃみをすると、寄り添うように隣に座った。邪魔で仕方なかったが、湯冷めしたからだには暖かかった。



 締め切ったカーテンの隙間から、白い朝が覗く頃にようやくデザインは完成した。座ったまま眠っているシロクマ係長の横で、俺も少し仮眠をとった。それから急いで身支度をして、いつもより早く家を出た。眠り続けるシロクマ係長は、そのまま部屋に置いていった。

 誰もいない事務所の明りと空調を点けると、静かだった室内が息を吹き返したみたいに稼働し始める。デスクに座ってパソコンを立ち上げた俺は、デザインラフの制作に取り掛かった。犬飼さんが出社したのは、それから四十分後。挨拶をすると、俺を見るなりにやりと笑った。昨晩の大仕事は成功したようだ。その後に事務員と社長が出社した。

 朝の清掃は俺と事務員の仕事だ。最初は事務員が一人でやっていた事だが、高い場所にある採光用の窓の掃除を手伝っているうちに、いつしか清掃員になっていた。いつものように事務員が掃除機を手にすると、俺も雑巾を出そうと立ち上がる。しかしすぐさま社長に止められた。

「いいから。続けなさい」

 言われて席に戻ると、横に立った社長は腕を組んでパソコン画面を覗き込んだ。S社のデザインである事は商品名で分かるはずだが、黙ったまま何も言おうとはしない。

 前回の目を引くデザインとは違って派手さはない。用いた単調なラインを敢えて少し歪ませることでシンプル過ぎない奥行きを表現し、全体を覆う色を淡くすることで、一番印象に残った、後味を残さない軽さという特徴を訴えた。

 平静を装いながら、内心は蛇に睨まれた蛙状態で何とかデザインラフを完成させた。

「よし。出来たな。犬飼、見てみろ」

 社長に呼ばれた犬飼さんが、仕事の山から顔を出した。俺の背後に立ってパソコン画面を眺めた二人は、無言のまま顔を見合わせている。どうして何も言わないんだよ。その反応は何なんだ。良いのか、悪いのか、どっちなんだ?

 気を揉みながら意見を待っていると、電話が鳴った。気持ちの悪い隙間風に吹かれるような嫌な予感がした。電話を取った事務員がこちらを向いて「S社の斉藤さんからです」と告げると、今度は恐れていた事態の予感に不安が煽られる。間もなく手元の電話機が短いサイクルの着信音を鳴らした。

 電話に出ると、不安は現実化した。犬飼さんのデザイン案を採用したいという内容だった。こうなる事は分かっていたが、最悪のタイミングに動揺は隠せない。しかし諦めるつもりは無かった。

「あの!」

 俺は縋る思いで受話器をグッと握りしめた。

「見てもらいたいデザインがあるんです。これから、すぐに伺いますから見てもらえませんか。一つだけです。お時間は取らせません!」

 社長の許可は得ていない。それでもこれはラストチャンスだ。駄目だと言われても行くつもりだった。

 斉藤さんは少し間を置いた後、了承してくれた。

「お前……」

 電話を切ってすぐさま、真顔の社長に肩を叩かれた。

「らしくないな」

「すみません。でも俺、行きます」

「あぁ。行ってきなさい。今すぐに」

 目を見開く俺に向かって、社長は社用車のキーを投げて寄越した。

「……ありがとうございます。行ってきます」

「犬飼も認めたデザインだ。胸張って見せてくるといい」

 振り返ると、デスクに戻る犬飼さんがにっと口角を上げた。

「腹減った。帰りに何か買ってきてくれ。美味そうなやつな」

「了解です」

 初めて社長や犬飼さんに認められた喜びを噛みしめる間もなく、準備をして事務所を出た。S社へ向かう俺は、この世から消滅したと思っていた自信を取り戻していた。


 午後八時を過ぎてアパートへ戻ると、帰宅前の部屋から明かりが漏れている珍しい光景に、思わず立ち止まった。

「おかえりなさい。誰か来てるのかい?」

 後ろから声を掛けてきたのは、コンビニのレジ袋を片手に下げた大家だった。

「はい。……友達が」

 ドアを開けたら中を覗かれそうだな。鍵を探すふりをして、大家が去るのを待ってから中に入った。シロクマ係長は相変わらず本棚の前に座っていた。

「おかえりなさーい。どーでした? ダメでした? 慰めは必要ですか?」

「勝手に決めるな。必要ない」

 シロクマ係長と向き合うようにしてベッドに腰を下ろした。

「採用された。俺のデザインが新商品のラベルになる」

 S社に着いた俺は会議室に通された。そこでは斉藤さんが企画部の人達を集めて待っていてくれた。俺のデザイン案を見せると、既に決まっていた犬飼さんの案と並べて打ち合わせが始まり、満場一致とはいかなかったが、俺の案の採用が決定した。

