プロローグ


 二〇一四年二月某日PM。東京・渋谷区。僕は失うことができるすべてのものを失った。



 ほころびかけた梅の蕾がシャリシャリに凍ってしまいそうな寒い冬の日だった。

 未明から降り続いた雪はみぞれに落ち着いたものの、寒さの本質はまるで変わることなく都心を冷やした。

 僕はひとり、夕方までアキバを彷徨ってパソコンやゲームソフトを眺めたりして気ままに過ごし、そのまま新宿に出て実写化された話題の邦画を見た後、マックで夕食をとりながらスマホでいろんなアプリをいじってうだうだリラックスした自分だけの時間を潰した。ようやく渋谷の外れにある自宅へ戻ってきたのは夜十一時近くだった。たまにはこんな日も必要だ。

 死んだおじいちゃんが遺してくれた木造の一軒家には、この春から大学生になる僕と、父と母の三人で暮らしていた。

 渋谷区内に庭付きの戸建の持ち家があることを、いろんな人からすごいとか金持ちだとか言われて育ってきたが、そんな実感は微塵もない。父は普通の会社員で、母は普通の専業主婦だ。僕は公立の小中高に通い、来月ようやく高校を卒業できる。

 正直、心の底からほっとしていた。

 これで学校、いや、あいつらから解放されるからだ。

 異変に気づいたのは、高校一年生の夏休みが終わった二学期の始業式の日だった。

 教室に入った瞬間、神経を刺すような毒々しい奇妙な違和感を覚えた。クラスメートの誰もが一瞬だけ僕の存在を捉え、即座にスルーした。

 ガン無視。僕は標的になっていた。

 理由はいまだ不明だ。ただひとつだけ――あるとすれば、一学期の実力テストで一位になったこと。けど、それだけのことで、どうして自分がハブられるのかわからなかった。首謀者が誰なのかも、もちろんわからなかった。

 僕はクラスで特別目立つ存在やリーダー格ではなかったものの、それなりに男子からも女子からも人気があるほうだった。

 それが突如として崖から突き落とされたみたいにして、僕は孤独という穴に閉じ込められてしまった。

 そしてガン無視は三学期になっても、二年生になっても変わることなく継続した。むしろ加速していった。僕はひどく孤立し、所属していたパソコン部も辞めた。

 誰ひとり話しかけてくれない学校は針のむしろだった。ネットにつながったラップトップパソコンだけが僕の友だちとなり、遊び仲間となった。おかげでプログラミングやハッキングの知識とスキルだけはぐんぐんと伸びた。

 地道に努力を重ね、指定校推薦枠で有名私大への合格を果たしたのは三年生の十二月のこと。

 以来、僕は必要最低限しか高校に通わなくなった。パソコンやゲームだけでは消化できないほどの暇を持て余したため、教習所に通って自動車免許を取得したり、英会話学校に行ったりして、ひと足早い脱高校生気分を味わった。そうすることで悪夢に等しかった三年間に、気持ちのうえでピリオドを打ちたかったのもある。もっとも僕を標的にしてきた連中だって、みんな我が身の進路のことでアップアップし、とてもガン無視に気を注ぐ雰囲気はなくなりつつあったけど。

 いずれにせよ、いい思い出のひとつだってない学舎と疎遠になるのは当然だった。

 優しくて物静かで穏やかな両親は、そのことについて特になにも触れなかったし、言及しなかった。おそらくは陰湿なイジメの事実を察していた節があったのかもしれない。それでも登校拒否をするでもなく、引き籠るでもないひとり息子の僕を信じてくれていたのだろう。どんな逆境下に置かれようと、執念で成績はつねにトップクラスを維持した。集中力と根気では誰にも負けない自信が育まれた。ハブられてる現実が発奮材料になったのもある。そのぶん、父さんと母さんは、僕の唯一の趣味であるパソコンには大いに理解を示し、あらゆる環境を整えてくれた。

 優しかった両親。外が地獄でも、家に帰れば当たり前の平和とささやかな幸せが待っていた。

 その夜、僕が氷のように冷たいドアノブを握ったときも、その戸口をくぐればいつもの平穏な家庭と家族があると信じ切っていた。

 が、それは大きな間違いだった。

 狭い玄関口に足を一歩踏み入れた瞬間、僕は凍りつく。

 血だ。

 おびただしい血糊――その先に血まみれで転がって動かない、父さん、母さん。

 僕の心の奥底の、とてつもなく深い部分に、じんわりと音なくどす黒い影が根を下ろした。

 あちら側――それも到底まともじゃない、あちら側の世界に赴くことになるとは、そのときの僕はもちろん知り得ない。


 けれども、そのようにして僕の長い長い旅の話は始まりを告げた。



第一章 胎動



 十八歳。まるで孤独で、身ぐるみはがされた真っ裸の状態、僕は社会に放り出された。事件が発覚した晩のことは、今となってはうろ覚えだ。それくらい錯乱の極致にあった。

 黒く濡れた道路に号泣しながら飛び出し、スマホで警察に通報した。

 ややあってパトカーが家の近隣を埋め尽くすなか、私服警官に囲まれた僕は力づくで渋谷署へ連行された。薄暗い個室で長い間尋問を受け、その日の行動を何十回も繰り返して綿密に供述させられた。ぼんやりした頭で、あ、これって犯人扱いされてんだな、という空気だけは明確に察知した。

 地下にある、仮眠室という名の黴臭い留置所に連れられて、ようやく横になることができたものの、脳裏に浮かぶのは血みどろの両親が横たわる光景だけだった。

 僕は意識の半分で現実を認識しながら、もう半分では到底受け入れられないでいた。これが自分の人生に起きていることだというリアリティが欠落していた。

 僕は暗闇で目を瞑って現実逃避するしかなかった。



 僕を現実の側へと引き戻してくれたのは、叔父のジュンさんだった。

 母さんと十二歳も年の離れた弟。母さんはハタチ過ぎで僕を生んだため、叔父というより、兄といった距離感のほうが強かった。

「大丈夫か?」

 四日ぶりに警察から解放される際に身元引受人となったジュンさんは、赴任先であるシカゴからわざわざ帰国してくれた。僕にはほかに身寄りがいなかった。

 久しぶりに会うジュンさんはちょっと老けて見えたというか、疲れているように映った。もっとも僕はといえば、彼とは比較にならないくらいひどい顔をしているはずだけど。

 うん、と僕は声にならない声で曖昧に肯くしかなかった。

 人で溢れた渋谷の雑踏が怖かった。彼と連れ立って歩を進めるも、きょろきょろとすれ違う人に目が動いてびくびくした。

 男、女、若者、ギャル、老人、外人――このなかに父さんと母さんを殺した奴が潜んでいるかと思うと、気が気ではなくなりそうになる。声を張り上げて絶叫し、発狂しそうになる。それくらい厳しい現実は、ゆっくりとだが確実に僕の喉元をぐいぐいと締め付けていた。

「――聞いてるのか?」

 え? 肩を軽く揺すられ、はっとして僕は我に返った。顔を上げて、自分より頭半分背の高い叔父を仰ぐと、彼もまたのぞきこむようにして心配そうに僕を見ていた。目の下にクマが浮いている。赤く充血した両目は、惨殺された姉を悼むものなのか、それ以外の理由によるものかは判断がつかなかった。そんな複雑な表情に映った。

「俺と一緒にシカゴに住むかって、言ってるんだよ」

 とっさに、僕はジュンさんの奥さんのカオリさんを思い出す。

 きれいな人だったけど、どこか神経質そうで近寄りがたい部分があった。しかも年齢はまだ二十五、六歳のはず。両親を惨殺された血縁のない十八歳の男子が、子供のいない夫婦の海外生活に割って入ってうまくいくわけないのは、火を見るより明らかだった。それくらいは容易に想像できた。僕は力なく首を横に振った。

「ううん、いい。迷惑かけたくないし。てか、海外無理だし」

「気を使わなくったっていいんだぞ。カオリにも事情は話してあるし、彼女も納得してる」

 嘘だ、とは口に出かかっても声にならず、唇を結んだ。

 目を落とすと、アスファルトを黒く染める滲みが血糊に見えてぞくっとする。連鎖的にあの家にはもう住めないんだな、とも思う。

「大学、行けるか?」

 僕はまたも首を横に振るしかなかった。学校とか、未来とか、将来とか、いや来月とか、来週とか、明日のことだって、というか今日の夕方すら想像できそうもない。

「――今は、まだなにも考えたくない。てか、無理だし」

 ――まあそうだよな、とジュンさんはため息とともに弱々しく言葉を漏らした。


 それから三日間、僕はジュンさんが泊まる新宿のビジネスホテルの隣の部屋に滞在した。春を間近に控えているはずなのに、季節外れの凍るほど冷たい、みぞれや雪混じりの雨が毎日のように降りしきった。

 両親の死後のさまざまな手続きで外出する以外も、ジュンさんは僕とともに食事をし、ともにお茶を飲み、ともに時間を過ごした。葬儀はしないことで一致した。

 彼は複雑にこんがらがって絡まった釣り糸を根気強くほどくみたいに、辛抱強く僕に接した。そして質問を投げかけては、僕のネガティヴな反応にじっくりと考えこみ、おそるおそる回答を用意した。今後のこと、大学、生活全般、そして住む場所について――などなど。

「いっそのこと、鎌倉にでも引っ越してみるか?」

 新宿の居酒屋で夕食を終えようとした頃、思いがけない提案を叔父はしてきた。

 同居は嫌だ。日本を離れたくない。犯人を捜し出したい。犯人に復讐したい。大学には行かない。カウンセリングなんて冗談じゃない。しばらくひとりきりになりたい――。

 目の前に迫る現実に抗うように頑なに首を横に振り続ける僕に、彼は伸びをしながらぽつりとそう言ったのだ。

「カ、マ、ク、ラ?」

 僕は微妙に語尾が上がるイントネーションで繰り返した。

「そう、鎌倉だ」

 ジュンさんは自分のセリフに肯き、ビールの残りをぐいっと飲み干した。

「覚えてないかなあ? お前が小学生の頃、姉さんや義兄さんと一緒に、夏になると何度か遊びに行ったんだけどなあ。俺の親父、お前のおじいちゃんの別荘でさ。姉さんがいらないっていうんで俺が相続してさ。今、誰も住んでないんだ。地元の不動産屋に管理を任せてて定期的に手入れしてもらってるから、ぜんぜん暮らせるんだけどな」



 それから一週間後。一緒に行ってやるって、という叔父の申し出をやんわり断り、僕は必要最低限の衣服とラップトップパソコンをトートバッグに詰めこんで、湘南新宿ラインで藤沢へ向かった。

 都会の景色が車窓越しに過ぎゆく。建物と車と人混みと電線だらけの色褪せた街。両親を殺した犯人はいまだ捕まっていないばかりか、特定さえされていなかった。

 ただ、外国人、おそらくはアジア系グループによる組織だった犯行らしい、とジュンさんは僕との別れ際、耳打ちするようにして教えてくれた。そうして彼は心配そうな面持ちでシカゴへと帰った。

 ようやく迎えつつある春の陽を浴びながら、いつしか僕は眠っていたようだ。気がつけば次の駅はもう藤沢だった。僕はふらふらした足取りで江ノ電に乗り換えた。

 正午を迎えた時分の湘南は東京よりも数段春の陽射しが暖かく感じられた。

 電車は空いていた。物静かな老夫婦。乳児を抱く若い母親。参考書を読んでいる予備校生風の生真面目そうな男性。車内にはのんびりとした空気が漂い、振動に合わせて春の暖気がふわふわ躍った。江ノ電は平屋の住宅街を縫うように敷かれた線路の上をごとごとのどかな音をたてて走った。

 腰越を過ぎたあたりで、視界が明るく広がった。僕は光のほうを振り返ってみた。

 海だ。

 今年初めて見る海。海面が陽光を受けてきらきらと眩しく乱反射を繰り返していた。

 思わず、目を細める。

 それを捉えた瞬間、不思議なほど、憂鬱な気分から、どす黒い影から解き放たれた気がした。


 ジュンさんの家は七里ヶ浜を望む高台の一角にあった。思いがけず、鎌倉の閑静な住宅街のなかでも、ひときわ貫禄を感じさせる木造二階建ての屋敷だった。

 旧家らしい風格を醸し出す屋根つきの門構えをくぐり抜けると、刈りこんだ芝生の庭が広がった。なるほど手入れは行き届いているようだった。

 満開にほど近い河津桜の樹が青く澄み切った空に美しく映えた。

 繁みから春を歓ぶ鳥のさえずりが聞こえ、南風で葉が揺れてかさかさと音をたてた。

 二階に上がると、リビングの大きな窓から海が臨めた。解錠してガラス戸を開け放つ。とたん、都会よりもいっそう柔らかな春を含んだ汐風が、ふっと邸内に流れこんだ。

 僕は手短に拭き掃除を済ませると、シャワーを浴びて服を着替え、散歩に出てみることにした。足は無意識に海を目指した。真っ直ぐな坂道を下り、江ノ電の踏切を通り過ぎて国道を越え、海に面した広い駐車場にぶつかった。

 汐の匂い。波の音。中空を舞うとんびが高らかに啼いた。

 僕は防波堤に座って水平線をぼうっと眺めた。両親の死が頭から離れることはなかったが、それでもこの町に住む選択は間違いではないように思えた。

 僕はまなざしを沖に向けて定めた。海面にはたくさんのサーファーが浮かんでいた。ふと、納屋のラックに置かれていた十数枚のサーフボードを、僕は思い返していた。


 鎌倉生活四日目。今日もまた春らしくぽかぽかとした陽気に満たされた気持ちよい一日が始まろうとしていた。僕は浮力がありそうな大きめのボードを抱えて坂道を下っていた。波乗りどころか、運動なんて、体育の授業以外では無縁だった。でもどうしてだか、僕は海に魅せられるように惹きつけられた。そうして気がつけば、なかば衝動的にウェットスーツを着て、サーフボードを物色していた。

 たぶん、別世界の別次元に身を置くことで、僕は僕を侵食するどす黒い影とか、事件に関連するいきさつや過去とかを、少しでも洗い流したかったんじゃないかと思う。

 駐車場に着き、海原を見つめる。波は穏やかで、サーファーもまばら。好都合なコンディションに映った。僕は軽いストレッチを済ませて潮水に浸かった。

 早速、見よう見まねでボードに腹ばいになり、両手を回して海水を掻いてみる。手足が硬く緊張していた。想像以上にサーフボードが前へと進まない。腕も回らない。すぐに息が上がり苦しくなる。

 それでも力を振り絞ってよたよたと水掻きを継続し、なんとか白波が立つポイントまで出ることができた。早くもスーツの内側には湿るほどに熱い汗をかいている。

 僕は息を整えて波を待った。やがて迫る小波。腕立て伏せする要領でボードの上に立とうと試みる。波の大きさはわずかに腰くらい。なのに波のパワーに身体を押されて、ボードから叩き落され、次々とやってくる波にぐしゃぐしゃに揉まれた。

 海はすべてを見透かしたみたいに断じて僕を受け入れようとしなかった。

 それでも悪あがきを続けるうち、かなりの量の海水を飲んでしまった。胃液がこみ上げる。激しい吐き気が襲った。結局、一度も波に乗れないまま、三十分ほどでビーチへ戻った。へとへとになって砂浜に足を投げ出し、しばらく肩で荒く呼吸した。隣にはボードが砂まみれで横たわっている。

 翌日も朝から晴れた。昨日の無様なサーフィンですら上半身の筋肉が悲鳴を上げた。シャワーノズルを持つことも、Tシャツを着ることもひと苦労だった。にもかかわらず、僕はふたたびウェットスーツを着こんで長めのボードを抱え、坂道を下った。

 僕は失ったなにかを取り戻すみたいに、波乗りに執着し、のめりこんでいった。

 心にぽっかりと空いてしまった喪失感を埋めるものなど、もはやこの世にないと知りながら。



 その波は大きすぎると感じたが、なんとかいけるんじゃないかとも思った。

 明らかに過信していた。ちょっとした油断もあった。ここ三週間の練習で、僕は自己を過大評価してしまった。

 パソコンを駆使して波乗りの原理を理解し、基礎的なテクニックを学び、サーフィン用語も覚えてきた。ユーチューブで数えきれないほど動画コンテンツを眺めてはイメージトレーニングを重ね、基本的な動きを脳と身体に覚え込ませた。

 けれども現実はシビアだった。波は容赦しなかった。自分の背丈以上の大波に巻かれて僕はあっけなく波面に叩きつけられた。クラッシュ。ロングボードの先端が鋭角に突き刺さる。海は残酷に僕を呑みこんだ。水中に放り出された瞬間、身体に残された空気を吐き出してしまった。焦るあまり、とっさに息を吸いこもうとして、当然だが大量の海水を飲んだ。圧迫された気管に走る激痛。暴れる肺。まともな判断力が一瞬で奪われた。洗濯機に揉まれるように体躯が回転し、上下左右の感覚を失う。

 パニック状態。つんとした潮の匂いが鼻の奥に到達した。目を開けると白濁した海水が不穏にうねっていた。圧倒的な水流と水泡のパワーになすすべを失う。もちろん足は海底に届かない。なにかに掴まろうとするけれど、もがく手は虚しく水のなかで空を切るだけ。そうだ、ボードだ。ボードを引き寄せるんだ。脳が辛くも現実的な手段を伝達する。そうして右足に巻きつけたリーシュコードを右手で掴んだ。

 ? 様子がおかしい。ロングボードの荷重がまるで感じられない。水中であがきながら僕はなんとかリーシュをたぐる。

 不安は的中。やはり、ボードはなかった。波のパワーに負けてボードとリーシュの接続部分が切れたようだ。

 その事実を理解した瞬間、計り知れない絶望感に襲われた。溺れる。死の予感。もう息がもたない。なんとか這い上がって呼吸するんだ。己に強く命じる。

 幸い、辛うじて波のパワーは衰えてきたようだ。きらきらと天で輝く太陽をぼんやり把握できた。最後の力を振り切り、海水を掻き分け、プッシュアップして海面を目指す。

 あと少し。限界体力をすべて集結させ、ぐいっと両手で大きく水を押しのけた。

 出た。水面だ。勢いよく頭を海上に持ち上げる。空気を感じたとたん喉の奥が焼け、気管に入った海水を胃液と一緒に吐き出した。それでもなんとか呼吸を試みる。力いっぱい空気を吸いこもうとするが、肺に力が入らない。

 立ち泳ぎのまま、涙が浮かぶ瞳で岸を探す。遠くにビーチが滲んで見えた。かなり距離があるが、とりあえず助かりそうだ。

 そう安堵した直後だった。さらにパワーのある波が頭から覆い被さった。ぐいぐいとふたたび海中へ引き戻される。運が悪いことにうねりがまだ入り続いていたと悟る。先ほどよりさらに大量の海水を飲みこんでしまった。それが決定打となった。生きようとするモチベーションがふっと奪われた。もはや浮上する力は欠片も残っていない。

 もうだめだ、となかば諦め、脱力しかけた。それも悪くないと思えた。

 いっそ、そのほうが、楽になれるんだ――ね、父さん、母さん、そうだろ――――。

 そのときだ。生を諦めかけた薄い意識のなか、右腕をがしっと力強く掴む、ごつごつした男の手を感じた。水泡が舞う海中でうっすらと目を開けてみた。

 そいつは深い海の底から僕を救い上げる、神のように映った。



「お前、ここんとこ毎日顔見せてる奴じゃねえか」

 男はぶっきらぼうに言った。「もう少しで死ぬとこだったぜ」

 男は淡々と続ける。

「たいていのビギナーはああやってセットに巻かれて死ぬんだよ」

「セット?」

「ああ、何本かまとまって入ってくるうねりのことだよ。お前、そんなことも知らねえで波乗りをやろうってか?」

 海水を嘔吐しながら無様に嗚咽する僕を見下ろし、褐色に日焼けした男はクールに忠言した。「ま、海をナメねえこった。それからリーシュにも気をつけんだな。特にロングの場合はな。おおかた塩で腐ってたんだろうよ」

 僕は浜に屈した姿勢から涙の浮いたまなざしで仰いだ。

 真上から照りつける太陽の逆光となって、そいつの表情や顔形はうまく捉えられなかったものの、屈強でタフなオーラを感じた。

「――あ、ああ、気をつけるよ」

 僕はなんとか喉の奥から声を絞り出した。しかし男の言い草が癪だった。自分自身に対する言いようのない惨めさも手伝った。ずっとガン無視され続け、いじめられ続けた過去が頭をもたげ、それらを払拭したいがため、思わず苦し紛れに男を見上げて負け惜しみの言葉を吐いた。

「助けてくれたのは感謝すっけど、別に海をナメてたわけじゃないし。たまたま大波がきて呑まれただけじゃん。て、どんだけ波乗りが上手いのか知らないけど、あんただってそのうち、どっかでどでかい波に巻かれて死ぬかもしれないだろが」