「良かったですねー。結果が、これで残せました」

 シロクマ係長がショルダーバックを開ける。また何か俺の過去を出してくるのかと思ったが、出てきたのは缶ビールだった。

「めでたいので、お祝いしましょー。乾杯しましょー」

「ファンタジーより缶ビール掲げてる方が似合うぞ係長。でも悪いが、俺は飲まない」

「そーですかー。では頂きまーす」

「飲むのかよ。まぁいいけど、酔って暴れたりしないよな?」

「心配いりません。ボク、暴れた記憶はありませんから。記憶は全部、消えるので」

「心配しかねぇわ。飲みたきゃ外で飲んでくれ」

 するとシロクマ係長は「そーですね」とあっさり引き下がってビールをしまった。

「それでは、踊りましょーか。それとも、歌いましょーか」

「好きにしろ。外でな」

「飲まない。踊らない。歌わない。ヒコチャンはクールですねー。凍えそうです。でも大丈夫ですよー。ボク、防寒対策はばっちりですから」

 アニメのシロクマ係長は歌ったり踊ったりしなかったはずだが、祝おうとしてくれている、その気持ちだけ受け取っておく。

「何もしなくていいから、俺の決心を聞いてくれないか」

 すると、ズレてもいない眼鏡の位置を微調整してこちらを見つめるシロクマ係長に、俺は真っすぐな視線を返した。

「これで、諦める資格は得たわけだよな」

「はい。バッチリです」

「でも、これからも商品と向き合ったデザインを、数多く生み出していきたいっていう目標も得たんだ。俺は、この仕事を続ける」

 俺の言葉に頷いた白い顔は、笑っているように見えた。人の言葉を喋っても、人のように発達した表情筋はないから、ふくふく笑いのように誇張がないと感情はよく分からない。それでもその顔は、どこか満足しているように見えた。

「好きだからこそ不安は生じてしまいますが、続けると決めた自分を、これからも信じてあげてください」

 この時の顔はきっと、希望がある選択をした人のそれ、だったのだろう。俺の決断に、もう間違いだとは言わないシロクマ係長が立ち上がる。

「では、そろそろ御暇しまーす」

「帰るのか。……ちょっと待て、玄関には行くな。また挟まる」

 玄関のドアが外れでもしたら面倒だ。廊下へ進んだシロクマ係長を呼び戻し、部屋の掃き出し窓を開けた。全開にすれば問題はなさそうだ。冷やりとする風が、窓枠に手をかけたシロクマ係長の白い毛並みを撫でる。その様子を見ていた俺の口が自然と開いた。

「……ありがとう。来てくれて」

 壁に当たった俺は行き止まりだと思った。シロクマ係長がいなかったら、別の道を行っていたはずだ。結果が出せた事よりも、これからもやっていけるという自信と、こうありたいという希望を取り戻せた事が嬉しかった。突き進んで良かったと、思える今が嬉しかった。

「ボクは、友達ですから」

 新商品、楽しみですね。そう言ってシロクマ係長は帰っていった。

 鏡餅のような白い後ろ姿が遠ざかっていき、やがて角を曲がって消えた。ふと窓ガラスに映る穏やかな笑顔と目が合い、それが自分だと気付くと思わず噴き出した。

 なんて良い顔してんだ、俺は。


 S社との最終会議を終えて、無事にデザインのデータを印刷所に入稿した。その夜、初めて犬飼さんの自宅に呼ばれて夕食をご馳走になった。犬飼さんが持っていた、あの不細工な犬のパペット人形は奥さんの手作りである事を知った。

 犬飼さんがトイレに行っている間、奥さんが「自分では捻り出せないようなアイデアをポンと出してくる君の事を、夫は頼もしい後輩でありライバルだと思っている」と、こっそり話してくれた。

 どうでもいい話は壊れた蛇口みたいに垂れ流すくせに、本心はせき止めるのが犬飼さんだ。寝耳に水の話で驚いたが「内緒ね」と人差し指を立てた奥さんに、俺は笑顔で頷いた。戻ってきた犬飼さんに「俺の嫁と仲良くすんな」と小突かれた。連れて来たのはそっちですよ。という言葉は飲み込んだ。

 あれから、白いアイツは来ていない。商品の発売日が決まり、知らせてやろうと本棚の引き出しを開けた。貰った名刺には連絡先が書いてあるはずだ。ところが、そこにしまったはずの名刺が、応援幕のデザイン画と共に忽然と消えていた。

 ファンタジーって何だよ。ここにいた白い巨体は、幻だったのかと疑い出した時だった。

『決めた自分を、信じてあげて』

 耳に残っているシロクマ係長の柔らかな声が、遠い記憶を呼び覚ました。

 そして思い出した。応援幕のデザインを断ろうと思ったあの時、きっと描けると最後まで俺を信じてくれた人がいた事を。

『ヒコチャン』

 遠いあの日に呼ばれた俺は、蹲る様にして本棚の前に座り込んだ。

 それは、シロクマ係長の正体にようやく気付いた瞬間だった。


 電車が少しずつ減速していく。俺が生まれ育った街、豊橋はもうすぐだ。