 すると逆光の翳りのなかで、ふっと男は笑った気がした。

「バーカ、俺は不死身なんだよ。ぜってー死なねえし」

 男はくるりと踵を返し、ショートボードを抱えてすたすた歩いて行った。

 僕はしなやかに鍛え上げられて揺れる男の背の筋肉をしばらく目で追った。

 なんか、超ムカつく奴――と、胃に残留する海水が喉元までこみ上げ、ふたたび激しくむせて砂浜に嘔吐した。吐きながら生きることを諦めかけた瞬間を思い返す。

 そう、水中で意識が消えかけたとき、たしかに見た。深い海の底から救い上げる神がいたと。

 それがイヌと、僕の出会いだった。



 季節は足早に移ろい、雲なく晴れ渡ると初夏の陽気を感じさせる日さえあった。

 みぞれ混じりの二月のあの事件の夜が嘘のようにも思えたが、ひとりこの町で孤独に暮らす現実はみっしりと僕にのしかかる。どす黒い影はさらに深部へと浸透したまま、僕を捉えて放そうとしない。片時でもそれを忘れたいがため、僕は海へと通う。

「てっきりあれに懲りて、もうやめたのかと思ってたわ」

 その日、二時間ほどなんとかサーフィンらしき波との格闘をこなし、駐車場に戻ったときだ。聞き覚えのある声に振り返ると、あの男がショートボードを抱えて立っていた。上から目線の物言いは変わらない。それでも僕はふたたび彼に会えたことで、自分でも意外なほど安堵感を覚えた。

 海に出るたび、彼を目で捜す自分を心のどこかで知っている。

「あ、ああ、ここんとこ由比ヶ浜の波の小さいポイントで練習してたから――」

 男は鼻で笑って肩をすくめた。そのしぐさだけで彼の上腕から胸にかけてのしなやかな筋肉が異様に盛り上がった。褐色の肌に刻まれる腹筋は、見事なまでの6パックだ。

「もう終わりか?」男はぶっきらぼうに訊いてきた。

「――う、うん。けっこう乗れたし。くたくただし」

「お前、このへんに住んでんの?」

「あ、あの丘の上の家。三月から――」

「ふうん。学生?」

「いや、ちょっと事情があって、その――」

「て、プーかよ。いい身分だな。それで毎日サーフィンてか」

「あ、あんただって似たようなもんだろ」

「へ、まあな。俺は休暇中みたいなもんだ。ハワイから帰国したばっかでよ」

「ハワイ?」

「そ、ハワイが俺の本拠地」そこで男は白い歯をこぼし、人懐っこい笑顔を見せた。

 それからしばし、当たり障りのない立ち話を、僕らはした。

「俺のことはイヌって呼んでくれ」

 会話の終わりで男はそう名乗った。

「イヌ?」

「本名はイヌイ。イヌイリュウイチ。けど、みんなイヌって呼ぶんだよ。特に海の連中はな」

 でもドッグのイヌじゃないからな、発音に注意しろよ、と彼は笑って付け加えた。

「いつの頃からか、俺は海でそう呼ばれてんだよ」



 鎌倉での寡黙な日々、毎日のように出会う人間はイヌだけだった。

 海に行けばたいてい彼の姿を目にした。イヌはこのあたりの地元サーファーの間ではなかなかの有名人らしく、飛びきりの大波を誰もが緊張感を持って彼に譲った。そのビーチではそれが暗黙のルールだった。

 イヌは海上で僕を見つけると、軽く笑って手を振るようになった。波がない日は防波堤に腰かけて海を眺めながら、良き暇つぶしの相手となった。そのうち僕は彼を家に招いて、二階のリビングで一緒にビールを飲んだりした。

 ひとり暮らしを始めて以来、僕は自炊して料理を作っていた。ネットのクッキングサイトを見ながらの、おぼつかない手つきだったが、イヌに振る舞うといつも大好評だった。

「お前、案外、料理人のセンスがあんじゃね?」

 言いながら、がつがつと箸を動かし、ぺろりと平らげてくれた。

 まるで生き方も考え方も違うはずなのに、どこか深い心の根っこで僕らは共振し、共鳴する部分を感じ始めていた。不思議だった。

 褐色の肌。ブリーチされた金髪のロン毛。無精髭。意志の強さを物語る黒い瞳。身長百八十センチをゆうに超える体躯。年は僕の八つ上。二十六歳だった。


 その日は強烈な南風が吹き荒れ、とてもサーフィンができる波ではなかった。

 僕らはいつもの駐車場で会い、海が見えるバーで昼間からビールを飲んだ。

 それまで酒など口にしたことはなかったが、こっちへ越してきて、波乗りを始め、イヌと仲良くなっていくにつれ、自然な流れでビールやワインを飲むようになった。それになによりアルコールに酔えば、血まみれの両親の姿も、どす黒い影も、現実を覆うなにもかもを一瞬だが忘れ去ることができた。大人が酒にすがるのも理解できなくはなかった。

「ところで、ハワイでなにやってんの?」

「ロケーションサービス。それもマウイ専門でな」

「ロケーション、サービス?」

「そ、雑誌とかCMや映画なんかで、ハワイへ撮影にやってくる連中のために、場所探しとか、車輛や機材のレンタルとか、入管手続きとか、エキストラの手配とか、そういう段取りをトータルコーディネートすんだよ」

「なんか大変そうだね」

「慣れりゃあどうってことねえし。それに顔が利くようになると、おいしい話もくるし。いろいろと面白えこと、あんだよ。で、お前、ハワイくらい行ったことあんだろ?」

「――あ、いや、ないけど」

「ふうん。今どき珍しいな。しかも波乗りするくせしてよ」

 イヌは少しだけ不思議そうな顔をして、瓶のままビールを呷った。

「まあ、仕事の話はともかくよ。マウイはサーファーにとって聖地だって知ってるか? ノースサイドにジョーズって、伝説のポイントがあってな。真冬にだけ世界最高峰のビッグウェーブが入るんだよ。実際、見たらマジビビるぜ。サイズは五階建てのビル以上な。それくらいハンパねえ大波が、二、三年に一度だけやってくんだ」



 僕は二階のテラスから海を眺めた。いつもの江の島が右手に見える。白く霞んだガスの向こうにぼんやりと姿を浮かべる江の島は、巨大な戦艦空母のようにも映った。まるでどこかの国と戦争が始まるみたいだと思った。

 梅雨が近づいていた。今にも空から雨が零れ落ちてきそうな曇天だったが、海まで散歩に出かけることにした。どんよりした悪天候が心を乱して事件を思い出させるようで、ひとりでいたくなかった。無性にイヌに会いたくなった。

 週末の駐車場は県外からきたサーファーの車輛で満車だった。

「たいして波もねえのに、しかもこんな天気なのに混んでるよな」

 振り向くとイヌが立っていた。「どうした。朝っぱらから辛気臭い顔してよ」

 彼は白い歯をのぞかせた。それに釣られるように、僕も口角を上げて笑みを返すことができた。

「で、今日はなんか予定でもあんのか? 波乗り以外で」

「あれば救われるんだけど」僕は肩をすくめる。

 すると彼はいたずらな笑いを浮かべた。「じゃ、こいつはどうよ? あ?」

 イヌは褐色のごつい手を僕の目の前に差し出した。人差し指よりもひと回り小さく、よじれた煙草みたいな白い巻紙が彼の指先にあった。

 ネットでは何度か目にしたことはあったが、実際に見るのはそれが初めてだった。

 マリファナだった。


 僕らはしばらくサーフィンの話をした。話題は自然な流れでハワイにつながった。

 そうして成り行きで、またもジョーズの話に辿り着いた。

「前にも言ったけどよ。ビルの五階以上のサイズだぜ。ヘタすりゃ二十メートル以上のどデカい波になっちまう。むろん、その聖域には選ばれたサーファーしか入れねえけどな。うまく化け物を乗りこなせなきゃガチで即死だ。中途半端なプルアウトも死を意味する。ま、俺も近いうち、そいつに挑むんだけどな。しかも最大級の波を選んで、伝説的なマニューバを描いてやっからよ。世界最高峰の波乗りとして、この世に君臨したという証を残すのが、俺の夢だ」

 僕が二本目、彼が五本目のコロナを開けたときだった。

 互いにゆるやかな酔いが回ったあたり、イヌが唐突に切り出した。

「お前、リベンジしたくねえのかよ?」

 彼は僕の顔を見据えて静かに言葉を発した。

 とっさにイヌがなにを言ってるのか、一瞬頭が白くなって理解がおよばなかった。

「悪いとは思ったが、お前の名前、ググってみたわ」

 言いながら彼はスマホを手にした。「実名、ネットだと出回ってんだな。エグイよな」

 僕はなにも返せず、虚ろな目で梅雨雲に覆われた曇天へ視線を泳がすのがやっとだった。

「――大変だったな」

 イヌは珍しく実感のこもった声を漏らした。僕はゆっくりと彼のほうへ顔を向けた。

「若いのに独特の翳りがあるし、急に塞ぎこんだり、いきなり無謀な波にチャレンジしたりするんで、なんか黒いもの抱えてんな、とは感じてたけどよ――それでいて妙にウマが合うっつーのも、似たもの同士っつーか、ある意味皮肉な巡り合わせだわな」

 そこで一拍の間が空いた。僕は無言を決めたままだった。イヌが言った意味深な最後のセリフはよくわからなかった。

「俺な、普段なら溺れかけた素人サーファーなんてぜってー助けたりしねえんだ。自業自得だしよ。めんどーだしよ。けど、あのときは違ったんだ。助けろ、て直感が伝えた、ていうか、気がついたら俺は海深くに潜ってて、沈みかけてるお前の二の腕を掴んでた。不思議だったわ」

 イヌは自らの両手の平をじっと見ながら、そんな独白を口にした。

 やはり僕は唇を結んだままだった。

 心の奥底に根を下ろす、あのどす黒い影がせせら笑っているような気がした。

「な、お前、近々、俺と一緒にマウイへ行ってみねえ?」

 生真面目な顔つきで彼は突拍子もない話をもちかけてきた。真意が読めず、僕は彼の瞳を見つめた。

「今、マウイでどでかい仕事の準備を進めてんだ。数年がかりで用意した大勝負でな。じつはその仕事の相棒を探すため帰国してたんだよ。すると、お前がいきなり海のなかから現れたってわけよ。お前、こっち系超強いんだろ。この間もここで神レベルなやつ見せてくれたじゃん」

 イヌは両指をせわしなく動かしてキーボードを操るマネをした。

 つい先日、彼が家にやってきたときのことだ。僕は高校時代に独自のプログラミング言語で開発したロールプレイングゲームや、スマホに仕掛けられる盗聴アプリなどを見せていた。意外にもイヌは大いに興味を示し、食い入るようにモニターを見つめ、あれこれ訊いてきたのだった。どれくらいの期間で完成すんだ、とか、インターネットを利用した伝言板みたいなのも作れるか、とか、高度なセキュリティにも詳しいのか、などなど。

 脳裏で彼の真剣な表情を回想しつつも、予想外の話の展開に戸惑い、僕は思いつく言葉でかわすしかなかった。

「――い、いや、そんな突拍子もない話、ムリムリ、無理だって。あんたの力になんかなれっこないし。それに俺、半分以上、心壊れてるみたいなもんだし。俺がどんだけの事件に巻きこまれたか知ってんでしょ。てか、なんで俺なわけ? 冗談にしても超唐突すぎんでしょ」

「俺は、夏が終わるまでここにいるつもりだ」

 僕の拒絶に対し、イヌは一向に意に介することなく続ける。

「お前、このまま現実逃避した生活、いつまでも続けるわけいかねえだろ。たしかにお前を襲った事件は、とんでもねえほど凄惨なことだっただろう。けど、お前の人生、まだ五十年はあんだぞ。乗り越えて生きていくには、自分の足で一歩を踏み出すしかねえだろが。それともこのままここで仙人にでもなるつもりかよ?」

 そこでイヌは身を乗り出しながら、ごつい人差し指を立てた。「一億じゃねえぞ」

 ビールのせいなのか、その面持ちが上気して映った。「十億だ」彼は明言して強い声を重ねた。

「純利益で十億円以上。仕事は百日足らずでカタがつく。悪い話じゃねえ。むろん多少の悪いことはするがな。もちろん、俺が言いたいのは金だけじゃねえ。目には目を。修羅場には修羅場よ。この山場を乗り切れば、ぜってーお前も生まれ変われる。強くなれるし、そんだけの金があれば、お前の家族を襲った連中を捜し出してリベンジできるかもしんねえし。そんときは俺も手助けしてやるし。ま、夏が終わるまで、俺はこの町で待つからゆっくり考えてみてくれ。頭の片隅で覚えててくれればいい。もしかしたら、ぎりぎりのところで心変わりするかもしれねえしな。未来になにが起きるかなんて、誰にもわかりゃしねえんだ」



 イヌはポケットからマリファナを取り出すと、ライターで無造作に火をつけた。石をこする乾いた音がして濃厚な香りがたちまち鼻腔に届く。ちょっと甘くて人を不安にさせる危うい薫り。広いリビング空間に煙が音もなく行きわたる。

 イヌは瞼を閉じ、中指と親指でマリファナをつまむように吸引する。ばちばちと乾燥した葉の燃える音が弾けた。

 吸引を終えたイヌは息を止めたまま、くすぶるそれを差し出して促す。

 僕も同じように中指と親指でつまんで受け、煙を吸いこむ。濃密で邪悪な煙がするりと体内に侵入する。とたん、気管と肺がかっと熱くなって激しく咳きこんだ。

 イヌが息を止めたまま笑って首を振る。人差し指を立てて小さく僕に肯いた。

「もう一度だ」彼はとろんとなりかけた目で告げる。

 今度はゆっくりと慎重に煙を吸引した。手の平に炎の熱がほのかに届く。呼吸を停止し、肺の一番奥に煙をとどめる。肺の内側の細胞ひとつひとつに独特の成分が溶けこむ感触が広がる。視点の動きが緩慢なコマ送りのように揺れながら歪んで止まり、また揺れる。その繰り返し。徐々に五感がまどろむ。煙のTHC成分がどんどん呼吸器官を通過し、血液に吸い上げられ全身へと流れ出ていく。

 とたん、だらりと筋肉に力が入らなくなり、指先の握力と感覚までも失われる。

 すごい効き目だった。思わず脱力して僕はソファーにもたれかかる。イヌはマリファナをつまんだまま僕を見て笑みを浮かべる。濃い煙を吐き出し、ふたたびマリファナをよこす。同じように吸引するが、今度の煙は暴れることなくスムーズに肺へと吸いこまれ、体内に消えた。

 やがて瞬きがカメラのシャッターみたいにカシャカシャと音をたて始める。

 完全に飛んだ証拠。言葉を失い、意識の中枢が溶解し、記憶が混濁する。目の前にいるイヌの姿が映るも、名前が思い出せない。

 こいつ、誰だ?

 瞼を閉じて考える。濃い煙を吸う。

 暗闇。暗くて深い夜。見覚えのある二つの血みどろの死顔が浮かぶ。

 誰だ?

 さらに煙を強く吸う。気がつくとそこは水のなかになった。

 僕はもがく。あがく。苦しむ。窒息状態。誰か、誰かがいる。

 そいつは深い海の底から救い上げる神のように見える。

『俺は不死身なんだよ。ぜってー死なねえし』

 そいつは言う。そして目の前の男が笑う。

 いったいあんたは誰だ? 誰なんだ?

 言葉を発しようとしたけれど声帯が反応しない。身体がゴムのようにぐにゃぐにゃになった気がした。

 それも悪くないな、とソファーに身を深く埋め、僕はぼんやり考えた。



 氷のように冷たいドアノブを握り、狭い玄関口に足を一歩踏み入れた瞬間、僕は凍りつく。

 血だった。おびただしい血糊――その先に血まみれで転がって動かない、父さん、母さん。

 誰か――。

 そこでがばっと目が覚めた。ソファーで昏睡してしまったらしい。どこから夢に入ったのかがわからないくらい、僕は激しく強く飛んだようだ。

 はっとしてリビングを見渡すも、イヌの姿はすでになかった。

 蒼い闇に映る時計を見る。午前三時ちょうど。ソファーテーブルには吸いかけのマリファナがアルミホイルで作った皿の上に転がっていた。退廃的で甘い薫りが、絶望的な残夢の余韻を中和する。

 翌朝。「梅雨に入った」とラジオが意気揚々と伝えた。その予報通り、鎌倉はどんよりと曇り、朝から小雨がしとしと降り続いた。

 その日以来、海辺からイヌの姿が消えた。

 ジュンさんから二度メールが届いた。近いうち東京へ転勤になるということだった。

 そして六月の雨の日々は物憂げに淡々と過ぎていった。



 珍しくすっきりと晴れ渡った日だった。リビングから波を眺める。天空から差しこむ朝陽を受けてショアブレイクが白く光った。

 朝食を作って食べた後、僕は足早に海へと向かった。

 道すがら、肌に紫外線が当たってちりちりと焼ける。

 海に着くとすぐさまサーフボードを浮かべて沖へと進む。ほどなくしてセットがきた。

 海面が盛り上がる。テイクオフ。水面をロングボードが滑らかに滑走し、かつんかつんと軽やかに固い音を響かせた。

 水泡が弾ける。汐風に太陽の匂い。夏の気配を含んだ懐かしい空気を感じさせた。視線を上げると、遥か遠くの空には白い入道雲が浮かんでいた。

 ゆるやかな風に身を任せるようにとんびが舞う。本当に少しずつだけど、かけがえのないなにかが蘇ってきている、失われたなにかを取り戻しているような気がした。

 昼をとうに過ぎた頃、ようやく陸に上がった。

 リーシュを解いて、シャワーを浴びるために駐車場を歩いていたときだった。

 途中、色褪せた水色のフォルクスワーゲンの車内で慌てている女の子を見かけた。どうやら探し物をしているみたいだった。運転席から後部座席をのぞきこむように体をよじっていた。かと思いきや、せわしげに上体を起こして、今度はサイドボードのポケットに手を突っこんでまさぐった。鮮やかな黄色のショートボードは車の脇に乱暴に投げ出されたままだ。僕は気に留めつつも、素通りしてシャワーに向かった。

 直後、ばん、と背後で乱暴に車のドアを閉める音。

「ねえ、ちょっと待ってくんない」

 追い縋る声に振り向くと、二十歳そこそこの女の子が立っていた。オレンジと白の縞模様のビキニに、赤のショートサーフパンツ。濡れた髪はセミロングで肩にかかるくらいの長さ。身長は百六十五センチほど。ぜい肉のない、手足がすらりと伸びる整った体躯に、健康的な若さがみなぎっていた。小麦色にむらなく日焼けしたつるつるの肌が、初夏の陽射しを受けて眩しく光った。

 だが、その表情は焦りと怯えと怒りが入り混じる、困惑したものだった。

「な、なに?」僕は訊いた。

「盗られちゃったのよ、全部、なんもかんも」

 女の子はぶしつけな口調で、まるで僕を責めるように言葉をぶつけた。

「盗られたって、泥棒? ていうか、車上荒らし?」

「とにかくケータイ貸してくんない?」

 あいにく電話は持っていなかった。リビングに置きっぱなしだ。

「悪いけど持っていないよ」

「へ? 持ってないってどういうこと? それってありえなくない?」

「しょうがないだろ。家に置いてきたんだよ。波乗りにケータイ、必要ないし」

「なにそれ? てか超使えない奴!」

 捨てセリフを放つと、彼女はすぐさま別の人を見つけて走り去った。

 なんて感じの悪い女だ。ワンテンポ遅れて憤りに近い怒りを僕は覚え、呆れ返った。

 それでも時間をかけて水のシャワーを浴びるうち、気持ちはすぐに鎮まっていった。シャワー後、あまりに陽射しが気持ちいいので、防波堤の上にごろんと横になった。蒼天をしばらく眺めた。わずかに吹くオンショアの風が肌に心地よかった。波の音が鼓膜に届く。そうしているうち、いつの間にか眠ってしまったらしい。はっと気がついてダイバーズウォッチを見ると三時ちょうど。午後の強い紫外線のせいで、顔や上半身がちくちく火照った。

 僕はゆっくり起き上がると、何気に目を動かした。視界の隅に水色のフォルクスワーゲンが同じ場所に停まったままで映る。生意気な女は後部バンパーに座りこみ、頬杖をついていた。向けたまなざしが彼女のそれと一瞬合ってしまった。

「警察は?」僕は訊くでもなく彼女に訊いてみた。

「ええ、くるにはきたんだけど――」

 さっきまでの勢いも剣幕も消えていた。語尾の歯切れが悪かった。

「新たな問題発生?」

「てゆうか、キーまで盗まれたから。今、合鍵屋さんを待ってるの。JAFに電話したんだけど合鍵は作ってないって言われるし。おまわりさんは事情聴取が終わるとすぐ帰っちゃうし」

「そりゃ災難。でも、なんでキーまで盗まれるわけ?」

「キー、給油口のふたの内側に隠しておいたの。目ざとくそれを見つけられちゃって、車内のものはお財布もケータイもバッグも着替えもバスタオルもぜーんぶ盗まれて、あげくはキーまで持っていかれちゃったってわけ。もう、サイアクよ」

「車まで盗まれなくてよかったじゃん。で、合鍵屋さんは何時に?」

「それが時間が読めないとかで、夜七時頃までには、としか言わないの」

 そのまま立ち去ってもよかったけど、ぽつりぽつり会話を投げ交わしているうち、僕の気が変わってきた。初対面のぶしつけな威勢が消えたぶん、年上だけど年相応の女子に映ったのもある。ビキニ姿のまま、あてどなく駐車場に置き去りにするのもどうかと考えた。

「あの、もしよかったらだけどさ、俺の家でシャワー浴びて、水着からまともな服に着替えたら?」同情混じりにそんな提案をしてみた。

 すると彼女は目力の強い視線で僕を睨みつつ、

「はあ? 冗談は休み休みにして。ナンパならよそ行ってやってくれない? 年下のガキのくせして。こっちはそれどころじゃないのよ、わかるでしょ!」

 きつい彼女の両目には直情的な若い力がこもっていた。

「あのさ、冷静になろうよ。ただの同情心だし、それにそもそも俺、年増好みじゃないから」

 言ってやった。すると意に反して彼女は考えこむような面持ちになって唇を結んだ。

 相変わらず初夏の太陽は地上のすべてを照らし続けた。じりじりと汗が噴き出る。立ちすくんでいると、どうして自分がこんなことに関わっているのかよくわからなくなってきた。

 突然、彼女は顔を持ち上げ、その瞳をきゅっと細めて無言で僕の顔を見入った。気持ちを透かしてその奥に潜むものを探るみたいな、真っ直ぐなまなざしだ。

「ね、俺、もう行くわ。めっちゃ暑いし、なんだか自分でもばからしくなってきたし」

 そこまで言うと僕は背を向けた。軽はずみな親切心で声なんてかけなければよかったと後悔しつつ、後ろを振り返ることなくサーフボードを抱えて国道を越えた。さっさと坂道を登り切ってしまいたかった。

 と、坂の中腹あたりに差しかかったところだ。背中に声が届いた。

「ねえ、待ってよ、ちょっと。悪かったわ。ごめん。やっぱ助けて。お願い」



 家に着くなり、彼女はへえっと小さく感嘆の声を漏らした。木造の門戸をがたごとと開けて敷地に入る。夏を感じるこんな日の午後は庭にも夏の気配がぎっしりと詰まっている。鬱蒼とした緑の匂いや草いきれがいつもより濃く感じられた。

「なんだか懐かしい感じ。それに、とっても素敵なカマクラ的なおうちね」

 これまでにない落ち着いた口調で彼女は静かに言った。

 僕は玄関脇を抜けて納屋に行き、サーフボードをラックに仕舞った。彼女のボードは出入口の横の壁に立てかけた。彼女は納屋に収められた十数枚のサーフボードやシーカヤックやウェイクボードを珍しそうに眺めた。

「すごい。これ全部、君の?」

「違う違う」と僕は即否定。「ここは親戚の家。たまたま留守を預かって住んでるだけ」

 バスルームに案内した後、彼女はゆっくりと三十分くらいシャワーを浴びていた。

 その間、僕はリビングのソファーに座ってよく冷えた麦茶を飲んだ。

 この家に女性がいて、しかも階下のバスルームで全裸になってシャワーを浴びているシーンを想像すると、よこしまな感情が音もなく湧いてそわそわした。

 しばらくしてだ。シャワーを浴び終えた彼女がとんとんと軽やかに階段を上がってきた。家にあった女性もののショートデニムとオリーブグリーンの半袖のブラウスを着ている。おそらくはジュンさんの奥さんのカオリさんのもの。思いのほかサイズはジャストで彼女に似合っていた。

「ああ、さっぱりした。ありがと」

 彼女はバスタオルで栗色の髪を拭きながら対面のソファーに座った。もともと化粧っけのない子だったが、シャワー上がりは僕と同年代か年下くらいの女子にも映った。それが余計に僕の気持ちをどきどきさせ、漣を立たせる。

「すっごくすっきりした。それにこの服もぴったり。近いうちに返すね」

「家主はほとんどこっちにこないから、いつでもいいと思うよ。それより、もう一度合鍵屋に電話して時間を確認したほうがいいよ。俺の電話番号も伝えといたら?」

 彼女は合鍵屋に連絡し、このやりとりを簡潔に話した。そして連絡先として今かけている僕の携帯電話の番号を告げた。駐車場の近くにきたらこの携帯に電話するよう頼んだ。

 その後、僕は冷蔵庫からオレンジジュースとグラスを取り出し、彼女の前に置いた。

 ありがとう、と彼女はまたも素直に礼を述べた。先ほどの剣幕とは別人だった。

「それにしてもほんとに素敵なおうち。静かだし趣きがあって。それにリビングからこんなに海が見渡せるなんて」

 麦茶を飲みながら僕は簡単な自己紹介をした。正面切って女性と二人きりで話すのはほぼ初体験でとても照れたうえ、平静を装うのに苦労した。むろん、事件に巻きこまれたことは伏せておく。

「ふうん、いいわね。夏の鎌倉で、こんなゴージャスなおうちで長期休暇だなんて」

 自然な流れで彼女も自己紹介を始めた。名前はホンジョウミキ。二十一歳。僕より三歳年上。

「でも似たようなもんかな。私も去年の夏に会社を辞めてこっちへ越してきたの」

 ミキはオレンジジュースを飲みながら続けた。「銀座でOLしてたんだけど、今は森戸海岸にある小さなカフェレストランでバイトしてるの。それ以外はサーフィンだけ」

「鎌倉へはしょっちゅうきてるの?」

「ううん、初めて。お客さんが夏の七里ヶ浜は波いいよっていうからきてみたら、こんな目に遭っちゃったってわけ」ミキは口をすぼめた。

「気をつけたほうがいいと思うよ。たまに柄の悪い連中見かけるし。車上荒らしも多いみたいだし」

 言いながら僕はちらっと彼女に目をやった。きれいな人だなと思った。肌は艶やかで、まつ毛は長く濃く、ブラウンがかった色の瞳には不思議な魅力を感じた。

「ね、おうちのなか、見学させてもらっていい?」

 その声で我に返り、僕はどうぞと短く答えた。早速ミキは腰を上げると、キッチンやダイニングルームをぐるりと見て回り、さらに奥の部屋のほうへと消えていった。

 そして二階を見終わると、スタッカートな足音で階段を下りていった。一階の客間や書斎をのぞいているのだろう。僕も立ち上がってリビングの窓から庭を見下ろした。するとミキは庭にいて、ちょうど空を仰いでいた。思わず目が合ったところ、

「ね、君もそんなとこにいないで下りてきなよ」

 そこで彼女は初めて朗らかに笑った。


 僕らは庭のベンチシートに座ってしばらく会話を交わした。

 一時間ほど経ってからリビングに戻ったところ、電話が鳴った。合鍵屋からだった。

「合鍵屋さん、駐車場に着いたみたいだ」

「あら、もうそんな時間?」

「これ渡しとくよ」

 僕は彼女に三万円を差し出した。

「なにこれ?」

「だってお金ないんでしょ。合鍵屋に代金を支払わなきゃいけないし、この時間は銀行の窓口開いてないじゃん」

「ホントありがと。なにからなにまで。ね、落ち着いたら、すぐに連絡するね。お金もお洋服も返さなきゃいけないし」

「別に急いでないから、いつだっていいよ」

「私、森戸海岸の『マーレ』ってお店で働いているから今度ぜひきてね。お料理とワイン、とっても美味しいのよ。あ、てか君、未成年だったよね」

 家を出る彼女を、僕は外まで見送った。

 そうして僕らは丘の上の路上で別れた。ミキはサーフボードと濡れた水着の入ったビニール袋を持って坂道を下った。

 僕は道路脇に立って彼女の後ろ姿を眺めた。いつの間にか陽が傾きかけていた。初夏の暮れゆく太陽が海をオレンジ色にきらきらと輝かせた。

 すらりとしたミキの影が坂を降りるにつれ、海面に溶けるように小さくなる。

 踏切の手前で彼女は一度だけ振り返った。僕の姿を確認すると、サーフボードを振るようなしぐさでバイバイした。僕も小さく手を振って応えた。

 ミキがいなくなった後のリビングは、ぽっかりと穴が開いてしまったような薄青い静けさが訪れていた。小生意気で気が強いけど、ストレートで素直な人だな、て思った。ふと見せる、けなげな心の強さや、活き活きした必死さみたいなものを羨ましくさえ感じた。

 そこではっと気がついた。

 波乗りをしてても脳裏から完全に離れることがなかった事件の存在を、あのどす黒い影みたいな存在を、ミキと会っている間、まるで意識しなかったことに。



 しとしとと霧雨が灰色の空から落ちた。梅雨らしい朝だった。FMラジオでは気象予報士が、梅雨前線が本州付近に停滞しているため明朝の外出まで傘は手放せないだろうと得意げに伝えた。

 昼食にツナとトマトのパスタといんげんのサラダを作って食べた後、することが見当たらなくて、僕はずっとパソコンに向かっていた。

 イヌがいつも語るジョーズをネットで検索し、その映像を眺め続けた。

 彼の話の通り、化け物のような巨大な波は圧倒的なパワーだった。

 そう言えば、イヌの姿を見なくなって早一ヶ月が経とうとしていた。

 僕のなかで、彼が唐突にもちかけてきた仕事の話がじんわりと大きく膨らんでいる。

 お前の人生、まだ五十年はあんだぞ。乗り越えて生きていくには、自分の足で一歩を踏み出すしかねえだろが――。

 あのセリフ、もう何百回、頭のなかでリピートされただろうか。

 スマホが鳴ったのは四時過ぎのことだ。ミキからだった。電話に出るなり彼女は切り出した。

「ね、こっちへ遊びにこない?」

「こっち?」

「私が働いている森戸の『マーレ』。覚えてるでしょ。今日はバイトがお休みなの。お世話になったお礼にごちそうするわ。お金もお洋服も返さなきゃいけないし。どうせヒマなんでしょ?」


 鎌倉駅で電車を乗り換えて逗子駅で下車し、ロータリーからバスに乗った。『マーレ』は森戸海岸で降りて二分ほど南へ歩くとすぐに見つかった。

 こぢんまりとした一軒家をモダンに改装した海沿いのお洒落なカフェ風レストラン。

 ドアを開けるなり、カランカランと澄んだ音でウインドチャイムが鳴った。ミキと同い歳くらいのショートカットの女の子の店員が「いらっしゃいませ」と感じよく出迎えてくれた。

「おひとりさまです?」

「あ、いえ、待ち合わせなんですが――」

 僕は店内を眺める。雨なのに意外なほど混んでいた。奥のテーブル席でミキが誰かと電話しながら僕に大きく手を振った。

「ああ、ミキちゃんのお友だち」店員の子は肯いて案内してくれた。

 僕が席についたタイミングで、「ありがとうございました」と不機嫌そうな声でミキは電話を切った。

「戸塚警察署から」彼女は顔をしかめた。「私のお財布、東戸塚の駅のホームで発見されたって、ちょうど連絡があったとこ。現金だけ盗まれて、カードや免許証はそのまま残されてたって」

「まあ、でも財布だけでも見つかってよかったじゃん」

「ちっともよくないわよ。泥棒が触ったお財布かと思うと気持ち悪くて使う気しないし。それにゴミ箱に捨てられてたのよ。もうアッタマきちゃう」

 それでも白のグラスワインで乾杯して、二杯目を飲み干す頃、彼女の怒りはすっかりどこかへ消え去った。そしてミキが言った通り『マーレ』の料理は美味しかった。

 彼女イチオシのじゃがいもと鱈のスクランブルエッグは絶妙な塩加減が利いていて抜群にうまかった。たまごも鱈もふっくらしていた。その後のいわしの酢漬けも、イイダコの煮付けも、レンズ豆と豚肉の煮物も、あさりのリゾットも、ほれぼれするくらい美味だった。思えばこっちへ移り住んでからまともな外食は初めてだった。

 未成年なんだから、とノンアルコールビールを勧めていたわりには、途中でもっとワインを飲めとミキは言い出し始め、最終的に僕らは白と赤のボトルを計三本も空けた。

 酔った流れ、僕はぐらぐらする頭で提案した。

「次から鎌倉へサーフィンにくるんなら、あの駐車場じゃなくて俺の住んでる家の駐車場に停めればいいじゃん。場所余ってるから超余裕で停められるし」

「ホントに? じゃ約束よ。酔ってても、ちゃんと覚えてなさいよ、少年」

 やがて『マーレ』は閉店時間を迎え、ふと腕時計を見ると零時になろうとしていた。

「げ、そろそろ帰るよ」僕は火照った顔で切り出した。

「明日もヒマなんだから、ゆっくりしていけばいいのに」

「いやいや。これ以上飲まされるとマジヤバいし。明日は波がいいみたいだしさ」

「ま、それもそうね」彼女は笑って同意した。

 勘定を払おうとしたがミキは固辞した。

「今日は私が誘ったんだし、君には感謝してるの。だから、ここは私に奢らせて」

 真顔で言われ、僕は素直に好意に甘えることにした。

「じ、じゃあ、遠慮なくゴチになります。姐さん」

「ん! 少年。素直でよしっ! けど、姐さんは余計よ!」

 ミキは満面の笑みで肯くと、僕を先に店外へ追い出すように促した。

 雨はすっかり止んでいた。天気予報は見事に外れた。昼間とうって変わって、夏の気配がたちこめた。オンショアの風が南から湿気と汐の匂いを運んだ。

 ややあってタクシーの姿が見え、僕が彼女にどうぞと勧めたところ、

「私の家、すぐそこだから。歩いて帰れるの。じゃね、また。次回は海だね」

 頬を赤くしたミキは白い歯を見せた。


 翌朝、思いがけないほど早く、クラクションの大きな音で僕は起こされた。時計を見るとまだ七時前。二日酔いの頭で、状況を把握するために窓から顔を出して外をのぞく。

 ミキ。彼女が水色のワーゲンにサーフボードを積んで玄関前に立っていた。僕の顔を見ると、近所迷惑も顧みず、さらに四回もクラクションを派手に鳴らした。

「ね、早く海に行きましょ! 今日はグラッシーで超いいカンジ」



 駐車場でイヌの姿を見かけたのはその翌々日のことだった。

 僕の存在に気づくと、彼は褐色に焼けた精悍な顔を崩し、屈託なく笑った。

 その笑顔を見た瞬間、不思議なほど心がほぐれるように僕はうれしくなる。

「ブラザー、Longtime,nosee」ごつい拳を突き出して彼は言う。

「どうしてたよ? マジ心配してた」僕も頼りない拳を真似て突き出して応える。

「悪い。ちょいマウイに帰ってたわ」

「仕事?」

「ああ。ちょいちょい事務的なこと」

「てか、まったく似合ってない。事務的って言葉自体が」

「うっせーよ。それにしても久々の鎌倉はひでえな。この人混み。ハンパないぜ」

 彼はため息混じりに愚痴を吐いた。

「波の数より、サーファーの数が多いからね。ここんとこ暑くなって、特に」

「まったく」イヌはうんざりした面持ちで肩をすくめた。

 結局、混雑する海にいてもストレスがたまるだけだとイヌが漏らすので家に招き、朝っぱらからビールを飲んだ。

 あれ以来、イヌはハワイでの仕事の誘いをいっさいすることがなかった。

 諦めたのかもしれないし、ほかに相手が見つかったのかもしれない。にもかかわらず、彼の態度はまったく変わらなかった。付き合っていくうちにわかったことだが、彼はそういう類の細かい、あるいは了見の狭い男ではなかった。むしろ意外にも、どこか隠しきれない人の好さというか、優しい一面を垣間見ることがしばしばあった。両親を何者かに殺された僕を気遣っているのともまた違った。

 見た目は大雑把に映るが、約束事や時間はきっちり守る。貸し借りはいっさいしない。言葉使いも身なりもジョークもひどいが、基本的な礼節は備わっている。

 また、大胆な面があるわりに、空気の潮時を読む勘が異常に鋭かった。周囲への気配りも周到だった。

 そういう身のこなしや神経の使い方が並みの人間以上に身についているとしばしば感じることがあった。きっとこの男の芯には荒々しい外海で生き抜くための哲学や、深い野生の森でも己の身を守れる防衛本能のようなものがしっかりと確立されているのだろうと、会うたびにいつも僕は感じ入った。

 僕らは毎日のように海で出会うのが日常のひとコマになった。波乗りの後は一緒にビールを飲み、マリファナを吸って飛んだ。とんでもない上物のブツだと、イヌはよく言って笑った。

「お前にゃ、まだわかんないかもしんねえけど、こいつはただぶっ飛ぶだけじゃねえ、ガチに洗練されたクオリティなんだぞ」

 陶酔した頭で僕もまたけらけら笑い、彼から手渡されたマリファナを唇に挟む。

 そんなふうにして、僕らは夏に向けてさらに親しくなっていった。

 心の奥底のとてつもなく深い部分に産み落とされたどす黒い影は、薄まっているように思えた。

 僕は、イヌと、そしてミキのいない日々の暮らしが、考えられなくなりつつあった。



 木曜日早朝。久々にミキのワーゲンのクラクションで起こされる。彼女と会うのは四日ぶり。僕は昨晩もイヌと深酒し、すっかり二日酔い気味だった。しかもマリファナのトリップが体に残っていて、神経をぐらぐらと揺すった。

「すっごくお店が忙しかったのよ」ミキは会うなり切り出した。「しかもナオちゃん、おとといから急に実家の横浜に帰っちゃうしさ。夏本番でお客さんはいっぱいだし、私がいなくなるとオーナーシェフのホシノさん、ひとりになっちゃうでしょ。かわいそうで休めなかったわけ」

 僕はまだ醒めきらぬ頭でぼんやりと彼女の愚痴を聞いた。

「どしたの? 冴えない顔しちゃって。久々なのに、なんだか超元気ないわね」

「い、いや、なんでもない。て、友だちと深酒して、ちょい二日酔い気味なだけ」

「へえ、君にもそういうお友だち、こっちにいたんだ」彼女は意外な表情を浮かべた。

「ひとりだけね。紹介しようと思ってたんだけど、そいつ、海外行っちゃっててさ。やっと帰ってきたんだ。でもって昨夜は一緒に飲んで盛り上がっちゃって、このザマ」

「どんな人?」

「まあ、ひと目見ればわかんじゃない」

 僕らはサーフボードを抱えて海に向かういつもの坂を下った。

 予想通り、駐車場には波をチェックしているイヌがいた。昨晩の深酒もマリファナも、まるでお構いなしの涼しげな表情だ。上半身裸で、だぼだぼのサーフパンツをルーズに腰で穿き、レイバンの黒いウェイファーラーで決めていた。

 思えば、この場所で三人揃うのは今日が初めてだった。

 ごついイヌの背に声をかけると、僕は互いの間に立ってそれぞれを紹介した。

 イヌという呼び名にミキは露骨に顔をしかめた。一瞬の間の後、奇妙な反応をするんじゃないかとはらはらしたが、黙っていてくれたのでほっとした。

「お前ら付き合ってんのかよ? おとなしい顔して案外やるじゃんか」

 僕の横っ腹を肘で突きながら、だしぬけにイヌが笑う。

「そんなんじゃないわよ。ねえ、あんた、ちょっと失礼じゃない? 会ったばっかで普通そんなこと訊かなくない?」ミキが即座に突っこむ。

「ふうん、ま、いいや。どっちだって。けどなんか安心したわ、お前よかったじゃん」

 サングラスのまま、イヌはにかっと満面の笑みを浮かべた。

 ややあって僕とミキはイヌと別れ、砂浜に降り立った。先を歩く僕に彼女の軽やかな足音が届く。ねえねえ、とミキがサーフボードを抱えて追いかけてくる。

「君のお友だち、こう言っちゃなんだけどさ、ありゃそうとうイカれてるね。かなりまともじゃない部類よ」

「そ?」

 僕は白々しく答えた。そういう彼女のセリフ、紹介する前から予測していた。

「びっくりよ、だってあの風貌よ。あんな強烈なのとお友だちだなんて。君もやっぱ普通じゃないのね」ミキは例によって辛辣な批評を畳みかける。

「それになんなの。あの名前、イヌって。紹介されたとき、マジ吹き出しそうになったわ。だって、あれでサーファーなんでしょ。海に入ったらソルティドッグじゃない」



 僕らがインサイドで波待ちし、のんびりと浮かんでいる脇を、イヌがショートボードをパドルしながらすり抜けて行った。

「今日もイマイチだな」

 彼はすれ違いざまに言葉を投げ、笑みを見せてウィンクした。

 パドルするたび、彼の盛り上がった肩と上腕と背中の筋肉が野生の肉食動物みたいに躍動する。僕とミキはすいすいとパドルアウトするイヌの後ろ姿を目で追った。

 間もなくイヌは七里ヶ浜でも一番の大波が入る沖側にポジションをとった。彼がやってくると他のサーファーは一様に距離を空けた。そこは常連の猛者たちが集まるもっとも当たりのキツい場所。そのタフな連中相手に、一瞬にして場の空気を変える圧倒的なイヌのなにかが遠目からも感じとれた。

 ミキもその様子を真剣なまなざしでじっと黙って捉えていた。

 やがてセットが近づく。イヌは誰よりも早く沖へと飛び出し、ピークに到達した。

 ほかのサーファーは動かない。いや動けないといったほうが正解かもしれなかった。

 イヌは波を掴むとほんの二、三回パドルしただけで軽々とテイクオフした。

 トップからフェイスに美しい曲線を描く。ボードがイヌのアクションと一心同体になり、自在に波間を駆け抜ける。筋肉がしなやかに波と呼応する。

 きめで当たり前のように軽々と中空へ跳躍し、鮮やかにプルアウトして弾ける白波の向こう側へと消えた。波が彼を受け入れ、彼も波を受け入れていた。

 ひと言でいうならイヌの波乗りはスピリチュアルで感覚的なものだ。

 スポーツとしてのサーフィンではなく、彼と波の間に確立された特別な距離感や独自のスタイルが内包されている。そのどこか神々しい姿は、僕がセットに巻かれて溺れかけたとき、深い海の底から拾い上げた瞬間の神秘的な像を思い起こさせた。

 あれは幻だったのだろうか。僕がそう考えかけたタイミングだった。

「ふうん」ミキが隣で感心したようにつぶやいた。

「サーフィンだけはとりあえずまともみたいね、ソルティドッグ」

 それから彼女はイヌの悪口をあまり言わなくなった。


 午前十一時過ぎ、僕らは海から上がった。イヌの姿はもうなかった。

 ミキはいつものように家でシャワーを浴び、洋服に着替えた。サーフィンの後、彼女は長居しない。帰り支度を終えるとまだ濡れた髪のまま、サーフボードを車に積んでさっさと帰ってしまう。

「ひとり暮らしだからね、お買い物とかお洗濯とかこまごました用事が多くて、ゆっくりしてられないのよ。だって波乗りで朝イチからずっと遊んでるでしょ」

 夏前に『マーレ』でごちそうになって以来、一緒に食事にも行ってなかった。

「ねえ」と僕は見送りがてら訊いた。「明日もくる?」

「うん、たぶん。君、なにか都合悪い?」

 ミキは車に乗ろうとする動作を止め、振り返って僕に言葉を返す。

「いや、ぜんぜん大丈夫なんだけどさ」

「なによ、だったらなんで訊くわけ?」

「あ、いや、もしよかったらだけど、明日、うちで夕食でも一緒に食べないかなってさ」

「は? もしかしてそれって、私にお料理作れ的なこと、遠回しに言ってる?」

 ミキが眉間に縦皺を寄せて露骨に顔を曇らせる。

「違う、違う。誤解すんなよ。俺が作ろうかなって思ってさ。たまにはごちそうしよっかな、なんて閃いてさ。『マーレ』でも奢ってもらったし」

「てか、そもそも君、料理なんかできんの?」

 今度は疑わしそうな表情。そんな彼女の反応は想定内だった。

 僕はポケットのなかでスマホの画面をこっそりタップする。ほぼ同時、ミキのスマホに着信を知らせるチャイム音が軽やかに鳴った。

「あれ? 誰からだろ?」

 彼女はダッシュボードに投げてあった自分のスマホを手にして画面に触る。

 次の瞬間、彼女は目を丸くして驚きの声を上げた。

「ええ! なにこれ?」

 好感触。一次テスト合格。僕はにんまりと微笑んだ。

「それ、俺の料理レパートリーね。仕込みの都合上、今日の夕方までに食べたいもの、オーダーしてね。注文用のメールボタン、一番下のとこにあるからさ」

 このときのためにプログラムしておいた僕の料理メニューのオリジナルアプリだ。彼女のスマホには僕の得意な献立が写真付きでずらりと並んでいる。

 思わずミキはスマホのモニターに指を伸ばした。僕はなにげに横目で彼女を観察していた。

「ねえ、パスワード訊いてきたんだけど、どうすればいいの?」

 予想通りの質問が返ってきた。そこで僕はふたたびにんまり微笑んだ。

「じゃ、ヒントね」

 え? という表情になって顔を上げるミキに、僕は続ける。

「パスワードのヒント。俺らが、初めて、出会った日」

 じつは言いながら僕の胸は少しばくばくしていた。

 と、ミキは口角を上げてくすっと笑った。考える間もないほど、細くてすらっとした彼女の人差し指がリズミカルにモニターの上で踊る。

 ほっと僕は胸を撫で下ろす。二次テストも無事合格。

 画面に並んだメニューをスクロールさせながら、あらためてミキは感嘆してくれた。

「すごい! 君ってこんな才能あったのね!」

「それって料理のこと? それともコンピュータのこと?」

「どっちもよ!」

「ありがと」

 作戦は大成功だった。そこで画面から僕へと目を動かしたミキは訊いてきた。

「面白そう。ぜひごちそうになるわ。で、どうすればいい? いつも通り、朝からサーフィンにきていいわけ?」

「もちろん。俺は早上がりして料理するけど。君はゆっくり海に入って、後は昼寝でもしてリラックスしてればいいよ。でも、明日は電車でおいでよね」

「嫌に決まってんでしょ。昔から電車がだいっ嫌いなの」

「車でくるとビールやワイン、飲めないよ」

 少しの間、沈黙があった。

「わかったわよ。電車でくるわよ。そのかわり、じゃんじゃん注文しちゃうからね。全部作ってよね!」

 そういうわけでミキはサーフボードを納屋の壁に立てかけて帰って行った。

 夕方五時過ぎ、僕はミキからの注文メールを受信すると、江ノ電で片瀬江ノ島の大型スーパーまで足をのばし、新鮮な魚介類や野菜をたんまりと買いこんだ。

 その頃の僕は料理の腕にちょっとした自信がついていたのだ。



 ミキは朝九時前にやってきた。お土産にワインを二本たずさえて。

 彼女はいつも通りサーフィンを楽しみ、僕はキッチンに立った。

 波乗りから帰ってきたミキはリビングで古いサーフィン映画のDVDを見ていた。料理の支度が一段落したタイミング、こっそりのぞいてみると、彼女はこんがりと日に焼けた顔ですやすや寝息をたてて、ソファーで気持ち良さそうに眠っていた。僕は彼女にタオルケットをかけ、そんな無邪気な彼女の寝顔をしばし眺めた。

 白いんげん豆のサラダ、アオリイカと地ダコのマリネ、アンチョビのブルスケッタ、真鯛のカルパッチョ、あさりと小エビとドライトマトのパスタ。

 それらが彼女のオーダーだった。僕はサービスで里芋の煮物と、しらすおろしの梅肉和え、初ガツオのたたきも作った。

 すべてのメニューをテラステーブルに運んだところで、ミキを揺り起こした。

「ね、私が寝てる間に、そこいらのお店のシェフや板さん呼んだりしなかったよね? マジで君、全部ひとりでお料理したの?」

「ここでひとり暮らししてるうち、波乗り以外にやることがないから、ネットを見ながら趣味的に始めたんだけど、これがけっこうハマっちゃってさ」


 僕とミキはゆるやかな初夏の夜風に吹かれて食事した。ミキは美味しそうに料理を食べてくれた。たわいのない話を楽しみながら、しばらくは穏やかに時間が流れた。イヌと一緒のときとは違う意味で、彼女といると心が和らぎ、事件の黒い影を忘れ去ることができた。

 僕はこっちへ越してきて、本当によかったと感じていた。

 その夜は酔いも手伝ってか、いつになく饒舌になっていたのかもしれない。イヌとの出会いや、これまで過ごした幾多のエピソードを面白おかしく話した。

 ミキは珍しく聞き役に回った。

 二人で過ごす初夏の宵は、そうやってゆっくりと深まった。

 鎌倉の夜は静かで、高台の住宅街は趣き深い静寂に包まれた。


 食事が終わりかけようとする頃からだった。ミキはこれまでになく無口になり、なんとなく場の空気に違和感がもたげた。

 そうして気がつけば、デザートあたりで彼女はまったく言葉を発しなくなった。

 それでも僕はさして気に留めないようつとめた。女の子ならたまにはそんなことくらいあるさ、と。単に酔って眠くなっただけかもしれない。あるいは連日の波乗りで疲れたのかもしれない。それくらいに思いとどめた。

 沈黙の場つなぎのように夜空を仰ぐと、星がいくつか眩く輝いた。

「そういえば今日って、七夕なんだ」

 肉眼で一度も見たことのない天の川を目で探しながら僕は小さな声で言ってみた。

 一瞬の間の後だ。さして期待していなかった彼女の受け答えが返ってきた。

「――そう。今日、七夕、だったのよね」

 彼女は抑揚を欠いた沈んだトーンでつぶやいた。これまで耳にしたことのない寂しさに満ちた声に聞こえた。

 会話はそこでまたも途切れた。横目を動かすと、彼女はデッキチェアの背もたれに身を預け、なにか遠い日を瞑想するみたいに瞼を閉じていた。

 そのまま何分くらい経っただろうか。

「もう、帰らなきゃ」ミキがふいに背筋を起こして切り出した。

「大丈夫? 少し酔った?」僕は彼女の横顔におずおずと訊いた。

「――ううん、へいき」

 微妙な間隔を空けて彼女は答えた。その瞬間、ミキ自身が目に見えないけれど固い膜にうっすらと覆われている気がした。

 固辞するミキを聞き入れず、駅まで送った。熱の去った路面を打つ僕ら二人の足音だけが夜道に響いた。

 明らかにミキの様子はおかしかった。思い過ごしならいいけれど、と希望的観測を心で考えながらも、こういうとき、年下の男はなにひとつ言葉にして言い出せない。

 駅に着くと、ちょうど電車が到着するところだった。

「元気ないみたいだけど、大丈夫? 引きとめてごめん。疲れたろ」

「へいきだって。お料理美味しかった。ありがと。お誘いしてくれて」

 彼女は視線を合わせることなく、短い文節を連ねた。

 電車のドアが開く。ミキは足を踏み出して車輛側に身を置き、振り向きざま、真摯な面持ちで僕に訊ねてきた。

「――ね、あなた、私と一緒にいて楽しい?」

 彼女の疑問符に僕は疑問符をつけて返した。「どうしてそんなこと、訊くわけ?」

「え、ううん、なんでもない――」ミキは否定形で打ち消して目を伏せた。

 そこで大げさな音をたてて電車は扉を閉じた。ガラス越しのミキは哀しそうな顔つきだった。それは初めて見る彼女の表情だった。


 なんとなく予感した通り、翌日以降ミキが家に訪れることはなかった。彼女のサーフボードは納屋の壁に寂しげに立てかけられたまま、連絡がぱたりと途絶えた。

 そのようにしてミキのいない夏の日々が経過した。

 とある夕方、僕は『マーレ』へ顔を出すことにした。僕らの間に佇むうやむやな空気を払拭したかった。そうして僕は電話やメールで訊く雰囲気ではないと察していた。


 店外からも十分に『マーレ』が賑わっている気配が窺えた。一瞬、躊躇しかけたが、ドアノブを強く握って店内に入った。カランカランとウインドチャイムが澄んだ音で鳴った。まだ六時過ぎにもかかわらず、やはりすでに満席状態。

「あら、いらっしゃいませ」エプロン姿のナオちゃんが少しだけ目を丸くして出迎えた。「珍しいですね。おひとりです?」

「――うん」と受け答えながら、促されたカウンター席に座った。

「生ビール、いただこうかな」言いつつ店内を見渡す。

 ミキの姿はなかった。肩透かしを食わされた感じで、無意識に張っていた緊張感がトーンダウンする。失望と安堵と不安が交錯した。

「ミキちゃん、ですよね?」

 ナオちゃんが目ざとく背中でささやく。「最近ランチから忙しくて、夜もなかなかお客さんが引けないからシフト制にしたんです。はっきり言って人手不足なんですけどね。悲しいかなこれも夏だけの細腕繁盛記。なんとか私たちで切り盛りしてるんですよ。というわけでミキちゃん、今日は遅番。七時からです。がっかりしないでくださいね。もうそろそろ会えますから」

 彼女はいたずらっぽくウィンクして微笑んだ。

「ありがと」

 僕はバツ悪く礼を言った。すぐさまナオちゃんは奥のテーブル席に呼ばれてその場を離れた。

 ほどなくして運ばれてきた冷たい生ビール。ナオちゃんは気を利かせて、ときたま注文していないオードブルや小皿料理を運んでくれた。

 ホシノさんの料理は相変わらず美味だった。味覚を彩るテクニックと、塩加減と、生きた温度が絶妙なバランスを織りなした。

 この盛況ぶりも肯けるな。そんなことを考えていた矢先だった。

「いらっしゃいませ」

 聞き慣れた声がか細く届いた。カウンターの向こう側にエプロン姿のミキが立ってこっちを見ていた。

「きてたんだ」

 彼女はぽつんと言った。「びっくりしちゃった」

「波もないし、海も混んでるしさ。おまけに信じられないくらい急に暑くなったから。たまには外で冷たいビールでも飲もうかなって思って」

 なんとはなしに、僕は言い訳がましい言葉ばかりを並べてしまった。

「そう。ゆっくりしてって」

 ミキは静かに笑みを浮かべた。この間よりはいくぶん元気そうに映ったので、胸を撫で下ろした。

 本格的な夜を迎えると、店はさらに混み合った。

 ナオちゃんが帰り、ミキはひとりで二十席近い満席のフロアを仕切った。厨房ではホシノさんが汗をかきつつ懸命に料理を作っていた。

 こういう店をやるのもいいな、とふと閃いた。海の傍の小さな店で料理を作って客に喜んでもらう。生活できるぶんだけ稼いで静かに暮らす。そういう仕事。そういう日々――。


 結局、すべての客が帰って、二人で店を出たのは零時過ぎだった。

 しばし無言で僕らは海沿いの道を歩いた。無風と湿気で、うだるように暑かった。

「すごい混んでんだね、お店。驚いたよ」

 僕は差し障りのない言葉からおずおず切り出した。

「うん」とだけ彼女は短く返事して付け加えた。「夏だし。夏、だけ――」

 途中、コンビニを見つけた。「ビールでも飲む?」僕は訊いた。

「そうね、飲みたいかな。て、未成年のくせして」

 彼女は少しだけ口元に笑みを作って答えた。

 僕は缶のヱビスビールを二本買い、その一本を彼女に渡した。

「あそこ、座る?」

 小さな港に面した小径に木のベンチを見つけ、二人して黒い海に向かうかっこうで腰を下ろした。

 僕らはただぼんやりとビールを口に含みながら、しばらくは無言で夜の海を眺めた。

「あ、そうだ。この間はごちそうさま。お礼言うのすっかり忘れてた。とても美味しかったよ、君のお料理」

 控え目だけれど年上な口調で、彼女は思い出したようにあらためて礼を述べた。

「あ、うん――」

 声にならない声で僕は答える。

 すぐに、ふたたび深い沈黙に覆われた。明らかにいつもとは雰囲気が異なった。鎌倉の家での気まずい空気は継続したまま。僕は強い違和感と不安感を覚えていた。

 きっかけになる言葉を探しているうち、先に切り出したのは彼女のほうだった。

「あのね、君にはっきり言わなくちゃって思ってた」

 声に混ざる、ざらりとした硬質で深刻な含み。僕は固く身構えた。「なに?」とさえ訊けなかった。

 寸時の静寂を挟み、彼女はささやくように続けた。

「嘘、ばっか。私、君が思っているような女性じゃない。きっと。だから、謝らなきゃって――ずっと前から――」

 漣の音すら響かない、しんと静まり返った凪の夜。余計に彼女の言葉が心に刺さる。

「ごめん、いきなりこんな話。でも、正直に言うね。ずいぶん悩んだけれど、やっとふんぎりがついた」

 そこで彼女は体内に残存する空気のすべてを抜くように深く息を吐いた。

「ほんとはサーフィンなんてどうでもいいの。海だって好きでもなんでもない。お店のことも、この町も。全部言い訳にすぎない。ただ、ただ、東京から逃げ出してきただけなの。怖くて。現実逃避したくて。目を瞑りたくて」

 街灯が逆光となり、彼女の表情を正確に窺うことはできなかったが、言葉のトーンから凍った気持ちと冷たい覚悟が嫌でも伝わった。

「どこか別の場所に行って、まったく違う自分になりすましたかった。そうやって過去のこと、傷痕――すべてを消し去りたかった」

 そこまで言うと、彼女は肩で音のない重い呼吸を繰り返した。

 僕は黙ったままで、次の言葉を待つしかなかった。

「一度ゼロにしなきゃって。知らない人しかいない町で、ケータイもメアドも変えて、誰とも関わらず、ただひとりになりたかった。なのに、あの駐車場で君に助けてもらったときから、なにかが変わった。君の親切がすごくここに響いた」

 ミキは自分の胸の上を痛々しそうに右手の指先でそっと触れた。

「この間、君の手料理をごちそうになってて、すっごく自己嫌悪に襲われた。美味しさを感じるたび、どんどん気持ちが沈んでいった。きっと一生懸命考えて作ってくれたんだろうなって。それがひしひし伝わったから。海でもそう。波の上で君の優しさに触れるたび、心がきしむの。私なんか、優しくしてもらう資格ないのに。もう、どうしていいか、わからなくなってきた。なんのためにこの町に逃避してきたんだか、わからなくなってきた。だからきっぱり会わないほうがいいって思った。また繰り返しになる。それが心のなかでみしみしと大きくなって、張り裂けて、ぱあんって、ある日割れてしまいそうで、それが――それが、とてつもなくおそろしかった」

 そこで彼女は強張った言葉を押し止めた。

 寸時、港が静止した。地球の時間や、自転そのものまでもが止まった気がした。

「――手術したの。おととしの七月。ちょうど七夕。相手は勤めていた小さな商社の上司だった。もちろん、不倫。本当によくある下世話な話。最初から知ってたのに、私、一生懸命なにかを盲目に信じこもうとしていた。わかってたくせして結末は最悪で、死にたくなった。みんな嘘つきで、親もそう、おんなじよ。誰ひとり、味方してくれなかった。ずっと途方に暮れてた。ずっと辛くて孤独だった。みんな死ねばいいと憎んだわ。私も含めて、誰もかも、みんな」

 会話の切れ目で、バイクがけたたましい騒音とともに国道を走り去った。

 ミキはわずかに息を呑んでか細い声を絞り出した。

「すっごく傷ついた。私自身。いろんなものをひどく傷つけてしまったし。もう、二度と、赤ちゃん、生めないんだろうなって――」

 そこまで言うと、ミキは膝を抱えるようにして顔をうずめた。

 しばらくすると彼女はそのままの姿勢で肩を弱く揺らせ、声を殺して泣いた。

 嗚咽が時おり漏れた。

 ほとんど飲んでいない彼女の缶ビールが地面に転がって鈍い金属音を響かせた。

 おそるおそる僕は彼女の肩のあたりにそっと手を添えてみた。それくらいしかできなかった。薄い皮膚を通して温かに震える骨の感触が手の平に伝わる。意外なほど華奢で弱々しい肩だった。

 みんな傷ついている、と僕は思った。

 遠くに逗子の町明かりが見えた。夜の海には昼の騒々しさが欠片も残っていない。誰もが帰るべき家に戻っているのだろう。

 夏の夜の闇。僕らは宇宙船が去った後、二人だけ知らない惑星に取り残された船員みたいに途方に暮れていた。僕ら以外、誰もいない。おそろしいほどの静けさだけがいびつに歪んだ地表を支配する。でも、孤独じゃない。隣に彼女がいたからだ。それだけがこれまでと大きく異なった。

 僕は自宅で両親が何者かに惨殺され、ここに至るまでの経緯をなぞろうとした。

 けれど、どうしてだかそれをうまく象ることができなかった。どす黒い影は変わらず僕の心根に居座り続けているけれど、哀しみの質や種類が違って感じられた。

 明らかに僕は変わりつつあったのだ。わずか半年足らずなのに、僕は僕をめぐる新しい環境と世界に身を置こうとしていたのだ。それが正しいことなのか、正しくないことなのか、僕には判断がつかなかった。隣に座るミキが、自分の過去と現在と未来に折り合いをつけることができないのと同じように。

 どれくらいの時間が経過したのだろうか。

 やがて彼女は泣き止み、憔悴しきった横顔で膝を抱えたままずっと黙っていた。

「俺だって同じだ。まったく違う自分になりすましたかった。そうやって過去のこと、傷痕、なにもかも消したかった。怖くて。現実逃避したくて。目を瞑りたくて。雑踏さえおそろしかったんだ」

 気がつくと自然に言葉が口をついていた。

「帰る家すらなくなった。失うことができるすべてのものを失ってしまった。父さんと母さん、血まみれで殺されてたんだ。二月のあの夜。みぞれ混じりの雨が音なく降りしきる晩――」


 深夜の海辺、これまでの経緯を僕は正直に語り通した。警察以外の人に話したのは初めてだった。

 彼女は暗闇に視線をとどめたまま、ずっと黙って聞いていた。肯定も、否定もなく。

 僕の長い叙述が終わると、ふたたび沈黙が舞い降りた。

 しばらくして二人で立ち上がり、海沿いの歩道を無言のままとぼとぼ歩いた。

 ほどなくしてミキのアパートが見えた。その間、ひと言も言葉を交わさなかった。

 ふいに彼女は足を止めると、僕に向き直っておそるおそる口を開き、湿った鼻声で訊いた。

「ねえ。また、遊びに行ってもいいの?」

 僕は答える。「なんで、そんなこと訊くんだよ。もちろんだろ」そして、付け加える。

「でも、お願いがある。海が好きじゃないってことだけは、嘘だって言ってくれよ」

 闇で視線が合った。お互いが目を見て話すのはずいぶんと久しぶりのことだった。

 彼女はこくりと肯き、いまだ涙の滲む目で少しだけ哀しげに微笑んだ。

「ありがとう、お話してくれて。ね、私たち、きっと、変われるよね? きっと、私たちが探してる新しい世界って、未来で待っててくれてるよね?」

 そして彼女はゆっくりと階段を上がっていった。